十六日の朝景色
薄い靄もやの中に、応おう挙きょ風ふうの朱しゅ盆ぼんのような旭あさひがのぼり、いかにもお正月らしいのどかな朝ぼらけ。
出でっ尻ちり伝でん兵べ衛え、またの名を﹁チャリ敵がたき﹂の伝兵衛ともいう、神田鍋なべ町ちょうの御用聞。
正月の十六日は、俗にいう閻えん魔まの斎さい日じつ。
商売柄、閻魔参りなどに行く義理はない。
谷やな中かの方にチト急な用があって、この朝がけ、出尻をにょこにょこ動うごかしながら、上野山さん内ないの五重の塔の下までやってくると、どこからともなく、
﹁……おい、伝兵衛、伝兵衛﹂
チャリ敵の伝兵衛、大して度胸もない癖に、すぐ向むかッ腹ぱらをたてる性質だから、たちまち河ふぐ豚ちょ提うち灯んなりに面つらを膨ふくらし、
﹁けッ、なにが伝兵衛、伝兵衛だ。大おお束たばな呼び方をしやアがって。……馬鹿にするねえ﹂
亭てい々〳〵たる並なみ松まつの梢に淡あわ雪ゆきの色。
ぐるりと見廻したが、さっぱりと掃き清められた御山内には、人影らしいものもない。
﹁な、なんだい。……たしかに、伝兵衛、伝兵衛と聞えたようだったが……テヘ、空そら耳みみか﹂
ぶつくさ言いながら歩き出そうとすると、また、どこからともなく、
﹁伝兵衛、伝兵衛……﹂
あわてて見廻す。やはり、誰だれもいない。
伝兵衛、タジタジとなって、
﹁おい、止よそうよ。どうしたというんだい、こりゃア……﹂
麻布の豆狸というのはあるが、御山内にももんじいが出るという話はまだ聞かない。それにしても朝の五ツ半︵九時︶、変へん化げの狸のという時刻じゃない。
﹁嫌だねえ﹂
ゾクッとして、まとまりのつかない顔で立ち竦すくんでいると、
﹁おい、伝兵衛、ここだ、ここだ﹂
その声は、どうやら、はるか虚空の方から響いて来るようである。
﹁うへえ﹂
五、六歩後へ退って、小手をかざして塔の上の方を見みあ上げるならば、五重塔の素すッ天てっ辺ぺん、緑ろく青しょうのふいた相そう輪りんの根元に、青色の角かく袖そでの半合羽を着た儒者の質流れのような人物が、左の腕を九輪りんに絡みつけ、右手には大きな筒眼鏡を持って、閑かん興きょ清うせ遊いゆうの趣おもむきでのんびりとあちらこちらの景色を眺めてござる。
総そう髪はつの先を切った妙な茶ちゃ筅せん髪がみ。
でっくりと小肥りで、ひどく癖のある怒り肩の塩あん梅ばい。見違えようたって見違えるはずはない、鍋町と背中合せ、神田白しら壁かべ町ちょうの裏長屋に住んでいる一風変った本ほん草ぞう、究理の大博士。当節、江戸市中でその名を知らぬものはない、鳩きゅ渓うけい、平賀源内先生。
﹁医書、儒書会読講釈﹂の看板を掛け、この方の弟子だけでも凡およそ二百人。諸しょ家けの出入やら究理機械の発明、薬草の採集に火かか浣ん布ぷの製造、と寸暇もない。
秩ちち父ぶの御おか囲こい鉱や山まから掘り出した炉ろか甘んせ石きという亜鉛の鉱石、これが荒川の便船で間もなく江戸へ着く。また長崎から取り寄せた伽きゃ羅らで櫛を梳すかせ、その梁みねに銀の覆ふく輪りんをかけて﹁源げん内ない櫛ぐし﹂という名で売出したのが大当りに当って、上かみは田沼様の奥おく向むきから下しもは水茶屋の女にいたるまで、これでなければ櫛でないというべら棒な流は行やりかた。
物産学の泰たい斗とで和オラ蘭ン陀ダ語はぺらぺら。日本で最初の電気機械、﹁発エレ電キテ箱ル・セレステ﹂を模作するかと思うと、廻マワ転スト蚊カー取ト器ルなんていう恍とぼけたものも発明する。
﹁物ぶつ類るい品ひん隲しつ﹂というむずかしい博物の本を著わす一方、﹁放ほう屁ひろ論ん﹂などという飛んでもない戯げぶ文んも書く。洒落本やら草紙やら、それでも足りずに浄瑠璃本まで手をつける。
例の頓兵衛が出て来る﹁神しん霊れい矢やぐ口ちの渡わたし﹂は、豊竹新太夫座元で堺町の外げ記き座ざにかかり、ちょうど今日が初日で、沸き返るような前景気。まず、ざっとこんなあんばい。
才気縦横、多技多能……、四通つう八達たつとでも言いましょうか、江戸始まって以来の奇才と評判される多忙多たた端んの源内先生が、明和七年正月十六日の朝ぼらけ、ところもあろうに五重塔の天辺で悠々閑々と筒眼鏡で景色などを眺めてござるなどはちと受取れぬ話。
尤も、ちょっとひとの考えつかぬような図外れたことばかり思いつかれる先生のことだから、迂濶に景色を眺めているというのではあるまい、何かそれ相当の変った方ほう寸すんがあられるのだとも察しられるのである。
呆気にとられ、あんぐり開いた伝兵衛の口に、春の風。
あふッ、と息を嚥のんで、
﹁先生、……平賀先生、あなたはまア、そんなところで一体何をしていらっしゃるんです﹂
先生が湯ゆし島まて天んじ神んから白壁町へ引っ越して以来の馴染なので、伝兵衛は遠慮のない口をきく。先生の方では下らん奴だと思っていられるかして、どんなことを言っても怒ったような顔もしない。
これでよく御用聞がつとまると思うほど、尻抜けで、気が弱くて、愚図で、とるところもないような男だが、芯は、極ごく人ひとがよく、何でもかんでも引受けては、年中難儀ばかりしている。
寝ねぼ惚け先生こと、太おお田たし蜀ょく山さん人じんのところへ出入して、下手な狂句なども作る。恍けたところがあって、多少の可愛気はある男。
伝兵衛が背伸びをしながら、金きん唐から声ごえでそう叫び掛けたが、先生は遠眼鏡の筒先を廻しながら、閑かん々〳〵と右うべ眄ん左さ顧こしていられる。
伝兵衛は、業ごうを煮やして、
﹁実際、あなたの暢のん気きにも呆れてしまう。いくらなんだって、正月の十六日に五重塔のてっぺんで、アッケラカンと筒眼鏡などを使っているひとがありますか。そんなところでいつ迄もマゴマゴしていると、鳶とんびに眼のくり玉を突ッつかれますぜ。……ねえ、先生、いったい何を見物しているんですってば。……じれってえな、返事ぐらいしてくれたっていいじゃありませんか﹂
のんびりした声が、虚空から響いて来る。
﹁わしはいま和オラ蘭ン陀ダの方を眺めておるのだて﹂
﹁うへえ、そこへ上ると和蘭陀が見えますか﹂
﹁ああ、よく見えるな﹂
﹁和蘭陀のどういうところが見えます﹂
﹁港に沢たく山さん船がもやっているところを見ると、どうやらへーぐというところらしいな﹂
﹁こいつア驚いた。……するてえと、なんですか、向うもやっぱし正月なんで﹂
﹁日柄には変りない。ただし、向うはいま日の暮れ方だ﹂
﹁おやおや、妙だねえ。どんなお天気工合です﹂
﹁大ヒー分ルに雪スネエウが降っているな﹂
﹁蒸せい籠ろに脛すねが出たたア、何のことですか﹂
﹁いや、たんと雪が降っておるというのだ。……おお、美人が一人浜を歩いている﹂
﹁えッ、美人が出て来ましたか。いったい、どんなようすをしています﹂
﹁高たか髷まげを結ゆって、岡おか持もちを下げている﹂
﹁和蘭陀にも岡持なんかあるんですか﹂
﹁それもそうだな。……これは、チト怪しくなって来た。おやおや、高下駄を穿はいて駈け出して行く。おい、伝兵衛、和蘭陀だと思ったら、どうやら、これは洲すさ崎きあたりの景色らしいな﹂
﹁じょ、じょ、冗談じゃない、ひとが真面目になって聞いているのに。……そんな悠長な話をしている場合じゃないんです。……大きな声では言えませんが、実は、今日の朝方、またあったんです﹂
﹁またあったというと、……例の口か﹂
﹁ええ、そうなんです﹂
﹁すると、これで三人目か。チト油断のならぬことになって来たな﹂
﹁他ひ人とのことみたいに言っちゃいけません。あなただって関かか係りあいのあることなんです。ともかく、降りて来てください﹂
﹁なんだか知らないが、そういうわけならば、今そこへ行く﹂
飄ひょ逸うい洒つし脱ゃだつの鳩渓先生、抜け上った額に春の陽を受けながら、相輪に結びつけたかかり綱伝い、後うし退ろさがりにそろそろと降りて来られる。
また一人の娘が
暮から元日にかけて、しきりに流星があった。
元日が最もはげしく、暮れたばかりの夜空に、さながら幾千百の銀ぎん蛇だが尾をひくように絢爛と流りゅ星うせいが乱れ散り、約四半はん時どきの間、光こう芒ぼう相あい映えいじてすさまじいほどの光景だった。
また、前の年の秋頃から、時々、浅間山が噴火し、江戸の市中に薄うっすらと灰を降らせるようなこともあったので、旁かた々がた、何か天変の起る前まえ兆ぶれでもあろうかと、恟きょ々うきょうたるむきも少くなかった。
雪の遅い年で、正月三日の午すぎ初雪が降り、二寸ほど積って止んだ。
根津の太田の原に、不思議な人殺しがあった。
藪やぶ下したから根津神社へ抜ける広い原に、夏なつ期ばは真まこ菰もの生いしげる小さな沼がある。
その沼の畔ほとりから小こは半んち町ょうほど離れた原の真中に、十七八の美しい娘が頭の天辺から割りつけられ、血に染まって俯伏せに倒れていた。
何か鋭利な刃物で一挙に斬りつけたものらしく、創きず口ぐちは脳天から始まって、斜なな後めうしろに後頭部の辺まで及んでいる。
細身の刀か、それに類似した薄刃の軽い刃物で斬りつけたものと思われるが、歩いているところを、後からだしぬけに斬りつけたのだとすると、創口の工合から見て、当然、相当長身の者の仕業だと察しられ、長さの割合に創口が深くないのは、あまり臂びり力ょくすぐれぬ者がやった証拠である。
ただ、創口の一個所に鈍器で撃ったような抉えぐれがある。こんなところを見みると、刃物でやったとばかし思えぬような節もある。しかし、それも、二ふたつにわけて考えれば、たやすく解決される。
最初、角のある石のようなもので撃ったが、目的を達することが出来なかったので、今度は細身の刀ででも斬りつけたのにちがいない。撃った創と斬った創が、同じ場所で重り合うようなことは、あまり例のないことであろうが、百に一つぐらいのうち、こんな偶然は考えられぬこともないわけ。
これが、検死の御用医の意見。
まあまあ、一応の筋は通っている。ところで、その下手人は、いったいどこから来た。
雪の上には、殺された娘の差さし下げ駄たの跡しかない。
沼の縁ふちはもとより、一帯の湿地で、かなり天気の続いた後でも、下駄の歯をめり込ますこの太田の原。その上に、ふんわり積んだ春の雪。
三町四方もあるだだっ広い雪の原のうえに、藪下の方から真直に続いている殺された娘の二の字の下駄の跡だけ。その他ほかには馬の草わら鞋んじはおろか、犬の足跡さえない。すがれた葭よしと真菰の池の岸まで美しいほどの白一色。
ちょうど、雪が降り止んだ頃にこの原へ差しかかったことは、娘の身体に雪が降り積んでいないことによってはっきりとわかる。
すると、下手人は、どこから来て、どんな方法でこの娘を殺したのかということになる。
︵するてえと、こりゃア、手傷を負ったままやって来て、いよいよいけなくなってここでぶッくらけえったんじゃありませんかしらん。船弁慶の知とも盛もりの霊でもあるめえし、抜身を持った幽霊なんてえのは、当今、あんまり聞きませんからねえ︶
出尻伝兵衛、したり顔で偉らそうな口をきいたが、この差出口はまるで余計なようなものだった。
仮にそうだとすると、血の痕がずっと藪下の方から続いていなければならぬ筈だが、足跡の上には、紅梅の花びらほどの血も落ちていないのだから手てがつけられない。与力の橋はし爪づめ左さな内いにあっさりとやり込められて、伝兵衛、赤面して引き退った。
すったもんだはあったが、結局、どうして殺されたのか判らずじまい。ふしぎなこともあるもんだな。で、チョン。
尤も、身許の方はすぐわかった。近おう江み屋や﹇#ルビの﹁おうみや﹂は底本では﹁あうみや﹂﹈という伝馬町の木綿問屋の末娘で、初はつ枝えという十八になる娘。
源内先生いうところの気クー憂フデ病・デリフト。暮から根津の寮に来ていて、寝たり起きたり、ぶらぶらしていた。
ちょうど七ツ頃、雪が止んで、クワッと陽が照り出したのを見て、ちょっと、と言って、行先も告げずに寮を出た。それで、こんな始末になった。
ところで、それから四日おいた同じく正月の八日。こんどは、日にっ暮ぽ里りの諏すわ訪じん神じ社ゃの境内で、同じような事件が起きた。
富ふじ士み見ざ坂かの上、ちょうど花はな見みで寺らの裏山にあたるので、至いたって見晴しのいい場所。
この境内に立つと、根ねぎ岸した田ん圃ぼから三みか河わし島まむ村ら、屏風を立てたような千せん住じゅの榛はんの木林。遠くは荒あら川かわ、国こう府のだ台い、筑つく波ばさ山んまでひと目で見渡すことが出来る。
やはり、雪のやんだ、クワッと陽のさしかけた天気のいい朝で、時刻は五ツ半頃。
崖っぷちに、夏は納すず凉み場ばになる葦よし簀ず張ばりの広い縁台があり、そのそばに小さな茶店が出ている。
雪ゆきの朝あさ早はやくなので、まだ参詣の人影もない。やって来たのは、その娘ひとり。
納め手拭を御みた手ら洗しの柱へかけて、社やしろへちょっと拍かし手わでをうち、茶屋の婆へ愛想よく声をかけてから、崖っぷちへ行って、雪晴れの空の下にクッキリと浮き出した筑波山の方を眺めていた……。
茶屋の婆が、茶釜の下をのぞいている、ものの二、三分ほどの間に、娘は殺されて雪の上に倒れていた。
日頃、ひよわいお嬢さんだから、雪にでもあたったのかと思って、茶屋の婆が急いで駆け寄って見ると、雪あたりどころか、のぶかく頭を斬りつけられ、アララギの御ごし神んぼ木くの根元のところに、結ったばかりの路ろこ考うま髷げを雪に埋めてあわれなようすをして死んでいた。あッ、という声さえきかなかった。
一方は切り立った崖で、一方はひと目で見渡せる広い境内。雪の上には、ここでも、婆と娘の足跡のほか、押したような痕すらない。
信心深い娘で、毎月八日にきまって手拭を納めに来るので、婆とは顔馴染、素性もよく知っていた。谷やな中かの延えん命めい院いんの近くに住んでいる八や重えという浪人者の一人娘。
坂下の番屋に気のきいた番衆がいて、駆け込んで来た婆の話をきくと、一緒に飛んで来て、石段の下へ縄を張って参詣の人を喰い止めてしまったので、足跡は、そっくりその時のままになっていた。
創きずも、初枝のときと寸分ちがわない。条件もそのまま。従って、わからないことも前に同じ。
駆けつけて来た与力、お手てさ先き。五里霧中のていでぼんやり引上げて行った。
一度ならともかく、こんなぐあいに引続いて二度までも謎のような事件が起ると、早耳の市中ではそろそろ評判を立てる。
尾に鰭ひれがつき、若い娘ばかり十五人も生いき胆ぎもをぬかれたように言う。
若い娘を持った親達の心配。それよりも、当の娘たちの脅え方がひどい。ちょうど正月興行が蓋をあけたというのに逆のぼ上せるほど見たい芝居もがまんして、家うちにちぢこまっている。
月つき番ばんの南みな町みま奉ちぶ行ぎょ所うしょでも躍気となって、隠おん密みつ廻まわり、常じょ廻うまわりはもとよりのこと、目めあ明かし、下したッ引ぴきを駆りもよおし、髪かみ結ゆい床どこ、風呂屋、芝居小屋、人ひと集より場、盛り場に抜目なく入り込ませ、目くじり聴き耳立てて目ぼしい聞込みでもとあせり廻るが、一向、なんの手懸りもない。雲を掴むよう。
てんやわんやのうち、空しく日が経って十六日。
よもやと思っていた係かか与りよ力りきの耳へ、谷やな中かず瑞いう雲ん寺じの閻えん魔まど堂うのそばで、つい、たった今、また娘がひとり殺やられたという急な報せ。ちょうど、閻魔の祭日の当日なので。
そばと言っても境内ではない。瑞雲寺の石塀をへだてた隣りの家。
娘の名はお蔦つた。さきの二人と同じく、やはり十八。
浜はま村むら屋やという芝居茶屋の二女で、二人に劣らぬ縹きり緻ょうよし。商売柄になじまぬ躾しつけのいい娘で、この朝も早く起き、昨ゆう夜べの雪が薄すらと残った物干台へ、父親の丹精の植木鉢を運びあげていた。
物干へ上ると、閻魔堂の屋根はすぐ眼の前。気さくなたちだから、植木鉢を棚へ並べながら境内を見下ろして、二階の座敷にいる母親に、大きな声で参詣の人の品さだめをしてきかせていた。
そのうちに、とつぜん声がしなくなり、コソとも動き廻る音が聞えなくなったので、母のお芳よしが妙に思って、横手の半はじ蔀とみから物干の方を見上げて見ると、お蔦が、膝をつくようにして、雪の上にがっくりと上身をのめらせていた。
物干場から瑞雲寺の石塀までは、大体、五間ほど離れている。そちらへ迫ってゆく屋根もなく、物干の下はすぐ黒板塀を廻した中庭。
二つの前例通り、どこを見ても変った足跡などはない。気のきいたつもりのやつが、二階の屋根瓦の上を這い廻ったが、雀が驚いて飛び立っただけで、ここにも、何の消息はなし。
源内先生の演説
源内先生が、宙ちゅ乗うのりをしていられる。風ふう鐸たくを修繕するだけのためだから、足場といっても歩あゆ板びなどはついていない、杉すぎ丸まるを組んだだけの、極くざっとしたもの。
何しろ、大きな筒眼鏡を持っていられるので、進退の駈引が思うように行かぬらしい。三重のあたりまでモソモソと降りて来たが、そこで、グッと行き詰ってしまった。
足場の横桁が急に間遠になって先生の足が届かない。宙ぶらりんになったまま、しきりに足爪を泳がせていられるが、どうして中々、そんな手近なところに足がかりはないのである。
源内先生は、情けない声をだす。
﹁おい、伝兵衛。どうも、いかんな。こりゃ、降りられんことになった。なんとかしてくれ﹂
伝兵衛は、面白そうな顔で見上げながら、無情な返事をする。
﹁何とか、って。どうすりゃアいいんです﹂
﹁上あがるも下おりるも出来んようになった。頼むから助けてくれ﹂
﹁本当に降りられないのですか﹂
﹁まあ、そうだ﹂
﹁そんなら、あっしが助けてあげます。その代りに、一つお願いがあるんです﹂
﹁何だ、早く言え﹂
﹁あなたのお見込をぶちまけて下さい﹂
﹁見込なんか、ない﹂
﹁返事がないのは、お嫌なのですか。……嫌なら嫌でもいいよ。頼みを聞いてくれなけりゃア、あっしはこのまま行ってしまうから﹂
﹁行くなら行け。そのうちに誰かやってくるだろう。その人に助けて貰うからいい﹂
﹁誰も入いれません﹂
﹁入れんとは、何のことだ﹂
﹁山下の駒こま止どめ札ふだのところに立っていて、誰たれも山内へ入れないようにしてあげます﹂
﹁馬鹿なことをするな﹂
﹁ええ、どうせ馬鹿ですから﹂
﹁これは弱った。気が遠くなりそうだ﹂
﹁たった一言でいいんです。そうしたら、あっしが上って行って抱きおろしてあげます﹂
﹁止むを得ない、話してやる﹂
伝兵衛は頓狂な声をあげて、
﹁えッ、じゃア、本当に見込がついているんですか﹂
﹁うむ、ついている。……実のところ、今度の﹃本ほん草ぞう会かい﹄の席で披露して、四隣を驚倒させるつもりだったんだが、背に腹はかえられぬからぶちまける﹂
﹁勿体ぶっちゃいけません。そらそら、あなたの手が顫えて来ました。早く早く……﹂
﹁うむ、これは困った。……一口に言えば、今度の件は、﹃隕アエ石ロリトス﹄の仕業なんだ。これだけ言ったら思い当るところがあるだろう﹂
﹁いいえ、一向﹂
﹁手間のかかるやつだ。……アエロは空、リトスは石。……アエロリトスというのは、つまり、﹃空の石﹄ということだ﹂
﹁言葉の釈義などはどうでもようござんす。……その、空の石がどうしたというんです﹂
﹁判らぬ奴だな。……要するに、空から隕ちて来た石が、あの二人の娘を殺害したのだ﹂
伝兵衛は、むッとして、
﹁はぐらかしちゃいけません。そんなところに宙ぶらりんになりながら地口をいうテはないでしょう。真面目なところをきかせて下さい﹂
﹁これは怪けしからん。究理の問題に於て、この源内が出でた鱈ら目めなどを言うと思うか﹂
伝兵衛は、両手で煽ぎたて、
﹁怒っちゃいけません。……するてえと、それは、本当のことなのですか﹂
﹁お前の言いい種ぐさではないが、この寒空に、洒落や冗談で五重塔の天辺で徹夜など出来るものか。夜更けに小雪が降り出して、えらい難儀をした﹂
﹁ですからさ、一体そんなところで何をしていらしたんです﹂
﹁一晩、塔の上に頑張っていて、つらつらと流なが星れぼしを眺めておった﹂
﹁流星はいいとして、さっき仰おっ言しゃった空の石というのは何のことです。あっしは、子供の時からずいぶん空を見ていますが、石っころなど見かけたことがありません﹂
﹁なるほど、空の石というだけではわかるまい。……実はな、伝兵衛、星と見えるのは、あれは実は大きな岩石のようなものなのだ。石の多いときは隕石といい、鉄が多い時は隕鉄という。しからば、その岩石が、なぜあのような光を発するかといえば、幾千万里と離れたところにある大きな岩の塊が太陽の光を受けて、それでわれわれの眼に輝いて見える。ところで、その星がなぜこの地球の上に隕ちて来るかというに、いったい星なるものは、手っ取り早く言えば、鶏卵の黄味がからざで両りょ端うはしから吊られると同じく、うまい工合に釣合を保って宙に浮いておる﹂
﹁こりゃ驚いた。そいつア、初耳でした﹂
﹁うるさい、喋るな。……ところで、何かの動はず機みでそのからざが切れると、否いや応おうなしに地面の上に隕ちて来る。お前も覚えがあるだろう、えらい勢いで鉢合せをすると、眼から火が出たという。つまり、その理窟で、そういう厖大なものが、えらい勢いで隕ちて来るのだから、空気の摩擦のために火を発し、隕ちて来る途中で追々に燃え減って、地面に達せぬうちに消滅してしまう。また、地球まで届いたとしても、大方は、極めて小さな無害なものになっているから、あまり誰も気がつかぬ。殊に、人里離れたところや、大海の中に隕ちたものは、誰の眼にもつかずに終ってしまう。しかし、流星の方には、別に遠慮のあるわけではないのだから、あながち、辺へん鄙ぴなところや海の中にばかり隕ちるとは限らない。この江戸の真中へ隕ちて来ても一向、差支えないのだ﹂
﹁いかにも、それは、そうです﹂
﹁西洋に於ても、そういう例はあまりたんとはないが、運悪く行き合わせた人間が、その石のために頭を割られたようなことは無いでもない。甚だ稀有なことだが、今度の場合などは、まさに、それだ。……おい、伝兵衛、もう、これ位で勘弁してくれ。とても、保ち切れなくなった﹂
﹁まあまあ、もう少し辛抱しておくんなさい。なるほど、そういう訳だったのか。伺って見ればご尤も。……雪の上に足跡がなかったという謎も、これでさっぱりと解けます﹂
と、いって有頂天になって、ひとりで恐悦している。
源内先生は、爪先をぶらぶらさせながら、かぼそい声。
﹁おい、伝兵衛、おれの方は、どうなるんだ。早くしてくれ、腕がちぎれる﹂
伝兵衛は、急に腑に落ちぬ顔になって、首をひねっていたが、
﹁今すぐ行きますが、その前に、もう一言。……ねえ、先生、星ってのは、夜だけのもんでしょう。それが、昼間隕ちて来るッてのはどういうわけなんです﹂
﹁この火急の場合に愚おろかなことを尋ねてはいかん。星は年がら年中空にあるが、日が暮れぬと、われわれの眼には見えんだけのことだ。隕ちたけりゃ、昼だって隕ちるさ。そういうわしの方も、もう間もなく落ちる。来るなら、早く来てくれ。おれは、まだ大切なことを知っているのだが、助けてくれぬうちは言わぬことにする。……ああ、落ちる落ちる。わしを殺すと玉なしになるぞ!﹂
上上吉若女形
源内先生は、何を探すつもりなのか、四ン這いになって浜村屋の物干台の上を這い廻っていられたが、浮かぬ顔をして立ち上ると、
﹁おい、伝兵衛、どうも、これは違うな﹂
﹁えッ﹂
﹁さっきの隕石説は取消しだ。……お前のやり方が憎らしいから、これだけは言わぬつもりでいたが、そもそも隕石というものは、一種独特の丸い結晶粒があって、地上の石いし塊くれや鉄てつ塊くれと直ちに見分けることが出来るものだ。空から隕ちて、ここにいた娘の頭を創つけたものなら、その隕石の破片が必ずここに落ちているべきはずだ。ところが、いくら探しても、それが見当らん﹂
﹁ございませんか﹂
﹁ないな﹂
伝兵衛は、たちまちむくれ返って、
﹁先生、あなたもおひとが悪いですね。いくらあっしが馬鹿正直だからって、真面目な顔をしてかつぐのはひどい﹂
源内先生は閉口して、
﹁そう疑い深くっても困るな。わしは決してかついだりしたのじゃない。現に、五重塔の上で空を眺めていると、暁あけ方がた近くになって夥おびただしい流星があり、そのうちの若いく干ばくかはたしかに地上まで達したのを見届けたのだから、三日と八日の件は、隕石の仕業だと確信しておったのだ。しかし、それは、わしの考え違いであったらしい。どうも、これは面目ないことになった﹂
伝兵衛は、泣き出しそうな顔になって、
﹁先生の面目なんぞはどうだってかまいませんが、これが見込み違いだったとなると、大おお形ぎょうに番屋中に触れ廻った手前、あっしは引っ込みのつかないことになってしまいます。これはどうも、弱った﹂
﹁……どうも、こりゃ星のせいではなかろうと思われる。……それはそうと、伝兵衛、お前、今朝死んだお蔦というここの娘の創も、この前の二人と寸分違ちがいはないといったな﹂
﹁へえ、そう申しました﹂
﹁可お笑かしいじゃないか。仮に、隕石だとすると、どういうわけで、そうキチンと頭の真中にばかり隕ちて来るんだ。何なに故ゆえに、肩や尻にも隕ちないんだ﹂
﹁なるほど、これはチト可笑しい﹂
﹁創にしてからがそうだ。お前の言うところでは、深さといい、形といい、だいたい、三つとも符節を合したようになっているという。隕石に、そんな器用な芸当が出来るものか。その場合場合によって、必ず深しん浅せん大だい小しょうの差異が出来るはずだ。時には、頭が砕くだけたようなものもあっていいわけだろう﹂
﹁へえ﹂
﹁それから、もう一つ訝おかしいことがある。この前の二人は、余程の浜村屋贔屓とみえて、髪は路考髷に結い、路考茶の着物を着、帯は路考結むすびにしていたそうだ。ところで、ここへ来る通りがかりに、お蔦というあの娘が寝かされているところをチラと見かけたが、これもやはり路考髷を結って、路考茶の着物を着、帯を路考結にしている。これは、いったい、どうしたというわけなんだろう。……不思議な死に方をした三人の娘が、揃いも揃って路考づくめ。すると、隕石ってやつは、だいぶと路考贔びい屓きとみえるの﹂
﹁ごじょうだん﹂
﹁久く米めの仙人でもあるまいし、隕石が路考贔屓の娘ばかり選んで隕ちかかるというわけはなかろうじゃないか。だから、これは、隕石などの仕業じゃない。何か、もっと他のことだ﹂
﹁すると、いったい……﹂
源内先生は膠にべもなく、
﹁それは、わしにもわからん。あとは勝手にやるさ﹂
﹁ここで突っ放すのはむごい﹂
﹁突っ放すも突っ放さないも、この後は訳はないじゃないか。どっちみち、路考に引っ掛りのあることに違いない。……その方を手繰ってゆけば、かならず何とか目鼻がつく。……おまけついでに言ってやるが、わしの考えるところでは、お蔦という娘の今朝の素振りに何となく腑に落ちぬところがある。……どんな律義な娘か知らないが、正月の朝六ツ半がけ、ようやく陽が昇ったか昇らぬかといううちに起き出して、雪の積った物干台へ植木鉢を運び上げるなんてのは、何んとしても、すこし甲斐甲斐し過ぎるじゃないか。……わしには、その辺のところに、何か曰いわくがあるように思われるんだが、いったい、お蔦という娘は、平ふだ常んもそんなことをやりつけているのかどうか、その辺のところをたずねて見たか﹂
伝兵衛は、したり顔で、
﹁そこに如才はありません。……どんなに躾けがいいといったって、夜更かしが商売の茶屋稼業のことですから、六ツや五ツのと、そんな小こッ早ぱやく起きるはずはない。……ところが、どうしたわけか、昨ゆう夜べ小屋から帰って来ると、たいへんなご機嫌で、滅多にそんなこともしないのに、父親の膳のそばに坐って酌をしたりして、ひとりで浮々していたそうです。……お袋の話じゃ、そわそわ寝返りばかりうち、六ツになるかならぬうちに寝床から跳ね出して、髪を撫でつけたり、帯を締めたり。何をするかと思っているうちに、今度は、梅かなんかの植木鉢を持って物干へ出て行こうとするから、転ころんで怪我でもしてはいけないと、さんざんに止めたそうですが、どうしても聴き入れない……﹂
﹁なるほど、その辺のところだと思っていた。……なあ、伝兵衛、たぶん、これは誘われたんだな。恐らく六ツ頃に物干へ上っている約束でも誰かと出来ていたのだろう。……お前は、娘の部屋を探してみたか﹂
﹁いかにも、そういうことはありそうだ。ちょっと行って掻き探して来ますから、暫くここに立っていてください﹂
﹁冗談いっちゃいかん。わしは腹が減ったからもう帰る。後は、お前が勝手にやったらよかろう﹂
﹁まるで、十お八は番こだね。何か言やア、帰る帰る……﹂
たいして変え栄ばえもない顔を、生真面目につくって、
﹁それまで仰言るんならぶちまけますが、今度の三つの件には、先生も相当の関係があるんですぜ。気になさるといけないと思ったから、このことだけは隠していたんだが。三日と八日と、それから今日。……きてれつな死に方をした、この三人の娘たちはみな源内櫛を挿しているんです﹂
﹁それはどうも、怪しからん﹂
﹁そんなことを言ったってしようがない。これがパッと評判になって、源内櫛を挿した娘に限って殺されるなんてえことになったら、わざわざ長崎から伽羅を引き、二階の座敷を木屑だらけにして櫛を梳かせ、何とかこいつを流行らせようというので、一いっ瓢ぴょうを橋渡わたしにして、吉よし原わら丁ちょ字うじ屋やの雛ひな鶴づる太たゆ夫うに挿させたまでの苦心の段が水の泡。それやこれやで、ぱったり売れなくなり、千二千と作った櫛がまるっきりフイになる。……そんなことになったら、あなただってお困りでしょう﹂
﹁そりゃ困る。そもそも、物産や究理の学問は、儒書をひねくるのとちがって、模型を作ったり、究理実験をしたり、薬品の料しろだけでも並々ならぬ金がいる。そういう費用を捻出しようと思って、あんなものを売出したのだから、その方がばったりいけなくなると、従って、究理実験の途も止まるわけで、わしとしても甚だ迷惑する﹂
﹁ですから、他ひ人とごとみたいに言ってないで、先生も、いちばん、身をお入れにならないじゃならねえ場合だと思うんです﹂
源内先生は、あまり機嫌のよくない顔で、空の一方を睨んで突っ立っていられたが、だしぬけに、ひどく急せき込んだ調子で、
﹁よし、わしも覚悟をきめた。こういう愚なことで、わしが損害を受けるのは、如何にも馬鹿馬鹿しい話だから、わしのやれるだけのことはやってみるつもりだ。伝兵衛、お蔦という娘の部屋はどこだ。わしが行って探してやる﹂
金きん唐から革かわの文ふば箱こに、大だい切じそうに秘めてあった一通の手紙。
浜村屋の屋号透すかしの薄うす葉ように、肉の細い草くさ書がきで、今こん朝ちょう、参詣旁かた々がた、遠眼なりともお姿を拝見いたしたく、あわれとおぼしめし、六ツ半ごろ、眼にたつところにお立ち出でくだされたく、と書いてある。
源内先生は、ジロリと伝兵衛の顔を振仰いで、
﹁これで引っかかりだけついたようだな。市村座は今日が初日。もちろん小屋入りをしているだろう。さア、これからすぐ乗込んで行こう。……ことによれば、ことによるぞ﹂
葺ふき屋やち町ょうへ入って行くと、向うから坊主頭を光らせながらやって来たのが、浅あさ草くさ茅かや町ちょうに住む一いっ瓢ぴょうという幇ほう間かん。源内先生の顔を見るより走り寄って来て、いきなり、両手で煽ぎ立てながら、
﹁いよウ、これは大先生。いやもう、大人気、大人気。堺さか町いちょうの小屋は割れッ返るような騒ぎでげす。手前、早速、馳せ参じて、中段を拝見してまいりましたが、まったくもって敬けい服ふく尊そん敬きょうの至り。……
﹃右よ左と附つけ廻まわす、琥珀の塵や磁石の針﹄……琥珀の塵や磁石の針、はいい。大先生のような究理学者でなければ、とても出ない文句。先生のご才筆には、ただただ感涙にむせぶばかり、へえこの通りッ﹂
ガクリと坊主頭を下げる。
源内先生は、焦れったそうに足踏をしながら、
﹁それはいい、……それはいいが、一瓢さん、ちとひょんなことになった。売出しの節は色々とお骨折りをかけたが、どうも馬鹿な破目になって、弱っているところだ。大きな声じゃ言えないが、あの櫛を挿す娘は、みな妙な死方をする﹂
﹁先生、威おどかしちゃいけません﹂
﹁いや、本当の話。その掛合で、これから浜村屋の楽屋へ行くんだが、あなたもどうか一緒に行ってください﹂
一瓢は、何か思惑ありげに眼を光らせ、
﹁浜村屋に、何かあったんですか﹂
﹁まだ、そんなところまで行っていない。今のところは、ほんの引っ掛りだけなんだが﹂
﹁よござんす。どんなことか知らないが、あっしもお供しましょう。役者に女、と、ひと口に言うが、あの路考ッて奴ほど薄情な男はない。いよいよとなったら、あっしも少し言ってやることがあるんです﹂
源内が先に立って、楽屋口から頭取座の方へ行くと、瀬せが川わき菊くの之じょ丞うが、傾けい城せい揚あげ巻まきの扮いで装たちで、頭取の横に腰を掛けて出を待っている。
五歳の時、初代路考の養子になり、浜村屋瀬川菊之丞を名乗って、宝ほう暦れき六年、二代目を継いで上じょ上うじ吉ょうきちに進み、地じげ芸いと所作をよくして﹃古ここ今んむ無そ双うの艶やさ者もの﹄と歌にまでうたわれ、江戸中の女子供の人気を蒐めている水の垂れるような若女形。
源内先生は、大体に於て飾りっ気のないひとだが、こんなことになると、いっそう臆面がない。
薄葉を手に持って、ズイと路考のそばへ寄って行くと、
﹁路考さん、突然で申訳ないが、この手紙は、あなたがお書きになったのでしょうね﹂
路考は、何でございましょうか、と言いながら、パッチリを塗った白い手を伸して、それを受取って、ひと目眺めると、どうしたというのか、見る眼も哀れなくらいに血の気をなくし、
﹁……はい、いかにも。これは、あちきが書いたものに相違ござんせんが、これが、どうしてあなたさまのお手に……﹂
伝兵衛は、横合いから踏み込んでいって、
﹁おい、浜村屋さん、これは、たしかにお前さんが書いた手紙に相違ないんだな﹂
路考は、首を垂れてワナワナと肩を慄わせながら、
﹁はい、それは、只今もうしあげました﹂
﹁おお、そうか。そういうわけなら、浜村屋、気の毒だが、一緒に番屋まで行ってもらおうか﹂
路考は、伝兵衛に腕を執られながら、花が崩れるように痛々しく身を揉んで、
﹁どうぞ、お待ち下さいまし﹂
哀れなようすで伝兵衛の顔を見上げながら、
﹁なるほど、この手紙はあちきが書きましたものに相違ござんせんけど、それは、もう、今から十年ほども前の話。あちきが若女形の巻頭にのぼり、﹃お染﹄や﹃無間の鐘かね﹄を勤めておりました頃の手紙……﹂
源内先生は驚いて、
﹁路考さん、それは本当か﹂
﹁なんであちきが嘘など申しましょう。お手先の方もおいでになっていられるので、その場のがれの嘘などついてみても、しょせん、益のないこと。決して、偽わりは申しません﹂
伝兵衛も呆気にとられて、路考の手を放し、
﹁今から十年も前というと、お蔦がようやく九つか十と歳おの頃。……先生、こりゃ妙なことになりました﹂
源内先生は、額をおさえて、
﹁こりゃ、いかんな﹂
一瓢は、すかさず、
﹁先生、そこで一句﹂
源内先生は、苦り切って、
﹁とても、それどころじゃない。ねえ、一瓢さん、あんたはどう思う。路考さんの話を疑うわけじゃないが、路考さんが十年前に書いたという古い文ふみが、今朝殺されたお蔦という娘の文箱から出て来た。いくら浜村屋が酔すい興きょうでも、九つ十と歳おの娘などに色いろ文ぶみをつけるわけはない﹂
一瓢は、妙な工合に唇を反らしながら、
﹁それゃ何ともいえねえ。浜村屋のやり方は端たん倪げいすべからずですからなア﹂
路考の方へ、ジロリと睨みをくれて、
﹁路考さん、あっしはいつか一度言おうと思っていたんだが、いくら立たて女おや形まの名なだ代いのでも、あんたのやり方は少し阿あこ漕ぎすぎると思うんだ。薄情もいい浮気もいいが、いい加減にしておかないと、いずれ悪い目を見るぜ﹂
源内先生は、分けて入って、
﹁おい、一瓢さん、今そんなことを言い出したってしようがない。それどころじゃないんだから、憎まれ口なら後にしてもらおう﹂
長い顔を、路考の方へ振向けて、
﹁話はだいたい嚥のみ込んだが、十年前にさる人に、だけじゃ、どうも困る。どういう経いき緯さつで、誰にやった手紙なのか、話していただくわけにはゆきませんか﹂
路考は、すぐ頷いて、
﹁大きな顔で申上げられるようなことでもありませんけど、隠していると何かご迷惑があるようですから、何も彼も包まず申上げます。……でも、ここはひとの出入りがはげしいから、むさ苦しいところですが、あちきの部屋までおいで願って……﹂
源内先生は、頷いて、
﹁あまり、手間はとらせないつもりだから、じゃ、そういうことにして……﹂
楽屋部屋へ通ると、路考は淑しとやかな手つきで煎茶をすすめながら、
﹁……その年の春、あちきは﹃さらし三さん番ばそ叟う﹄の所作だけで身体が暇なものでございますから、日頃ご無沙汰の分もふくめ、方々のお座敷を勤めておりました。そのうち、京都の万まで里のこ小う路じというお公く卿げのお姫さまの殺さで手ひ姫めさまというお方にお見知りをいただき、その後二度三度、大だい音おん寺じ前の田たが川わ屋やや三さん谷やば橋しの八やお百ぜ善んなどでお目にかかっておりました。……そのころお年と齢しは二十八で、たげなとでも申しましょうか、たいへんに位のあるお顔つきで、おとりなしは極ごくお優しいのですが、なんとなく寄りつきにくいようなところもあって、打ちとけた話もたんとはございませんでした﹂
路考は、茶を一口啜すすって、掌たなごころの上で薄手茶碗の糸いと底ぞこを廻しながら、
﹁……そうして二、三度お逢いした後のある朝、いつも供ともに連れておいでになる腰こし元もとがまいりまして、何とも言わずに置いて行った螺らで鈿んの小箱。開けて見ますと、思い掛けない、つけ根から切りはなした蚕かいこのようなふっくらとした白い小指が入っておりました。……この以前も、このようなものをむくつけに送りつけられたことはないでもございませんでしたが、いたずらな町まち家やむ娘すめとわけがちがい、向むこうさまは由よしあるお公卿さまのお姫さま。そんなご身分の方が、あちきのような未熟な者をこれほどまでにと思いますと、嬉しさかたじけなさが身に浸しみまして、あちきもとり逆のぼ上せたようになり、使いや文ふみで、せっせとお誘いいたしたのですが、どうしたものか、お出いではおろか、お返しの文もございませぬ。その頃、殺手姫さまは、金かな杉すぎ稲いな荷りのある、小こい石しか川わの玄げん性じょ寺うじわきのお屋敷に住んでいられましたが、今もうし上げたようなわけなので、あちきもたまりかね、玄性寺の塀越しになりと、ひと目お姿を見たく思い、その時差上げたのが先さき刻ほどの手紙。……参さん詣けい旁かた々がた遠眼にお姿を拝見したいから、六ツ半ごろ、眼に立つところにお立ち出でくださるようにと書いて差上げました。……殺手姫さまのお屋敷には、玄性寺寄りに高い高たか殿どのがありますので、あちきのつもりでは、そこへお立ちになった姿を拝見しようと思ったのでございました﹂
聞けば聞くほど意外な話で、源内先生は伝兵衛と眼で頷き合ったのち、
﹁いや、よくわかりました。それで、その後、殺手姫さまといわれる方は……﹂
﹁……その後のち、ようやくお眼にかかれるようになり、その時のお話では、わちきのところへしげしげお渡りになったことがお父上さまの耳に入り、手ひどい窮きゅ命うめいにあって、どうしても出るわけにはゆかなかったということ。その後、お父上さまが京都にお帰りになったので、また元通りにお逢い出来るようになりましたが、人目の関があって、芝居茶屋の水茶屋のというわけにはまいらなくなり、あちきの方から、日と処をきめて文を差上げ、日にっ暮ぽ里りの諏すわ訪じん神じ社ゃの境内や、太おお田たが原の真まこ菰もの池のそばで、はかない逢おう瀬せを続けていたのでございます﹂
路考は、怯えるように、急に額のあたりを白くして俯向き加減に、
﹁……どこと、はっきり申上げるわけにはまいりませんが、打ちとけたお話をしている時にも、何かゾッとするような恐ろしい気持に襲われることがあり、以前にも申上げましたが、こちらの胸にじかに迫るような不気味なところもあって、どのようにそれを思うまいとしても、どうすることも出来ません。……いかにもお美しく、たおやかなお方ですがあまりにもお妬ねたみの心が強く、心変りがするようなことがあったら、お前も相手の女も決して生かしてはおかぬというようなことを、繰返し繰返し仰せられます。痴話のなんのという段ではなく、顔を蒼白ませて、呪のろ言いのように言われるのですから、さすがのあちきも恐しくなり、従って心も冷えますから、急に瘧おこりが落ちたようになる。三度の文も一度になり、仮にせ病やまいをこしらえたり旅へ出たり、何とかして遠とお退のく算さん段だんばかり。とうとう、ふっつりと縁は切れましたが、それでも、二人が初めて出逢った一月の三日には、この十年の間、欠かさず細々と便りがございます﹂
源内先生は、ふう、と息をついて、
﹁これは﹇#﹁﹁これは﹂は底本では﹁ これは﹂﹈大した執念だ。……して、その殺手姫さまといわれる方は、どこにどうしていられる﹂
﹁噂に聞きますとお父上さまのお亡くなりになった後、何かたいへんにご逼ひっ迫ぱくなされ、江戸の北の草深いところに、たった一人で住んでいられるということでございます﹂
行きついた所
﹁どうだ、わかったか﹂
﹁へえ、わかりました﹂
﹁どんな工合だった。餌取は白状したか﹂
伝兵衛、この冬空に、額から湯気を立て、
﹁白状も糞もあるもんですか、いきなり取っ捕まえて否いや応おうなし﹂
﹁それは、近来にない出来だった﹂
﹁止しましょう。先生に褒められると、後がわりい﹂
﹁まあ、そう怯えるな。わしだって、たまには褒めることがある。方角はどっちだ﹂
﹁田たば端たむ村らの萩はぎ寺でらの近く。大きな欅けやきの樹のある、小こが瓦わら塀べいを廻した家で、行けばすぐわかるんだそうです﹂
﹁名前は知れなかったか﹂
﹁ご冗談。犬猫の皮を剥いで暮している浅あさ草くさ田たん圃ぼの皮剥餌取に、文字のあるやつなんぞいるものですか﹂
﹁それもそうだ。では、早速出かけようか﹂
﹁出かけるって、いったい、どこへ﹂
﹁わかっているじゃないか、その小瓦塀の家へ行く﹂
﹁あっしも、お供するんで﹂
先生は、例の通り、梅うめ鉢ばちの茶の三つ紋の羽織をせっかちに羽織りながら、
﹁当り前のことを言うな、お前が行かないでどうする﹂
﹁どうも、藪から棒で、あっしには何のことやら……﹂
﹁話は途みち々みちしてやる。……今日は雪晴れのいい天気。まごまごしていると、また一人娘が死ぬかも知れん﹂
﹁えツ﹇#﹁えツ﹂はママ﹈、そいつアたいへんだ﹂
﹁さあ、来い﹂
源内先生、いつになくムキな顔で、怒り肩を前のめりにして、大巾に歩いて行く。
伝兵衛は、小走りにその後を行きながら、
﹁するてえと、何か、たしかなお見込みでも﹂
﹁さんざん縮しく尻じったが、今度こそ、大丈夫﹂
﹁大丈夫って、どう大丈夫﹂
﹁謎が解けた。……迂濶な話だが、大だい切じのことを見逃したばっかりに、無駄骨を折った。……三日の日も八日の日も、それからまた十六日の日も、いずれも、雪晴れのいい天気だった。ところで、その次の日は、どんよりと曇った日ばかり﹂
﹁へい、そうでした﹂
﹁つまり、三人の娘は、雪晴れの天気のいい日ばかりに殺されている﹂
﹁そのくらいのことはあっしもよく知っております﹂
﹁黙って聞いていろ、まだ後があるんだ。ところでその三人の娘はみな源内先生創製するところの梁みねに銀の覆ふく輪りんをした櫛くしを挿さしている。……なあ伝兵衛、そういう櫛に日の光がクワッと当るとどういうことになると思う﹂
﹁まず、ピカリと光りますな﹂
﹁その通り、その通り﹂
﹁馬鹿にしちゃアいけません﹂
﹁馬鹿にするどころの段じゃない。そこが肝腎なところなんだ。……つまり、それが遠くからの目印になる。……なあ、伝兵衛、足跡を残さずに空から来るものは何んだ﹂
﹁鳥でしょう﹂
源内先生は、大おお袈げ裟さに手を拍うって、
﹁偉い!﹂
伝兵衛は、ぎょっとしたような顔で、
﹁するてえと……?﹂
源内先生は、会心のていに頷いて、
﹁いかにも、その通り。……わしの見込みでは、まず鷹か鷲。……しかし、鷹にはあれほどの臂びり力ょくはあるまいから、おそらく鷲だろう﹂
﹁うへえ、鳥ぐらいのことは、あっしだって考えますが、その鳥が源内櫛にばかり飛びつくというのはどういうわけです。先生、あなたの贔ひい屓きす筋じというところですか﹂
﹁下らんことを言うな。それは、そういう風に馴らしてあるからだ。……ものの本によると、中世紀といってな、西洋の戦国時代に、大鷲を戦争に使ったことがある。﹃戦タリ鷲ーグスハビヒト﹄といってな、もっぱら敵を悩ますために用いる。しからば、どういう方法を以って馴らすかといえば、敵方の兜かぶとやら鎧よろい、そういうものの上に置くのでなければ絶対に餌を喰わせん。殊ことに、戦争の始まる前頃になると、五日七日と餌を喰わさずにおいて放すのだから、敵勢の兜や鎧を見ると、勢い猛もうに襲いかかって行く。つまり、それと同じ方法で馴らしたものに相違ない﹂
﹁でも、あの薄うす刃ばで斬ったような創きずはどうしたもんでしょう。鷲や鷹ならば、爪でグサリと掴みかかるにちがいないから、一つや二つの爪傷ではすみますまい﹂
﹁無学な徒と応対していると世話がやけてやり切れない。それくらいのことがわからんでよく御用聞が勤まるな。……言うまでもない、それは、趾ゆびをみな縛りつけ、その先に剃刀の刃でも結いつけてあるのさ。趾を縛っておけば、途中で棲とまれないから、襲撃をすませると真直に自分の家まで帰ってくるほかはない。つまり、一挙両得というわけだ﹂
﹁すると、あの抉えぐれたような痕あとは﹂
﹁それは、短い外そと趾ゆびの端が触れた痕だ﹂
﹁何のためにそんな手の込んだことを﹂
源内先生、閉口して、
﹁いや、諄くどい男だ。……こないだ路考が言葉尻を濁したが、わしの察するところでは、年に一度、十年がけの手紙というのを欝うっ陶とうしがって、無す情げないことを言ってやったものと見える。その辺の消息は、一いっ瓢ぴょうがうすうす知っていて、帰りがけにわしにそんな風なことを囁いた。……つまり、この辺が落おちなのさ。年に一度の便りに深い思いを晴らしておるのに、それだけのことにまですげないことを言われたとなると、どっちみちおさまりかねる気持になる。いわんや、あのような濃情無比なお姫さまだからただではすまさない。路考が十年前に逢った時、二十八、九といえば、今はもう四十がらみ。自分の頽たい勢せいにひきかえて路考の方はいまだに万年若衆。江戸中の女子供の憧あこ憬がれを一身にあつめているというのだからいかにも口く惜やしい。路考を贔屓にする若い女はみな自分の仇だというような気になって理窟に合わぬ妬ねた心みごころから、こんなことを始めたものと思われる。……それにしても、古い路考の色文を、うまい工合に使い廻して有頂天にさせて戸そ外とへ引出し、鷲を使って殺いためつけようなんてのは、あまりといえば凄い思いつき。名前の殺手姫というのはいかにも心柄に相ふさ応わしい。……今度ばかりは、わしも少々辟へき易えきした﹂
といって、日差を眺め、
﹁おお、もう四ツか。こりゃ歩いてたんじゃ間に合わない。駕か籠ごだ、駕籠だ﹂
多たち町ょうの辻から駕籠に乗り、六ろく阿あ弥み陀だの通りを北へ一町、杉の生垣を廻した萩寺の前へ出た。
地じざ境かいの端から草地になり、その向うに、おどろおどろしいばかりに壊ついえ崩れた土塀を廻した古屋敷。
塀の中から立ち上った大きな欅の樹に、二つ三つ赤い実をつけた烏から瓜すうりが繞からみ上って、風に吹かれて揺れている。
駕籠は萩寺の前で返し、草地を歩いて門の前。
門というのは形ばかり。土つち壊くいで土地が沈み、太い門柱が門とび扉らをつけたままごろんと寝ねこ転ろがっている。小瓦の上には、苔こけが蒼あお々あお。夏は飛ばっ蝗たや蜻とん蛉ぼの棲すみ家かになろう、その苔の上に落葉が落ち積んで、どす黒く腐っている。
さて、門の前まで来は来たものの、あまり凄じいようすで、門とび扉らを押す気さえしない。
源内先生も、すこしゾクッとした顔で、恐るおそる喰い合せの悪い門扉の隙間から、内な部かを覗いていたが、とつぜん、
﹁おッ!﹂
と、つン抜けるような叫びを上げた。
﹁伝兵衛、あれを見ろ﹂
伝兵衛が覗いてみると、葎むぐらや真まこ菰もなどが、わらわらに枯れ残った、荒れはてた広い庭の真中に、路考髷を結い、路考茶の着物に路考結び。前髪に源内櫛を挿した等身大の案か山か子しが、生きた人間のようにすんなりと立っている。
庭の奥に、社殿造の、閉め込んだ構えの朽ち腐れた建物がある。屋根の棟に堅かつ魚お木ぎなどのせた、屋敷とも社やしろともつかぬ家の奥から、銀の鈴でも振るような微妙な音がしたかと思うと、櫺れん子じを押上げて現れて来た、年のころ四十ばかりの病み窶やつれた女。
どこもここも削ぎ取ったようになって、この身体に血が通かよっているのか、蝋ろう石せき色いろに冴さえ返り、手足は糸のように痩せているのに、眼ばかりは火がついたように逞ましく光っている。引き結んだ唇は朱の刺青をしたかと思われるほど赤く生々しい。これはもう人間の面相ではない、鬼きか界いから覗き出している畜類の顔。
ゾッとするような嫌味な青竹色の着物の袖を胸の前で引き合せ、宙乗りするような異様な足どりで廻廊の欄干のところまで出て来て、欅の梢を見上げながら、低く、一、二度口笛を吹いた。
たちまち、中なか空ぞらに凄じい翔かけりの音が聞え、翼の丈、一間半もあろうかと思われる大鷲が、ゾヨゾヨと尾羽を鳴らしながら舞い降りて来て、むざんに案山子の頭に襲いかかったのである。