正しょ吉うきちは、まだお母かあさんが、ほんとうに死しんでしまわれたとは、どうしても信しんじることができませんでした。 しかし、お母かあさんが、もうこの家いえにいられなくなってから幾いく日にちもたちました。正しょ吉うきちはその間あいだ、毎まい日にちお母かあさんのことを思おもい出だしては、さびしい日ひを送おくりました。彼かれは子こど供もご心ころにも、もうお母かあさんは死しんでしまわれたので、けっしてふたたび帰かえってこられないと思おもいながら、やはりまったく死しんでしまわれたとは、どうしても、思おもうことができなかったのです。あのやさしいお母かあさんが、この世せか界いのどこにも、まったくいられないと信しんじたら、そして、もうどんなことをしても、二度どと見みることができないと信しんじたら、彼かれは、悲かなしさのあまり、胸むねが張はり裂さけてしまうからでありました。 お母かあさんが、じっと正しょ吉うきちを見みつめられるときは、いつも、その真まっ黒くろな目めの中なかに、涙なみだがたたえられていたのを、正しょ吉うきちは忘わすれることができませんでした。 お母かあさんがいられなくなってから、正しょ吉うきちは、せめてお母かあさんの面おも影かげを思おもい出だすことを楽たのしみにしていました。空そらを吹ふく寒さむい風かぜも、また、窓まどを打うつ落おち葉ばの音おとも、それをばさまたげるものはなかったのです。 正しょ吉うきちは、夜よるになって、使つかいにやられるのを恐おそろしがっていました。なぜなら、このごろ、父ちち親おやは暗くらくなってから、酒さけが足たりないといっては、町まちの酒さか屋やまで酒さけを買かいに、正しょ吉うきちをやったからであります。 ﹁なあ正しょ吉うきち、酒さけを買かいにいってこい。﹂ 夜よるになると、はたして、父ちち親おやはいいました。月つきもない暗くらい晩ばんでありました。星ほしの光ひかりが降ふるように、青あお黒ぐろい空そらに輝かがやいていました。そして、風かぜが吹ふいて、落おち葉ばが田たの上うえを、カサカサ音おとをたてて飛とんでいました。 もし、こんなときにいやだといったら、きっと、父ちち親おやは﹁意い気く地じなしめ。﹂といって、しかったでありましょう。正しょ吉うきちは、お母かあさんがおられたら、自じぶ分んは、けっして、こんなさびしいめをみなくていいものをと思おもいますと、目めの中なかに涙なみだがわいてきたのであります。が、 ﹁なあ、正しょ吉うきちは強つよいものな。いい子こだからいってきてくれよ。﹂と、父ちち親おやは、後うしろ姿すがたを見みお送くりながら、いいました。 こう、父ちち親おやにやさしくいいかけられると、正しょ吉うきちは、またなんとなく、父ちち親おやをあわれに思おもいました。そして自じぶ分んたちは、いつまでもこんなにさびしい日ひを送おくらなければならないのだろうかと、悲かなしくなりました。 正しょ吉うきちは、とぼとぼと町まちの方ほうをさして歩あるいてゆきました。このあたりはもう日ひが暮くれると、まったく人ひと通どおりは絶たえてしまったのです。どの家いえも戸とを締しめてしまって、わずかに、戸とのすきまから、内ない部ぶに点ともっている燈とも火しびの光ひかりが、寒さむい、さびしい外そとの闇やみの中なかに、幽かすかな光ひかりを送おくっているばかりでありました。 小ちいさな、田いな舎かま町ちは、おなじように、早はやくから、どこの店みせも戸とを締しめてしまいました。正しょ吉うきちは、平ふだ常ん、歩あるき慣なれていましたので、一ひと筋すじの道みちをたどってゆきました。どこか遠とおくの方ほうで、犬いぬのないている声こえが聞きこえたのであります。ようやく、町まちに入はいろうとしました。するとそこにお寺てらがありました。 寺てらの境けい内だいにはたくさんの木きが植うわっています。そして、いまは、いずれも黄きい色ろに真まっ赤かに、葉はが色いろづいていました。しかし、それらは、夜よるでありますから、ただ音おとだけが聞きこえるばかりで、はらはらと風かぜの襲おそうたびに騒さわがしく散ちっていました。 正しょ吉うきちは、お寺てらの門もん前ぜんに、ただ一つ提ちょ燈うちんをつけて、露ろて店んを出だしている人ひとがあるのを遠とおくからながめました。夏なつの夜よるや、縁えん日にちの晩ばんなどには、よくこの町まちにも露ろて店んが出でましたけれど、こんなに寒さむくなってからは、出であ歩るく人ひとも少すくないので、ああして露ろて店んを出だしても品しな物ものを買かうものがないだろうにと、思おもわれたのでありました。 その提ちょ燈うちんの火ひは、紙かみがすすけているので、暗くろうございました。どんな人ひとがそこにすわっているのだろうと、正しょ吉うきちは思おもいながら、だんだんと、その露ろて天んの方ほうに近ちかづいてきました。風かぜに吹ふかれて、落おち葉ばは、その火ひの周まわ囲りに渦うず巻まいていました。しかし、すわっている人ひとは、じっとして動うごきませんでした。 正しょ吉うきちは、一ひと人りの女おんなが、さびしそうに往おう来らいを見みつめてすわっているのを見みました。そして、提ちょ燈うちんのうす暗ぐらい火ほか影げで、その顔かおを見みますと、恋こいしいお母かあさんに、まったくよく似にているのでありました。 その女おんなは、前まえにむしろを敷しいて、はさみをならべていました。そのはさみは、着きも物のを縫ぬうときに入いり用ようのはさみでありました。 正しょ吉うきちは、しばらく、その女おんなを見みつめてたたずみました。そして、見みれば見みるほど、恋こいしいお母かあさんの顔かおによく似にていましたので、とうとう自じぶ分んを忘わすれて、正しょ吉うきちは﹁お母かあさん。﹂といって、そのそばに、駆かけ寄よりました。 すると、その女おんなは、さびしく笑わらいました。そして、しっかりと正しょ吉うきちを抱いだき寄よせました。 ﹁私わたしは、坊ぼうやのお母かあさんじゃありません。その証しょ拠うこに、私わたしの頭あたまの髪けは、こんなに灰はい色いろがかっています。しかし私わたしは、坊ぼうがさびしいのをよく知しっている。私わたしが、おまじないをしてあげる。もうこれから、お父とうさんは、けっして、こんな風かぜの吹ふく暗くらい晩ばんに、坊ぼうをお使つかいになぞ出だしはしないだろう……。﹂ こういって、女おんなの人ひとは、前まえのむしろの上うえに載のせてあったはさみの中なかから、一つのはさみを取とって、自じぶ分んのほおのあたりに垂たれかかった、髪かみの毛けを二、三本ぼん切きって、それをば、正しょ吉うきちの持もっていた徳とく利りの中なかに入いれて渡わたしました。そして、正しょ吉うきちの頭あたまをなでながら、 ﹁お父とうさんが待まっておいでなさるから、早はやく酒さけを買かって、家うちへお帰かえりなさい。気きをつけて転ころばないようにおゆきよ。坊ぼうが帰かえるまで、私わたしは店みせを出だしています。﹂と、やさしくいって、正しょ吉うきちの顔かおをのぞきました。正しょ吉うきちは、お母かあさんは髪かみの毛けが、もっと黒くろかったと思おもいましたけれど、あまりその女おんなの人ひとがお母かあさんに似にているので、ただ悲かなしく、なつかしさで胸むねがいっぱいでありました。そして、その女おんなの目めの中なかがうるんで涙なみだでいっぱいなのも、ほんとうにお母かあさんが自じぶ分んを見みるときとまったく同おなじでありました。それですから、正しょ吉うきちも悲かなしくなって、しくしくと泣なき出だしました。 すると、女おんなは、正しょ吉うきちを前まえの方ほうに、押おし離はなすようにして、 ﹁私わたしにも、ちょうど坊ぼうと同おなじぐらいの男おとこの子こがありますの。しかし、おとなで、さびしがりもせず、独ひとりで私わたしの帰かえるまでお留る守す居いをしていますよ。坊ぼうやも、早はやくお家うちへ帰かえって、お父とうさんの手てだ助すけをしてあげなければなりません。﹂といいました。 正しょ吉うきちは、こう聞きくと、やはり自じぶ分んのお母かあさんではなかったことを知しりました。そして、泣なくのをやめて、とぼとぼと、それから、酒さけを買かいに酒さか屋やの方ほうへと歩あるいてゆきました。 正しょ吉うきちが、徳とく利りを下さげて帰かえるときにも、女おんなの人ひとは、じっとすわっていました。正しょ吉うきちは、悲かなしさが胸むねにこみあげてきて、早はやく家うちへ帰かえって、また、死しんだお母かあさんを思おもい出だして、ぞんぶんに泣なこうと道みちを駆かけ出だしたのであります。 父ちち親おやは、正しょ吉うきちが、酒さけを買かって帰かえるのを待まっていました。そして、子こど供もが、どんな悲かなしい思おもいにふけっているかということも知しらずに、徳とく利りを受うけ取とると、さっそくその酒さけを盃さかずきに注ついで飲のみはじめました。 父ちち親おやは、さもうまそうに舌した打うちをして飲のんでいましたが、にわかに盃さかずきを下したに置おいて、考かんがえ込こみながら、 ﹁不ふ思し議ぎなこともあるものだ。この酒さけは梅うめの香においがする。この香においは、死しんだ妻つまが髪かみの毛けにつけていた香こう油ゆの香においそっくりだ。﹂と、独ひとり言ごとをして、死しんだ正しょ吉うきちの母はは親おやを思おもい出だしたように考かんがえ込こみました。 父ちち親おやのいうことを聞きくと、正しょ吉うきちは、びっくりしました。彼かれは先さっ刻き、寺てらの前まえで見みた女おんなの人ひとが、どうしてもお母かあさんにちがいないような気きがして、考かんがえにふけっていたやさきでありましたから、このとき、彼かれは、あったままを父ちち親おやに話はなしたのであります。そして、その女おんなの人ひとがおまじないに髪かみの毛けをはさみで切きって徳とく利りの中なかにいれたこともすっかり話はなしたのでありました。その話はなしを聞きくと、父ちち親おやは、いままでの酔よいがすっかりさめてしまったように、まじめな顔かおつきになりました。 ﹁どれ、俺おれがいってみてこよう。おまえは、家うちに留る守すをしているのだよ。﹂といって、父ちち親おやは急いそいで町まちの方ほうへとゆきました。 父ちち親おやは、星ほし晴ばれのした空そらの下したの、暗くらい道みちを歩あるいてゆきました。それは、正しょ吉うきちの通とおったと同おなじ道みちでありました。落おち葉ばの空そらを飛とぶ音おとが聞きこえます。木きの枝えだの風かぜに吹ふかれて鳴なる音おとが聞きこえています。このとき、父ちち親おやは、はじめて、こんなさびしい道みちを子こど供もをば使つかいにやったことをかわいそうに思おもって後こう悔かいしました。 そのとき、あちらに、暗くらい提ちょ燈うちんの火ひが見みえたのであります。それは、ちょうど寺てらの門もん前ぜんであって、まだ露ろて店んが出でているのでした。 こんなさびしい、人ひと通どおりのない晩ばんに、いまごろまで露ろて店んを出だしているなんて不ふ思し議ぎなことだと、父ちち親おやは思おもいました。 ﹁あすこに、その死しんだ妻つまに似にた女おんながすわっているのか。﹂と、父ちち親おやは、胸むねの中なかでいいながら近ちかづいてみました。すると、それは、いつのまに人ひとが変かわったものか、女おんなの人ひとでなくて、白しら髪がのおじいさんが、じっとさびしい往おう来らいを見みつめてすわっていました。 父ちち親おやは、そのおじいさんの顔かおを見みると、びっくりしました。ずっと前まえに、この世よから亡なくなられた自じぶ分んのお父とうさんに、その面おもざしが似にているからでありました。 おじいさんは、黙だまって下したを向むいていました。正しょ吉うきちの父ちち親おやは、その前まえに立たって、はさみを見みながら、いろいろのことを思おもい出だしていました。 ﹁おじいさん、このはさみをくださいまし。﹂と、父ちち親おやはいいました。 すると、黙だまって下したを向むいていたおじいさんは顔かおを上あげました。 ﹁こう寒さむくなっては、どこの家いえでも冬ふゆ着ぎの仕した度くをせにゃならん。このはさみを使つかった人ひとは、みんなにしあわせがくるから、楽たのしみにしていなさい。﹂と、おじいさんはいいました。 正しょ吉うきちの父ちち親おやは、自じぶ分んは男おとこで、着きも物のを縫ぬえないが、だれか人ひとにたのんで、子こど供もにだけなりと暖あたたかい着きも物のを着きせてやりたいと思おもいました。父ちち親おやは、ずっと以いぜ前んに、この世よから亡なくなられて、忘わすれかかっていた父ちち親おやの顔かおを、おじいさんを見みて、はっきりと思おもい出だしました。 ﹁おじいさんも、かぜをひかないようにお大だい事じになさいまし。﹂といって、父ちち親おやは、子こど供もが待まっているだろうと思おもって、急いそいで家いえへ帰かえりました。 明あくる日ひの朝あさ、あられが降ふって、あたりはいっそうさびしくなりました。その日ひ、思おもいがけなく、しばらくたよりのなかった妹いもうとから手てが紙みがきました。旅たびに出でていた妹いもうとが、帰かえってくるという知しらせでありました。 ﹁正しょ吉うきちや、叔お母ばさんか帰かえってきなさるぞ。﹂と、父ちち親おやはさびしがっている正しょ吉うきちに向むかっていいました。 ﹁叔お母ばさんが帰かえってきなさる？﹂と、正しょ吉うきちはびっくりしたように叫さけびました。 正しょ吉うきちは、四つか五つの時じぶ分んに、たいへん自じぶ分んをかわいがってくれた叔お母ばさんのあったことを知しっていました。たとえ、記きお憶くにはほとんど残のこっていないにしろ、たえず心こころの中なかでは慕したわしく思おもっていたのでありました。 正しょ吉うきちの家いえは、急きゅうに晴はれ晴ばれとしてきました。曇くもった日ひに、雲くも間まから日ひの光ひかりが射さしたように明あかるくなってきました。そして叔お母ばさんは、きっと土みや産げも物のを正しょ吉うきちに持もってきてくださるばかりでなく、また帰かえってこられたら、正しょ吉うきちに着きも物のを縫ぬってくださるであろうと思おもったばかりでも、父ちち親おやや、正しょ吉うきちの心こころは明あかるくなるのでありました。