今日は、ひとつ、私の子供の時分――小学校時代のことを話しませう。私は八つから小学校へ上りましたが、その年が丁度﹁日露戦争﹂の終つた年でしたから、もうよつぽど古いことです。
その頃、私の村には小学校が二つありましたが、大きい方も小さい方も、どちらも尋常科だけで、高等科は隣村の町にしかなかつたのです。しかもその頃の尋常科は四年まででした。それで卒業なんです。
私の上つたのは小さい方の、﹁就しう徳とく尋常小学校﹂といふので、先生がたつた一人つきり、生徒が、一年から四年まで合せて五十人ほどでした。校舎も一つで、教室も一つきりでした。
カーン〳〵・カーン〳〵と、授業の始まるごとに合図の板木を叩たたくのは先生で、時には先生の奥さんが叩くこともありました。この学校には小使さんなんか居ないで、先生と奥さんとが二人の子供をつれて、いつも泊りこんでゐるのでした。
さあ、カーン〳〵が鳴つたといふと、みんな大急ぎに駈かけ足あしで帰つて来ます。それもその筈はず、いつだつて、たいてい生徒は学校の庭で遊んでゐることはなく、大きな子供なんかは五・六丁も先の小山や、小川や、田たん圃ぼ道で遊んでゐたからです。あんまり遠くへ行つてゐるとカーン〳〵が聞えないので、そんな時は、誰でも聞えた者が知らせ合ふことになつてゐました。
ワツシヨイ〳〵と帰つて来ると、校舎の玄関を入つて左に折れ、たつた一つの教室の入口の土間に飛びこみ、そこへゴチヤ〳〵に草履や下げ駄たを脱いで教室にながれ込むのですが、履物にはみんな名札が附いてゐたので、めつたに無くなることはありませんでした。
教室の正面には長い教壇があつて、壁には四つの黒板がありました。その黒板に向つて、二つづつの生徒の机が四通りに並んでゐました。一番右が一年生、その次が二年生といふ風に、四年生まででしたから四通り、そして黒板が一つづつあつたわけです。
これを、たつた一人の先生が教へるのですから、先生はとても大へんです。
﹁さあ、みんな〳〵、こつちを見い! こら、一年生の荒あら木きと三太た、お前ら何しとる! こらツ、三年の吉よし川かは静しづ江え、今お手玉を出しちやいかん! 四年の太おほ田た! 二年の松まつ井ゐ! みんなチヤンとしてこつちを見い!﹂
先生は尖さきの垂れ下つたくちひげを生やし、いつも着物を着て、一本のムチを持つてゐました。ムチは、一メートルばかりの長い竹の根で作つたもので、或る子供が数へたのですが、本から尖までに七十三も節がありました。このムチが、みんな怖かつたのです。油断をするとすぐ飛んで来て、机か頭か手かをひツぱたいたからです。
この先生は、ふだんはとてもやさしくて、何を云つても黙つてニコ〳〵して、くちひげばかりひねつてゐるのでしたが、教室に入つて授業を始め出すと、どうしたものか気が荒くなつて、云いふことをきかないと、小さい子でも女の子でも黒板や机と同じやうに、すぐひツぱたくのでした。ひツぱたくばかりでなく、時には板戸のはまつた押入や物置に入れたり、﹁直立﹂と云つて、先生の部屋へつれて行つて、気をつけエをさしたまま、一時間も二時間も同じ場所へ立たたせて置くのでした。
私には十も歳上の姉さんがありましたが、その姉さんの教をそはつた先生などは、もつとひどいことをしてゐたさうで、﹁直立﹂なども、両手をまつ直ぐ右左へ﹁一﹂の字に上げさせて、その両方の手のひらへ、水の一ぱい入つた湯呑をのせたものださうです。そして水を少しでもこぼすと、またすぐムチが飛んで来るのでした。
この時分の﹁先生﹂は、ずいぶん乱暴だつたやうです。けれどその時分の人達は、﹁先生﹂といふ人はそんなことをしてもよいやうに考へてゐたのですから、生徒の親たちも何も云はなかつたわけです。今から考へると、全く嘘うそのやうにしか思はれないでせう。
とにかく私たちの教はつた頃ころは、まだそのムチが凄すごい力をもつてゐた頃で、みんなそれを怖がつてゐたのです。だからその頃の私たちは、ムチのためにおとなしくし、ムチのために勉強をさせられてゐたやうなものでした。
先生はムチをふり〳〵、一年から四年まで、代る〳〵教へて行くのです。例へば一年生に読方を教へる時には、二年生は習字、三年生は算術をやり、四年生は綴つづ方りかたを書いてゐるといふ風に、これを順ぐりにやるのです。
﹁二年生、手をおいて!﹂と云つて、先生が二年生の前の教壇に立つた時には、もう一年生は読方の自習か、書取をさせられてゐるのでした。
﹁三年生、手をおいて。――答の出来た者? おいお前、前へ出てやつて見い!﹂
次には四年生。それからまた一年生、二年生といふ風に、いつの時間もこんな調子ですから、先生もなか〳〵骨です。
授業は大抵、一年生以外は毎日朝から午後一時、二時頃までありました。けれど、今の小学校のやうに﹁時間割﹂といふものがなかつたし、先生も一人きりだつたので、先生の都合で勝手な授業がやられました。
或ある時などは、先生が病気のために一日中自習をさせられ、また或る時などは、何年生は一体に字が下手だからと云ふので、毎日々々習字ばかりさせられたりしました。だから生徒の方でも、いくら先生がムチを持つてゐられても、時々はいたづらや、反抗をする者が出て来て、とても面白い大騒ぎの始まることがありました。
それはちよつと変つてゐるので、ついでに、一つ話してみませう。
私の二年の時でした。
毎日、二・三時間づつ習字ばかりやらされてゐた三年生の男の子全部が、突然、或る時間から居なくなつてしまひました。カーン〳〵が鳴つて、みんな教室に入つて授業を始めてゐるのに、いつまで待つても帰つて来ないのです。男の子全部――六人の三つの机の上にはキチンと、硯すずりと筆と習字手本と草紙とが置かれたまゝです。
遠くへ遊びに出てゐて、カーン〳〵の聞えないことは偶たまにはあることでしたが、でも授業が半分もすんで、まだ帰つて来ないといふことは、めつたにないことでした。で、先生も少々気になつて来たのか、ふと授業を止めて、
﹁誰ぞ行つて見て来い。﹂と云はれました。
﹁先生、わし行きます。﹂と云つて、四年の男の子が一人突つ立ちました。すると他の四年の男の子たちも、
﹁先生、わし行かして――﹂
﹁わしも行く!﹂
﹁わしも!﹂
たうとう四年の男の子全部――五人とも立ち上つて、気の早い子はもう出口の方へ駈け出して行きました。
﹁おい〳〵、すぐつれて来るんだぞ。遊んぢやいかんぞ。わかつたな?﹂
﹁わかりましたア!﹂
みんな威勢のいゝ返事をして駈け出して行きましたが、五分たつても十分たつても、誰も帰つて来ません。そのうち休みの時間になり、次の授業のカーン〳〵が鳴りました。
けれど、まだ三年の男の子も、迎へに行つた男の子たちも帰つて来てゐません。先生は腹も立てば、心配でもあつたのでせう。自分で玄関脇わきの板木をはづし取つて来ると、校門の外へ出て、力一ぱい、カーン〳〵・カーン〳〵と打ち鳴らすのでした。
けれど、それでも帰つて来ないので、先生は大分心配になつて来たらしく、今度は内に入つて帽子を冠かぶつて出て来られました。そして三年四年の女の子たちを引率して、トツトツと校門を出て行かれました。
﹁やあ、さがしに行くんだな。いゝなア。﹂
私たちは羨うらやましいので、囃はやし立てゝ見送りました。女の子たちは嬉うれしさうに、手を挙げたり、おじぎをして出て行きました。
ところが、どうでせう。先生と女生徒たちが探しに行つて見ると、三年と四年の男の子たちはみんな、威勢よく尻しりをからげて水田に入り、熱心に田植を手伝つてゐるのでした。
先生はポカンとしてしまひました。叱しかるわけにも行かず、そのまゝ女生徒をつれてノコ〳〵と帰つて来たのです。と云ふのは、その田は良りよ平うへ爺いじいさんの小作田で、爺さんには良作といふ息子があつたのですが、﹁日露戦争﹂の遼れう陽やうの戦ひで死んでしまひ、今年は、よそには田植がすんだ今時分、まだ半分も残つてゐたのでした。
その夕方、良平爺さんはお葱ねぎを一束かかへて、先生のところへ御礼に来ました。
﹁先生様、今日は生徒さんたちは田植を手伝はして下さりまして、おほけに有難うござりました。とても助かりました。子供もバカにやなりませんなア。有難うござりました。﹂
こんなわけで、この時は、生徒は誰一人叱られずに済みました。でも、こんなことばかりはなかつたのです。
ついでに、も一つ変つた話をしませう。
これは私の四年の時のことで、私たちのひき起した騒ぎでした。
九月の新学期が始つて学校に行くと、私たち四年生は、男女代る〳〵水汲みをさせられました。旱ひで魃りのために学校の井戸水が空になり、飲み水さへなくなつてゐたのです。
男の子も女の子も、毎日休みの時間に二人で一つのバケツを提げ、五丁もある水車のわきの協同井戸まで降つて行きました。そして裳す裾そをぬらしながら、やつと半分そこ〳〵の水を汲んで来ると、炊事場の大きな水甕にあけ、今度は次の二人と代るのでした。
水車のわきの小川には、いつも目め高だ魚かや、泥どぢ鰌やうや、田たに螺しや、小こが蟹にや、海え老びの子などがゐました。私たちはそれを捕つてバケツに入れ、カーン〳〵の鳴るまで、のんきにそこで遊ぶのでした。
或る日のことでした。カーン〳〵が鳴り出したので、私と野口君とは急いでバケツを洗つて、きれいな井戸水を汲みました。すると目高魚を握つてゐた大下君が近づいて来て、
﹁おい、この中へ目高魚を放しとかうや。わかりやせんぞ。﹂と云つたものです。
﹁おい〳〵、それよりこの方がえゝぞ。これを見い!﹂
﹁なんぢや、雨あま蛙がへるか?……﹂
﹁すてき、〳〵!﹂
﹁素的々々!﹂
みんなとても喜んで、すぐバケツの水に入れて持つて帰り、そのまま何食はぬ顔をして水甕に入れてしまつたのです。
その翌日、また同じことをやりました。
すると、その日の二時間目か三時間目かの始めに、たうとう先生に奴鳴りつけられてしまひました。先生はカン〳〵になつて、正直に誰がやつたかを云へ、といふのです。
でも実際のところ、みんなが﹁すてき〳〵﹂でやつたことですし、それに一人だけを、あの七十三節もあるムチでひツぱたかしても困るので、私たちはどこまでも押し黙つてゐました。
﹁よし、そんならみんなを処罰する。生徒の身分で、先生の飲み水に蛙を入れるとは何事だツ。四年の男子、みんな後に出ろ!﹂
私たちは後の壁際に立たされて、その時間の終わるのを待たされました。どうせ今日はムチに見舞はれると思つたので、その時は両手で耳と頭を抱へて、力一ぱい喚わめき上げようと、みんなコツソリ相談し合ひました。
その時間が終りました。ジロ〳〵見ながらみんなが出て行つてしまふと、先生は私たちを教室からつれ出して、炊事場のわきの物置へ入れてしまひました。
物置には板戸がはまつてゐて、中には炭俵や薪や古ふる縄なはなどがありました。そこへ六人のイガグリ坊主が入つたのですから、淋さびしいことも辛つらいこともなく、かへつて面白いばかりです。
﹁おい、何かやらかさうか。拳けんはどうぢや、拳は?﹂
﹁よし、拳々! ウンと出した、パラリと出した、チヨツキリ切つて――﹂
すると、この騒ぎを聞きつけて、先生の奥さんがコツソリやつて来て、心配さうに止めるのです。
﹁静かになさいよ。おとなしくなさつてると、わたしがすぐ出してもらつて上げますから。騒ぐと、どんなひどい目にされるかわかりませんよ。﹂
すると物置の中の私たちは、元気よく云ふのです。
﹁なんだい、ムチなんか怖くねいや!﹂
﹁折つちまふぞ!﹂
でも先生の咳せき払ひや、足音が聞えると、みんな黙つてしまふのでした。
そのうち三年生の男の子が、先生や奥さんの隙すきを見て、私たちに会ひに来てくれ、今日は放課後もみんな帰らないで、お前たちを待つてゐてやるぞ、と云つてくれました。
お午ひるが来て弁当を食べましたが、私たち六人は別に、あとから食べさせられました。その時私は、一年生の弟が、教室の入口にのぞいて泣いてゐるのを見て、
﹁弁当食うたか?﹂と訊きくと、黙つて頭を横にふつたので、ひどく悲しくなりました。
けれど物置に入れられると、またみんな騒ぎ出しました。特に授業中は、先生が教室にゐることがわかつてゐるので、先生の奥さんに無理ばかり云つて、何度も小便に行つたり、運動場を歩き廻まはつたりしました。
その日私たちは、夕日が庭木の影を長々と運動場に引いてゐる頃、やつと物置から先生の奥さんにつれ出されました。私たちは心細くなつて、みんな泣きさうな顔をしてゐました。
﹁わたしから、よく先生にあやまつて上げますから、もうこれからは、けつして悪いことをしてはいけませんよ。みんなよくわかりましたか? ぢや、先生はあちらにいらつしやいますから、みんなおじぎをしてお帰りなさい。﹂
私たちは眼を潤ませて奥さんにおじぎをし、また先生にも黙つておじぎをして帰りました。そしてそれきり、この騒ぎはすんでしまつたのです。今から考へると、懐しい思ひ出です。
とにかくその頃の小学校は、ずいぶん変つてゐたことがわかるでせう。まだいろ〳〵面白い話が沢山あるのですが、あんまり長くなるので今日はこれだけにして置きませう。
―昭和八年九月五日作―