南極記

久生十蘭




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 西
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The Heart of Antarctic, vol. ※(ローマ数字2、1-13-22), London 1909




 
 
一七七三 ジェームス・クック(英) レゾリュウション号             南緯七十一度十分
一八〇三 リジョウスキー(露) イムペラトール号               同五十九度五十八分
一八二一 ベリングハウゼン(露) ウォストーク号                 同七十度〇五分
一八二四 ウェッデル(英) ジェーン号                     同七十四度十五分
一八三八 ドュルヴィル(仏) アストロレーブ号                同六十九度五十七分
一八四二 ウィルクス(米) ヴィンセネス号                   同六十九度十五分
一八四二 ジェームス・ロス(英) エリバス号                   同七十八度十分
一八九五 ボルヒグレヴィンク(諾) サウザーン・クロッス号           同七十八度五十分
一九〇三 ドリガルスキー(独) ガウス号                    同七十七度三十分
一九〇三 ノルデンショルト(瑞典) アンタークチック号             同六十八度二十分
一九〇四 ロバート・スコット(英) ディスカヴァリ号(第一次)         同八十二度十六分
一九〇四 ブルース(英) スコティア号                     同七十七度〇五分
一九〇五 シャルコー(仏) フランセェ号                    同七十度二十六分
一九〇九 シャクルトン(英) ニムロッド号(第一次)             同八十八度二十三分
 これがこれまでのギリギリの実績で、例外というようなものは一つもなかった。隊長から探検船の下級水夫まで含めれば、万という数に達する壮烈な大機動戦で、三人の世界選手――諾威ノルウェーのアムンゼン、英国のスコットとシャクルトンだけが八十度以南を征服した。アムンゼンは十四年前、ゲラヤへのベルジーカ号に乗り、南極海で十四カ月も漂流し、北氷洋で北西通路突破の苦難に充ちた体験を経たのち、一九一一年になって南極征服に成功した。スコットは一九〇一年から四年まで、南極海の圧氷の間に船をとめて執拗な攻撃を繰返し、四年がかりで八十度以南へ二度十六分だけ進み、それから八年後に「世界最悪の旅」といわれる、歌にもうたえないような橇行をつづけたすえ、辛くも極点に辿りついた。シャクルトンはスコットの第一回南極探検に同伴し、壊血病であわや死籍に入りかけるほどの苦楚をなめたうえ、六年後、再度、南極大陸に迫って、八十八度二十三分まで行った。ところで、この三人の世界選手は、もう一人も生きていない。スコットは南極点からの帰り途、(日記の日付から推すと、たぶん三月二十九日)氷原の上で凍死した。シャクルトンは第二回目の探検で、南極大陸周航の企図に失敗し、疲労困憊して南ジョージア湾の捕鯨基地で死んだ。アムンゼンはついこの年の五月末、ノビレ大佐の救援に飛行機で飛びだしたきり、消息を絶ってしまった。
 世界の初年のような南極大陸の景観に、いささか新しい意味を附与するのに、ぜひとも危険だけが必要だというのではないが、探検の道は、死もまた、事業上の秩序による当然の行為と見るような、人間の篤実さに疏通した、極めて合理的なもので、気紛れな思いつきや、出たところまかせといった、いい加減なことでやれるような仕事ではない。濠洲のシドニー・サン紙は、
新大陸の発見者なりとおめおめ吐かす酔どれ水夫どもは鉄鎖に縛して海に投げこむべきにあらずや? (ボードレール「航海」)
 西
 
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地の果てを索ね明さんとして
そこにて秘められたる神の面を見たり
 
 辿
 姿
 
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 辿()()()()()宿
 
 西西
 西
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 ※(ローマ数字3、1-13-23)
   19704522811
   19981022817


2018326

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