最近、同じ作者の﹁にんじん﹂がいろいろな事情に恵まれて短期間に不思議なくらい版を重ねたのであるが、訳者はもちろん、この﹁ぶどう畑﹂が﹁にんじん﹂のごとく一般の口に合うとは思っておらぬ。ただ、﹁にんじん﹂によって作者ルナアルの一面を識しった読者に、あらためて﹁ぶどう畑﹂の一面を紹介することにより、このたぐいまれな芸術家の風貌をやや全面的に伝えることができたら、訳者の望は足りるのである。 ﹁にんじん﹂が、彼の少年時代を苦き回顧の情を以て綴ったものとすれば、﹁ぶどう畑﹂は、よりストイックな心境を透とおして、人生と自然とに慎ましい微笑を送っていることがわかる。 浪ろま漫ん的ユモリスムから古典的自然主義への進展は、彼に取っては一つの飛躍であり、転向であるとさえ思われるのであって、小説﹁にんじん﹂に含まれる﹁俗情﹂の意識的暴露は、ルナアルの一生を通じて、悲劇的な執拗さを示しているにもせよ、読者を反発せしめるものがしだいになくなって来た。 ﹁ぶどう畑﹂において、特にわれわれを愉たのしませるものは、彼自ら、﹁幻イメ象ージの猟人﹂と呼ぶにふさわしい観察の記録である。 彼が好んでつかう比喩の形式を、思想の貧しさとして嗤わらうものもあるが、比喩は、彼の場合、単なる比喩ではなくして、生命の瞬時の相すがたである。彼は日記にもそのことを記しているが、人はある時はそれに気づかず、あるときはふと、それに気づくことがある。時と場所とをかえて彼の作品を読むがよい。かつてはさほど印象の鮮やかでなかった個所が、とつぜん、いきいきとわれらの眼前をよぎるであろう。彼はつねにかくある姿を描こうとしない。また、何なん人ぴとも、かく感じ得る状態を捉えようとしない。その代り、人間なら誰でも、ふとした機はずみに、ある限られた条件で、そのものを観み、聞き、触れる場合には、必ずそう感じなければならぬ一つの姿を、驚嘆すべき正確さを以て言葉に写す技を心得ているのである。﹁卑小さの偉大さ﹂という評言は、いわば、俗眼に映ずる非凡な風景を指すのであろう。 こういう特質は、文学のあらゆる特質のうちで、最も翻訳に適せぬものと信じるが、この冒涜は、私のルナアルに対する無上の愛によって償いたいと希ねがっている。 ﹁ぶどう畑﹂は、一八九四年︵明治二十八年︶著者三十歳の時の出版にかかる。﹁にんじん﹂も同年の出版であるが、それよりも少し遅れて出た。 ルナアルについては、言いたいこと、言わねばならぬことが私にはいくらでもあるような気がするが、それを纏まとめて発表する機会もあると思うから、ここでは、参考のために、簡単な年譜を記しておくに止とどめよう。 ﹇#改ページ﹈
一八六四年二月二十二日。フランス国ニヴェエル県シャアロンに生る。
一八六六年(?)。シトリイに移住す。
一八七四年︵?︶。ニヴェエルのサン・ルイ寮に入寮、ここより小学校に通う。年三回、兄のモオリスとともに帰省す。︵﹁にんじん﹂のうちに描かれている生活は、この期間の生活である︶
一八八一年。パリに出いで、下宿よりシャルルマアニュ高等学校文科に通学す。高等師範学校の受験を断念す。
一八八三年。高等学校卒業。﹁ゴオロア﹂紙の主筆に面会し、爾後同紙に寄稿す。
一八八五年。短篇集「村の罪悪」出版を拒絶せらる。
同年、ブウルジュの歩兵連隊へ一年志願兵として入隊す。
一八八六年。歩兵伍長として除隊。東部鉄道会社に傭わる。月給百二十五フラン。
その後、倉庫会社に転じ、新聞綴込係となり、またリヨン氏の秘書兼家庭教師の職を得。
同年、国立劇場女優ダヴィイル夫人により、自作の詩「薔薇 」朗読せらる。
同年、結婚す。
一八八八年。「村の罪悪」出版せらる。
一八八九年。長男出生。
メルキュウル・ド・フランス誌の再刊に当たり、同人に加わる。
その後、アルフォンス・ドオデエの家に出入りし、また、リュシヤン・ギイトリイ、エドモン・ロスタン、トリスタン・ベルナアルなどと交りを結ぶ。
一八九四年。「にんじん」を出版す。
同年、「ぶどう畑のぶどう作り」を出版す。
一八九五年。郷里に近きショオモに家を借り、毎年四月または五月より十月までを過ごす。
一八九六年。「博物誌」を出版す。
一八九七年。戯曲「別れも愉 し」初演さる。
同年、父自殺す。
一九〇〇年。戯曲﹁にんじん﹂アントワアヌの手により上演さる。ショオモ村会議員に選出さる。
一九〇四年。シトリイ村長に選挙さる。
一九〇七年。ユイスマンスの後をうけ、アカデミイ・ゴンクウル会員に選ばる。
一九〇九年。母病死す。
一九一〇年。動脈硬化症にかかり、五月二十二日払暁、パリの家にて歿す。
一九二五―二七年 全集出版さる。(一八八七年より死にいたるまでの日記初めて世に