そのころセント・ヘレナという島にはなにか恐しい悪気があって、二年目にはかならず死んでしまうといわれていた。警備のためにセント・ヘレナへ派遣されていた英国の一士官がロンドンの家族へこんな手紙を書いている。 東へ五百リーグ︵二千海里︶行けばアフリカの大陸があるという記憶が、発狂する危険からわずかにわれわれを守ってくれる。 南太平洋のあらゆる航路から隔絶され、無限の海の上に点のように置かれた島。赤道附近で暴風に逢ったときのほかはいかなる航海者にも用のない不毛の島。暗い谷間と岩山。急な坂ばかりで平らな地面など一トアーズもない。半年の間、蒸気釜から吹きだしてきたような暑い霧が冬のロンドンのようにどんよりとたちこめ、それが晴れると、赤道直下の焼けつくような太陽が直射してあるだけのものをみな乾しあげてしまう。 土人はなにをしてやっても喜ばない憂鬱なやつらで、植物といえば、ひょろひょろの野生のゴムの樹だけ。豊富なのは猫ほどもある大きな鼠だ。夜になると、そいつは樹のてっぺんまでのぼって行って眠っている小鳥をみな食ってしまう。 食物は野生の山羊の肉と腐った魚。水兵も兵隊も、英国へ帰ることばかり考え、一日も早くナポレオンが死んでくれるようにと祈っている。われわれは兵隊のように正直なことはいえないので、下等なラムを飲んで喧嘩ばかりしている。 ロング・ウッドという五百米もある山の頂にあるナポレオンの配居は、難破船のよせあつめのような、窓枠もないみじめなボロ小屋で、廊下の一部を毛布で仕切って浴槽を置き、そこをナポレオンの浴室にあてていた。 ナポレオンにたいして慇懃すぎるというので、前任が罷免され、有名なハドソン・ロオが総督︵センチュリー百科辞典には governor 総督とあるが、フランスのラルウスにはgelier 獄卒となっている︶になってやってくると、食費は自弁という規則をつくった。セント・ヘレナへ送られる途中、金も宝石も手形もみなとりあげられ、わずかばかりの金を隠して持っていただけだったので、間もなくナポレオンはじめ随員一同、文字通りの無一文になり、銀の食器や燭台を売ってそれを食費にあてた。 一八一六年にサヴァリー元帥︵ド・レヴィゴ公︶がジョージ・タウン︵セント・ヘレナの町︶の雑貨屋の主人へこんな手紙を書いている。 ﹁いまわれわれのところにパンも珈琲も砂糖もない。数日前から、飲むことと食うことになると、われ勝ちに先を争うようになっている。信じられないでしょうが、事実です。 いつかマルコルム号の船長が来たとき銀の皿一枚について百二十ルイ払うといった。それとおなじ値段で買ってくださる方はないものだろうか。皇帝の命令で、鷲の絞章を﹇#﹁絞章を﹂はママ﹈磨りつぶしてしまったので、記念品にはなりません。銀の値段で買っていただければ有難い。返事はフォーピンに託してください。あれは敏捷だからロオに見つかるようなことはないでしょう。 S﹂ ハドソン・ロオはもとナポリの収税吏で、カンチョンの講和会議のときパラの手下になり、流言を放って会議を頓座させた悪辣なところを買われ、選ばれてセント・ヘレナの総督に任命されたという一種独得な人物で、ナポレオンを迫害したために歴史にその名をとどめた。 毎日ナポレオンの口述を筆記しながら﹁セント・ヘレナの日記﹂を書いたド・ラッス・カーズ伯は、ハドソン・ロオをこんなふうに形容している。 ﹁髪は人参色のいやな赭毛で、顔はいつも充血して紅を塗ったように赤い。けっして相手を正視せず、狐のような眼付でそっと眼の隅から見る。高慢ですぐ激昂し、怒ったときはぞっとするような悪相になる﹂ 一八一八年の春、植民大臣バザースト卿の甥が、喜望峰の帰りにセント・ヘレナへ寄った。ハドソン・ロオがこういった。 ﹁君はナポレオン宛の手紙を預ってきたというようなことはないだろうね﹂ ﹁そんなものは持っていない﹂ ﹁もしそんなことをしたら、たとえ君だって喜望峰の監獄へ送って、生涯ヨーロッパへ帰れないようにしてやる﹂ なぜ手紙までそんなにきびしくするのかというと、ハドソン・ロオは、 ﹁あいつが痩せるほど待っているのは忰と細君の手紙なんだがね、おれはあいつから一切の慰安を奪ってやるつもりなんだ﹂ といった。バザーストは、ナポレオンが病気だということだが、どんなようすかとたずねると、ロオは笑っていった。 ﹁その病気だが、医者と監察委員が納得するようにゆるゆる死んでくれれば申分ないのだが。卒中ででも死んだら、診断書を書くのに、少々有難すぎておれも政府も困らなくてはならん﹂ 赴任して来た当時、ハドソン・ロオがロング・ウッドの小屋のまわりをうそうそと歩きまわり、ゴムの木の紐のように細い枝が柵の外へ垂れているのを見ると、あわてて兵隊に切らせたという有名な話がある。 島の警備は突拍子もないもので、あらゆるもの蔭、道路、山稜、船が近づき得るかぎりの磯にはかならず哨兵が立ち、海岸に望楼をつくり、二十四リーグ沖まで近づく船影はすぐ視野に入るようになっていた。二艘の巡洋艦がたえず島の周囲を遊弋し、帆船も漁船も入港する前に調査された。島の漁船は日没とともに海軍の保管に移って錠をかけられるというぐあいだった。 ロング・ウッドの入口には四交代で番兵が立ち、ナポレオンの夕方の散歩などにはどこまでもついてきて、規定外の道へ入ろうとすると据銃して威嚇した、とモントロン将軍が﹁セント・ヘレナ島の思出﹂に書いている。﹁いたるところ掲示板だらけで、ナポレオンの逃亡を援助したるものは死刑、とか、現金にならざればいかなる物品も売るべからず、とか、書信の仲介、または授受したるものはアフリカ喜望峰植民地へ追放に処す、そういった布告がベタベタと貼ってあります。毎日、新しい布告が出るので、島の住民たちは、しまいには明日はなにが出るだろうと楽しみにするようになりました﹂ 兵隊はフランス語で話すこと厳禁。島民がロング・ウッドを訪問すると、副総督のチェースがそばにいていちいち会話を筆記し、その後当分の間尾行をつけられるといううるささで、しまいには誰も行かなくなってしまった。すこしでもナポレオンに親切にすると、軍法会議にかけられたりアフリカへ追放されたりするので、士官達は随員に逢うと、話しかけられるかと思ってびくびくしていた。 警備の士官や島の住民にかぎったことではなく、随員も法令にしたがって仮借なく処罰された。サヴァリー将軍とグウルゴオ将軍夫妻は、総督に至当の敬意を表さなかったという理由で英国へ送られ、ド・ラッス・カーズ伯はスコットという従僕にロンドンの銀行宛の手紙を託したというだけで逮捕され、父子もろとも喜望峰へ追いやられてしまった。 ロンドンへ着くと、グウルゴオ将軍夫妻とサヴァリー将軍は、方々のサロンへ出かけて行ってセント・ヘレナのひどい風土やハドソン・ロオの暴状を訴えた。 ホランド卿、サセックス公、トマス・ムーア、バイロン卿などは、﹁身柄保護﹂の申入れを信用して、﹁敵の中の最も貴族的なものに身を寄せてきた﹂ナポレオンを、ポーツマス沖でノーザン・バランド号に積みかえ、騙討ち同様にセント・ヘレナへ連れて行ったトーリ党の陋劣なやり方を猛烈に攻撃したものだったが、うたた同情を禁じえない窮迫状態が知れわたると、そういう不当な待遇にナポレオンがいつまでも屈従しているはずはない、間もなく脱島するにちがいないという風説が英国中にひろがった。 ﹁当時︵一八一七年︶ロンドンでの賭の割合は八対二。その時期はいつごろかということが両大陸の大きな話題で、それにつづいてナポレオンを救出する方法がいろいろに論議された。ナポレオンの兄弟達は復古政府に追及され、逃げ廻るのにいそがしく、とてもナポレオンを救出するどころではない。当然、尽力すべき連中はみな復古政府に寝返りをうち、真面目に救出を計画している休職青年将校達のほうは、熱意があっても実行力がないというわけであった。 英国では長い間コルシカの食人鬼と闘っていたトーリ党がひきさがり、ナポレオンの救出運動はむしろフランスよりも活溌なくらいだったが、中心にいるのはバイロンの流れをくむ学生達やロマンチックな陰謀家達で、コランが軽気球でナポレオンを救出するという計画同様、いささか空騒ぎというのに近かった。アメリカではナポレオンの恩顧をうけたロバート・フルトンが、三番目の自作の蒸気船リビングストン号で救出する計画をたてたが、そのころの蒸気船はハドソン河を航行するためにつくられたので、船底が平らで出力が弱く、大洋へ乗りだすなどというのはとても出来ない相談だった。最も熱心だったのはナポレオンの母のレチチア夫人で次々にいろいろな計画をたてたが、警務大臣のフウシエが妨害してみな挫折させてしまった。 ナポレオンの没落後、一五年の平和会議でアフリカ西海岸セネガル地方の先占を確認されたので、復古政府は六十年間失っていたアフリカに植民地を再建するため、サン・ルイ島に大遠征隊を送ることにした。 三檣大艦メジューズ号、アルギュス号、エコー号、運送船ロアール号に輸送指揮官ショーマレー海軍中佐、新総督シュマルツ大佐、警備軍司令官ボアシニョン中佐以下、技師、科学者、牧師、医師、三個中隊三百名の兵士、植民団の一行を乗せ、一八一六年︵ナポレオンがセント・ヘレナへ流された翌年︶六月十七日、フランスの西海岸エークス島を出帆したが、指揮官ショーマレー中佐の乗った大艦メジューズ号は、七月二日の午後三時、アフリカ西海岸アルグーインの岩礁に乗りあげて大破してしまった。 急造の筏で脱出した二個中隊の兵、百四十七名は二派に分れて猛烈な争闘をし、相手を殺して人肉を食うという惨憺たる漂流をつづけ、最後にはわずか十五名になってしまった。これは歴史上でもっとも凶悪な海難といわれ、巴里のルゥブル博物館に﹁メジューズ号の筏﹂というジェリコーの有名な画がある。 この海難を、セネガル文庫、ロシュフォール文庫、その他、どれもみな輸送指揮官のショーマレー中佐の無能のせいにしているが、一八四三年、白ベル耳ギ義ーのアンヴェルスで出版された﹁一八一六年にアフリカ西海岸で起った惨憺たる海難の原因。告白﹂という筆録を読むと、真の原因は意外なところにあったことがわかる。 この筆録は、サン・ルイという仮名で書かれているが、いろいろな事情から推して、ショーマレー中佐の副官、海軍少尉オウギュスト・ランがその筆者だと信じられている。これは海難の七年後、一八二三年に書かれているが、出版されたのはそれから二十年もたってからだった。 廿八日、マデイラ島、廿九日、カナリー群島のテネフリ島に着き、午後から上陸した。鬱蒼とした繁みに包まれた一風変った島の町を散歩していると、レーノオ大尉と軍医補のサヴィニーが追いついてきて、ちょっと話したいのだがといった。 それで海岸へ行って砂の上に坐わると、レーノオ大尉が、 ﹁どうしてもいっしょにやってもらわなければならないことがあるんだ、実は﹂ と声をひそめて意外なことをいいだした。それはメジューズ号を奪ってセント・ヘレナへ行き、ナポレオンを救いだしてセネガルに王国をつくるという度はずれな陰謀なのである。 ﹁メジューズ号は開拓資金として九万法フランの金貨を積んでいる。技師もいれば科学者もいる。ここへお連れさえすれば、あとは皇帝がいいようになさるだろう﹂ ﹁それはわかったが、どういうふうにして皇帝をお救いする。そのほうの作戦は出来ているのか﹂ するとレーノオ大尉は、こちらにはメジューズ、エコー、アルギュスと新鋭艦が三艘もある。老朽のコンケラアとトリコロールなど問題でない。われわれが警備艦をサンデー湾へひきつけて海戦をしているうちに、運送船のロアール号が陸兵を乗せて風上のプロスペル湾へ入り、西側の崖から陸兵を揚げる、といったような不確実なことを臆面もなく述べた。海戦はともかく、メジューズ号の二十四斤砲ではとても砲台と喧嘩がならず、二十リーグも近づかないうちに沈められてしまうだろう。またむこうは訓練された三個中隊以上の正規兵がいるのにこちらはスペイン、伊太利、黒人の寄せ集めの百五十名足らずの募兵で、どう考えても勝利の確信はないが、この際正しい意見を吐くことも孤立することも、どちらも危険だと考えて協力を誓った。 メジューズ号へ帰ると、主謀者の一味に紹介され、前檣の日除の下で反乱の細かい手筈を協議した。レーノオ大尉がポァション大佐を倒して陸兵の指揮をとり、サヴィニー軍医補が総督を牽制して植民団を反乱に誘導し、ショーマレーを威嚇して船室に幽閉する役を私がやることにした。 命令された時間にショーマレーの船室へ入って行くと、ショーマレーはルダンゴートを着たまま寝台に酔い倒れ、平穏な顔で鼾をかいていた。 こういう愚鈍な老人に遠征隊輸送の重任を委ねるのは、革命及び帝政時代の国外亡命者にたいして過度に寛大と厚意を示す復古政府の憂うべき態度から来たものだが、愚かなまでに善良なショーマレーの寝顔を見ていると、この老人をこれ以上不幸にする気はなくなった。 私はショーマレーをゆり起し、いまメジューズ号に起りつつある反乱の大体を説明し、それからこういった。 ﹁抵抗することも、説得することも、どちらも不得策です。ナポレオンがまた活躍する場合を考慮に入れ、二つの立場を上手に守ることが肝要なのですが、どちらの側にも名目を立つようにしようと思ったら、超自然の力を利用するほかはない。たとえば、軍艦が沈むとか、破壊するとか、そういう状況に導くことが出来れば、問題はわけなく解決するでしょう。幸い明日の午後アルグーインの岩礁の沖を通るはずですから、思いきってそれに乗りあげることにしましょう。あと五時間もすると赤道へ近づきますから、赤道祭には酒を無制限にして、大宴会をやるように命令してください。みなが酔って大騒ぎをしているうちに、私は気づかれないように少しずつ船を岸へ寄せます﹂ 十時頃になると、赤道祭がはじまった。かわるがわる滑稽な狂言を演じ、酒を飲んで大騒ぎをした。 翌日の午前六時、左舷にアフリカ海岸が見えた。地理に明るい連中は、坐礁を恐れて﹁危険だ、危険だ﹂といいだした。午前八時、ショーマレーは形式的に船を停めて測深錘を入れさせた。八十尋から九十尋の水深で、粘土まじりの砂の海底だった。ショーマレーは肩を聳やかし、平然と南々東に進路をとった。 正午頃から前日にもまして盛大に赤道祭がはじまったが、午後三時十五分、恐ろしい震動が起った。メジューズ号は風上に船首をむけて岩礁に乗りあげてしまった。 ほかにも計画が進められていたのだろうが、ナポレオンは一八二一年に死んでしまった。 ﹁五月五日、この日、樹々の倒れるもの数知れず。大暴風、大雷雨のさなか、まさに暮れんとする午後六時十分、前ア・へラ・!テート と大声叱呼され、五十二歳をもって偉大なる生涯を終えられたり﹂︵アントン・マルシィ﹁皇帝の薨去とその詳報﹂︶ しばらくすると、両大陸に、セント・ヘレナで死んだのはナポレオンではなく、その人と瓜二つの comparse︵台詞のない代役︶だったというような風説がさかんに流布された。 どこからこんな噂が出たのか。それはこうである。アントン・マルシィの﹁皇帝の薨去とその詳報﹂には、ナポレオンが息をひきとると、﹁小ナポレオン﹂という愛称で呼ばれていたベルトランの小さな息子は、悲しみのあまり床に泣き倒れ、ベルトランと夫人が遺骸にかしずくようすは﹁キリストを十字架からおろすヨセフとマリアのような敬虔な悲しみにみたされて﹂いたと書いているが、臨終に立会った巡洋艦コンケラア号付軍医ヘンリイ・モーブランの﹁ノート﹂には全然そんな光景はない。ナポレオンの遺骸は﹁まるで驢馬の死骸のように﹂冷酷無情に扱われ、アベ・ヴイグナルリの終油の式も、﹁いやな役目を一分でも早くすましてしまおうというふうに﹂急ぎに急ぎ、祈祷文の誦ぶし称ょうも上の空、腹がたつほどお粗末なものだった。この光景は立会った士官や軍医に異様な印象を与え、英国へ帰ると遠慮なしに方々ですっぱぬいた。 すると、その翌年あたりからナポレオンの﹁新生涯﹂に関する筆録、手簡といったたぐいのものがオランダや伊太利で出版されだした。新生涯というのは、つまるところセント・ヘレナをぬけだしていまどこかで生きているナポレオンの二次的人生を指すのだが、それがフランスや英国に流れこんでさかんに読まれた。とりわけフランスでは、ルイ王朝の没落から、革命、第一帝政、王政復古、第二帝政と極から極へはげしく揺れては揺れかえした約一世紀の間、お抱えの歴史家は殊更に卑劣な曲筆を弄し、市民は検閲を経た出版などにはうんざりしていたので、まさに肺腑をつかれる思いというところだったろう。 歴史の専門家や気むずかしい連中には我慢のならないものだったろうが、そういうものが次々に出版され、一九二八年には﹁ナポレオンの代役文庫﹂とか﹁似非ナポレオン全書﹂などという全三巻の集大成まで現われてきた。 ナポレオンの相貌はじつは類型的なもので、北部独逸の独逸貴ユン族ケルの家系にはいくらでも居り、また脳水腫患者には生き写しというのがよくいて、ダングリソンの医学では、﹁ナポレオン面ファ貌シイス﹂といって、﹁ヒステリー面ファ貌シイス﹂﹁獅レオ子ンチ的ア・面ファ貌シイス﹂とともに病的面貌の三大類型の一つになっている。 ナポレオンの身辺にも、ワグラム公、ベルチイエ元帥、侍従のモントリオール、メヌヴァールなどがよく似ていた。先年、アベル・ガンスが﹁鷲エーのグロ子ン﹂︵ナポレオン二世︶という映画をつくるとき、ナポレオンに扮するエキストラを募集したら、グロの描いた﹁埃エジ及プトにおけるナポレオン﹂そのままなのが十六人もやってきたという話もあるくらいで、それでいよいよ話がむずかしくなるわけだが、その代役は、ナポレオンが、︵フランスの勇気、心の友︶と呼んだ、大元帥ミシェル・デュロックの遺族の一人だったらしい。ナポレオンが十五日の遺言書でデュロックの遺族へ莫大な金額を遺留しているのに、二十四日の附属書でまた追加しているのがその証拠だとか、いやそれはニースリングの戦で武勲を立てたジョルジュ・ロボオ元帥の弟、ワーテルロオで行衛不明になったといわれていたフランソア・ロボオ大佐だった、ナポレオンに非常によく似ているのでかねて影武者のような役をやっていたとか、コルシカ島で生れた遠縁の従兄弟だったとか、ルフェーブルという俳優だったとか、いろいろな説がある。またどんなふうにして島をぬけだしたかということについても、ロング・ウッドの裏側の断崖を風上湾︵プロスペル湾︶まで降り、二檣帆船でアセッション島へ逃げたとか、マルチニック島へ送還される土人に変装して島をぬけだしたとか、夜だったとか、朝だったとか、大暴風雨の最中だったとか、さまざまである。 ﹁ナポレオンの新生涯﹂説、死んだ年や場所にも異説が多く、一八三〇年の七月十五日にアフリカの西海岸で病死したとか、一八二三年の八月十五日、墺オー太スト利リア、シェンブルヌの王宮の門前で歩哨に撃たれて死んだとか、前皇后の生地マルチニック島で、白ベル耳ギ義ーのブルュクセルで、瑞スイ西スのベルヌで、というぐあいなのである。 ところで、﹁N・Bの新生涯に関する未発表の筆録集﹂という本に集成されている﹁仏領加奈陀、ポオル・ロアイヤル小教区、ノートルダム・ド・ルルド附属墓地埋葬帳より転写﹂という記録を見ると、
一八三〇年
二月二十一日 フランス伯、前皇帝N・B、死去。司祭ルイ・エヌバンにより聖別せらる。聖体秘蹟、聖餐並に終油
同二十二日 侍医アントン・マルシィ氏、塑面(デス・マスク作製)
同二十三日 埋葬式、聖砂鎮魂
とあって、ナポレオンはセント・ヘレナでそれは一八四二年に法王庁領チヴイ・タヴェッキヤで出版された四折版、百二十一頁の小冊で、扉の上端に Les manuscrits indits という文題が薔薇の木の唐草模様で囲まれ、その下にラテン筆記体で sur la seconde-vie de N. B. とあって、
「聖ヘレナ島司ハドソン・ロオとの対話」
「脱島人、サウル・ランボオよりの聞書」
「一八一六年六月、メジューズ号にたいするエークス島民の風説」
「運送船マサニエル号船長の目撃したる一八一九年七月二十二日、ロング・ウッド、N・B邸の火災及びその顛末」
こんなふうに日記、手簡、備忘といった小記録が豊富に蒐集されているが、専門の歴史家のお家芸である全体的な叙述や広汎な綜合はいっさいやっていない。さまざまな人間が別々な場所で思い思いに書いた筆録を、註解もなくただ雑然と並べているだけだが、かれこれと読み合せて行くうちに、ナポレオンがどんな方法でセント・ヘレナを脱けだし、どういう経過で仏領加奈陀へたどり着いたか自然にわかるようになっている。お察しになるのはそちらの勝手だが、責任は一切もたないという抜目のないやり方らしく思われる。
「運送船マサニエル号船長の目撃したる一八一九年七月二十二日、ロング・ウッド、N・B邸の火災及びその顛末」
七月二十二日、われわれ︵私、ジェームス、ヴィルマン︶の三人がスレンの谷へ散策に出かけ、そこからピック・ディアーヌのほうへのぼって行くと、ちょうど正午頃、ロング・ウッドと思われる方角に煙があがり、﹁火事だ、火事だ﹂と叫ぶ声がきこえたので、大急ぎで崖道をあがって行くと、ロング・ウッドの北棟の端が煙に包まれ、兵隊やお附きの人らしいのが右往左往していたが、われわれを見ると、
﹁みな来い、みな来い。手伝って早く火事を消してくれ﹂といった。
火事は北棟の庖厨場で、油鍋でもひっくりかえしたのだとみえ、猛烈な炎が板壁をつたわって屋根へ燃えぬけようとしているところだった。
われわれは三十トアーズほど下にある泉から水を汲んで駆けあがって行くと、ロング・ウッドの正面の入口から赤いカラーとカフスのついた緑色の上着を着てカシミヤ織の白いズボンを穿いた小づくりの人が片手を後へまわして悠然と出て来た。帽子をかぶらず、赤茶けた栗色の髪に蔽われた大きな丸い頭を前へかしげながらすこしはなれた庭先の天幕の中へ入って行った。濃青色の上衣に金色の樫の葉の元帥章をつけた丈の高い上品な老人が後から小走りについて行った。ナポレオンは肖像画に似ていないというが、われわれの見たのは肖像画そっくりのナポレオンだった。
われわれはめいめい桶を一つずつ持って、廊下の突きあたりの庖厨場のほうへ行きかけると、向いの部屋の床の切穴からももやもやと煙が出ている。大急ぎで梯子をつたわって降りてみると、もとは穀倉だったらしい藁屑のちらばった薄暗い隅の椅子に、白い寝巻にトルコ式の赤い上靴を穿き、大きな白いハンカチで頭を包んだコルシカ風俗の五十歳ばかりの男が掛け、湯上りとみえてオウ・ド・コローニュの匂いをぷんぷんさせながら煙草を吸っていた。われわれが見ておどろいたのはその煙草の煙なのだった。
そのひとはわれわれがそばに立っていることに気がつかず、片眼鏡をかけて新聞を読んでいたが、ふいと顔をあげ、眉をひそめてじいっとわれわれの顔を睨みつけながら、だしぬけに、
﹁コクリオーネ!﹂と叫んだ。
われわれは、あっといった。おびえたというようなわけではない。おどろいたのは別なことだ。われわれを睨みつけている人というのは、象牙のように白い、スフィンクスのような顔のまわりに蒼白い光が漂い、額の豊かな、大きな丸い頭に栗色の毛がふっさりとかかり……要するに七トアーズも向うの庭の天幕へ入るのを見送ったばかりのナポレオンが寝巻を着てわれわれのすぐ鼻先にいるのだ。
どんなふうにしてそこから逃げだしたか覚えていない。火事も消えたのでスレンの谷までひきさがり、しばらくの間ものもいわずに互いに顔を見あわせていたが、そのうちにいまロング・ウッドにどんなことが起りかけているのかはっきりとわかった。われわれもかねていろいろ想像をめぐらしていた。それにしてもこれは火事がなかったら、永久に保たれるはずの秘密だったにちがいない。われわれは生涯このことを口外しまいと厳粛に誓いあった。
ロング・ウッドに火事が二度あった。最初は一八一六年七月十九日。二度目は一八一九年七月二十二日。先のほうはド・ラッス・カーズ伯の﹁セント・ヘレナ日記﹂に、後のほうはマルシャンの﹁備メモ忘アー録ル﹂に記載されている。
庖厨場の前の小部屋は、追放されるまでド・ラッス・カーズ伯の専用になっていて、息子のエンマヌエルがその下の穀置場で寝起きしていた。
それはともかく、マサニエル号の船長が、薄暗い穀置場で見た﹁ナポレオン﹂というのは誰だったのか。
マルシャンの﹁備メモ忘アー録ル﹂の一八一九年に、次のような記事がある。
七月二十二日 レチチア夫人が差し遣わされた医師アントン・マルシィ氏、外に、皇帝の同郷人 三名、
マリオ・ジェンツイオ
エミリオ・モンティ
シェザレ・ロッセルリ
病気見舞としコルシカより来島。
エミリオ・モンティ
シェザレ・ロッセルリ
病気見舞としコルシカより来島。
同 二十七日 同郷人三名、離島。
火事があったのは、七月二十二日、つまりコルシカから三人の同郷人が到着した翌々日だから、﹁穀置場のナポレオン﹂は、三人の同郷人の一人だったと思われる。﹁コクリオーネ﹂というのは、無礼者とか不届者とかいう意味のコルシカの方言である。
次は一八一八年三月十四日に着任しコンケラア号付軍医正ヘンリー・モープランの手記である。
「一八一八年十月十六日及び一八二一年五月五日の検診に対する備考」
一、十四日、午後五時、コンケラア号のストーコオを訪問。着任の挨拶。ストーコオ、君もたいへんなところへやってきたものだという。
前任のオミラーが、ナポレオンに新聞を届けたというので喜望峰監獄へ送られたという話。皇帝派と総督派の関係についていろいろ説明する。︵ストーコオは皇帝派︶。ストーコオが正直な臨床報告を出すと、総督派のアーノッドがかならず反対報告をするので困るという。﹁ボナパルト将軍ハスコブル健全ナルモ、病ヲ装ウ。脱島セントシテ種種手段ヲ講ジ居ルモノノ如シ﹂等々。
二、ストーコオ、皇帝の希望によって専任になった由。前例があるので慎重にやりたい。今度またアーノッドにひっくりかえされると、非常に苦しい立場になるから、一緒に行って立会診察をしてくれという。
三、十月十六日、午前十時、ストーコオと共にロング・ウッドへ行く。十一時、臨床。肝臓腫脹異常。疼痛を訴う。脚部冷脚。炎症性疾患。膿瘍の疑あり。環境不適。ストーコオの検案に同意、診断書に署名す。
︵ストーコオは一八一八年末までナポレオンの専任を担当していたが、﹁ナポレオンと親昵す﹂という理由で罷免され、一八一九年一月十日、トリコロール号でロンドンへ送還。軍法会議。モープランも同じ理由で懲戒。軍医に下級され、二年間の期限付でケープ殖民地へ左遷。一八二一年二月十八日、コンケラア号付に復職した︶
一、一八二一年五月五日、午後三時、ナポレオン危篤の通告。同僚三人と共に暴風雨を冒して出発す。一九年七月以後、アントン・マルシィ氏が専任。我々がロング・ウッドへ行くのは三年ぶりのことなり。
二、侍医アントン・マルシィ氏より報告あり。後、四人にて臨床。回復不能。午後六時十分、死去。
三、六時四十分頃、総督ハドソン・ロオ、副総督チェースと共に来る。一八年二月以来のことなり。面布を除けてナポレオンの顔を見、苦笑す。﹁これがナポレオンか。おれはなにもかもみな知っているんだぞ﹂といい、憤然と去る。
四、同十時、剖検。主刀アントン・マルシィ氏。大彎部及び体部に滲透性潰瘍。小彎部及び前壁に隆起著大なる腫瘤性癌。肝臓は血色鮮明にして器質すこぶる健全、過去の疾患を想像し得ず。
五、この著大なる隆起を以てすれば、既に二年前、外部より容易に触知し得たる筈。また肝臓に病跡の残留せざるは不可解なり。
六、医師ノ立場カラ言エバ facies︵顔︶ハ皇帝ナレド corpus︵体︶ハ全然別人ナリト言ワザルヲ得ズ。
次はピエール・デュレキュの筆録。ピエール・デュレキュは三檣帆船シュザンナ号の船主兼船長で、一八一四年から一七年まで仏領アフリカ、セネガルのサン・ルイ島で貿易に従事していた。一八二〇年十月六日、葡領アフリカのグランデ・バサーニョへマホガニーの積出しに行った。格安の阿弗利加マホガニーを、ホンジュラス産のマホガニーとしてフランスで売捌くのが目的であった。
「皇帝と百日の船旅。並にジャン・フレミユの島の生活」
グランデ・バサーニョの浮洲をまわって上陸すると、黒人売買にでも使われたらしい廠舎の前に、灰色のルダンゴートを着た二人の欧ヨー羅ロッ巴パ人がいるのでおどろいた。
デュレキュは二人に挨拶して、どうしてこんなところにいるのかとたずねると、われわれはジャック・カルチイエと一緒にアメリカへ渡ったコルシカ人だが、三年前、セネガルへ黒人奴隷を買出しにきてギネアの沖で海難に逢い、ボートで漂流しているうちにここへ流れついたのだといった。
デュレキュはそれはそのまま聞いておいたが、三年近くも住んでいるのに有害な風土にたいする設備はすこしもされていず、衣服もさほど古びていないことを妙に感じた。
それから十日後、マホガニーの積込が終ったので、小屋へ別れの挨拶に行くと、二人は愛想よくヴェランダへ招じあげた。カーテンの向うにも誰かいるらしく、歩き廻る足音がきこえたが姿は見えなかった。
デュレキュは椅子に掛けながらふと見ると、椅子の背にバロック模様の彫刻の中にMという字が組み合せてあり、卓布にもMという花文字が浮織になっていた。
デュレキュがサン・ルイに居るときに難破したメジューズ号の金庫から公金九万法フランをとりだすことを総督に依頼された。そのほうは成功しなかったが、備付の家具は相当取りだしたのでよく覚えていた。この連中の素性もこれでわかったようなものだったが、それには触れなかった。
しばらくの間さり気ない会話をつづけていたが、そのうちにマリオと名乗ったほうが、あなたの船でわれわれ三人を、アメリカまで送ってもらうわけにはいかぬものだろうか。もしご承諾ねがえるなら、船賃として、一人につき金貨で二万法フラン前払いするといった。
マホガニーはロシュフォールへ持って行くつもりだったが、ボストンだっていっこうかまわない。デュレキュが承諾すると、もう一人のほうが立って行って、革袋を四つ、二度に運びだしてきて、テーブルの上へ金貨を積みあげた。デュレキュは金貨を一つ手にとって眺めると、塩気に傷められたような薄い曇りがあるので、メジューズ号の金貨の一部のように思えてならなかった。
翌日、朝の八時頃、三人のコルシカ人が船へあがってきたが、先頭の男を見ると、デュレキュはふるえあがってしまった。デュレキュはマルセーユやツウロンで、皇帝の真影をいくども幻灯で見ていたので、いまじぶんの前に立っているのは誰なのかはっきりと諒解した。
その日の午後、シュザンナ号はロシュフォールへ向けて出帆したが、デュレキュは﹁賃金に相当した待遇﹂という名目でじぶんの船室を明けわたした。しかしことさらに尊敬することも粗末にすることもしなかった。いずれにしても、ナポレオンだと気がついていることを相手に覚らせるのは得策ではないと思ったからである。
ナポレオンはほとんど船室から出ず、朝の十時に朝食、食後は眠るか読書するかし、二時に昼食。夜は二人を相手にして骨カル牌タの﹁二十一﹂をやった。甲板で逢ってもふりむいても見ず、デュレキュを食卓に招待するようなこともなかったが、デュレキュはそれを不平に思うどころか、じぶんの船で世界の帝王を送りつつあるという昂奮で夜もろくろく眠れぬくらいだった。
十一月十七日、トリニダット島へ近づいた。午後二時頃、舵手がデュレキュのところへやってきて、縦帆船が船尾を横切って風上のほうへ行ったから用心しなくてはならないといった。
この辺は物騒な海域だった。ウォーターロォの戦を最後にしてヨーロッパが安定すると、数千艘の私掠船の乗組員が失業して海賊になったが、その中でジャン・フレミユというフランス人の海賊は慓悍で、メキシコ湾内に王国をつくりバハマの近海を荒しまわっていた。
四時頃になると、縦帆船は斜行しながら見る見る風上半哩ほどのところへ近づいてきた。檣は全部船尾へ集り、おどろくほど大きな主帆をもった本式のボルチモアの帆船で、愛国旗︵コロンビヤ国旗︶を掲げていた。
抵抗するだけ無駄なようなものなので、シュザンナ号は帆をおろして停船すると、間もなく四十人ばかりの海賊を乗せた三艘のボートがシュザンナ号へ漕ぎつけた。真先にあがってきたのは、金モールで飾った植民地風の軍服を着、フランスの士官のように二梃の短銃を革のバンドで腰につるした、三十二、三の毅然たる男で、かねてデュレキュがきいていたフレミユの人相とそっくりだった。
デュレキュはナポレオンのいる部屋の前に立っていると、フレミユは手下をつれてやってきて、﹁そこを開けろ﹂といった。デュレキュは両手をひろげて、﹁誰もこの部屋へ入る権利はない。海賊なんか、なおさらのことだ﹂と叫んだ。フレミユの手下が大きなナイフを振りあげるのが見えたが、それっきりなにもわからなくなってしまった。
しばらくして覚醒すると、船のようすがすっかり変っていた。乗組の姿は一人も見えず、舵場には海賊がいて、縦帆船と同航しながらトリニダットの港から出かけているところだった。
デュレキュが呆然としていると、フレミユがそばを通りかかった。デュレキュはフレミユを呼びとめて、シュザンナ号をどうするつもりかとたずねると、フレミユは、﹁君の船は港の外で焼いてしまわなくてはならないが、かならず賠償はする。君はわれわれの船へ移ってもらう。四十日ぐらいは不自由を忍んでもらわなくてはなるまいよ﹂といった。
デュレキュがシュザンナ号の乗組のことをたずねると、フレミユは、あれらは完全に行くべきところへ行ったとこたえた。それは天国だったのかマルセーユだったかわからない。少なくともデュレキュが死ぬまでにはただの一人も見かけなかった。
デュレキュはフレミユの船の狭い監房へおしこめられた。行動の自由はなかったが、取扱いは最上の儀礼をもって行なわれ、食事も悪くなかった。船はたえず北上しているらしく毎日すこしずつ気温がさがった。二十七日目に船が停った。デュレキュにはそれがどこかわからなかったが、船室の寒暖計が十度を示していたので、一月の等温線と睨み合せ、セント・ローレンスの北、と判断した。
二日後、船はまた南下しはじめ、それから三十日目にようやく部屋から出されて陸へあがった。それはメキシコ湾のムートンとかいう小島だった。デュレキュは一八三〇年までその島に置かれ、その年の五月、丁重にロシュフォールへ送り届けられた。
ナポレオンがセント・ヘレナをぬけだしたというのは事実だったのか。ナポレオンに最後まで忠誠をつくし、そのゆえに記憶されているベルトラン伯爵夫人が、一八一九年にモスクヴァにいる友人、カロリーヌ・クリュドネル︵ロシアの外交官クリュドネルの未亡人。アンナ皇太后の女官︶に次のような手紙を送っている。
「われわれはとうとう勝ちました。N・Bはセント・ヘレナをぬけだしました」
ナポレオンは一八一九年の八月ごろから部屋に籠って誰にも逢わなくなった。副総督チェースの﹁覚メモ書アール﹂によると、それまではカルトンという英国人の園丁が密偵の役をし、ナポレオンの毎日の行動をハドソン・ロオに報告していたが、ナポレオンがカルトンを解雇してしまったので、まるっきり手がかりがなくなってしまった。そのころハドソン・ロオは、﹁ナポレオンはこの島にいるのだろうか。これは神様にだってわかるまい﹂
とつぶやいたとチェースが書いている。
どんな方法で脱島したか。それは平凡尋常なものだったろうと思われる。三人のコルシカ人は、七月二十四日の朝、プランテーション・ハウスの総督の邸へ行って別れの挨拶を述べ、︵ハドソン・ロオは不在だった︶モントロンに見送られてサンデー湾の船着場からボートでグリニチ号へ行った。
一八七一年以来ナポレオンの研究をつづけ、二十巻の伝記を書いたフレデリック・マッソンが﹁ナポレオン秘録﹂︵Frdric Masson “Nepolon inconnu” Vol. ︶で、
﹁ナポレオンがセント・ヘレナを脱けだすには、ハドソン・ロオの黙会がなくては絶対に不可能だったろう﹂といっているのは正しい。
一八一八年の末、ハドソン・ロオは植民大臣バザースト卿から、ナポレオンの離島を黙認すべしという内達を受け、すこぶる憤慨し且つ消沈したということがチェースの﹁覚メモ書アール﹂に見えている。
それまでハドソン・ロオは、早朝でも夜間でも執拗にロング・ウッドを訪問してナポレオンを悩ましたが、一八一九年の五月以来、ナポレオンの臨終の日まで、約三年の間、ただの一度もロング・ウッドへ行かず、ナポレオンの話もしなくなった。ハドソン・ロオがナポレオンの離島を知っていたら、いかにも馬鹿馬鹿しくて、ロング・ウッドなど訪問する気にはなれなかったろう。
アントン・マルシィは一八二一年以来消息不明になっていたが、それから九年後、一八三〇年の八月にナポレオンの塑デス面・マスクを持って巴里にあらわれた。ナポレオンの遺骸も、それから間もなくフランスへ帰ったものと見てよいから巴里の旧デ・廃ザン兵ウァ院リートの大円蓋の下、血紅色の埃エジ及プト大理石の墓塋におさめられているナポレオンの心臓は、セント・ヘレナで死んだ似プス非ウドナポレオンのそれではなく、一八三〇年に加奈陀で死んだ真ヴェ正ールスナポレオンのそれなのであろう。
二十年後の一八四〇年、英国はナポレオンの遺骸をフランスへ返還することになり、スレンの谷の墓塋から掘りだしてベレルフォン号で鄭重に送り届けた。ルイ・フィリップがロシュフォール港まで出迎えて盛んな祝祭を行なったが、ナポレオンが脱島したというのが事実で、当事者がみなそれを知っていたとしたら、この儀式はいうにいえぬ滑稽なものだったろうと思うのである。