一 太古の家と地震
昔むかし、歐おう米べいの旅りよ客きやくが日にほ本んへ來きて、地ぢし震んのおほいのにおどろくと同どう時じに、日にほ本んの家かを屋くが、こと〴〵く軟なん弱じやくなる木もく造ざうであつて、しかも高かう層そう建けん築ちくのないのを見みて、これ畢ひつ竟きやう地ぢし震んに對たいする災さい害がいを輕けい減げんするがためであると解かいしてくれた。
何なに事ごとも外ぐわ國いこ人くじんの説せつを妄まう信しんする日にほ本んじ人んは、これを聞きいて大おほいに感かん服ふくしたもので、識しき見けん高かう邁まいと稱せうせられた故こ岡をか倉くら覺かく三氏しの如ごときも、この説せつを敷ふえ衍んして日にほ本んび美じゆ術つ史しの劈へき頭とうにこれを高かう唱しやうしたものであるが今こん日にちにおいても、なほこの説せつを信しんずる人ひとが少すくなくないかと思おもふ。
少すくなくとも日にほ本んけ建んち築くは古こら來い地ぢし震んを考かう慮りよの中なかへ加くはへ、材ざい料れう構こう造さうに工くふ風うを凝こらし、遂つひに特とく殊しゆの耐たい震しん的てき樣やう式しき手しゆ法はふを大たい成せいしたと推すゐ測そくする人ひとは少すくなくないやうである。
予よはこれに對たいして全まつたく反はん對たいの意いけ見んをもつてゐる。今いま試こゝろみにこれを述のべて世よの批ひへ評うを乞こひたいと思おもふ
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外ぐわ人いじん﹇#ルビの﹁ぐわいじん﹂は底本では﹁ぐわんじん﹂﹈の地ぢし震んせ説つは一見けん甚はなはだ適てき切せつであるが如ごとくであるが、要えうするにそは、今こん日にちの世せた態いをもつて、いにしへの世せた態いを律りつせんとするもので、いはゆる自じ家かの力ちからを以もつて自じ家かを強けう壓あつするものであると思おもふ。
換くわ言んげんすれば、一種しゆの自じか家ちう中ど毒くであると思おもふ。
そも〳〵日にほ本んには天てん地ちか開いび闢やく以いら來い、殆ほとんど連れん續ぞく的てきに地ぢし震んが起おこつてゐたに相さう違ゐない。その程てい度ども安あん政せい、大たい正しやうの大だい震しんと同どう等とう若もしくはそれ以いじ上やうのものも少すくなくなかつたらう。
しかし太たい古こにおける日にほ本んの世せた態いは決けつしてこれが爲ために大だいなる慘さん害がいを被かうむらなかつたことは明めい瞭れうである。
太たい古この日にほ本んか家お屋くは、匠せう家かのいはゆる天てん地ちこ根んげ元んみ宮やづ造くりと稱しやうするもので無むざ造う作さに手てごろの木きを合がつ掌しやうに縛しばつたのを地ちじ上やうに立たてならべ棟むな木ぎを以もつてその頂いたゞきに架かけ渡わたし、草くさを以もつて測そく面めんを蔽おほうたものであつた。
つまり木もく造ざう草くさ葺ふきの三角かく形けいの屋や根ねばかりのバラツクであつた。
いつしかこれが發はつ達たつして、柱はしらを建たてゝその上うへに三角かくのバラツクを載のせたのが今こん日にちの普ふつ通うみ民ん家かの原げん型けいである。
斯かくの如ごとき材ざい料れう構こう造ざうの矮わい小せう軟なん弱じやくなる家かを屋くは殆ほとんど如い何かなる激げき震しんもこれを潰くわ倒いたうすることが出で來きない。
たとひ潰くわ倒いたうしても人ひとの生せい命めいに危きが害いを與あたふることは先まづないといつてもよい。
即すなはち太たい古この國こく民みんは、頻ひん々〳〵たる地ぢし震んに對たいして、案あん外ぐわい平へい氣きであつたらうと思おもふ。
二 何故太古に地震の傳説がないか
頻ひん々〳〵たる地ぢし震んに對たいしても、古こだ代いの國こく民みんは案あん外ぐわい平へい氣きであつた。いはんや太たい古こにあつては都と市しといふものがない。
こゝかしこに三々五々のバラツクが散さん在ざいしてゐたに過すぎない。巨きよ大だいなる建けん築ちく物ぶつもない。
たとひ或ある一二の家いへが潰くわ倒いたうしても、引ひきつゞいて火くわ災さいを起おこしても、それは殆ほとんど問もん題だいでない。
罹りさ災いし者やは直たゞちにまた自みづから自しぜ然んり林んから樹きを伐きつて來きて咄とつ嗟さの間まにバラツクを造つくるので、毫がうも生せい活くわ上つじやうに苦くつ痛うを感かんじない。
いはんやまた家いへを潰つぶすほどの大たい震しんは、一生しやうに一度どあるかなしである。太たい古この民たみが何なんで地ぢし震んを恐おそれることがあらう。また何なんで家いへを耐たい震しん的てきにするなどといふ考かんがへが起おこり得えやう。
それよりは少すこしでも美うつくしい立りつ派ぱな、快くわ適いてきな家いへを作つくりたいといふ考かんがへが先さき立だつて來きたらねばならぬ。
若もしも太たい古こにおいて國こく民みんが、地ぢし震んをそれほどに恐おそれたとすれば、當たう然ぜん地ぢし震んに關くわんする傳でん説せつが太たい古こから發はつ生せいしてゐる筈はずであるが、それは頓とんと見み當あたらぬ。
第だい一日にほ本んの神しん話わに地ぢし震んに關くわんする件けんがないやうである。
有いう史しじ時だ代いに入いつてはじめて地ぢし震んの傳でん説せつの見みえるのは、孝かう靈れい天てん皇のうの五年ねんに近あふ江みの國くにが裂さけて琵び琶は湖こが出で來き、同どう時じに富ふじ士さ山んが噴ふん出しゆつして駿すん、甲かふ、豆づ、相さうの地ちがおびたゞしく震しん動どうしたといふのであるが、その無むけ稽いであることはいふまでもない。
つぎに允いん恭けう天てん皇のうの五年ねん丙ひの辰えたつ七月ぐわつ廿四日か地ぢし震ん、宮きう殿でん舍しや屋をくを破やぶるとある。
次つぎに推すゐ古こて天んの皇うの七年ねん乙きの未とひつじ四月ぐわつ廿七日にちに大おほ地ぢし震んがあつた。
日にほ本んし書よ紀き﹇#﹁日にほ本んし書よ紀き﹂は底本では﹁日にほ本んし書よ記き﹂﹈に七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破、則令四方俾祭地震神とあるが、地ぢし震んか神みといふ特とく殊しゆの神かみは知しられてゐない。
要えうするに、このごろに至いたつて地ぢし震んの恐おそろしさが漸やうやく分わかつたので、神かみを祭まつつてその怒いかりを解とかんとしたのであらう。
爾じら來い地ぢし震んの記き事じは、かなり詳せう細さいに文ぶん献けんに現あらはれてをり、その慘さん害がいの状じやうも想さう像ざうされるが、これを建けん築ちく發はつ達たつ史しから見みて、地ぢし震んのために如い何かなる程てい度どにおいて、構こう造ざう上ぜうに考かう慮りよが加くはへられたかは疑ぎも問んである。
三 なぜ古來木造の家ばかり建てたか
論ろん者しやは曰いはく、﹃日にほ本んた太い古この原げん始して的きか家を屋くはともかくも、既すでに三韓かん支し那なと交かう通つうして、彼かの土との建けん築ちくが輸ゆに入ふされるに當あたつて、日にほ本んじ人んは何なにゆゑに彼かの土とにおいて賞しや用うようせられた石いしや甎せんの構こう造ざうを避さけて、飽あくまで木もく造ざう一點てん張ばりで進すゝんだか、これは畢ひつ竟けう地ぢし震んを考かう慮りよしたゝめではなからうか﹄と。
なるほど、一應おう理りく屈つはあるやうであるが、予よの見みる所ところは全ぜん然〳〵これに異ことなる。
問もん題だいは決けつしてしかく單たん純じゆんなものではなくして、別べつに深ふかい精せい神しん的てき理りゆ由うがあると思おもふ。
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日にほ本んの建けん築ちくが古こら來い木もく造ざうを以もつて一貫くわんして來きた原げん因いんは、第だい一に、わが國くにに木もく材ざいが豊ほう富ふであつたからである。
今こん日にちですら日にほ本んぜ全ん土どの七十パーセントは樹じゆ木もくを以もつて蔽おほはれてをり、約やく四十五パーセントは森しん林りんと名なづくべきものである。
いはんや太たい古こにありては、恐おそらく九十パーセントは樹じゆ林りんであつたらうと思おもはれる。
この樹じゆ林りんは、檜ひのき、杉すぎ、松まつ等とうの優いう良れうなる建けん築ちく材ざいであるから、國こく民みんは必ひつ然ぜんこれを伐きつて家いへをつくつたのである。
そしてそれが朽きう敗はいまたは燒せう失しつすれば、また直たゞちにこれを再さい造ざうした。が、伐きれども盡つきぬ自しぜ然んの富とみは、終つひに國こく民みんをし、木もく材ざい以いぐ外わいの材ざい料れうを用もちふるの機きく會わいを得えざらしめた。
かくて國こく民みんは一時じて的きのバラツクに住すまひ慣なれて、一時じて的き主しゆ義ぎの思しさ想うが養やう成せいされた。
家かお屋くは一代だいかぎりのもので、子しそ孫んけ繼いし承やうして住すまふものでないといふ思しさ想うが深ふかい根こん柢ていをなした。
否いな、一代だいのうちでも、家いへに死しし者やが出で來きれば、その家いへは汚けがれたものと考かんがへ、屍しかばねを放はう棄きして、別べつに新あたらしい家いへを作つくつたのである。
奧おき津つす棄た戸へといふ語ごは即すなはちこれである。
しかし國こく民みんは生せい活くわつの一時じて的きなるを知しると同どう時じに、死しの恒こう久きう的てきなるを知しつてゐた。
ゆゑにその屍しかばねをいるゝ所ところの棺くわ槨んくわくには恒こう久きう的てき材ざい料れうなる石せき材ざいを用もちひた。もつとも棺くわ槨んくわくも最さい初しよは木もく材ざいで作つくつたが、發はつ達たつして石せき材ざいとなつたのである。
即すなはち太たい古この國こく民みんは必かならずしも石いしを工こう作さくして家かを屋くをつくることを知しらなかつたのではない。たゞその心しん理りから、これを必ひつ要えうとしなかつたまでゞある。
若もしも太たい古この民たみが地ぢし震んを恐おそれて、石せき造ざうの家かを屋くを作つくらなかつたと解かい釋しやくするならば、その前まへに、何なにゆゑにかれ等らは火くわ災さいを恐おそれて石せき造ざうの家いへを作つくらなかつたかを説せつ明めいせねばならぬ。
火くわ災さいは震しん災さいよりも、より頻ひん繁ぱんに起おこり、より悲ひさ慘んなる結けつ果くわを生しやうずるではないか。
四 耐震的考慮の動機
一屋をく一代たい主しゆ義ぎの慣くわ習んしふを最もつとも雄ゆう辯べんに説せつ明めいするものゝ一は即すなはち歴れき代だい遷せん都との史しじ實つである。
誰たれでも、國こく史しを繙ひもとく人ひとは、必かならず歴れき代だいの天てん皇のうがその都みやこを遷せんしたまへることを見みるであらう。それは神じん武むて天んの皇うそ即く位ゐから、持ぢと統うて天んの皇う八年ねんまで四十二代だい、千三百五十三年ねん間かん繼けい續ぞくした。
この遷せん都とは、しかし、今こん日にち吾ごじ人んの考かんがへるやうな手てお重もなものでなく、一屋をく一代だいの慣くわ習んしふによつて、轉てん轉〳〵近きん所じよへお引ひき越こしになつたのである。
この目もく的てきのためには、賢けん實じつなる﹇#﹁賢けん實じつなる﹂はママ﹈石せき造ざうまたは甎せん造ざうの恒こう久きう的てき宮きう殿でんを造ざう營えいする事ことは都つが合ふが惡わるいのである。
次つぎに持ぢと統う、文もん武ぶ兩りや帝うていは藤ふじ原はら宮ぐうに都みやこしたまひ、元げん明めう天てん皇のうから光くわ仁うに天んて皇んのうまで七代だいは奈な良らに都みやこしたまひ、桓かん武むて天んの皇うい以ら來い孝かう明めい天てん皇のうまで七十一代だいは京けう都とに都みやこしたまひたるにて、漸ぜん次じに帝てい都とが恒こう久きう的てきとなり、これに從したがつて都と市しが漸ぜん次じに整せい備びし來きたつたのである。
一般ぱん民みん家かもまたこれに應おうじて一代だい主しゆ義ぎから漸ぜん次じに永えい代だい主しゆ義ぎに進すゝんだ。
しかしその材ざい料れう構こう造ざうは依いぜ然んとして舊きう來らいのまゝで、耐たい震しん的てき工くふ風うを加くはふるが如ごとき事じじ實つはなかつたので、たゞ漸ぜん次じに工こう作さくの技ぎじ術ゆつが精せい巧こうに進すゝんだまでである。
それは例たとへば堂だう塔たふ伽がら藍んを造つくる場ばあ合ひに、巨きよ大だいなる重おもい屋や根ねを支さゝへる必ひつ要えう上じやう、軸ぢく部ぶを充じう分ぶんに頑ぐわ丈んぜうに組くみ堅かためるとか、宮きう殿でんを造つくる場ばあ合ひに、その格かく式しきを保たもち、品ひん位ゐを備そなへるために、優いう良れうなる材ざい料れうを用もちひ、入にふ念ねんの仕しご事とを施ほどこすので、特とくに地ぢし震んを考かう慮りよして特とく殊しゆの工くふ夫うを加くはへたのではない。
しかし本ほん來らい耐たい震しん性せいに富とむ木もく造ざう建けん築ちくに、特とく別べつに周しう到たう精せい巧かうなる工こう作さくを施ほどこしたのであるから、自しぜ然ん耐たい震しん的てき能のう率りつを増ますのは當たう然ぜんである。
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建けん築ちくに耐たい震しん的てき考かう慮りよを加くはふるとは、地ぢし震んの現げん象しやうを考かう究きうして、材ざい料れう構こう造ざうに特とく殊しゆの改かい善ぜんを加くはふることで、これは餘よほ程ど人じん智ちが發はつ達たつし、社しや會くわいが進しん歩ぽしてからのことである。今いまその動どう機きについて試こゝろみに三要えう件けんを擧あげて見みよう。
第だい一は、國こく民みんが眞しん劍けんに生せい命めい財ざい産さんを尊そん重てうするに至いたることである。生せい命めいを毫こう毛もうよりも輕かろんじ、財ざい産さんを塵ぢん芥かいよりも汚けがらはしとする時じだ代いにおいては、地ぢし震んなどは問もん題だいでない。
日にほ本んで國こく民みんが眞しんに生せい命めいの貴たふときを知しり、財ざい産さんの重おもんずべきを知しつたのは、ツイ近ちかごろのことである。
從したがつて眞しんに耐たい震しん家かお屋くについて考かう慮りよし出だしたのは、あまり古ふるいことでない。
五 耐震的建築の大成
建けん築ちくに耐たい震しん的てき考かう慮りよを加くはふるやうになつた第だい一の動どう機きは都市の建設である。
人じん家かみ密つし集ふの都と市しの中なかに、巨きよ大だいなる建けん築ちくが聳そびゆるに至いたつて、はじめて震しん災さいの恐おそるべきことが覿てき面めんに感かんぜられる。
いはゆる文ぶん化くわ的てき都と市しが發はつ達たつすればするほど、災さい害がいが慘さん憺たんとなる。從したがつて震しん災さいに對たいしても防ばう備びの考かんがへが起おこる。が、これも比ひか較くて的き新あたらしい時じだ代いに屬ぞくする。
第だい三の動どう機きは、科學の進歩である。地ぢし震んが如い何かなる有あり樣さまに於おいて家かを屋くを震しん盪たうし、潰くわ倒いたうするかを觀くわ察んさつし破はく壞わいした家かお屋くについてその禍くわ根こんを闡せん明めゐするの科くわ學がく的てき知ちし識きがなければ、これに對たいする防ばう備びて的きか考うさ察つは浮うかばない。
古いにしへの國こく民みんは地ぢし震んに遭あつても、科くわ學がく的てき素そや養うが缺かけてゐるから、たゞ不ふか可かう抗りよ力くの現げん象しやうとしてあきらめるだけで、これに對たい抗かうする方はう法はふを案あん出しゆつし得えない。
日にほ本んでも徳とく川がは柳りう營えいにおいて、いつのころからか﹃地ぢし震んの間ま﹄と稱しやうして、極きはめて頑ぐわ丈んぜうな一室しつをつくり、地ぢし震んの際さいに逃にげこむことを考かんがへ、安あん政せい大だい震しんの後のち、江え戸どの町まち醫いし者や小をだ田とう東え叡い︵安あん政せい二年ねん十二月ぐわつ出しゆ版つぱん、防ばう火くわ策さく圖づか解い︶なるものか壁かべに筋すぢかひを入いれることを唱しや道うだうした位くらゐのことでそれ以いぜ前んに別べつに耐たい震しん的てき工くふ夫うの提てい案あんされたことは聞きかぬのである。
以いじ上やう略りや述くじゆつした如ごとく、日にほ本んか家を屋くが木もく造ざうを以もつて出しゆ發つぱつし、木もく造ざうを以もつて發はつ達たつしたのは、國こく土どに特とく産さんする豊ほう富ふなる木もく材ざいのためであつて、地ぢし震んの爲ためではない。
三韓かん支し那なの建けん築ちくは木もく材ざいと甎せんと石いしとの混こん用ようであるが、これも彼かの土どにおける木もく材ざいが比ひか較くて的き貧ひん少せうであるのと、石せき材ざい及および甎せんに適てきする材ざい料れうが豊ほう富ふであるがためである。
その建けん築ちくが日にほ本んに輸ゆに入ふせられて、しかも純じゆ木んも造くざうに改かい竄ざんされたのは、やはり材ざい料れうと國こく民みん性せいとのためで地ぢし震んを考かう慮りよしたためではない。
爾じら來い日にほ本んけ建んち築くは漸ぜん次じに進しん歩ぽして堅けん牢らう精せい巧かうなものを生しやうずるに至いたつたが、これは高かう級きふ建けん築ちくの必ひつ然ぜん的てき條でう件けんとして現あらはれたので、地ぢし震んを考かう慮りよしたためではない。
日にほ本んに往わう時じ高かう層そう建けん築ちくはおほくなかつた。たゞ塔たふには十三重ぢうまであり、城ぜう堡ほうには七重ぢうの天てん守しゆ閣かくまであり、宮きう室しつには三層さう閣かくの例れいがあるが、一般ぱんには單たん層そうを標へう準じゆんとする。
これは多たそ層うけ建んち築くの必ひつ要えうを見みなかつたためで、地ぢし震んを考かう慮りよしたためではない。
地ぢし震んを考かう慮りよするやうになつたのは、各かく個こじ人んが眞しん劍けんに生せい命めい財ざい産さんを尊そん重てうするやうになり、都と市しが發はつ達たつし科くわ學がく思しさ想うが普ふき及ふしてからのことで、近ちかく三百年ねん來らいのことと思おもはれる。
今いまや社しや會くわいは一回くわ轉いてんした。各かく個こじ人んは極きよ端くたんに生せい命めいを重おもんじ財ざい産さんを尊たつとぶ、都と市しは十分ぶんに發はつ達たつして、魁くわ偉いゐなる建けん築ちくが公こう衆しゆを威ゐか嚇くする。科くわ學がくは日ひに月つきに進しん歩ぽする。
國こく民みんはこゝにおいてか眞しん劍けんに耐たい震しん的てき建けん築ちくの大たい成せいを絶ぜつ叫けうしつゝあるのである。︵完︶
︵大正十三年四月﹁東京日日新聞﹂︶