文学座の三月公演がゴーリキイの﹁どん底﹂にきまり、私にその演出をやれといふ委員会からの命令で、私は﹁えいッ﹂と覚悟をきめて、それを引き受けた。健康のことは勿論だが、私のどこにそんな資格があるかを、自分にはつきり納得させるのにすこし骨が折れた。 私はなるほどフランス文学をいくらか専門にやりはしたが、もともと、ロシア文学は好きだ。ことに、芝居の領域では、むしろ、ロシアの近代劇に一番親しみを感じてゐるといつていゝ。私はロシア語は読めないから、いろんなひとの翻訳を較べてみ、同じものでも、こんなに変つたものになるのかと不思議に思つたこともある。よしあしは別として、違つたものになることはたしかだ。 ところが、一九二二年に、モスクワ芸術座がパリで十日間の公演を行ひ、たしか八つの演し物を代る代るやつて見せた。そのなかに、当然、ゴーリキイの﹁どん底﹂も加へられてゐて、スタニスラフスキイの﹁サーチン﹂、カチャロフの﹁男爵﹂、モスコフィンの﹁ルカ﹂、チェーホフ夫人の﹁ナースチャ﹂といふ配役で、千載一遇ともいふべき豪華な舞台を見せられ、私のロシア劇に対する愛着は一層深まつた。 フランスでは、それまで、ロシア劇をやつてゐる劇団といへば、ロシア人ピトエフ夫妻の一座ぐらゐで、この劇団は、ヨーロッパ各国から集つて来た俳優志望者からできてゐたやうであつた。私はこの一座の仕事を自由に見学する許しを得てゐたので、﹁どん底﹂公演の稽古にずつと立ち合つて得るところがあつた。︵映画で日本にもおなじみのミシェル・シモンがダッタン人に扮した。︶この劇団は、ロシア劇﹁どん底﹂をフランス語でやるのだから、いはゞ、日本の翻訳劇に相当する。私は、興味をもつて、ロシア語の﹁どん底﹂と、フランス語の﹁どん底﹂とがどう違ふかを、おぼろげながら比較することができた。 さて、私は間もなく、日本に帰り、築地小劇場の舞台で小山内薫訳、演出の﹁どん底﹂を見る機会を得た。小山内の言ふとほり、これは、たしかに﹁モスクワ芸術座﹂の忠実なコピイに違ひなく、多くの人々に強い感銘を与へたと思ふが、ただひとつ、私の腑に落ちない点は、日本の﹁どん底﹂は、なぜこんなにじめじめしてゐて暗く、やりきれないほど﹁長い﹂か、といふことであつた。ロシアの芝居は、いつたいに長い。しかし、﹁どん底﹂は、こんなに暗い芝居だらうか? どこかに、移植の途中で変質する理由があるのではないか? と私は、それ以来、ロシア劇ことに﹁どん底﹂の﹁明るさ﹂についていろいろ考へた。 ゴーリキイが、この作品のなかで、しばしば、時は﹁新春﹂だといふことを見物に想ひ出させようとしてゐるのは、それと関係はないだらうか? 象徴とはさういふものではないか。強ひてイデオロギーの有無に拘泥しなくても、戯曲﹁どん底﹂は、長い北欧の冬からの眼醒めを主題とする希望と歓喜の歌が、この、辛うじて人間である人々の胸の奥でかすかに響いてゐるやうな気がする。ゴーリキイは、﹁どん底﹂の人々の誰よりもスラヴ的﹁楽天家﹂なのである。