藤の森が男で、稲荷が女であると言ふ事は、よく聞いた話である。後の社の鑰カギ取りとも、奏者とも言ふべき狐を、命婦と言うたことも、神にあやかつての性的称呼と見るべきで、後三条の延久三年、雌雄両狐に命婦の名を授けられたなど言ふ話は、こじつけとは言へ、あまりに不細工な出来である。
今日の稲荷社では、なぜか、命婦を一社と考へたがる傾きが見える様だが、色葉字類抄に中ノ宮ノ命婦とあるのは、上下の社にも、命婦のあつたことを、暗示してゐると見るのが、順当な解釈らしく思はれる。又、事実に於ても、今も上社に命婦社があり、奥ノ命婦と言ふ名目まで、同社に伝はる﹁天正の記﹂と言ふ物には、見えてゐるさうである。明月記・後鳥羽院御記・業資王記などの、稲荷詣での記事の抜き書きで見ても、必しも一社とは、見られぬ命婦社の名が、散らばつてゐる。
身柄はさのみよくもなくて、世馴れた顔にさかしらだつて後宮に立ち交る古女房みやうぶのおもとの名は、此滑稽味を持つた眷属殿には、事実、うつてつけのあざ名である。
此奏者の筈の命婦社の勢力が侮られぬものとなり、一山荼ダ吉キ尼ニ化の傾向を示したのは、後期王朝中葉からの流行と見える。かの天部の呪法の影響であらう。冒涜の嫌ひはあるが、稲荷、東寺のくされ縁は、此処にも見えるのである。狐媚盛んに世に行はれ、福利の神と迄なり上つたのは、荼吉尼法の功徳を説いた、東寺真言の手が見える様に思はれる。
軒端を貸した秦の氏神が、母屋までもとられて、山を降つたものとすれば、客マラ人ウ神ドは、蓋けだし、其後、命婦の斡旋によつて、愈いよいよ、動かぬ家あるじとなられた事であらう。
武家の世になつては、命婦・専タウ女メの古フル御ゴタ達チが、公家程には顧みられずなつても、尚様々の霊異を現した事であらう。
此山の眷属の為に、呪はしかつたことは、応仁二年の兵火である。一山を焼き尽して、御ゴタ達チの住みかの古穴も、安んじ難い火宅となつた。
倖にも、其前年六月に、山籠りした世阿弥の弟子の禅竹は、ゆくりなくも命婦ら一部の、漂浪の痕を辿るべき書き物︵禅竹文正応仁記︶を残して置いてくれた。文章は神韻渺たるものであるが、当方に入り用な処だけをとると、上社・中社とも、命婦社があり、上の命婦は尾ヲサ薄キ明神、中のは黒尾と言うて、二つながら、石をば神体とした。尾薄社の本地は聖天で﹁是則伊勢にてまします﹂とある。石を神体と言ふ事、狂言の﹁石神﹂などを見ても知れる如く、石其物を拝むと言ふより、石に仮托した動物の霊魂を崇めてゐる、と考へる方がよさゝうである。其に又、石其物が命婦であるといふのは、如何に望夫石論者の中山氏でも、忌避せられるところであらう。夢覚めて狐の尾が手に止つたのを、験ゲンあるしるしとしたと言ふ民譚は、王朝末に尠からず見える。狐とし言へば、直に、尾を聯想した時代に生れたのが、此尾薄・黒尾の命婦たちなのであらう。尾が裂けてゐたからなのなら、他動にをさきとは言はぬ訣で、屡しばしば、人の手に尾を裂いて残すなど言ふ考へを、含めてゐるのではあるまいか。
応仁の焼亡の後、尾薄命婦の社も、或は黒尾も此まで同様、祠は建てられなくなつて、神体の石ばかりが残つて居り、再、稲荷の社が興隆した頃には、名も存在も、人から忘れ去られて、さしもの命婦たちも、荼吉尼を呪ジユする験者に誘はれて、旅の空にさすらひ出で、鄙のすまひに衰へては、験者の末流を汲む輩の手さきに使はれて、官奪メされた野狐となり、いづなの輩に伍して、思はぬ迷惑を人々にかけたことであらう。今日尚、をさきもち・をさき筋など言ふ家々の祖先には、或は、是非なく﹁山出で﹂をした命婦たちと、合体してゐた験者のひこのやしやごの、其又ひこなど言ふてあひが、あるのかも知れぬ。