一 放屁
アンドレエフに百姓が鼻はな糞くそをほじる描べう写しやがある。フランスに婆さんが小便をする描写がある。しかし屁へをする描写のある小説にはまだ一度も出あつたことはない。
出あつたことのないといふのは、西洋の小説にはと云ふ意味である。日本の小説にはない訣わけではない。その一つは青あを木きけ健んさ作く氏の何なんとかいふ女工の小説である。駈かけ落おちをした女工が二ふた人り、干ほし藁わらか何かの中に野宿する。夜よあ明けに二人とも目がさめる。一ひと人りがぷうとおならをする。もう一人がくすくす笑ひ出す――たしかそんな筋だつたと思ふ。その女工の屁をする描写は予よの記憶に誤りがなければ、甚だ上品に出来上つてゐた。予は此この一段を読んだ為に、今こん日にちもなほ青木氏の手腕に敬意を感じてゐる位なものである。
もう一つは中なか戸とが川はき吉ち二じ氏の何なんとか云ふ不良少年の小説である。これはつい三四箇月以前、サンデイ毎日に出てゐたのだから、知つてゐる読者も多いかも知れない。不良少年に口く説どかれた女が際きわどい瞬間におならをする、その為に折せつ角かく醸かもされたエロチツクな空気が消滅する、女は妙につんとしてしまふ、不良少年も手が出せなくなる――大だい体たいかう云ふ小説だつた。この小説も巧みに書きこなしてある。
青木氏の小説に出て来る女工は必かならずしもおならをしないでも好よい。しかし中戸川氏の小説に出て来る女は嫌いやでもおならをする必要がある。しなければ成り立たない。だから屁へは中なか戸とが川は氏を得た後のち始めて或重大な役目を勤めるやうになつたと云ふべきである。
しかしこれは近世のことである。宇うぢ治しふ拾ゐも遺のが物た語りによれば、藤とう大だい納なご言んた忠だい家へ﹇＃﹁ルビの﹁とうだいなごんただいへ﹂は底本では﹁とうだいなごんだたいへ﹂﹈も、﹁いまだ殿てん上じや人うびとにおはしける時、びびしき色いろ好ごのみなりける女によ房うぼうともの云ひて、夜よ更ふくるほどに月は昼よりもあかかりけるに﹂たへ兼かねてひき寄せたら、女は﹁あなあさまし﹂と云ふ拍ひや子うしに大きいおならを一つした。忠家はこの屁へを聞いた時に﹁心うきことにも逢ひぬるかな。世にありて何かはせん。出しゆ家つけせん﹂と思ひ立つた。けれども、つらつら考へて見れば、何も女が屁をしたからと云つて、坊ばう主ずにまでなるには当りさうもない。忠家は其そ処こに気がついたから、出家することだけは見合せたが、
その場は逃げ出したさうである。すると中戸川氏の小説も文学史的に批評すれば、前人未発と云ふことは出来ない。しかし断えたるを継ついだ功は当然同氏に属ぞくすべきである。この功は多分中戸川氏自身の予想しなかつたところであらう。しかし功には違ひないから、序ついでに此こ処こに吹ふい聴ちやうすることにした。
二 女と影
紋服を着た西洋人は滑こつ稽けいに見えるものである。或は滑稽に見える余り、西洋人自身の男をと振こぶりなどは滅めつ多たに問題にならないものである。クロオデル大使の﹁女と影﹂も、云はば紋服を着た西洋人だつたから、一笑に付せられてしまつたのであらう。しかし当人の男ぶりは紋服たると燕えん尾びふ服くたるとを問はず独立に美醜を論ぜらるべきである。﹁女と影﹂に対する世評は存ぞん外ぐわいこの点に無むと頓んぢ着やくだつたらしい。さう男ぶりを閑却するのは仏フラ蘭ン西ス人たる大使にも気の毒である。
試みにあの作品の舞台をペルシアか印イン度ドかへ移して見るが好よい。桃ももの花の代りに蓮はすの花を咲かせ、古風な侍さむらひの女房の代りに王女か何か舞はせたとすれば、毒舌に富んだ批評家と雖いへども、今こん日にちのやうに敢然とは鼎かなへの軽重を問はなかつたであらう。況いはんやあの作品にさへ三歎の声を惜おしまなかつた鑑賞上の神秘主義者などは勿論無上の法はふ悦えつの為に即死を遂げたのに相違あるまい。クロオデル大使は紋服の為にこの位損な目を見てゐるのである。
しかし男ぶりは姑しばらく問はず、紋服そのものの感じにしても、全然面おも白しろ味みのない訣わけではない。成なる程ほど﹁女と影﹂なるものは日本のやうな西洋のやうな、妙にとんちんかんな作品である。けれどもあのとんちんかんのところは手腕の鈍にぶい為に起つたものではない。日本とか我我日本人の芸術とかに理解のない為に起つたものである。虎を描かかうと思つたのが猫になつてしまつたのではない。猫も虎も見わけられないから、同じやうに描かいてすましてゐるのである。思ふに虎になり損そこなつた彼は小説家になり損そこなつた批評家のやうに、義理にも面おも白しろいとは云はれたものではない。けれども猫とも虎ともつかない、何か怪しげな動物になれば、古来野や師しの儲まうけたのはかう云ふ動物恩恵である。我我は面白いと思はないものに一銭の木きど戸せ銭んをも抛なげうつ筈はない。
これは﹁女と影﹂ばかりではない。﹁サムラヒ﹂とか﹁ダイミヤウ﹂とか云ふエレデイアの詩でも同じことである。ああ云ふ作品は可を笑かしいかも知れない。しかしその可笑しいところに、善よく云へば阿オラ蘭ン陀ダの花くわ瓶びんに似た、悪く云へばサムラヒ商会の輸出品に似た一種のシヤルムがひそんでゐる。このシヤルムさへ認めないのは偏へん狭けふの譏そしりを免まぬかれないであらう。予は野のぐ口ちよ米ねじ次ら郎う氏の如き、或は郡こほ虎りと彦らひこ氏の如き、西洋に名を馳はせた日本人の作品も、その名を馳せた一半の理由はこのシヤルムにあつたことを信じてゐる。と云ふのは勿論両氏の作品に非難を加へようと云ふのではない。寛大な西洋人に迎へられたことを両氏の為に欣きん幸かうとし、偏へん狭けふな日本人に却しりぞけられたことをクロオデル大使の為に遺ゐか憾んとするのである。
仄そく聞ぶんするところによれば、クロオデル大使はどう云ふ訣わけか、西洋輓ばん近きんの芸術に対する日本人の鑑賞力に疑惑を抱いてゐるさうである。まことに﹁女と影﹂の如きも、予などの批評を許さないかも知れない。しかし時の古ここ今んを問はず、わが日本の芸術に対する西洋人の鑑賞力は――予は先夜細ほそ川かは侯こうの舞台に桜さく間らま金きん太たら郎う氏の﹁すみだ川﹂を見ながら欠あく伸びをしてゐたクロオデル大使に同情の微笑を禁じ得なかつた。すると半はん可かつ通うをふりまはすことは大使も予もお互ひ様である。仏フラ蘭ン西スの大使クロオデル閣下、どうか悪あしからずお読み下さい。
三 ピエル・ロテイの死
ピエル・ロテイが死んださうである。ロテイが﹁お菊きく夫人﹂﹁日本の秋﹂等の作者たることは今更辯じ立てる必要はあるまい。小こい泉づみ八やく雲も一ひと人りを除けば、兎とに角かくロテイは不ふじ二さ山んや椿つばきやベベ・ニツポンを着た女と最も因いん縁ねんの深い西洋人である。そのロテイを失つたことは我我日本人の身になるとまんざら人ごとのやうに思はれない。
ロテイは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背せいの高い方ではなささうである。ロテイは新らしい感覚描写を与へた。或は新らしい抒じよ情じや詩うしを与へた。しかし新らしい人生の見かたや新らしい道徳は与へなかつた。勿論これは芸術家たるロテイには致命傷でも何なんでもないのに違ひない。提ちや燈うちんは火さへともせれば、敬意を表して然るべきである。合かつ羽ぱのやうに雨が凌しのげぬにしろ、軽けい蔑べつして好よいと云ふものではない。しかし雨が降つてゐるから、まづ提燈は持たずとも合羽の御ごや厄くか介いにならうと云ふのはもとより人情の自然である。かう云ふ人情の矢やお面もてには如い何かなる芸術至上主義も、提燈におしなさいと云ふ忠告と同様、利きき目のないものと覚悟せねばならぬ。我我は土どし砂やぶ降りりの往来に似た人生を辿たどる人にん足そくである。けれどもロテイは我我に一枚の合羽をも与へなかつた。だから我我はロテイの上に﹁偉い﹂と云ふ言葉を加へないのである。古来偉い芸術家と云ふのは、――勿もち論ろん合羽の施せぎ行やうをする人に過ぎない。
又ロテイはこの数年間、仏フラ蘭ン西ス文壇の﹁人物﹂だつたにせよ、仏蘭西文壇の﹁力﹂ではなかつた。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。唯我我日本人は前にもちよいと云つた通り、美しい日本の小説を書いた、当年の仏蘭西の海軍将校ジユリアン・ヴイオオの長ちや逝うせいに哀あい悼たうの念を抱いだいてゐる。ロテイの描かいた日本はヘルンの描いた日本よりも、真しんを伝へない画ぐわ図とかも知れない。しかし兎とに角かく好画図たることは異論を許さない事実である。我我の姉妹たるお菊さんだの或は又お梅さんだのは、ロテイの小説を待つた後のち、巴パ里リの敷石の上をも歩むやうになつた。我我は其そ処こにロテイに対する日本の感謝を捧げたいと思ふ。なほロテイの生涯は大体左に示す通りである。
千八百五十年一月十四日、ロテイはロシユフオオルで生れ、十七歳の時、海軍に入り、千九百六年大佐になつた。大佐になつたのは数へ年で五十七の時である。
最初の作は千八百七十九年、即三十歳の時公おほやけにした Aziyad
である。後ち一年、千八百八十年に Rarahu を出して一躍流行児になつた。これは二年の後のち﹁ロテイの結婚﹂と改題再刊されたものである。
かの﹁お菊さん﹂は千八百八十七年に、﹁日本の秋﹂は八十九年に公おほやけにされた。
アカデミイの会員に選まれたのは九十一年、数へて四十二歳の時である。
彼は、国際電報の伝ふるところによると、十日アンダイエで死んだのである。時に歳七十三。
四 新緑の庭
桜 さつぱりした雨あま上あがりです。尤もつとも花の萼がくは赤いなりについてゐますが。
椎しひ わたしもそろそろ芽めをほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。
竹 わたしは未いまだに黄わう疸だんですよ。……
芭ばせ蕉う おつと、この緑のランプの火ほ屋やを風に吹き折られる所だつた。
梅 何だか寒さむ気けがすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。
八やつ手で 痒かゆいなあ、この茶色の産うぶ毛げのあるうちは。
百さる日すべ紅り 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。
霧きり島しま躑つつ躅じ 常じやう――常じや談うだん云つちやいけない。わたしなどはあまり忙せはしいものだから、今こと年しだけはつい何い時つにもない薄うす紫むらさきに咲いてしまつた。
覇サボ王テ樹ン どうでも勝手にするが好いいや。おれの知つたことぢやなし。
石ざく榴ろ ちよいと枝一面に蚤のみのたかつたやうでせう。
苔こけ 起きないこと？
石 うんもう少し。
楓かへで ﹁若わか楓かへで茶色になるも一ひと盛さかり﹂――ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸ひわ色いろです。おや、障しや子うじに灯ひがともりました。
五 春の日のさした往わう来らいをぶらぶら一人歩いてゐる
春の日のさした往来をぶらぶら一ひと人り歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中なか折をれ帽ばうをかぶり、ゴムか何かの長なが靴ぐつをはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿ももも半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍ひや子うしに長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。
顔かほ馴なじ染みの道具屋を覗のぞいて見る。正面の紅こう木ぼくの棚たなの上に虫むし明あけらしい徳とく利りが一本。あの徳利の口などは妙に猥わい褻せつに出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古こび備ぜ前んの徳利の口もちよいと接せつ吻ぷん位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍あゐ色いろの柳の枝し垂だれた下にやはり藍色の人が一ひと人り、莫ば迦かに長い釣つり竿ざをを伸ばしてゐる。誰かと思つて覗のぞきこんで見たら、金かな沢ざわにゐる室むろ生ふさ犀いせ星い！
又ぶらぶら歩きはじめる。八や百ほ屋やの店に慈くわ姑ゐがすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥でい七しつ宝ぱうの青に似てゐる。あの慈くわ姑ゐを買はうかしら。
をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にもをつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御ごて亭いし主ゆも気楽さうに山やま雀がらの籠の中に坐つてゐる！
﹁つまり馬に乗つた時と同じなのさ。﹂
﹁カントの論文に崇たたられたんだね。﹂
後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二ふた人り。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺へんそろそろ上のぼり坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤もつとも崖がけ側ぎはの竹藪は不あひ相かは変らず黄ばんだままなのだが……おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己おれの顔もみんな目玉の中に映うつつてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。
﹁生ミタテ玉タマ子ゴアリマス。﹂
アア、サウデスカ？ ワタシハ玉子ハ入イリマセン。――春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。
六 霜夜
霜しも夜よの記憶の一つ。
いつものやうに机に向つてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寝ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉じ、それからあした坐り次第、直すぐに仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入いり用ようの書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の火の始しま末つをする。はんねらの瓶かめに鉄てつ瓶びんの湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黒くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸気ももやもや立ち昇る。何か楽しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床とこは次の間まにとつてある。次の間も書斎も二階である。寝る前には必ず下へおり、のびのびと一ひと人り小便をする。今夜もそつと二階を下おりる。家族の眼をさまさせないやうに、出来るだけそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外そとを通りかかると、六十八になる伯を母ばが一ひと人り、古い綿わたをのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。
﹁伯を母ばさん﹂と云ふ。﹁まだ起きてゐたの？﹂と云ふ。﹁ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寝るのだらう？﹂と云ふ。後こう架かの電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる、風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。唯寒い夜よるに封じられてゐる。
その場は逃げ出したさうである。すると中戸川氏の小説も文学史的に批評すれば、前人未発と云ふことは出来ない。しかし断えたるを継ついだ功は当然同氏に属ぞくすべきである。この功は多分中戸川氏自身の予想しなかつたところであらう。しかし功には違ひないから、序ついでに此こ処こに吹ふい聴ちやうすることにした。
二 女と影
紋服を着た西洋人は滑こつ稽けいに見えるものである。或は滑稽に見える余り、西洋人自身の男をと振こぶりなどは滅めつ多たに問題にならないものである。クロオデル大使の﹁女と影﹂も、云はば紋服を着た西洋人だつたから、一笑に付せられてしまつたのであらう。しかし当人の男ぶりは紋服たると燕えん尾びふ服くたるとを問はず独立に美醜を論ぜらるべきである。﹁女と影﹂に対する世評は存ぞん外ぐわいこの点に無むと頓んぢ着やくだつたらしい。さう男ぶりを閑却するのは仏フラ蘭ン西ス人たる大使にも気の毒である。
試みにあの作品の舞台をペルシアか印イン度ドかへ移して見るが好よい。桃ももの花の代りに蓮はすの花を咲かせ、古風な侍さむらひの女房の代りに王女か何か舞はせたとすれば、毒舌に富んだ批評家と雖いへども、今こん日にちのやうに敢然とは鼎かなへの軽重を問はなかつたであらう。況いはんやあの作品にさへ三歎の声を惜おしまなかつた鑑賞上の神秘主義者などは勿論無上の法はふ悦えつの為に即死を遂げたのに相違あるまい。クロオデル大使は紋服の為にこの位損な目を見てゐるのである。
しかし男ぶりは姑しばらく問はず、紋服そのものの感じにしても、全然面おも白しろ味みのない訣わけではない。成なる程ほど﹁女と影﹂なるものは日本のやうな西洋のやうな、妙にとんちんかんな作品である。けれどもあのとんちんかんのところは手腕の鈍にぶい為に起つたものではない。日本とか我我日本人の芸術とかに理解のない為に起つたものである。虎を描かかうと思つたのが猫になつてしまつたのではない。猫も虎も見わけられないから、同じやうに描かいてすましてゐるのである。思ふに虎になり損そこなつた彼は小説家になり損そこなつた批評家のやうに、義理にも面おも白しろいとは云はれたものではない。けれども猫とも虎ともつかない、何か怪しげな動物になれば、古来野や師しの儲まうけたのはかう云ふ動物恩恵である。我我は面白いと思はないものに一銭の木きど戸せ銭んをも抛なげうつ筈はない。
これは﹁女と影﹂ばかりではない。﹁サムラヒ﹂とか﹁ダイミヤウ﹂とか云ふエレデイアの詩でも同じことである。ああ云ふ作品は可を笑かしいかも知れない。しかしその可笑しいところに、善よく云へば阿オラ蘭ン陀ダの花くわ瓶びんに似た、悪く云へばサムラヒ商会の輸出品に似た一種のシヤルムがひそんでゐる。このシヤルムさへ認めないのは偏へん狭けふの譏そしりを免まぬかれないであらう。予は野のぐ口ちよ米ねじ次ら郎う氏の如き、或は郡こほ虎りと彦らひこ氏の如き、西洋に名を馳はせた日本人の作品も、その名を馳せた一半の理由はこのシヤルムにあつたことを信じてゐる。と云ふのは勿論両氏の作品に非難を加へようと云ふのではない。寛大な西洋人に迎へられたことを両氏の為に欣きん幸かうとし、偏へん狭けふな日本人に却しりぞけられたことをクロオデル大使の為に遺ゐか憾んとするのである。
仄そく聞ぶんするところによれば、クロオデル大使はどう云ふ訣わけか、西洋輓ばん近きんの芸術に対する日本人の鑑賞力に疑惑を抱いてゐるさうである。まことに﹁女と影﹂の如きも、予などの批評を許さないかも知れない。しかし時の古ここ今んを問はず、わが日本の芸術に対する西洋人の鑑賞力は――予は先夜細ほそ川かは侯こうの舞台に桜さく間らま金きん太たら郎う氏の﹁すみだ川﹂を見ながら欠あく伸びをしてゐたクロオデル大使に同情の微笑を禁じ得なかつた。すると半はん可かつ通うをふりまはすことは大使も予もお互ひ様である。仏フラ蘭ン西スの大使クロオデル閣下、どうか悪あしからずお読み下さい。
三 ピエル・ロテイの死
ピエル・ロテイが死んださうである。ロテイが﹁お菊きく夫人﹂﹁日本の秋﹂等の作者たることは今更辯じ立てる必要はあるまい。小こい泉づみ八やく雲も一ひと人りを除けば、兎とに角かくロテイは不ふじ二さ山んや椿つばきやベベ・ニツポンを着た女と最も因いん縁ねんの深い西洋人である。そのロテイを失つたことは我我日本人の身になるとまんざら人ごとのやうに思はれない。
ロテイは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背せいの高い方ではなささうである。ロテイは新らしい感覚描写を与へた。或は新らしい抒じよ情じや詩うしを与へた。しかし新らしい人生の見かたや新らしい道徳は与へなかつた。勿論これは芸術家たるロテイには致命傷でも何なんでもないのに違ひない。提ちや燈うちんは火さへともせれば、敬意を表して然るべきである。合かつ羽ぱのやうに雨が凌しのげぬにしろ、軽けい蔑べつして好よいと云ふものではない。しかし雨が降つてゐるから、まづ提燈は持たずとも合羽の御ごや厄くか介いにならうと云ふのはもとより人情の自然である。かう云ふ人情の矢やお面もてには如い何かなる芸術至上主義も、提燈におしなさいと云ふ忠告と同様、利きき目のないものと覚悟せねばならぬ。我我は土どし砂やぶ降りりの往来に似た人生を辿たどる人にん足そくである。けれどもロテイは我我に一枚の合羽をも与へなかつた。だから我我はロテイの上に﹁偉い﹂と云ふ言葉を加へないのである。古来偉い芸術家と云ふのは、――勿もち論ろん合羽の施せぎ行やうをする人に過ぎない。
又ロテイはこの数年間、仏フラ蘭ン西ス文壇の﹁人物﹂だつたにせよ、仏蘭西文壇の﹁力﹂ではなかつた。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。唯我我日本人は前にもちよいと云つた通り、美しい日本の小説を書いた、当年の仏蘭西の海軍将校ジユリアン・ヴイオオの長ちや逝うせいに哀あい悼たうの念を抱いだいてゐる。ロテイの描かいた日本はヘルンの描いた日本よりも、真しんを伝へない画ぐわ図とかも知れない。しかし兎とに角かく好画図たることは異論を許さない事実である。我我の姉妹たるお菊さんだの或は又お梅さんだのは、ロテイの小説を待つた後のち、巴パ里リの敷石の上をも歩むやうになつた。我我は其そ処こにロテイに対する日本の感謝を捧げたいと思ふ。なほロテイの生涯は大体左に示す通りである。
千八百五十年一月十四日、ロテイはロシユフオオルで生れ、十七歳の時、海軍に入り、千九百六年大佐になつた。大佐になつたのは数へ年で五十七の時である。
最初の作は千八百七十九年、即三十歳の時公おほやけにした Aziyad である。後ち一年、千八百八十年に Rarahu を出して一躍流行児になつた。これは二年の後のち﹁ロテイの結婚﹂と改題再刊されたものである。
かの﹁お菊さん﹂は千八百八十七年に、﹁日本の秋﹂は八十九年に公おほやけにされた。
アカデミイの会員に選まれたのは九十一年、数へて四十二歳の時である。
彼は、国際電報の伝ふるところによると、十日アンダイエで死んだのである。時に歳七十三。
四 新緑の庭
桜 さつぱりした雨あま上あがりです。尤もつとも花の萼がくは赤いなりについてゐますが。
椎しひ わたしもそろそろ芽めをほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。
竹 わたしは未いまだに黄わう疸だんですよ。……
芭ばせ蕉う おつと、この緑のランプの火ほ屋やを風に吹き折られる所だつた。
梅 何だか寒さむ気けがすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。
八やつ手で 痒かゆいなあ、この茶色の産うぶ毛げのあるうちは。
百さる日すべ紅り 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。
霧きり島しま躑つつ躅じ 常じやう――常じや談うだん云つちやいけない。わたしなどはあまり忙せはしいものだから、今こと年しだけはつい何い時つにもない薄うす紫むらさきに咲いてしまつた。
覇サボ王テ樹ン どうでも勝手にするが好いいや。おれの知つたことぢやなし。
石ざく榴ろ ちよいと枝一面に蚤のみのたかつたやうでせう。
苔こけ 起きないこと？
石 うんもう少し。
楓かへで ﹁若わか楓かへで茶色になるも一ひと盛さかり﹂――ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸ひわ色いろです。おや、障しや子うじに灯ひがともりました。
五 春の日のさした往わう来らいをぶらぶら一人歩いてゐる
春の日のさした往来をぶらぶら一ひと人り歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中なか折をれ帽ばうをかぶり、ゴムか何かの長なが靴ぐつをはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿ももも半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍ひや子うしに長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。
顔かほ馴なじ染みの道具屋を覗のぞいて見る。正面の紅こう木ぼくの棚たなの上に虫むし明あけらしい徳とく利りが一本。あの徳利の口などは妙に猥わい褻せつに出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古こび備ぜ前んの徳利の口もちよいと接せつ吻ぷん位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍あゐ色いろの柳の枝し垂だれた下にやはり藍色の人が一ひと人り、莫ば迦かに長い釣つり竿ざをを伸ばしてゐる。誰かと思つて覗のぞきこんで見たら、金かな沢ざわにゐる室むろ生ふさ犀いせ星い！
又ぶらぶら歩きはじめる。八や百ほ屋やの店に慈くわ姑ゐがすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥でい七しつ宝ぱうの青に似てゐる。あの慈くわ姑ゐを買はうかしら。をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にもをつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御ごて亭いし主ゆも気楽さうに山やま雀がらの籠の中に坐つてゐる！
﹁つまり馬に乗つた時と同じなのさ。﹂
﹁カントの論文に崇たたられたんだね。﹂
後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二ふた人り。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺へんそろそろ上のぼり坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤もつとも崖がけ側ぎはの竹藪は不あひ相かは変らず黄ばんだままなのだが……おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己おれの顔もみんな目玉の中に映うつつてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。
﹁生ミタテ玉タマ子ゴアリマス。﹂
アア、サウデスカ？ ワタシハ玉子ハ入イリマセン。――春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。
六 霜夜
霜しも夜よの記憶の一つ。
いつものやうに机に向つてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寝ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉じ、それからあした坐り次第、直すぐに仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入いり用ようの書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の火の始しま末つをする。はんねらの瓶かめに鉄てつ瓶びんの湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黒くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸気ももやもや立ち昇る。何か楽しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床とこは次の間まにとつてある。次の間も書斎も二階である。寝る前には必ず下へおり、のびのびと一ひと人り小便をする。今夜もそつと二階を下おりる。家族の眼をさまさせないやうに、出来るだけそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外そとを通りかかると、六十八になる伯を母ばが一ひと人り、古い綿わたをのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。
﹁伯を母ばさん﹂と云ふ。﹁まだ起きてゐたの？﹂と云ふ。﹁ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寝るのだらう？﹂と云ふ。後こう架かの電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる、風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。唯寒い夜よるに封じられてゐる。
薄うす綿わたはのばし兼ねたる霜しも夜よかな
七 蒐集
僕は如い何かなる時代でも、蒐しう集しふ癖へきと云ふものを持つたことはない。もし持つたことがあるとすれば、年少時代に昆虫類の標へう本ほんを集めたこと位であらう。現在は成なる程ほど書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然と書しよ棚だなへ集まつたのである。何も苦心して集めた訣わけではない。
書物さへ既すでにさうである。況いはんや書画とか骨こつ董とうとかは一度も集めたいと思つたことはない。尤もつともこれはと思つたにしろ、到たう底てい我我売文の徒には手の出ぬせゐでもありさうである。しかし僕の集めたがらぬのは必かならずしもその為ばかりではない。寧むしろ集めたいと云ふ気持に余り快くわ哉いさいを感ぜぬのである。或は集めんとする気組みに倦けん怠たいを感じてしまふのである。
これは智識も同じことである。僕はまだ如い何かなる智識も集めようと思つて集めたことはない。尤もつとも集めたと思はれるほど、智識のないことも事実である。しかし多少でもあるとすれば、兎とに角かく集まつたと云はなければならぬ。
蒐しう集しふ家かは情熱に富んだものである。殊にたつた一枚のマツチの商しや標うへうを手に入れる為に、世界を周遊する蒐集家などは殆ほとんど情熱そのものである。だから情熱を軽蔑しない限り、蒐集家も一いつ笑せうに付することは出来ない。しかし僕は蒐集家とは別の鋳いが型たに属してゐる。同時に又革命家や予言者とも別の鋳型に属してゐる。
僕はマツチの商標に対する情熱にも同情を感じてゐる。いや、同情と云ふ代りに敬意と云つても差さし支つかへない。しかしマツチの商標の価値にはどちらかと云へば懐疑的である。僕は以前かう云ふ気質を羞はづかしいと思つたことがあつた。けれども面めん皮ぴの厚くなつた今はさほど卑ひ下げする気もちにもなれない。――
八 知己料
僕等は当時﹁新しん思して潮う﹂といふ同どう人じん雑ざつ誌しに楯たてこもつてゐた。﹁新思潮﹂以外の雑誌にも時時作品を発表するのは久くめ米ま正さ雄を一ひと人りぎりだつた。そこへ﹁希望﹂といふ雑誌社から、突然僕へ宛てた手紙が来た。手紙には、五月号に間まに合ふやうに短篇を一つお願ひしたい。御ごつ都が合ふは如いか何がと書いてあつた。僕は勿論快くわ諾いだくした。
僕は一週間たたない内に、﹁虱しらみ﹂といふ短篇を希望社へおくつた。それから――原稿料の届くのを待つた。最初の原稿料を待つ気もちは売文の経験のない人には、ちよいと想像が出来ないかも知れない。僕も少し誇張すれば、直なほ侍ざむらひを待つ三みち千と歳せのやうに、振ふり替かへの来る日を待ちくらしたのである。
原稿料は容易に届かなかつた。僕はたびたび久米正雄と、希望社は僕の短篇にいくら払ふかを論じ合つた。
﹁一円は払ふね。一円ならば十二枚十二円か。そんなことはない。一円五十銭は大丈夫払ふよ。﹂
久く米めはかういふ予測を下した。何なんだかさう云はれて見れば、僕も一円五十銭は払つてもらはれさうな心もちになつた。
﹁一円五十銭払つたら、八円だけおごれよ。﹂
僕はおごると約束した。
﹁一円でも、五円はおごる義務があるな。﹂
久米はまたかういつた。僕はその義務を認めなかつた。しかし五円だけ割かつ愛あひすることには、格別異存も持たなかつた。
その内に﹁希望﹂の五月号が出、同時に原稿料も手にはひつた。僕はそれをふところにしたまま、久米の下宿へ出かけて行つた。
﹁いくら来た？ 一円か？ 一円五十銭か？﹂
久米は僕の顔を見ると、彼自身のことのやうに熱心にたづねた。僕は何なんともこたへずに、振ふり替かへの紙を出して見せた。振替の紙には残ざん酷こくにも三円六十銭と書いてあつた。
﹁三十銭か。三十銭はひどいな。﹂
久米もさすがになさけない顔をした。僕はなほ更仏ぶつ頂ちやうづらをしてゐた。が、僕等はしばらくすると、同時ににやにや笑ひ出した。久米はいはゆる微びく苦せ笑うをうかべ、僕は手がるに苦笑したのである。
﹁三十銭は知ちき己れ料うをさしひいたんだらう。一円五十銭マイナス三十銭――一円二十銭の知己料は高いな。﹂
久米はこんなことをいひながら、振替の紙を僕にかへした。しかしもうこの間のやうに、おごれとか何なんとかはいはなかつた。
九 妄問妄答
客 菊きく池ちく寛わん氏の説によると、我我は今度の大だい地震のやうに命も危いと云ふ場合は芸術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物もの種だねと尻しり端はし折よりをするのに忙いそがしさうだ。しかし実際さう云ふものだらうか？
主人 そりや実際さう云ふものだよ。
客 芸術上の玄くろ人うともかね？ たとへば小説家とか、画家とか云ふ、――
主人 玄くろ人うとはまあ素しろ人うとより芸術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、実は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焔をどう描写しようなどと考へる豪がう傑けつはゐまいからね。
客 しかし昔の侍さむらひなどは横腹を槍やりに貫かれながら、辞じせ世いの歌を咏よんでゐるからね。
主人 あれは唯名誉の為だね。意識した芸術的衝動などは別のものだね。
客 ぢや我我の芸術的衝動はああ云ふ大変に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね？
主人 そりや全部はなくならないね。現に遭さう難なん民みんの話を聞いて見給へ。思ひの外ほか芸術的なものも沢たく山さんあるから。――元来芸術的に表現される為にはまづ一いち応おう芸術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず芸術的に心を働かせて来た訣わけだね。
客 ︵反語的に︶しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり芸術的衝動を失うことになるだらうね？
主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の芸術的衝動だけは案あん外ぐわい生死の瀬せと戸ぎ際はにも最後の飛躍をするものだからね？ 辞世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討うち死じになどは大たい抵てい戯曲的或は俳優的衝動の――つまり俗に云ふ芝しば居ゐ気ぎの表はれたものとも見られさうぢやないか？
客 ぢや芸術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね？
主人 無意識の芸術的衝動はね。しかし意識した芸術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、………
客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊きく池ちく寛わん氏に全然賛さん成せいしてゐるのかね？
主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう？ 僕は寂しいとも思はないね、当り前だとしか思はないね。
客 なぜ？
主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物もの種だねと云ふ時にや、何も彼かも忘れてゐるんだからね。芸術も勿もち論ろん忘れる筈ぢやないか？ 僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その為に芸術を軽んずる気などは起らないね。
客 ぢや芸術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね。
主人 莫ば迦かを云ひ給へ。芸術的衝動は無意識の裡うちにも我我を動かしてゐると云つたぢやないか？ さうすりや芸術は人生の底へ一面深い根を張つてゐるんだ。――と云ふよりも寧むしろ人生は芸術の芽めに満ちた苗なへ床どこなんだ。
客 すると﹁玉は砕くだけず﹂かね？
主人 玉は――さうさね。玉は或は砕けるかも知れない。しかし石は砕けないね。芸術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず芸術的衝動に支配される熊くまさんや八はちさんは亡びないね。
客 ぢや君は問題になつた里さと見み氏の説にも菊きく池ち氏の説にも部分的には反対だと云ふのかね。
主人 部分的には賛成だと云ふことにしたいね。何しろ両雄の挾はさみ打ちを受けるのはいくら僕でも難渋だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用出来ぬ部分もあるね。
客 信用の出来ぬ部分がある？
主人 菊池氏は今度大おほ向むかうからやんやと喝かつ采さいされる為にはが必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは余り信用出来ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。
十 梅花に対する感情
このジヤアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず
が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは余り信用出来ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。
十 梅花に対する感情
このジヤアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず
予よ等らは芸術の士なるが故に、如によ実じつに万象を観みざる可べからず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴツホの向ひま日は葵りの写真版の今こん日にちもなほ愛あい翫ぐわんせらるる、豈あに偶然の結果ならんや。︵幸ひにＧＯＧＨをゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎とがむること勿れ。予はＡＮＤＥＲＳＥＮをアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。︶
こは芸術を使命とするものには白はく日じつよりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必かならずしも容易の業わざにあらず。︵否、絶対に独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨さまたげざる可し。︶殊に万ばん人にんの詩に入ること屡しばしばなりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに﹁暮ぼし春ゆん﹂の句を成すを思へ。蕪ぶそ村んの﹁暮春﹂を詠えいぜし後のち、誰か又独自の眼光を以て﹁暮春﹂を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。
梅花は予に伊いせ勢もの物がた語りの歌より春はる信のぶの画ゑに至る柔じう媚びの情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎ごとに、まづ予の心を捉とらふるものは支那に生じたる文ぶん人じん趣しゆ味みなり。こは啻ただに予のみにあらず、大おほ方かたの君くん子しも亦また然るが如し。︵是ここに於て乎か、中央公論記者も﹁梅花の賦ふ﹂なる語を用ゐるならん。︶梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做なすは紅こう毛まう碧へき眼がんの詩人のことのみ。予等は梅花の一瓣にも、鶴つるを想おもひ、初しよ月げつを想ひ、空くう山ざんを想ひ、野やす水ゐを想ひ、断だん角かくを想ひ、書燈を想ひ、脩しう竹ちくを想ひ、清せい霜さうを想ひ、羅ら浮ふを想ひ、仙せん妃ぴを想ひ、林りん処しよ士しの風流を想はざる能あたはず。既すでに斯かくの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必かならずしも怪しむを要せざるべし。︵こは夙つとに永なが井ゐか荷ふ風う氏の﹁日本の庭﹂の一章たる﹁梅﹂の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是これ予に今こん日にちこの真理を盗用せしむる所ゆゑ以んなり。︶
予の梅花を見る毎ごとに、文人趣味を喚よび起さるるは既に述べし所の如し。然れども妄みだりに予を以て所いは謂ゆる文人と做なすこと勿なかれ。予を以て詐さ偽ぎ師しと做みなすは可なり。謀殺犯人と做すは可なり。やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所いは謂ゆる文人と做すこと勿れ。十じふ便べん十じふ宜ぎで帖ふあるが故に、大たい雅がと蕪ぶそ村んとを並へい称しやうするは所謂文人の為す所なり。予はたとひ宮きゆうせらるると雖いへども、この種の狂人と伍することを願はず。
ひとり是のみに止とどまらず、予は文人趣味を軽蔑するものなり。殊に化くわ政せい度どに風ふう行かうせる文人趣味を軽蔑するものなり。文人趣味は道楽のみ。道楽に終始すと云はば則ち已やまん。然れどももし道楽以上の貼はり札ふだを貼らんとするものあらば、山さん陽やうの画ゑを観せしむるに若しかず。日にほ本んぐ外わい史しは兎とも角かくも一部の歴史小説なり。画に至つては呉ごか越ゑつか、畢つひにつくね芋いもの山水のみ。更に又竹ちく田でんの百ひや活くく矣わついは如いか何ん。これをしも芸術と云ふ可べくんば、安やす来ぎぶ節しも芸術たらざらんや。予は勿論彼等の道楽を排斥せんとするものにあらず。予をして当時に生まれしめば、戯れに河かつ童ぱば晩ん帰きの図を作り、山紫水明楼上の一いつ粲さんを博せしやも亦また知る可からず。且又彼等も聰明の人なり。豈あに彼等の道楽を彼等の芸術と混同せんや。予は常に確信す、大正の流俗、芸術を知らず、無邪気なる彼等の常じや談うだんを大おほ真ま面じ目めに随喜し渇かつ仰がうするの時、まづ噴ふん飯ぱんに堪へざるものは彼等両人に外ほかならざるを。
梅花は予の軽蔑する文人趣味を強ひんとするものなり、下げれ劣つ詩し魔まに魅みせしめんとするものなり。予は孑けつ然ぜんたる征旅の客きやくの深山大だい沢たくを恐るるが如く、この梅花を恐れざる可からず。然れども思へ、征旅の客の踏破の快を想見するものも常に亦また深山大沢なることを。予は梅花を見る毎に、峨が眉びの雪を望める徐じよ霞かか客くの如く、南極の星を仰げるシヤツクルトンの如く、鬱うつ勃ぼつたる雄心をも禁ずること能あたはず。
灰捨てて白梅うるむ垣根かな
加ふるに凡ぼん兆てうの予等の為に夙つとに津しん頭とうを教ふるものあり。予の渡江に急ならんとする、何ぞ少年の客かく気きのみならんや。
予は独自の眼光を以て容易に梅花を観みが難たきが故に、愈いよいよ独自の眼光を以て梅花を観みんと欲するものなり。聊いささかパラドツクスを弄ろうすれば、梅花に冷淡なること甚しきが故に、梅花に熱中すること甚しきものなり。高かう青せい邱きうの詩に云ふ。﹁瓊けい姿した只だま合さに在えう瑤たい台にあるべし 誰たれ向かか江うへ辺んし処よし処よに栽むかつてうう﹂又云ふ。﹁自から去うさ何つて郎より無かう好えい詠なし 東とう風ふう愁しう寂せき幾いく回くわ開いかひらく﹂真に梅花は仙人の令嬢か、金持の隠居の囲かこひものに似たり。︵後者は永なが井ゐか荷ふ風う氏の比ひ喩ゆなり。必かならずしも前者と矛むじ盾ゆんするものにあらず︶予の文に至らずとせば、斯かかる美人に対する感慨を想おもへ。更に又汝の感慨にして唯ほれぼれとするのみなりとせば、已やんぬるかな、汝も流俗のみ、済さい度どす可からざる乾屎
のみ。
十一 暗合
﹁お富とみの貞操﹂と云ふ小説を書いた時、お富は某氏夫人ではないかと尋ねられた人が三人ある。又あの小説の中に村むら上かみ新しん三ざぶ郎らうと云ふ乞こじ食きが出て来る。幕末に村上新五郎と云ふ奇傑がゐたが同どう一いち人にんかと尋ねられた人もある。しかしあの小説は架空の談はなしだから、謂いふ所のモデルを用ゐたのではない。﹁お富の貞操﹂の登場人物はお富と乞食と二ふた人りだけである。その二人とも実在の人物に似てゐると云ふのは珍らしい暗あん合がふに違ひない。僕は以前藤ふぢ野のこ古は白くの句に﹁傀くわ儡いら師いし日暮れて帰る羅らし生やう門もん﹂と云ふのを見、﹁傀儡師﹂﹁羅生門﹂共に僕の小説集の名だから、暗あん合がふの妙に驚いたことがある。然るに今又この暗合に出合つた。僕には暗合が祟たたつてゐるらしい。
十二 コレラ
コレラが流は行やるので思ひ出すのは、漱そう石せき先生の話である。先生の子供の時分にも、コレラが流行つたことがある。その時、先生は豆を沢たく山さん食つて、水を沢山飲んで、それから先生のお父さんと一いつ緒しよに、蚊か帳やの中に寝てゐたさうである。さうして、その明け方に、蚊帳の中で、いきなり吐とし瀉やを始めたさうである。すると、先生のお父さんは﹁そら、コレラだ﹂と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒はうきで掃はき始めたさうである。勿論、先生の吐とし瀉やしたのは、豆と水とに祟たたられたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。
コレラの小説では何があるか。紅こう葉えふの﹁青あを葡ぶだ萄う﹂とかいふのが、多分、コレラの話だつたらう。La Motte といふ人の短篇に、日本のコレラを書いたのがある。何も際きは立だつた事件はないが、魚うを河が岸しの暇になつたり、何かするところをなかなか器用に書いてある。
僕はコレラでは死にたくはない。へどを吐はいたり下げ痢りをしたりする不風流な往わう生じやうは厭いやである。シヨウペンハウエルがコレラを恐こはがつて、逃げて歩いたことを読んだ時は、甚だ彼に同情した。ことに依ると、彼の哲学よりも、もつと、同情したかも知れない。
しかし、シヨウペンハウエル時代には、まだコレラは食物から伝でん染せんするといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難あり有がたさに、それをちやんと心得てゐるから、煮にたものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服のんだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三さん拝ぱい九きう拝はいするがいい。
十三 長崎
菱ひし形がたの凧たこ。サント・モンタニの空に揚あがつた凧たこ。うらうらと幾つも漂ただよつた凧。
路ばたに商あきなふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火ほ照てるけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕つばめ。
丸まる山やまの廓くるわの見みか返へり柳。
運河には石の眼めが鏡ねば橋し。橋には往わう来らいの麦むぎ稈わら帽ばう子し。――忽ち泳およいで来る家あひ鴨るの一むれ。白しろ白じろと日に照つた家鴨の一むれ。
南なん京きん寺でらの石段の蜥とか蜴げ。
中華民国の旗。煙を揚げる英イギ吉リ利スの船。﹁港をよろふ山の若葉に光さし……﹂顱ろち頂やうの禿はげそめた斎さい藤とう茂もき吉ち。ロテイ。沈しん南なん蘋ぴん。永なが井ゐか荷ふ風う。
最後に﹁日本の聖母の寺﹂その内ない陣じんのおん母マリア。穂ほむ麦ぎに交まじつた矢やぐ車るまの花。光のない真昼の蝋らふ燭そくの火。窓の外には遠いサント・モンタニ。
山の空にはやはり菱ひし形がたの凧。北きた原はら白はく秋しうの歌つた凧。うらうらと幾つも漂ただよつた凧。
十四 東京田端
時しぐ雨れに濡ぬれた木木の梢こずゑ。時雨に光ってゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一ひと籠かごに何羽もぢつとしてゐる。
庭木に烏から瓜すうりの下つたのは鋳い物も師じ香かと取りほ秀づ真まの家。
竹の葉の垣に垂れたのは、画家小こす杉ぎみ未せ醒いの家。
門内に広い芝しば生ふのあるのは、長ちや者うじや鹿かし島まり龍ゆう蔵ざうの家。
ぬかるみの路みちを前にしたのは、俳人滝たき井ゐせ折つさ柴いの家。
踏ふみ石いしに小こざ笹さをあしらつたのは、詩人室むろ生ふさ犀いせ星いの家。
椎しひの木や銀いて杏ふの中にあるのは、――夕ぐれ燈とう籠ろうに火のともるのは、茶屋天てん然ねん自じせ笑うけ軒ん。
時しぐ雨れの庭を塞ふさいだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫した檀んの机の前に、一本八銭の葉巻を啣くはへながら、一いち游いう亭ていの鶏の画ゑを眺めている。
︵大正十一年―十三年︶
のみ。
十一 暗合
﹁お富とみの貞操﹂と云ふ小説を書いた時、お富は某氏夫人ではないかと尋ねられた人が三人ある。又あの小説の中に村むら上かみ新しん三ざぶ郎らうと云ふ乞こじ食きが出て来る。幕末に村上新五郎と云ふ奇傑がゐたが同どう一いち人にんかと尋ねられた人もある。しかしあの小説は架空の談はなしだから、謂いふ所のモデルを用ゐたのではない。﹁お富の貞操﹂の登場人物はお富と乞食と二ふた人りだけである。その二人とも実在の人物に似てゐると云ふのは珍らしい暗あん合がふに違ひない。僕は以前藤ふぢ野のこ古は白くの句に﹁傀くわ儡いら師いし日暮れて帰る羅らし生やう門もん﹂と云ふのを見、﹁傀儡師﹂﹁羅生門﹂共に僕の小説集の名だから、暗あん合がふの妙に驚いたことがある。然るに今又この暗合に出合つた。僕には暗合が祟たたつてゐるらしい。
十二 コレラ
コレラが流は行やるので思ひ出すのは、漱そう石せき先生の話である。先生の子供の時分にも、コレラが流行つたことがある。その時、先生は豆を沢たく山さん食つて、水を沢山飲んで、それから先生のお父さんと一いつ緒しよに、蚊か帳やの中に寝てゐたさうである。さうして、その明け方に、蚊帳の中で、いきなり吐とし瀉やを始めたさうである。すると、先生のお父さんは﹁そら、コレラだ﹂と言つて、蚊帳を飛び出したさうである。蚊帳を飛び出して、どうするかと思ふと、何もすることがないものだから、まだ星が出てゐるのに庭を箒はうきで掃はき始めたさうである。勿論、先生の吐とし瀉やしたのは、豆と水とに祟たたられたので、コレラではなかつたが、この事があつたために、先生は人間の父たるもののエゴイズムを知つたと話してゐた。
コレラの小説では何があるか。紅こう葉えふの﹁青あを葡ぶだ萄う﹂とかいふのが、多分、コレラの話だつたらう。La Motte といふ人の短篇に、日本のコレラを書いたのがある。何も際きは立だつた事件はないが、魚うを河が岸しの暇になつたり、何かするところをなかなか器用に書いてある。
僕はコレラでは死にたくはない。へどを吐はいたり下げ痢りをしたりする不風流な往わう生じやうは厭いやである。シヨウペンハウエルがコレラを恐こはがつて、逃げて歩いたことを読んだ時は、甚だ彼に同情した。ことに依ると、彼の哲学よりも、もつと、同情したかも知れない。
しかし、シヨウペンハウエル時代には、まだコレラは食物から伝でん染せんするといふことがわからなかつたのである。が、僕は現代に生れた難あり有がたさに、それをちやんと心得てゐるから、煮にたものばかり食つたり、塩酸レモナアデを服のんだり、悠悠と予防を講じてゐる。この間、臆病すぎると言つて笑はれたが、臆病は文明人のみの持つてゐる美徳である。臆病でない人間が偉ければ、ホツテントツトの王様に三さん拝ぱい九きう拝はいするがいい。
十三 長崎
菱ひし形がたの凧たこ。サント・モンタニの空に揚あがつた凧たこ。うらうらと幾つも漂ただよつた凧。
路ばたに商あきなふ夏蜜柑やバナナ。敷石の日ざしに火ほ照てるけはひ。町一ぱいに飛ぶ燕つばめ。
丸まる山やまの廓くるわの見みか返へり柳。
運河には石の眼めが鏡ねば橋し。橋には往わう来らいの麦むぎ稈わら帽ばう子し。――忽ち泳およいで来る家あひ鴨るの一むれ。白しろ白じろと日に照つた家鴨の一むれ。
南なん京きん寺でらの石段の蜥とか蜴げ。
中華民国の旗。煙を揚げる英イギ吉リ利スの船。﹁港をよろふ山の若葉に光さし……﹂顱ろち頂やうの禿はげそめた斎さい藤とう茂もき吉ち。ロテイ。沈しん南なん蘋ぴん。永なが井ゐか荷ふ風う。
最後に﹁日本の聖母の寺﹂その内ない陣じんのおん母マリア。穂ほむ麦ぎに交まじつた矢やぐ車るまの花。光のない真昼の蝋らふ燭そくの火。窓の外には遠いサント・モンタニ。
山の空にはやはり菱ひし形がたの凧。北きた原はら白はく秋しうの歌つた凧。うらうらと幾つも漂ただよつた凧。
十四 東京田端
時しぐ雨れに濡ぬれた木木の梢こずゑ。時雨に光ってゐる家家の屋根。犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一ひと籠かごに何羽もぢつとしてゐる。
庭木に烏から瓜すうりの下つたのは鋳い物も師じ香かと取りほ秀づ真まの家。
竹の葉の垣に垂れたのは、画家小こす杉ぎみ未せ醒いの家。
門内に広い芝しば生ふのあるのは、長ちや者うじや鹿かし島まり龍ゆう蔵ざうの家。
ぬかるみの路みちを前にしたのは、俳人滝たき井ゐせ折つさ柴いの家。
踏ふみ石いしに小こざ笹さをあしらつたのは、詩人室むろ生ふさ犀いせ星いの家。
椎しひの木や銀いて杏ふの中にあるのは、――夕ぐれ燈とう籠ろうに火のともるのは、茶屋天てん然ねん自じせ笑うけ軒ん。
時しぐ雨れの庭を塞ふさいだ障子。時雨の寒さを避ける火鉢。わたしは紫した檀んの机の前に、一本八銭の葉巻を啣くはへながら、一いち游いう亭ていの鶏の画ゑを眺めている。
︵大正十一年―十三年︶