四 三派のアイヌ皆石器土器を使用せり
北千島アイヌは、其祖先が石器土器を使用せりと語るのみならず、玻璃瓶の破片を以て、石器を製造せんとせし事實も發見せられて、其年代も略ほ推察し得べきを以て、其石器土器の使用に關しては、何人も疑を容れずと雖も、樺太アイヌ、本島アイヌに就ては、議論紛々また決着する所を見ず、然れども是れ亦解決し得べきものなり。
先づ樺太イアヌに[#「イアヌに」はママ]就て言はんに、其土器に關しては、北蝦夷圖説(文化五年六年間宮林藏の調査に成る)、唐太日記(安政元年鈴木重尚の日記に松浦竹四郎の書加へをなせるもの)に記載あり、殊に北蝦夷圖説には、「地夷製する所の土鍋あり、大抵の大さ徑六七寸にして、形圖の如く兩邊の握耳は鍋の内邊に設くトナリを以て弦となし、火の燒切せんことを恐れて、樺木皮を纒ふこと圖の如し」と記し、當時アイヌが土鍋を使用せること明かなるも、唯其名をカムイシユ(神鍋)と稱するより坪井博士は疑ひて、是れ當時使用せるものにあらず、古人の使用せしものならんと曲解し、從て鳥居龍藏氏の如きも、北蝦夷圖説の記事を以て、樺太アイヌが土器を使用せる證據となすに躊躇せり、然れども予の調査によれば、是より先き箱舘奉行たりし羽太安藝守正養の休明光記附録に寛政十一年(西暦一七九九年)迄、樺太に勤務越年せし番人太郎吉、卯右衛行兩人に唐太山丹オロッコの事を尋問せし書留を載せたり、其中に曰く
鍋は夷人(樺太アイヌ)持たさるものなく、へな土を以て拵へ素燒にして魚類を煮ると云ふ
是に由て之を觀れば、當時樺太アイヌの土器を使用せしこと明かなり、但前文の末尾に﹁云ふ﹂の二字あるより、又或は疑を挿む人あるやも知るべからずと雖も、此﹁云ふ﹂の二字は該書留の一節毎に皆之を記しあれば、尋問せし官吏の附加へたるものにして、太郎吉等は﹁魚類をる﹂と判然語りたるものなり。
樺太アイヌが石器を使用せる事に就ては、土器の如く明瞭ならずと雖も、其石製烟管を使用せしことは、松浦竹四郎の日誌に記し、又明治の初樺太に在勤せし判官岡本監輔氏は、東海岸にてアイヌの使用せる石製烟管を下僚の貰ひ來りしを見たりと予に語られたり、又意外の發見は、予が知る某氏︵暫く姓名を秘す︶が、石狩國對ツイ雁シカリに於て、樺太より移住せるアイヌの墳墓を發掘して、其内より金屬製の刀、鎗、鍋、耳環等と共に土鍋、石斧、石鑿を得たる事なり、此墓は蓋し移住後間もなく死亡せし身分あるアイヌの墳墓なるか、生前使用せし物、及び貴重せし品を添へて葬るは彼等の風習なれば、右の土器石器は彼が祖先の使用したるもの、若くは其或るものは彼自ら使用せしものと想像するを得べし、トンチの遺物を添て葬りしとは、考ふること能はざるなり、又近時樺太廳員小笠原鍵氏の通信によれば、樺太大泊の丘陵に二個のチャシと、數多の竪穴、及び墳墓と相並びて一團をなせるアイヌ遺跡ありて、其遺跡内より數多の石器土器鐵貝等を﹇#﹁鐵貝等を﹂はママ﹈採取せりと云ふ、樺太アイヌが石器を使用したること復た疑なかるべし。
次に本島アイヌに就て言はんに石製烟管は本島處々より出でたるが、其本島アイヌの使用したるものたるは、前章記する所によりて、之を知るを得べし、されば北見國常呂郡下常呂原野の竪穴より石製烟管と共に出でたる石製紡※﹇#﹁糸+垂﹂、U+7D9E、528-3﹈車も亦、アイヌの使用したるものたるを信ずるを得べく、又同處の竪穴よりは、土器片を出したるが、之を使用せし主人公も亦アイヌたるを推察すべし、又本島各地の竪穴より、石器土器を出したる事は、既に世人の知る所なれば此處に之を措き、更に本島各地に存在するチャシに就き、予の研究せる所によれば、チャシの内部より石器土器を出すものあり、石器土器と共に金屬器を出すものあり、石器土器を出さずして、金屬器のみを出すものあり、其事實によれば、本島アイヌは、其初め石器土器を使用し、金屬器其他便利の器物を得るに從ひ、漸次石器土器を廢したるものと推定し得べし、尚ほ此事に關しては、拙著﹁チャシ即ち蝦夷の砦﹂なる論文を參照せらるべし、又日高國沙流郡沙流川の沿岸にシュータプと稱する地あり、アイヌは之を鍋を作りし處なりと云へり、又オタシューと稱する地あり、土鍋を作りし處なりと云ふ、共に大に玩味すべき地名なりとす。
十勝國は原野廣濶にして、處々にアイヌの部落ありしも、海漁の利乏しく、且交通甚だ不便なりしかば、アイヌは昔時主として野に鹿を獵し、河に鮭鱒を捕へて生活し、海岸に出で漁業をなすこと少なかりしかば、和人に接し、其感化を蒙むること亦少なく、從て古き風習を傳へ、古き口碑を存ずること多かりき、前に記したる如く、享保の頃まで此地に穴居人の在りしも、安政の頃まで石製烟管を使用せし者ありしも、皆之か爲めならん、又松浦竹四郎氏の十勝日誌によれば、此地には安政の頃迄其祖先の石器土器を使用せしことを言傳へたる者あるが如く、察せらる、同書に曰く、
リフンライ(十勝川左岸)其上に穴居跡三十餘あり、土人は小人の跡と云へり、是小人ならず、古人の穴居をなすこと此地のみならず、内地にも所々にて見たり、(中略)又爰より雷斧石、土器の缺等出るよし、全きは至て稀なりと、言傳に往昔鐵器のなき時は、此地鍋も土にて作り用ひ、野菜魚獸等の肉を切に此雷斧を用ひ、家財を作るには、石錐石鑿等の物あり、人と撃合叩合等する時は、霹靂碪又は石槌等云ふものあり。
樺太アイヌ、本島アイヌが、北千島アイヌと同じく、石器土器を使用したることは、前に述ぶる所にて明瞭ならん、顧れば坪井博士は明治二十一年、北海道を巡回調査し、歸京の後東京人類學會雜誌第三十一號に記して曰く、
私が北海道東南部に於て實視した事と、西北部に付き人から聞いた事とを申しますれば、矢の毒を作る時に用いた臼杵と、煙草を呑む時に用ゐる火入の他には、アイヌの器物中、石の物はござりません、(中略)毒を作る時の道具は、平らな石と丸い石とで、自然に好い加減の形に成てゐるのを選んで使ふ丈で、故らに臼の形、杵の形抔に作るのではござりません、火入は輕石の樣な軟な石を、刄物で削て作るのでござります、現今のアイヌの石の道具とは、斯んな物でごさりますが、昔は如何でござりましたらう、經歴地方何れのアイヌに尋ねましても、我々の先祖は、石で作た鏃や、斧を用ゐたと云ひ傳へる抔とは申しません、(中略)アイヌが昔土器を作たかと云ふに、之も彼等の云ひ傳へにはござりません。
記録口碑によりて研究せんに、間宮林藏が、土人土鍋を神の鍋と稱すと云へる松浦竹四郎が、タコイの老婆の傳説を記せる、何れも樺太に於て、土器の製なきを見るべきものにして、又之を口碑に問ひ、之を土俗に察するも、是等の遺物は土人アイヌの祖先のものにはあらで、トンチと稱する人種の遺せるものなるを知る。
石器土器に關し、尚ほ茲に一言せざるを得ざる事あり、北千島土人を以て、アイヌ以外に置かんと努められつゝある坪井博士は、昨四十年出版の人類學講話に記して曰く、
北海道の北方北千島に至りますれば、石器土器がありますが、南千島及び北海道のものと比較すると相違が見えます。
此記事頗る簡單なるも、兎に角﹁相違が見えます﹂と斷言せられたるを見れば、博士は兩者の間に少なからざる差異を認めたるものなるべし、換言すれば、兩者の間に聯絡を絶つ程の差異を認めたるものならん、然れども、是れ亦博士の誤りなり、予の調査に據れば、北千島より採取せる石器は、石斧、石鏃、石捧等に﹇#﹁石捧等に﹂はママ﹈して、北海道本島に存ずるものと異ならず、又北千島の土器は、厚手の粗なるものにして、比較的内部に耳を有するもの多く、而して薄手のものは極めて稀なりと雖も、同じ厚手の粗なるものは、本島にも數多あり、内耳土器も亦間々本島に於て發見したれば、兩者の島に連絡を絶つ程の差異は、之を認むること能はざるは勿論なり、鳥居龍藏氏は、内耳土器の分布に付、稍々疑を懷かれしも、其本島にも存在すること明確となるに至りて、予輩の意見と一致せり、唯北千島は、本島に比すれば、鯨骨を以て製造せる器具多くして、石器の數少なしと雖も、其自然の地理、動植物の分布、及び使用年代等を考ふれば、此の如き差異は決して不思議にあらず、要するに北海道本島、樺太及び北千島に於ける石器時代の遺物は、大體一致する所ありて、其間に連絡を絶つ程の差異は、今日未だ之を認むること能はざるものとす。