写況雑記
永井荷風
前の日も、其のまた前の日も雨であった。ただの雨ではない。あらし模様の雨である。ざっと降っかけては止み、止んではまた降掛けて来る雨である。雨がやむと雲の間から青々とした空が見えて日がさす。夏の盛りに劣らぬ強い日である。啼きやんだ蝉はその度に一斉に鳴きだす。庭も家の内も共に湯気で蒸された浴室のようである。
九月初旬。二百十日を過ごして二百二十日を待ち構える頃の或日の午後である。下渋谷に住んでいる友人が愛児を失ったという報知に接してA君と二人して弔辞を述べに行った。
A君は蠣殻町の勤め先を早仕舞にしてわたしの家に立寄り連立って出かけたのである。あらし模様の天気と、尋ねにくそうな郊外の番地と道路の泥濘とを予想して、二人はその日の朝どちらから誘うともなく電話で同行を約したのである。
恵比須停留場で電車から降りると絽(ろ)の紋付を着た知人に逢った。もう悔やみに行った帰りだという。そして彼方に見える樹の下の垣根を指さした。赤土の道は思った程ぬかっていなかった。濡れた草の中から虫が鳴いている。雨もやんだままである。
小さな柩の前に回向した後A君とわたしはもう雨の心配のない曇った空を見上げた。郊外の家の垣根道。雨に打たれた木の葉は到る処に散り乱れていた。時ならぬ落葉を踏み踏み火薬庫の裏手を行(ぎょ)人(うに)坂(んざか)の方へと歩いた。時ならぬ落葉に遊意を催したのである。樹の下を通る時汗ばんだ額にあたる風がひやりとする程つめたい。
何年にも不動尊へは参詣した事がないと、夕日が岡を下りかけた時A君が云った。
﹁日和下駄﹂を三田文学に寄稿していた時分である。写真機を肩にして世田ヶ谷の豪徳寺をたずねた帰り道。その時も目黒へ廻った。短い秋の日が矢張暮れかかろうとしている時分であった。いわれもなく停車場の方へと急いで行く道すがら大崎の森から大きな月の昇るのを見た。
その前はもういつであったか明には覚えていない。父と母とに手を引かれて大(だい)国(こく)家(や)か何処かその辺の茶屋で何か食べた事があるようである。目黒は竹藪ばかり繁った処だと行帰りの車の上で見た当時の景色がただただ神秘に思い返される。
今年わたしは四十も既に半に近づこうとしている。四十年の間に目黒へ来た事も数えて見ると今度でたった四度にしかならない。
人生五十年。中秋の月を望み見る事も数えたら幾回か。年少の頃愛読した書物を重ねて読返し見る日も数えたら幾度あろう。人生日常の事一として哀愁を帯びないものは無いような気がしてならぬ。
ははははと笑ってA君は休茶屋の床几に腰をおろして正宗の燗を命じた。
お天気だと枝豆にゆで玉子いろいろこしらえて置きますが今日は何もおあいにくさまでと色の白い円顔の年は二十四五の女房。柳浪先生の小説にでもありそうな女房である。それでも気転をきかして焼海苔を持って来た。
何処もかしこも濡れている。日(ひお)蔽(おい)の葭(よし)簀(ず)はさんざんに破れている。萩のしだれた池の水は土のように濁っている。向日葵も鳳仙花も鶏頭もみんな濡れて倒れていた。
鴉も啼かない。耳馴れた蝉の声に遮られて瀧の音もここまでは聞えない。境内は寂(し)然(ん)として雨水の溜りに石燈籠と若木の桜の影との浮んでいるばかりであった。
職人が三四人丸太をかついで敷詰めた石の上を歩いて行った。朱塗の楼門の修繕中である事がわかった。
塗り直さないでもいいに。
井ノ頭のように俗(ぞく)了(りょう)させたくないものだ。折角広重の名所絵に見る通りだのにと、わたしは立って石燈籠に刻まれた寄進の年月を読み始めた。
A君は正宗の手酌に句を案じている……。
電車もとうになくなってしまった夜深の町を歩いて、わが住む家の門を明け、闇の中に立っているわが家の屋根と庭の樹とを見上げる時、わたしはいつもながら一種なつかしいような穏かな心持になる。この心持は宴席や劇場なぞから帰って来る時、一際深く味われる。
門をくぐると共に必ず郵便箱を検べる。久しく音信のない旧友の書に接する時なぞわたしは家に入るを待たず直様封を切って手紙をよむ。月の光または星の光。或は隣家の門からさす燈の光に高く手紙をかざして読むのである。かかる偶然の機会によって淡々たる日常の生活が忽然詩中のものとなる時わたしは無限の歓びを覚える。始めて人生は美しい懐しいという心になるのである。
静に門の潜戸に鍵をかけて家の戸口に歩み寄る時、わたしは庭の方から淡い花の匂の流れて来るのを知る事がある。石の上に置き忘れた盆栽の花の香であろう。花の香は空気の乾燥した寒い冬の夜に最もよく感じられる。長雨の止んだ後には湿っぽい土の香や草の葉の匂のかぎ得られる事もある。いずれにしても風が吹いたり日の照り付けたりする昼間では感じられぬ有るか無しかの匂いである。
わたしは深夜寂寞の裏(うち)にのみ感じられる此の有るか無しかの香気に迎えられ、真暗な戸口を明けて人気のない家の内に入る。手さぐりに居間の戸をあける。
秋の夜も冬近くなった頃には蟋(こお)蟀(ろぎ)が人の留守を幸に忍び込んで長椅子の下や屏風のかげに鳴(なく)音(ね)を立てている。閉めきった窓のすき間から月の光が銀の糸のようにさし込んでいる事もある。
帽子もとらず外套も着たまま捜り寄って燈(あか)火(り)をつける。
机の上には開かれたままの書物、書きかけた草稿、投げ出されたままの筆やパイプ。長椅子の上には既に過去となった其の日の半日午睡の夢をやどさせた羽根布団。汚れた敷物の上には脱ぎすてたなりの上靴。破れた屏風の書画。これ等の凡て取散らされた室内の光景――わたしという一個の老書生の生活は、わたしの痩せた手先に点じられる燈(とも)火(しび)の光を得ていかにも寂しくいかにも静にわたしの目の前に照し出される。
悔恨と憂悶と希望と妄想と、あらゆる中年の感慨は雲の如くに叢(むらが)り湧く。わたしは此の沈痛なる深夜の感慨をよろこぶ。此の感慨あるが為に深夜独り帰る時わたしの書斎ほどわたしの身に取って世になつかしく思われる処はない。
年の中で日の最も短いのが冬至である。日が短ければ夜が最も長い。
今日は冬至だというとわたしは何がなしに老たる人の平穏静安な生涯を想像する。苦労があっても顔には出さず悠然として天命を待つ老人の姿を想像する。それ等の事から年中時令の中でわたしは冬至の節をば正月や七夕や中秋彼岸なぞよりも遥に忘れがたく思う事が多い。
冬至は太陽暦では十二月の二十日前後に当る。十二月は東京の冬の最もうつくしい時節である。寒気もまださして厳しくはない。一枚小袖の十一月時雨の降つづく晩なぞに比すれば、冬支度の全くととのった十二月の方が却って寒くはない。
十二月には快晴の日がよくつづく。秋から冬にかけて気候の甚しく不順な年にも十二月になれば天気は大抵定まるものである。木の葉という木の葉はきれいに落ち尽してしまうので日がよく当る。冬(あ)青(お)樹(き)、扇(か)骨(な)木(め)、八ツ手(で)、木(もっ)斛(こく)なぞいう常(とき)磐(わ)木(ぎ)の葉が蝋細工のように輝く。大空は小春の頃にもまして又一層青く澄み渡って見える。小春の頃にはどうかすると午後の日光が夏のように、眩しく照付けるが為であろう。
十二月は春にもまさって庭に小鳥の声の最も賑う時節である。簪(かんざし)の玉のような白い花の咲く八ツ手の葉陰には藪(やぶ)鶯(うぐいす)が笹(ささ)啼(なき)している。鵯(ひよどり)は南天の実を啄もうと縁先に叫び萵(あお)雀(じ)と鶺(せき)鴒(れい)は水たまりの苔を啄みながら庭の上に囀(さえず)る。鳩も鳴く。四(しじ)十(ゅう)雀(から)も鳴く。年中耳馴れた雀の声もいつもに増して楽し気に聞える。
十二月はまことに南(なん)軒(けん)曝(ぼう)背(はい)の好時節。日当りのよい縁先に水仙福寿草の蕾(つぼみ)のふくらむのを見ればおのずと杜甫が天時人事日相親。冬至陽生春又来の句も思い出される時節である。
十二月は野菜の味最もよく其価最廉なる時節である。大根もうまい。蕪(かぶら)もうまい。京菜もうまい。葱もうまい。机の傍に円火鉢引寄せ書を読みながら柚(ゆず)味(み)噌(そ)煮る楽しみも十二月である。庭の隅に取り忘れられた石(ざく)榴(ろ)の実や藪の中なる烏(から)瓜(すうり)、または植込のかげの梔(くち)子(なし)の実に、冬の夕陽の反映を賞するのも十二月である。
門を閉じて客を謝し、独り食に飽きて眠をのみ貪(むさぼ)れば、蟄居の楽しみ全く冬にまさる時はない。冬至の節はわたしの最も好きな日である。
菊花は早くもその盛りを山(さざ)茶(ん)花(か)に譲り、鋭い鵙(もず)の鳴声は調子のはずれた鵯に代る十一月の半過から十二月の初が即ち落葉の時節である。黄葉、紅葉、共に落ち散って掃うに暇もないので、落葉は庭にも街にも到る処に積っている。路地の家にも物干台の植木鉢は瓦の間の雑草と共に葉を落す。
わたしのいかに落葉を愛するかは、既に拙著断(だん)腸(ちょ)亭(うて)襍(いざ)稾(っこう)の中に述べ尽されてある。ここに再び繰返すには及ばない。わたしは唯年と共に落葉を愛する情のいよいよ痛切になって来た事を記せばよいのである。
四年前戊午の年大久保の家を売払って築地の路地に引移ろうとしたのは丁度落葉の最も多い十二月であった。山の手の古庭はいうまでもない。落葉は庇の上にも縁の下にも一面に散りつもっていた。わたしは病後の余生を送るに必須な調度と蔵書の一部のみを残してその他のものは庫の中に蔵した先人遺愛の書画骨董から庭の盆栽に至るまで、家に伝わるものは悉く売払って身軽になりたいと思った。病余孤独の身は家を修むる力なく蔵書は唯蠧(むし)の喰うにまかすより外はなかったからである。多年出入りの竹田屋という古書肆の主人が毎日大久保の庭の上に家財道具を運び出して売るものと残すものとを択り分けてくれた。
庭一面の落葉は道具の調べや荷づくりをするには蓙(ござ)や薄べりを敷くよりも遥に誂(あつら)え向きなものであった。誤って花瓶や盞(さかづき)﹇#ルビの﹁さかづき﹂はママ﹈を地に落した時も散り敷く落葉は布団のように軟なために瑕(きず)一ツつきもしなかった。終日樹の下に画幅や古書を投棄てて置いても乾いた枯葉の為に少しも湿める虞がなかった。
十二月もいつか冬至という日――その年は冬至の夕方から雪が降った――築地へ引移って荷物を解くと衣類や布団の間にも落葉がはいっていた。鼠(ねず)不(みい)入(らず)の中にも落葉がはいっていた。本箱の中にもまた落葉が舞い込んでいた。一枚々々皆見覚えた樹木の葉である。同じ楓(かえで)の葉にしても、わたしは其の色と其の形とによって、直様これは旧宅の庭のどの辺に立っている樹の葉であるかを弁別し、つづいて雨を聴き月を賞した折の情と景とを回想した。
築地に在る事一年半ばかり、更に今住む麻布の家に移ってからも、曝書の折々、わたしは日頃繙く事を忘れていた書冊の間から旧(きゅ)廬(うろ)の落葉を発見して、覚えず愁然とする事がある。わたしが常に大久保の旧廬を思うて止まない所以はわが青春のあらゆる記憶のここに宿るが為である。父母の恩を思うにつけてわが不孝の罪を悔ゆるが為である。声色の楽に飽き芸術のまどはしから﹇#﹁まどはしから﹂はママ﹈覚めたる中年の感慨ほど苦しきものはない。蔵書の間にまぎれ込んだ旧廬の落葉は今のわが身には寧ろ古書よりもなつかしいものとなった。
わたしが落葉に対して初めてただならぬ感激を催したのは二十四の時亜(ア)米(メ)利(リ)加(カ)へ行った時である。初めてヴェルレエヌが詩を読んだのも丁度此時分であった。当年の記事は亦凡て旧著の中に収められてある。渡航の以前にあっては落葉に対する感興の記憶は一つもない。所謂世紀末の憂悶に触れべき年齢に達していなかった為めであろう。
わたしは今住んでいる麻布の地を愛している。それはわが家の近隣坂と崖ばかりなので樹木と雑草とを見ることが多い故である。又引続く富豪の家の樹木は争って其の塀の頂きから道路の上に枝を伸ばしているので、家を出れば直ちに靴を落葉の中に没する事が出来る故である。
市(いち)兵(べえ)衛(ちょ)町(う)の通りには元南部侯の屋敷の塀に沿うて桜の大木が半町ほどもつづいて立っている。桜と榎とは霜を待たず秋となれば直(すぐ)様(さま)落葉する事他の木よりも早い。されば麻布に移ってよりわたしは毎年人より早く秋に感ずる機会が多い訳である。霊(れい)南(なん)坂(ざか)を降りかけると米国大使館の塀際に立っている公(いち)孫(ょ)樹(う)の黄葉がはらはらと人の面(おもて)を撲つ。葵(あお)橋(いはし)まで出ると向い側なる三年町の坂道にも亦桜の大木が立っている。氷川明神山王権現また芝の山内はいずれもわが家を去ること遠くはない。現代の東京市中に卜居してかくの如く落葉に親しむ事の出来るのはせめて不幸中の幸である。
落葉は隠棲閑居の生涯の友である。時雨の降る夕(ゆうべ)落葉の道を過ぎて独り家に帰り、戸口に立ってつぼめる雨傘の上に落葉の二三片止まりたるを見る時の心は清寂の限りである。寒月照り渡る庭に立ち出でて喬木の頂きより落葉の紛々として月光の中に閃き飛ぶさまを看るは悲壮の限りである。若しそれ、風絶えて空曇りたる寒き日の暮れ近く、鶫(つぐみ)の餌をあさりながら空庭に散り積った落葉をがさりがさりと﹇#﹁がさりがさりと﹂は底本では﹁がさりさりと﹂﹈踏み歩む音の寂しさに至っては、恐らくは古池の水に蛙の飛び入る響にも劣るまい。
大正十年十二月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。