取引にあらず

岸田國士




人物
遠藤又蔵
妻 なほ
娘 きぬ
学生
床屋の主人
若い男
老紳士
隣の細君
職人

場所
東京の場末


冬のはじめ
[#改ページ]


煙草店の主人遠藤又蔵は、夕刊を読みながら、傍の娘きぬに話しかけてゐる。

又蔵  そんなこと云つて、お加代はあれでいくら取つてると思ふ。
きぬ  先月から三十円になつたのよ。
又蔵  だからさ、その三十円は、お前、みんな電車代とお化粧代になつちまうんだぜ。
きぬ  知つてるわ。
   
  
  
きぬ  かうしてゐたつて、ろくなもんになりつこないわ。煙草の名前なんか覚えたつて、誰もえらいつて云やしないし……。
  
  
  
きぬ  ぢや、どうしても駄目なの。
  
きぬ  (箱からチエリイを出して、罎に入れる)晩の仕度でせう。
又歳  ぼんやりした奴がゐるもんだなあ。自動車の中へ二千円忘れてつた男がゐるとよ。
きぬ  (それに頓着なく)うちでも外国煙草を置くやうにしないと随分損だわ。此の頃毎日のやうにさういふお客さまがあつてよ。

  

此の時、学生風の男が店先に近づき、棚の中を眺めまはしてゐる。

きぬ  いらつしやいませ。
学生  ウエストミンスタアありますか。
きぬ  (父親の方を見る)
又蔵  スタアですか、へえ、(きぬに)おい。
学生  ウエストミンスタアは……?
又蔵  ウエストの方はありませんが……。
  
きぬ  外国煙草は、何にも御座いませんのですけれど……。
学生  なんにもないんですか。
又蔵  アルマかナイルぢや如何です。
学生  あいつあ、まづくて。そんなら、間に合せにバツトを一つ貰つとかう。

きぬ  (バツトを渡し)有りがたう存じます。





床屋  たうとうつかまりましたね。
又蔵  つかまつたねえ。犯人はわしのにらんだ通りだ。
  調
又蔵  何しろ、世界で二番目てえんだから大したものさ。
床屋  二番目てえと……。
又蔵  一番は無論、独逸さね。
床屋  さうかねえ。
  
床屋  お隣の須田さん、あれで世界第二かね。
  
床屋  …………?
又蔵  あの売家の話さ。
  
又蔵  手取り三千ならいゝんだらう。わしにまかしときや、売つてやるんだがなあ。
床屋  こんだ来たら話して見ませう。此の間、奥さんが、お隣の煙草屋さんでも札を出してくれないか知らなんて云つてましたから……。
又蔵  それから、あれは、例の売薬の話さ。
  
又蔵  当れや、儲かるんだがなあ。勿論、田舎へ持つてかなきあ……。
床屋  おきぬさん、昨夜はどうも……。
きぬ  あら、なんでしたつけ……。
床屋  いやだなあ、知らばくれちや……。
きぬ  だつて、わからないわ。あたし……。
床屋  わからなきや、いゝや。
又蔵  どうしたんだい。
  
きぬ  あら、さうぢやないわ。あんまり度々呼びに行かされるからよ。
  
又蔵  球は上達したかね。
床屋  青木堂の旦那と同じ、三十五。あたしの方が半年も後で始めたんですよ。
又蔵  向うは、その代り、中気病みぢやないか。
  
又蔵  喜楽軒は、はやつてるかね。
床屋  近頃、下火のやうですね。いくらなんでも、お神がああうるさくつちやね。
又蔵  それがうれしいつていふお客もあるだらう。
  

又蔵  うまいね、芳さんは……。


此の時、若い男がはひつて来る。

又蔵  いらつしやい。
  
又蔵  さやうですか。お家は、どちらで……。
  
  
きぬ  (バツトを若い男に渡す)お一つでよろしうございますか。
  
きぬ  そんなこと、よろしうございますわ。
又蔵  折角、あゝおつしやるんだから、お気の済むやうに、お預りしといたらいゝぢやないか。
きぬ  でも……。(さう云ひながら、差出されるまゝに、袋入りの尺八を受け取る)
若い男  ちよつと、なかを見てください。竹の棒ぢやありませんよ。
又蔵  (袋を受け取り)なに、拝見したつて、手前どもにや、わかりやしません。

若い男  それだつて、一円や一円五十銭にや売れますよ。そんなら、どうぞ……。(去る)




又蔵  見たことのない人だね。
きぬ  この辺の人なら、大概わかるんだけど……。
  宿
  

床屋  火吹竹にしちや、艶がよすぎらあ。(受け取つて、吹く真似をする)心細い音を出しやがる。


此の時、堂々たる風采の老紳士が店先に現れる。

きぬ  いらつしやいませ。
老紳士  葉巻はないかね。
きぬ  お生憎さま、ございませんのですが……。
老紳士  さうか。此の辺には、さういふ店はあるまいね。
きぬ  此の先の停留場までいらつしやれば、一軒、ございますけれど。大きな煙草屋が……。
  
きぬ  いゝえ、そんなことして頂きませんでも……。
又蔵  欲しいとおつしやるものなら、差上げたらいゝぢやないか。
  
  
老紳士  (驚きの色をあらはし)これを、黙つて預けて行つたの。
又蔵  へえ。
  
又蔵  なるほどね。
  
  
老紳士  此処でぼんやり待つてるわけにも行かんから、それぢや、その方が来られたら住所とお名前を聞いて置いて下さい。何れ出直して来るから……。
又蔵  さやうですか。承知いたしました。
  
床屋  へえ。
  
  
床屋  まつたくね、さう云へば、この袋なんかも昔のもんですね。
  
床屋  名前を聞いたばかりぢやわからねえが、どれくらゐの値打のものでせうか。
  
  
  
  
きぬ  あら、向うからいらしつたわ。
  

老紳士  さう、それぢや、そこの球突屋で球でも突いてることにしよう。話が済んだら迎ひを寄越して下さい。(去る)


入れ違ひに、さつきの若い男が現れる。

  
きぬ  はい。(バツトを渡し、金を受け取る)
  
きぬ  (奥に去る)
又蔵  芳さんも、かういふ話だから、ちよつと、外してくれないか。
  
又蔵  ぶしつけなお話ですが、此の尺八、手前に一つ、お譲り願へませんでせうか。
若い男  (驚いて)これをですか。
  使
  
又蔵  さうでせうな。
  
又蔵  はゝあ、御尤……。しかし……。
  宿
又蔵  しますと……。
  
  宿宿
  

又蔵  よろしい。御相談、伺ひませう。


長い間

若い男  少し変だなあ。
又蔵  かまひません。一月分の下宿料、かまひません。
若い男  ほんとにいゝですか。ぢや、百円はどうです。

又蔵  (眼をみはり)百円……。


やゝ長い沈黙…

若い男  驚いたでせう。
又蔵  一月分ですか、それや……。
若い男  尺八の値段ですよ。

又蔵  なるほど……。(考へ込む)


やゝ長い間

若い男  さよなら……。冗談ですよ、今のは……。(笑ひながら去らうとする)
  
  
  調

  

長い間

  

又蔵  (黙つてうなづく。一心に尺八を見つめてゐる)


若い男が去つた後、また長い沈黙が続く。

又蔵  (思ひ出したやうに)きぬや、さつきの方を呼んで来な。喜楽軒へ行つてもういゝつて、さう云つて来な。
きぬ  (奥から顔を出し)どうだつた。

又蔵  いゝから、早く迎ひに行つて来な。


妻のなほが現れる。

なほ  もう御飯ですけれど、御風呂を先になさいますか。
又蔵  おい、聞いたか。
なほ  尺八の話ですか。そんな夢見たいな話つてあるもんですか。
又蔵  まあ、見とれ、一晩に二百円は、ぼろい儲けぢやないか。
なほ  そいぢや、あんたが仲にはひつて、二百円も……。
又蔵  こら、大きな声を出す奴があるか。きぬはもう行つたか。
なほ  なんだか、ぶつぶつ云ひながら出て行きましたよ。

  

何時の間にか、なほの姿は見えない。


  

床屋の主人が、またやつて来る。

床屋  どうでした。物になりましたか。
又蔵  いやはや、骨を折らしたよ、奴さん。
床屋  感づいたかね。
又蔵  感づいたどころぢやない。ちやんと、値打を知つてござるよ。
  
  
  
  
床屋  あたしや、また、ゐない方がいゝね。
  

床屋  顔は出しとくもんだね、何処へでも……。


丸髷に結つた隣の細君が現れる。

又蔵  いらつしやい……。
細君  今日は……。随分寒いのね……。
  
  
床屋  大人でせう。
細君  大人ですとも……洋服のポケツトから紫のハンケチなんかのぞかせて、それや気取屋なの。それはさうと、また敷島を十ばかりいたゞいて行くわ。
又蔵  十ですか。(数へて渡す)
細君  ぢや、これ、つけといて頂戴ね。

又蔵  へえ、へえ。


隣の細君急いで去る。

床屋  なるほど、図々しいもんだね。
又蔵  それだけならいゝが、うちのおきぬに、顔さへ見れや、金歯を入れろつて勧めるんだとさ。
  
又蔵  おい、まだ来ないかね。一寸、向うを覗いて見てくれ。
床屋  (外へ出てその方を見る)見えないね。一ゲームすまして来るつもりかな。
又蔵  おきぬはなにしてるんだ。
床屋  珍しいからそばで見てるんでせう。
又蔵  さつさと先へ帰つて来れやいゝのに……。
床屋  あゝ見えた、見えた。
又蔵  二人とも。
床屋  いや、おきぬさんだけ……。
又蔵  一人かい。
床屋  後ろを向き向き走つて来る。
又蔵  ようし……。すぐ来るかどうか訊いてくれ。

床屋  おきぬさんにかね。


さういつてるひまに、表から、きぬが帰つて来る。

きぬ  ゐないわよ、あの人……。
又蔵  (跳上らんばかりに)なに、ゐない?
  
床屋  此の辺にや、あそこ一軒しきやないよ。
  
床屋  よし来た。

きぬ  あたし、ちやんと訊いたのよ。


床屋走り去る。

  
きぬ  中をのぞくだけでいゝの。

  

きぬ、出て行く。
なほ、奥より現はれる。

なほ  御飯はもう出来てるんですけどねえ。
  
なほ  おや、今度は、百円捨てることになつたんですか。
  
  

  

なほ、引込む。
職人体の客が来る。

客  朝日一つ……。
又蔵  どうぞお持ちなすつて……。
客  おつりだ。
又蔵  おいくら……。
客  五円で……。
又蔵  細いのをみんな出しちまつたんですが……。

客  そいぢやしかたがない。(去る)


床屋が帰つて来る。

又蔵  わからんか。
  
又蔵  巣鴨の何処……。

床屋  停車場だつて……。


きぬが帰つて来る。

  
又蔵  (遮るやうに)それぢや、お前、あの男ぢやないか。
きぬ  (平気で)えゝ、さうらしいわ。

  鹿 

きぬは中腰になつて履き物を探す。


  








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   1930528
 
   1929411
kompass

2012220

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