ノワイユ伯爵夫人︵Anna-Elisabeth Bassaraba de Brancovan, Comtesse Mathieu de Noailles︶は一八七六年十一月十五日巴里に生れた。父はGrgoire Bibesco 公爵で、その希臘系の母方から Brancovan の名を繼いだ人である。母は Raloka Msrsといひ、駐英土耳古大使をしてゐたMsrs Pashe の娘であつた。青みがかつた黒髮、蒼白い顏、大きな眼をした、小柄なアンナは、非常に東洋風な風采があり、希臘人を組先にしてゐることに少からぬ誇りをもつてゐる。生れたのは巴里であるが、少女時代をおほくレマン湖畔のアンフィオンにあるヴィラ・ブランコバンで過ごし、サヴォアの美しい自然から深い影響を受けた。又、コンスタンチノプルに旅をしたこともあつた。幼少のときから詩作をはじめ、ユウゴオやミストラァルなどにも會つたりした。二十一のとき Mathieu de Noailles 伯爵と結婚した。夫の母 Duchesse de Noailles からはイル・ド・フランスの明るい空を愛する趣味を得た。そのころ巴里のサロンに出入して、アナトオル・フランスやモオリス・バレスなどと知り合つた。二十五のとき處女詩集“Le Cur Innombrable”︵1901︶を公にして、世を驚嘆せしめた。ユウゴオの影響のもとに、きはめて浪漫的な熱烈な詩風をもつて人生を歌ひ、その自然に對する愛情によつてフランシス・ジャムと竝び稱せられた。ことに“Offrande Pan”“Bitt”などの詩は赫灼たる古代を喚起せしめて見事である。第二詩集“L'Ombre des Jours”は一九〇二年上梓。卷頭の“Jeunesse”において、この若き浪漫主義者は自分から青春の失はれゆく日の胸ゑぐらるるがごとき思ひを歌つてゐる。又﹁わがもの書くは、われ亡きのち、いかばかり人生と幸福なる自然とをわが愛せしかを人びとに知らしめんがためなり﹂︵J'cris pour que le jour o je ne serai plus ……︶といふ詩などもある。その後、しばらく詩作から離れて、三つの小説を續けて書いた。“La Nouvelle Esprance”︵1903︶“Le Visage Emerveill”︵1904︶及び“La Domination”︵1905︶の三篇で、いづれも女の狂ほしい熱情を殘忍なまでに手きびしく描いたものである。そのうち、日に赫いた、花のにほひのする修道院のなかで、春の息吹きに苦しめられる一人の處女を描いた“Le Visage Emerveill”が佳作である。その後、再び詩に戻つて、“Les Eblouissements”︵1907︶を公にした。彼女の生への強烈な愛は、この詩集においてもつとも見事に、もつとも人間的に展開せられてゐる。彼女が太陽と光を歌つてこれほど壯烈だつたことはない。が、又、その生の歡喜をこれほど死の考へによつて暗くせられたこともない。﹁ああ、わが生を享けしは死のためにはあらざるぞ。﹂︵Hlas! Je n'tais pas faite pour tre morte.︶この詩集を書いた後、詩神はひさしく沈默した。約六年間、彼女は羅馬やナポリや西班牙などを旅行したり、少女時代を過ごしたレマン湖畔のアンフィオンに歸つて籠居したりしてゐた。そして遂に一九一三年になつて第四詩集“Les Vivants et les Morts”を書いた。生と死との神秘的な對立はいよいよ彼女にとつて大きな主題となつて來た。歐州大戰の起るや、彼女はユウゴオばりの幾多の詩によつて兵士たちを謳へた。次の詩集“Les Forces ternelles”︵1921︶はいまだ戰爭の思ひ出に活氣づけられてゐるが、彼女はやがて平生の主題に立ち返つて來てゐる。﹁わが心のうちに諍ひ合ふ二つのものあり、バッカスの巫女と尼と。﹂︵Deux tres luttent dans mon cur: c'est la Bacchante avec la nonne.︶一九二四年に第五詩集“Pome de l'Amour”上梓。前の詩集とは見ちがへるほど簡潔な手法で、戀する女のなげかひを詠じた、連作風のものである。次の詩集、“L'Honneur de Souffrir”︵1927︶も、きはめて地味な、明晰な手法で、一友の死を契機として、死についての冥想を抒べたものである。﹁われはすでにあまりにも生の榮譽を歌ひぬ。﹂︵J'ai trop chant jadis l'honneur d'tre vivant.︶最後の詩集は幼年時の詩を集めた“Pome d'Enfance”︵1928︶であつた。以上の七卷の詩集のほかに、隨筆集“Les Innocentes ou la Sagesse de Femmes”︵1923︶“Exactitudes”︵19330︶及び囘想記“Le Livre de ma Vie”︵1932︶がある。最後の著には、佛蘭西のもつとも洗煉された教養と東洋の遺傳との融合した家族のおもひで、ことにピアノの上手だつた美貌の母のことや、レマン湖の靜謐、コンスタンチノプルの華麗などが、魅力のある筆で敍せられてゐる。しかしその書を完成せずに、ノワイユ夫人は一九三三年四月三十日巴里に死んだ。