一 夏目先生の書
僕にも時々夏なつ目め先生の書を鑑かん定ていしてくれろと言ふ人がある。が、僕の眼光ではどうも判然とは鑑定出来ない、唯まつ赤な贋にせものだけはおのづから正しや体うたいを現はしてくれる。僕は近頃その贋にせものの中に決して贋にものとは思はれぬ一本の扇あふぎに遭遇した。成なる程ほどこの扇に書いてある句は漱そう石せきと言ふ名はついてゐても、確かに夏目先生の書いたものではない。しかし又句がらや書体から見れば、夏目先生の贋せものを作る為に書いたのではないことも確たしかである。この漱石とは何ものであらうか？ 太たう白はく堂だう三さん世せい村むら田たた桃うり鄰んも始めの名はやはり漱石である。けれども僕の見た扇はさほど古いものとも思はれない。僕はこの贋せものならざるに贋せものと呼ばれる扇の筆者を如い何かにも気の毒に思つてゐる。因ちなみに言ふ、夏目先生の書にも近年はめつきり贋せものが殖ふえたらしい。︵大正十四年十月二十日︶
二 霜の来る前
毎日庭を眺めてゐると、苔こけの最も美しいのは霜しもの来る前、――まづ十月一ぱいである。それから霜の来る前に﹁カナメモチ﹂や﹁モツコク﹂などの赤々と芽をふいてゐるのは美しいよりも寧むしろもの哀れでならぬ。︵同年十一月十日︶
三 澄江堂
僕になぜ澄ちよ江うか堂うだうなどと号するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因いん縁ねんはない。唯いつか漫然と澄江堂と号してしまつたのである。いつか佐ささ佐き木も茂さ索く君は﹁スミエと言ふ芸者に惚ほれたんですか？﹂と言つた。が、勿もち論ろんそんな訣わけでもない。僕は時々本ほん名みやうの外ほかに入らざる名などをつけることはよせば好かつたと思つてゐる。︵十一月十二日︶
四 雅号
しかし雅がが号うと言ふものはやはり作品と同じやうにその人の個性を示すものである。菱ひし田だし春ゆん草さうは年少時代には駿しゆ走んそうの号を用ひてゐた。年少時代の春草は定めし駿走らしかつたであらう。さう言へば正まさ宗むね白はく鳥てう氏も昔は白はく塚ちようと号してゐたかと思ふ。これは僕の記憶違ひかも知れない。が、若し違つてゐないとすれば、この号も兎とに角かく年少時代の正宗氏を想はせるのに足るものであらう。僕は昔の文人たちの雅号を幾つも持つてゐたのは必かならずしも道楽に拵こしらへたのではない。彼等の趣味の進歩に応じておのづから出来たものと思つてゐる。︵同前︶
五 シルレルの頭蓋骨
シルレルの遺ゐが骸いは彼の歿年、――千八百五年以来、ちやんとワイマアルの大公爵家の霊れい廟べうの中に収められてゐた。が、二十年ばかりたつた後のち、その霊廟を再さい建こんする際に頭づが蓋いこ骨つだけゲエテに贈ることになつた。ゲエテは彼の机の上にこの旧友の頭蓋骨を置き、﹁シルレル﹂と題する詩を作つた。そればかりではない。エエベルラインなどは御苦労にも﹁シルレルの頭蓋骨を見守れるゲエテ﹂とか何なんとか言ふ半身像を作つた。けれどもこれはシルレルではない、誰か他の人の頭蓋骨だつた。︵ほんたうのシルレルの頭蓋骨はやつと近年テユウビンゲンの解かい剖ばう学がくの教授に発見された。︶僕はかう言ふ話を読み、悪魔のいたづらを見たやうに感じた。他人の頭蓋骨に感激したゲエテは勿論滑こつ稽けいに見えるであらう。しかしその頭蓋骨がなかつたとしたらば、ゲエテ詩集は少くとも﹁シルレル﹂の一篇を欠いてゐたのである。︵十一月二十日︶
六 美人禍
ゲエテをワイマアルの宮廷から退しりぞかせたのはフオン・ハイゲンドルフ夫人である。しかも又シヨオペンハウエルに一世一代の恋れん歌かを作らせたのもやはりこのフオン・ハイゲンドルフ夫人である。前者に反感を抱いた女性は彼女の外ほかになかつたらしい。後者に好感を与へたのは勿論彼女一ひと人りである。兎とに角かく両天才を悩ませただけでも、ただの女ではなかつたのであらう。現に写真に徴ちやうすると、目の大きい、鼻の尖とがつた、如い何かにも一癖ありげな美人である。︵二十一日︶
七 放心
僕は教師をしてゐた頃、ネクタイをするのを忘れたまま、澄まして往わう来らいを歩いてゐた。それを幸ひにも見つけてくれたのは当年の菅すが忠ただ雄を君である。しかしその後のち学校へ行つたら、今度は物理の教官が一ひと人り、カラアをつけるのを忘れたと見え、ネクタイだけシヤツにぶら下げてゐた。どちらがはた目には可を笑かしかつたかしら。︵二十二日︶
八 同上
僕は菊きく池ちと長崎へ行つた時、汽車中大いに文芸論をした。そのうちにふと気がついて見ると、菊池はいつか両手の間にパラソルを一本まはしてゐる。僕は勿論﹁おい、君﹂と言つた。すると菊池は苦くせ笑うしながら、鄰となりにゐた奥さんにパラソルを返した。僕は早さつ速そく文芸論の代りに菊きく池ちの放心を攻撃した。菊池の降参したのはこの時だけである。が、長崎を立つ段になると、僕自身うつかり上うへ野の屋やへ雨あま外ぐわ套いたうを忘れて来てしまつた。菊池の嬉しがるまいことか、忌いま々いましくも大笑ひをして曰いはく、﹁君も亦また細さい心しんは誇れないね。﹂︵同上︶