一
私は、発生的の見地から日本文学展開の道筋を辿つて居る。さうしてその始まりに於いて、演劇・舞踏・音楽などと共に、宗教衝動から捲き起つて居る事を見た。音楽や舞踊は、外来の理論や、様式をとり込んで、可なり創作も後々には現れて来た。歌謡は存外、様式的には伸びと岐れとを生じないで済んだ。でも音楽心の発達に連れて、やはり多少見るべきものを生じたのも事実である。が、大体に於いて、形は変らず、中身さへ千年から昔の支配を今におき受けて居るのである。
演劇になると、それが殊に甚しい。成立後の田楽・幸若・猿楽・歌舞妓などが、或者は亡び、或者は固定しきつた今日にすら、思ひがけない地方に、原始的な宗教劇が、どうかすればくり返されて居る。一面又一番進んだ猿楽・歌舞妓すら「翁」を舞ひ、「三番叟」を踏まねば、演劇開始の感情が湧いて来ない有様であつたのは、長い以前の事ではなかつた。新しい演劇その物にさへ、かうした古い種が包まれて居たのであつた。
江戸の三座に定例の「脇狂言」があつて、相侵さず相守つて来たのも、座が村を基礎として居た事を示すと共に、農村の宗教行事が演劇の形に進んで行つた事を見せてゐるのである。
社寺に保護せられた奴隷の村に伝承せられて来た、主としては農業関係のまじなひとも言ふべき形の演劇が、社寺以外に行はれる様になり、村を基礎とした座の組織が、次第に専門化し、職業化して行つた。其は猿楽に最著しく見えた事である。さうした事は、俤すらなさ相に見える江戸歌舞妓にすら、信仰行事と農村生活との姿は止めて居るのである。
北越月令――越後風俗
はや物語かたり候。武蔵国安達郡の傍に、いばらみ中村屋勘三とて、万能諸芸に優れたる正直人ニンありけるが、……春の彼岸会に寺の談義を聴くと、善悪貧富も前生に蒔いた種から出るとあつた。では、自分も種を蒔いて栄耀栄華に遊ばうと……前なる畠五六町一夜のうちに掘り返し、日頃たしなみたる謡・乱舞の諸道具残らず、畠へ持ちはこび……残らず畠へ蒔かせたり。又二三日も過ぎければ、蒔きたるなか︵?︶の鳴し物、枝もさけよとなりさがる。勘三見るより小踊りして、そりやこそなつたりさがりたるは。横手を拍つて喜びけり。をりふしそよ〳〵こあらしに数万の枝の鳴し物声を揃ひて鳴りいだす。……夜昼なしに鳴る声は、近郷近在町六七里、そりやこそ中村勘三︵方の意︶には、芝居歌舞妓大神楽、おもふ囃、大をどり一度にあるはと囃し立つ。貴賤群集の市をなし、今の世までも賑やかな日かね︵日金?︶をまうける大舞台は、正直者の子孫。扨こそ勘三、富貴万福栄えたりの物語。
と言ふのを見ると、此だけの事は言へる。
猿若の先祖が江戸に移住してからも、農民としての生活をして居て、時あつて演芸を行うたと言ふ事、尠くともさうした歌舞妓者の生活方法がざらに行はれて居た為に、成立劇場のない中村座︵組合の意︶発生当時の様子をも類推して居たものと考へる事だけはさしつかへがない。
此早物語と言ふのは、屋敷ぼめを原則とした祝言文句の滑稽化したものらしいが、其中に中村座の由緒を語つて居るのゝある理由は、歌舞妓発生当時からあつた早歌――名古屋山三がお国に伝授したと伝へるもの――即、後の江戸歌舞妓に﹁厄払ひ﹂と称へる七五調のつらねの世話がゝつたせりふまはしと関係のあるものらしい。さうして其源流は宴曲まで溯る事が出来る。此早歌が幸若に入つて、ある発達をしたものを、幸若出の歌舞妓最初の関係者が、念仏系統の役者に伝授した事があつたのであらう。其を山三お国に仮託したものと思ふ。早ハヤ歌ウタ並びに唱サウ歌ガについては後にくり返す機会がある。
歌舞妓は、和尚と称する舞踊以外には、居芸を演じて居る女役者と、脇役者とも見える男役者なる立役と、其に対するもどき役なる猿若とを単位として居た様である。此中の猿若役者の中村勘三郎が、中村座の座頭として、村を単位とした演芸組合の頭として、江戸に移住して来たのが、寛永前後の事であらう。
二
江戸歌舞妓に、若衆形の活躍してゐることは、今の人にとつては意想の外である。これを、童売笑の影響とばかり見ることは出来ない。 歌舞妓の原型には、太タイ夫フなる女と立タチ役ヤクと猿若との対立が、単位になつて居た様である。 太夫は、念仏踊りの色彩が濃く残つて居る方面では、をしやう︵和尚︶と称へて居た。女歌舞妓は、お国の念仏踊りの正系である為に、この呼び名で、主役を示す風を保つて居たものと思はれる。これは田舎の崩れた念仏衆の間に通用した呼び名であつたのである。これを太夫と称へ出したのは、念仏踊りにかぶき風が合体した頃からのことである。太夫の名は神事系統のもので、歌舞妓役者等の出身も凡は推測せられる。而も女歌舞妓流行の頃から、和尚の名は段々嫌はれ出したと見えて太夫を称することになつたものと思はれる。その禁止せられて後、これまでの片為事であつた売笑が本業になつたと見える程、時と地域とを限つてのみ、やつと興行が許されることになつた。﹁太夫﹂の呼び名が遊女につく事になつたのは、女歌舞妓の太夫だつたからである。 太夫の名が後世までも、女形を表すことになつてゐるのも、歌舞妓が女を主として居た時代の俤を残して居るのである。若衆形にも通じて太夫名を称へたことがある位で、女形・若衆形の隔りは極めて近いものになつて居る。が、古くは、必しもさうではなかつたらしい。 立タチ役になると、大分面目を異にして居る。後世は、﹁して﹂役になつて居るが、古くは﹁わき﹂役である。わが国の神事舞には、﹁立タチ謡ウタ﹂を原則とするものがあつた様で、幸カウ若ワカ舞マヒなどはとりわけ目につくものだ。此舞では、舞類似の動作をするのは、太夫と称する者で、立謡を務めるものは﹁して﹂と言はれて居る︵高野博士講演︶。さうして、太夫が反ヘン閇バイを踏むに似た様な舞をする外は、太夫﹁して﹂かけあひ、或は同音で謡ふのである。猿楽能にも﹁開カイ口コウ﹂を演ずる場合は、主役と﹁もどき﹂︵まぜ返し役・道化方の源流︶とが、かけあひもし、同音にも謡うた。さうして、﹁開口﹂の主役﹁わき﹂方の表芸になつて居る。かうした﹁立タチ謡ウタ﹂はかけあひから出発したもので、時々は太夫の舞の﹁地ヂ謡﹂にもなり、合唱の形をもとる様になる。だからかうした形のものになると、舞ふ﹁して﹂と謡ふ﹁して﹂とに分れ、形式から言へば、﹁わき﹂に当る者まで、﹁して﹂の名で呼ばれることになるのである。この﹁立謡﹂なる﹁して﹂が舞台の上に動き出すと、役がらは﹁わき﹂に移る訣である。私は立ち役の名は、こゝに起つたものと見てゐる。 お国クニ歌舞妓の場合を例にとつて見ると、名ナゴ護ヤサ屋ンザ山ブ三ラ郎ウは、﹁立謡﹂からわき役に廻つたものであつた。この頃はまだ﹁立役﹂の名が表面に出て居ないが、事実わき役にして立ち役なるものである。山三郎が歌舞妓所作をお国の念仏踊りにつぎ込んだと共に、早歌を供給したことは、既に述べた。山三郎が﹁立ち方﹂から出て、わき役としての所作﹁かぶき﹂を演じたので、其﹁かぶき﹂所作だけは、当時流行した、世間風俗のもの真似を試みたのである。山三郎の表芸は、恐らく﹁立謡﹂を主要部とし、反閇流の舞台漫歩の形を持つた幸若舞にあつたものと思ふ。幸若の舞台踏みの形式に激しい曲折を加へる様にすれば、所謂﹁かぶき﹂所作は出来あがつたのである。歌舞妓の﹁立役﹂は、女歌舞妓若衆歌舞妓が止ヤまり、若衆・女形の勢力が中年役者の手に移つて後、﹁して﹂役の地位をとる事になつたのである。名高かつた若衆が、野ヤラ郎ウア頭タマになつても、まだ片成りの舞子どもには凌がれぬ人気を続けた為と、今一つは元禄に近づいて、舞よりも地狂言を好む傾向が著しくなつて来た処から、中年期に入つた人気役者の、役がらより見れば﹁わき﹂に属するはずの立役ぶりが次第に歓迎せられる様になつて、立役師﹁して﹂役の姿を持つことになつたのである。 日本の神事舞に於いて、歌舞妓以前に見られる古い単位は、更に人数が減つて二つとなる。歌舞妓の語を借りて言へば、太夫と猿サル若ワカとの対立である。この点から見ても、﹁立役﹂は遅れて分れ出たものと言ふ事は知れる。太夫と猿若、もつと砕いて言へば、太夫と才蔵との関係である。太神楽・里神楽で言ふと、太夫と﹁もどき﹂との対立である。宮廷の神楽で言ふと、﹁人ニン長ヂヤウ﹂と﹁才サイ男ノヲ﹂との立ち場にあるものだ。﹁才男﹂が、民間で﹁才蔵﹂と呼び変へられて来た事は、大体疑ひのない事と見てよからう。この﹁才男﹂系統の役方は、どう言ふ成立を持つものか。延年舞・田楽能にも、猿楽の﹁開口﹂の場合とおなじ﹁もどき﹂と言ふ役名は見えて居る。猿楽では多くの場合、﹁もどき﹂が狂言或は﹁をかし﹂と称へ替へられて居る。畢竟、わが国古代の信仰に現れた﹁神﹂と﹁精霊﹂との問答の演劇化したもので、殊に神に容易に服従せないで、神の心に逆らひ、まぜ返しをする精霊の動作が、何時々々までも、わが演劇史の上に印象を残した。其が色々な形で、わが国特有の喜劇式表現法を形づくつたのだ。能楽と歌舞妓との関係が、従来あまり密接に考へられ過ぎて居る。猿若は、能狂言の直系の様に言はれて来たのも無理はないが、今すこし余地を、二つの間に置いて見る必要がある。 猿若は役目の称呼でなく、﹁幸若﹂同様元はやはり人名であつたらう。其役名となり、喜劇︵即狂言︶の代名称に用ゐられ、更に其代表人物として猿若勘三郎が現れるに到つたものと考へる。畢竟、猿若は﹁才蔵﹂であり、﹁もどき﹂であり、﹁才男﹂である。さうして﹁わき﹂役成立以前の﹁して﹂の相方であつた。 猿若勘三郎は、沼津城主の子孫で大蔵流の狂言を習得したものゝ様に伝へるのは、こしらへ事に相違ないが、勘三郎の道化役者であつた事だけは事実である。なぜ、勘三郎の持つた演劇団と成立劇場とを猿若座と称へたか。なぜ又、猿若座が若衆歌舞妓の草わけの様な姿をとつたか。三
江戸時代に発達した﹁歌舞妓﹂の本流は、疑ひもなく神社芸術である。社寺の芸奴なる神人童子の群れを基礎とした組合――座――から発足して居る。而もさうした人々の村が、座の単位になつて居た。
高野斑山博士の元禄歌舞伎傑作集は、近世芸術史を研究する者の読まないでは通れぬ文献集である。この集成をすかして見ると、おなじく神社芸術からとは言へ、それ〴〵別途の発達をした二つの様式を交叉して居る事がわかる。大体の地方別に従へば、江戸と上方とで、歌舞妓の様式が違つた道をとつて進んで居たのである。この二つの流れが落ち合ふ以前に、注ぎこんだ枝川が一つある。
狼藉所作とも命けたい一種の身ぶり狂言である。﹁とつたり﹂から﹁たちまはり﹂が出、劒術が舞踊化して劒舞が出来た様に、狼藉ぶりを﹁ふりごと﹂に近づけようとの試みが見える。﹁丹前﹂﹁六方﹂総じては﹁寛濶ぶり﹂と称すべきもので、市井の無頼の横行する様を誇張した物まねが、其である。
此は江戸側の発生と見られて来た様であるが、もすこし自由な立場から見る方がよい。お国歌舞妓に合体した名古屋山三の芸風には、多量に狼藉ぶりが含まれて居たのであるまいか。其が山三郎最期を伝へる説話からも察せられる。社会の中心に行くには、いつも﹁あこがれ﹂と﹁わらひ﹂とが足並みを揃へて居る。狼藉ぶりが流行した江戸初期前後の芝居が、此処に目をつけるのは、あたりまへである。
﹁傾城買ひ﹂と言ふ歌舞妓の一様式の発達したのは、一面能楽の現世相を描写した現在物から来てゐる。即その狂女物の最興を牽くのは、遊女の狂乱である。歌舞妓の遊女は、狂女物と多少の鬘物との影響を能楽から受け入れて居る。が、直接の原因としては、女歌舞妓禁止後其俤を若衆の上に移したからである。而も女歌舞妓の後進なる遊女の生活の写生に、益念を入れたのに因して居る。だから此方は、大体は狼藉ぶりよりは後の発達である。
上方は傾城買ひ、江戸は荒事と言ふ風に分野のほゞ定まつたのが、元禄歌舞妓の姿であつた。その荒事も実は若衆歌舞妓の半面である所の若衆丹前とも称すべきものゝ散文化し平面的になつたものだと思ふ。而も荒事の要素は、丹前以前からあつて狼藉ぶりの中に出て居る。
江戸歌舞妓を元禄まで引きずつて来た力は、この狼藉ぶりにある。此が﹁傾城買ひ﹂全盛に移るまでの間、世相写実として満悦を催させる事の出来た世間かたぎは、金平其他の浄瑠璃の怪力をとり扱うた点でも知れる。丹前・傾城並行した様に見えるが、実は交叉時代の文献ばかりが数多い為に、さう思はれるに過ぎないのだ。
私のこの話は、歌舞妓狂言の一部分が、狼藉者の手によつて始められ、後にその﹁ふり﹂を摸して行く様になつて、狂言全体の特殊な匂ひを加へる様になつた事を、主として説明したいと思うたのであつた。話の行きがゝりから、﹁ならずもの﹂の歴史をちよつとばかり説かうと思ふ。
江戸の初め百年は、実にならず者全盛の時代である。而も其形を著しく表したのは室町の末である。扶持離れの武士が、個人或は団体としての﹁喧嘩買はう﹂を標語とした一つの破壊運動に気を逸して居た。警察力の手薄い時勢に乗じてかうした浪人を中心に、武家出でないものまでもまじつて横行した。戦国時代に傭兵風の肩持ち軍勢の利用せられたのは事実であつた。其が居ついて、大名には重臣となり、天下とりを助勢したのは、大名にとり立てられたのもあつた。此等の人々の前身は武家の所領を失うたのも、全くの土民も、或は又、漂浪不逞の無籍者もあつた事であらう。
ともかくも﹁らつぱ﹂﹁すつぱ﹂﹁しようり﹂など言はれた輩である。個人としては﹁すり﹂﹁いかさま師﹂の様な都会風の悪事から、田舎わたらひをする者は、高野聖一類の詐偽脅嚇の罪を犯して廻つた。其が団体としては﹁がんだう﹂﹁おしこみ﹂として暴力を振うた。其半面には、統率者に常久的目的があるものには、諸団を渡つて新地を探りあてゝ、そこを開発して住みこむか、又は傭兵の団体として大名の肩持ちすると言ふ風が行はれた。
かうして成り上つた家々が極めて多い。後北条・小早川・蜂須賀は固より、徳川なども此例に洩れない発足点を露して居る。
さうした﹁らつぱ﹂﹁すつぱ﹂の徒の住みついたとなると、統率者と部下との関係は、大名は唯の主従となり、土豪となつたのは、親方子分の旧来の地方生活の姿をとつた。
おなじ非御家人の中にも、右様の土豪は郷士として認められる様になつたが、江戸開府後まで、従前の生活に留つたもの或は、新しく扶持に離れた人たちは、豊臣繁栄の時代には、京大阪に、徳川の世盛りには江戸に流れこんで、新しい扶持にありつかうとした。而も個人的なものばかりでなく、団体的に半主従の形の儘で、多人数浪々したものもあつた。
世が鎮まると共に、武道一遍の成り上りの望みは絶えた。﹁すつぱ﹂の徒にも自意識は高まつて来た。彼等は非御家人の様な形をとつた遊民である。此徒を歌舞妓者或は歌舞妓衆と称へるのは、信長前後から江戸将軍三四代頃まで続いた事実である。﹁かぶき﹂と言ふ語は狼藉の用語例を持つて居たらしい。三田村鳶魚氏は、この方面の最初の注意者である。唯歌舞妓衆を﹁鉄砲衆﹂と言ふ風に解し、その異風行装から芝居を歌舞妓と言ふ風になつたと説かれたのは、考へ薄しである。鉄砲方に歌舞妓者の多かつたのは、鉄砲を武士の表芸とせぬ時代に傭兵の徒の専業となつた事があるのか、其点わからぬが、歌舞妓衆全部が、鉄砲方ではなかつた事は明らかである。﹁かぶき﹂と言ふ名は、無頼の徒の髪形から来たかとも思はれる。其は常州総州に亘つての﹁かぶきり﹂と言ふ方言並びに、稍降つた時代の町奴旗本奴など言ふ﹁奴﹂が、髪の形から出て居るから想像してよい様に思ふ。異風を衒ふ﹁かぶき頭﹂が﹁やつこあたま﹂に変つて行つたものであらう。無頼の徒が﹁かぶきあたま﹂をして居た処から、﹁かぶき﹂が乱暴と言ふ義を持ち、そのかぶき衆の身ぶりをうつした処から、狂言の名目となつたものに違ひはない。
此等の狼藉者の元締めは、元の親方なるすつぱの大将或は主家分散の浪人である。土豪としての生活様式を示す語をその儘、親方親分又は子方子分と称へて、部下を統一し、士分は思ひもかけられぬ望みとしても、せめて仲間日傭の者として、喰ひ扶持にありつかせようとしたのが、人入れ稼業の始りである。其が二代三代交迭する中には純然たる町人としての渡世となりきつたのである。この方面から見るのでなくては、人入れの元締めが何故町奴の親分であるか、又どうして親分子分と言ふ田舎の館と附属の人民とを表す語が、町奴の上に移つたか、その径路は説けないであらう。奴頭に﹁ばさら﹂を競ふのは、時こそ違へ、狼藉無頼の徒の異風を衒ふ点に於いては一つである。一方女歌舞妓が禁じられて、限られた地域に於いて限られた度数だけ興行する事を大目に見て貰ふ様になつたのが、江戸吉原町の始りと見るべきで、売笑よりも狂言を表芸とした事は忘れてはならぬ。遊女の﹁はり﹂﹁いきぢ﹂など言ふ生活態度とも言ふべき伝習的気風は、やはり歌舞妓衆から伝つた﹁ばさら﹂ぶりの内的になつたものである。其道中に踏む八文字は歌舞妓狂言の六方とおなじ発生を持つものである。
歌舞妓狂言興隆の初め、無頼の浪人の狼藉ぶりを包含して、神社芸術伝来の習気を一変して寛濶な明るい芸風にして以来、名もいつか歌舞妓と改つた。其以来は女太夫の演出する狼藉ぶりが入りこんで来た。其芸風が女形にも伝つて、元禄期の立女形の立役敵役をも凌ぐ程の勇力や、意気の強さを形づくつたのである。而も一方女歌舞妓の後身とも見るべき吉原遊女の間にも、この歌舞妓衆の生活の影が残つたものと説明すればよいと思ふ。