ある日ひ、おじいさんはいつものように、小ちいさな手てぐ車るまを引ひきながら、その上うえに、くずかごをのせて、裏うら道みちを歩あるいていました。すると、一軒けんの家いえから、呼よんだのであります。 いってみると、家いえの中なかのうす暗ぐらい、喫きっ茶さて店んでありました。こわれた道どう具ぐや、不ふよ用うのがらくたを買かってくれというのでした。 ﹁はい、はい。﹂といって、おじいさんは、一つ一つ、その品しな物ものに目めを通とおしました。 ﹁この植うえ木きば鉢ちも、持もっていってくださいませんか。﹂と、おかみさんらしい人ひとがいいました。 それは、粗そま末つだけれど、大おおきな鉢はちに植うえてある南なん天てんであります。もう、幾いく日にちも水みずをやらなかったとみえて、根ねもとの土つちは白しろく乾かわいていました。紅あかみがかった、光こう沢たくのある葉はがついていたのであろうけれど、ほとんど落おちてしまい、また、美うつくしい、ぬれたさんご珠じゅのような実みのかたまった房ふさが、ついていたのだろうけれど、それも落おちてしまって、まったく見みる影かげはありませんでした。 ﹁ああ、かわいそうに。﹂と、おじいさんは、思おもわずつぶやきました。 これを聞きくと、若わかいおかみさんは、﹁おじいさん、どうせその木きは、だめなんですから、どこかへ捨すてて、鉢はちだけ持もっていってくださいな。﹂と、笑わらいながらいいました。 このとき、おじいさんはまだ木きに命いのちがあるかどうかと、まゆをひそめて枝えだなどを折おってしらべていましたが、 ﹁この木きが助たすかるものなら、枯からすのはかわいそうです。﹂と答こたえました。 おかみさんは、ただ笑わらって、だまっていましたが、心こころの中なかで、きっとやさしいおじいさんだと思おもったでありましょう。それとも、そんなことを思おもう人ひとでなかったかもしれません。 やがて、おじいさんは、いろいろなものを買かって、それを手てぐ車るまの上うえにのせました。南なん天てんの鉢はちものせました。そして、ガラガラと引ひいて運はこび去さりました。 帰かえる道みち筋すじ、おじいさんは、うつ向むきかげんに歩あるいて、考かんがえていました。 ﹁あの店みせも、はやらないとみえて、店みせを閉しめるのだな。しかし、生いき物ものを、こんなに、ぞんざいにするようでは、なに商しょ売うばいだって、栄さかえないのも無む理りはない。﹂と、こんなことを考かんがえたのであります。 家いえに帰かえるとさっそく、木きに水みずをやりました。また、わずかばかり残のこっていた、葉はについているほこりを洗あらってやりました。そして日ひのよく当あたるところへ出だしてやりました。 仕しご事とをしていた、息むす子この嫁よめさんが出でてきてこれをながめながら、 ﹁おじいさん、その木きは枯かれてはいませんか。﹂とたずねました。 ﹁枯かれたのも同どう然ぜんのものだが、まだすこしばかり命いのちがあるらしい。私わたしの丹たん誠せいで助たすけたいと思おもっている。﹂と、おじいさんは答こたえました。 こうしたやさしいおじいさんでありますから、小ちいさいもの、弱よわいものに対たいして、平ふだ常んからしんせつでありました。 ﹁正まさ坊ぼうはどうしたか。﹂と、帰かえるとすぐに、孫まごのことをききました。 ﹁いま、どこか外そとへ出でて遊あそんでいます。﹂と、嫁よめさんは答こたえました。 ﹁よく、気きをつけて、けがをさしてはいけない。この木きのようなもので、折おれた枝えだが、芽めをふいて、もとのようになるのには容よう易いなことでない。病びょ気うきをしたり、けがをしたりすると、とりかえしがつかぬから。﹂と、おじいさんは、注ちゅ意ういしました。 晩ばん方がた、息むす子こが工こう場ばからもどって、店みせさきにある南なん天てんの鉢はちを見みました。 ﹁おじいさん、この南なん天てんは枯かれているじゃありませんか。なぜ、こんなものを置おくのですか。﹂といいました。 ﹁私わたしが、手てをかけてみようと思おもっているのだ。﹂と、おじいさんは、答こたえました。 ﹁この木きがよくなるのは、たいへんなことですね。﹂ ﹁子こど供もを育そだてると同おなじようなもので、草くさでも木きでも丹たん誠せいひとつだ。﹂ こう、おじいさんは、いったのでした。それから、おじいさんは、朝あさ起おきて、出でかける前まえに、鉢はちを日ひあたりに出だしてやりました。また帰かえれば店みせさきにいれてやり、そしてときどきは雨あめにあわせてやるというふうに手てをかけましたから、枯かれかかった南なん天てんもすこしずつ精せいがついて、新あたらしい芽めをだしました。新あたらしい芽めは、また子こど供ものように、太たい陽ようの光ひかりと新しん鮮せんな大たい気きの中うちで元げん気きよく伸のびてゆきました。そして夏なつのころ白しろい花はなが咲さき、その年としの暮くれには真まっ赤っかな実みが重おもそうに垂たれさがったのであります。 軒のき端ばにくるすずめまでが、目めを円まるくして、ほめそやしたほどですから、近きん所じょの人ひとたちも、 ﹁あんな枯かれかかった木きが、こんなによくなるとは、生いきものは、丹たん誠せいひとつですね。﹂といって、たまげました。 がらくたと並ならべた店みせさきに、南なん天てんの鉢はちを出だしておくと、通とおりがかりの人ひと々びとがながめて、 ﹁いい南なん天てんだな。﹂といってゆくものもあれば、なかには、売うってくれぬかといったものもありますけれど、おじいさんは、 ﹁これは、金きん銭せんでは売うられない代しろ物ものだ。﹂といって、断ことわったのでありました。 ところが、おじいさんのかわいがっている正まさ坊ぼうが、重おもいかぜをひいて臥ねました。 そのとき、診みてもらったお医いし者ゃさまが、またしんせつな人ひとであって、たとえ、夜よな中かでも、熱ねつが高たかくなって、迎むかえにゆけば、いやな顔かおをせずに、すぐにきてくだされたから、家うちじゅうのものが、みんなありがたく思おもいました。それで、正まさ坊ぼうの病びょ気うきもだんだんとよくなりました。ある日ひ、このお医いし者ゃさまが、この南なん天てんを見みて、たいそうみごとだといってほめられたので、おじいさんは、だいじにしていたのだけれど、お礼れいの志こころざしにお医いし者ゃさまにあげたのであります。そして、そのあとで、 ﹁あの人ひとなら、だいじょうぶ枯からすことはない。﹂といって、おじいさんは、安あん心しんしていました。