鏡花泉先生は古今に独歩する文宗なり。先生が俊しゆ爽んさうの才、美人を写して化を奪ふや、太たい真しん閣かく前ぜん、牡ぼた丹んに芬ふん芬ふんの香を発し、先生が清超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒すう湛たん宅外、楊柳に啾しう啾しうの声を生ずるは已すでに天下の伝称する所、我等亦多言するを須もちひずと雖いえども、其の明治大正の文芸に羅ロマ曼ン主義の大道を打開し、艶えんは巫ふざ山んの雨意よりも濃に、壮は易水の風色よりも烈なる鏡花世界を現出したるは啻ただに一代の壮挙たるのみならず、又実に百世に炳へい焉えんたる東西芸げい苑えんの盛観と言ふ可し。
先生作る所の小説戯曲随筆等、長短錯さく落らくとして五百余編。経けいには江戸三百年の風流を呑どん却きやくして、万変自ら寸心に溢れ、緯ゐには海東六十州の人情を曲尽して、一息忽ち千載に通ず。真に是れ無縫天上の錦衣。古は先生の胸中に輳あつまつて藍らん玉ぎよく愈温おん潤じゆんに、新は先生の筆下より発して蚌ぼう珠しゆ益粲さん然ぜんたり。加しか之のみならず先生の識見、直ちに本来の性情より出で、夙つとに泰西輓ばん近きんの思想を道破せるもの勘すくなからず。其の邪を罵り、俗を嗤わらふや、一片氷雪の気天外より来り、我等の眉び宇うを撲うたんとするの概あり。試みに先生等身の著作を以て仏フラ蘭ンス西ロ羅マ曼ン主義の諸大家に比せんか、質は天けいてん七宝の柱、メリメエの巧を凌駕す可ベく、量は抜地無憂の樹、バルザツクの大に肩けん随ずゐす可し。先生の業亦また偉おほいなる哉。
先生の業の偉いなるは固もとより先生の天質に出づ。然りと雖いへども、其一半は兀こつ兀こつ三十余年の間、文学三ざん昧まいに精進したる先生の勇猛に帰せざる可からず。言ふを休めよ、騒人清閑多しと。痩そう容よう豈あに詩し魔まの為のみならんや。往昔自然主義新に興り、流俗の之に雷同するや、塵じん霧む屡しばしば高鳥を悲しましめ、泥でい沙さ頻しきりに老龍を困しましむ。先生此逆境に立ちて、隻手羅ロマ曼ン主義の頽たい瀾らんを支へ、孤こせ節つ紅こう葉えふ山人の衣鉢を守る。轗かん軻か不遇の情、独往大歩の意、倶ともに相見するに堪たへたりと言ふ可し。我等皆心しん織しき筆ひつ耕かうの徒、市に良りや驥うきの長鳴を聞いて知己を誇るものに非ずと雖いへども、野に白鶴の廻くわ飛いひを望んで壮志を鼓こせること幾回なるを知らず。一朝天風妖えう氛ふんを払ひ海内の文章先生に落つ。噫ああ、嘘、先生の業、何ぞ千万の愁うれひ無くして成らんや。我等手を額ひたひに加へて鏡花楼上の慶雲を見る。欣きん懐くわい破願を禁ず可からずと雖いへども、眼底又涙無き能はざるものあり。
先生今﹁鏡花全集﹂十五巻を編し、巨きよ霊れい神しん斧ふの痕あとを残さんとするに当り我等知を先生に辱かたじけなうするもの敢て劣せんれつの才を以て参さん丁てい校かう対つゐの事に従ふ。微力其任に堪へずと雖も、当代の人目を聳しよ動うどうしたる雄篇鉅くさ作くは問ふを待たず、治あまねく江湖に散さん佚いつせる万ばん顆くわの零れい玉ぎよく細さい珠しゆを集め、一も遺ゐろ漏う無からんことを期せり。先生が独造の別べつ乾けん坤こん、恐らくは是より完まつたからん乎。古人曰﹁欲きは窮まら千んと里ほつ眼すせ更んり上のめ一さら層にい楼つそうろうをのぼらん﹂と。博雅の君子亦﹁鏡花全集﹂を得て後、先生が日光晶徹の文、哀あい歓くわ双んさ双うさう人じん生せいを照らして、春水欄前に虚きよ碧へきを漾ただよはせ、春水雲外に乱らん青せいを畳める未曾有の壮観を恣ほしいままにす可し。若し夫れ其大略を知らんと欲せば、﹁鏡花全集﹂十五巻の目録、悉ことごとく載せて此文後に在り。仰ぎ願くは瀏りう覧らんを賜へ。
︵大正十四年三月︶