中国制覇の足がかり
阿あへ片ん戦争︵一八四〇―四二︶で中国が開国した後は極東の一角日本を開けばこれで旧文明国を資本主義世界に開放する事業が完成するわけである。だから南ナン京キン条約で、この次は日本の番だということはイギリスを先頭とする資本主義列強の常識であったばかりではなく、日本にとっても常識であった。しかもその客がどんな客人であるかはインドや中国を開国させた実績にてらして日本の愛国者にはよく分っていた。だからこそ林はや子しし平へいが﹃海かい国こく兵へい談だん﹄を出し、橋はし本もと左さな内いは日本が﹁第二のインドになる﹂ことを恐れた。 当時の資本主義は貿易第一主義を奉ずる自由経済の全盛期で、いわば資本主義の青年時代であったが、それですらインドや中国にたいする植民地化の戦争、その戦争のけっかとしての不平等条約と、その不平等条約によって保障された不当な利潤によって先進国の地位が保たれてきたのであった。 問題はどうしてアメリカが日本開国の先鞭をつけたかであるが、それは一言でいえば中国貿易でイギリスに勝つための足がかりとして日本を必要としたのだといえる。 新興国アメリカは中国貿易の面でもぐんぐんイギリスに迫ろうとしていた。一八四八年といえばブルジョア革命の波が西欧を襲った年であり、産業革命によって蒸汽船が実用化され、鉄道が実用化される時代であった。ペリーはアメリカ海軍で、世界に先がけて、最新の技術をもって従来の伝統にこだわることなく蒸汽海軍をつくった。 さてサンフランシスコから蒸汽船航路で中国に行くと、中国貿易でイギリスに勝てる目算がついた。だが当時の幼稚な技術ではどうしても途中で石炭をつむ寄港地が必要だった。つまり前にものべたように中国貿易でアメリカがイギリスに勝つための足がかりとして日本を開国させねばならぬことになった。だからペリーは第一ばんに沖繩にいき、那な覇はを根拠地にして小笠原へ行き、父島に貯炭所にあてる土地まで買って日本が開国しない場合は父島をあるいは沖繩を仲つぎにして上シャ海ンハイ貿易をやろうと考えていたのである。こんどの太平洋戦争で、まず沖繩をおとし、つぎに日本本土に向うことになっていたのとちょうど同じことだ。開国派と攘夷派
太平の眠をさました黒船の来航は国内に開国派と攘夷派の抗争となって波紋をひろげていった。ところで同じく開国派といい、攘夷派といっても、それぞれ二種類があった。 開国派の一方には、井い伊い大老の一派がいる。腹の中では開国すれば古い自分たちの権力が保てないことを知りつつも、なお一時の権勢を保とうとするための開国派である。もう一つは真の開国派で、ふるくは安あん藤どう昌しょ益うえき、佐藤信のぶ淵ひろから、渡辺崋かざ山ん、高たか野のち長ょう英えいを経て、ペリー来航当時は佐さく久まぞ間う象ざ山ん、橋本左内などがその代表者であった。これらの人びとは、世界の進運に深く思いをいたし、憂国の至情から開国を主張した愛国派である。だから時の権力から烈しい弾圧を受けたのであった。 攘夷派にも同じく封建支配者の攘夷と人民の攘夷の二派があった。前者の例は生なま麦むぎで薩さつ摩まの武士がイギリス人を斬った、いわゆる生麦事件に代表されるものであり、後者はたとえば対つし馬まが占領されたとき最後まで反抗した対馬の住民であった。民間から攘夷に参加した紀州の浜はま口ぐち梧ごり陵ょう、尾張の林はや金しき兵んべ衛えあるいは天狗党にはせ参じようとした河こう野のひ広ろな中か、その他文久年間の過激攘夷決行派のなかに大ぜいおった。武士でなく当時の人民の生産力を代表する若いブルジョアジーの攘夷が後者を代表する。これら四派がきり結ぶなかに明治維新へと歴史は進んでいく。積年の野望
日本開国の先べんをつけたアメリカが、その直後に起った南北戦争に手をしばられている間に日本貿易の果実はイギリスの手に帰した。やがて日本にも明治維新の変革が、フランスに支援された幕府とイギリスに支持された天皇の両派の、どちらも封建的な同一階級同士の権力争奪戦という形で、革命ではなく一種の改革が行われることになった。 だがアメリカは日本を水先案内とするアジア進出の積年の野望をとげようとして乗り出してきた。その最初の現れはグラント将軍の琉球問題あっせんで、台湾征伐以来反目している日本と中国との間に仲裁者として登場した。ついで朝鮮にたいしては、日本を水先案内としてイギリスに対抗した。この英・米の対立競争を巧たくみに利用したところに陸むつ奥むね宗み光つ外交が不平等条約の改正に成功した秘密がある。 ポーツマスでアメリカが日露戦争の仲裁役を買って出たのも、ペリー来航いらい一貫してもっていた﹁日本を足がかりにしたアジア進出﹂という年来の野望をとげようとするこんたんであったといえる。第二の開国
百年来のこんたんを百年目にちょうど実現したものといえようか。それがサンフランシスコ条約であり、日米安全保障条約であり、行政協定であり、今また批ひじ准ゅんされようとしている日米通商航海条約だということができよう。百年前黒船がきたときに、われらの祖先は直観的に祖国の独立がおびやかされることを感じとった。尊王と結びついたためにゆがめられた形で表現されていたが、それは半植民地化の危機にたいする愛国の本能である。いま百年ごの﹁第二開国﹂にあたって、一部の志士ではなく、日本国民の最大多数の階級である労働者、農民、民族資本家、インテリゲンチアが百年前の憂いと憤りとを百倍してもまだ足りないのではなかろうか。