山奥である。右にも左にも山が聳そびえている。谷底に三人の異様な風をした男が一人の男を連つれて来て、両手を縛って、荒あら莚むしろの上に坐らせて殺そうとしている。三人の悪わる者ものの眼めだ球まは光っていた。莚の上に坐らせられた男は汚れた破れた着物を着て顔には髭が延びて頭かみ髪のけの長い痩せた男だ。悪者は強盗であって、捕われた男は何なんでも猟師か何かであるらしい。山奥で吹く渓たに風かぜが身に浸みる。 季節は秋だ。岩間には木の葉が血を滴したたらした様に紅葉していた。薄暗い谷間を白い渓川が流れている。見上げると四面の高い山の巓いただきが赤く禿げて、日暮方の秋の日が当っているが、もう谷底は日蔭となって湿しめっぽい気が満ち満ちていた。恐らく一日中この谷底には、日の光が落ちぬのであろう。 眼の光る三人の悪者は、殺す用意に取りかかった。捕れた男の顔は、土色と変って眤じっと眸めを据えて下を向いている――此こ所こには文明の手が届いていない。警察の権利が及んでいない。全く暗黒の山奥で、人の知らぬ秘密が演ぜられる。いわば別天地である。悪者の一人は褐色のシャツを着ていた。他の二人は黒い洋服のようなものを身に纏まとっている。各自ともチャカチャカと光る鋭利な鉈なたを腰に挟んでいた。――捕われた猟師？ は手に無むい一ちぶ物つで、しかも両手は後うし方ろに廻されている。けれど捕えられた間際には余程抵抗したものと見えて、地上に折れたままの鉄砲が投げ捨てられてあった。二人の悪者は、黒い桶のようなものを二つばかり持ち運んで来た。何に使用するのか……多分血を容いれるのと、斬ったら落ちる生首とを入れるのであろう。傍かたわらには大きな箱がある。この中に死骸を容れるのだ。 悪者は金を取るのが目的でないらしい。さらば何のためにか？ きっと生いき胆ぎもを引抜き、骨を砕いて……血潮で何か造るのだ。――人間の生血と生胆と白骨で丸薬か何か造るのだ。彼あち方らに大きく土を盛って火を焚たく処が出来ている。一人は其そ処こへ行って火を焚き始めた。青い烟けむりが上った。また彼方に黒い家や根ねの頂いただきが見えている。何か小屋があるらしい。此こ処この小屋は山漆を掻かいて黒土と砂利で固めたのだ。 彼方の谷に赤々と、山漆の木が繁っていた。火を焚たいている青い烟は微かに棚たな曳びいて深みや山まの谷に沈んでいる。一人の悪者は、捕われた男の前に立って両腕を組んでいる。この間互に一言も言い交わさなかった。火を焚いている一人は頻しきりと枯れた小枝や青い松葉を折って来て大きな土どが竈まの下を燃もやしている。褐色のシャツを着た悪者は、小屋の方へ行ったがやがて襤ぼろ褸き片れで刃をぐるぐると巻き附けた大きな鉞まさかりを持ち出して来た。黒い襤褸には何だか腥なまぐさい血の染みが附着しているようだ。――幾人この山奥でこの鉞にかかって命を落した人があるか知れない。そういえば捕われ人の前に置おかれた桶の赤黒いのも人の血潮で染った色に相違ないと思った。今迄下を向いて、眤と一ひと所ところを見みつ詰めていた捕れた男は真青に血の気の失せた顔を上げて、ドシンと大地に下した鉞の方を見み遣やった。が直すぐ様さままた下を向いて自分の膝のあたりを見詰めていた。――もう自分の殺される時が近づいたと覚悟をしたのであろう。捕われた男の眼からは別に涙が流れて落ちなかった。悪者の一人は片足で地じび面たに折れたままの鉄砲が捨てられていたのを蹴って除のけた。鉞を持ち出して来た男は其処に手強く鉞を置くとまた小屋の方に立去った。今迄男の前に立って両腕を組んで、足で折れた鉄砲を蹴やった一番丈せいの高い獰どう悪あくな面つら構がまえをした眼の怪しく光る黒い洋服を着た男はこの時頻しきりと気を揉むように四あた辺りを歩き廻り始めた。 しかし口には何事も言わずにただ身みな形りや容よう子すで――もう日が暮れて時刻が遅くなるぞ。早くやっつけてしまわねえかと催促するように忙せわしげに動き始めた。 白く谷川がさらさらと流ながれている。その辺は一面に小石や、砂利で、森し然んとして山に生い茂った木立が四あた境りを深く鎖とざしている。仰ぐと眼の前に聳えた高い山の頂の赤く禿げたあたりに暮れかかった日影が映っていたがだんだんその光りも衰えて来た、小屋に立去った褐色の悪者は、大きな砥とい石しを持ち出した。この時火を焚き付けていた悪者は、もう火が燃え上ったので此こち方らに歩いて来たが男の前にあった桶を一つ持って渓川へ水を汲くみに行った。やがて砥石の傍に水の入った桶が置れて、小こ舎やに行った男が土の上に蹲うず踞くまって大きな鉞を磨とぎ始める。けれどこの悪者は未まだ一言も互に話し合わなかった。 総すべての行動は、皆な沈黙の裡うちにやられた。 脊の高い黒い服を着た、この中うちでの隊長とも見える男は一枝後方に紅葉の枝の垂れ下った岩の上に腰を下して此方を見ている。先刻火を焚き付けて、今渓川の水を汲んで来た悪者は砥石で鉞を磨ぐ男の傍に立っている、この男の面つらは間が抜けたように茫ぼん然やりとして鼻筋が太かった。けれど腕が太くて力のありそうなガッシリとした身体だ。今砥石で鉞を磨いでいる男は脊が低くて、痩せているが鼻先の尖った険さかしそうな男だ。この三人の悪者の眼は等しく異様に光って、絶えず物に注意して、大きく飛び出ているように見えた。で、何どの顔も垢と日に焼けて黒く光って鉛色をしている。黒い服を着た隊長らしい男だけ頭に何か古ぼけた羅ラシ紗ャの破れた帽子を被っている。褐色の服も、今一人の黒い服を着た鼻筋の太い悪者も帽子を被っていなかった。やはり三人は無言である。ただゴシゴシと砥石に鉞の刃の喰い込んで磨すれる音が耳に入った。今三人の悪者の眼は等しく砥石と鉞の上に集められた。等しく三人の心は砥石の上に向けられている。この時全く忘られて一人、後方の土の上に湿っぽい荒莚の上に坐らせられて、両手を縛られた男は淋しく頼りなく見られた。 たとえ鎖くさりで縛しばられていないにせよ、三人の悪者が此方に注意していないにせよ――何うしても逃げ出されないのだ。四面とも切り落したような峻しゅ嶺んれいである。とてもこれを攀よじのぼって逃ることは六むずヶか敷しい。今他から突如として援たすけに来る人がなくては、とても援たすからぬ命である。この男が何ど処こかで捕われて、此こ処こまで連て来られた間には、いろんな嶮けわしい処を通って来たであろう――普通の人の歩あゆめぬ処へ来た時に――何うしても足の踏み出せない処へ来た時に三人の悪者が無理にこの男を引ひき摺ずって後方から追おっ立たてて、それでも歩めない時には小こご言とをいいながら、荷物か何か運ぶように担かついで持って来たことであろう。――また男はこの場合にこういうことを思い出したであろう。――家の者は今頃自分が斯こん様な山奥で悪者に命を取られるということなどは知るまい。――この山奥に悪者が住んでいるという噂は聞いたことがあるが誰でも真ほん実とうにしたものがなかった。またこういう噂は聞いたことがある。悪者等が人の生血を絞って、染物をやり、その染物を海の上で売買するということも聞いた。また人間の脳味噌と骨を砕いて丸めた薬を造ると聞いた。また生胆を売りに出るということも聞いた。――其それ等らの薬は何でも遠くへ行って、旅へ出て売るということだ。けれど人の噂に聞いていたことで、実際にあることだとは思われなかった。 猟に出かけて、途みちを違えて、この山奥に迷い込んで二日も木の根を枕にして宿やどって、今朝の暁あかつき、この悪者等らに捕えられたまでは、全く夢のような話だと思っていた。 捕われ人の頭には、いろいろと捕われた当時の有様などが彷ほう彿ふつとして浮き出た……。 ゴシリゴシリと鉞を磨ぐ音が耳に入る。若者は空想から破やぶれた。この時悲哀な声で研とぎ手ての悪者が歌い出した――その声は寂ひっ然そりとした山さん谷こくに響く。
海が光るぞよ 血染の帆風 黄色い筈だ 月が出る
その歌は、浮世で聞ける歌でない。けれどその歌の調子は懐しい耳に聞き覚えのある調子である。よく里に聞き、海に聞き、また山に聞くことの出来る調子である。捕われた男はこの警察権も行届かない、人の知らない、山奥に独り坐って僅わずかにこの歌の調子を聞いて、そぞろに人の住む村里を恋いしく思った。ただ思うより他、再び帰ることが出来ぬ身である。若もしこの歌が止んだなら全く浮世と繋がる一筋の糸も断ち切られてしまうので、悪にくむべき敵ながら、その歌う歌の調子に涙ぐまれた。かくて物憂い眸ひとみを地上から上げて見ると、小男は鉞を磨ぎながら歌いつづけている。
岩に腰を下した羅紗帽は、谷の彼岸を茫然と見詰ていた。石が転がって、木々が紅葉している。鉞を研ぐ前に立った鼻筋の太いのは熱心に鉞の物凄く光るのを見守っていた――晩ばん方がたの冷気が膚に浸みて、鼻から出る息が白く凝こごった。この際は三人とも等しく歌に心を取られていたらしい。小男はつづけて歌った。
冬の霜よりしんしん浸みる 利刃 に凝った月の影 触 れや手頸 が落ちそうに 色もなけれや味もなく……
と細く、物哀れに引いて消えたかと思うと力なげに
と歌った。刃金の上に身を委す。それは独り月ばかりでない。やがて我身の果はてであるのだ。三人の悪者は、この歌をうたって、暗然として何等か涙を催すようなことがあろうか。たとえ涙を催すようなことがあっても、決して折せっ角かく捕えて来たこの男を許すようなことはなかろう。捕われた男はしみじみと悲しくなって、束の間の我が命を考えた。
病わく葉らばが彼あち方らにも此方にもはらはらと散ちっている。青い煙は一面に渓の隅々を鎖とざした。黒く頭の見えた小屋も黄たそ昏がれとなって分らなくなった。日はいつしか落ちて、大空は青々と澄み渡った。禿山に照り映えていた夕日もいつしか消えて、星の光りが閃きらめいた。切り落されたような谷間から仰いでも空は広い。而そして限りなく深い深い奥に運命の通る穴がある。それが星とも天の花とも見えるのだろう。……それとも天魔が青い底から蝋ろう燭そくを点ともして下界を窺うかがっているのかも知れない。
いよいよ殺されるべき時刻が来た。紺碧の空に星が輝いている。破た羅紗帽を被った悪者は、岩から腰を放した。磨ぎ澄された鉞には星の光りが映じた。鼻筋の太いのが死骸を入れる箱の蓋を開けて、血を汲む桶を二つ捕われ人の前に並べた。彼方の山の隅では大きな土どが竈まの下にとろとろと赤い火が燃えている。三人は訳の分らぬ符号で何事か示し合った。小男から羅紗帽の隊長が、鉞を受取るとぐるりと捕われ人の後方に廻った。……
空が暗くなるにつれて、深山の奥で熾さかんに火の手が燃え上って、その焔の周まわ囲りに三つの黒い影が動くのが瞭はっ然きりと分ったが、いつしか火ひの手てが漸ぜん次じに衰えて、赤かった焔の力が弱って黄色くなって見えた。いつしか黄色いのが白くなって見えた。
﹁ハハハハハ。﹂と厭らしい笑い声がすると、天上の星は微かに身震いした。
再び沈黙に返って、さらさらと谷川の音が淋しそうに聞える。冷たい渓風が吹き渡って全く焔が消えかかった。折おり々おりぴしりぴしりと生木の刎はね返かえる音がして、その毎たびに赤い火花が散った。
