古図を閲覧するに当りて何なん人ぴとも抱く可べき疑問は、其その図が輯製の当時既に知られたる事実を、果して如何程まで広く採録せりや否やといえることなる可し。ここに所いわ謂ゆる古図とは主として徳川時代に出版されたる地理に関する絵図類をいう。此これ等らの図に拠よりて地形の正確なる説明を大要なりとも知らんとするが如きは、欲する者の無理なるは言う迄もなく、唯ただ山川都邑道路等に就て其概念を得ば以もって満足す可き也。余は古図の価値は、其等の相対的関係位置割合に正しきや否や、山河村落の名称及および道路等割合に多く採録されあるや否や等に依りて決す可きものならんと信ず。故に若もし一の絵図が其輯製当時に於ける既知の事実を尽ことごとく採録せるものならば、最も価値あり最も信ず可き絵図なりというを得可き道理なるも、此の如きは交通不便にして報道の自由を欠きし時代に在りては、元より望む可くして行わる可きものとは思われざるのみならず、絵図の多くは個人の輯録に成るものなれば、少なからざる遺漏ある可きは察するに難からざるを以て、当然之これを割引するも、尚なお余の期待に反すること大なるものあるを認め、古図に拠りて立論するの或場合には甚だ危険なるを感じたり。勿論余は広く古図を渉猟して、そのすべてを詳細に調査したるに非ず、僅わずかに三、五のものに就て大体を探究し、特に上州の一局部を精査したるに過ぎざれば、すべての古図皆然しかりというは同じく危険なる結論に到達するの嫌きらいなきに非ずと考えしも、一を以て他を類推し、さしたる不都合なきを認めたるは、余の少しく意外とする所也。今左に其一例として菅すげ沼を挙げ、古絵図の如何なる程度まで信頼して差支なきやを知らんとす。 菅沼は上野国利根郡片品村大字東小川村の地内にある山湖にして、湖面は海抜千七百十九米の高さを有す。此湖に就ては、﹃山岳﹄第十四年第一号の雑録欄に、﹁一、二山湖の名称﹂と題して、武田君の詳細に論究されたる記文ありて、夫それに拠れば古絵図には、此湖の辺と思われるあたりにツウラ沼なるもの記入されあるも、菅沼の名はなく、其名の始めて地図上に記載されたるは、明治十三年十月出版の﹃改正銅鐫上野国全図﹄にして、而しかも其名称が現時の菅沼を指させるものなるか、或は附近の丸沼及大尻沼を指せるものなるか、又または以上の三湖を引ひっ括くるめて指せるものなるかは、只ただ一湖を描けるのみなるを以て、推測する材料の乏しきに苦しむ次第なりといわれ、津婦良沼又はツウラ沼なる名は前記三湖の総名とするよりも、大尻沼か然らずんば大尻沼及丸沼の総称と考うる方一層合理的と思わると述べられたり。今仮にツウラ沼と菅沼とが時を異にして同一の湖に与えられたる別名なりとし、前者は早くより廃すたれて後者之に代りたるも、明治十年頃に至りて漸く地図に採録されたりとすれば、其間に出版されたる絵図は依然としてツウラ沼なる名称を存するを以て、菅沼を取り扱う場合には人を誤るものという可く、従って信用の程度は減ず可き也。幸にして其誤りや単に山中の一湖沼のみにして止まらば、即ち白璧の微瑕にして殆ど其価値を損することあらざる可きも、斯かかる場合は寧ろ稀有の事に属す。 此湖に関して余の知れる最も古き記録は﹃正保図﹄にして、同図の尾瀬沼︵さかひ沼とあり︶よりは稍やや小なる一湖を描き、其中に変体仮名にて徒婦良能沼︵或は徒婦羅沼とも読み得ざるに非ず、余の見たるものは複製なるを以て、原本につかざる以上、良能と羅との仮名を正しく区別し難し︶と書せり。即ちツフラノ沼なり。而して其後に出版されたる﹃上野図﹄を見るに、尽く﹃正保図﹄を基として、之を縮少して発行したるものなりというを得可く、且かつ﹃正保図﹄の如きは何人も容易に手にするを得可き性質のものにあらざれば、一たび﹃正保図﹄を基としたる絵図の刊行さるるや、他は其名称の如何を問わず之を模刻したるものなること疑うたがいなく、一図の誤あやまりは必ず他図にありても常に之を繰返し、加しか之のみならず必然の結果として誤読と誤写とは益ますます増加せるものの如し。例せば大みなかみ山が﹁大スミカミ山﹂又は﹁すみがかみ山﹂となり、﹁ゆせんたけ﹂が﹁廿せんたけ﹂﹁二十せんたけ﹂﹁二十五浅ヶ岳﹂となり、単に其結果のみを見ては、到底同一の山名なりとは、夢想だもする能あたわざるが如き転訛をなせるものあり。仮名の﹁また﹂に間田、真田、万田などと故意に異りたる文字を充てたるものあり。其他宝川を窪川、根利を利根、小野子山を小野山となせるが如き類は、孰いずれの図にも見らるる一般普通の誤にして、深く咎とがむるに及ばざる可し。ツフラ沼などもツフとツウと発音の似たるより、故意にか知らずしてかツウラと書し、相伝えて明治の初年に至りしものと想わる。 ﹃正保図﹄のツフラノ沼は、只一湖を描けるに止まるを以って、武田君もいわれし如く、三湖の総称なるか、或は孰れか一湖を指せる名なるかは不明なり。﹃利根郡誌﹄︵明治十二年十二月編︶に拠れば、大尻沼には御手洗、丸沼には鏡沼なる旧名ありし由なれば、丸沼の円形なるは早くより注意を惹きしことを知る可く、為に之をツブラノ沼と称して、大尻沼をも含めたる総名とせしものなること、武田君の説けるが如くなりしやも知る可べからざるも、此名に関しては﹃正保図﹄以外に所見なければ、何等的確なる判断を下すこと能わず。思うに菅沼の発見は金精峠の開路或は白根の開山と同時若くは其以前なることは有り得可きも、其以後にあらざることは疑なければ、若し開路開山にしてその孰れが先に開かれたるにもせよ、正保以前に行われたること明かならば、菅沼の発見されたることも之を推測して誤なからん。従って﹃正保図﹄の如く官命に依って選ばれたる地図に之を略する筈なければ、この場合ツフラノ沼はたとえ漠然と一湖を描けるのみなりとも、之を以て三湖を代表せるものと見て差支なしというを得んか。或は又同じ理由よりして反対に、官選の地図に一湖を描けるのみなるは、偶たま以たまもって菅沼の未だ発見されざりしことを証するものなりとも言い得可し。憾うらむらくは資料乏しくして、白根の登山は元より金精峠の路も、いつ頃より開かれたるものなるかを知る能わざることをや。 然れども菅沼なる名称に関しては、幸さいわいにして有力なる資料の存するあり。此名の初めて地図に記されたるは、蓋けだし前記明治十三年十月出版の﹃上野国全図﹄ならんも、﹃郡村誌﹄に拠れば、貞享三年九月の東小川村の検地水帳に、字あざ地ちの中に明あきらかに菅沼なる名称を掲載せるを見る。此字あざは今も湖の所在地に冠しあれば、其地域の昔と異ならざるを察す可く、唯湖名と地名と孰れが主にして孰れが従なるやを知る能わざるも、恐らく湖名直に地名となりしものなる可し。かかれば菅沼なる地名は、菅沼なる湖の発見を語るものにして、時は明治に先立つこと実に百八十余年の昔なりとす。 斯く菅沼の既に発見されたる上は、其事実を知りたる何人なりとも、之を地図に顕あらわす場合に於ては、字地を異にする丸沼及大尻沼と区別す可きは、当然の事ならんと予想せらる︵此際余は﹃正保﹄より約四十年後に改選されたる﹃元禄図﹄を見るを得ざるを以て、一言の之に論及し能わざるを遺憾とす︶。然るに其後に至りて出版されたる絵図の数は素もとより二、三種にして止まらざるも、尽くツウラ沼なる名の相承け相継ぎ、終ついに明治に至る迄百八十余年に亙わたる長日月の間、菅沼なる名を採録されざりし事実は、或は各図編者の目的とする所他にありしが為なりとするも、一面に於て誤脱遺漏を補正す可き材料を得ること殆ど不可能なりしに帰因するものなる可く、独りツウラ沼のみに止まらず、其他の山川の名称の如きも、同じく明治に至る迄一として﹃正保図﹄の儘ままならざるものなしというて可なる有様なり。余は初めてこの事を知りて、其意想外なるに少なからず驚きたるものなるが、試に天保安政頃の出版に係る他の二、三国の図に就て比較せしに、中には僅ながらも補足を加えたるものもあれども、孰れも﹃正保図﹄を模刻せるに過ぎざるものなることを確めたり。 看来れば古絵図の大多数は、吾人の考うるが如く出版当時或は其数年前に於ける一国の地理を説明せるものに非ずして、数十年甚きは百数十年の昔に遡りたる現状を示せるものたるを知る可し、之を何図の翻刻と称するは可なるも、新刻又は改正何之図などと題するに至っては、彼の偽作図の人を欺くに比して優る所ありといわんのみ。余は困離なる地図の出版を敢てしたる古人の労を多とするも、一般に其図の内容は出版の年月と伴わざるのみならず、其弊殊に交通不便なる山地に甚しきを以て、古図を引用するに際しては、充分信頼するに足る可きものは格別、さなくば予あらかじめ其心構あらんことを勧告するもの也。 因ちなみに、﹃山岳﹄第十一年第三号雑録欄百七十二頁に於て、武田君は笈沼なる名を何に拠るや不明なりと言われたるが、不明なるも道理、これ菅の行書又は草書を笈と誤読したる故にして、何の根拠あるにあらざることを偶然発見したり、附記して笑覧に供す。 ︵大正一二、五﹃山岳﹄︶