一
古代の文章の特徴と云ふと、誰しも対句・畳句・枕詞・譬喩などを挙げる。私はかういふ順序で話して行きたい。
対句―――畳句
↓
譬喩 → 枕詞 ← 序歌
↑
└──────┐
│
矚目発想――待想独白――象徴
↓
譬喩 → 枕詞 ← 序歌
↑
└──────┐
│
矚目発想――待想独白――象徴
畳句は不整頓な対句であつて、対句は鮮やかに相等を感ぜさせる畳句である。其起りは神憑ツきの狂乱時の言語にあることは、他に言うた。気分に於て、ほゞ思考の向きは知れて居ても、発想するまでに熟せない時に、何がなしに語ことばをつけると言ふ律文の根本出発点からして、此句法を用ゐることがやはり便利に感ぜられて来る。対照して言ふ中に、段々考への中核に入り込んで行くからである。元々其意識なしに行ひながら、自然あちら側こちら側と言ふ風に、言ひかへて見る訣になるのであるから。同義語を盛んに用ゐる必要のある処から、言語の微細な区別を考へることに進んで来た。
又、どうすればある語に対偶が出来るかと言ふ簡単な努力が外界の物の似よりとけぢめを明らかに考へさせて行く。
更に、ある思想を幾色に言ひわける事が出来るかなど言ふ事を暗に練習させて来た。
併し古代には、此等の努力が意識せられた技巧でなく、無意識に口から出任せに出て来たのである。其は、狂ひの力が、技巧を超越するからである。第三段になつて、意識的に対句を据ゑることになつても、後世の人の様に苦心をせない。似より・似よらずに係らず、見た目・言ふ語で、対象に立てゝ行くのだから、比較を失したものは差別の対照となり、比較の叶うたものは同等の比較となる。
対句は内容の対偶を出発点として、段々形式一遍に流れて、無理にも対立形式を整へることになる。畢竟狂ひの時の心のくどくて周到に働く心持ちが、繰り返しをして、若しあるかも知れぬ不足を補はうとするのである。
三・四の句は、内面には対句となつてゐる。外側は、一・二句と三・四句とが対句の形をとつて居る。かうした二つの部分に分れる形が、両方片手に延びて、頭勝ち尻太になつて、不整頓なものになる。併し、部分々々に対句を求めようとする心は見える。
をとめの 床の辺に、わがおきし劔の大刀。その大刀はや(景行記)
第五句は、上四句に対しての対句なのである。対句が意識せられて来ると、段々
尾張に直タヾに向へる、尾ヲ津ツの崎なる一つ松、あせを。ひとつ松 人にありせば、大刀佩ハけましを。衣キヌ着せましを。一つ松、あせを︵景行記︶
やすみしゝわが大君の、朝戸にはいより立たし、夕戸にはいよりたゝす 脇づきが下の板にもが。あせを(雄略記)
と言ふ様なものになつて、対句としての意味なく、単なる囃し詞になつた。此歌などは、対句としても長くなつて来たもので、朝夕の違ひだけで対句としての位置を音脚に占めるので、畳句と言うてもよいのだ。
道にあふや、尾代 の子。天にこそ聞えずあらめ。国には聞えてな(雄略紀)
前のは一句で対句を作つてゐるのに対して、此は二句で形式の整うた対句を拵へてゐる。
もゝしきの大宮人は、鶉とり領ヒ巾レとりかけて、まなばしらをゆきあへ、には雀うずゝまりゐて、今日もかもさかみづくらし。高光る日の宮人。ことのかたりごとも。こをば︵雄略記︶
こゝになると、内容の対句は形式の対句になつて来る。かうなるのには、寿詞の方から出た理由があるのである。
二
祝福する文章の表現は常に﹁何々の如く何々なるべし﹂と言ふ風の詞を幾つも並べて、対象を﹁ほ﹂にあやからせようとする。根本はとうてむ関係の呪術から﹁何々の威力を持つて何々を守らう﹂とする考へなのであつた。其を、象ホの各方面から解釈し、占あつて言ふ習慣に結びついて来た。家ほき・酒ほきの元は、人命の祝福の﹁ほ﹂を家・酒に求める事だつたのである。其が人と共に家・酒を祝福する事に易かはつて了ふ。家なり酒なりの色んな状態で以て、ほくことになる。各部分の特徴を人命の長久堅固に聯想して理由づけて行く。譬喩を含む対句は寿詞の側から出て発達したものと見られる。だから、古代の歌ではみな譬喩を持つたものは、やはり対句として複譬喩で出来てゐる。
神風の伊勢の海の 大石 に 這ひ廻 ろふ 細螺 の い這ひもとほり、伐ちてしやまむ(神武記)
此は単譬喩の歌である。
……群鳥 の吾が群れ往なば、ひけ鳥のわが引け往なば、泣かじとは汝 は言ふとも、やまとのひと本薄 、うなかぶし汝が泣かさまく、朝雨のさ霧に立たむぞ……(古事記上巻)
神代の歌と伝へるけれど、譬喩としては進んだものである。殊に後の二つは時間も空間も写されて居る。此等は、枕詞と名づけられて居るが、かうした譬喩ばかりから枕詞が出来たとは極められない。
枕詞から序歌が出来たと考へる人が多い。併し、一考を要する。単純から複雑になるのではなくて、世界の理法では、複雑が単純化せられて行くのが、ほんとうである。わりに自由な、かなりの長さの序歌から整うて来たのが、枕詞なのだ。
……さ寝むとは われは思へど、汝が著 せる おすひの裾に つきたちにけり(古事記中巻)
こもりくの泊瀬の川ゆ 流れ来る竹の いくみ竹 よ竹、本べをば箏に造り、末べをば笛に造り、吹き鳴 す御諸 が上に 登り立ちわが見せば、つぬさはふ磐余 の池の みなしたふ 魚も 上に出て歎く(継体紀)
やすみしゝわが大君の、帯ばせる さゝらのみ帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て嘆く(同)
こもりくの泊瀬の川ゆ 流れ来る竹の いくみ竹 よ竹、本べをば箏に造り、末べをば笛に造り、吹き
やすみしゝわが大君の、帯ばせる さゝらのみ帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て嘆く(同)
大部分が事柄と謡との二部に分れた譬喩を持つた短い本文に続く為に使はれ、一つづゝの気分を捉へるまで漫然と語を行つてゐる。其がある語に行き当ると、急に考へが纏つて了ふ。結果から見れば、予定あつてした修辞法に見えるが、元々出任せに詞を聯つらねて行くのである。だから中には紀行か物づくしのやうな物が出来て来る。此が進むと、並べて行く無意味な詞の部分々々に考へを結びつけて、終末に近づいてから思想を一貫させると言ふ風になる。日本の道行きぶり・物尽しの起原は、抑そもそも此処に発して居る。
的確な考へを捉へないで、而もくどい物狂ひの詞が、内容乏しく、呆けた眼に映じ、心に動く事物の介添へで、言ひ方は早いが思想はのろく移つて行く。象徴的ではあつても、要領を得ない文句である。神話の口頭文章に発した修飾法が、さう言ふ発生点を忘れても、かうした発想法を守つて居たのは、やはり考へは詞を述べる中に纏つて来るからである。三題噺その他の話術家の心持ちは、此処にあるのである。
矚目の事は、外景を叙して行く中に、段々考への焦点に入つて来る。気分は描写に転じて来たのだ。だから、一本の木の下枝・中枝・末枝と言ふ風に述べて行く。どこを船で通り、次にはどこの村が見え、其また次にはどこにつき、其先のどこへ行つたといふ風に叙述してゐる中に、描写性が語から促されて出て来る。
ますらをが さつ矢たばさみ 立ち対ひ、射る的方 は、見るにさやけし(万葉巻一)
橘を守 り部 の家の門田早稲 刈る時過ぎぬ。来じとすらしも(万葉巻十)
後の歌などは殊に、約束の秋即稲刈りの時節が過ぎたのに、と言ふ風に見えるが、実は「時」を起すだけなのは極端である。橘を
此なども、耽美派の真淵は、浪さへ処女を讃へに来たと言ふ風に誤解した程であるが、唯﹁とゞろに﹂を起す為の譬喩序歌である。
かうした方法が段々簡潔になり、譬喩としての効果を確実に持つて、枕詞が定まつて来たのである。譬喩でも、内容側より、語だけの譬喩が先だち、譬喩よりもある語・ある音を起すと言ふ形が古い様である。枕詞の成立には色々あるが、古い枕詞はある音を起す為のものである。其からある意味を持つたものとしての語に係る様になつて来る。長短で時代を分けることは出来ないが、大体に於てまづ此区別はある。
古いものほど、意味に関係なく、短い音を呼び起すことになつてゐる。即、序歌の小さくなつた形である。前の万葉の歌などは、其だ。其も、固定した枕詞が出来るまでには、かなり年代を経て居るので、今の合理観には這入つて来ないのも道理である。
枕詞と認められてゐるもので、元は違ふ筈のものがある。地名を重ねたもの、単なる修飾句、皆今は枕詞として扱はれてゐるが、序歌と聯絡のあるものが正統とすれば、此は別のものと考へた方がよい。唯其中、混同せられて厳重な意味の枕詞になつてゐるのもある。﹁石イソノ上カミふるき﹂など言ふのは、地理を表す習慣的の表現が、枕詞として働き出して来たのである。地形を現す語を直に地名とし、移住すれば地名を持つて行くと言つた原因で、同名の分布が多い。其為に、隣国・隣邑の名を連ねて呼ぶので、大地名の下に小地名を並べるのではない。布フ留ルが多いから、石ノ上の傍の布留と言へば間違ひはない。志賀と言うても、筑前にも名高い地があるから、漣サヾナミと地名を連呼する。此は、沖縄には今も行はれてゐる。其でも、地名の方は、連呼法の記憶や実用が乏しく残つた為に、大した混同はなかつた。
枕詞の使用久しくて、其をうける語との結合が密接になりきつてしまふと、枕詞が実質の内容を持つことは、万葉あたりにも見える。たらちね・あをによし・ひさかたなどは、其である。
枕詞は、同音異義を区別する為に出来たと言ふ説をなりたゝす為には、あまりに痕跡もない。だから極めて古い時代に、其実地に行はれた期間を考へ据ゑなければならない。枕詞は段々内容の方に進んで行つて、ひさかたのと言へば、天に属する物には自由につくやうになり、ぬばたまのは黒色の聯想が、夜に及ぶことになつた。
三
枕詞が日常対話に用ゐられたことは、考へられない。託宣の詞に限つてあることであつた。其が、叙事詩・寿詞に結びついて伝誦せられ、民謡・創作詩の時代になつても、修辞部分として重んぜられてゐた。創作詩の時代に、枕詞の新作せられたのもあるが、記紀などに、見えるのは、多く固定した死語として物語の中に伝はつたものである。
社会局の谷口政秀氏は、枕詞は沢山ある物語の心おぼえで、何々枕詞の最初にある物語と言ふ風にして居たのだらうと言はれた。此もおもしろい考へではある。自然さうした為事も出て来たにしても、起りは其では、説明が出来ない様である。
譬喩表現をとり入れてからは、枕詞や序歌は、非常に変化して了うたが、元は単純な尻取り文句の様なものであつたのである。其が内容と関聯する様になると、譬喩に一歩踏み入る事になる。忽たちまち対句の方で発達した譬喩表現に圧倒せられて、姿は易つて了うたが、でも、玉桙・玉マヅ梓サと言へば道・使を聯想したのは、譬喩にばかりもなりきらなかつたのである。駆ハセ使ツカヒに役せられた杖ハセ部ツカヒベの民の持つたしるしの杖を、棒ホコと言ひ、棒の木地から梓と言うたのである。かうしたものは、段々なくなつて、純粋譬喩に傾いたのが、主として人麻呂のした為事であつた。死んだ一様式を文の上に活して来たわけである。
秋葱 の甚重 ごもり 愛 しと思ふ(仁賢紀)
山川に鴛鴦 二つ居て、並 ひよく並 へる妹を。誰か率 にけむ(孝徳紀)
山川に
此等は単に譬喩であつて、古い意味の枕詞ではなかつたであらう。其が、藤原・奈良になると、両方から歩みよつて了うたのである。
枕詞と言ふ語は、後世のものであるが、古い形のものと、新しい形のものとを分けて言ふ場合、おなじく枕詞と言ふ名で扱はれて来たものゝ間にも、区ぎりは置かねばならぬ。枕詞と言ふ名はよくない。唯仮りに用ゐる外はなかつたのだ。だから、枕詞の本体は寧、道行きぶりや、物尽しの方へ伝はつて行つてゐるのであつた。
日本の律文には、古くから﹁比﹂と﹁興﹂とはある点まで分立して進んで居たのであつた。序歌・枕詞の方は、気分を示す方面へ進んだ。
みつ/\し 久米の子らが 粟生 には、かみら一本。其根 がもと、其根芽 つなぎて、伐ちてし止まむ(神武記)
譬喩の様だが、さうではない。そねめつなぎてと続くのでなく、其根芽つながつて居ると言うて、つなぐと言ふ全体と言ふ様な語に転向したのである。
笹葉にうつや霰の たし/″\に率 ねてむ後は、人議 ゆとも(允恭記)
﹁たし〴〵に﹂は擬声から、確実にと言ふ意にふり易へたのだ。
譬喩でない為に、内容と交渉がない。そこに意義を求めようとする無意識の習慣が、気分を受けとることになる。万葉になると、末にはこの点に意識を発してゐる様だが、能動的な運動は見えなかつた。古今になると、枕詞・序歌に描写以上の職能のある事を認め出して、既に濫用に傾かうとしてゐる。最多く比と興とを混用した様な姿になつてゐる。
ふゆごもり 春の大野を焼く人は、やき足らじかも、わが心焚く(万葉集巻七)
此ほどまでになつた譬喩歌は、万葉に発達して、後には一部門をせなくなつた。万葉の末期は譬喩全盛で、枕詞や序歌の様な部分的のでは満足しなくなつた。寄物陳思・譬喩歌の二つの部類が出来たが、比・興と言ふ程の区別もない。稀に象徴的な効果を持つて居るものもあるが、大抵単なる譬喩歌である。
つまりは、元々一文章の大部分を占めて居た部分が小さく約つづまり、其が新しい意義に甦つたことになるのである。
序歌・枕詞につけて言はねばならぬのは、縁語・かけ詞である。
ちはやびと 宇治の渡りに、渡り瀬に立てる梓弓檀弓。射イ発キらむと心は思モへど、射捕らむと心は思へど 本べは君を思ひ出 末べは妹を思ひ出、いらなけくそこに思ひ出、かなしけくこゝに思ひ出、いきらずぞ来る。梓弓檀弓︵応神記︶
弓の材料なる梓と檀とを譬喩に使うたのである。さうして木の縁から、伐る・採るといひ、本べ・末べと聯想してゐる。既に縁語としての為事をしてゐる訣だ。序歌・枕詞の効果が、対立的に現れる時は、縁語が出来る。
武蔵野に占 へ、象 灼 き、まさでにも告らぬ君が名、表 に出にけり(万葉巻十四)
まさは卜象の正しく著しい意の語。其にまさでと言ふ副詞とをかけ、うらは占と顔ウ色ラとをかけた姿になつてゐる。まさ・うらは占ひの縁語であるとも言へよう。無意識であらうが、今一歩進めば、意識に上るのである。万葉にも、既にある部分までは、縁語を技巧視せぬまでも、喜んだ傾向の歌は見える様に思ふ。段々進むと、別様の道を通つた様に見えるが、縁語・かけ詞は此方面からばかり発達したのである。武蔵野の歌は﹁……象灼き﹂まで序歌なので、実際内容には、関係がないが、どうかすれば、武蔵野占法に占うても現れぬ君の名が、まざ〳〵と……言ふ風にとれる。かう言ふ内容に対する考への変化が段々縁語・かけ詞を発達させて、首尾交錯して剖わかつことの出来ないのを特徴とする様な病的な修辞法が出来て来たのである。