人の世になによりも楽しいものは仕事である。張り合いのあるものは仕事である。もしも私たちにすることが与えられてなかったら、毎日どんなにつまらないものだろう。 田園の人は、きょう耕した畑に、あすは種た子ねをまこうと思って楽しく眠る。織りかけている機は、あすは終わるであろうと、ある人は待ちのぞむ。市まちの人は朝はやく起きて店を飾り、またある人々は足を早めて、事オフ務ィ所スに工場にいそぐ。緑の畑が麦を産し、涼しい青田が米になる。われらの労作は楽しいものである。 そうしてその楽しい仕事のなかでも、多くの愛らしい赤ん坊が、よい子供に、よいおとなに育ってゆこうとする仕事を、手伝ってやる仕事ほど、楽しい仕事はないだろう。自分の手のなかにある赤ん坊ばかりでなく、わが子、他ひ人との子、世界中の揺よう籃らんを考えてみよう。そこに人生の涼しい青田がある。私たちはその農夫である。なんという大きな事業であろう。なんという楽しい仕事であろう。 そこに虫の害があるではないか、旱かん魃ばつがあるではないか、洪おお水みずがあるではないか、大風があるではないかとある人はいうだろう。自然を相手の仕事は、一面じつに正直であり、一面じつに冒険である。人の生いのちも大いなる自然物である。よい種た子ねをまいてよく育てたら、法則にしたがって時も違たがえず美しく伸びてゆくはずである。しかし古こお往うこ今んら来い、本当にわが子を立派に育てた親が幾人あるだろう。無数に生まれて一人一人に異かわった無量の生しょ涯うがいを遺のこして逝いった人のなかで、よい人とよくない人と、優れた人と劣った人と、満足した人としなかった人とをくらべてみたら、本当の意味において成功した人びとはいうまでもなく少ないであろう。こういうことは、私たちの親としてのうれしい気持ちを暗くする。せっかく楽しいものに思った事しご業とを、苦しいものに思わせる。不安に思いつつする仕事は、成功するものでないことはたしかである。数かぎりなく生まれた人のなかで、よい生涯を送った人が少ないとすれば、それはこの二ふた葉ばが成長するであろうか、花咲くであろうかと危あやぶみおそれつつ育てた親や教師が多かったからではないだろうか。 生まれた赤ん坊に乳を求める心を教えたおぼえのある母親は、どこかに一人でもあるだろうか。赤ん坊はその生存と発達になくてならないものを、熱心に求めることを知っている。それは人類をつくり給いしものが、人類の本能のなかに、忘れずに用意して下さった働きだからである。その心もその身から体だと同じように丈夫に美しく育ちたいと熱心にのぞむ本ちか能らを与えられているのだと私は思っている。すべての人の親はみなそう思うことができるであろう。私たちはどこまでもこのことを信じて、しばらくも忘れてはならない。 生まれたばかりの嬰みど児りごは、乳を上手に吸うことを知らない、またいつ乳をのむべきかを知らない。はじめての母親も、まだ赤ん坊に乳をのませることが下へ手たである。親も子もたがいに骨折って、その大切な仕事を教えつ教えられつ、授乳と受乳をしてゆかなくてはならない。 よい子に育ちたい、立派な人間になってほしい。それが人間の親と子の、天の父より与えられたもっとも根強い力である。どうすればよい子になるのか、ならせられるのか、それは親子の教えつ教えられつともに骨折ってする、授教育受教育の仕事である。もしこの方法にまちがいがあっても、上手下へ手たがあっても、よい子になろうよい人にしようとする二つの心は、人の希ねがいでなく神の許しであることを信じて、本気に祈りつつこの仕事に従事するならば、人生のもっとも確かな楽しい事業は、じつに私たちのこの仕事である。 ある夜風朝風に、私たちの手から蕾のままに失われていった可かれ憐んの宝玉も、いやまさる恵みの庭に成長し咲きいでていることを、またこの信念が私たちに証あかししてくれることができると思う。 それぞれに異ことなる光をつつむわれらの宝玉よ。うたがいもなく、すべての嬰みど児りごが宝玉である。母性の上に与えられた大いなる祝福よ。大いなる祝福は、かならず大いなる信仰と大いなる努力を通して完まっとうされる。 家庭教育篇 上巻 巻頭の言葉 一九二八年︵昭和三︶