隨筆 藪柑子

土井八枝






稿
 

昭和十五年十月
土井晩翠




 
 
 

調
 姿
 

 
滿宿宿


 
 
 
 
 
 
 姿姿
 
 椿
 
 
 
 
 
 
(昭和十五年七月稿)
[#改ページ]
[#ひめだるまの写真(fig45338_01png、横441×縦233)入る]
[#改丁]

姫だるま





 
 姿
 滿
 



 
 
 
 
 



 
 
 
日の本の女性のかゞみ姫だるま
    内強うして見るめやさしき
の歌をかいた、又その内側の説明文は次の通りであつた。

昭和十年夏
高知縣立第一高等女學校



 
 
若き子の理想の型の稚兒だるま
    強く正しく屈せず倒れず
の歌の下の句を銀文字で書かせた。
 この二つの達摩は高知丈けでなく廣く世上に賣出された、いつか東京の三越の人形棚の中に此人形が澤山竝んで居るのを見つけた時は我が子に廻り會つた思ひがして嬉しかつた。



 綿使綿
 
 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)
 
 
 
 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)
 
 
()()
 
 
 調使
 
 




 
 
 
 
 
 
 ()()()()
 
 
 
 
 便
 姿
 
 
睦み合ふ友を力に濱千鳥
    荒き波風凌ぎ飛ぶらむ

 
 宿宿
 宿宿使
 



 
 
 
 調
 使便
 



 
 
 
 
 
 鹿
 便
 
 
 
 
 使



 使使
 
七轉び八起きのだるま見る如く
    やまとますらを皆起き上る
 或時牧互秀先生門下の二三名と共に仙臺陸軍病院へ揮毫慰問に仲間入りして白衣の勇士方の前で繪をかいた事があつた。一筆描きのだるまは、不倒翁の起き上るの縁起の爲めでもあらうか、大變に人氣がよかつた。
 其後も機會のある毎に團扇や紙片に畫いて、兵士方へ慰問の贈り物としてゐる。

 昭和十年に松南先生の繪から考案して、始めて世に出た姫だるまが手拭となり、浴衣となつて多くの人々の役に立ち、更に私に繪筆をとらせて勇士に慰めを與へ、皇國への御奉公の一端なりと御手傳ひさせて頂いてゐるといふ事は、何といふ不思議な發展であらう。唯々感謝の外は無い、私は此後も絶えず姫だるまを描く覺悟である。
(昭和十五年十月)






 
 西
 
 退
 
 
 
 ()()※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)()()()
 使
 
 
 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)滿
 姿姿滿
 
 調
 
 





 
(昭和十五年十月)




         



 
            ×        ×        ×
 
 
 
 
 
 稿稿稿
 
 
 
 
 
 
            ×        ×        ×
 宿宿宿
 便
 便
 
            ×        ×        ×
 
(昭和十四年七月三十日「河北新報」)




 
 
 
 
 
 
 宿
 
 
(昭和十五年十月)




 
 
 


 調
 

 
 
 

 
 
 
 
 
 使
 
(昭和十五年七月)




 
 
 

  
 
 
 
 宿滿
 




 西


 






 
 

滿 
 
滿
 
 

 ※(「口+云」、第3水準1-14-87)


 
 

 駿
 
 姿

 

()()()()
 
 
 
 宿

 祿
 
 宿
 
 
 
 
姿
 滿
 
 宿
 
(昭和十五年五月十五日)






 西駿
 便
 姿
 ()

 
 
 
 沿沿 姿U+7FA176-11
 姿



U+7FA178-2



 

 

 
 

 


 

 
 綿姿退U+7B1F81-12
 宿宿

 
 宿
 


 


※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)
 ()()()
 ()
 
 
 
 U+7FA187-6
 

 

 
(昭和八年三月)




 便

 
 
 
 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)
 
 
 
 
 
 綿

 
 調
 
(昭和十一年三月 仙臺にて「愛生」)
[#改ページ]






 滿
 
 殿
 
 便使滿姿

 
 
 
 
 
 



 
 
 
 


 姿
 
 



 沿
 
 
    
 

 



 
 
 殿
 

 

 姿姿
 U+7FA1103-3





 
 
 
 
 



 殿
 
 
 

 
 
 使
 
 
 



 

 
 
 
  
つれつれの友となりても慰めよ
    行くことかたき我にかはりて

 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)
  姿
 
 


    




 西
 
 
 
 

 
退


 





 
 



 
 

 
 
 
 便
  
 
(昭和十年十月卅一日稿「主婦之友」昭和十一年一月號)






 
 
 
 
 
ほーたるこーい、水飮ましよ、そつちのみーづはにーがいぞ、こつちのみーづはあーまいぞ、ちよつときてのうでいけ
滿
 ()()
 
 
 
 調姿
 


 
 
 
(昭和十年六月廿七日稿)
[#改ページ]



 
 姿

 
 
 


  

 
 退
 鹿
 調
 
 姿綿
 使
 
 
 
 

 



 
 
 
 
 姿
 
 

 
 
 
 
 



 
 
 
 姿



 西
 
 
 
 
 
 
 

 
(昭和十一年十月稿)「高知新聞」




 
 
 

 調





 








 






 
 
 
 
 
 ()()()
 ()
 
 鹿
滿

 滿
 滿

 姿

 
 
西
 
 
 
 西
 
 鹿姿
 
 
 

 
(昭和十一年六月稿「高知新聞」)




 
 
 
 
 姿
 滿
 
 
 使
 
 
 
 
 

 
 
 調
 
 鹿
 
 
 
 
 滿退
 
(昭和十四年二月廿五日仙臺放送局より放送草稿)




 

 
 西
 西西西西西
 綿
 綿綿綿綿
 使
 
 使使便調便綿調
 鹿殿
古の道を聞きてもとなへても我が行にせずば效なし
 私はこのお歌の心を身にしめて何でも感心した事は直に實行に移し、それが自分のものになる迄努力したいものだと考へて居ります。これで私の講演を終ります。
(昭和十四年十二月卅日午後三時仙臺放送局より放送草稿)






 
 
 使
 調
 退
 
 姿
 
 
 便
 調調
 調使
 
 
 使

 
 滿

 廿廿調

 
 調
 
『私が急遽土井邸にかけつけて病室に入つて驚いた事は、照子さんが何ともいへぬ嬉しさうな顏をして手をさしのべて握手をもとめられた事、更に驚いた事は其室のどこにも暗い蔭がなくそこに居る誰の顏もが晴れやかであつた事である云々』
 
一、神よみ惠みを 思ひ見れば
    えいはぬばかりに 嬉しきかな
二、まよへる時には 道を示し
    おごれる時には むちをたまふ
三、この身にあまれる みいつくしみ
    をさな時より いやつもりぬ
四、つもりにつもれる み惠みをば
    この世にかの世に うたひつゞけん
 

  調
調

 
 
 

 

 
 
 
(昭和七年七月卅一日「婦人之友」)




 
 
 
 
 
 

おうしうせんそう※[#感嘆符三つ、186-2]
土井英一書之 十歳

 
 
 


 
 殿殿殿
 
 

(中略)
 
 
 使
廿
大正七年十一月廿五日、廿六日二日でこれを書く
土井英一※[#丸印、U+329E、188-13]

 
小野田匡高
 
 ※(二の字点、1-2-22)便
        
 滿
 退西姿
 
 
        
 西
        
 姿
 
        
 
 使
 姿

 便便
 ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)
 
 
 稿稿
  Mizuirazuno naka
 
 Leipziger Illustrierte Zeitung 稿
 
 
 
 使

 

 
 



 
 西
 廿廿使





 
愛國切手の誕生祕話
(文部省政務次官[#改行]代議士)  内ヶ崎作三郎
 香月中將が軍用機を驅つて、風雲の北支に急行し、首相官邸では、近衞總理が各方面の代表に擧國一致の支援を求めるといふ慌しい夜、主婦之友社からI君が見えて、愛國切手誕生の祕話を訊かれた。
 實は私も、其夜の首相官邸の歴史的な集會に立會ふことになつて、とても落着いて話す餘裕はなかつたが、しかし愛國切手のことは私にとつては永年の議員生活中最も有意義な仕事で、この有意義な仕事をさせてくれた故土井英一君の靈に對して深く感謝して居るので、私は英一君の靈に捧げる氣持でこの文を綴つた。
『切手一枚輝く航空』
 便
 
 
 
 
 滿
 
 
 
 
 輿
 
輿
便使
 
U+39B8204-9
 
 
 
 
 滿
 
 宿
 
 廿
 
 
 
 
 
 



 
 
 使
 
 M()o()n()u()m()e()nt

 
西
 使
 
 使
 
 右の記事につついて[#「つついて」はママ]式辭祝辭等を載せてあるが其は皆略すことにする。
 なほ記念碑の左右及裏面の文字は次の通りである。
文盡人情美、筆開皇國華、
 先生原名ハらふかぢお・へるん英國ノ人西紀千八百五十年地中海ノれふかす島ニ生レ四十一歳ニシテ來朝シ尋デ歸化シ姓名ヲ改メテ小泉八雲ト曰フ職ヲ帝國大學ニ奉ジ英文學ヲ教授シ日本ニ關スル著述頗ル多シ千九百四年東京ニ歿シ雜司ヶ谷ニ葬ル先生ヲ景仰セル土井英一ノ遺言ニ因リ父林吉松本喜一ト相謀リテ此記念碑ヲ帝國圖書館ニ建ツ小倉右一郎コレガ彫刻設計ヲ爲ス。
昭和十年六月
鹽谷温 撰

 



 
西
 
 
 
 
(昭和十五年十月)





 
 
 
 
 
 
 
 調
 
 
 稿滿

昭和十五年十二月十四日
東京客舍に於て
土井八枝





 
 
 
天の涯にひとりやむ身も忝じけな人のなさけのかからぬ日なく

 
 
 
 退

昭和十五年九月二十八日
山梨にて

小川正子






 
   1940151230
   1941162203
5-86


Juki
2017112

http://www.aozora.gr.jp/







 W3C  XHTML1.1 



JIS X 0213

JIS X 0213-


「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1    76-11、78-2、87-6、103-3
「竹かんむり/瓜」、U+7B1F    81-12
感嘆符三つ    186-2
丸印、U+329E    188-13
「卓+戈」、U+39B8    204-9


●図書カード