この雑誌にこんなことを書くと、皮肉みたいに思われるかもしれないが、西洋の諺、﹁飢えは最善のソース﹂には、相当の真理が含まれている。 一流の料理人が腕をふるってつくり上げたソースをかけて食えば、料理はうまいにきまっているが、それよりも腹のへった時に食うほうがうまい、という意味である。 六十年を越す生涯で、いろいろな場合いろいろなものを食ってきたが、今でも﹁うまかった﹂と記憶しているものはあまり沢山ない。そのなかで飢えをソースにしたものをちょっと考えてみると、中学校の時、冬休みに葉山へ行っていて、ある日の午後何と思ってか横須賀まで歩いた。着いた時は日暮れ時で寒く、駅前のそば屋で食った親子丼が実にうまかった。しかしこれは飢えばかりでないプラス寒気で、湯気を立てる丼飯を私の冷えた体が歓迎したのだろう。 大人になってからも似たような経験をした。毎日新聞の記者として芦屋に取材に出かけ、晩方の九時頃仕事を済ませて、やはり駅に近いそば屋でテンプラそばを食った。これも冬だったが、七味唐辛子をウンと振り込み、最後に汁を呑んで咽の喉どがヒリヒリしたことまでおぼえている。これは飢えプラス寒さプラス仕事を終った満足感である。 大正十二年の大震災の時には大阪にいたが、生れ故郷が東京なのですぐ行けと命令され、中央線廻りで上京した。その途中笹ささ子ごのあたりで山津波があり、汽車が半分埋まってしまった。その泥の流れのなかを歩いてぬけて、ちょっとした高台にある村にたどりつき、一軒の飲み屋で酒を所望すると、ぜんまいを一緒に出した。もちろん干したぜんまいをもどし、煮干しで味をつけた物だが、その煮干しのガサガサした歯ざわりさえ憶えているのだから、相当感銘したに違いない。この場合は飢えプラス山津波を逃れた安心感だろう。親子丼、テンプラそば、ぜんまいと、実にありふれた食物だが、飢えプラス何物かが最上のソースになったのである。 私が冒頭で﹁相当の真理﹂といったのはこれなのである。つまり飢え単独では腹がはった満足はあっても、決して﹁うまい﹂とは感じない。 * 私が若い頃登った山には、番人のいる小こ舎やが極めてすくなく、大体水に近い場所にテントを張り、飯をたいて食事をしたものである。食物としては米、味噌が主で、味噌の実にはそこらに生えている植物をつかった。罐かん詰づめ類は重いので、せいぜい福神漬か大和煮を、それもたくさんは持っていかず、動物性蛋たん白ぱく質は干ほし鱈だらだった。飯をたき味噌汁をつくった焚たき火びのおきに、縦半分にさいた干鱈をのせ、アッチアッチと言いながら指でちぎって食うのである。満腹はするがちっともうまくないので、東京へ帰ったら何を食おう、あれを食おうと、第一日の晩から食物の話ばかりで、事実東京へ帰って腹をこわしたりした。それでいて翌年の夏には同じことを繰り返すのだから、山の魅力は大したものである。 いつだったか本格的なアルピニストであるI・A・リチャーズ夫妻と一緒に、後うし立ろた山てやまを歩いたことがある。籠かご川を入っていくと松虫草が咲いていた。暑い日で一同かなり参っていたが、リチャーズはこの花を見て、外側に滴が露になってついているカクテル・グラスを思い出し、﹁初日からそんなことを言い出すとは、out of form だ﹂と奥さんに叱られた。こうなると英国人も日本人も同じである。ところがこの旅で、番人のいる唯一の小舎に罠わなでとった兎があり、その肉を持参のバタでいため、はこび上げてあったビールで流し込んだ時、リチャーズはこんなに贅沢な山小舎は世界じゅうにないと感激した。 * 太平洋戦争の末期に近く、私は北部ルソンのジャングルの中にかくれて生活していた。大きな部隊が移動した後に入り込んだ狙いはあやまたず、ここには米と塩がかなりたくさん残してあった︵もっとも終戦がもう一週間もおくれたら、私は餓死していたことだろう︶。だがそれ以外の食物は、すべりひゆと筍たけのこ――長くのびた奴の頭のほう二寸ばかり――に昼顔の葉である。私は現在インダストリアル・デザイナアとして活動している柳やな宗ぎむ理ねみち君と組んで、盛んに食物をさがした。まず川のカニである。あれを飯はん盒ごうに入れて火にかけると、最初はガサガサ音を立てるがやがて静かになる。真赤な奴を食うのだが、とにかくその辺をはいまわっているカニだから、肉など全然なく、ちっともうまくない。私はすっかり歯を悪くしてしまった。 その数年後阿佐ヶ谷の飲み屋で、伊勢のどこかでとれるカニを出された。一年じゅうでとれる日が一週間とか十日とかに限られているそうである。これも小さいカニで肉はないが、足や鋏はさみはカリカリしていていい味がする。 ちょっと余談になるが、食いしんぼうの私は、ほかの人たちよりも食える物をよく見つけ出した。野生のレモン、唐辛子――わが国で﹁鷹の爪﹂と呼ぶ種類――、れいしがそれである。そしてパパイヤの木のしんが大根そっくりで、すこし古くなるとオナラ臭くなることまで発見したので、これを刻み、太い竹の筒にこれも刻んだ唐辛子の葉と実、れいし――緑、黄、赤と順々に色が変る――、レモンの皮とまぜて押し込み、塩をして一晩おいた。これはとても素晴らしい漬物でいつか有名になり、貰いに来る人がふえるようになった。 * いよいよ終戦投降ときまると、自殺用に持っていた手りゅう弾のつかいみちがない。これも私が主張して、かくれ場の近くの川の深淵にいくつか投げ込み、下流の浅瀬で待っていると、大小の魚が無数に目を廻して流れてきた。みんな大喜びをしたが、特に私たちはヒネしょうがとにんにくを持っていたので、ぼらのさしみをつくり、その骨でダシを取って結びさよりのお吸物をつくり、鰺あじの塩焼その他で夜中の十時近くまで大御馳走を食った。この時のごとき、まったく飢えプラス﹁もう負けてしまったんだから仕方がないや、どういうことが起るか、とにかく捕虜になって見よう﹂という気持と、こちらが変な真似をしなければ、米国人は捕虜を虐待したりしない人間である、という私の知識経験が、このジャングルでの晩飯を、記憶すべくうまい物にしたのである。 * だから飢えだけが﹁最善のソース﹂ではない。これで私のお話は終る。 ︵いしかわ きんいち、毎日社友・評論家、三三・三︶