何でも十二月の末の、とある夕暮の事だった。 晴れるとも曇るとも思案の付かない空が下界を蔽い、本郷一帯の高たか台だいを吹き廻る風はヒューヒュー鳴って、大学前の大通りを通る程の物が、カサカサと乾ひ涸からびた微かな音を立てゝ居た。 此の辺の道路は雨が降ると溝どぶ泥どろになる癖に、此の日は堅い冷めたい鉄板の如き地肌を寒風に曝して、其の上へ叩き付けられる砂塵が、鼠花火のように二三町渦を巻いて走った。往来の人は口を噤つぐんで自分自分の足の端を視み凝つめながら、専念に歩く事へ気を奪われて居た。正門と赤門と二つの口から大学生がぼろ〳〵出て来て其の中へ交った。其れも小学校や中学校の生徒のように多勢景気よく練って来るのではない。大概は一人ずつ、稀には二三人組み合って、洋服の者は外套の隠かく嚢しに両手を突っ込み、襟に頤おとがいを埋めてスタスタ行く。和服の者は懐中へ筆記帳を四五冊無理やりに拈ねじ込み、右の手の人差指一本だけ袖口からちょいと出して、それへインキ壺を引っ懸けて行く。どれも、これも、暗い顔をして俯うつ向むいて歩く所は一ひと角かどの哲学者めいて居るが、何も文科の生徒ばかりではない。こう云う天気に黄たそ昏がれの街を歩くと、大概な人の顔は哲学者面づらになって居る。その哲学者面を砂塵がサーッと吹きつけて通った後では、確かに二三人は消えて失なくなって居るだろう。 杉に原田に私―――今日も亦三人落ち合って正門を出た。例の如く、﹁金が欲しい、飲みたいなあ﹂と云う言葉が三人の鼻先に恐ろしい程明瞭にブラ下って居たが、誰もそんな事は噫おくびと一緒に噛み殺し、何食わぬ顔でたわいもない冗談ばかり云い合って居た。其の癖喋りながら銘々相応に達者な神経を働かせて、対手の懐を読んで見たが、念入りに揃いも揃って文もんなしらしかった。こう云う際に一人でも金を持って居たら外の二人が寄ってたかって、貸したものを取るような勢で奢らせずには措おかないのだから、少しでも懐の暖かい奴の顔には一種の恐パニ慌ックが表れて居なければならない筈なのだ。で、若し飲もうと云い出して誰も金がないとなると猶更悲惨になるから、三人申し合わせたようにジッと我慢をし抜き、成る可く現実隠蔽の悲哀の近所へは近寄らぬようにして、ヤケに笑ったり喋ったりしながら歩いた。けれども其の笑顔すら時々寒風に衝ぶつ突かって哀れにひしゃげた相そう好ごうに変った。こうなると我々は素晴らしい警句が口をついて出る。そして警句が出れば出る程、忘れる筈の一件が矢やた鱈ら無むし上ょうに込み上げて、いくら振り落そうと藻も掻がいても始末に悪い事になるのだ。 ﹁あゝッ………﹂ 今迄調子づいてはしゃいで居た原田が、フイと思い出して物欲しそうに嘆息したので、杉と私とはドッと吹き出して了った。 ﹁………飲みたいなあ。お互に血の出るような冗談を云うたって仕様がない。え、杉さん。﹂ 原田は杉と私に限って妙にさん附けにした。 ﹁駄目だよ今日は。観あき念らめるさ。とても抗かなわぬ事だから、僕は此処を先せん途どと喋り散らして花々しく討死する覚悟だ。ワッハヽヽヽ﹂ 杉が途方もない声で笑った。何ぼ大道のまん中でも杉の笑い声と来たら可なり騒々しい。一座の中へ杉が跳び込んでゲラゲラと一遍引っ掻き廻したが最後、皆の頭は急に脱線して愚にも付かぬ事が可お笑かしくなり、果ては満堂総崩れで狂人のように転がり出す。 ﹁そろ〳〵事が不穏になって来たね。僕は君等と顔を合わせさえしなければ、そんなに飲みたい気も起らないんだがナ。﹂ 此れは全く私の正直な所なのだ。 ﹁僕だってそうサ。教場で筆記を書いてる間はケロリとして居るんだが………全体原田が悪いよ、飲もう、飲もうッて口から手が出そうな顔さえしなけりゃ、格別飲みたい筈がないんだからな。﹂ ﹁けれども君イ、察して呉れやア、私わしゃ此の一週間酒の匂を嗅がんのじゃ。﹂ 此の文句が如何にも哀れっぽかったので、又しても寒風に大口を開いて笑った。 一体三人共実家が貧乏で、大学生にしてはあまり幅の利く方じゃないのだが、それで月始めに二十圓でも二十五圓でも持つと、一時に豪遊︵?︶を極めて一と月の大半は文なしで暮らすのだ。文科の私がいつから此の法科の二人と懇意になったのか判はっ然きりしないが、恐らく高等学校の二年時分の事らしい。何でも杉が私の手に握って居る五十銭銀貨を横眼で睨んで、 ﹁君、ソイツを提供したらどうだナ、徒いたずらに手から汗が出る程握って居ても仕様がないじゃないか。﹂ と云った事を記お憶ぼえて居る。杉と一緒に始めて原田の下宿を訪ねたのは初夏の午ひる過ぎだったが、天井の低い四畳半の部屋へ入ると突然黴かびの臭がムッと鼻を衝いて、嫌に湿っぽいべと〳〵の畳が歩く度にミシミシと云った。そして主人公は汗臭い蒲団の上へ腹這いになり、ギラ〳〵西日の射し込む窓の障子を立ち上って閉めるのが億おっ劫くうなのか、座敷の中央に洋こう傘もりをさして寝て居た。爾じら来い三人は肝胆相照して毎日のように此処に集っては Tabaks-Collegium に夜を更ふかした。凡そ我々のスクール・ライフ中に生じた主な出来事は大抵三人が共通であった。唯一つ勉強と云う事だけが共通でなかった。それは勉強なるものが決してスクール・ライフの中の主なる出来事ではなかったからだ。 一と先ず千駄木の原田の下宿に落ち付く事になって、駒込の方へ歩き出した。もう好い加減戸外を歩いて居る事は忘れて、往来の端から端へ転がりながら砂埃を蹴って笑って行く。其の度毎に杉は子供のように意気地なく鼻をすゝり、袂からボロボロの紙屑を撰り出しては鼻をかんだ。私は下駄の鼻緒が今にも切れそうなので、可なり其の方も心配になった。 ﹁間まむ室ろは暗い顔をして居るなあ。もうちっと日当りの好い顔になれないもんかな。﹂ 一町も先からやって来る友達の顔に狙いをつけて、突然杉がこんな事を云い出した。 ﹁ありゃ可かんぜエ君、ありゃ一生女に惚れられん顔じゃ。あゝ云う顔を持った男はもう浮ぶ瀬がない。﹂ 顔の事になると、原田は他人より一倍眼が肥えてると云った風に批評するのが癖で、結局惚れるとか惚れられないとか、話を色いろ気けの方へ持って行って決着を付ける。 ﹁………時に山崎さん。君、若竹へ出て居る名古屋藝者を見たかな。﹂ 山崎は私の名だ。 ﹁うむ、見た。﹂ ﹁あン中に一人居るだろうがな。彼ありゃあ好え。粋な顔をしとる。杉さんはどう思う。﹂ 何か真面目の用件らしく、キッと杉を見つめる。 ﹁あれがかい? 眼のキリ〳〵吊るし上った、パサ〳〵した女だろ?﹂ ﹁ふむ、そうだろうよ。そう云うだろうと思った。あれは君、散さん々〴〵道楽をし抜いて、女に飽いた男が好くんじゃ。あの女の糞なら甞なめるがナ私わしゃ。﹂ ﹁其れだけは止して呉れ。穢いから。﹂ 杉は仰山に顔を顰めて見せる。 ﹁糞を甞めるは好かった。僕は賛成だ。﹂ 何でも一風変った事だと私はイコジになって賛成するのだ。 ﹁いや、どうも君達には驚く。何も糞を甞めて見せなくっても好さそうなものだ。﹂ こう一番呆あきれ返ったような表情を見せて置いて、杉は又言葉を続ける。 ﹁驚くと云えば近頃僕の頭の悪いには実に驚く。此の間電車へ乗って不思議な事を考えた。毎朝五銭の往復切符で割引の電車へ乗り、復かえりの方を誰かに安く三銭で売るとするんだね。すると最初の日は五銭で買って三銭で売るから、差引二銭の損になるが、二日目から其の売った三銭へ二銭足して割引へ乗り、又復りを三銭で売る。今度は二銭出して三銭入るから一銭儲かる訳だ。次の日も同じように其の三銭へ二銭足しては電車に乗って復りを三銭で売る。こうすると毎日々々一銭ずつ儲かって而も電車へ片道乗れる理窟になる。何だか変だとは思ったけれど、其の時にはどうしても、そうとしか思われなかったから不思議じゃないか。﹂ 原田と私は一寸煙に巻かれて、何処が可笑しいのか見当が付かなかったが、何でも笑って置けば間違いがなさそうだったから、 ﹁あはゝゝゝゝ。そいつは滑稽だ。﹂ と合槌を打って居た。 根津権現の裏門の手前を左へ折れて、溝に沿うて生垣の多い狭い路へ出た。此こゝ処い辺らは冬になると処々ジメジメした霜しも解どけの土が終日乾かず、執拗く下駄の歯に粘り着いて歩くのも相応に骨だが、それでも舌の根は休ませなかった。 ﹁そう云えば杉さん、君は授業料を出したかな。﹂ こう云った原田は少し心配そうだった。多分杉も未納だろうから、そんなら己も安心だ、と云う風が見える。 ﹁其の話は止そう。気になって仕様がない。﹂ と、杉は急に顔を曇らせて、不安らしい眼付をした。 こんな心配は試験同様毎学期繰り返されるのだ。此の中で珍しく授業料が済んで居るのは私だけ、二人は疾うに費い込んで了ってる。こう云う場合いつでも金策の計畫を立てるのは杉に定って居て一寸聞くと天晴れ妙案で尤もらしく、アワヤ紙さ幣つの束が掴まれそうな際どい処迄漕ぎつけるものだから、原田や私はのぼせ上ってゾクゾク嬉しがるが、よく考えて見ると、大概は如何にも実行が出来そうで到底実行の出来ない事ばかりであった。 ﹁所で僕に一策があるんだよ。﹂ そろ〳〵杉が始め出した。 杉の計畫と云うのはこうだ。 此の頃丸善から出したヒストリアンスヒストリーの豫約廣告に依ると、最初手付として金五圓出しさえすれば、直ぐに定価百五六十圓の書物を全部送り届けてくれる。残金は月賦にして二十箇月間に返済すれば好い。所で我々三人が奔走して五圓の金を拵え、誰か一人の名義にして書物を受け取ったら其れを質屋へ持って行く。先ず安く見積っても七八十圓には取ってくれるに違いない。或は百圓位で売ると云ったら買手はいくらでもあろう。さあどうだ! 二人の授業料三十圓を差引いて少くとも四五十圓は飲めると云うものだ。そこで月賦の方は以来二十箇月間、三人平等に分担して支弁すれば、月々大した重荷ではない。 ﹁どうだ巧いだろう。なアに、月賦さえチャンチャンと拂えば、丸善の方だって少しも損はしないのだからな。﹂ すると第一に雀こお躍どりして喜んだのは原田だった。 ﹁へーえ、それア好え。﹂と眼を圓くして、﹁私わしゃどうしてもやらにゃ置かんぜエ。君等が嫌なら私一人でもやる。成る程、ウム、………確か、確か、屹度うまく行く!﹂ 何となくアヤフヤにも思われたが、一と通り理窟らしいので私もつい釣り込まれ、原田の下宿開かい明めい館かんの二階へ上り込んだ時分には、三人とも全然其の腹になり切って居た。 原田に客膳を奢らせて晩飯を食いながら、えらい鼻息で話し始めた。原田は百圓手に入ったら三人で吉原へ行こうと云う。私はそれより柳橋へでも繰り込んで、粋すいに遊ぼうと主張する。杉は躍やっ気きになって、 ﹁つまらんさ! そんな事をしたって! 其れよりは多勢引っ張って行ってウント牛肉でも食わして紙さ幣つビラを切って見せるんだ。驚くだろうなア皆が。﹂ 何しろ大枚百圓と云う金の柱を中央に、三人が三方からと見こう見して、さすって見たり、撫でゝ見たり、其の周囲をグル〳〵廻って居るような話なのだ。 ﹁おい、所で五圓はどうして拵える。﹂ 己は冷静だろう、と云わんばかりに杉が切り出した。多分原田も私も疾うから其れに気が付いて居たのだろうが、百圓があまり眼前にチラ〳〵するので、不愉快な金策の相談なんかは後廻しにして、一と先ずホクホク嬉しがって置きたかったものと見える。 ﹁そりゃア君、二三日の中に百圓入るのだもの、出来ない奴があるもんか。﹂と云いながら原田はジロ〳〵私の方を見て、 ﹁君、明日家から貰って来られんかな。﹂ 原田も杉も下宿住いで、家から通って居るのは私だけだから、こう云う災難には時々遇うものとしなければならぬ。 ﹁一寸困るな。此の頃は僕も大分費ってるから。﹂ ﹁いや、いゝ。僕が此の時計を売る。﹂ 杉がニッケルの時計を出した。 ﹁売るのはつまらんよ。僕の知ってる質屋へ持って行こう。もう一つ時計があると五圓になるが、生あい憎にく持って居らん。﹂ と、又原田がジロ〳〵私の帯の間を睨めつける。 ﹁時計なら、僕も出そう。金が入ったら出して呉れ給え。﹂ とう〳〵私も時計を出して了った。 妙な事には此れで話が全然きまって了って、ジッと待ってさえ居れば、百圓が遠くの方から我々目がけてトットと駈けて来る筈なのだが、時計を出してから杉と私は少し不安になり出した。原田ばかりは嫌に脂やに下さがってスパ〳〵やって居る。 ﹁けれども未だ明日は飲めないんだな。どうしても百圓入る迄には二三日かゝるだろう。﹂ 何だか待まち遠どおでならないので私はこう云った。 ﹁チョッと待ち遠だね。けれどナニ我慢するサ。原田、明日五圓拵えるはいゝが、費って了っちゃいかんぜ。﹂ ﹁馬鹿を云うない。大丈夫だよう。百圓入るんじゃないか。そんな眼先の利かない事をするものかい。﹂ 其の晩三人の口に百圓が何度繰り返されたか知れない。 十一時過ぎに開明館を出て、暗い寒い夜路を四丁目の電車停留所迄出る間に、私は遂に下駄の鼻緒をやっつけて了った。で、夜を幸い見えも外聞もなく手拭で足を台へ縛り付けて歩いた。 私は此の頃激しい Hypochondria に陥り、たった独りになると獰どう猛もうなる強迫観念に襲われて、居ても立っても堪らなくなるのだが、不思議と今夜は神経が下駄の方へ使われて、一向恐ろしがる気が出ない。オスカー・ワイルドが、ドリアン・グレイの中で、﹁心霊の悩める時は官能の快楽を追い、官能の悩める時は心霊の快楽を追え。﹂と云うような事を云って居るが、私は茲こゝに一つの真理を発見した。曰く﹁強烈なる心霊の苦痛は、偶たまたま些細なる肉体の苦痛を以て滅却する事を得。﹂そうだ、………それに違いない。……… どう云う拍子でこんな事を考え始めたものか、判然しないが、私の足が暗闇で一生懸命跛足を曳いて居る間に、私の頭は頻りにこう云う真理を発見する事に努力し出して、それからそれへと纏まりのない思想の断片が脳中を組くんず解ほぐれつした。而も其れ等が皆バイブルや論語の格言以上の価値と権威とを有するように思われ、発見の度毎に独りで感服したが、次ぎの発見に移る時分には大概前の真理を忘れて居た。何でも其の中には、﹁笑は不安也。﹂と云うのがあったと思った。﹁鼻は猥わい褻せつ也。﹂もあったようだ。﹁自ら誇る時、心毎つねに悲し。﹂﹁黙する時、必ずしも考えず。﹂こんなものもあった。﹁色彩を欲す、思想を欲せず。﹂﹁恐怖は其の対象の生ずるを待って生ぜず。﹂﹁長く黙するに堪えず。﹂﹁巻煙草は婬売を聯想せしむ。﹂記お憶ぼえて居るのは此の位だが、まだ此の外に素晴らしい発見が十や二十はあった筈だ。惜しい事をしちゃった。 矢張真理は抗さからえんもので、四丁目から電車へ乗って足の方が楽になると、私は今にも往来へ躍び出して駈け出したくなるような恐怖に襲われ出した。Terror of Death! Terror of Death! 始終耳元でこんな叫びが聞え、動悸が鉄槌を打ち込むようにガンガン響いた。かと思うと、アワヤ心臓の血が一時に凝結するような気がして、一生懸命肋骨を抑えた。私を乗せた夜更けの電車が非常な活力で轟ごう々〳〵と走って行くのが、如何にも情なく、意地悪く感ぜられた。幾度か夢中になって、﹁死にそうだ、助けて呉れ。﹂と云いつゝ隣のお客に武者振り付こうとしたが、そうすればもう狂人になると思って、ジッと堪えて居た。 水天宮前で電車を下りるや否や、渾身の意識を、﹁駈ランけニンるグ。﹂という一点に集めて箱崎町の家迄奔馬の如くポンポン駈けって行った。 ﹁何だってこんなに晩おそく帰って来るんだ。﹂ と、親おや父じが奥から起きて来て叱ったが、そんな事を恐ろしがって居る所じゃない。早く闇から逃れたい一心に、大急ぎで二階の居間へ上り、二つのランプへ燈火をカン〳〵つけて見た。けれども依然として不安なので、今度はソッと台所へ忍び込み、樽の口から冷めたい液を腹の中へ滾こん々〳〵と注ぎ込んだ。するとカーッと暖まって体中に凍り付いて居た恐怖が次第々々に溶けて行った。 翌朝眼を開くと、私は口をアングリ開いて仰向けに臥て居た。一と晩の間締め切った四畳半の空気はランプの油煙や人ひと蒸いき気れで息がつまるように熱苦しい。寝床の上の硝子窓から朝日が毒々しく照って、瞳がクラクラする。私の頭の中は瓶かめのように空虚になって居て、石ころが二つ三つ入れてあるらしく、それが頸を振る度毎に中で彼方此方へゴロゴロ転がり廻った。体中が汗でべと〳〵して居る。蒼白く痩せた手を見て居ると、各の指が五匹の生物の如く顫えて動いて居る。小さい粟粒のようなものが眼の前へ無数に浮き上って、いろ〳〵視線を変えて見たがどうしても消えない。そこら中のものが悉く二重になって映って来る。ふと思い出して頭髪を掴み、グッと引っ張ると、恰も枯木の根っこを抜くように五六本ぞろ〳〵と手についた。 階下で柱時計が十時を鳴らして居る。今朝も学校は遅刻だ。昨夜寝たのは一時頃だったから無理もないが、それでなくても此の頃では十時前に起きた例がない。実はもう少し早起をしたいけれども、親父や母おふ親くろがどうしても寝坊させずには置かぬように仕向けるので困って居るのだ。 先ず朝七時頃になると、屹度親父が大声あげて、 ﹁禄造、禄造。﹂ と、矢口の渡の頓とん兵べ衛えもどきで怒鳴りながら、火かき急ゅうの注進でもするようにドタバタ梯子段を上って来る。半眼で見て居ると其の時の剣けん幕まくと云ったらない、怒髪天井を衝き、眼中血走り、後手に出刃庖丁を握って居ないばかりだ。 ﹁やいッ、起きねえかッ。毎朝々々人がいくら呼んでもウンウンて返辞ばかりで起きやがらねえ。起きろってば起きねえかッ。起きねえと承知しねえから。﹂ 一体親父は口が粗暴でいけない。どうせ米屋町の相場師だから上品な訳はないが、これでは車夫か馬丁の口調だ。 此の台せり辞ふの間に、ふとんの上から足で私の体を揺すぶったり、或は上の夜具を一枚まくったりする所しょ作さが入る。それでも私が起きずに居ると、仕方なしに、﹁起きねえと承知しねえぞ。﹂と今度は﹁ぞ﹂の字を使い、多少調子の変った捨すて台ぜり詞ふで下りて行く。 但し、此の際私が柔順に起きれば文句なしだが、子供と違って二十三四にもなると相応に威厳とか格式とか云うものを保ちたがるので、こうして見ればオイソレと手軽に起きる事が出来ない。まさか此の辺の道理の解らぬ親父でもなかろうから、私は時々親父の真意の存する所を疑って、此れは屹度、もっと寝て居るがよいと云う謎に違いないと解釈する。多分此処辺の推察が穏当な所だろう。 要するに其の真意は孰いずれにもせよ、親切が仇あだとなって私は早起が出来ない。それ故親父の気が付かない中に起きて了えばいゝのだが、又運悪く親父が階段を駈け上ろうとする刹那、私は起きたいと云う気持になる。両者常に間髪を入れない。実に際きわどい所で起き損って私も残念で堪らぬ。 階段から下りて行った親父は啣くわえ楊よう枝じで朝湯に出掛け、十分ばかりで帰って来て朝酒を飲み、遅い〳〵と云いつゝ朝飯を掻き込んで、そゝくさと逃げるように家を出て行く。米屋町まではさほど遠くはないのに、いつでも前まえ屈かゞみに地面へ狙いをつけて、両手を化物のようにブラ〳〵させながら、小刻みの急ぎ足で家から逃げて行く姿の情無さ。あれでは生涯成金になれそうにもない。 親父が居なくなったから、ソロ〳〵起きましょうや、と考えて居ると今度は母おふ親くろの番。 此れも親父同様生え抜きの江えど戸っ児こ、而も深川は小お名な木ぎ川の辺に生れて辰巳風を吹かせるから、頗る言葉が粗い。あたいはいっそ口惜しくってならねえよ。とか、てめえはてえそうきいたふうな言ことをぬかすのう。などゝ云うと、三さん馬ばや春しゅ水んすいの人情本では乙おつだが、明治の聖代に母おふ親くろの口から出ては物凄い。母親は若い時分には一寸見られたそうだから、其の頃なら嘸さぞ伝でん法ぽうで好かったかも知れぬが、もう今では色気が抜けて、形式ばかりで実質なき江戸児になり下って居る。 母親の起し方はいさゝか親父のと趣おもむきを異にする。 始めは唯階段の上り口で、 ﹁禄造、禄造。﹂ と、名ばかり呼んで居る。返辞がないといつまでも﹁ロクゾー﹂﹁ロクゾー﹂を繰り返して果てしがないから、﹁フン﹂と鼻で答えると、矢張﹁ロクゾー﹂を続ける。こうして五六遍相呼応するが、母親も黙らなければ私も起きない。すると今度は一段甲かん高だかい調子で、 ﹁さっさと起きないかッたら、何してるんだい。ふんとにもう何時だと思うんだ。九時過ぎじゃないか。片附かないで仕様がありゃしない。おみよつけも何もさめちまわア。ふんとにまああろうかしら、働き盛りの奴が晝過ぎ迄ッつも寝てるなんテ、能くそれで大学生でございッて云われたもんだ。﹂ 此の長々しい叱こご言とが、母親の口から出て階段を駈け上り、寝ね惚ぼけた私の耳へ口惜しそうに喰い付くだけなら料簡も出来るが、壁一重のお隣に住んで居るお琴さんにまで聞えるかと思うと、ちっとやそっとの恨みではない。何の事はない、母親は自分の口の粗暴な事と、堕落書生の忰を持った事を、近所合がっ壁ぺきへ出来るだけ仰ぎょ山うさんに、出来るだけ廣く、あらん限りの声を絞って吹聴するに止まる。それでも母親は二階へは上って来ない。実はこの前二三度例の如く母親が﹁ロクゾー、ロクゾー﹂とやってる間に、﹁フム、フム﹂と故わ意ざと寝ねぼ惚けご声えの生返辞をしながら大急ぎで起き上って蒲団を畳み、着物を着換え、澄まし込んで机に向って居ると、其れと知らず母親は﹁よし、よし、蒲団をまくってやるから。﹂とか何とか、急せき込んで上って来たが、案に相違の体たらくに間拍子悪く退却した事があるので、又しても此の手を喰うのを恐れて居るらしい。 其れから三十分も経って大分餘ほと熱ぼりのさめた時分に私は起きる。先ずのそり〳〵と階下へ下りて、火鉢の傍で悠々と新聞を読み、いざ顔を洗おうとすると、 ﹁さっさと顔を洗っ了ちまわないか。新聞なんざ後でも読めるってば。毎朝々々一々他人におこされて散さん々ざッ原ぱら世話を焼かせていゝ気になってる。もう何時だと思う。十時じゃないか。﹂ と、前と略ほゞ同じような叱言を、日曜だと親父だが、不断は母親が云う。折角顔を洗おうとした所へ、これで又また候ぞろ意地が突っ張って、更に二三分は新聞を読む。此の母親のツベコベ云うのを上うわの空そらで聞き流して、さも面白そうに新聞を読んで見せるのが、私には愉快で堪らない。 顔を洗ってから、暫く煙草を喫み、アワヤ飯を喰おうとする途端に、 ﹁さあ、さあ、御飯を喰べないかよう。いつまでも〳〵、台所が片附かないで仕様がありゃしない。おみよつけも何もさめちまってら。今御飯を喰べて午の御膳が喰べられるか知ら。﹂ と、これも似たような文句で第三の叱言が来る。お蔭で又二三分飯が遅れて了う。この調子で私が学校へ出掛けて了う迄、する事なす事一々叱言の為めに妨害される。 習慣は恐ろしいもので、此の頃では朝床の中で眼を覚ますと、私はすぐ親父の起しに来るのを期待して、どうかすると待ち遠な気がする事さえある。親父の方が済むと今度は母親のを待つ。この二つが済まぬ間は物足りなくて起きる気にならぬ。“Possession is better than Expectation”たしかセルヴァンテスがこんな事を云って居たが、私は此処でも是れより更に奇警な真理を発見する事が出来る。即ち、﹁期待は其の対象の吉凶禍福に拘らず常に一種の快楽也。﹂だ。 また親父や母親の方でも此れが癖になったと見え、毎朝々々同じ文句、同じ態度で、屹度一遍ずつは型の如く私を叱る。時には面倒臭さそうに嫌々ながら勤めて居る。茲に至ると叱言とか意地張とか云うものを超越して、親子が心を協あわせて朝の日課の一つを執り行って居るような気持になる。決して口くち端はたや顔付に表れる程激しい感情を、お互に抱蔵して居ないのは明かな事だ。 それに言葉だけ聞くと親父も母親も如い何かさま剛情の意地悪者らしいが、実は甚だ単純に人が好く出来上って居る。親父は相場師の癖に、女を買わず、借金をせず、嘘を言わず、極めて融通のきかない所を誇りとして居る。日曜には家へ引っ込み、朝から寝ころんで﹁禅の妙機﹂と云う本を二三頁読み出すかと思うと、忽ちトロ〳〵となって終に終日晝寝をする。たま〳〵陽気の加減で気が触れたように襦じゅ袢ばん一枚になり、 ﹁ハテ此処のたてつけが甘えようだが。﹂ などゝ家中をガタピシいじり散らかし、襖ふすまを取り外したり、木戸を打ッ倒したり、鋸や鉄槌を引きずり出して、頭から鉋屑を浴びながら騒ぎ廻る事もある。そう云う晩には、 ﹁あゝ今日は好い運動をした。何か旨えものでも食うかな。﹂ と、﹁簡易西洋料理法﹂とある書物を参照して、自ら台所へ出馬に及び、シチュウ、ビフテイキの類を拵えては我々に御馳走しながら、チビリチビリ晩酌を傾ける。 いつであったか、新聞の三面に﹁出でば歯か亀め倶く楽ら部ぶ﹂と云う標題で、﹁近頃出歯亀倶楽部と称する色魔の徒輩小間物化粧品を売り歩く商人体に姿を変えて市中を徘徊し、女主人の家と見れば如才なく取り入りて彼等得意の奸手段に乗せ遂には怪しき関係を結び云々。﹂と云う記事の見えた時の事。ある日の夕方萌もえ葱ぎぶ風ろ呂し敷きを担いだ書生体の男が格子戸をあけて、 ﹁えゝ奥様はお出でゞございましょうか。手前は苦学生でございますが、何かお石シャ鹸ボン香水の類に御用がございましたらお購もと求めを願います。﹂ とやり出すと、奥で晩飯を食って居た親父は、俄然箸を投り出してツカ〳〵と玄関へ立ち上り、胡うさ散ん臭くさそうにジロジロ男の風体を窺って、 ﹁要りませんよ、そんなものは。﹂ と、如何にも突つッ慳けん貪どんにピシャリと障子を立て切って了った。面喰った苦学生はそこ〳〵に逃げて行ったが、親父はまだ眼を怒らし、せい〳〵息をはずませて、 ﹁奥様はお出でゞございましょうか、なんて云やがって怪しい野郎だ。………新聞に出歯亀倶楽部と云うのが出て居るから、皆も気をつけねえといけねえぞ。﹂ こう云って独りで憤慨して居た。親父のする事は凡べて斯くの如く愛あい嬌きょうに富んで居る。 さて、今朝は平常よりも更に遅れて、学校へ行ったのが丁度午頃、文科は一般に出缺の取締りが厳重でないからいゝようなものゝ、私ほどズボラな学生は珍しい。 原田が今日の午前中に例の質物で五圓拵えて来る約束だから、早速控所へ行って見ると、原田と杉とがストーブへあたりながら弁当を食って居る。 ﹁どうだい。五圓になったかい。﹂私は早速聞いた。 ﹁処が三圓にしかならんのじゃ。最初杉さんの時計を出したら八十銭にしか取らんと云う。君のがあったのでやっと三圓になったんじゃ。………﹂と、原田は五圓にならなかった代りに、私の時計を褒めて居る。 ﹁………それに時計と云う奴は入ったら大抵もう流れるに定って居るから、質屋の方でもあまり喜ばん。………いや何も君の時計を流すと云うじゃないがな。………一体質屋は流れよりも利子を取るのが目的なんじゃ。﹂ 何だか大分昨夜とは口うらが変って来た。 ﹁残額二圓誰かから借りよう。昨今我々は逼ひっ迫ぱくして居るから、早く五圓にして丸善へ持って行かないと、費つかっ了ちまいそうだ。﹂ と杉は原田の手にある三圓へ秋波を送る。 ﹁そうだ。三圓位グズ〳〵して居ると瞬く間だよ。﹂ ﹁何だか費つかッ了ちまいそうだナ。﹂ こう云って、杉が今にも手を出しそうな顔をした。すると原田が此れにつけ入って、 ﹁アッそう、そう。一寸此の中から筆ノ記ー帳トとインキを買わして呉れや。﹂ と、怪しからん事を云い出す。 ﹁馬鹿を云え。一枚でも紙幣が崩れりゃ忽ち失って了うに定って居る。あと二圓足しさえすりゃ百圓になるんじゃないか。お前はそれだから可かんよ。﹂ と、杉は顔で憤慨したが、其の実足許は危かった。 ﹁いやそうでない。インキとノートの金位家へ行けば出来るから今一寸立て換えてくれ。早速教場へ出られんじゃ困る。大丈夫だよ。一寸買って来る。﹂ 委細構わず原田が戸外へ駈出すと、何と思ったか杉が後から、 ﹁おい、原田ア。﹂と呼び止めて、 ﹁序に菓子を五銭買って来い。﹂ もう斯うなると百圓は金額が大きいだけそれだけ、遥か遠くへ隔たった感がある。 原田の買って来た甘あま辛から煎せん餅べいをばり〳〵やりながら、運動場の芝生に臥ねこ転ろんで、杉が真面目にこんな事を云い出した。 ﹁だが能く考えて見ると、此の計畫は明かに人に聞かれて好ましい事じゃない。何と云っても丸善とそれから僕等から本を買い取った人を欺く事になるんだからな。たかが授業料三十圓の為めにそんな不徳を働かんでもすむじゃないか。﹂ 如何にも他人の不都合を詰なじるような口くち調ょうで、原田と私を睨ねめつけながら、自分の企てた計畫を堂々と攻撃した揚句、とうとう滅茶苦茶にして了った。 ﹁それよりは此の三圓で愉快に遊ぼう。そして今夜は妙法寺へ来て泊るさ。面白いぜ、それも。﹂ 妙法寺と云うのは杉の間借りをして居る牛込原町のお寺だ。 ﹁止すなら止しても好ええが、然し君等はいざとなると駄目な男じゃ。私ゃ屹度独りでもやって見せるぜエ。﹂ 原田はこんな負惜しみを云ったが、 ﹁―――じゃ今夜は何処へ行こう。久し振で寄よ席せもいゝがな。鈴本! たしか小さんがかゝっとった。﹂ などと云う心配もした。 ﹁いや喰おう。これだけあれば可なり肉が喰えるよ。﹂ こゝで三人暫くこうしよう、あゝしようと、久しく胸中に結んで解けざりし欲望満足の計畫を提供したが、結局牛ぎゅ鍋うなべのジクジク云う音を聞いて、ぐびり〳〵やりながらお互の真まっ紅かな顔を睨み合うのが一番景気が好さそうだと云う事になって、大学裏門側の豊とよ国くにへ躍り込んだのは午後四時頃であった。 ﹁そう酒を沢山飲んじゃ足りなくなるぜ。﹂ と云いながら、原田は盛に鍋をつッ突いた。大きい肉の片を頭の上まで高々と摘まみ上げて、タラ〳〵垂れる醤油を舌で受けながら、ぱくりと口腔へ落し込む藝当は馴れたものだ。そして時々、 ﹁うまいなあ。﹂ と心底から感歎の声を放つ。 追々と酔が廻って来た。三人共浅ましく元気づいて喰うやら喋るやらした。 ﹁要するに百圓這入らなかったのは事実だけれど、時計が二つなくなったのも事実らしいね。﹂ 私がこう云うと、二人はドッと吹き出した。 ﹁ワッハヽヽヽ。何しろ天下の滑稽だ。これは立派な小説になる。どうだい山崎、一つ書いて見たら。﹂ 何でも事を仕出かしては﹁此れは小説になる。﹂と云うのが杉の十八番だ。原田は談文学に亙わたると頗る不案内で、どんな顔を拵えていゝか解らずに居る。 ﹁ジェローム・ケー・ジェロームにでも書かしたら面白いものが出来るね。先ず標題は Three Men ………﹂ と云いかけて、私が考えると、杉が即座に後をつける。 ﹁With Two Watches さ。でなければ、Historian's History でもいゝ。ね、書いて何かへ出し給え、原稿料と云うものがあるからな。﹂ 原稿料ときいて原田が手を挙げて突とっ飛ぴな声を出す。 ﹁賛成! そりゃ好えぜエ、山崎さん。一つ書かんかな。時計事件もえゝが、何か斯う、何だな、女の事を書いたが好え。﹂ 其れから暫く金儲けのような、文学談のような、而して人生観のような話が栄える。 ﹁僕は死ぬのは嫌じゃないが、死んでから狭い棺桶の中へ体をちゞめて小さくなって居るのかと思うと、嫌で仕様がない。﹂ と、杉は凄い顔をして肩をつぼめて見せた。 ﹁私ゃ梅毒で鼻が落ちたら、その時こそ、此の通り切腹するぜエ。﹂ こう云いながら、原田が杉箸で腹を切る真似をした。 やがて私が妹から伝授の如いか何ゞわしい勧かん進じん帳ちょうを唸り出すと、二人とも負けない気になって義太夫やら端はう唄たやらを怒鳴り立てた。杉は青森のズウ〳〵音で、日本海の嵐のような息を吐きながら、﹁わスと云うものないならば﹂と小鼻をヒクヒク隆起させて居た。喉が自慢の原田は、如何にも黒くろ人うとの態度を見ろと云わんばかりに厳粛な面構えを拵え上げて、﹁夕ぐれ﹂﹁わがもの﹂﹁わしが国﹂﹁秋の夜﹂﹁忍ぶ恋路﹂と知って居るだけ片ッ端からお浚さらいをした。そして時々仔細らしく首をかしげて、 ﹁や、こゝが可かん。どうもこれじゃ絃いとに合わんようじゃ。﹂ などと云った。 此の演藝共進会が済むと、再びお喋りが始まり、話題はいつしか古今東西の人物評に滑って行った。 ﹁諸しょ葛かつ孔こう明めいの生涯は偉大なる悲劇だ。あんな大人物でありながら自己の全部を玄げん徳とくに捧げたのは感心だ。孔明のえらさは透き徹ったえらさだ。透き徹った人物は動やゝともすると小規模になるが、孔明はそれで大きいから不思議だ。漢の高祖などはいくら大きくッても恐ろしく濁って居るからな。﹂ ﹁僕は日いつ外ぞやふと孔明の事を考えて、涙が出て仕方がなかった。﹂ 杉がこう云って居た。私はそろ〳〵頭の鉢がキリ〳〵して来て、誰かゞ双方の蟀こめ谷かみをほてった手で抑えて居るように感じた。その中には何もかも判らなくなった。けれどもまだ舌ばかりは動いて居た。煙草の煙と、牛の脂と、唾の中で、酔った三人は夢中で議論した。最後に誰だかこんな事を云ったのを記お憶ぼえて居る。 ﹁尊氏はえらいさ。どうして! 秀吉や家康の比じゃないからな。﹂