又四五日前から寢込んでゐる。どうも春先きになるといけない。いつもきつと得體の知れない熱が出るのである。 僕は本箱から鴎外の﹁即興詩人﹂を引つぱり出して見た。病氣をするとこの本を手にとるのがいつの間にやら習慣みたいになつてゐる。もう何遍目だか知れない。それだのに又しても讀んで行くうちに、僕はこのロマネスクな物語の中に引きずり込まれてしまふ。このアンデルゼンの小説だとか、シュウビンの﹁埋木﹂のやうな味はひの小説を何とかして書きたいものだと、病氣をする度毎に思ふのである。 アンデルゼンのものはこの外に中野重治の譯しかけた﹁わが一生のめえるへん﹂を讀んだことがある。これはアンデルゼンの自敍傳だ。﹁即興詩人﹂の譯のやうなわけには行かないが、中野の譯もまた獨得な美しさに富んでゐた。しかし彼がその譯を中途で放棄してしまつてゐるのは惜しい。その原稿は僕がいま預つてあるが、誰かアンデルゼンと中野重治とを愛するものがあつてこの譯を續けてくれるといいと思ふ。 なんだか急に懷しくなつたので僕は手文庫の中からその中野の原稿を取り出して見た。中野の譯は丁度アンデルゼンが﹁即興詩人﹂を書き上げたところで中絶してゐる。そのへんのところは、アヌンチアタのモデルとなつた女性のことなんぞが語られたりしてゐて、なかなか面白い。此處にその一節を引用して見よう。 ﹁私がまだ子供で、オオデンゼで芝居といふものに初めて行つたときのこと︵そこでは前にも私が言つたやうにすべて獨逸話で演出されてゐたが︶私は﹁ドナウの小婦﹂を見た。見物はその主役の女優を喝采した。彼女は女王のやうにもてなされた。彼女は崇拜された。そして、私は彼女はどんなに嬉しいことだらうとありありと心に描いた。それから幾年かの後、私が大學生になつてオオデンゼに歸省したときのこと、貧乏な寡婦たちの住んでゐる、そしてそこには寢臺が次から次へと竝んでゐる、古い養老院の一室で、金色の額縁にはひつた一枚の婦人の肖像が、それらの寢臺の一つの上に懸つてゐるのを私は見た。それは薔薇の花を摘んでゐるレッシングのエミリア・ガロッチイにちがひなかつた。が、その畫は誰かの肖像であつた。そしてそれはそのまはりの見すぼらしいすべてのものと變にそぐはないものであつた。私は訊いた。﹁あれは誰なんですか?﹂﹁はい。﹂と一人のお婆さんが答へた。﹁あれはお氣の毒なドイツ人の奧さんのお顏です、昔は女優をしてゐられたんですけれど。﹂そのとき丁度そこへ、顏に皺のよつた、そして昔はそれでも黒い色だつたにちがひない見すぼらしい絹布をまとつた、一人の小柄な美しい女が現はれた。それが、﹁ドナウの小婦﹂としてすべての人々から喝采されたところのあの女優だつたのである。この事は私に消し難い印象を與へた。そして屡々私にはそれが思ひ出された。ナポリで私はマリブランを初めて聞いた。彼女の唄と演技は私がかつて聞き、かつて見たもののどれよりも優れてゐた。そしてそれにも拘らず、あのオオデンゼの養老院にゐた苦しげな可哀さうな女優のことが、すぐ私には思ひ出された。この二つの姿がこの物語の中のアヌンチアタのうちに溶けあつてゐるのである……﹂ ヴァレリイやジィドが若い時分にやつてゐた同人雜誌を一週間許り前に本郷の南陽堂で見つけて買つてきた。いま僕の枕許にある﹁サントオル﹂といふのがそれである。僕の手に入れたのは第二號だが、この號には﹁テスト氏との一夕﹂がP・V・といふ匿名で載つてゐる。その他にはピエル・ルイスがロンサアルの戀人の傳記を書いたり、ジイドが﹁エル・ハヂ﹂と云ふコント︵?︶を書いたりしてゐる。插繪も豐富にはひつてゐる。何となく英國でビアヅレエイ等のやつてゐた﹁イエロウ・ブック﹂を思ひ出させるものがある。 もう一つ枕許にあるのは、﹁ルヴュ・ド・ラアル﹂の古い號である。これにはJ・E・ブランシュの描いた現代作家の肖像が數枚載つてゐる。その中にレエモン・ラジィゲの肖像もある。髮の毛をくしやくしやにして細いステッキを握つて一ぱい散らかつたテイブルの上に無造作に腰かけてゐるところは、どう見ても放蕩息子といふ樣子だ。黒いだぶだぶの外套をきてゐる。その顏はコクトオの描いた﹁わが手の蒼おほ穹ぞらはなんぢを守らん﹂と云ふ文句のあるデッサンに似てするどく痩せてゐる。
附記 アンデルゼンの自敍傳の一節を上に引用したが、あれは中野の譯そのままではない。僕が勝手に手を入れたところもある。それはあのへんのところになると中野の譯はまだ草稿のままでブランクなどがかなりあるからだ。勿論、訂正は僕のもつてゐる獨逸譯に依つた。