温泉のあまり好きでない私に温泉のことを何か書けといふのである。何か書けるだらう位に、高をくくつてゐたが、いざ書かうとすると、何を書いたらいいのか分らないので、なかなか書き出せない。…… さつきから机には向つてゐるものの、しやうがないので、二三日前に買つてきた Insel 版のゲエテ詩集をあつちこつちめくつてゐる許りである。拾ひ讀みなどをしてゐるのではない。そんなことの出來るほどに私は未だ獨逸語に通じてゐない。唯、その薄い Leinen 紙の指ざはりが、まことに氣持がいいからであるが、そのうち私は︵――ここでちよつとその Insel 版は詩が全部年代順に、いい詩も何もかも面白いほどごつちやに、そしてそれを書いた地別にのみ分けて、編纂されてあることを斷つて置くことを許されるといい。︶―― Weimar だの、Jena だのの間に Karlsbad とか Marienbad とかいふ土地の名の挾まつてゐるのに目を止めた。これ等はゲエテが晩年に誕生日などを一人で靜かに過ごしに行つた場所である。ことに Marienbad は、ゲエテが最後の戀愛をした土地であることは誰でも知つてゐる。その相手の娘は、三人姉妹の一番姉娘で、ウルリィケといふのだつた。﹁ウルリイケは目の青い、髮の褐色な娘であつた。七十五歳のギヨオテが今年の誕生日には十九歳のウルリイケと踊つた。﹂︵﹁ギヨオテ傳﹂︶――まだ私はそれ等の場所を地圖で調べたことはないが、恐らくボヘミアとの國境近くにある温泉場であるのにちがひない。しかし、さういふ西洋の、ことにボヘミアあたりの温泉場などなら、私も好きになれさうである。日本でいへば、私の知つてゐる所では、まあ、さしづめ輕井澤のやうなところに近いやうな感じである。 かういふ西洋の温泉場では、温泉といつても、その中に體を浸らせたりするのではなく、唯、温泉の湧きこぼれるのを杯などで飮むに過ぎないのだらう。どうも温泉に浸りながらでは﹁マリエンバアドのエレジイ﹂のやうな切々とした詩は書けさうもないと思へるからである。――私はふと小金井きみ子譯するところの、レルモントフの﹁浴泉記﹂の中に、何んだかへんな情景を讀んだことのあるのを思ひ出し、本棚の奧から古い本を引つぱり出して見ると、果してかういふ數行をすぐ發見した。――﹁……硫黄の泉のほとりに來り、廓のもとに立寄りて、涼き影に暫時いこはんと思ひしに、めづらしきことにいであひぬ。……侯爵夫人とをかしきモスコオ男とは今廓の中の椅子によりて、心籠めたる物語りの最中なり。若き姫はいま泉の水を飮終りきと覺しく、物思はしげに其ほとりを立もとほりたり。……﹂︵圈點筆者︶少くともかういふ情景に近いものを頭に浮かべながらでなくては、ゲエテの晩年の情緒などは到底想像せられない。 日本の温泉地のやうなものを背景にしたら、それは全然これ等とは別種の美しさに富んだものになることは當然である。川端さんの﹁伊豆の踊子﹂などは、私はずゐぶん好きであるが、これはしかし温泉地を背景とした小説といふより、むしろ柚のかをりのする Sentimental Journey である。 さういへば、芥川さんに﹁温泉だより﹂といふ短篇のあつたのを思ひ出したが、筋も何もかも忘れてしまつてゐるので、ちよつと讀み返して見た。さうして私は、以前讀んだ時よりもずつと面白く讀んだ。﹁獨鈷の湯﹂といふ共同風呂の、石いし槽ぶねの中にまる一晩沈んでゐた揚句、心臟麻痺を起して、とうとう自殺を果したといふ、六尺餘りの大男の、いかにもヒュモラスなうへに何處となく無氣味なところのある話に、私は或る特異な興味をさへ持ち出したのである。それはこの短篇を讀んでゐるうちに私に數年前の或る冬の旅の記憶が蘇つてきたからであるためかも知れない。 それはその年も暮れ近くなつてから、友人數名と信州の別所温泉へいつたときのことだ。最初は菅平へ行く豫定であつたが、途中の小屋で、上にもまだ雪がそんなにないといふことを聞き、それではと、引つ返して別所温泉に向つたのであつた。夕方、その古い温泉町に着く時分から、急に雪がふりだし、そして、それは私達が硫黄のにほひのする湯にひたり、それから上つてゆつくり晩飯をすます頃まで、小止みもなくふり續いてゐた。さういふ雪のせゐか、飯の間もいつまでも硫黄のにほひが拔けないので閉口した。晩飯後、みんなが町を見物に行かうといふので、すこし風邪氣味だつた私も、雪の中をのこのこ皆のあとからついて行つた。さうして町の中ほどにある昔から有名な共同浴場をちよつと覗いてから、皆に分かれて、一人で雪道を宿舍に歸つて來た。その有名な温泉もそんな風にちよつと入口から覗いたきりでは、なんだか天然石で出來た湯槽の中に、男だか女だか得體の知れないやうな赤らんだ塊りが湯氣のなかに蠢いてゐるのが醜く眼に映つただけだつた。――それきり、私はその冬の温泉のことは忘れるともなく忘れてゐたのである。あれがもつと夜更けか何かだつたら、あれなりにちよつと凄くて、ずつと印象も深かつたにちがひないが……。 しかし、そんなおぼつかない記憶のやうなものでも、私が﹁温泉だより﹂を讀み返した時には、かなりに私の想像を補つてくれたものと見える。それはその物語の中で大男がそんな風變りな自殺をしたのは冬だつたやうに、いつか私を思ひ込ませてゐた位であつた。私はさういふ自分の思ひちがひにふと氣がついたので、念のため、そこの頁を再び開いて見たら、そこには矢張り秋の彼岸の中日だとちやんと書いてあつたのである。 しかし私自身はといへば、まだかういふ洒落た物語を書くよりも、日本の何處か Baden-Baden のやうな湯治場を背景にしたバタ臭いものでも書いてゐたいのである。