秋夜
火鉢に炭を継つがうとしたら、炭がもう二つしかなかつた。炭取の底には炭の粉こなの中に、何か木この葉が乾ひ反ぞつてゐる。何ど処この山から来た木の葉か？――今け日ふの夕刊に出てゐたのでは、木き曾そのおん岳たけの初雪も例年よりずつと早かつたらしい。
﹁お父さん、お休みなさい。﹂
古い朱しゆ塗ぬりの机の上には室むろ生ふさ犀いせ星いの詩集が一冊、仮かり綴とじの頁ペエジを開いてゐる。﹁われ筆とることを憂うしとなす﹂――これはこの詩人の歎きばかりではない。今夜もひとり茶を飲んでゐると、しみじみと心に沁みるものはやはり同じ寂しさである。
﹁貞ていや、もう表をしめておしまひなさい。﹂
この呉ご須すの吹きかけの湯のみは十年前まへに買つたものである。﹁われ筆とることを憂しとなす﹂――さう云ふ歎きを知つたのは爾じら来い何年の後のちであらう。湯のみにはとうに罅ひびが入つてゐる。茶も亦またすつかり冷ひえてしまつた。
﹁奥様、湯たんぽを御入れになりますか？﹂
すると何い時つか火鉢の中から、薄い煙が立ち昇つてゐる。何かと思つて火ひば箸しにかけると、さつきの木の葉が煙るのであつた。何ど処この山から来た木の葉か？――この
を嗅かいだだけでも、壁を塞ふさいだ書棚の向うに星月夜の山山が見えるやうである。
﹁そちらにお火はございますか？ わたしもおさきへ休ませて頂ますが。﹂
椎しひの木
椎しひの木の姿は美しい。幹や枝はどんな線にも大きい底力を示してゐる。その上枝を鎧よろつた葉も鋼鉄のやうに光つてゐる。この葉は露つゆ霜じもも落すことは出来ない。たまたま北きた風かぜに煽あふられれば一度に褐色の葉裏を見せる。さうして男らしい笑ひ声を挙げる。
しかし椎の木は野やば蛮んではない。葉の色にも枝ぶりにも何ど処こか落着いた所がある。伝統と教養とに培つちかはれた士人にも恥ぢないつつましさがある。
の木はこのつつましさを知らない。唯冬との※せめ﹇＃﹁門＜兒﹂、332-下-18﹈ぎ合ひに荒荒しい力を誇るだけである。同時に又椎の木は優柔でもない。小こは春る日びと戯たはむれる樟くすの木のそよぎは椎の木の知らない気軽さであらう。椎の木はもつと憂鬱である。その代りもつと着実である。
椎しひの木はこのつつましさの為に我我の親しみを呼ぶのであらう。又この憂鬱な影の為に我我の浮ふは薄くを戒めるのであらう。﹁まづたのむ椎の木もあり夏木こだ立ち﹂――芭ばせ蕉をは二百余年前ぜんにも、椎の木の気質を知つてゐたのである。
椎の木の姿は美しい。殊に日の光の澄んだ空に葉は照でりの深い枝を張りながら、静かに聳えてゐる姿は荘厳に近い眺めである。雄を雄をしい日本の古天才も皆この椎の老おい木きのやうに、悠悠としかも厳粛にそそり立つてゐたのに違ひない。その太い幹や枝には風雨の痕あとを残した儘。……
なほ最後につけ加へたいのは、我我の租先は杉の木のやうに椎の木をも神と崇あがめたことである。
虫干
この水みづ浅あさ黄ぎの帷かた子びらはわたしの祖おほ父ぢの着た物である。祖父はお城のお奥おく坊ぼう主ずであつた。わたしは祖父を覚えてゐない。しかしその命めい日にち毎ごとに酒を供そなへる画ぐわ像ざうを見れば、黒くろ羽はぶ二た重への紋もん服ぷくを着た、何ど処こか一いつ徹てつらしい老人である。祖父は俳諧を好んでゐたらしい。現に古い手てび控かへの中にはこんな句も幾つか書きとめてある。
﹁脇わき差ざしも老には重き涼みかな﹂
︵おや。何か映うつつてゐる！ うつすり日のさした西にし窓まどの障子に。︶
その小こも紋んの女をん羽なば織おりはわたしの母が着た物である。母もとうに歿してしまつた。が、わたしは母と一しよに汽車に乗つた事を覚えてゐる。その時の羽織はこの小紋か、それともあの縞しまの御お召めしか？ ――兎とに角かく母は窓を後うしろにきちりと膝を重ねた儘、小さい煙きせ管るを啣くはへてゐた。時時わたしの顔を見ては、何も云はずにほほ笑ゑみながら。
︵何かと思へば竹の枝か、今こと年し生えた竹の枝か。︶
この白しろ茶ちやの博はか多たの帯は幼いわたしが締めた物である。わたしは脾ひよ弱わい子供だつた。同時に又早熟な子供だつた。わたしの記憶には色の黒い童女の顔が浮んで来る。なぜその童女を恋ふやうになつたか？ 現在のわたしの眼から見れば、寧むしろ醜みにくいその童女を。さう云ふ疑問に答へられるものはこの一筋の帯だけであらう。わたしは唯樟しや脳うなうに似た思ひ出のを知るばかりである。
︵竹の枝は吹かれてゐる。娑しや婆ばか界いの風に吹かれてゐる。︶
線香
を嗅かいだだけでも、壁を塞ふさいだ書棚の向うに星月夜の山山が見えるやうである。
﹁そちらにお火はございますか？ わたしもおさきへ休ませて頂ますが。﹂
椎しひの木
椎しひの木の姿は美しい。幹や枝はどんな線にも大きい底力を示してゐる。その上枝を鎧よろつた葉も鋼鉄のやうに光つてゐる。この葉は露つゆ霜じもも落すことは出来ない。たまたま北きた風かぜに煽あふられれば一度に褐色の葉裏を見せる。さうして男らしい笑ひ声を挙げる。
しかし椎の木は野やば蛮んではない。葉の色にも枝ぶりにも何ど処こか落着いた所がある。伝統と教養とに培つちかはれた士人にも恥ぢないつつましさがある。の木はこのつつましさを知らない。唯冬との※せめ﹇＃﹁門＜兒﹂、332-下-18﹈ぎ合ひに荒荒しい力を誇るだけである。同時に又椎の木は優柔でもない。小こは春る日びと戯たはむれる樟くすの木のそよぎは椎の木の知らない気軽さであらう。椎の木はもつと憂鬱である。その代りもつと着実である。
椎しひの木はこのつつましさの為に我我の親しみを呼ぶのであらう。又この憂鬱な影の為に我我の浮ふは薄くを戒めるのであらう。﹁まづたのむ椎の木もあり夏木こだ立ち﹂――芭ばせ蕉をは二百余年前ぜんにも、椎の木の気質を知つてゐたのである。
椎の木の姿は美しい。殊に日の光の澄んだ空に葉は照でりの深い枝を張りながら、静かに聳えてゐる姿は荘厳に近い眺めである。雄を雄をしい日本の古天才も皆この椎の老おい木きのやうに、悠悠としかも厳粛にそそり立つてゐたのに違ひない。その太い幹や枝には風雨の痕あとを残した儘。……
なほ最後につけ加へたいのは、我我の租先は杉の木のやうに椎の木をも神と崇あがめたことである。
虫干
この水みづ浅あさ黄ぎの帷かた子びらはわたしの祖おほ父ぢの着た物である。祖父はお城のお奥おく坊ぼう主ずであつた。わたしは祖父を覚えてゐない。しかしその命めい日にち毎ごとに酒を供そなへる画ぐわ像ざうを見れば、黒くろ羽はぶ二た重への紋もん服ぷくを着た、何ど処こか一いつ徹てつらしい老人である。祖父は俳諧を好んでゐたらしい。現に古い手てび控かへの中にはこんな句も幾つか書きとめてある。
﹁脇わき差ざしも老には重き涼みかな﹂
︵おや。何か映うつつてゐる！ うつすり日のさした西にし窓まどの障子に。︶
その小こも紋んの女をん羽なば織おりはわたしの母が着た物である。母もとうに歿してしまつた。が、わたしは母と一しよに汽車に乗つた事を覚えてゐる。その時の羽織はこの小紋か、それともあの縞しまの御お召めしか？ ――兎とに角かく母は窓を後うしろにきちりと膝を重ねた儘、小さい煙きせ管るを啣くはへてゐた。時時わたしの顔を見ては、何も云はずにほほ笑ゑみながら。
︵何かと思へば竹の枝か、今こと年し生えた竹の枝か。︶
この白しろ茶ちやの博はか多たの帯は幼いわたしが締めた物である。わたしは脾ひよ弱わい子供だつた。同時に又早熟な子供だつた。わたしの記憶には色の黒い童女の顔が浮んで来る。なぜその童女を恋ふやうになつたか？ 現在のわたしの眼から見れば、寧むしろ醜みにくいその童女を。さう云ふ疑問に答へられるものはこの一筋の帯だけであらう。わたしは唯樟しや脳うなうに似た思ひ出のを知るばかりである。
︵竹の枝は吹かれてゐる。娑しや婆ばか界いの風に吹かれてゐる。︶
線香
わたしは偶然垂たれ布ぬのを掲かかげた。……
妙に薄曇つた六月の或朝。
八はち大だい胡こと同うの妓ぎゐ院んの或部屋。
垂たれ布ぬのを掲げた部屋の中には大きい黒こく檀たんの円テエ卓ブルに、美しい支し那なの少女が一ひと人り、白びや衣くえの両りや肘うひぢをもたせてゐた。
わたしは無ぶし躾つけを恥ぢながら、もと通り垂れ布を下おろさうとした。が、ふと妙に思つた事には、少女は黙もく然ねんと坐つたなり、頭の位置さへも変へようとしない。いや、わたしの存在にも全然気のつかぬ容よう子すである。
わたしは少女に目を注そそいだ。すると少女は意外にも幽かすかに
をとざしてゐる。年は十五か十六であらう。顔はうつすり白おし粉ろいを刷はいた、眉まゆの長い瓜うり実ざね顔がほである。髪は水色の紐に結むすんだ、日本の少女と同じ下げ髪、着てゐる白びや衣くえは流行を追つた、仏フラ蘭ン西スの絹か何からしい。その又柔かな白衣の胸には金ダイ剛アモ石ンドのブロオチが一つ、水水しい光を放つてゐる。
少女は明めいを失つたのであらうか？ いや、少女の鼻のさきには、小さい銅の蓮れん華げの香かう炉ろに線香が一本煙つてゐる。その一本の線香の細さ、立ち昇る煙のたよたよしさ、――少女は勿もち論ろん目を閉ぢたなり、線香の薫かほりを嗅かいでゐるのである。
わたしは足音を盗みながら、円テエ卓ブルの前へ歩み寄つた。少女はそれでも身ぢろぎをしない。大きい黒檀の円テエ卓ブルは丁ちや度うど澄み渡つた水のやうに、ひつそりと少女を映うつしてゐる。顔、白びや衣くえ、金ダイ剛アモ石ンドのブロオチ――何一つ動いてゐるものはない。その中に唯線香だけは一点の火をともした先に、ちらちらと煙を動かしてゐる。
少女はこの一いつ
の香かうに清せい閑かんを愛してゐるのであらうか？ いや、更に気をつけて見ると、少女の顔に現れてゐるのはさう云ふ落着いた感情ではない。鼻びよ翼くは絶えず震えてゐる。脣くちびるも時時ひき攣つるらしい。その上ほのかに静じや脈うみやくの浮いた、華きや奢しやな顳こめ
のあたりには薄い汗さへも光つてゐる。……
わたしは咄とつ嗟さに発見した。この顔に漲みなぎる感情の何かを！
妙に薄曇つた六月の或朝。
八はち大だい胡こと同うの妓院の或部屋。
わたしはその後ご、幸か不幸か、この美しい少女の顔程、病的な性慾に悩まされた、いたいたしい顔に遇あつたことはない。
日本の聖母
山やま田だ右ゑ衛も門さ作くは天あま草くさの海べに聖母受じゆ胎たいの油あぶ画らゑを作つた。するとその夜よ聖母﹁まりや﹂は夢の階段を踏みながら、彼の枕もとへ下くだつて来た。
﹁右ゑ衛も門さ作く！ これは誰の姿ぢや？﹂
﹁まりや﹂は画ゑの前に立ち止まると、不服さうに彼を振り返つた。
﹁あなた様のお姿でございます。﹂
﹁わたしの姿！ これがわたしに似てゐるであらうか、この顔の黄色い娘が？﹂
﹁それは似て居らぬ筈でございます。――﹂
右ゑ衝も門さ作くは叮てい嚀ねいに話しつづけた。
﹁わたしはこの国の娘のやうに、あなた様のお姿を描かき上げました。しかもこれは御覧の通り、田たう植ゑの装しや束うぞくでございます。けれども円ゑん光くわうがございますから、世の常の女によ人にんとは思はれますまい。
﹁後うしろに見えるのは雨あま上あがりの水すゐ田でん、水田の向うは松山でございます。どうか松山の空にかかつた、かすかな虹にじも御覧下さい。その下には聖霊を現す為に、珠じゆ数ず懸かけ鳩はとが一羽飛んで居ります。
﹁勿論かやうなお姿にしたのは御ぎよ意いに入らぬことでございませう。しかしわたしは御承知の通り、日本の画ゑ師しでございます。日本の画師はあなた様さへ、日本人にする外ほかはございますまい。何なんとさやうではございませんか？﹂
﹁まりや﹂はやつと得とく心しんしたやうに、天上の微びせ笑うを輝かせた。それから又星月夜の空へしづしづとひとり昇つて行つた。……
玄関
わたしは夜よさ寒むの裏通りに、あかあかと障子へ火の映うつつた、或家の玄関を知つてゐる。玄関を、――が、その蝦えぞ夷ま松つの格かう子し戸どの中へは一いつ遍ぺんも足を入れたことはない。まして障子に塞ふさがれた向うは全然未知の世界である。
しかしわたしは知つてゐる。その玄関の奥の芝居を。涙さへ催させる人生の喜劇を。
去年の夏、其そ処こにあつた老人の下げ駄たは何ど処こへ行つたか？
あの古い女の下駄とあの小さい女の子の下駄と――あれは何い時つも老人の下駄と履くつ脱ぬぎの石にあつたものである。
しかし去年の秋の末には、もうあの靴や薩さつ摩ま下駄が何ど処こからか其そ処こへはひつて来た。いや、履はき物ばかりではない。幾度もわたしを不快にした、あの一本の細巻きの洋かう傘もり！ わたしは今でも覚えてゐる。あの小さい女の子の下駄には、それだけ又同情も深かつたことを。
最後にあの乳うば母ぐる車ま！ あれはつい四五日前まへから、格かう子し戸どの中にあるやうになつた。見給へ、男女の履はき物の間におしやぶりも一つ落ちてゐるのを。
わたしは夜寒の裏通りに、あかあかと障子へ火の映うつつた、或家の玄関を知つてゐる。丁ちや度うどまだ読まない本の目もく次じだけざつと知つてゐるやうに。
︵大正十一年十二月︶
をとざしてゐる。年は十五か十六であらう。顔はうつすり白おし粉ろいを刷はいた、眉まゆの長い瓜うり実ざね顔がほである。髪は水色の紐に結むすんだ、日本の少女と同じ下げ髪、着てゐる白びや衣くえは流行を追つた、仏フラ蘭ン西スの絹か何からしい。その又柔かな白衣の胸には金ダイ剛アモ石ンドのブロオチが一つ、水水しい光を放つてゐる。
少女は明めいを失つたのであらうか？ いや、少女の鼻のさきには、小さい銅の蓮れん華げの香かう炉ろに線香が一本煙つてゐる。その一本の線香の細さ、立ち昇る煙のたよたよしさ、――少女は勿もち論ろん目を閉ぢたなり、線香の薫かほりを嗅かいでゐるのである。
わたしは足音を盗みながら、円テエ卓ブルの前へ歩み寄つた。少女はそれでも身ぢろぎをしない。大きい黒檀の円テエ卓ブルは丁ちや度うど澄み渡つた水のやうに、ひつそりと少女を映うつしてゐる。顔、白びや衣くえ、金ダイ剛アモ石ンドのブロオチ――何一つ動いてゐるものはない。その中に唯線香だけは一点の火をともした先に、ちらちらと煙を動かしてゐる。
少女はこの一いつの香かうに清せい閑かんを愛してゐるのであらうか？ いや、更に気をつけて見ると、少女の顔に現れてゐるのはさう云ふ落着いた感情ではない。鼻びよ翼くは絶えず震えてゐる。脣くちびるも時時ひき攣つるらしい。その上ほのかに静じや脈うみやくの浮いた、華きや奢しやな顳こめのあたりには薄い汗さへも光つてゐる。……
わたしは咄とつ嗟さに発見した。この顔に漲みなぎる感情の何かを！
妙に薄曇つた六月の或朝。
八はち大だい胡こと同うの妓院の或部屋。
わたしはその後ご、幸か不幸か、この美しい少女の顔程、病的な性慾に悩まされた、いたいたしい顔に遇あつたことはない。
日本の聖母
山やま田だ右ゑ衛も門さ作くは天あま草くさの海べに聖母受じゆ胎たいの油あぶ画らゑを作つた。するとその夜よ聖母﹁まりや﹂は夢の階段を踏みながら、彼の枕もとへ下くだつて来た。
﹁右ゑ衛も門さ作く！ これは誰の姿ぢや？﹂
﹁まりや﹂は画ゑの前に立ち止まると、不服さうに彼を振り返つた。
﹁あなた様のお姿でございます。﹂
﹁わたしの姿！ これがわたしに似てゐるであらうか、この顔の黄色い娘が？﹂
﹁それは似て居らぬ筈でございます。――﹂
右ゑ衝も門さ作くは叮てい嚀ねいに話しつづけた。
﹁わたしはこの国の娘のやうに、あなた様のお姿を描かき上げました。しかもこれは御覧の通り、田たう植ゑの装しや束うぞくでございます。けれども円ゑん光くわうがございますから、世の常の女によ人にんとは思はれますまい。
﹁後うしろに見えるのは雨あま上あがりの水すゐ田でん、水田の向うは松山でございます。どうか松山の空にかかつた、かすかな虹にじも御覧下さい。その下には聖霊を現す為に、珠じゆ数ず懸かけ鳩はとが一羽飛んで居ります。
﹁勿論かやうなお姿にしたのは御ぎよ意いに入らぬことでございませう。しかしわたしは御承知の通り、日本の画ゑ師しでございます。日本の画師はあなた様さへ、日本人にする外ほかはございますまい。何なんとさやうではございませんか？﹂
﹁まりや﹂はやつと得とく心しんしたやうに、天上の微びせ笑うを輝かせた。それから又星月夜の空へしづしづとひとり昇つて行つた。……
玄関
わたしは夜よさ寒むの裏通りに、あかあかと障子へ火の映うつつた、或家の玄関を知つてゐる。玄関を、――が、その蝦えぞ夷ま松つの格かう子し戸どの中へは一いつ遍ぺんも足を入れたことはない。まして障子に塞ふさがれた向うは全然未知の世界である。
しかしわたしは知つてゐる。その玄関の奥の芝居を。涙さへ催させる人生の喜劇を。
去年の夏、其そ処こにあつた老人の下げ駄たは何ど処こへ行つたか？
あの古い女の下駄とあの小さい女の子の下駄と――あれは何い時つも老人の下駄と履くつ脱ぬぎの石にあつたものである。
しかし去年の秋の末には、もうあの靴や薩さつ摩ま下駄が何ど処こからか其そ処こへはひつて来た。いや、履はき物ばかりではない。幾度もわたしを不快にした、あの一本の細巻きの洋かう傘もり！ わたしは今でも覚えてゐる。あの小さい女の子の下駄には、それだけ又同情も深かつたことを。
最後にあの乳うば母ぐる車ま！ あれはつい四五日前まへから、格かう子し戸どの中にあるやうになつた。見給へ、男女の履はき物の間におしやぶりも一つ落ちてゐるのを。
わたしは夜寒の裏通りに、あかあかと障子へ火の映うつつた、或家の玄関を知つてゐる。丁ちや度うどまだ読まない本の目もく次じだけざつと知つてゐるやうに。
︵大正十一年十二月︶