浅あさ草くさ公園の矢や場ば銘めい酒しゅ屋やのたぐひ近頃に至りて大方取払はれし由よし聞きつたへて誰たれなりしか好こう事ずの人の仔細らしく言ひけるは、かかるいぶせき処のさまこそ忘れやらぬ中うち絵にも文ふみにもなして写し置くべきなれ。後に至らば天明時代の蒟こん蒻にゃ本くぼんとも相並びて風俗研究家の好資料ともなるべきにと。この言あるいは然しからん。かの唐とう人じん孫そん綮けいが﹃北ほく里り志し﹄また崔さい令れい欽きんが﹃教きょ坊うぼ記うき﹄の如きいづれか才人一時の戯ぎち著ょならざらんや。然るに千年の後、今なほ風流詩文をよろこぶもの必ずこれを一読せざるはなし。われさきに﹁大おお窪くぼ多た与よ里り﹂と題せし文中いささか浅草のことを記せり。その一節に曰いわく、
楊よう弓きゅ場うばの軒先に御神燈出すこといまだ御ごは法っ度とならざりし頃には家いえ名な小さく書きたる店口の障しょ子うじに時しぐ雨れの夕ゆうべなぞ榎えのきの落おち葉ばする風ふぜ情い捨てがたきものにて※そうら﹇＃﹁候﹂のくずし字、161-10﹈ひき。その頃この辺の矢場の奥座敷に昼遊びせし時肱ひじ掛かけ窓まどの側そばに置きたる盃はい洗せんの水にいかなるはづみにや屋根を蔽ふ老樹の梢を越して、夕日に染みたる空の色の映りたるを、いと不思議に打眺め※﹇＃﹁候﹂のくずし字、162-1﹈事今だに記憶致をり※﹇＃﹁候﹂のくずし字、162-2﹈。その頃まではこの辺の風俗も若きは天てん神じん髷まげ三みツ輪わまたつぶしに結ゆい綿わたなぞかけ年とし増まはおさふねお盥たらいなぞにゆふもあり、絆はん纏てんのほか羽はお織りなぞは着ず伝でん法ぽうなる好みにて中には半はん元げん服ぷくの凄き手取りもありと聞きしが今は鼻唄の代りに唱歌唄ふ田いな舎かの女多くなりて唯わけもなく勤めすますを第一と心得※﹇＃﹁候﹂のくずし字、162-5﹈故遊びが楽になりて深く迷込む恐れもなく誠に無事なる世となり申※﹇＃﹁候﹂のくずし字、162-6﹈。
後ごと藤うち宙ゅう外がい子しが作中たしか﹃松葉かんざし﹄と題せし一篇あり。浅草の風俗を描破する事なほ一いち葉よう女史が﹃濁にご江りえ﹄の本ほん郷ごう丸まる山やまにおけるが如きものとおぼえたり。天外子が﹃楊よう弓きゅ場うばの一時間﹄は好箇の写生文なり。﹃今いま戸どし心んじ中ゅう﹄と﹃浅瀬の波﹄に明治時代の二遊里を写せし柳りゅ浪うろう先生のかつて一ひと度たびも筆をこの地につけたる事なきはむしろ奇なりといふべくや。﹃湯ゆし島まも詣うで﹄の著者また浅草を描きたることなきが如し。
巷ちまたに秋立ちそめて水菓子屋の店先に葡ぶど萄うの総ふさ凉しき火ほか影げに照さるるを見る時、わが身にはいつも可お笑かしき思出の浮び来きたるなり。およそ看る物同じといへども看る人の心異ことなればその趣もまた同じからず。一いっ茶さが句には
一番の富士見ところや葡萄棚
といふがあり。葡萄の棚より露重げに垂れ下る葡萄を見みあ上ぐれば小おぐ暗らき葉越しの光にその総ふさの一粒一粒は切きり子こガ硝ラ子スの珠たまにも似たるを、秋風のややともすればゆらゆらとゆり動すさま、風前の牡丹花にもまさりて危くいたましくまたやさしき限りなり。
島しま崎ざき藤とう村そん子しが古き美文の中うちにも葡萄棚のこと記せしものありしやに覚ゆ。
今わが胸に浮うか出びいづる葡萄棚の思出はかの浅あさ間ましき浅草にぞありける。二はた十ちの頃なりけり。どんよりと曇りて風なく、雨にもならぬ秋の一いち日にち、浅草伝でん法ぽう院いんの裏手なる土どべ塀いに添える小こう路じを通り過ぎんとして忽たちまちとある銘めい酒しゅ屋やの小娘に袂たもと引かれつ。大きなる潰つぶ島しし田まだに紫色の結ゆい綿わたかけ、まだ肩かた揚あげつけし浴ゆか衣たの撫なぜ肩かたほつそりとして小づくりなれば十四、五にも見えたり。気の抜けし麦ビー酒ル一杯のみて後のち娘はやがてわれを誘いざなひ公園の人込の中をば先に立ちて歩む。その行先いづこぞと思へば今区役所の建てる通とおりの中ほどにて、町まち家やの間に立ちたる小さき寺の門なりけり。門の中うちに入るまで娘は絶えず身のまはりに気をくばりてゐたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添ひて手をとり、そのまま案内も請こはず勝かっ手てぐ口ちを廻りて庫く裡りの裏手に出づ。と見れば葡萄棚ありてあたり薄暗し。娘は奥まりたる離はな座れざ敷しきとも覚しき一ひと間まの障子外より押開きてづかづかと内に上あがり破れし襖ふすまより夜のもの取とり出いだして煤すすけたる畳の上に敷きのべたり。
あまりといへば事の意外なるにわれはこの精しょ舎うじゃのいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠かく家れがとはなれるにや。問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃のが出れいでんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出でて再び葡萄棚の蔭を過ぐる時熟みのれる一ひと総ふさの取分けて低く垂れたるを見、栗り鼠すのやうなる声立ててわが袖を捉へ忽ちわが背に攀よぢつ。片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の総を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻あぶあまた飛とび出いづる葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。本堂の方かたに木もく魚ぎょ叩く音いとも懶ものうし。
われその頃より友人に教へられてかのモオパッサンが短篇小説読み始むるほどに、曇りし日の葡萄棚のさま、何なにとなく彼かの文豪が好んでものする巴パリ里ーの好アワ事ンチュールの中うちにもあり気げなる心地せられて遂に忘れぬ事の一つとはなりけり。怪しきかの寺なほありや否や。
大正七年八月