本誌三月号︵九巻三号︶に﹁濫僧考﹂と題して、社会の落伍者が沙門の姿に隠れて、賤職に従事しつつ世を渡ったことを述べ、それを鎌倉時代にはエタと同視していた次第を明らかにしておいた事であったが、その後さらに二三の資料の存在に気がついたから、いささか前文の不備を補っておく。 濫僧はもちろん沙門である。したがって法師と呼ばれてはいたが、実は三善清行によって﹁形は沙門に似て心は屠児の如し﹂と言われたように、普通の沙門の仲間には入れられないものであった。彼らは京都にあっては普通に賀茂の河原や東山の坂の空地に小屋住まいをしていたものであったが、その身に穢れありと認められて、賀茂神社付近の河原には、屠者とともに住居を禁じられていた。さればその犯罪処罰の場合にも、その扱いが普通の僧侶とは別であった。西宮左大臣源高明の﹁西宮記﹂臨時十一に、
僧犯罪触レ類有二加減一。須下依二還俗之法一、注二姓名一、勘中僧時之犯科上也。或以二告牒一可レ当レ徒止二一年一。而年々勘文、具不レ載二其由一。只以二俗法一勘レ之如レ此。濫僧偏准二凡人一歟。
とある。僧の犯罪については﹁大宝僧尼令﹂にその規定があって、まずこれを還俗せしめて後に処刑する事になっていたが、濫僧に至っては同じく法師であるとは云え、﹁偏へに凡人に准じて﹂還俗の手続きなどを要しなかったものらしい。これは彼らが本来私度の僧で、﹁私に自ら髪を落し猥りに法服を著け﹂たものであったから、国法の上ではこれを僧侶とは認めなかったのだ。しかし私度の僧がすべていわゆる濫僧であった訳ではなく、その中に特に下賤のもののみを言ったもののようであるが、その境界が明らかでない。
鎌倉時代に仔細知らぬものがエタを濫僧と云ったと﹁塵袋﹂にあるが、彼らはまた実に非人法師であった。藤原定家の日記﹁明月記﹂嘉禄元年三月十二日条に、
南京下人説云、奈良北山濫僧長吏法師︵非其病、容儀優美法師︶仮二例人姿一、発二艶言一、掠‐二取尋常家々女子一、已及二三人一之間、漸有二事聞一、欲レ焼‐二払其住所一之間、欲二迯去一。遂斬二其首一、懸二路傍一云云。就レ中信宗法印信弟子僧都最愛娘︵生年十三︶、住所焼亡之中不レ知二行方一失レ之。監二此時一返‐二送之一。云云。末代事、付二視聴一、驚二耳目一歟。
とある。奈良の北山非人の事は、﹁民族と歴史﹂四巻一号︵大正九年七月発行︶に、寛元二年及び元亨四年の文書を引いて、いささか説明しておいたところであったが、その寛元二年を距る十九年前の嘉禄元年の日記に、その非人法師を明らかに濫僧と云ってあるのは面白い。橋川正君によって学界に紹介せられた﹁感身覚正記﹂によると、文永六年に西大寺の叡尊︵興正菩薩︶は、この北山に非人供養の施場を設けた。同年の条に、
二月二十三日為レ営二施行事一、移‐二住般若寺一。三月五日点二当寺西南野︵五三眛北端︶為二施場一。課二此山非人一令レ正二地形之高下一、又兼仰二長吏一、召二諸宿非人更名一、十一日出レ之。此供養間作法、別有二性海比丘一巻記一。仍略レ之。
とある。これいわゆる濫らん僧そう供くなるもので、その施場は後の北山十八間戸の起原をなしたものだと言われている。北山十八間戸とは、般若寺坂における癩病患者収容所で、旧幕時代までも継続し、その建物は今に遺っている。しかしいわゆる北山非人の部落は、叡尊のこの施場から起ったものでなくして、前から既に存在していた非人群集の場所を選んで、叡尊がここに施場を営んだのであった。そしてそのいわゆる非人はやはり癩病患者が多かったものと思われる。それは右の﹁明月記﹂の文に、美貌と艶語とを以て良家の女子を誘拐した長吏法師を、特に注して﹁其の病にあらず﹂と云っているので知られる。そしてそれを濫僧と云っているのは、当時エタも、非人も、濫僧も、その間区別のなかったものたることを示しているものだ。
これらの濫僧に対して、施行すなわち濫らん僧そう供くのしばしば行われた事は、前考にも述べておいたが︵九巻三、二号二頁︶﹁執政所鈔﹂三月十五日春日御塔唯識会始事の条に、人供の中に、
始年濫僧供十石、放生会料一石。自二次年一被二停止一了歟。
とある文を見出でたから、ここに補っておく。この書は鎌倉時代寛元四年に書いたもので、前記奈良坂非人法師と清水坂非人法師との間に悶着のあった頃に当る。この際春日において行った濫僧供は、主としてその北山なる奈良坂非人法師に対して行われたものであろう。
濫僧とは通例非人法師に対する称呼であるが、婦人すなわち尼法師にも、やはり古くこの徒があった。清少納言﹁枕草子﹂﹁物の哀知らせ顔なるもの﹂の条にこれについて面白い記事があるから、平安朝の彼らの生活状態の一斑を知るべき参考として、左に抄録しておく。
二日ばかりありて縁えんの下もとにあやしき者の声にて、﹁猶其の仏供の撤おろ下し物は侍べりなん﹂と云へば、﹁如何で速まだきには﹂と答いらふるを、何の言ふにかあらんと立ち出でて見れば、老たる女の法師の甚いみじく煤けたる狩袴の、筒とかやの様に細く短きを、帯より下五寸ばかりなる衣ころもとかや言ふべからん、同じ様に煤けたるを着て、猿の様さまにて言ふなりけり。﹁あれは何事言ふぞ﹂と云へば、声引きつくろひて、﹁仏ほとけの御弟子に候へば、仏の撤お上ろ物し給たべと申すを、此御ごば坊うたちの惜み給ふ﹂と云ふ。花やかに優みやびかなり。かゝるものは打ち屈くんじたるこそ哀なれ。うたても花やかなる哉とて、﹁異こと物ものは喰はで、仏の御撤お下ろ物しをのみ喰ふが、いと貴き事かな﹂と云ふ気けし色きを見て、﹁何などか異こと物ものも食たべざらん、それが候はねばこそ取り申し侍れ﹂と云へば、菓くだ物もの、広き餅もちひなどを物に取り入れて取らせたるに、むげに中善くなりて、万よろづの事を語る。若き人々出で来て、﹁男やある、何いづ処こにか住む﹂など、口々に問ふに、をかしき事、添へごとなどすれば、﹁歌は歌ふや、舞ひなどするか﹂と問ひもはてぬに、﹁夜は誰と寝ん、常陸の介と寝ん、寝たる肌もよし、︵これが末いと多かり、又︶男山の峯の紅葉は、さぞ名に立つ〳〵﹂と、頭を転まろがし振る。いみじく憎くければ、笑ひ憎みて﹁往ね〳〵﹂といふもをかし。
尼法師が仏供の撤下物を所望し、卑猥なる歌を歌い、身振りおかしく打ち躍るは、目に見えるようではないか。各種の遊芸人が多くかかる濫僧から出て来た次第は、以て想像するに足るであろう。かくて田楽法師や猿楽法師など、いずれもこの落伍者なる濫僧に端を発し、はては後世俳優を呼ぶに、河原乞食の称を以てするにも至ったのである。