寒さむい、北きたの方ほうの小ちいさな町まちに、独ひとり者ものの男おとこが住すんでいました。べつに不ふじ自ゆ由うはしていなかったが、口くち癖ぐせのようにつまらないといっていました。 ﹁もっと、おもしろく、暮くらされないものかな。﹂と、知しった人ひとにあうごとに、たびたびもらしていました。 また、同おなじ町まちに、かわったおじいさんが、住すんでいたのです。このおじいさんは、昔むかしの古ふるい本ほんを見みていました。なんでも、当とう世せいのことよりか、昔むかしのことが好すきで、古ふるい本ほんに書かいてあることを信しんずるというふうでした。そして、いつも、縁ふちの太ふとい大おおきな眼めが鏡ねをかけていました。 ﹁人にん間げんの造つくった、機きか械いには狂くるいがあるが、お日ひさまのお歩あるきなさる道みちにちがいはない。﹂といって、おじいさんだけは、日ひど時け計いを置おいて、時じこ刻くを見みたので、万ばん事じ、おじいさんのすることはそういうふうだったのです。 * * * * * ある日ひのこと、男おとこが、このおじいさんに向むかって、いつものように、さもつまらなそうな顔かおつきをして、 ﹁こう毎まい日にち、空そらが曇くもって、陰いん気きではしかたがありません。おじいさん、なにか、愉ゆか快いな幸こう福ふくの身みの上うえとなることは、できないものでしょうか。﹂と、たずねたのであります。 おじいさんは、短みじかい、綿わたのたくさんはいった、半はん纒てんを着きていました。そして、大おおきな眼めが鏡ねの内うちから目めをみはって、若わか者ものの顔かおを見みていましたが、 ﹁おまえさんは、他たこ国くへ出でかける気きがあるか。﹂と聞ききました。 ﹁おじいさん、幸こう福ふくに暮くらせるものなら、私わたしは独ひとり者ものです。どこの国くにへでもまいります。﹂と、男おとこは答こたえた。 すると、おじいさんは、考かんがえていましたが、 ﹁もう、みぞれが、三度どばかり降ふったな。﹂ ﹁ちょうど、三度ど降ふりました。こんどは、雪ゆきが降ふるでありましょう。﹂ ﹁じゃ、あの女おんなが通とおる時じぶ分んだ……。﹂と、おじいさんがいいました。 ﹁どんな女おんながですか?﹂ おじいさんは、古ふるい書しょ物もつから、目めを放はなして、 ﹁この家いえの前まえの往おう来らいを、さんごの沓くつをはいて、青あおい珠たまのついているかんざしをさした、若わかい女おんなが歩あるいてゆくから、見みつけて、その女おんなをいたわってやんなさい。その女おんなは、船ふねに乗のって、南みなみの町まちへ帰かえるだろう。こいというたらついてゆくのだ。 船ふねは、白しろい帆ほをあげて、青あおい海うみをゆくであろうから、幾いく日にちも、幾いく日にちもかかるにちがいない。けれど、そのうちにあたたかな風かぜが吹ふいてきて、南みなみへ、南みなみへと船ふねは走はしってゆく。そして、とうとう、遠とおいその町まちへ着つく。小ちいさいけれどきれいな町まちだ。女おんなは、北きたの国くにで、心ここ細ろぼそい旅たびをしているときに受うけたご恩おんを返かえすために、いろいろていねいにしてくれる。おまえは、その町まちに住すむことになる。山やまには、黄きい色ろに、果くだ物ものが実みのっているし、流ながれのふちにも、野のは原らにも、赤あかい花はなが咲さいている。おまえはこんないいところはないと思おもう。生うまれてから、はじめて、のびのびとした気き持もちで、好すきな笛ふえを吹ふく。ことに、月つきの清きよらかな晩ばんに、遠とおい故こき郷ょうのことなどを思おもいながら、笛ふえを吹ふく。澄すんだ音ねい色ろが、月つきの光ひかりに溶とけ合あって、夢ゆめのように、白しろれんが造づくりの多おおい、町まちの建たて物ものの上うえを流ながれてゆく。町まちに住すむ、男おとこも、女おんなも、みんなおまえを好すきになる。そして、おまえは、もう生うまれた北ほっ国こくへ帰かえろうなどとは思おもわないだろう……。﹂と、おじいさんが、いいました。 若わか者ものは、腕うでを組くんで、おじいさんの話はなしをだまって聞きいていたが、ことごとく感かん心しんしてしまった。 ﹁ほんとうに、おじいさん、さんごの沓くつをはいて、青あおい珠たまのかんざしをさした女おんなが、この家いえの前まえを通とおるのですか?﹂ ﹁もう、通とおるころだが、それは、いつかわからない。おまえが、もし見みつけなかったら、幸こう福ふくは、鳥とりのように、金きん色いろの羽はねを空そらに輝かがやかして、かなたへ飛とんでいってしまうばかりだ。﹂と、おじいさんは、答こたえたのです。 独ひとり者ものの男おとこは、夜よるの目めも、眠ねむらずに、その女おんなを捕とらえようと決けっ心しんしました。 * * * * * 雪ゆき雲ぐもが垂たれて、いつ降ふりになるかわからない空そらの下したのぬかるみを、わらじの足あし音おとが、ピチャ、ピチャと窓まどぎわに近ちかく聞きこえるのでした。そのたびに、男おとこは、障しょ子うじを開ひらいて外そとをながめた。男おとこの旅たび人びとが、下したを向むいて急いそぎがちにゆくのでした。 ﹁ああ、男おとこの旅たび人びとか……。﹂と、彼かれはいいました。風かぜが寒さむいから、また障しょ子うじを閉しめて、行あん火かにあたっています。 ﹁ピチャ、ピチャ、……ピチャ……。﹂ こんどは、足お音とがすぐ窓まどの下したでしました。かれは、その音おとがやさしいから……と思おもって、障しょ子うじを開あけてみると、思おもいも寄よらぬおばあさんが、つえをついてゆくのでした。 こうして、日ひが暮くれてからも、しばらくの間あいだは、足あし音おとがしました。そのたびに、かれは見みのがしてはならないと、障しょ子うじを開あけて暗くらい外そとをのぞいたのです。いつしか、まったく足あし音おとも、とだえてしまうと、海うみの鳴なる音おとが、臼うすをひいているように、ゴウロ、ゴウロとさびしい雪ゆきの野のは原らをころがって、聞きこえてきたのです。 ﹁ああ、今きょ日うは、女おんなが通とおらなかった。﹂と、かれは、あきらめて、眠ねむりにつきました。その翌よく日じつも、ついに女おんなは通とおりませんでした。そして三みっ日かめのこと、 ﹁今きょ日うは、きっと女おんなが通とおるだろう……。﹂と、なにとはなしに、思おもわれた。 ずっと、昼ひる過すぎのころ、青あおい珠たまのついたかんざしをさして、さんごの沓くつをはいたと思おもわれる、真まっ赤かな足あしをした女おんなが、荷にも物つをしょって、家いえの前まえを通とおったのであります。女おんなはたいへんに疲つかれているように見みえました。 ﹁ああ、この女おんなにちがいない。﹂と、かれはとっさに考かんがえたから、さっそく戸とぐ口ちへ出でて、 ﹁まあ、赤あかい足あしだこと。さんごの沓くつをはいているのですか?……﹂といって、女おんなの足あしを見みつめました。 女おんなは、あまり不ふ意いなので、驚おどろいたふうをして立たち止どまった。 ﹁わたしは、長ながい間あいだ、雪ゆきの中なかを歩あるいてきました。それで、指ゆびもかかとも雪ゆきに磨みがかれて、こんなに赤あかくなったのです。わたしは、まだこれから遠とおいところへゆくものですが、途とち中ゅうで気きぶ分んが悪わるくなり、身から体だが疲つかれています。どこの納な屋やのすみにでも、一ひと晩ばん泊とめてくださることはできませんか。﹂と、女おんなは、たのみました。 ﹁おじいさんのいったのは、この女おんなのことかもしれない。﹂と、かれは、思おもって、泊とめてやりました。 * * * * * その日ひの夜よな中かから、明あ日すの朝あさにかけて、ひどい吹ふぶ雪きとなりました。けれど、女おんなは夜よが明あけると、雪ゆきの晴はれ間まを見みて、この家いえから、暇いとまを告つげたのです。 ﹁これは、つまらないものですがお礼れいのしるしでございます……。﹂といって、女おんなは、なにか袋ふく物ろものにはいっているものを遺のこしてゆきました。 あとで、男おとこは、袋ふくろを開あけてみると、中なかには、黒くろい豆まめが、いっぱい詰つまっていました。 ﹁なにか、これには、意い味みがあるかもしれん。﹂と、男おとこは、さっそくおじいさんのところへやってきました。そして、昨さく日じつの話はなしをして、おじいさんのいわれた女おんなは、この女おんなでなかったかとたずねました。おじいさんは考かんがえていたが、 ﹁たぶん、雪ゆきが消きえる時じぶ分んに、その女おんなは、おまえを迎むかえにくるかもしれない。もし、おまえさんが、ただ一度どで、その袋ふくろの中なかの豆まめの数かずをまちがえずに算かぞえることができたら、希きぼ望うがかなうと思おもっていい。そして、まちがったら、なにもかも、夢ゆめと消きえてしまったものと思おもいなさい。﹂といいました。 ﹁おじいさん、それくらいのことをまちがうはずはありません。﹂と、かれは答こたえて、家いえへもどりました。 だれが、その間あいだにやってきてもあわないつもりで、入いり口ぐちの戸とを堅かたく締しめた。そして、豆まめを袋ふくろから出だして、熱ねっ心しんに算かぞえはじめました。 窓まどを打うつあられの音おとも、鳥とりの鳴なく声こえも、かれの心こころを奪うばうことができなかった。暗くらくなると、ろうそくをともして、飯めしも食たべずに算かぞえていました。急きゅうに、どこのすき間かからか、風かぜが吹ふき込こんだものか、ろうそくの火ひがちらちらとなびいた。かれは、はっとして、いま、消きえてはたいへんだと両りょ手うてをあげて、ろうそくの火ほか影げをかばいました。その瞬しゅ間んかんに、せっかく算かぞえた数かずを忘わすれてしまったのです。 このとき、金きん色いろの翼つばさを輝かがやかして、幸こう福ふくの鳥とりが、海うみのかなたへ飛とんでゆくのを、かれは、まぼろしに見みました。 ――一九二七・一一――