鏡
自分は無むや暗みに書物ばかり積んである書斎の中に蹲うづくまつて、寂しい春の松の内を甚はなはだだらしなく消光してゐた。本をひろげて見たり、好いい加減な文章を書いて見たり、それにも飽きると出たらめな俳句を作つて見たり――要するにまあ太平の逸いつ民みんらしく、のんべんだらりと日を暮してゐたのである。すると或日久しぶりに、よその奥さんが子供をつれて、年始旁かた々がた遊びに来た。この奥さんは昔から若くつてゐたいと云ふ事を、口癖のやうにしてゐる人だつた。だからつれてゐる女の子がもう五つになると云ふにも関かかはらず、まだ娘の時分の美しさを昨きの日ふのやうに保存してゐた。
その日自分の書斎には、梅の花が活いけてあつた。そこで我々は梅の話をした。が、千ち枝えちやんと云ふその女の子は、この間あひ中だぢう書斎の額がくや掛かけ物ものを上うは眼めでぢろぢろ眺めながら、退屈さうに側に坐つてゐた。
暫しばらくして自分は千枝ちやんが可かは哀いさうになつたから、奥さんに﹁もうあつちへ行つて、母とでも話してお出でなさい﹂と云つた。母なら奥さんと話しながら、しかも子供を退屈させない丈だけの手腕があると思つたからである。すると奥さんは懐ふところから鏡かがみを出して、それを千枝ちやんに渡しながら﹁この子はかうやつて置きさへすれば、決して退屈しないんです﹂と云つた。
何な故ぜだらうと思つて聞いて見ると、この奥さんの良をつ人とが逗づ子しの別荘に病やまいを養つてゐた時分、奥さんは千ち枝えちやんをつれて、一週間に二三度宛づつ東京逗子間を往復したが、千枝ちやんは汽車の中でその度に退屈し切つてしまふ。のみならず、その退屈を紛まぎらしたい一心で、勝手な悪いた戯づらをして仕方がない。現に或時はよその御ごい隠んき居よ様をつかまへて﹁あなた、仏フラ蘭ン西ス語を知つていらつしやる﹂などととんでもない事を尋ねたりした。そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐ふと鏡ころかがみを持たせて置くと、意外にも道だう中ちうおとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗のぞきこんで、白おし粉ろいを直したり、髪を掻かいたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何い時つまでも遊んでゐるからである。
奥さんはかう鏡を渡した因いん縁ねんを説明して、﹁やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。﹂とつけ加へた。
自分は刹せつ那なの間あひだ、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷ひや評かした。
﹁あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千ち枝えちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。﹂
下足札
これも或松の内の事である。Ｈと云ふ若い亜ア米メ利リ加カ人が自分の家へ遊びに来て、いきなりポケツトから下げそ足くふ札だを一枚出すと、﹁何なんだかわかるか﹂と自分に問ひかけた。下足札はまだ木の
がする程新しい板の面おもてに、俗悪な太い字で﹁雪の十七番﹂と書いてある。自分はその書体を見ると、何な故ぜか両りや国うごくの橋の袂たもとへ店を出してゐる甘あま酒ざけ屋やの赤い荷を思ひ出した。が、元より﹁雪の十七番﹂の因いん縁ねんなぞは心得てゐる筈がなかつた。だからこの蒟こん蒻にや問くも答んだふの雲うん水すゐめいた相手の顔を眺めながら、﹁わからないよ﹂と簡単な返事をした。するとＨは鼻眼めが鏡ねの後うしろから妙な瞬またたきを一つ送りながら、急ににやにや笑ひ出して、
﹁これはね。或芸者の記スヴ念ニイ品ルなんだ。﹂
﹁へへえ、記スヴ念ニイ品ルにしちや又、妙なものを貰つたもんだな。﹂
自分たちの間あひだには、正月の膳ぜんが並んでゐた。Ｈはちよいと顔をしかめながら、屠と蘇その盃さかづきへ口をあてて、それから吸物の椀わんを持つた儘、
々びびとしてその下足札の因縁を辯じ出した。――
何なんでもそれによると、Ｈの教師をしてゐる学校が昨きの日ふ赤あか坂さかの或御茶屋で新年会を催もよほしたのださうである。日本に来て間まもないＨは、まだ芸者に愛あい嬌けうを売るだけの修業も積んでゐなかつたから、唯出て来る料理を片つぱしから平たひらげて、差される猪ちよ口くを片つぱしから飲み干してゐた。するとそこにゐた十人ばかりの芸者の中に、始終彼の方はうへ秋しう波はを送る女が一ひと人りあつた。日本の女は踝くるぶしから下を除いて悉ことごとく美しいと云ふＨの事だから、勿論この芸者も彼の眼には美人として映じたのに相違ない。そこで彼も牛ぎう飲いん馬ばし食よくする傍かたはらには時々そつとその女の方を眺めてゐた。
しかし日本語の通じないＨにも、日本酒は遠慮なく作用する。彼は一時間ばかりたつ中うちに、文も字じ通り泥でい酔すゐした。その結果、殆ほとんど座に堪へられなくなつたから、ふらふらする足を踏みしめてそつと障しや子うじの外へ出た。外には閑静な中庭が石いし燈どう籠ろうに火を入れて、ひつそりと竹の暗をつくつてゐる。Ｈは朦もう朧ろうたる酔すゐ眼がんにこの景色を眺めると、如い何かにも日本らしい好いい心もちに浸ひたる事が出来た。が、この日本情調が彼のエキゾテイシズムを満足させたのは、ほんの一瞬間の事だつたらしい。何な故ぜと云ふと彼が廊らう下かへ出るか出ないのに、後あとを追つてするすると裾を引いて来た芸者の一ひと人りが突然彼の頸くびへ抱だきついたからである。さうして彼の酒臭い脣くちびるへ潔いさぎよい接吻をした。勿もち論ろんそれはさつきから、彼に秋波を送つてゐる芸者だつた。彼は大おほいに嬉しかつたから、両手でしつかりその芸者を抱いた。
ここまでは万事が頗すこぶる理想的に発展したが、遺憾ながら抱だくと同時に、急に胸がむかついて来て、Ｈはその儘その廊下へ甚だ尾びろ籠うながら嘔へ吐どを吐いてしまつた。しかしその瞬間に彼の鼓こま膜くは﹁私はＸ子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴﹂と云ふ宛ゑん転てんたる嬌けう声せいを捕へる事が出来た。さうしてそれを耳にすると共に、彼は恰あたかも天使の楽がく声せいを聞いた聖セエ徒ントのやうに昏こん々こんとして意識を失つてしまつたのである。
Ｈは翌日の午前十時頃になつて、やつと正しや気うきに返る事が出来た。彼はその御茶屋の一室で厚い絹けん布ぷの夜具に包まれて、横になつてゐる彼自身を見出した時、すべてが恰あたかも一世紀以前の出来事の如く感ぜられた。が、その中でも自分に接吻した芸者の姿ばかりは歴々として眼底に浮んで来た。今夜にもここへ来て、あの芸者に口をかけたら、きつと何を措おいても飛んで来るのに違ひない。彼はさう思つて、勢ひよく床の中から躍り出た。が、酒に洗はれた彼の頭脳には、どうしてもその芸者の名が浮んで来ない。名前もわからない芸者に口がかけられないのは、まだ日本の土を踏んで間まもない彼と雖いへども明白である。彼は床の上に坐つた儘、着換をする元気も失つて、悵ちや然うぜんと徒いたづらに長い手足を見廻した。――
﹁だから、その晩の下げそ足くふ札だを一枚貰つて来たんだ。これだつてあの芸者の記スヴ念ニイ品ルにや違ひない。﹂
Ｈはかう云つて、吸すゐ物もの椀わんを下に置くと、松の内にも似合はしくない、寂しさうな顔をしながら、仔しさ細いらしく鼻眼鏡をかけ直した。
漱そう石せき山さん房ばうの秋
夜よさ寒むの細い往わう来らいを爪つま先さき上あがりに上あがつて行ゆくと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電燈がともつてゐるが、柱に掲かかげた標へう札さつの如きは、殆ほとんど有う無むさへも判然しない。門をくぐると砂じや利りが敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛ふん々ぷんとして乱れてゐる。
砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも亦また古ぼけた格かう子し戸どの外ほかは、壁と云はず壁した板みと云はず、悉ことごとく蔦つたに蔽おほはれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼ベ鈴ルの鈕ボタンを探さねばならぬ。それでもやつと呼ベ鈴ルを押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束そく髪はつに結ゆつた女中が一ひと人り、すぐに格子戸の掛け金を外はづしてくれる。玄関の東側には廊らう下かがあり、その廊下の欄らん干かんの外そとには、冬を知らない木とく賊さの色が一面に庭を埋うづめてゐるが、客間の硝ガラ子ス戸を洩もれる電燈の光も、今は其そ処こまでは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先に吊つるした風ふう鐸たくの影も、反かへつて濃くなつた宵よひ闇やみの中に隠されてゐる位である。
硝ガラ子ス戸から客間を覗のぞいて見ると、雨あま漏もりの痕あとと鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天てん井じやうに斑はん々ぱんとまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五ごは羽づ鶴るの毯たんが敷いてあるから、畳の古びだけは分ぶん明みやうでない。この客間の西側︵玄関寄り︶には、更さら紗さの唐から紙かみが二枚あつて、その一枚の上に古こし色よくを帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百ゆ合りのやうな花を繍ぬひとつたのは、津つだ田せい青ふ楓う氏か何かの図案らしい。この唐から紙かみの左右の壁かべ際ぎはには、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺さつ風ぷう景けいな鉄てつ格がう子しの西洋窓の前に大きな紫した檀んの机を据ゑて、その上に硯すずりや筆立てが、紙しけ絹んの類や法ほふ帖でふと一しよに、存ぞん外ぐわい行ぎや儀うぎよく並べてある。その窓を剰あました南側の壁と向うの北側の壁とには、殆ほとんど軸の挂かかつてゐなかつた事がない。蔵ざう沢たくの墨ぼく竹ちくが黄くわ興うこうの﹁文ぶん章しや千うせ古んこ事のこと﹂と挨あい拶さつをしてゐる事もある。木もく庵あんの﹁花はな開ひら万くば国んこ春くのはる﹂が呉ごし昌やう蹟せきの木もく蓮れんと鉢はち合あはせをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安やす井ゐそ曾うた太ら郎う氏の油絵の風景画が、東側の壁には斎さい藤とう与よ里り氏の油絵の艸くさ花ばなが、さうして又北側の壁には明めい月げつ禅ぜん師じの無むげ絃んき琴んと云ふ艸さう書しよの横よこ物ものが、いづれも額になつて挂かかつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅どう瓶へいに梅もどきが、或は青せい磁じに菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。
もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間まへ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐から紙かみも何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此こ処こは板敷で、中央に拡げた方はう一いつ間けんあまりの古ふる絨じゆ毯うたんの外ほかには、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北と二には方うの壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床ゆかの上へ積んである数かずも少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸ぢくだの法ほふ帖でふだの画集だのが雑然と堆うづたかく盛もり上つてゐる。だから中央に敷いた古ふる絨じゆ毯うたんも、四方に並べてある書物のおかげで、派は手でなるべき赤い色が僅わづかばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫した檀んの机があつて、その又机の向うには座ざぶ蒲と団んが二枚重ねてある。銅どう印いんが一つ、石せき印いんが二ふたつ三みつ、ペン皿に代へた竹の茶ちや箕き、その中の万年筆、それから玉ぎよくの文ぶん鎮ちんを置いた一ひと綴つづりの原稿用紙――机の上にはこの外ほかに老らう眼がん鏡きやうが載せてある事も珍しくない。その真まう上へには電燈が煌くわ々うくわうと光を放つてゐる。傍かたはらには瀬せと戸ひ火ば鉢ちの鉄瓶が虫の啼なくやうに沸たぎつてゐる。もし夜よさ寒むが甚しければ、少し離れた瓦ガス斯だ煖ん炉ろにも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後うしろ、二枚重ねた座蒲団の上には、何ど処こか獅し子しを想はせる、背せいの低い半はん白ぱくの老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐たう本ほんの詩集を飜ひるがへしたりしながら、端たん然ぜんと独り坐つてゐる。……
漱そう石せき山さん房ばうの秋の夜よは、かう云ふ蕭せう條でうたるものであつた。
がする程新しい板の面おもてに、俗悪な太い字で﹁雪の十七番﹂と書いてある。自分はその書体を見ると、何な故ぜか両りや国うごくの橋の袂たもとへ店を出してゐる甘あま酒ざけ屋やの赤い荷を思ひ出した。が、元より﹁雪の十七番﹂の因いん縁ねんなぞは心得てゐる筈がなかつた。だからこの蒟こん蒻にや問くも答んだふの雲うん水すゐめいた相手の顔を眺めながら、﹁わからないよ﹂と簡単な返事をした。するとＨは鼻眼めが鏡ねの後うしろから妙な瞬またたきを一つ送りながら、急ににやにや笑ひ出して、
﹁これはね。或芸者の記スヴ念ニイ品ルなんだ。﹂
﹁へへえ、記スヴ念ニイ品ルにしちや又、妙なものを貰つたもんだな。﹂
自分たちの間あひだには、正月の膳ぜんが並んでゐた。Ｈはちよいと顔をしかめながら、屠と蘇その盃さかづきへ口をあてて、それから吸物の椀わんを持つた儘、々びびとしてその下足札の因縁を辯じ出した。――
何なんでもそれによると、Ｈの教師をしてゐる学校が昨きの日ふ赤あか坂さかの或御茶屋で新年会を催もよほしたのださうである。日本に来て間まもないＨは、まだ芸者に愛あい嬌けうを売るだけの修業も積んでゐなかつたから、唯出て来る料理を片つぱしから平たひらげて、差される猪ちよ口くを片つぱしから飲み干してゐた。するとそこにゐた十人ばかりの芸者の中に、始終彼の方はうへ秋しう波はを送る女が一ひと人りあつた。日本の女は踝くるぶしから下を除いて悉ことごとく美しいと云ふＨの事だから、勿論この芸者も彼の眼には美人として映じたのに相違ない。そこで彼も牛ぎう飲いん馬ばし食よくする傍かたはらには時々そつとその女の方を眺めてゐた。
しかし日本語の通じないＨにも、日本酒は遠慮なく作用する。彼は一時間ばかりたつ中うちに、文も字じ通り泥でい酔すゐした。その結果、殆ほとんど座に堪へられなくなつたから、ふらふらする足を踏みしめてそつと障しや子うじの外へ出た。外には閑静な中庭が石いし燈どう籠ろうに火を入れて、ひつそりと竹の暗をつくつてゐる。Ｈは朦もう朧ろうたる酔すゐ眼がんにこの景色を眺めると、如い何かにも日本らしい好いい心もちに浸ひたる事が出来た。が、この日本情調が彼のエキゾテイシズムを満足させたのは、ほんの一瞬間の事だつたらしい。何な故ぜと云ふと彼が廊らう下かへ出るか出ないのに、後あとを追つてするすると裾を引いて来た芸者の一ひと人りが突然彼の頸くびへ抱だきついたからである。さうして彼の酒臭い脣くちびるへ潔いさぎよい接吻をした。勿もち論ろんそれはさつきから、彼に秋波を送つてゐる芸者だつた。彼は大おほいに嬉しかつたから、両手でしつかりその芸者を抱いた。
ここまでは万事が頗すこぶる理想的に発展したが、遺憾ながら抱だくと同時に、急に胸がむかついて来て、Ｈはその儘その廊下へ甚だ尾びろ籠うながら嘔へ吐どを吐いてしまつた。しかしその瞬間に彼の鼓こま膜くは﹁私はＸ子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴﹂と云ふ宛ゑん転てんたる嬌けう声せいを捕へる事が出来た。さうしてそれを耳にすると共に、彼は恰あたかも天使の楽がく声せいを聞いた聖セエ徒ントのやうに昏こん々こんとして意識を失つてしまつたのである。
Ｈは翌日の午前十時頃になつて、やつと正しや気うきに返る事が出来た。彼はその御茶屋の一室で厚い絹けん布ぷの夜具に包まれて、横になつてゐる彼自身を見出した時、すべてが恰あたかも一世紀以前の出来事の如く感ぜられた。が、その中でも自分に接吻した芸者の姿ばかりは歴々として眼底に浮んで来た。今夜にもここへ来て、あの芸者に口をかけたら、きつと何を措おいても飛んで来るのに違ひない。彼はさう思つて、勢ひよく床の中から躍り出た。が、酒に洗はれた彼の頭脳には、どうしてもその芸者の名が浮んで来ない。名前もわからない芸者に口がかけられないのは、まだ日本の土を踏んで間まもない彼と雖いへども明白である。彼は床の上に坐つた儘、着換をする元気も失つて、悵ちや然うぜんと徒いたづらに長い手足を見廻した。――
﹁だから、その晩の下げそ足くふ札だを一枚貰つて来たんだ。これだつてあの芸者の記スヴ念ニイ品ルにや違ひない。﹂
Ｈはかう云つて、吸すゐ物もの椀わんを下に置くと、松の内にも似合はしくない、寂しさうな顔をしながら、仔しさ細いらしく鼻眼鏡をかけ直した。
漱そう石せき山さん房ばうの秋
夜よさ寒むの細い往わう来らいを爪つま先さき上あがりに上あがつて行ゆくと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電燈がともつてゐるが、柱に掲かかげた標へう札さつの如きは、殆ほとんど有う無むさへも判然しない。門をくぐると砂じや利りが敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛ふん々ぷんとして乱れてゐる。
砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これも亦また古ぼけた格かう子し戸どの外ほかは、壁と云はず壁した板みと云はず、悉ことごとく蔦つたに蔽おほはれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼ベ鈴ルの鈕ボタンを探さねばならぬ。それでもやつと呼ベ鈴ルを押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束そく髪はつに結ゆつた女中が一ひと人り、すぐに格子戸の掛け金を外はづしてくれる。玄関の東側には廊らう下かがあり、その廊下の欄らん干かんの外そとには、冬を知らない木とく賊さの色が一面に庭を埋うづめてゐるが、客間の硝ガラ子ス戸を洩もれる電燈の光も、今は其そ処こまでは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先に吊つるした風ふう鐸たくの影も、反かへつて濃くなつた宵よひ闇やみの中に隠されてゐる位である。
硝ガラ子ス戸から客間を覗のぞいて見ると、雨あま漏もりの痕あとと鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天てん井じやうに斑はん々ぱんとまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五ごは羽づ鶴るの毯たんが敷いてあるから、畳の古びだけは分ぶん明みやうでない。この客間の西側︵玄関寄り︶には、更さら紗さの唐から紙かみが二枚あつて、その一枚の上に古こし色よくを帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百ゆ合りのやうな花を繍ぬひとつたのは、津つだ田せい青ふ楓う氏か何かの図案らしい。この唐から紙かみの左右の壁かべ際ぎはには、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺さつ風ぷう景けいな鉄てつ格がう子しの西洋窓の前に大きな紫した檀んの机を据ゑて、その上に硯すずりや筆立てが、紙しけ絹んの類や法ほふ帖でふと一しよに、存ぞん外ぐわい行ぎや儀うぎよく並べてある。その窓を剰あました南側の壁と向うの北側の壁とには、殆ほとんど軸の挂かかつてゐなかつた事がない。蔵ざう沢たくの墨ぼく竹ちくが黄くわ興うこうの﹁文ぶん章しや千うせ古んこ事のこと﹂と挨あい拶さつをしてゐる事もある。木もく庵あんの﹁花はな開ひら万くば国んこ春くのはる﹂が呉ごし昌やう蹟せきの木もく蓮れんと鉢はち合あはせをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安やす井ゐそ曾うた太ら郎う氏の油絵の風景画が、東側の壁には斎さい藤とう与よ里り氏の油絵の艸くさ花ばなが、さうして又北側の壁には明めい月げつ禅ぜん師じの無むげ絃んき琴んと云ふ艸さう書しよの横よこ物ものが、いづれも額になつて挂かかつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅どう瓶へいに梅もどきが、或は青せい磁じに菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。
もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次の間まへ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐から紙かみも何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此こ処こは板敷で、中央に拡げた方はう一いつ間けんあまりの古ふる絨じゆ毯うたんの外ほかには、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北と二には方うの壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下の床ゆかの上へ積んである数かずも少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸ぢくだの法ほふ帖でふだの画集だのが雑然と堆うづたかく盛もり上つてゐる。だから中央に敷いた古ふる絨じゆ毯うたんも、四方に並べてある書物のおかげで、派は手でなるべき赤い色が僅わづかばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫した檀んの机があつて、その又机の向うには座ざぶ蒲と団んが二枚重ねてある。銅どう印いんが一つ、石せき印いんが二ふたつ三みつ、ペン皿に代へた竹の茶ちや箕き、その中の万年筆、それから玉ぎよくの文ぶん鎮ちんを置いた一ひと綴つづりの原稿用紙――机の上にはこの外ほかに老らう眼がん鏡きやうが載せてある事も珍しくない。その真まう上へには電燈が煌くわ々うくわうと光を放つてゐる。傍かたはらには瀬せと戸ひ火ば鉢ちの鉄瓶が虫の啼なくやうに沸たぎつてゐる。もし夜よさ寒むが甚しければ、少し離れた瓦ガス斯だ煖ん炉ろにも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後うしろ、二枚重ねた座蒲団の上には、何ど処こか獅し子しを想はせる、背せいの低い半はん白ぱくの老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐たう本ほんの詩集を飜ひるがへしたりしながら、端たん然ぜんと独り坐つてゐる。……
漱そう石せき山さん房ばうの秋の夜よは、かう云ふ蕭せう條でうたるものであつた。