「吾八」の歌を探すので「祗園歌集」を読み直していると、はからずも「雑魚寝」と題する数首の歌にめぐり会つた。それは、
かより合ひ転び合ひたる雑魚寝びと遊び倦きたるあけがたの月
世之介の大原 の里の雑魚寝よりわれの雑魚寝はなまめかしけれ
夏の夜のあからさまなる雑魚寝さへあさましからず君の恋しき
世之介の
夏の夜のあからさまなる雑魚寝さへあさましからず君の恋しき
というようなものであるが、その中の﹁世之介の大原の里の雑魚寝﹂というのは、西鶴の﹁好色一代男﹂の巻之三、世之介二十四歳の時のくだり、﹁一夜の枕物ぐるひ、大原ざこ寝の事﹂としてある一章の中に、次のようなことが書いてあるので、それを言つたものなのである。
﹁まことに今宵は、大原の里のざこ寝とて、庄屋の内儀、娘、又下女下人にかぎらず、老若のわかちもなく、神前の拝殿に、所ならひとて、みだりがはしくうち臥して、一夜は何事をも許すとかや、いざこれよりと、朧なる清水、岩の陰道、小松をわけて其里に行きて、手つかむ計りの闇がりまぎれにきけば、まだいはけなき姿にて逃げまはるもあり、手を捕へられて断りをいふ女もあり、わざとたはれ懸るもあり、しみじみと語る風情、ひとりを二人して論ずる有様もなほをかし﹂
これは今も猶俳句の季題には、古りし昔の年中行事として残つている﹁大原の雑魚寝﹂のことであるが、私の歌の意味は、﹁祇園の雑魚寝﹂はそれとは違つて、美しい舞妓達と枕を並べて寝るのだから、何となく色つぽく艶めかしいと言うのである。
今はもう﹁雑魚寝﹂などというのんびりしたこともなくなつてしまつたが、私がはじめて祗園に遊んだ四十数年前の昔には、まだこういう習慣が行われていて、最初こういう一夜を白川に近い或る茶屋で過した時には、何だかまるでこの世の出来事ではないような気がして、何時しか自分が紅楼夢中の人となつているように思われてならなかつた。
遊び疲れ飲み疲れて、これから雑魚寝ということになると、急に酔が出て来て瞼も重く、床の敷きつらねてある座敷に入るなり、そのまま倒れるように枕につく。そうして眠るともなく夢うつつの間に、大勢の舞妓達が何か京言葉でしやべりながら、帯を解いたり、かんざしを抜いたり、着物を脱いだりした後、紅い長襦袢ひとつになつて、それぞれ寝支度をしているのを聞いていると、まだ襟替えには大分間のある、色気のないいたいけな少女だとは思つていても、伽羅の匂いさえほのかに漂つて来るような心持がして、妙に婀あ娜だつぽく心がときめいて来るのである。大勢の舞妓達との雑魚寝はまだいいが、もうすつかり女になりきつている芸妓達との雑魚寝の場合は、どうも心がときめくと言つたくらいでは済まず、体中が緊張して息苦しくなつて来る。手が触つたり足が触つたりしても、お預けに会つた犬のように、じつと耐こらえていなければならないのだから、考えて見れば﹁雑魚寝﹂という制度ぐらい若い男に取つて、殺生極まるものはなかつた。