芥川龍之介論

――藝術家としての彼を論ず――

堀辰雄





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 宿
 姿姿


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「彼は全然母の乳を吸つた事のない少年だつた。母の體が弱かつたからである。彼は牛乳の外に母の乳を知らぬことを耻ぢた。これは彼の一生の祕密だつた。彼は何時からか、又どういふ論理からか、自分の意氣地のない事をその牛乳の爲と信じてゐた。もし牛乳の爲とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友達は彼の祕密を見破つてしまふのに違ひなかつた。彼はそのためにどういふ時でも彼の友達の挑戰に應じた。恐怖や逡巡が彼を襲はない訣ではなかつた。しかし彼は何時もその度に勇敢にそれらのものを征服した。それは迷信に發したにせよ、確かにスパルタ式の訓練だつた。このスパルタ式の訓練は彼の性格へ一生消えない傷痕を殘した。」
 
 


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  human comedy 

 
 
 
 調稿

 
 ※(二の字点、1-2-22)※(二の字点、1-2-22)
   vision vision vision Fleurs du Mal vision vision
 
「谷崎氏は、在來氏が開拓して來た耽美主義の畠に『お艶殺し』の如き『神童』の如き或は又『お才と巳之助』の如き文字通り底氣味の惡い Fleurs du Mal を育ててゐた。が、その斑猫のやうな色をした美しい惡の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと同じ莊嚴な腐敗の香を放ちながら、或一點では彼等のそれと全く趣が違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐るべき冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道徳を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも戀愛を捨てなければならなかつた。……我々が彼等の耽美主義から、嚴肅な感激を浴びせられるのは、實にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、餘りに享樂的な餘裕があり過ぎた。……その點が氏は我々に、氏の寧輕蔑するゴオテイエを髣髴させる所以だつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帶びてゐても、云はば活力に滿ちた病的傾向だつた。更に洒落れて形容すれば、寶石の重みを苦にしてゐる、肥滿したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが缺けてゐた。」
 

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 調




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 簿

 
「今は昔、池の尾と云ふ所に禪珍内供と云ふ僧住き……此の内供は鼻の長かりける五六寸許也ければ、頷よりも下てなむ見えける、色は赤く紫色にして、大柑子の皮の樣にしてつぶ立てぞ※[#「暴+皮」、U+3FFA、25-18]たりける、其れが極く痒かりける事無限し、然ればひさげに湯を熱く湧して、折敷をしきを其の鼻通る許に竅て、火の氣に面の熱く炮らるれば、其の折敷の穴に鼻を指通して、其の提に指入れてぞ茹、吉く茹て引出たれば色は紫色に成たるを、喬樣に臥して鼻の下に物をかひて、人を以て踏すれば、黒くつぶ立たる穴毎に煙の樣なる物出づ、其れを責て踏めば白き小虫の穴毎に指出たるを、鑷子けぬきを以て拔けば、四分許の白き虫を穴毎より拔出ける、其の跡は穴にて開てなむ見えける、其れを亦同じ湯に指入してざらめき、湯に初の如く茹れば鼻糸小さく萎み※(「月+俊のつくり」、第4水準2-85-36)て、例の人の小き鼻に成ぬ、亦二三日に成ぬれば痒くして※[#「暴+皮」、U+3FFA、26-6]延て、本の如くに腫て大きに成りぬ、如此くにしつゝ腫たる日員は多くぞ有ける……」
 
「――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出來ると、今度はこつちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に對して抱くやうな事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思つたのは、池の尾の僧侶の態度に、この傍觀者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。」
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 ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11) ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)

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 調
 
 

 
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 brutality Human Comedy




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「或日の大石内藏助」(大正六年)
「袈裟と盛遠」(大正七年)
「枯野抄」(大正七年)
 等に於ては、彼の最も傑れた心理描寫が見られる。
「戲作三昧」(大正六年)
 
 


 
 
「偸盜」(大正六年)
「地獄變」(大正七年)
 は出來損ひの作品だ。非常に殘酷なところがあつて、さういふ所は天才的と評していいが、氣品が足りない。何か安つぽい繪双紙を見るやうである。或一部の批評家は「地獄變」を以て彼の最傑作としてゐるが、僕は反對である。僕は、寧、あの華やかにして寂しい「六の宮の姫君」を、この凄慘な「地獄變」の上に置きたい。その凄慘さにおいても、「地獄變」は晩年の「齒車」等に若かないのである。
 この三作に反し、
「奉教人の死」(大正七年)
「きりしとほろ上人傳」(大正八年)
 祿

「藪の中」(大正十一年)
 は形式的に特異である。一つの事件を數人の人間に語らせて、そこにめいめいの心理を解剖して我々に示すのである。小説學者の所謂 point of view different actors(複數的視點)の上に立つた作品なのである。「報恩記」(大正十一年)もこの形式で書かれてゐる。
「六の宮の姫君」(大正十一年)
 
 
 


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「秋」(大正九年)
 
 使
 
 
「蜜柑」(大正八年)「沼地」(大正八年)
  narrative narrative 
「開化の殺人」(大正七年)
「開化の良人」(大正八年)
 は所謂開化物に屬し、歴史小説の部類に入れる方がいいと思ふ。殊に、これらの小説の手法が歴史小説のそれとは、少しも異らない點から。しかし二作とも風俗描寫よりも心理描寫の方が數等面白いのである。
 彼の傑作の一つ、
「南京の基督」(大正九年)
 
 
「僕に何故冷眼に世の中を見るかと云ふ質問も青年の君としては如何にも發しさうなものと考へます。が僕には現在僕の作品に出てゐる以上に世の中を愛する事は出來ないのだからやむを得ません。のみならず愛を呼號する人の作品は僕にとつて好い加減な嘘のやうな氣さへするのです。僕は世の中の愚を指摘するけれどもその愚を攻撃しようとは思つてゐない。僕もさう云ふ世の中の一人だから唯その愚(他人の愚であると共に自分の愚である所の)を笑つて見てゐるだけなのです。それ以上世の中を愛しても或は又憎んでも僕は僕自身を僞る事になるのです。自ら僞る位なら小説は書きません。要するに僕は世の中に pity は感ずるが love は感じてゐない。同時に又 irony を加へる以上に憎む氣にもなれないのです。」(大正八年十一月十一日小田壽雄宛書翰)
 彼はこの「南京の基督」において、最も彼の愛するアナトオル・フランスに近かかつたと言ふべきか。

 正宗白鳥氏は彼の「芥川氏の文學を評す」の中で、
「蜘蛛の糸」(大正七年)
「杜子春」(大正九年)
「おぎん」(大正十一年)
 殿
 

 


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 西
 
 
退
 
 ※(二の字点、1-2-22)

 
 
 
 


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 調
 
「藝術その他」(大正九年)
「文藝的な餘りに文藝的な」(昭和二年)
 調

「藝術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。藝術に奉仕する以上、僕等の作品の與へるものは、何よりもまづ藝術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。完成とは讀んでそつのない作品を拵へる事ではない。分化發達した藝術上の理想のそれぞれを完全に發達させる事だ。」
 それから彼のもつと個性的な理論は、

 
 ※(二の字点、1-2-22) Formal Element  Musical Element 調
 
 
 

 
 
 


 使
 
 
 西
 


 
 


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 簿簿簿簿sweetness




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「スウイフトの作品は不愉快である。しかしスウイフトの作品は今日迄澤山讀まれた。讀む人は愉快だから讀んだに違ひない。この事は矛盾のやうで、實は矛盾ではない。スウイフトの不愉快の點はその厭世的諷刺にある。露骨に人間の弱點を曝く所にある。人間を動物の如く取扱ふ所にある。動物より下等なる馬の國の動物として取扱ふ所にある。人類は世界滅却の日に至るまで不幸である。それが最大不愉快である。かうしてスウイフトは寸毫の滿足をも吾人に與へないのである。しかして是が人間の本體だと云ふ。次第々々に本體が展開して來るのである。讀む者は第一に眼を擦る。新しい刺激を愉快に思ふからである。第二に成程と思ふ。爭はれぬ事實だからである。内外呼應の愉快である。第三におやと思ふ。隱れた事實を掘り出した愉快である。第四にははつと思ふ。飛んだ所に人間の正體が見つかつた愉快である。――是等は悉く愉快である。但し眞實を探り、事相を明らかにする點から見ての愉快である。とにかく「ガリヴア旅行記」は愉快である。さうして又不愉快である。愉快でもあり不愉快でもあつて、決して矛盾にはならないのである。」
 
 
 滿
 
 


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LES FLEURS DU MAL
 姿
 
  Inferno
 









 
※(「廴+囘」、第4水準2-12-11) bizarre 
 姿








 


 


 


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 稿稿
「西方の人」(前編は生前に既に發表されてゐたが)
「闇中問答」
「或舊友に送る手記」
「十本の針」
「或阿呆の一生」等。
 西稿
 西
西
 
「クリスト教はクリス自身も實行することの出來なかつた逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才の爲に人生さへ笑つて投げ棄ててしまつた。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を發見したのは當り前である。彼の教へた所によれば、「ソロモンの榮華の極みの時にだにその裝ひ」は風に吹かれる一本の百合の花に若かなかつた。彼の道は唯詩的に――あすの日を思ひ煩はずに生活しろと云ふことに存してゐる。何の爲に? ――それは勿論ユダヤ人たちの天國へはひる爲に違ひなかつた。」
 彼は又書いてゐる。
「我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出來ない。少くとも我々に迫つて來るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事實を直覺してゐた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人、――彼の教へは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。」
 彼の最も敬愛を感じたクリストは、その一本の百合の花を「ソロモンの榮華の極みの時」よりも更に美しいと感じたクリストであり、又、弟子たちを教へるためにいつも我々の近くにあるもの――花嫁、葡萄園、驢馬などを利用するところの、後代のクリスト教的ジヤアナリストの牧師たちも彼の足許には遠く及ばないジヤアナリスト・クリストであるのである。
 しかし僕が彼をクリストたちの一人と感じるのは、僕が彼自身の中にもさういふクリスト同樣の詩人兼ジヤアナリストを發見するが爲のみではない。僕は彼の中にもつと深く沈み込むことによつて、彼がクリストと同じやうに背負はされてゐる十字架を見出すからである。彼の次の數行を注意深く見つめよ。
「クリストは一代の豫言者になつた。同時に又彼自身の中の豫言者は、――或は彼を生んだ聖靈はおのづから彼を飜弄し出した。我々は蝋燭の火に燒かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯蛾の一匹に生まれた爲に蝋燭の火に燒かれるのである。クリストも亦蛾と變ることはない。シヨウは十字架に懸けられるためにイエルサレムへ行つたクリストに雷に似た冷笑を與へてゐる。しかしクリストはイエルサレムへ驢馬を驅つてはひる前に彼の十字架を背負つてゐた。それは彼にはどうすることも出來ない運命に近いものだつたであらう。彼はそこでも天才だつたと共にやはり畢に「人の子」だつた。」
 彼はクリストを十字架に驅りやつたものはクリスト自身の宗教だつたと言ふのである。彼がさう言ふのは、單に彼が新しい宗教を説いたために十字架に懸つたのだと言ふ意味ではなく、新しい宗教を説いてゐるうちにいつか十字架に懸らねばならぬ氣持になつてしまふのだと言ふのである。彼はかくクリストを見る事によつて、イエルサレムに赴いて自殺的に十字架に懸つたクリストの氣持を、彼自身のそれに近づけてゐる。自ら十字架に懸からずにはゐられなかつたところの彼自身の氣持に。
 實に彼がクリストの中に見出した苦しみは同時に彼の感じた彼自身の苦しみだつた。彼の見たクリストは、クリスト自身に――クリスト自身の中のマリヤに叛逆してゐた。それはバラバの叛逆(唯自分の敵に對する叛逆)よりも更に根本的な叛逆であり、同時に又、「人間的な餘りに人間的な」叛逆だつた。そしてさういふ自分自身に――自分の中のマリヤ(彼によればマリヤは「永遠に女性なるもの」ではなしに「永遠に守らんとするもの」だ)に對する叛逆者は又彼(芥川)自身に外ならない。クリストも、彼も、マリヤの子供ではあつたが、同時に聖靈(彼によれは聖靈は「聖なるもの」であるばかりでなく、「永遠に超えんとするもの」だ)の子供であり、しかも母のマリヤよりも父の聖靈の支配を受けてゐたために、さういふ悲劇を避ける事が出來なかつたのである。
 クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし。」と言つた。このクリストの言葉の中に、恐らくはクリスト自身も意識しなかつたであらう恐しい事實を、彼は見出した。それは我々は狐や鳥になる外は容易に塒の見つかるものではないと云ふ事實である。それが如何に恐しい事實であるか、彼の悲痛な最後がそれを我々に知らせる。




 







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tatsuki

20121124

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 W3C  XHTML1.1 

JIS X 0213

JIS X 0213-


「暴+皮」、U+3FFA    25-18、26-6


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