▲幽霊の家柄でいて、幽ゆう霊れい種だねがないというのはちと妙なものですが、実際私の経験という方からいっては、幽霊談皆無といっても可いいのです、尤もっともこれは幽霊でない、夢の事ですが、私を育ててくれた乳う母ばが名な古ご屋やに居まして、私が子供の内に銀ぎん杏なんが好すきで仕様がないものだから、東京へ来ても、わざわざ心にかけて贈ってくれる。ああ乳母の厚意だと思って、いつもおいしく喰べていると、ある年の事、乳母が病気で、今度は助からないかも知れないと言って来た。するとこれが夢に来て、私に銀ぎん杏なんを持って来て、くれたと思うと目を覚ましたが、やがて銀ぎん杏なんが小包で届いて来た、遅れ走ばせにまた乳母の死んだという知らせが、そこへ来たので、夢の事を思って、慄ぞ然っとした事がありました。
▲それから、故人の芙ふじ雀ゃくが、亡おや父じ菊きく五ごろ郎うのところへ尋ねて来た事、これは都みやこ新聞の人に話しましたから、彼あっ方ちへ出たのを、またお話しするのもおかしいから止よします。
▲死んだ亡おや父じは、御承知の通とおり、随ずい分ぶん幽霊ものをしましたが、ある時大おお磯いその海岸を、夜歩いて行くと、あのザアザアという波の音が何となく凄いので、今までに浜辺の幽霊というものをやった事がないからいつか遣やってみたいものだと言っていました。その事を、その後のち不ふ図と御ごひ贔い負きを蒙こうむる三みつ井いよ養うの之す助けさんにお話すると、や、それはいけない、幽霊の陰いんに対しては、相手は陽ようのものでなくてはいけない、夜の海は陰いんのものだから、そこへ幽霊を出しては却かえって凄みがないと仰おっしゃいました。亡おや父じはなるほどと思って、浜辺の幽霊はおくらになってしまいました。
▲話は一いっ向こう纏まとまらないが堪かん忍にんして下さい。御承知の通とおり、私共は団だん蔵ぞうさんを頭あたまに、高こま麗ぞ蔵うさんや市いち村むら︵羽うざ左え衛も門ん︶と東京座で﹃四谷怪談﹄をいたします。これまで祖じじ父いの梅ばい壽じゅさんがした時から、亡おや父じの時とも、この四谷をするとは、屹きっ度と怪しい事があるというので、いつでもいつでもその芝居に関係のある者は、皆おっかなびっくりでおりますので、中には随ずい分ぶん﹃正しょ躰うたい見たり枯かれ尾おば花な﹄というようなのもあります。しかし実際をいうと私も憶病なので、丁ちょ度うど前月の三十日の晩です、十時頃﹃四谷﹄のお岩様の役の書かき抜ぬきを読みながら、弟子や家かな内いなどと一いっ所しょに座敷に居ますと、時々に頭あた上まのうえの電気がポウと消える。おかしいなと思って、誰か立ってホヤの工ぐあ合いを見ようとすると、手を付けない内に、またポウとつく。それでいて、茶ちゃの間まや他ほかの間まの電気はそんな事はないので、はじめ怪しいと思ったのも、二度目、三度目には怖おじ気けがついて、オイもう止よそう、何だか薄気味が悪いからと止よしたくらいでした。
▲﹃四谷﹄の芝居といえば、十三年前に亡おや父じが歌舞伎座でした時の、伊い右え衛も門んは八やお百ぞ蔵うさんでしたが、お岩様の罰ばちだと言って、足に腫しゅ物もつが出来た事がありました。今度私に突つき合あって、伊右衛門をするのは、高麗蔵さんですが、自分は何ともないが、妻君の目の下に腫しゅ物もつが出来て、これが少し膨はれているところへ、藍あいがかった色の膏こう薬やくを張っているので、折おりから何だか、気味を好よく思っていないところへ、ある晩高麗蔵さんが、二階へ行ゆこうと、梯はし子ごだ段んへかかる、妻さい君くんはまた威おどかす気でも何でもなく、上から下りて来る、その顔に薄く燈あかりが映さして、例の腫しゅ物もつが見えたので、さすがの高麗蔵さんも、一ちょ寸っと慄ぞ然っとしたという事です。
▲また東京座も、初日になると、そのような意味の怪談︵？︶もありましょうけれども、まあまあ今申し上げるお話はこのくらいなものです。