この夏も末になつてから漸つと﹁晩夏﹂が校了になり、ほつと一息ついてゐたら、甲鳥書林から何だか部厚い小包が屆いた。何かと思つたら、一束の檢印紙だつた。ひどく凝つた檢印紙で、一枚々々丁寧に印を捺さなければならないやうな代物なので、やれやれと思つた。その上、これまでの本には大抵それですませてゐた﹁辰雄﹂といふ無趣味な印ではすこし檢印紙の方がかはいさうな氣がするので、ふいと妻の亡父が所藏してゐた支那の古い印のことを思ひ出して、その中で私の好きな印を二つ三つ東京の家から送つて貰ふことにした。 そんなふとした思ひつきで、こんな支那の古い印などを使つてみたので、何もこれは私の新しい趣味なのではない。私の先生たちは――室生さんでも、芥川さんでも、佐藤春夫さんでも、みんな獨自の文人趣味を打ち樹てられてをられるが、私はまだそれを解することさへ出來ない。まして支那の古い印の好し惡しなどは何處にそれを求めていいのだかも見當がつかない。妻の亡父の所藏して居つた十幾顆の印は彼が廣東に在つた頃何かの革命の際急に所在をくらまさなければならなかつた支那の某大官が纔かな金で彼に讓つていつた品ださうで、明清二代の名家が刻したものが多いといふ證明附のものである。そのなかでどれが好いのだか私には一向解らないし、又、さういふものの解る人にはまだ一度も見て貰つてゐないが、ただ何んとなく私にも親しめて、好きになれさうなのが二つ三つ無いでもない。一番好きなのは﹁我思古人﹂といふ印だが、これは大きさや文句が丁度いいので、私はそれを讓り受けて自分の藏書印にいつか使ひたいと思つてゐる。いま、それが手許にないので、刻した人の名前はちよつと思ひ出せないが、前に友人の小山正孝君に調べて貰つたら、なんでも明の時代の好い詩人の作品らしい。その印のことは他日それに就いて書く機會がきつと私にあるだらう。 その次ぎに好きなのが、こんどの檢印に用ひた﹁一琴一硯之樂﹂といふ可愛らしい小さな印である。
一琴一研高士尚志
携琴登山滌研曲水
吉金樂石興味何如
竝置芸聊以自娯
携琴登山滌研曲水
吉金樂石興味何如
竝置芸聊以自娯
丙子冬日琴生仁兄大人正
曼生刻
と細字で刻せられてゐる。これも確か明末の陳曼生といふ詩人の作――何も私がこんどの本にこんな風雅な印を用ひたのは深い意味があるわけではない。ほんの氣まぐれな思ひつきに過ぎない。それ以上に、いはば窮餘の一策である。
私は晩夏の一日の大半を、妻と一緒に、この印を捺すことに過ごした。いつもなら味も素氣もなく捺してしまふことが多いが、こんどの本は一つ一つ丁寧に﹁琴﹂だとか﹁硯﹂だとかいふ文字なんかに氣を配りながら、捺したりしたせゐか、なんだか檢印なんといふ俗中の俗なる爲事を續けながら、しかもいささか俗氣を離れた半日を過ごしたやうな氣がした。これは恐らく支那の名印の自らの影響であらうか。
いづれそのうち以上二顆の印を他の印と一しよにどなたかに見て戴かうかと思つてゐる。どなたに頼んだらいいのかさへ只今の私には見當がつかない。私にそれを教へてくださる方があるといい。さういふ方が私に見つかつて、もつとよくそれ等の印が分かるやうになつてから、又それに就いて書きませう。
追記
﹁我思古人﹂といふ印は明の末葉の詩人徐文長の手刻したものである。
徐文長の傳記は袁仲郎全集に書かれてゐる由で、小山正孝君がそれを抄して送つてくれた。たいへん不遇な、苦しい生涯を送つた詩人らしい。︵あとで鴎外漁史が既に﹁かげくさ﹂の中でこの不遇な詩人と獨逸の詩人クライストとを比べてゐることを知つた。︶その詩には一種の鬼氣があつて、唐の李長吉をおもはしめるものがあるといふ。その鬼趣は﹁嗔るが如く、笑ふが如く、水の峽に鳴るが如く、種の土を出るが如く、寡婦の夜哭するが如く、覊人の寒起するが如し。﹂と袁仲郎は形容してゐる。彼はまた書畫にも巧みで、小説も戲曲も書いてゐる、多趣味な文人だつたらしい。
これもあとで知つたことだが、京都大學の青木正兒博士もこの詩人を大へん愛せられてゐると見え、﹁徐青藤の藝術﹂といふ一文を艸せられてゐる。この詩人の數奇に充ちた生涯と藝術とを語つて餘すところがない。
﹁我思古人﹂の印には、﹁己卯小春日、天池﹂といふ款がある。彼も晩年には書屋に藤を植ゑたり葡萄棚を作つたりして、その居を青藤書屋と名づけて、自適してゐた。その青藤書屋に池があつて天池と名づけてゐた。天池生といふのはそれから取つた號である。
畫は花卉をもつとも得意としてゐたらしい。さういふ不遇な人の常として、世俗をば白眼視しながらも、花卉などにはなみなみならぬ深い趣味をもつてゐたのであらう。
﹁我思古人﹂といふのは詩經のなかの一句であるが、かういふ詩人の刻したものとすると、何か一層感じの深い語のやうに思へる。この印は私も一生大事にしてゐよう。
次に、陳曼生といふ人は、清の嘉慶の頃の文人である。﹁桐陰論畫﹂で私はその簡單な記事を讀んだだけであるが、詩文書畫のいづれにもすぐれ、ことに篆刻が好く、簡古超逸とある。茶も嗜んで、みづから茶器などをつくつたが、いまもそれは﹁曼生壺﹂と稱されて、賞玩されてゐるさうだ。
その他、文三橋、奚銕生、徐三庚、趙次閑、楊龍石、王石香、呉讓之、などといふ明清の文人たちの刻したものである。﹁生春仙館﹂といふのがある、﹁痩虎﹂といふのがある、﹁破衲子﹂といふのがある、それからまた﹁淡烟疎雨﹂なんとかいふ詩の一句らしいのもある。私なんぞでも、手にとつて見てゐると、なかなか樂しいものがある。
もう一つ、これは篆刻家ではないらしく、黄丕烈︵蕘圃︶といふ清代の學者の手刻した﹁蕘圃手校﹂といふ印がある。校書印で、これなどは私が所藏してゐても、大した興味がもてさうもないと思つてゐた。ところが最近﹁四婦人集﹂といふ詩集を手に入れた。薛濤詩、唐女郎魚玄機詩、揚太后宮詞、緑遺藁︵孫蘭詩︶の四つの古刊本を重印したものである。何氣なくそれを披いてゐたら、そのうちの三種の原本は黄氏の藏本で、しかも魚玄機詩の校勘記のをはりには﹁蕘圃手校﹂といふ見覺えのある印がある。私のところにある印と同じものらしい。私はおもはず胸をときめかせて、その印を取り出し、二つのものを比べて見たが、やはり同じであつた。
私の座右にはいつのまにか得難い支那の古印がいくつもあることになりさうだ。