一 前まえ島じま林りん右え衛も門ん
板いた倉くら修しゅ理りは、病後の疲労が稍やや恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。――
肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊ろう下かを通る人の足音とか、家かち中ゅうの者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意が擾みだされてしまう。それがだんだん嵩こうじて来ると、今度は極ごく些ささ細いな刺戟からも、絶えず神経を虐さいなまれるような姿になった。
第一、莨たば盆こぼんの蒔まき絵えなどが、黒地に金きんの唐から草くさを這はわせていると、その細い蔓つるや葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象ぞう牙げの箸はしとか、青銅の火箸とか云う先の尖とがった物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁へりの交叉した角かどや、天井の四よす隅みまでが、丁度刃はも物のを見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
修しゅ理りは、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた神経の方で、許さない。彼は、蟻あり地じご獄くに落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、徒いたずらに万一を惧おそれている﹁譜ふだ代いの臣﹂ばかりである。﹁己おれは苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。﹂――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事こと毎ごとに興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀かた架なかけの刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙けい攣れんして眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、発ほっ作さが甚しくなると、必ず左右の鬢びんの毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――近きん習じゅの者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した索さく引いんにした。そう云う時には、互に警いましめ合って、誰も彼の側へ近づくものがない。
発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、己おのれを脅おびやかすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不ふき吉つな不安にさえ、襲われた。﹁発狂したらどうする。﹂
――そう思うと、彼は、俄にわかに眼の前が、暗くなるような心もちがした。
勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。
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修しゅ理りのこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島林りん右え衛も門んである。
林右衛門は、家老と云っても、実は本家の板いた倉くら式しき部ぶから、附つけ人びととして来ているので、修理も彼には、日頃から一いち目もく置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、赭あから顔の大男で、文武の両道に秀ひいでている点では、家かち中ゅうの侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が﹁板倉家の大おお久くぼ保ひ彦こ左ざ﹂などと呼ばれていたのも、完まったくこの忠ちゅ諫うかんを進める所から来た渾あだ名なである。
林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心を煩わずらわした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病びょ緩うかんの御礼として、登とじ城ょうしなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、附つき合あいの諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃にん傷じょ沙うざ汰たにでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま﹁お取りつぶし﹂になってしまう。殷いん鑑かんは遠からず、堀ほっ田たい稲な葉ばの喧けん嘩かにあるではないか。
林右衛門は、こう思うと、居ても立っても、いられないような心もちがした。しかし彼に云わせると、逆上は﹁体の病﹂ではない。全く﹁心の病﹂である――彼はそこで、放ほう肆しを諫いさめたり、奢しゃ侈しを諫めたりするのと同じように、敢然として、修理の神経衰弱を諫めようとした。
だから、林右衛門は、爾じら来い、機会さえあれば修理に苦くか諫んを進めた。が、修理の逆上は、少しも鎮まるけはいがない。寧むしろ、諫いさめれば諫めるほど、焦じれれば焦れるほど、眼に見えて、進んで来る。現に一度などは、危く林右衛門を手討ちにさえ、しようとした。﹁主しゅうを主しゅうとも思わぬ奴じゃ。本家の手前さえなくば、切ってすてようものを。﹂――そう云う修理の眼の中にあったものは、既に怒りばかりではない。林右衛門は、そこに、また消し難い憎しみの色をも、読んだのである。
その中うちに、主従の間に纏てん綿めんする感情は、林右衛門の重ねる苦諫に従って、いつとなく荒すさんで来た。と云うのは、独り修理が林右衛門を憎むようになったと云うばかりではない。林右衛門の心にもまた、知らず知らず、修理に対する憎しみが、芽をふいて来た事を云うのである。勿論、彼は、この憎しみを意識してはいなかった。少くとも、最後の一刻を除いて、修理に対する彼の忠心は、終始変らないものと信じていた。﹁君きみ君きみ為たらざれば、臣臣為らず﹂――これは孟もう子しの﹁道﹂だったばかりではない。その後うしろには、人間の自然の﹁道﹂がある。しかし、林右衛門は、それを認めようとしなかった。……
彼は、飽あくまでも、臣節を尽そうとした。が、苦諫の効がない事は、既に苦い経験を嘗なめている。そこで、彼は、今まで胸中に秘していた、最後の手段に訴える覚悟をした。最後の手段と云うのは、ほかでもない。修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。――
何よりもまず、﹁家﹂である。︵林右衛門はこう思った。︶当主は﹁家﹂の前に、犠牲にしなければならない。ことに、板倉本家は、乃だい祖そ板倉四郎左衛門勝かつ重しげ以来、未いま嘗だかつて、瑕かき瑾んを受けた事のない名家である。二代又左衛門重しげ宗むねが、父の跡をうけて、所しょ司しだ代いとして令れい聞ぶんがあったのは、数えるまでもない。その弟の主もん水どし重げま昌さは、慶長十九年大阪冬の陣の和が媾こうぜられた時に、判はん元もと見みと届どけの重任を辱かたじけなくしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては西さい国ごくの軍に将として、将軍家御ごみ名ょう代だいの旗を、天あま草くさ征伐の陣中に飜ひるがえした。その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があったならば、どうしよう。臣子の分として、九きゅ原うげんの下もと、板倉家累るい代だいの父祖に見まみゆべき顔かんばせは、どこにもない。
こう思った林右衛門は、私ひそかに一族の中うちを物色した。すると幸い、当時若年寄を勤めている板倉佐さど渡のか守みには、部へや屋ず住みの子息が三人ある。その子息の一人を跡あと目めにして、養子願さえすれば、公こう辺へんの首尾は、どうにでもなろう。もっともこれは、事件の性質上修理や修理の内室には、密々で行わなければならない。彼は、ここまで思案をめぐらした時に、始めて、明るみへ出たような心もちがした。そうして、それと同時に今までに覚えなかったある悲しみが、おのずからその心もちを曇らせようとするのが、感じられた。﹁皆御家のためじゃ。﹂――そう云う彼の決心の中には、彼自身朧おぼろげにしか意識しない、何ものかを弁護しようとするある努力が、月の暈かさのようにそれとなく、つきまとっていたからである。
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病弱な修理は、第一に、林右衛門の頑健な体を憎んだ。それから、本ほん家けの附つけ人びととして、彼が陰いんに持っている権けん柄ぺいを憎んだ。最後に、彼の﹁家﹂を中心とする忠義を憎んだ。﹁主しゅうを主しゅうとも思わぬ奴じゃ。﹂――こう云う修理の語の中うちには、これらの憎しみが、燻くすぶりながら燃える火のように、暗い焔を蔵していたのである。
そこへ、突然、思いがけない非ひぼ謀うが、内ない室しつの口によって伝えられた。林右衛門は修理を押込め隠居にして、板倉佐渡守の子息を養子に迎えようとする。それが、偶然、内室の耳へ洩もれた。――これを聞いた修理が、眦まなじりを裂いて憤ったのは無理もない。
成程、林右衛門は、板倉家を大事に思うかも知れない。が、忠義と云うものは現在仕つかえている主人を蔑ないがしろにしてまでも、﹁家﹂のためを計るべきものであろうか。しかも、林右衛門の﹁家﹂を憂うれえるのは、杞きゆ憂うと云えば杞憂である。彼はその杞憂のために、自分を押込め隠居にしようとした。あるいはその物々しい忠義呼よばわりの後に、あわよくば、家を横領しようとする野心でもあるのかも知れない。――そう思うと修理は、どんな酷こっ刑けいでも、この不臣の行おこないを罰するには、軽すぎるように思われた。
彼は、内室からこの話を聞くと、すぐに、以前彼の乳めの人とを勤めていた、田中宇左衛門という老人を呼んで、こう言った。
﹁林右衛門めを縛しばり首にせい。﹂
宇左衛門は、半白の頭を傾けた。年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層皺しわを増している。――林右衛門の企くわだては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの附つけ人びとである。
﹁縛り首は穏おん便びんでございますまい。武士らしく切腹でも申しつけまするならば、格別でございますが。﹂
修理はこれを聞くと、嘲あざ笑わらうような眼で、宇左衛門を見た。そうして、二三度強く頭を振った。
﹁いや人でなし奴めに、切腹を申しつける廉かどはない。縛り首にせい。縛り首にじゃ。﹂
が、そう云いながら、どうしたのか、彼は、血の色のない頬ほおへ、はらはらと涙を落した。そうして、それから――いつものように両手で、鬢びんの毛をかきむしり始めた。
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縛り首にしろと云う命が出た事は、直ただちに腹心の近きん習じゅから、林右衛門に伝えられた。
﹁よいわ。この上は、林右衛門も意地ずくじゃ。手を拱こまぬいて縛り首もうたれまい。﹂
彼は昂然として、こう云った。そうして、今まで彼につきまとっていた得えた体いの知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。もう修理は、彼にとって、主人ではない。その修理を憎むのに、何の憚はばかる所があろう。――彼の心の明るくなったのは、無意識ながら、全く彼がこう云う論理を、刹せつ那なの間に認めたからである。
そこで、彼は、妻子家来を引き具して、白昼、修理の屋敷を立ち退のいた。作さほ法う通り、立ち退き先の所書きは、座敷の壁に貼はってある。槍やりも、林右衛門自ら、小こわ腋きにして、先に立った。武具を担になったり、足弱を扶たすけたりしている若党草ぞう履り取を加えても、一行の人にん数ずは、漸く十人にすぎない。それが、とり乱した気色もなく、つれ立って、門を出た。
延えん享きょう四年三月の末である。門の外では、生なま暖あたたかい風が、桜の花と砂すな埃ほこりとを、一つに武者窓へふきつけている。林右衛門は、その風の中に立って、もう一応、往来の右左を見廻した。そうして、それから槍で、一同に左へ行けと相図をした。
二 田中宇左衛門
林りん右え衛も門んの立ち退のいた後は、田中宇左衛門が代って、家老を勤めた。彼は乳めの人とをしていた関係上、修しゅ理りを見る眼が、自おのずからほかの家来とはちがっている。彼は親のような心もちで、修理の逆ぎゃ上くじょうをいたわった。修理もまた、彼にだけは、比較的従順に振舞ったらしい。そこで、主従の関係は、林右衛門のいた時から見ると、遥に滑なめらかになって来た。
宇左衛門は、修理の発ほっ作さが、夏が来ると共に、漸く怠おこたり出したのを喜んだ。彼も万一修理が殿中で無礼を働きはしないかと云う事を、惧おそれない訳ではない。が、林右衛門は、それを﹁家﹂に関かかわる大事として、惧れた。併し、彼は、それを﹁主しゅう﹂に関る大事として惧れたのである。
勿論、﹁家﹂と云う事も、彼の念頭には上のぼっていた。が、変があるにしてもそれは単に、﹁家﹂を亡すが故に、大事なのではない。﹁主しゅう﹂をして、﹁家﹂を亡さしむるが故に――﹁主しゅう﹂をして、不孝の名を負わしむるが故に、大事なのである。では、その大事を未みぜ然んに防ぐには、どうしたら、いいであろうか。この点になると、宇左衛門は林右衛門ほど明瞭な、意見を持っていないようであった。恐らく彼は、神明の加護と自分の赤誠とで、修理の逆上の鎮まるように祈るよりほかは、なかったのであろう。
その年の八月一日、徳川幕府では、所いわ謂ゆる八はっ朔さくの儀式を行う日に、修理は病後初めての出しゅ仕っしをした。そうして、その序ついでに、当時西にし丸まるにいた、若年寄の板倉佐渡守を訪うて、帰宅した。が、別に殿中では、何も粗そそをしなかったらしい。宇左衛門は、始めて、愁しゅ眉うびを開く事が出来るような心もちがした。
しかし、彼の悦びは、その日一日だけも、続かなかった。夜よるになると間もなく、板倉佐渡守から急な使があって、早速来るようにと云う沙汰が、凶きょ兆うちょうのように彼を脅おびやかしたからである。夜陰に及んで、突然召しを受ける。――そう云う事は、林右衛門の代から、まだ一度も聞いた事がない。しかも今日は、初めて修理が登城をした日である。――宇左衛門は、不ふき吉つな予感に襲われながら、慌あわただしく佐渡守の屋敷へ参候した。
すると、果して、修理が佐渡守に無礼の振舞があったと云う話である。――今日出仕を終ってから、修理は、白しろ帷かた子びらに長なが上かみ下しものままで、西丸の佐渡守を訪れた。見た所、顔かお色いろもすぐれないようだから、あるいはまだ快癒がはかばかしくないのかと思ったが、話して見ると、格別、病人らしい容よう子すもない。そこで安心して、暫く世間話をしている中に、偶然、佐渡守が、いつものように前島林右衛門の安否を訊ねた。すると、修理は急に額を暗くして、﹁林右衛門めは、先さき頃ごろ、手前屋敷を駈かけ落おち致してござる。﹂と云う。林右衛門が、どう云う人間かと云う事は、佐渡守もよく知っている。何か仔しさ細いがなくては、妄みだりに主しゅ家かを駈落ちなどする男ではない。こう思ったから、佐渡守は、その仔細を尋ねると同時に、本家からの附つけ人びとにどう云う間違いが起っても、親類中へ相談なり、知らせなりしないのは、穏おだやかでない旨を忠告した。ところが、修理は、これを聞くと、眼の色を変えながら、刀の柄つかへ手をかけて、﹁佐渡守殿は、別して、林右衛門めを贔ひい屓きにせられるようでござるが、手前家来の仕置は、不肖ながら手前一存で取計らい申す。如何に当時出しゅ頭っとうの若年寄でも、いらぬ世話はお置きなされい。﹂と云う口上である。そこでさすがの佐渡守も、あまりの事に呆あきれ返って、御用繁多を幸に、早速その場を外はずしてしまった。――
﹁よいか。﹂ここまで話して来て、佐渡守は、今更のように、苦い顔をした。
――第一に、林右衛門の立ち退いた趣を、一門衆へ通達しないのは、宇左衛門の罪である。第二に、まだ逆上の気味のある修理を、登城させたのも、やはり彼の責を免れない。佐渡守だったから、いいが、もし今日のような雑ぞう言ごんを、列座の大名衆にでも云ったとしたら、板倉家七千石は、忽たちまち、改かい易えきになってしまう。――
﹁そこでじゃ。今後は必ずとも、他出無用に致すように、別して、出仕登城の儀は、その方より、堅くさし止むるがよい。﹂
佐渡守は、こう云って、じろりと宇左衛門を見た。
﹁唯ただ主しゅうにつれて、その方まで逆上しそうなのが、心配じゃ。よいか。きっと申しつけたぞ。﹂
宇左衛門は眉をひそめながら、思切った声で答えた。
﹁よろしゅうござりまする、しかと向こう後ごは慎むでございましょう。﹂
﹁おお、二度と過あやまちをせぬのが、何よりじゃ。﹂
佐渡守は、吐き出すように、こう云った。
﹁その儀は、宇左衛門、一命にかけて、承知仕りました。﹂
彼は、眼に涙をためながら懇願するように、佐渡守を見た。が、その眼の中には、哀あい憐れんを請う情と共に、犯し難い決心の色が、浮んでいる。――必ず修理の他出を、禁ずる事が出来ると云う決心ではない。禁ずる事が出来なかったら、どうすると云う、決心である。
佐渡守は、これを見ると、また顔をしかめながら、面倒臭そうに、横を向いた。
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﹁主しゅう﹂の意に従えば、﹁家﹂が危あやうい。﹁家﹂を立てようとすれば、﹁主﹂の意に悖もとる事になる。嘗かつては、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には﹁家﹂のために﹁主﹂を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど﹁主﹂を大事に思っていない。だから、彼は、容たや易すく、﹁家﹂のために﹁主﹂を犠ぎせ牲いにした。
しかし、自分には、それが出来ない。自分は、﹁家﹂の利害だけを計るには、余りに﹁主しゅう﹂に親しみすぎている。﹁家﹂のために、ただ、﹁家﹂と云う名のために、どうして、現在の﹁主﹂を無理に隠居などさせられよう。自分の眼から見れば、今の修理も、破はま魔ゆ弓みこそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵え解どきをした絵本、自分が手をとって習わせた難なに波わ津づの歌、それから、自分が尾をつけた紙いか鳶のぼり――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。……
そうかと云って、﹁主しゅう﹂をそのままにして置けば、独り﹁家﹂が亡びるだけではない。﹁主﹂自身にも凶きょ事うじが起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、唯ゆい一いつの、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。
遠くで稲いな妻ずまのする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄しょ然うぜんと腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。
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修しゅ理りは、翌日、宇左衛門から、佐渡守の云い渡した一部始終を聞くと、忽ち顔を曇らせた。が、それぎりで、格別いつものように、とり上のぼせる気けし色きもない。宇左衛門は、気づかいながら、幾分か安あん堵どして、その日はそのまま、下って来た。
それから、かれこれ十日ばかりの間、修理は、居間にとじこもって、毎日ぼんやり考え事に耽っていた。宇左衛門の顔を見ても、口を利きかない。いや、ただ一度、小こさ雨めのふる日に、時ほと鳥とぎすの啼く声を聞いて、﹁あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。﹂とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それを潮しおに、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、唖おしのように口をつぐんで、じっと襖ふす障まし子ょうじを見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。
所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。
﹁先せん達だって、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は覚おぼ束つかないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。﹂
宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――
﹁御ごも尤っともでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも……﹂
﹁いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。﹂
修理、こう云って、苦にが々にがしげに、微笑した。
﹁さようでもございますまい。﹂
宇左衛門は、傷いたましそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる容よう子すもない。
﹁さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、﹂修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを量はかるように、﹁その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様︵吉宗︶へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登とじ城ょうさせてはくれまいか。﹂
宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。
﹁それも、たった一度じゃ。﹂
﹁恐れながら、その儀ばかりは。﹂
﹁いかぬか。﹂
二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。
﹁佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。﹂
ほどを経て、修理が云った。
﹁登城を許せば、その方が、一門衆の不ふき興ょうをうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、家けら来いにも見離された乱心者じゃ。﹂
そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえを帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。
﹁世の嘲あざけりはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶なお更さらなつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今こん度ど一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。﹂
彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、額ひたいを畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。
﹁御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿もっ体たいのうございます。﹂
彼は、修しゅ理りの手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、溢あふれるともなく、溢れて来る。――彼は涙の中なかに、佐渡守の前で云い切った語ことばを、再びありありと思い浮べた。
﹁よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門皺しわ腹ばらを仕つかまつれば、すむ事でございまする。私わたくし一ひと人りの粗そこ忽つにして、きっと御登城おさせ申しましょう。﹂
これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子の外はずれた笑い声を洩もらした。
﹁おお、許してくれるか。忝かたじけない。忝いぞよ。﹂
そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。
﹁皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。﹂
人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに膝ひざを進めて、行あん燈どうの火ほか影げに恐る恐る、修理の眼の中を窺うかがった。
三 刃にん傷じょう
延えん享きょう四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修しゅ理りは、殿中で、何の恩おん怨えんもない。肥後国熊本の城主、細ほそ川かわ越えっ中ちゅ守うの宗かみ教むねのりを殺せつ害がいした。その顛てん末まつは、こうである。
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細川家は、諸侯の中でも、すぐれて、武備に富んだ大名である。元もと姫ひめ君ぎみと云われた宗むね教のりの内室さえ、武芸の道には明あかるかった。まして宗教の嗜たしなみに、疎おろそかな所などのあるべき筈はない。それが、﹁三さん斎さいの末なればこそ細川は、二にさ歳いに斬きられ、五ごさ歳いごとなる。﹂と諷うたわれるような死を遂げたのは、完まったく時の運であろう。
そう云えば、細川家には、この凶きょ変うへんの起る前兆が、後のちになって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川伊い佐さ羅ら子ごの上かみ屋やし敷きが、火事で焼けた。これは、邸内に妙みょ見うけん大菩薩があって、その神前の水みず吹ふき石いしと云う石が、火災のある毎ごとに水を吹くので、未いま嘗だかつて、焼けたと云う事のない屋敷である。第二に、五月上旬、門へ打つ守り札を、魚ぎょ籃らんの愛あい染ぜん院いんから奉ったのを見ると、御武運長久御ごそ息くさ災いとある可き所に災の字が書いてない。これは、上野宿しゅ坊くぼうの院いん代だいへ問い合せた上、早速愛染院に書き直させた。第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。
そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の才さい木き茂も右え衛も門んと云う男が目めつ付けへ来て、﹁明十五日は、殿の御おん身みに大変があるかも知れませぬ。昨さく夜や天文を見ますと、将星が落ちそうになって居ります。どうか御慎み第一に、御他出なぞなさいませんよう。﹂と、こう云った。目付は、元来余り天文なぞに信を措おいていない。が、日頃この男の予言は、主人が尊敬しているので、取あえず近きん習じゅの者に話して、その旨を越中守の耳へ入れた。そこで、十五日に催す能のう狂きょ言うげんとか、登城の帰りに客に行くとか云う事は、見合せる事になったが、御奉公の一つと云う廉かどで、出仕だけは止やめにならなかったらしい。
それが、翌日になると、また不ふき吉つな前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻あさ上がみ下しもに着換えてから、八幡大菩薩に、神み酒きを備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小こし姓ょうの手から神み酒きを入れた瓶へい子しを二つ、三さん宝ぼうへのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。
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翌日、越中守は登城すると、御おぼ坊う主ず田たし代ろゆ祐うえ悦つが供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木閑かん斎さいをつれて、湯呑み所じょ際ぎわの厠かわやへはいって、用を足たした。さて、厠を出て、うすぐらい手ちょ水うず所どころで手を洗っていると突然後うしろから、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉みけ間んへ閃ひらめいた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾いく太た刀ちとなく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、四しの間まの縁に仆たおれてしまうと、脇わき差ざしをそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼ろう狽ばいして、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃にん傷じょうを知るものがない。それを、暫くしてから、漸ようやく本間定さだ五ごろ郎うと云う小こじ拾ゅう人にんが、御ごば番んし所ょから下しも部べ屋やへ来る途中で発見した。そこで、すぐに御おか徒ちめ目つ付けへ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭久くげ下ぜ善ん兵べ衛え、御徒目付土田半はん右え衛も門ん、菰こも田だ仁に右え衛も門ん、などが駈けつける。――殿中では忽ち、蜂はちの巣を破ったような騒動が出しゅ来ったいした。
それから、一同集って、手て負おいを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸く微かすかな声で、﹁細川越中﹂と答えた。続いて、﹁相手はどなたでござる﹂と尋ねたが、﹁上かみ下しもを着た男﹂と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。創きずは﹁首くび構がまえ七寸程、左ひだ肩りかた六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇また頭かしらに疵きず二三ヶ所、背中右の脇腹まで筋すじ違かいに一尺五寸ばかり﹂である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本阿あわ波のか守みは勿論、大目付河こう野のぶ豊ぜん前のか守みも立ち合って、一まず手負いを、焚たき火びの間まへ舁かつぎこんだ。そうしてそのまわりを小こび屏ょう風ぶで囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て介かい抱ほうした。中でも松平兵ひょ部うぶ少しょ輔うゆうは、ここへ舁かつぎこむ途中から、最も親切に劬いたわったので、わき眼にも、情誼の篤あつさが忍ばれたそうである。
その間に、一方では老ろう中じゅう若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た大おお手てさ先きの大小名の家けら来いは、驚す破わ、殿中に椿ちん事じがあったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、海つな嘯みのように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御おか徒ちめ目つ付け、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃にん傷じょうの相手を探して歩いたが、どうしても、その﹁上かみ下しもを着た男﹂を見つける事が出来なかったからである。
すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって宝たか井らい宗そう賀がと云う御ごぼ坊う主ずのために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと焚たき火びの間まの近くの厠かわやの中を見ると、鬢びんの毛をかき乱した男が一人、影のように蹲うずくまっている。うす暗いので、はっきりわからないが、どうやら鼻紙嚢ぶくろから鋏はさみを出して、そのかき乱した鬢びんの毛を鋏んででもいるらしい。そこで宗そう賀がは、側へよって声をかけた。
﹁どなたでござる。﹂
﹁これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。﹂
男は、しわがれた声で、こう答えた。
もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男を厠かわやの中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。
御徒目付はまた、それを蘇そて鉄つの間まへつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、刃にん傷じょうの仔しさ細いを問い質ただした。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。偶たま々たま口を開けば、ただ時ほと鳥とぎすの事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、発はっ狂きょうしていたのである。
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細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、大おお御ごし所ょ吉よし宗むねの内意を受けて、手て負おいと披ひろ露うしたまま駕か籠ごで中の口から、平川口へ出て引きとらせた。公おおやけに死去の届が出たのは、二十一日の事である。
修しゅ理りは、越中守が引きとった後あとで、すぐに水野監けん物もつに預けられた。これも中の口から、平川口へ、青あお網あみをかけた駕か籠ごで出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の帷かた子びらを着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、警けい固ごした。――この行列は、監けん物もつの日頃不意に備える手てく配ばりが、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。
それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、上じょ使うしに立った。上使の趣は、﹁其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守手てき疵ずよ養うじ生ょう不あい相かな叶わず致しき死ょい去たし候に付、水野監物宅にて切腹被もう申しつ付けらるる者也﹂と云うのである。
修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする気けし色きもない。そこで、介かい錯しゃくに立った水野の家来吉田弥やそ三うざ左え衛も門んが、止むを得ず後うしろからその首をうち落した。うち落したと云っても、喉のどの皮一ひと重えはのこっている。弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。頬ほお骨ぼねの高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。
検使は、これを見ると、血のにおいを嗅かぎながら、満足そうに、﹁見事﹂と声をかけた。
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同日、田中宇左衛門は、板倉式部の屋敷で、縛り首に処せられた。これは﹁修理病気に付、禁足申付候様にと屹きっ度と、板倉佐渡守兼ねて申渡置候処、自身の計らいにて登城させ候故、かかる凶きょ事うじ出しゅ来ったい、七千石断絶に及び候段、言語道断の不ふと届どき者もの﹂という罪状である。
板倉周すお防うの守かみ、同式部、同佐渡守、酒井左さえ衛もん門のじ尉ょう、松平右うこ近んし将ょう監げん等の一族縁者が、遠慮を仰せつかったのは云うまでもない。そのほか、越中守を見捨てて逃げた黒木閑かん斎さいは、扶ふ持ちを召上げられた上、追放になった。
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修しゅ理りの刃にん傷じょうは、恐らく過失であろう。細川家の九くよ曜うの星と、板倉家の九曜の巴と衣類の紋もん所どころが似ているために、修理は、佐渡守を刺さそうとして、誤って越中守を害したのである。以前、毛もう利りも主んど水のし正ょうを、水野隼はや人との正しょうが斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、手ちょ水うず所どころのような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。
が、板倉佐渡守だけは、この定評をよろこばない。彼は、この話が出ると、いつも苦々しげに、こう云った。
﹁佐渡は、修理に刃傷されるような覚えは、毛もう頭とうない。まして、あの乱心者のした事じゃ。大おお方かた、何と云う事もなく、肥後侯を斬ったのであろう。人違などとは、迷惑至極な臆測じゃ。その証拠には、大目付の前へ出ても、修理は、時ほと鳥とぎすがどうやら云うていたそうではないか。されば、時鳥じゃと思って、斬ったのかも知れぬ。﹂
︵大正六年二月︶