崖がけからたれさがった木きの枝えだに、日ひの光ひかりが照てらして、若わか葉ばの面おもてが流ながれるように、てらてらとしていました。さびしい傾けい斜しゃ面めんに生はえた、草くさの穂ほさ先きをかすめて、ようやく、この明あかるく、広ひろい世せか界いに出でたとんぼが、すいすいと気きままに飛とんでいるのも、なんとなく、あたりがひっそりとしているので、さびしく見みられたのであります。 年としとった工こう夫ふが、うつむきながら、線せん路ろに添そうて歩あるいていました。若わかい時じぶ分んから、今こん日にちにいたるまで働はたらきつづけたのです。元げん気きで、よく肥ふとっていた体からだは、だんだんやせてきました。そして、一時じのように、重おもいものを持もったり、終しゅ日うじつ働はたらきつづけるというようなことは、いまでは困こん難なんを感かんじられたのであります。 青あおい色いろの服ふくの下したに、半はん生せいの経けい験けんと悩なやみと生せい活かつに堪たえてきた体からだが、日ひに焼やけて、汗あせばんでいました。 どこかで、無むし心んにせみが唄うたをうたっている声こえがしています。たぶん、あちらの嶺みねの上うえに生はえている赤あか松まつのこずえのあたりであると思おもわれました。 日ひの光ひかりがみなぎった、外がい界かいは、いまこんな光こう景けいを写うつし出だしていたが、トンネルの内うちの世せか界いは、また格かく別べつでありました。そこへは、永えい久きゅうに日ひの光ひかりというものが射さし込こんではきませんでした。 ひやりとした冷つめたい風かぜが、どこからともなく吹ふいてきて、闇やみの中なかを過すぎていきます。それは、沈ちん黙もくの世せか界いに、なにか気きみ味わ悪るい思おもい出でをそそらせようとするものでした。 この闇やみの中なかに、ただ一つ生いきているもののごとく思おもわれたものがあります。それは、半はん丁ちょうおきごとに点ともされている電でん燈とうでありました。 その光ひかりの弱よわい電でん燈とうは、闇やみの中なかをわずかに円まるく一部ぶぶ分んだけ切きり抜ぬいたもののように、ほんのりと明あかるく浮うき出だしていました。 この電でん燈とうの光ひかりは、生せい物ぶつの体たい内ないにある心しん臓ぞうのようなものです。点ともりはじめたときがあって、また終おわりがあるのです。だれも、それを点つけたり、消けしたりするものがないのだから、こうして点ともっているときは、電でん燈とうが生いきているのでした。そして、暗くらく消きえたときは、この電でん燈とうが死しんだときなのであります。 冷つめたい風かぜは、おびやかすように、電でん燈とうの面おもてをなでていきました。心しん臓ぞうが規きそ則くた正だしく、生せい物ぶつの胸むねで打うっている間あいだに、いろいろな怖おそろしい脅きょ迫うはくが肉にく体たいを襲おそうようなものです。しかし、電でん燈とうはあいかわらず、またたきもせずに点ともっていました。 このとき、年としとった工こう夫ふは、トンネルの入いり口ぐちにさしかかったのです。彼かれは、注ちゅ意うい深ぶかく足あしもとを見みつめて、一歩ぽ、一歩ぽ、拾ひろうようにして、闇やみのうちへ吸すい込こまれるようにはいってきました。 ひじょうに長ながくもなかったから、彼かれは、このトンネルを、あちらに抜ぬけようとしていたのであります。闇やみの中なかを歩あるいてきた工こう夫ふは、一つの電でん燈とうの下したにくると、歩あゆみを止とめたのでした。そして、しばらく、ぼんやりとして、電でん燈とうをながめたのでした。 彼かれは、電でん燈とうがうらやましかったのです。すべての煩わずらわしい外がい界かいからさえぎられて、この暗くらいけれど安あん全ぜんな、トンネルの中なかで、じっとして静しずかな生せい活かつを送おくっていることは、なんというしあわせな身みの上うえであろうと思おもわれたからです。 彼かれは、もう、世よの中なかの刺しげ戟きには、堪たえられなくなりました。また、いろいろな喜きひ悲げ劇きを見みるのが煩わずらわしくなりました。そこには、平へい和わというもの、公こう正せいというものが、まったくなかったからです。 たとえ、気き味みの悪わるい、冷つめたい風かぜが、いつか彼かれに対たいしても、すべてのものの終しゅ滅うめつを思おもい出ださせるように、顔かおをなでていったけれど、工こう夫ふには、気きづかないことでした。そして、電でん燈とうは、静しずかに、なんの屈くっ托たくもなくじっとしていられると思おもったからです。 生せい活かつに疲つかれた、哀あわれな老ろう工こう夫ふは、自じぶ分んも、この電でん燈とうでありたいと考かんがえました。それは、寂さびしい生せい活かつであったにちがいない。朝あさから晩ばんまで、昼ひるから夜よるまで――いや、そういう区くべ別つもなく、永えい久きゅうに、暗くらく、ただ、見み得うるかぎりの世せか界いというものは、切きり削けずられた赤あか土つちの断だん層そうの一部ぶぶ分んと煉れん瓦がの堆たい積せきと、その割われめからわき出だして、滴したたり流ながれている、清きよらかな水みずのほかには、なにもなかった。けれど、これでたくさんだという気きになったのであります。 なんという単たん調ちょうで、変へん化かのない光こう景けいであったでしょう。よくも、電でん燈とうが、こうして、同おなじ光こう景けいを照てらし、また見みつめているものだと考かんがえられました。しかし、老ろう工こう夫ふは、休きゅ息うそくを欲ほっしていた。自じぶ分んは、もうなんにも刺しげ戟きを欲ほっしない。またたいした欲よく望ぼうもない。ただ、平へい静せいにじっとしていたい。この電でん燈とうが、自じぶ分んであったら、自じぶ分んは、どんなに幸こう福ふくであろう……と思おもったのでした。 老ろう工こう夫ふは、まだぼんやりとして、電でん燈とうを中ちゅ心うしんに、周しゅ囲ういの光こう景けいをながめていました。すべてが、じっとして、動うごかない。ただ、動うごいているものは、水みずの流ながればかりでした。彼かれは、いま、光ひかりを受うけて、銀ぎんか、水すい晶しょうの粒つぶのように断だん層そうから、ぶらさがって、煉れん瓦がに伝つたわろうとしている水みずの雫しずくを見みていました。 刹せつ那な、どうしたことか、彼かれは、この光こう景けいとは、なんら関かん係けいのない、べつな光こう景けいが目めに浮うかんだのであります。 広ひろ々びろとした畑はたけが、水みずの雫しずくの中なかに宿やどっていました。しかも、無むげ限んに、深ふかく、深ふかく、遠とおく、遠とおく、その雫しずくの中なかに拓ひらけていたのです。その畑はたけには、真まっ黄きい色ろな、かぼちゃの花はながいくつも咲さいていた。咲さいている花はなの蕊しんの中なかから、蜜みつを吸すおうと、大おおきな、黒くろいはちが花はなの中なかへはいった。彼かれは、そのはちをいじめてやろうと、歩あゆみ寄よって、ふいに四方ほうから花はな弁びらを閉とじてしまった。花はなの中なかでは、かすかな、はちのうなりが、遠とおい、遠とおい、音おん楽がくを聞きくように、空くう気きを伝つたって、耳みみにはいってくる――彼かれは、自じぶ分んが子こど供もの時じぶ分んの、あの日ひのことを思おもい出だしたのでした。 ﹁どうして、こんなことを、いま、トンネルの内うちで思おもい出だしたろう……。﹂ ふたたび帰かえらない生せい活かつと自じゆ由うを、彼かれは、慕したったのでした。 せめて、昔むかしのような、子こど供もに返かえられないものなら、この電でん燈とうのように、世せけ間んの煩わずらわしさから離はなれて、静しずかに、じっとしていたいものだと、老ろう労ろう働どう者しゃは空くう想そうしていたのです。 けっして、瞬またたきするはずのない、電でん燈とうの光ひかりが揺ゆらめいた！ はっと思おもって、その一点てんを凝ぎょ視うしすると、一ぴきのとかげが、かえるをくわえて、すぐ火ひの近ちかくの煉れん瓦がの壁かべに、どこからかはい出でてきたのでした。 彼かれは、場ばし所ょがら、真しんにあり得うべからざる光こう景けいを見みるものだと思おもい、息いきを殺ころして、子しさ細いに見みていると、小ちいさなかえるは、まだ生いきていて、万ばん死しの中なかから、逃のがれたいと四よつ足あしをぴくぴくもがいていたのです。 とかげは、そこに、人にん間げんが立たっているとは思おもわなかったらしく、しばらく目めを光ひからしながら、相あい手てのけはいをうかがっていました。この際さい、獲えも物のをくわえたまま走はしったほうがいいか、それとも人にん間げんが、まだ気きづいていなかったら、じっとして機きか会いを待まったほうが、いっそう賢けん明めいではないかと考かんがえているごとくに見みられたのであります。 老ろう工こう夫ふは、この狡こう猾かつな、暴ぼう虐ぎゃ者くしゃの心しん理りを悟さとると、このままにしておけない気きがしたのでした。 ﹁呪のろわば穴あな二つだ！﹂と、彼かれは、いいながら、石せき塊かいを投なげつけて、一撃げきのもとに、かえるもとかげももろともに粉ふん砕さいして、目めの前まえの忌いまわしい光こう景けいを払ふっ拭しょくしようと気きが焦あせったのです。彼かれが、石いしを探さがしているときでした。トンネルの入いり口ぐちで汽きて笛きがしました。あわてて、彼かれは、ぴたりとトンネルの煉れん瓦がの壁かべに身みをつけると、すさまじいひびきをたてて汽きし車ゃは通つう過かしました。そして、後あとには、濛もう々もうとして、黒こく煙えんが息いきづまるほど、立たちこめて、電でん燈とうの蔭かげでうずを巻まいていたのです。 黒こく煙えんがやっと消きえて、ふたたびあたりが見みえたときには、もはや、そこにとかげはいなかったのでした。 ――一九二六・五作――