巣鴨菊

正岡容




 廿
 
 
 西西()()()()()西()()179-3()()()179-3
 西
 


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()()()()()()※(「木+越」、第3水準1-86-11)()()()()
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()()()※(「木+越」、第3水準1-86-11)()()
()湿()()()※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)()()()()※(「木+越」、第3水準1-86-11)()()()


西
 宿宿西
 姿
ふるさとは巣鴨に近し菊の花
の一句を吟じられたことなども記載されてゐる。この金富町から電車通りを竹早町の方へと対つて北へ下りた左側に、此又果而空爆の厄を免れたかどうか路傍西側にいかにも古風に彫りの深い「極楽水」なる石標があつた。極楽水は「ごくらくみづ」と訓まれ三村竹清氏の『江戸地名字集覧』には、この極楽水、「小石川久堅町」の謂とある。極楽水には、新舞踊の道にいそしむ松賀流家元松賀緑さんが住してゐられたが、戦後、私たちの住むこの東葛飾のお医者某氏へ嫁がれてどうやら舞踊はそのまゝ廃されてしまつたものらしい。
 荊妻の家元となつた花園流は極めて昨今の創始であるが、洋舞と日本舞踊の微妙な近代化、誰にも分つて低俗に堕さぬ大衆舞踊の創作、童幼に恋愛ものを教へぬことをモットーに、流派の繁栄に春美、桜と一門を挙げて挺身してゐるが、松賀流は私たちの浅い歴史とは全く段ちがひの江戸聯綿の流派であつて、先年水谷八重子拙作「久米八桜」劇化の砌りも東劇休憩室に飾られた九女八参考資料の中には、明治初年、松賀流繁栄を示したびら風のものなど見かけられた。聞説く、松賀緑さんは嘗て嘱されて他流から松賀流家元を継がれたお仁である由。とすれば同女は至急適当の後継を求めて此に松賀流を永遠に保存さす可きであらう。一個人としての松賀女史が家庭人になつて舞扇を裂き、厨房に魚介を煮るのは自由であるが、卑しくも流祖としての責任をそのまゝに放棄してしまつて、松賀流幾春秋の歴史を闇から闇へと葬り去つてしまふことは些か穏やかでない。切に松賀旧家元再考をば促し度いところである。

(昭和廿二年七月記)







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JIS X 0213

JIS X 0213-


「月+矣」の「矢」に代えて「天」    179-3、179-3


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