われわれが昔からその実体をもたぬわけではないのに、それがひとつの概念として規定されず、従つて、それを指し示す共通の言葉が生れなかつた、といふ例は、枚挙にいとまがない。 西欧文明の移入が、そのことをはつきりわれわれに覚らせた。 芸術の領域に於ても、われわれはしばしば新造語の助けをかりて何事かを語らねばならぬが、それらの多くは西欧の言葉の翻訳であり、そのために、思想がつねに借物の観を呈するのである。 私がかつてフランスに渡つてフランスの芝居なるものを実地に学ばうとした時、まづ困難を感じたことは、専門語の意味を観念として理解することではなく、それが指し示す実体を正確に捉へることであつた。そして、私が更に感慨無量であつたことは、かくしてやうやく捉へ得た実体は、別に、私にとつて、それ自身としては言葉ほど珍しいものではなく、ただ、それが、ひとつの厳しさをもつた現実のすがたになつてゐるのを注意すればよいことであつた。 ART DE DIRE︵物言ふ術︶といふ言葉にぶつかつた時、それが芝居の言葉であるだけに、私は首をひねつた。もちろん、誰でも使ふ言葉ではなく、舞台の白せりふが、近代劇の洗礼によつて、D
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――白を正確に言ふことだけが、教師の生徒に教へ得る唯ひとつの有効な課業である。主要なことは、「ほぼ正確な」といふ白の言ひ方が最も不幸な結果をもたらすことである。
といふ意味の信念に満ちた断定であつた。
私は、日本に帰つて来て、できるだけ正統的な道をふんだ俳優養成の必要を痛切に感じ、微力ながら、同志と共に、この仕事をはじめようとした。
田中千禾夫君は、実に、二十年前、今日からみれば奇しき縁であるが、われわれの研究所の第一回生として、慶応仏文科に籍をおいたまま、熱心に﹁新しい芝居の門﹂を押しくぐらうとしたのである。
私の講義﹁物言ふ術﹂は、ブレモンの﹁ART DE DIRE﹂がまぎれもない種本であつたから、仏文の読める田中君に原書の一読をすすめ、同君もやがて同人の一人に加つた第一次﹁劇作﹂誌上にその紹介を依嘱した記憶がある。
だが、爾来、田中君は、作家として大きな成長を遂げ、しかもなほ、演技に関する研究と俳優の指導とに熱意を傾け、特に、その間、田中君一流の、言ひ換へれば、ブレモンを自己の経験のうちに消化し、ブレモンを批判しつつ自家薬籠中のものとした﹁物言ふ術﹂の体系ができあがつてゐるのを知り、私は、切に、その草案の公表を望んでやまなかつた。第二次﹁劇作﹂が、この機会を与へたのである。
世界文学社は、この貴重な文献をわが演劇界に贈ることによつて、ひとつの﹁正統的にして、しかも革新的な﹂寄与をなし得たといふべきである。
千九百四十九年 初夏
田中夫妻を嘗て迎へた浅間山麓の楢林にて