奚けい山ざんは高こう密みつの人であった。旅に出てあきないをするのが家業で、時どき蒙もう陰いん県と沂ぎす水い県の間を旅行した。ある日その途中で雨にさまたげられて、定じょ宿うやどへゆきつかないうちに、夜が更ふけてしまった。宿をかしてくれそうな物を売る家の門口をかたっぱしから叩たたいてみたが、返事をするものがなかった。しかたなしに廡のき下したをうろうろしていると、一軒の家の扉を左右に開けて一人の老人が出て来た。
﹁お困りのようだな。お入り。﹂
﹁有難うございます。﹂
山は喜んで老人についてゆき、曳ひいている驢ろばを繋つないで室へやの中へ入った。室の中には几つくえも腰掛けもなかった。老人はいった。
﹁わしは、あんたがお困りのようだから、お泊めはしたが、わしの家は食物を売ったり、飲物を沽うったりする所でないから、手すくなでゆきとどかん。ただ婆さんと、年のいかない女むすめがあるが、ちょうど眠ったところじゃ。残りの肴はあるが、煮たきに困るので何もできない。かまわなければ、それをあげようか。﹂
老人はそういってから入っていった。そして、間もなく足の短い牀しょうぎをもって来て下に置き、山をそれに坐らしたが、また入っていって一つの足の短い几つくえを持って来た。それはいかにも急がしそうにいったりきたりするのであった。そのさまを見ては山もじっとしていられないので、曳ひきとめて休んでもらった。
﹁どうか、どうか、おかまいくださらんように。どうかお休みください。﹂
暫くすると一人の女が出て来て仕度をしてくれた。老人は女の方をちょっと見ていった。
﹁これが家の阿あせ繊んだ。起きて来たのか。﹂
見ると年は十六、七で、綺麗でほっそりしていて、それで愛嬌があった。山には年のいかない弟があってまだ結婚していないので、こういうのをもらいたいものだと思った。そこで老人の故郷や属ぞく籍せきを訊きいてみた。老人はいった。
﹁わしは、士しき虚ょという名で、苗字は古こというよ。子も孫も皆若死して、この女だけが遺っておる。ちょうど睡っておったから、そのままにしておったが、婆さんが起したと見える。﹂
﹁お婿さんは何という方です。﹂
﹁まだ許いい嫁なずけになっておらんよ。﹂
山は喜んだ。そのうちに肴がごたごたと並んだが、旅館のこんだてに似ていた。食事が終ってから山はおじぎをしていった。
﹁旅をしておりますと、どんな方に御厄介になるかも解りません。ほんとうに御世話をかけました。この御恩は決して忘れません、ほんとにあなたのお蔭です。そのうえ、だしぬけに、こんなことを申しましてはすみませんが、私に三郎という弟があります。十七になりますが、書物も読み、商売をさしても、それほど馬鹿ではありません。どうかお嬢さんと縁組をさしていただきたいですが。貧乏人ですけれども。﹂
老人は喜んでいった。
﹁わしもこの家は、借りておる。もしそうなれば、一軒借りて移っていってもいい。そうするなら懸けね念んもなくなる道理じゃ。﹂
山はすべてそれを承諾した。そこで起って礼をいった。老人も殷いん勤ぎんに後始末をして出ていった。
朝になって鶏が鳴いた。老人は起きて来て、山に顔を洗わして食事をさした。山はすっかり仕度して金を出した。
﹁これはすこしですが、食物代にとってください。﹂
老人はどうしてもとらなかった。
﹁一晩の宿じゃないか、金をもらうわけがない。それに婚礼の約束をした間柄じゃないか。﹂
山はそこで一家の者と別れて、一ヵ月あまり旅をして返って来た。そして村から一里あまり離れた所へいったところで、老婆が一人の女を伴つれていくのに逢った。それは喪中であろう、冠ぼうしから衣服まで皆白いものを着ていた。そして近くへいってみると、どうもその女が阿繊に似ているように思われた。女もまた頻しきりにこちらを見ていたが、やがて老婆の袂たもとをつかまえて、その耳の傍そばへ口を持っていって囁ささやいた。老婆は足を停とめて山に向っていった。
﹁あんたは奚けいさんではありませんか。﹂
山はいった。
﹁そうですよ。﹂
老婆は悲しそうな顔をしていった。
﹁お爺さんは、崩れかかった牆かきに圧しつぶされて死んじゃったよ。今、ちょうど墓詣りにいくところだ。家にはだれもいないから、ちょっと路ばたで待っててくださいよ、すぐ帰ってくるから。﹂
そこで二人は林の中へ入っていったが、暫くたってやっと帰って来た。日が暮れて途はもう真暗であった。三人は一緒にその暗い中をいったが、老婆は将来のたよりないことを話して泣いた。山もまた心を動かされた。老婆はいった。
﹁この土地は人情がよくないから、親のない子や孀やもめでは暮していけない。阿繊ももう、あなたの家の婦よめになっておる。ここをすごすとまた日が遅れるから、今晩のうちに一緒に伴れてってもらうといいが。﹂
そのうちに家へ着いた。老婆は燈あかりを点つけて山に食事をさし、それがすんでからいった。
﹁あんたがもう帰って来る時分だと思って、持っている粟は皆売ったが、それでもまだ二十石あまり残っておる。遠くては持ってゆけないから、ここから四、五里もいくと、村の中の第一ばんめの門に、談だん二じせ泉んというものがおる、これが私の買い主じゃ。あんたは気の毒だが、あんたの驢ろばに一ひと嚢ふくろおぶわせていって、門を叩いて、南村の婆が、二、三石の粟を売って、旅費にするのだから、馬を曳ひいて来て持っててくださいといえばいい。﹂
そこで嚢の粟を山にわたした。山は驢を曳いていって戸を叩たたいた。一人の大きな腹をした男が出て来た。山はその男に老婆のいったとおりにいって、持っていった嚢の粟を開けて帰って来た。
山が帰る間もなく二人の男が五疋ひきの騾らばを曳いて来た。老婆は山を伴れて粟のある所へいった。それは窖あなぐらの中に入れてあった。そこで山がおりて量をはかると、老婆は女に収めさせた。みるみる入れ物に一ぱいになったので、それをわたして運ばした。およそ四かへりして粟はなくなってしまった。やがて買い主は老婆に金をわたした。老婆はその男の一人と二疋の騾﹇#﹁騾﹂は底本では﹁螺﹂﹈を留めておいて、荷物を積んで皆で東の方へ出発した。そして一行が二十里もいったところで夜がやっと明けた。そこで唯とある市へいって、乗る馬をやとい、送って来た男はそこから返した。
山はやがて家へ帰って両親にその事情を話した。両親もひどく喜んだ。そこで別邸を老婆の住居にして、吉日を択えらんで三郎と阿繊を結婚さしたが、老婆は阿繊に嫁入り仕度を十分にした。
阿繊は寡むく言ちで怒るようなこともすくなかった。人と話をしてもただ微笑するばかりであった。昼夜績つむいだり織おったりして休まなかった。それがために上の者も下の者も皆阿繊を可愛がった。阿繊は三郎に頼んでいった。
﹁兄さんにおっしゃってください。また西の道を通ることがあっても、私達母子のことを口に出さないようにって。﹂
三、四年して奚けい家はますます富んだ。三郎は学校に入った。
ある日、山は商用で旅行して、古この家の隣に宿をとった。そして宿の主人と話していて、ふと雨にへだてられて定宿にゆけずに古老人に世話になったことを話した。宿の主人は、
﹁そりゃお客さん、何かの間違いでしょう。東隣は私の兄の別宅で、三年ほど前に貸してあった者が、時とすると怪しいことがあったので、引移して空あき屋やになっておる。どうして爺さんや婆さんがおるものかね。﹂
それを聞いて山はひどく不思議に思った。しかしまだそれほど深くは信じなかった。主人はまたいった。
﹁あの家は、せんに十年空いてて、よう入る者がなかったが、ある日、家の後の牆が傾いたもんだから、兄がいってみると、大きな猫のような鼠がはさまれてて、尻尾は牆の内でまだ動いていたので、急いで帰って来て、皆を呼んでいってみると、もういなかったのだ。皆がそれが怪しいことをしてたろうといったのだよ。その後十日あまりして、また入っていってためしたが、ひっそりしてもう何もなかったよ。それからまた一年あまりしてから、やっと人がいるようになったのだよ。﹂
山はますます不思議に思って、家へ帰って両親にそっと話し、どうも阿繊は人であるまいと思って、三郎のために心配したが、三郎は初めとすこしもかわらずに阿繊を愛した。
暫しばらくして家の中の人の心がちぐはぐになって阿繊をうたがいだした。阿繊はかすかにそれを察して、夜、三郎に話した。
﹁私は、あなたの所へまいりましてから、数年になりますが、まだ一度だって悪いことをしたことがありませんのに、この頃は人並に待遇せられません。どうか私に離縁状をください。そして、あなたは自分で良い奥さんをおもらいなさい。﹂
そういって阿繊は泣いた。三郎はいった。
﹁私の気持ちは、お前がよく知ってくれているはずだ。お前が家へ来てくれてから、家は日増に繁昌して来た。皆これはお前が福を持って来てくれたものだといって喜んでいる。だれがお前のことを悪くいうものか。﹂
阿繊はいった。
﹁あなたの気持ちは好く解っております。ただ他の人の口がやかましいので、すてられはしないかと心配するのです。﹂
三郎は一生懸命になってなだめたので、阿繊もそれからは何もいわなかったが、山はどうしても釈とけなかった。彼は善く鼠をとる猫をもらって来て女の容よう子すを見た。阿繊は懼おそれはしなかったが面白くない顔をしていた。
ある夜、阿繊は老婆のぐあいが悪いからといって、三郎に暇をもらって看病にいったので、夜明けに三郎がいってみた。老婆の室は空になって老婆も阿繊もいなかった。三郎はひどく駭おどろいて、人を四方に走らして探さがさしたが消息が解らなかった。三郎はそれがために心を痛めて寝もしなければ食事もしなかったが、山はじめ両親はかえって幸にして、いろいろと三郎を慰め、後妻をもらわそうとした。三郎はひどくいやがって一年あまり阿繊のたよりを待っていたが、とうとうそのたよりがなかった。三郎は山や両親からせめられるので、しかたなしに多くの金を出して妾を買ったが、阿繊を思う心は衰えなかった。
そのうちにまた数年たった。奚家は日に日に貧しくなって来た。そこで家の者が、皆阿繊を思いだした。三郎の弟に嵐らんという者があった。事情があって膠こうにゆく道で、まわり道をして母方の親類にあたる陸りくという者の家へいって泊った。夜になって隣で悲しそうに泣く声が聴えたが、訊くひまもなく出発して、帰りにまた寄ってみるとまた泣声がした。そこで主人の陸生に訊いた。
﹁この前にも聞いたが、隣で泣声がするが、あれはどうした人だね。﹂
すると主人がいった。
﹁二、三年前、孀やもめの婆ばあさんと女の子が来て借家をしていたが、前月その婆さんが死んじゃったから、女の子は独りぼっちで、親類もないから泣いてるのだよ。﹂
﹁何という苗字だろう。﹂
﹁古こという苗字だが、近所の者とつきあわないので、家筋は解らないよ。﹂
嵐は驚いていった。
﹁それは僕の嫂あによめだよ。﹂
そこで、いって扉を叩いた。と、内にいた人が起って来て扉を隔てていった。
﹁あなたはどなたです。私の家には男の方に知りあいはないのですが。﹂
嵐らんが扉の隙すきから窺のぞいてみると果して阿繊であった。そこでいった。
﹁ねえさん、開けてください。私は弟の嵐ですよ。﹂
女はそれを聞くとかんぬきを抜いて扉を開けた。嵐が入っていくと、阿繊はひとりみの苦しさを訴えた。嵐はいった。
﹁三郎兄さんは、あなたをひどく思っているのです。夫婦ですもの、仲違い位はありますよ。なぜこんなに遠くまで逃げるのです。﹂
そこで輿くるまをやとって一緒に帰ろうとした。阿繊は悲しそうにいった。
﹁私は人あつかいをせられないので、とうとう母と隠れたのです。今、返っていったなら、いやな顔をせられるのでしょう。もしまた帰るとなれば、大おお兄にいさんと別家するのですね。でなければ私は死んでしまいます。﹂
嵐はそこで帰って三郎に知らした。三郎は昼夜兼行でいって阿繊に逢った。二人は顔を見合わして泣いた。翌日二人は出発することにして屋やぬ主しに知らした。屋主の謝しゃ監かんという男は、阿繊の美しいのを見て、妾にしようと思って、初めから家賃を取らずに置いて、頻りに老婆にほのめかしたが、老婆はことわっていた。その老婆が死んでくれたので、屋主は目的が達せられると思って喜んでいると、三郎が来たので、初めからの家賃を計算して苦しめにかかった。三郎の家はもう豊かでないから、多額になっている家賃のことを聞いて心配した。すると阿繊はいった。
﹁そんなことは心配ありませんよ。﹂
といって三郎を伴つれていった。そこに倉があって三十石にあまる粟が儲たくわえてあった。それがあるなら家賃を払ってもまだ剰あまりがあった。三郎は喜んだ。そこで屋主の謝に粟をとってくれといった。謝は困らすつもりで、
﹁こんな物をもらっても仕方がない。金をもらおう。﹂
といった。繊はためいきしていった。
﹁それが私の罪障ですから。﹂
そこで阿繊は謝のことを話した。三郎は怒って訴えようとした。陸氏はそれをとめて、粟を村の者に別け、その金をあつめて謝に払って、車で二人を送り帰した。
三郎は家へ帰って事実を両親に知らし、兄の山と別居した。阿繊は自分の金を出して、たくさんの倉を建てさせた。家の中には僅かばかりの蓄えもないので皆が怪しんでいたが、一年あまりしてみると倉の中は一ぱいになっていた。そこで幾年もたたないうちに大金持ちになった。そして、山は貧乏に苦しんでいた。阿繊は両親を自分の家へ呼んで養い、兄の山にも金や粟をやってたすけたが、それがなれて常のこととなった。三郎は喜んでいった。
﹁お前は旧悪を思わないという方だよ。﹂
阿織はいった。
﹁兄さんはあなたを可愛がっていらっしゃるのですわ。兄さんがなかったなら、どうしてあなたを知ることができたでしょう。﹂
その後はまた何の怪しいこともなかった。