はしがき
父秀ひで忠ただと祖父家いえ康やすの素志を継いで、一つにはまだ徳とく川がわの天下が織お田だや豊とよ臣とみのように栄枯盛衰の例にもれず、一時的で、三代目あたりからそろそろくずれ出すのではないかという諸侯の肝を冷やすために、また自分自らも内心実はその危険を少なからず感じていたところから、さしあたり切キリ支シタ丹ンを槍やり玉だまにあげて、およそ残虐の限りを尽くした家いえ光みつが死んで家いえ綱つなが四代将軍となっていたころのことである。 実際、無抵抗な切支丹は、いわゆる柔剛そのよろしきを得て、齢としに似合わずパキパキと英明ぶりを発揮して、早くも﹁明君﹂といわれた家光が、一方﹁国こく是ぜに合わぬ﹂ことはどこまでも厳酷に懲罰して仮借するところがないという﹁恐ろしさ﹂を諸侯に示すには得やすからざる好材料であった。﹁なんといってもまだあの青二才で﹂とたかをくくって見ているらしく思われた諸侯たちを、就職のとっ始めから度肝を抜いてくれようと思っていた若将軍の切支丹に対する処置の酷烈さと、その詮せん索さくし方のすさまじい周到さとは、たしかに﹁あわよくばまた頭をもたげる時機も﹂と思っていた諸侯の心事を脅かし、その野望を断念せしめて行くにはきき目は著しかった。奥おう羽うきっての勢力家で、小心で、大の野心家であった伊だて達まさ政む宗ねさえ、この年少気鋭な三代将軍の承職に当たって江戸に上った際、五十人の切支丹の首が鈴すずが森もりではねられるのを眼まのあたり見て、そのヤソ教に対する態度をガラリと変えたほどであった。 かくてなんでも徳川の基礎を万代に固めることが自家一代の使命であると心得ていた家光は、諸侯と直接刃やいばをまじえて圧迫するようなまずい手段によらずに、諸侯がともかくも同意しないわけに行かぬ理由と名義のもとに、この日本の神を否定し、国法を無視し、羊のような柔和な顔をして、その実国土侵略の目的を腸はらに持っている﹁狼おおかみ﹂の群れをみな殺しにすることによって、間接に徳川の威勢を天下に示し、同時に自分のそれの反照を眼まのあたり見ることができることをこの上もなくおもしろがり、喜んだ。なんとなく気味のわるかった姻いん戚せきの伊達政宗までが思いがけない奥羽での切支丹迫害の報告書を奉った時、彼は自分がもうそれほどまでにおそれられているのかという得意のために、まだどこか子供子供したおもかげのぬけきらぬ顔をあかくし、パタパタとその書面をたたきながらそれを奥方に見せに座をけって立ったほどであった。 しかし切支丹が神の道と救いの教を説くと称して実は日本侵略が目的であるということはただ彼の称となえた口実ではなかった。実際彼はそう信じていたので、それはまたそのはずであった。朝廷に最も勢力のあった神道主義者と仏僧とのヤソ教に対するあらゆる反対讒ざん訴そ姑こそ息くな陰謀は秀ひで吉よし時代からの古いことであったが、まだそのほかに商業上の利害の反目からフランシスコ・ザヴェリオ以来日本の貿易と布教とを一手に占めていたポルトガル人をおとしいれようとして、元来スペインの広大な領土は宣ばて教れ師んを手先に使って侵略したものだと、まことしやかに述べ立てるスペイン人があり、また家康の時にはさらにスペインとポルトガルとを商敵とする新教国のオランダ人が現われて家康の前に世界地図をひろげ、ヤソ教国の君主すら宣ばて教れ師んを危険視して、国外に放逐しているくらいであるなぞといって、目の前で十字架をへし折り、聖母の画像を踏みつけて見せたこともあった。のみならず捕獲したポルトガルの商船から発見したものだと称して偽造の密書――いわゆる﹁オランダのご忠節﹂をもったいらしく捧ほう呈ていしたりしたのである。 さなきだに切支丹には誤解される点が実に多かった。罪を犯して悔い悲しむ者は、罪を犯さぬつもりでいる過あやまちのない傲ごう慢まんな者より救われやすいという意味が、罪その物を肯定する教と見なされたことも当然なことであったが、また霊魂の救われることのために肉体の死苦を甘んじるということがやがて死の賛美に思われ、そしてその死に民衆を﹁そそのかす﹂ばてれんたちはまた国民を亡ほろぼして行く者と見なされたことなぞもすべてもっともなことには相違なかった。 かつ慶けい長ちょうの初めには疫えや病みがはやり、天てん変ぺん地ち異いがつづいた。こんなことを仏僧や神官が神仏の怒りとして持ち出さずにはおくわけはなかった。秀吉はそれには耳をかさなかったが、切支丹の一婦人に懸けそ想うしてその婦人を妾めかけにすることができなかった時、始めてほんとうに切支丹の強情を憎いと思った。彼はその女を裸にして竹槍で突き殺させたあとで、今日われわれが子供の時から耳にタコができるほど学校で聞かされた常じょ套うと語うごの元祖を放った。 ﹁外国の土によくかなうからといって、その木をすぐ日本へ持って来て植えるということは間違っている。日本には日本の桜がある。﹂ そして自ら朝鮮を侵略して行ったこの猿さる英雄は一度でそれが懲らしうるつもりで、まず二十六人の﹁侵略者﹂を長崎の立たて山やまで磔はり刑つけにし、虐殺の先せん鞭べんをつけた。 家康は秀吉よりもいっそう切支丹を最初からきらっていた。徳川の運命と同じく、切支丹の運命にとって致命的であった関せきが原はらの決戦が済み、切支丹の最も有力な擁護者であった石いし田だみ三つな成り、小こに西しゆ行きな長が、黒くろ田だゆ行きた孝からが滅びうせて後は、元げん和な八年の五十五人虐殺を筆頭に、露骨な切支丹迫害が始められた。かくてそれまでは自ら洗礼をうけ、あるいは切支丹に厚意を持っていた西国の諸侯は、幕府の嫌けん疑ぎをおそれるがゆえに改宗し、あるいは切支丹の討伐にかかった。そして爾じ後ご切支丹の根たやしは徳川家代々の方針となった。 寛かん永えい十五年正月、島しま原ばらの乱らんが片づき、つづいて南蛮鎖国令が出て後、天てん文もん十八年以来百余年の長きにわたり、二千人以上の殉教者と三万数千人の被刑者とを出してなお執しゅうねく余炎をあげていた切支丹騒動なるものは一段落ついたように見えた。 ﹁一いっ時ときはほんに日本全国上下をあげてなびいたくらいえらい勢いじゃったもんじゃ。信のぶ長ながが本能寺で討たれたころにゃ三十万からの生きっ粋すいの信者がおったそうな。それがこの通り消え細るまでにゃお上の仕打ちもずいぶんと思い切ってむごいにはむごかったが、片っ方も、また執しつっこいとも執っこいもんじゃった。が、こうなってみりゃこの国に切支丹がいれられなかったというなあ、それが結局天でう主すのご所存じゃったのかもしれんてな。﹂ こんな疑念がひそかに切支丹に厚意を持つ人々の念頭にもきざしかけていたそのころのことである。それでもなお全国市町の要所要所には定
切支丹宗門は累年ご禁制たり、自然不審なるもの
ばてれんの訴人 銀三百枚
いるまんの訴人 銀二百枚
立ちかえり者の訴人 同断
宗門の訴人 銀百枚
いるまんの訴人 銀二百枚
立ちかえり者の訴人 同断
宗門の訴人 銀百枚
同宿並びにかくし置き他より顕 わるるにおいてはそこの名主 並びに五人組まで一類共可レ処二厳科一也、仍下知如レ件
としたためた檜の高札がいかめしくたてられていたころのことである。奉行
長崎の古川町に
一
﹁おい。お佐さ和わ。この間のあの﹃虎とら﹄をどこへやったんだ。﹂ ﹁よくもこう珍なものを集めたものだ﹂とつい人がおかしくなるほど煤すすぼけた珍品古こじ什ゅうの類をところ狭く散らかした六畳の室へやの中を、孫まご四しろ郎うは易者然たる鼈べっ甲こうの眼めが鏡ねをかけて積んである絵本をまたぎ茶盆をまたぎして、先刻から机の上、床の間、押し入れの中としきりに引っくり返して何かさがしていたが、こう荒々しく声をかけた。 ﹁ぬしはまた売っちまったんだろうが。え? おれにかくして。﹂ 孫四郎の調子にはもうやや刺とげがあった。その刺にさされて、隣の四畳で針仕事をしていた細君はやぶれた襖ふすまをあけた。 ﹁まあ、﹃また﹄なんてだれがいつそんなことをしましたろうか。﹂ やや上気した頬ほほのあか味のために剃そった眉まゆのあとがことに蒼あおく見える細君はこういいながら、はじらいげにほほえんだ会釈を客の裕佐の方へなげ、 ﹁まあ、この散らかし方! まるで屑くず屋やさんのようですわ。﹂ と尻しりあがりの調子でいって、ちょっと突っ立った。 ﹁貴様、さがして見い、ありゃせん。﹂ 孫四郎は邪じゃ慳けんにこういい捨てて敷けばかえって冷たそうな板のように重い座ぶとんをドサリとわきへほうりなげ、長なが煙ぎせ管るの雁がん首くびで、鉄に銀の象ぞう嵌がんをした朝鮮の煙たば草こば箱こを引き寄せながらその長い膝ひざをグッと突き出してすわった。 ﹁そりゃこんなもんよりゃずっと傑作じゃ。この間の縁日の虎をさっそくやって見たんじゃがな。﹂ 彼はこういってひょろ長いからだの居ずまいを直し、裕佐が縁近く持ち出してあぐらをかいて見ていた一枚の絵を煙管でさした。それは山やま田だな長がま政さが象に乗ってシャムの国王のところに婿入りをする図で、版画にする原画であった。 ﹁ほうら。ありましたがな、こんなところに。やはりあなたご自分でおしまいになったんですわ。﹂ 細君はうれしさのあまり長い白い脛すねをちょっとあらわして、束になってくずれている錦にし絵きえをまたぎ、安心とうらめしさとがいっしょになって堅くなった表情を向けながら一枚の絵を夫おっとに渡した。そして﹁いつだってこうなんですの。﹂とややとげとげしくいって、そのとげとげしさにぽっとあからんだ笑えが顔おを裕佐に見せ、チラリとまた夫を顧みて、次の間へ立ち去った。 ﹁あったか。﹂孫四郎は受け取りながら一言こういって、大事そうにフッと一息かけ、 ﹁ここへ来てごらん。ここの方がまだ明るい。﹂ といいながらその絵をサラリと敷居の上へなげ、飲み残しの冷たい茶をゴクリと一息にのむと今度は眼鏡の球たまを袖そで口ぐちでこすりながらのぞき込むようにじろりじろりと裕佐の顔を視み入いるのだった。 諏す訪わ神社の縁日に虎の見世物が出て、非常な人気を博したことはついその十日ほど前のことであった。孫四郎の絵ではその虎の檻おりが街頭に引き出されている。﹁朝鮮大虎﹂﹁大入り大入り﹂﹁大おと人な一文もん小児半文﹂と書いた札を背にしてしきりに客を呼んでいる男が一方にいる。かと思うと張り子のような虎が檻いっぱいに突っ立っていかめしくにらんでいるその檻の前には、﹁おらんだ人﹂と肩書きのある紅こう毛もう碧へき眼がんの異国人が蝙こう蝠もり傘がさをさした日本の遊女と腕を組んで、悠ゆう長ちょうにそれを見物している。ステッキをついて猩しょ々うじょうのように髯ひげをはやしたばかに鼻の高い﹁おろしゃ人﹂が虎よりは見物人の方を見ながらのどかにパイプをふかしている。大小をさしたちょんまげの侍のわきには日本の子供とシナの子供とが遊んでいる。 ﹁ふうむ。――﹂裕佐は思わずその絵のユーモアにほほえまされた。﹁なるほどこりゃおもしろい。﹂ ﹁近来の傑作じゃろうがな。ヘッヘッヘッ。﹂ むしろ好んで皮肉をてらうようなそのゆがんだ口もとに深いしわを寄せながら、にやにやとほこりがに裕佐の顔を見ていた孫四郎はこういって高く笑い出した。 ﹁傑作ですね。版にしたらまたひとしおおもしろいでしょう。﹂ その笑い声の下品さにいや気けをもよおしながらも裕佐はこうほめざるを得なかった。 ﹁あの虎はあなたがかくとおもしろかろうと僕も思っていたんです。﹂ ﹁へ、へ。なかなか見のがしゃせぬよ。﹂ と孫四郎はまた雁首に煙草をつめながら ﹁往来にさらしてある見世物に﹁大入り﹂はおかしいが、そこがこういう愛あい嬌きょうじゃでな。﹂ こういってまた笑った。たしかに齢としよりは十ぐらい老ふけて見えるがその実ようやく四十になったばかりのこの絵師は、当時長崎きっての版画師であった。 実のところ裕佐は口に出してほめた以上に内心感服――むしろ驚いていたのであった。﹁実際変なやつだ﹂と彼は思うのだった。人間としてはもとよりのこと、画家としての孫四郎にも彼は決して飽き足りてはいなかった。孫四郎のかくものが現におもしろいことは否定できないにしろ、ただ﹁おもしろい﹂というだけにすぎぬ芸術は所しょ詮せん三流以上のものではあり得ないと裕佐は思っていた。しかしその一流の境を求める自分はまだそのおもかげのうかがわれる仕事すらしておらぬのに、孫四郎はともかくその﹁おもしろい﹂自家の一道をすでにつかまえている。﹁山田長政﹂や﹁虎﹂の絵にはその﹁つかんだ﹂という感じが顕著に出ている。彼はその狭い道の上でわき目もふらずにめきめきと進みつつある。孫四郎の到底了解しあたわぬていの傑作にも広く共鳴を感じうる自分は、まだその広こう汎はんな理解と燃えたぎる深い内心の欲求とを寸分も生かしておらぬのに、孫四郎はともかくその卑俗な趣味の偏狭に徹底して、それを自家の製作のうえに生かし、悠ゆう々ゆう自適している。かくて裕佐はその先輩にある反感を抱いだきながらも一方うらやましく思い、その﹁おもしろさ﹂さえもない自己の仕事を顧みてさびしく感ぜずにはいられなかった。 ﹁どうも僕は少しいろんなものにひかれすぎるのかな。﹂ 裕佐は思わずこう嘆息をもらして破れ芭ばし蕉ょうの乱れている三坪ばかりの庭の方を向いた。 ﹁いろんなものにひかれるのは結構じゃないか。つまりそれだけ、おぬしはあたまが広いのだからな。﹂ そう出られれば﹁もちろん﹂と裕佐はいいたくなるのだった。しかし自分のうちにはたしかに孫四郎なぞのうかがいも得ぬ何かがあると自信してはいるもののまだその現の証拠を実現したわけではない。実現して眼まのあたり見た上でない以上やはり内心不安であり、空虚である。畢ひっ竟きょうだれにでもある単なるうぬぼれ、架空の幻影ではないかと疑う。自分で疑うくらいなら人が見くびることに文句はいえない。 ﹁とにかく僕は何か一つの道に徹底したいよ。さしあたり僕はそのことを願わずにはおられない。自分が結局どの道にも徹底できない質たちなのでないかという気がどうもしてな。﹂ 裕佐はまたおとなしくこういってかかえた膝ひざをゆすぶった。 ﹁ふむ、徹底するといったって、こんな一文や二文のおもちゃ仕事に徹底したんじゃおぬしは満足はできなかろう。もっとえらい仕事でなけりゃな。――わしの仕事なぞは貧乏人の子供対あい手てだ。これでずいぶん丹たん精せいはして造る。こんなあほらしいような絵えぞ草う紙し一枚だって見かけよりゃ骨を折っとるんだ。しかしいくら骨を折ったって結局子供だましの乞こじ食き仕事だ。でもこんなのらくらの遊び人の絵をともかくも一文や二文で買ってくれ手があるから不思議なもんさな! どうで雪せっ舟しゅうも元信も拝むことのできぬ肴さか屋なやや八や百お屋やの熊くま公こう八公がわたしのご上客だ。殿様だ。それがわしには相応しとるて。ヘッヘッヘ。やつらにゃまたわしのような乞食絵師が相当しとるんだ。だからわしのような者もなけりゃならんのさ。雲うん上じょ人うびと相手の白しら拍びょ子うしばかりじゃ世の中は足らん。熊公八公相手の夜よた鷹かもなけりゃな。どうだ。おぬし徹底して夜鷹になるか。﹂ 孫四郎はこういって煙や脂にだらけの黒い口をあいて笑った。 裕佐がこの版画家に対して何よりもいやに思い、それがために友に飢えていながらもそうしげしげと訪たずねて深くつき合う気にどうもなれなかったのは、実にこの男のひがみから来る一種の偽悪趣味であった。 人の心持ちをなんでも下等にいやしく解釈して見抜いたような薄笑いを浮かべ、人がそれに腹を立てて何かヘコますようなことをいえば、﹁まあさ、そうどならんでも﹂とごまかして笑う。笑えば必ず故意の冷笑である。いかなる場合にも冷笑することが人生で最も優越なことであると思うことにしているらしいこの男は、人情として笑うことが不可能である場合にも必ず意識してヘラヘラと笑う。何がそんなにおかしいのかときけば﹁何もかもおかしいのだ。自分自身もおかしいのだ﹂と答えてまた笑う。むろん決してほんとうにおかしいのではない。ただおかしがることが好きなのである。おかしがっていたいのである。そしてまたおかしがりたいためにすべて人生一般の対照物をその冷れい嘲ちょうの的まととなりうる下げせ賤んな階級まで引きずり降ろさずにおかないのだから、相手が不快がるのは無理はない。そして相手がいらだてばいらだつほど彼はますますその犬けん儒じゅ主義を享楽するうえに満足を感じて、なんで相手がそんなにいらだつのか合点が行かぬような顔をして冷静にかまえるのみである。それが彼の﹁勝利﹂なのだ。 しかし、今彼のくだくだしい毒舌を聞いた者は、表面氷のごとく見える彼の自己冷嘲の奥にいらだたしい刺とげがあり、ひねくれた者の弱い火があることを容易に見抜き得たであろう。その火は彼の意志を裏ぎって蒼あおざめた頬をぽっとあかくしていた。 ﹁しかしとにかく君は画家ですよ。僕は画家ではない。﹂ ﹁夜鷹﹂というような言葉をつかう孫四郎の興味に例のいや気をもよおしながらも、その上気した顔を見るとなんとなく気の毒なような気がして、裕佐はこういった。 ﹁低いなりにもな。ハ、ハ。どうでわしはこれだけの絵職人さ。なんといったって。しかしおぬしなぞは生まれからいってもわしなぞとは仕事のわけがちがわなけりゃならん。それにまだ若いし、――あせることはないさ。すこしも。﹂ なんの親切気もない調子でこういうと、彼は長い立て膝をかかえながら、 ﹁この間の又また兵べ衛えばりの人物画はどうした。おもしろく行きそうだったが。﹂ ﹁だめだ。失敗だった。﹂ ただ﹁人物画﹂とはいわずに﹁又兵衛ばり﹂のとちょっといやがらせを付け加えずにはおかない彼の癖に、裕佐がこうぶっきら棒に応じたのを、孫四郎はなお平然としてきいた。 ﹁君、鋳いも物のをやる気はないんかね。お父とっさんの伝でやって行きゃ、たちまち日本一だが。﹂ ﹁ふむ、だれもまだあの術を知っているものはほかにないからな。﹂ 裕佐は孫四郎の言葉の気持ちを自分の方からいった。 ﹁あれでもその道のコツをのみ込みさえしたら案外おもしろい仕事ができるもんじゃないかとわしは思うがなあ。﹂ おれがやったらという顔つきで、孫四郎はまたこういいながら蒼あおい頤おとがいをなでた。 ﹁そうも思えるが、どうも僕にゃ……﹂ ﹁物足らんか。望みが太いでな。はは。﹂ こういって形だけのあくびをしたところへ、 ﹁ねえさん。ちょっと出てみなされ。またお通りですよ。﹂ と上がり口の格こう子し戸どをガラリとあけて、こう娘の声が聞こえた。 ﹁あら、そう。もうそんな時刻でしょうか。﹂ といって細君は襖ふすまをあけて現われ﹁萩原さん。ちょっと出てごらんなさらない。おいや?﹂と口についた糸を指で取って丸めながら、二ふた人りの方を向いていった。 ﹁なんです。﹂裕佐がこういうのを、 ﹁丸まる山やま連さ。﹂と孫四郎は﹁いわずと知れた﹂といわぬばかり、﹁おいやなこともなかろう、切キリ支シタ丹ンじゃなし。なア?﹂と裕佐の顔を流し目に冷やかしながら立ち上がった。 異国に対して厳酷であるとともに臆おく病びょうであった幕府は、当時長崎在留の異国人の住居を出でじ島まの郭くるわ内に禁制するとともに、一方丸山の遊女を毎夜そこにつかわし、侍はべらしめて、紅毛人の歓心を買うことにこれつとめていた。 雨の日も、風の日も、灯ともしころになれば、三十人、四十人の遊女が、さわればぽろぽろとはげて落ちそうな粉飾に綺き羅らを尽くし、交代に順番に応じて、奉ぶぎ行ょうから差遣の同心に駆られ、ひき立てられて、丸山から出島へと練って行くのであった。その翌よく暁あさには前夜のそれとは見まごうばかりの落らく剥はくした灰色の姿に変わって、三々五々蕭しょ条うじょうとまた丸山へ戻って行くのであった。 ﹁さあ、こっちもそろそろお出かけなさるか。今夜こそ一ちょあれをかいてやらんにゃ。﹂ ﹁何を。﹂と裕佐は﹁もうここへは決して二度と来まい﹂と心につぶやきながらいってたち上がった。 ﹁おらんだ屋敷さ。﹃紅おら毛んだ人遊興の図﹄だ。﹂ 孫四郎はこういいながら半紙をとじた帳面をふところに入れ、矢立ての墨をあらためて腰にさすと、変に興奮したていで衣紋掛けの羽はお織りをとって引っかけた。 ﹁まあ、またお出かけ。萩原さん誘惑されないように用心なさいよ。﹂ 出て来た夫のいで立ちを見ると細君は光る目で裕佐の方を見ながらこうほほえんだ。 ﹁へ、へ、誘惑されちゃいけませんは皮肉だな。﹂孫四郎はのび上がって行列の方を見ながら、﹁どうだ。いっしょに行くか。童貞の青年。﹂ ﹁いや、僕はここで失敬します、ではまた。﹂ 裕佐は細君の方に向かってこういうと、薄暗い人ごみの中にすぐ姿をかくしてしまった。二
﹁おれは弱すぎる。なぜこう人を求めるのか。あとで必ず後悔することがわかっているくせに。﹂
裕佐はなんべんも自分にこういった。そして時々後ろを振り向いた。背の高い孫四郎が群衆の上にのび上がって、その蒼あおざめた小さな皮肉な顔で笑いながらどこまでも自分の跡を見送っているような気がしてならなかった。彼はその視線を背中に感じてムズムズするようにからだをふるわした。﹁行列を盗み見ているあの目のあやしさを見ろ。わしが誘惑するもないもんだ。へ、あの猫ねこかぶりめ。﹂こんなことを何もかも見抜いたような調子で細君にいっている孫四郎を後ろに想像すると、彼はたまらない悪おか感んを感じながらも、不思議にその予言に支配されるような気がしてならなかった。
しかし大おお股またに急ぐ彼の歩調はいつのまにかのろくなりがちだった。眠くてたまらぬ者が気がついては目を無理に開きながらもつい居ねむりをするようなものであった。なんともいえぬさびしさが重い黒雲のように上から彼の頭をおさえつけていた。自分を信じない者がただ孫四郎に止まるなら﹁あんなやつにおれの何がわかってたまるものか﹂と平気でいられる。しかし孫四郎の冷たい表情の裏には同じ相そう好ごうの運命の顔があるような気がした。それを自分のばからしい気のせいであるといかに思い、その不快な幻影を払いのけようと頭を打ち振りながらも脳裏にこびりついた孫四郎の顔はただ孫四郎の顔とは思えず、その皮肉はただ孫四郎の皮肉とばかりは思えなかった。こちらが力なく反抗すれば向こうはさらに恐ろしい声で﹁あいつに何ができるか、ヘッヘッ!﹂と反響しそうに思われた。
彼はステッキで堅い地をたたき、咳せきばらいとも、叫びともつかぬ声をしぼり出して空を仰ぎ、そして歩いた。通りでは遊女の列にからかう男の下等な笑い声や、かん高い気違いじみた女の声が聞こえた。一種の本能で裕佐はその行列を見るのはいやだった。それで小こう路じにはいった。しかしどちらへ向かって? 彼は自分の家の方へは行かなかった。彦ひこ山さんの中腹を少しおりたところに父の建てた自分の古家。六十になる出戻りの伯お母ばと二人で彼が住んでいるその家には朝日はよく照るのだった。日が照っている間そこは彼にとって真に落ちつける唯一の温あたたかい自う家ちであり、﹁道場﹂であった。彼はそこに祀まつってある﹁伎ぎげ芸いて天ん﹂とともに暮らして少しもさびしくなかった。しかしそこは昼の家である。日が向かいの稲いな佐さが嶽だけに隠れて、眼下の町々にちらほら灯あかりがまたたき始め、さらさらという夕ゆうべの肌はだ寒い風が障しょ子うじの穴から忍び込むがいなや、彼にまったく新しい第二の一日と世界とが始まり、彼は落ちつきを失うのだった。天上に二三の星が何かを招くようにきらめき、地上にぽつぽつと明りが光りそめることは、朝赤あか児ごが目をあくのと同じ新鮮な感じで彼をおののかすのであった。かくて夜の世界の不安と、寂せき寥りょうと、戦せん慄りつと、魅力とが魔のごとく彼を襲い、捕えた。魔に捕えられることは恐るべき苦痛であり、また寒い喜びであった。何かが抵抗すべからざる力で若い彼の心臓をわき立たせ、真昼の端正な﹁伎芸天﹂までが妖よう艶えん、婀あ娜だな姿に変じて燃える目で彼を内から外へ誘い駆りたてるのであった。
その家に今これから帰ることは思っただけでも苦痛なことであった。それが苦痛でなくなるまで彼は外で、夜の世界で、疲れ切らなければならなかった。
彼は大おお波は止との海岸の方へ向かって、浜から来る汐しお臭い秋風にふるえながら歩いた。いつもそこを通るごとに癖のように引きずられて立ち寄るシナ店の前をも彼は今気がつかずに通り越していた。
彼は海岸へ出た。蕭条たる十一月の浜べには人影一つなく、黒い上げ汐の上をペラペラとなで来る冷風のみが灯あかりをつけた幾十の苫とま舟ぶねをおもちゃのように翻ほん弄ろうしていた。岸に沿って彎わん曲きょくしている防波堤の石に腰かけて杖つえをたらせばその先の一、二寸はらくに海水にひたる。ひしひしと上げくる秋の汐は廂ひさしのない屋根舟を木の葉のように軽くあおって往来と同じ水準にまでもたげている――彼はそこに腰をかけた。
海に突き出して一つの城郭のように館やかたが右手に見える。点々たる星の空の下にクッキリと四角に浮き出すその家の広間の中は、煌こう々こうとしてどのくらい明るいのかとおもわれる。たしかに白昼より明るいにちがいない。しかもなんという物々しい、無気味な明るさであろう。そこには人の家らしい落ちつきや、幸福はみじんもない。島を囲む黒い漣さざなみがぴたぴたとその礎いしずえを洗うごとくに、夜よりも暗い無数の房ふさ々ぶさがその明るい大広間を取り巻いている。そこからは落らく寞ばくたる歓楽の絃げん歌かが聞こえ、干からびた寂しい笑い声がにぎやかにもれて来る。――それは普通オランダ屋敷と呼ばれている﹁出島の蘭らん館かん﹂である。
裕佐はその異様な家の方に向かって歩き出した。そして歩きながら彼はキョロキョロとあたりを物色した。孫四郎を彼はさがしていたのである。出島へ渡るためには艀はしけに乗らなければならない。艀の渡し守もりは奉行から遣つかわされている侍である。異国人と、遊女と、奉行所の監札を持った者のほかそこへ行くことの許されぬ禁きん錮この島へ孫四郎の行くわけはない。﹁どうせうそにきまっている。あの道楽者が今さららしくこんなところへ絵なぞかきに来るものか。﹂と彼は思った。しかしそう思って振り返った瞬間、彼は大きな、白い、首の長い一つの顔を見たような気がしてギョッとした。彼は身ぶるいし、そしてこわい物見たさのようにもう一度それを見た。それは番小屋の後ろから高く首のように突き出た新しい白木の高札であった。
ばてれんの訴人 銀三百枚
いるまんの訴人 銀二百枚
立ちかえり者の訴人 同断
いるまんの訴人 銀二百枚
立ちかえり者の訴人 同断
同宿並びにかくし置き、他より顕 わるるにおいては――云々
の文句が威脅するように墨黒々とそれに書かれている。それは人間の書いた字でなく、鬼の書いた字のように思われた。﹁ばてれん﹂とは教父、宣教師のことであり、﹁いるまん﹂とは法の兄きょ弟うだいすなわち準宣教師のことであり、﹁立ちかえり者﹂とはいったん宗門を転ころんで再び切キリ支シタ丹ンに帰った者のことである。
﹁だれだ。﹂歩いていた侍は寒そうに腕をこすりながらきいた。
裕佐は返事をしなかった。
﹁何者だ。﹂
﹁鋳物師だ。﹂
﹁鋳物師とはなんだ。﹂
﹁銅を鋳る工匠だ。﹂
﹁銅を鋳る? そして何をつくる。﹂
﹁なんでも、富士山でも、君の首でもつくる。﹂裕佐はちょっとからかいたい気持ちになった。
﹁貴様よく来るな。島へ行きたいのか。﹂
﹁ある女を見たいんだ。だけど行っちゃあげないよ。﹂
そして彼が去ろうとした時、目の前にあって手に取るようにみだらな高声の聞こえて来るオランダ屋敷の二階に女の叫び声が聞こえて、けたたましい足音と同時に大きな菊の鉢はちが窓から落ちた。そして石に砕ける音がした。一時しんとした後、猫を抱いた日本の女の小さい顔と、その上にのしかかった恐ろしく巨おおきな毛むくじゃらの男の顔とが現われ、そして彼らは何かいがみ合いながら笑って、赤いカーテンをおろした。
三
﹁あなた、もしや――これではなくって?﹂ 女はふっくらした人差し指で膝ひざの上に十字を描いた。 ﹁なんだ、それは。﹂男は目を円まるくして女の顔を凝視した。 ﹁これよ。﹂と女はまた書いた。﹁わかってらっしゃるくせに。﹂ ﹁切支丹か?﹂ ﹁しっ! そんな大きな声で……﹂ 女はあわてて制しながら眉まゆを寄せて、あたりの気配をうかがってからまっすぐに彼の目を見て、うなずいた。 ﹁僕が? なぜ。﹂ ﹁ただ、そんな気がしたのよ。そうじゃなくって?﹂ ﹁そうじゃない。あれらからいえば、僕は異端邪宗の徒だ。﹂ ﹁だれでもわるいことをしようとしてる時は神聖なもののことをいったり、考えたりしたくないもんよ。でなくちゃのん気に楽しめませんものね。﹂ ﹁ところが僕はあいにくそんな神聖なものを信じちゃいないよ。﹂ ﹁そうお。なぜ?﹂ 女はまた彼の目をじっとほほえんで視み入いりながら追及した。 ﹁なぜったって僕は切支丹はきらいだからさ。﹂と男は声を低めもせずにいった。﹁やつらはやつらの仲間でない者は人間じゃないと思っていやがる。心の腐った者だと思っていやがる。ふむ、羊の皮をかぶったやつらの謙けん遜そんぶった傲ごう慢まんさくらい胸むなくそのわるいものはないよ。﹂ ﹁それはまったくね。今時の信者ったらほんとうになってないわ。虫がよくって、不信実で、卑ひき怯ょうで、あとでおきまりの痛こん悔ちりさんの祷がらつさを唱えさえすればどんなひどい罪でもキレイにつぐなわれると思い込んでいるのですものね。始めからゆるされることを当てにして、きりしと様のお像でもなんでも踏めといわれれば平気で踏むのですものね。あんなことで救われるもんなら、救われることくらいお安いことはありゃしませんわ。﹂ ﹁そうでない者だってまだいるにはいるが。﹂と男はちょっと横を向いた。﹁とにかくお上というやつがあんまりめちゃないじめ方をしやがるから、みんながいじけて曲がっちゃったんだ。人間が堪こらえる力にも限りがあるからな。﹂ ﹁それはそう。無理はないにはないわ。﹂と女はしめやかにいった。﹁人間はずるく悧りこ巧うにならないでは生きていられないのですものね。誠だの、正直だの、熱情だのなんて、そんなものは今時の人はみんな捨てちまわなくっちゃならないんですものね。――おお、だけど寒いわね。﹂ 女は障子をキチンとしめに褄つまを乱してたった。 ﹁あら、花火﹂と彼女は縁の欄干に手を突いていった。﹁寂しい花火だこと。﹂そしてまた右を向き、﹁今晩は。おばかさん。﹂といって、手を振った。 ﹁こちらへはいれよ。寒い。﹂と男は火鉢を抱いたまま動かずにいった。 ﹁人に顔を見られるのがいやだから? こそこそ泥棒さん。﹂と女は男の方を向いて白い歯を見せた。 ﹁なんだかおぬしのお客はわしの知ってる仁ひとのような気がするがな。へ、へ。﹂とあちらで男の声がした。その声を聞くと客はぞっとしたようにからだをふるわせた。﹁あなたのお連れのような人じゃなくってよ。もう少し取りえのある人らしいわ。見にいらっしゃい。﹂ こういいながら女は障子をピシンとしめてはいって来た。そして男の手を両手で取って﹁おお冷たい。﹂といいながら眉を寄せ、紅あかい下くちびるをむいて見せた。 二ふた人りはしばしじっと顔を見合わせながらすわっていた。 ﹁君こそ、あれだろう。﹂やがて男がいった。 ﹁あたしが? あれ? へえ、これはおもしろい! 何か敵かた討きうちにいおうと思っていうことがないもんだからあんなことを。﹂ ﹁かくしたってわかっているよ。少なくとも以前はそうだったろう。え?﹂ ぶっと女はふき出した。﹁あたしよくそういわれるのよ。あたし異人と会うおかげであの方のことはくわしいから。今日は師しわ走すの、八日だわね。ていうと、さん・じゅわん・えわんぜりした様のご命日だわ。おおもうじき降誕祭が来るわね。それからお正月――あああ。――﹂ ﹁そうだよ。君はあれだ。僕は探偵だから一目でわかる。﹂ ﹁あははははは!﹂女は高笑いをした。 ﹁信者がこんな商売をしていると思って?﹂ ﹁なんだ。じゃ、君は、僕があれであることは金こん輪りん際ざい許されないことだと思うのかい。﹂ ﹁さあ、許されないことはないでしょうよ。あなた善いい人じゃありませんか。﹂ ﹁ところが君にそんな商売をさせているのはだれだ。僕のような﹃善い人﹄じゃないか。﹂ ﹁だって、どんな善い人だって魔がさすってことはあるわ。﹂ ﹁じゃ、君は魔がさしたんだな。もとは熱心なあれだったのが。﹂ ﹁よしてちょうだいよ! あたしそんな女に見えて? はばかりながらあたしこれでも一度そうとなったら死んだって転ころぶような女じゃなくってよ。﹂ ﹁そうかい。ところが僕はまた、不幸な境遇でいやな商売をしいられたためにあれでいられないような宗門なら、そんな宗門をのろってやるよ。﹂ ﹁お志、ありがとう。ところがあたしはまたあたしのような堕落した女がそうやすやすはいることが許されるような宗門ならちっともありがたいとは思わないの。それどころか軽けい蔑べつしてよ。あたしはあたしのようなものに堅く門を閉じて、決してうけ入れないようなきびしい宗門をこそあがめますわ。﹂と女は強くそういった。 ﹁すると、﹃まりや・まつだれな﹄は救われてはならなかったのかね。﹂ ﹁冗談じゃないわ!﹂と女はうつような手つきをしていった。﹁あの人は始めっから救われるような方だったんじゃありませんか。そしてほんとうに心の底から悔恨なすったんじゃないの! だからどんなことをなすったにしろ、救われなすったのよ! あたしなんぞ、始めっから泥沼の中で満足するように生まれていて、悔い改めたことなんぞ爪つめの垢あかほどだってありゃしない。大違いよ! そんな比較をされちゃあたしは腹が立つわ。だからあたし、自分が救われようなんぞとは夢にも望んでいなくってよ。このままで地獄におちて行けばちょうど本望なんですもの。﹂ ﹁そんなら、僕も地獄に行くさ! 喜んで、お前といっしょに!﹂ ﹁へん。いらっしゃい。﹂ 女は素そっ気けない調子で低くこういうと、蒼あおざめた顔に、かすかな小じわをよせて冷ややかに笑った。そして﹁まあごちそうのおそいこと。どうしたんだろう。﹂とひとり言をいって、ポンポンと手を打った。 ﹁お前はおれを信じないのかね。おれの誠を。﹂やや気勢をくじかれた男は燃えるような哀れな目で女を見つめながらいった。そうしてこういう商売の女に向かって一番陳腐な愚劣なことをきいたもんだと気がついて、顔をあかくした。 ﹁さあ。どうだか知らないけど、あなた若いようで齢とし取っているのね。なんだかあなたが興奮しておっしゃることはおじいさんが若者の言葉をつかっているようだわ。どこか不自然な、虚う偽そなところがあるみたいだわ。﹂ ﹁うそ。おれが。ふむ。そう思えるかね。﹂ 男は一度あかくなったあとで苦にが々にがしくこういって、ごろんと仰向けに横になった。そして女の心底を逆に読もうとするようにけわしく女の顔をにらみ見た。 ﹁そう思えてよ。あたしにはもうあなたはわかった。﹂ 先刻の熱し方にひきかえて、どこまでも女は冷然と答えた。﹁あなた、だれかあたしに似たいい人でもあるんじゃなくって?﹂ ﹁え?――﹂男はギックリとして耳みみ根もとまであかくなった。 ﹁ホラ?――あかくなった! あかくなった! あてられたでしょ?﹂ 女は男とともにサッと上気したような顔をあかくして膝ひざをたたいた。そしてとげとげしく笑った。﹁サア、神妙に白状しておしまいなさい。あなたはどうせあたしの眼力をくらませはしないわ。あたしちっともおこりゃしなくってよ。ゆるしてあげるわ。どうせあたし、あなたにほれてるわけじゃないんだから。﹂ ﹁ゆるしてくれ。だが……﹂と男はいった。﹁おれが君に対して不実だといえばそれこそうそだ。君が信じないのはあたりまえだが、君はもうおれにとっちゃアそんな借り着のもんじゃない。決して。﹂ ﹁よくってよ。そんな苦しい弁解をしないでも。あなたまだ坊っちゃんね。﹂と女は笑った。﹁失恋した男の人はよくその恋人に似た似え而せ非女をあさるものだわ。そしてその恋人の幻をその似而非女の形けい骸がいでまやかしていることに自分で気がつかないんだわ。女こそいい面つらの皮だわね。そのくせ厚かましく実じつがあるなんぞと思わせようとするんですもの。自分を不実な男と思うのが自分でいやだもんだから! だけどそれでいいのよ。今式でいいのよ。ねえ、その人はやっぱりあれ?﹂ ﹁うむ。そういう家の娘だ。﹂ ﹁まあ、かわいそうに。それであなたは断わられたのね。なぜそんな偏狭なことをするんでしょうね。あなたのようなかわいい人に、あたしにできることなら、一肌はだぬいであげるんだのに。そんな顔するのはおよしなさいよ。あたしちっともあなたにいや味をいってるんじゃないわ。あたし、あなたがあたしなんぞに実があってくださることを冗談にも望んじゃいなくってよ。ほんとうに! あなたの深い実は何かもっとほかの尊いものにささげられていりゃいいのよ。天国にあるその恋人の神聖な幻にでもね。こんな、漆しっ喰くいの人形のような女のむくろなんぞにささげられべき質たちのものではないわ。あたしちゃんと知っててよ。そしてあなたもご自分でちゃんとそのことを知ってなさるのだわ。だからあなたのやさしい燃えるような言葉にはどこか空うつろな響きがあるのはあたりまえすぎるわ。いくらあなたがそれをご自分では不満足でもね。﹂ そして女はたち上がり、沈んだらしく黙り込んでいる男のわきへ近づくと、長なが煙ぎせ管るの煙をフッとその顔へ吐きかけた。 ﹁あなた、おこった?﹂ 男は飛び上がり、しびれるほどの力で女の手くびをぎゅっとつかんで引き寄せると、その白い濃厚なかおりのする胸にかむごとく接せっ吻ぷんした。と、女の肌に頸くびからつるしてあった細い黒こく檀たんの珠じゅ数ずとその先にぶら下がっている銅貨のようなものがちらりと見えた。 ﹁や、なんだ。これや。メダイか!﹂ ﹁念コン珠タスよ! それでも。﹂ ムキに男に抵抗してしゃにむに鎖を引きちぎられた時、女は投げ出すようにこういって男をにらんだ。それは古い南蛮渡りのコンタスであった。 ﹁お前、こんなものを持っているのか。﹂ と男は夢中でそれを灯あかりの下へ持って行きながらきいた。四
﹁異人さんからもらったのよ。引っさらって来たのよ。﹂と女はいった。﹁一おと昨と日いの晩だったかしら。オランダ屋敷で。あそこにはそれはほしいものがうんとあってよ。あいつらは狒ひ々ひだから、あたしたちがほしいといえば垢あかだらけの襦じゅ袢ばんとだって、なんでも交換してくれるわ。この指輪だってそうよ。﹂女はこういって、琥こは珀くと群ぐん青じょ石うせきの指輪を一つずつはめた両手を餉ちゃ台ぶだいの上に並べて見せた。 ﹁ほう。なんといういい色いろ配あいだ。肌の味だ。﹂男はもう女の言葉も耳にはいらぬらしくこういって、そのコンタスに見とれながらなんべんもそれをなでていた。 ﹁あたしの肌のあぶらがついたからよ。﹂ ﹁そしてこの彫り物もすてきだ。さんた・まるやかな。﹂ ﹁びるぜん様ではないわ。まるや・まつだれな様だわ。﹂と女はいった。﹁あなた、﹃びるぜん﹄て横文字でどう書くか知ってる? 知らないでしょ? ほほ、あたし、教おそわったから知っているわ。﹂ 女は餉ちゃ台ぶだいの上に飲みかけの茶をこぼし、その水を人さし指の先につけてあやしく Virginis と書いた。そして自分で怪しむらしく小くびをかしげかしげ終わりのisを消しては書き、消しては書きした。 ﹁それ見ろ、お前はやっぱりあれにちがいないよ。まさに。どうしても。﹂ ﹁そう。じゃ、勝手にそう思うがいいわ。あたし、そんなら大事にしておこう。あなたにあげるのよして。﹂ 不ふて貞く腐さってこういいながら女はそっと男に近寄り、急にそのコンタスを引ったくった。そしてあわてて袂たもとの中にそれをかくしながら﹁しっ!﹂と目で制してにらみ、何くわぬ顔ですました。 その時、襖ふすまがあき、酒と肴さかなとが運ばれた。 ﹁さあ、お前さんも。﹂と彼女はいった。﹁一つおあがり。口をあいて。口をよ。﹂ そうして彼女は杉すぎ箸ばしを裂き、一切れの寿す司しをつまむと、 ﹁口をおあきってばさ!﹂と男がさし出した手のひらをぴしゃりとうっていった。男はいやしく笑いながらあんぐりと黒い口を開いた。 ﹁ばかな、犬さん。さあ、お帰り。これはおあずけよ。﹂ 彼女は大きな飯の塊かたまりを無理に男の口に押し込み、そのぶざまに頬ほおばった口つきを見てあはあはと高く笑いながら、もう一片の海の苔り巻まきをつまんでその男の手のひらの上へポイと投げた。 ﹁ワンワン、これはどうも、えらいごちそうさま。ヘッヘッ。﹂ いやしくこう笑ってピシリと膝ひざ節ぶしの音を立てながらたち上がった時、そのつるりとした男の顔は無気味なあか味をさしていた。そしてその細い目がこんなに大きく開くのかと驚かれるほど大きく目をむいてギョロリと女をにらむと、再び目を細くして声もなく口をいっぱいに開き、そして去った。 ﹁あれは犬なのよ。ほんとうの犬なのよ。﹂と女はちょっとの間、気配をうかがったあとでいった。﹁お上から回されてこんなところにまで化けてはいりこんでいるのよ。﹂ ﹁あれをかぎ出しにか。﹂ ﹁ええ。だからあたし犬扱いにしてわざとお客の前で足の指をなめさせてやったりするわ。するとあの犬ほんとうになめてよ。﹂ ﹁お前を恨んで、疑っちゃいないのか。﹂ ﹁疑ってるでしょ、むろん。あたしはまたわざと疑うたぐらせてやるのよ。このコンタスだってこちらから見せてやったことがあるわ。あんまりしつこく神かみ棚だなの奥をのぞいたりなんかするから。﹂ ﹁そんな無茶なことをしてつかまったらどうするんだ。﹂ ﹁つかまったってたかが殺されるだけじゃないの。あたし、殺されることなんかこわかないから、あなたみたいに臆おく病びょうじゃないわ。﹂ そして彼女はからかうようにちょっと男の顔を見、にこりと笑って酒を飲んだ。 ﹁そりゃそうと、あなたは彫り物師さんね。じゃなかった、鋳いも物の師しさんね。﹂と彼女はつまんでぶら下げたコンタスをながめながらまた急に元気な調子でいい出した。﹁あなた、これほしい? ほしけりゃあげるわ。その代わりあなた、これをお手本にして一つあたしを彫ってくれない? きれいに。上じょ手うずに。え? そしたらあたしこんなうれしいことないわ。このあたしが聖母様に似ようってわけだから!﹂ ﹁なんのことだ。﹂ ﹁まあわからないの? あなたはあたしを造るつもりで実はあなたの胸の中に生きている恋人の像を造るのよ。そしてそれがあなたの胸の中の恋人に似れば似るほどそれはきっとまるや様のように神こう々ごうしく美しくなるんだわ。そしてそれがまたどこかあたしにも似るのよ! ねえ?﹂ ﹁よろしい!﹂男はうなるようにいった。﹁おれはそれを造るよ。きっと。それを見たらお前はおれがどんな人間か始めて少しわかるだろう!﹂ ﹁ええ、どんな実じつのある人か、それを見たらね。あたしにではなくってよ。だけど、そうしたらあたし、あなたの奥さんになるわ。﹂ そうして女はまた男の目をにらみ、高らかに笑った。 通りを流す哀れなちゃるめらの音の中に秋の夜はふけて行った。五
朝日の照り返しに目がチラチラとしみるような石だたみの道を、裕佐はおのずと滅め入いり込んで行く胸の暗さを抱いて悄しょ然うぜんと自分の家の方へ歩いていた。おれは芸術家だ。坊主でもなければ切支丹でもない。だから自由でいいんだ、という意識と、本能的な苛かし責ゃくの念とが彼の頭の中で格闘していた。しかしそうして滅入りながらも彼はまだ酔っていた。むせ返るような前夜の幻に酔っていた。けわしくにらんでいるその奥で見る者の心をぎゅっと捕え、底知れぬ闇やみの世へ引っさらって行くような奇くしくも甘い目つき。おどかすよりは、むしろそそのかすように八の字を寄せるその狭い額。その淡紅な薄いくちびる。むせ返るようなみずみずしい黒髪のあぶらと、化粧した肌はだのにおい、――その女が、さんざんいやがらせを毒づいたあとで﹁あなた、おこった?﹂といって、上から彼の顔に煙を吐きかけた時の笑えが顔お。その顔が彼の脳裏に刻み込まれて離れなかった。 彼がその女、――名は君きみ香かといった――にあったのは昨夜が二度目であった。最初彼女がオランダ屋敷へおもむく列の中にいたのをちらと通りで見た時、彼は実に撃たれたように驚いたのであった。 ﹁なんという世にもそっくりな似方であろう!﹂そして彼は自分の胸の動どう悸きを自ら聞けるほどに喜んだのであった。﹁おれはあの女を買うことができる。そしてあの女によって恐らく、あの人に触れ得ぬもだえをまやかすことができる。﹂と第一に彼は思った。﹁そして同時におれの一方のかねての野望をも充分満たすことができる。おれはその口実を得た。﹂次に彼はこう思った。と、急に胸が押しつぶされるように苦しくなり出して、頭を振り、またうなだれ、そして自う家ちへ帰るとその夜っぴて不眠に悩みあかすのであった。 しかし夜が明けるやいなや、まっさおな顔をした彼は鼠ねずみ色の沖から吹き来る浜風に身をふるわせながら出島の渡しのわきにたたずみ、一舟一舟、七、八人ずつ組みになって蕭しょ条うじょうと戻り来る遊女の群れを充血した目で見守っているのであった。五番目の舟に君香はそのやつれた小さい顔を茶色のおこそ頭ずき巾んにつつんで乗っていた。そして館やかたの二階の窓に寝間着姿の半身を乗り出して、にやにやとぼんやり彼女らを見送っている二三の外人に向かってつばを吐き、﹁ばか。﹂といって、後ろ向きに腰をかけると、頭痛がするらしくその蒼あおい米かみを押えていた。 裕佐は彼女の跡をつけた。そしてその妓い楼えを見届けると、自う家ちへ帰って午ひるまで寝た。彼が妓ぎろ楼うというものに始めて上がったのはその夕であった。 彼は今も君香の事をおもうと、その幻が、彼の久しい恋人であった信者の娘、モニカの幻とごっちゃになり、一つになり、そしてモニカの幻は前者のそれの後ろにしだいに消えて行くような気がした。いな、後ろに消えて行くというよりは、それより高く、上に、暁の星のごとくうすれて行くごとく思われた。その二つの幻が混同することは彼にはまぎらしようのない苦痛な事実であった。彼が二年の間一すじに焦がれに焦がれ、その焦がれが崇拝になり、ついにそれが絶望と定きまった時、しだいに熱情的な占有の欲望が静かなあきらめの祈りと変わり、宗教的あこがれと変じ、一方天高くはるかに仰ぎ見るごとき額ぬかずいた心でいながら、しかもその人が世にも不幸なはかない者に思われて、慈悲の目で、陰から見守ってやりたくなる。そのひめやかな宗教的記念。その記念ゆえに今までともかくも身のあやまちを免れて来られたのに。その記念に対する美しい欲望の実相は、実にこの遊女によってみたしたところのものであったのかと思わざるを得ないことは彼の心を止めどなく傷つけ、暗くせずにはおかなかった。それにもかかわらず、彼はその遊女のことをおもうと、幸福にみたされずにはいられないのであった。 ﹁なんだかあなたの興奮しておっしゃることは不自然で、虚偽なところがあるみたいだわ。﹂とあいつはいったっけな。そして﹁自分を不実な男だと自分で思うのがいやなもんだから、しいて人に自分を実じつのある者と思わせようとする。厚かましくも。﹂ともいったっけな。彼はほほえみながらひとり語ごった。﹁あいつはからかっているんじゃない。実際ほんとうのことをいったのだ。しかし見ていろ。その不実者が何をするか――おおそうだ!﹂と彼は何かに思い当たったごとく、ステッキを打ち振っていった。﹁おれは、あいつを身うけすることができるのだ。おれは身うけしてやるだろう! きっと! そうしておれは今の世間の小こぎ狐つねどもから遊女にうまうま釣られた、あの間抜けが。と笑われてみたい。それはおれからいっそう緊張した力を引き出すであろう、すてきだ! あいつはおれをきらってはいないな。たしかにうぬぼれではない。﹂ 彼はその時の幸福を想像して、おどり上がるほどの若々しい力を内に感じながら荒々しく自う家ちの格こう子し戸どをあけた。一夜を妓ぎろ楼うに明かした彼は伯お母ばへの手前、そういう場合にすぐそれと気け取どられるような憔しょ悴うすいした後ろ暗いさまを見せまいとして、わざとこちらから伯母を圧倒するような態度に出ようとその瞬間に思ったのである。 ﹁夜やぜ前んこの御おひ仁とがお見えになってな。﹂伯母は不安な調子でいった。﹁お前になんぞご用があるといってじゃった。﹂ そして彼女は大きく切った檀だん紙しに沢さわ野のち忠ゅう庵あんとしたためた名札を渡しながら裕佐の顔色をうかがった。 ﹁沢野忠庵﹂と裕佐はその名札を持って立ったまま、いぶかしげに首をひねった。﹁聞いたことのある名だが、どんな人ですね。﹂ ﹁日本人じゃないのよ。異人さんでな。それもお前、まあ二ふた目めとは見られぬ恐ろしい顔のな。それがまた和服で、しかもお役人らしい羽織袴はかまを着けてじゃ。﹂こういって伯母はため息をついた。 ﹁そうですか。はは。﹂と裕佐はなんだか笑いたくなって笑った。﹁なんとか言ことづけていましたか。﹂ ﹁また来るといってじゃった。――お前。﹂と伯母は声を低めていった。﹁あれは、ばてれんじゃなかろうか。﹂ ﹁さあ。近ごろのばてれんと来たら非人にでも、おんぼうにでも平気で化けるから、あるいはそうかもしれないが。﹂裕佐はもっともらしく頸くびをかしげていった。﹁しかしそれにしても変ですね。僕に用があるなんて。ことによると天てん狗ぐかな。﹂ 天狗とは当時迷信家たちの間に悪魔とか、シナでいう﹁鬼﹂とかいう意味に使われていた。 ﹁そうよ! ほんに!﹂伯母は思わず恐怖のまじめさをもっていった。﹁ああなんといういやなものが舞い込んだもんじゃろうか。あたしはもう恐ろしゅうて。恐ろしゅうて。あの仁がばてれんの化けた者じゃとしても、お上のお役人じゃとしても、どっちにしてもお前の身によいことはない気がするでな。ほんに天狗よ。﹂ ﹁これをごらんなさい。何しろ僕はこんな物を持っているのですからね。﹂ 裕佐はそういいながら、ふところから例の念コン珠タスを出して見せた。 ﹁まあ、お前、それは!﹂ 伯母は、内心恐れきっていたものを面と見せられたように目を円まるくし、たまげたように裕佐の顔とコンタスとを見比べたなり、小じわだらけの耳の根まであかくして、歯のない口をモグモグと動かした。 ﹁は、は、は!﹂と裕佐は大声で笑った。﹁僕は鋳物師ですからね。どんな物だって参考に入り用なのですよ。まあ、見てごらんなさい。おもしろいものでしょう。﹂ 遊女君香をいよいよ身うけする段になった時伯母が必ず、強制的に反対しないまでも、必ず喜ばないであろうことをおもうと、彼は今からちょっとこの伯母にいけずをしたくなるのだった。そして彼は恐ろしい疑ぎ惧くと、絶望の淵ふちに沈んでいる伯母を残したなり、口笛を吹きながら自分の﹁道場﹂へと立ち去った。 ﹁おお桑くわ原ばら。あれは悪魔に見込まれたのじゃ。切支丹じゃ。そしてあたしもそれでつかまってともに殺されるんじゃ。﹂ 彼は伯母があとでこうつぶやいて身も世もあらず滅め入いり込んでいるさまを想像して、心から気の毒に思いながらも、おかしくなってひとり笑っていた。そして例のコンタスに幾度も接せっ吻ぷんしつづけながら、室へやの中を歩き回っていた。六
裕佐はその日の日暮れ近くまで客を待っていた。しかしだれも来なかった。で、彼は先刻から選よりそろえておいた七、八冊のさし絵入りの漢書――それは皆彼の父が丹たん精せいして手に入れたものであった――を風ふろ呂し敷きに包み、また、彼の父が始めて南蛮鋳いも物のの術を習いに幕府からヨーロッパへ派遣させられた時のみやげである小さい浮き彫りの鋳物をふところに入れると包みを抱かかえてふらりと表へ出た。 古書と古道具の一切を売買する銅座町のある店で彼はその漢書を売り、またその浮き彫りを見せた。それは﹁大アル天カン使ジョみける﹂が竜とたたかっている黙示録の中の一図で、むろんキリスト教に関係のある物ではあるが、直接ヤソの生涯を題材にしたものではないので、単なる異国の美術品として、門外漢に見せてもすぐさま疑うたぐられるおそれのある品ではなかった。 ﹁結構なもんですなア。なんですか、これも譲っていただけましょうか。﹂ 狡こう猾かつそうな主人はよだれを流さんばかりの表情を隠し得ずにこういいながら彼の顔色をうかがった。 ﹁いや、それは売るんじゃないんです。﹂ 裕佐は思わずこう答えた。彼はそれを売るつもりで持って来たのであったが、それを主人に見せると同時に急に惜しくなったばかりでなく、なぜかそれは自分にとって売ってはならぬ意味のある物のようににわかに思われてきたのであった。そうしてそう答えたのにホッと安心した一息をもらして、漢書の金を受け取ると、またその鋳物をふところにして愴そう惶こうと店を出た。 ﹁これでおれはまた、二度や三度はあの女にあう事ができるのだ。確実に。﹂ こう思うと彼はもう胸がぞくぞくとおどるように身をふるわせた。そして興奮した足どりで、北風に逆らいながら坂道を上って行った時、 ﹁萩原さん﹂と後ろから思いがけない声がした。 彼は振り返った。そして一ひと人りの青年が小走りに彼を追って来るのを見た。 ﹁藤ふじ田た君?﹂ と裕佐はいった。そしてサッと顔をあからめながらも何か思いがけぬ喜びに出あったように、にこにこして逆戻りにそちらへ近づいて行った。 ﹁しばらく。どうもあなたじゃないかと思った。﹂ と青年は寒気の中を急いだためにその健康な色の頬ほほをなおりんごのように紅あかくし、汗ばんだその額を一ぬぐいして、息を吐きながらいった。 ﹁ほんとうにしばらく。すっかりごぶさたしてしまって。﹂裕佐は少しもじもじしていった。﹁皆さん、お変わりないの。﹂ そうして彼は頬をあかくした。﹁皆さん﹂という言葉がすぐある人をさしての意味にこの青年に取られることをおもいながら、しかもその意味に取ってもらいたいために。﹁え、ありがとう。皆丈夫です。﹂と青年は何か工合わるげに下を向いて答えた。﹁こちらこそごぶさたしています。﹂と口ごもるようにいったあとで、﹁これからどちらへ?﹂ときいた。 ﹁別にどちらへというわけでも――﹂ ﹁そう。じゃ、よかったら少しいっしょに歩きませんか。久しぶりに……﹂ 美しい青年はそのぱっちりした大きな黒いひとみに、弟の兄に対するような親しみをこめて裕佐の顔をのぞいた。彼は一つの包みを持ち、紺か飛す白りの着物に羽織も着ず、足た袋びもはかずに、ヒビの切れた足にほお歯ばの下げ駄たをはいていた。 ﹁え、歩きましょう。﹂と裕佐はいった。﹁どこへ行ったんです?﹂ ﹁何、ちょっと町へ。売り物があって――﹂ ﹁売り物?﹂ ﹁ええ、﹂青年は少しはずかしそうにいった。﹁造花を売りに。﹂ ﹁造花、造り花をですか。﹂ ﹁ええ、ちょっと必要があって。﹂そして彼は包みの中から一つの白ゆりの造花を出して見せた。﹁こんな無ぶざ細い工くなものだからどうせ少ししか売れやしませんが。﹂ ﹁君が造ったんですか。﹂ ﹁いいえ、みんなで造ったんです。僕の母や姉や近所の人たちで。﹂ 裕佐はうつむいて、黙り込んだ。 ﹁このごろでは始終造花を売っておられるんですか。﹂彼は突とっ拍ぴょ子うしもなくこんなことをきいた。 ﹁いいえ。――今日だけです。今夜は――﹂と青年は声を低めて﹁降ナ誕タ祭ラですから。﹂ ﹁降ナ誕タ祭ラ。――今夜がですか。﹂ ﹁ほんとうは今夜ではありません。明後日です。﹂彼はあたりを見ながらいった。﹁――けれどもほんとうの当日には詮せん索さくがきびしいからかりに今夜ひそかな御おい祝わ祭いをするんです――よかったら来てごらんなさいませんか。﹂ 裕佐はあかくなった。偶然にも吉三郎というこの青年も自分もともに町へ売り物に行き、そしてともに若干の金をふところにしている。﹁しかし自分のは女を買わんがための金であり、吉三郎のは聖なる人の誕生を祝し、それを記念せんためのひめやかな集まりを飾ろうとしての金きん子すである。むろんおれには切支丹とならない立派な理由があるのだ。そしておれがあの女を﹃買う﹄というのも、それにはいやでも応でも金銭が必要とされる不快な事情からで、決していわゆる遊ゆう蕩とうではない。なんで恥じるにあたるものか。﹂少しでもまじめな心あるすべての遊蕩者が初めに必ずするごとく彼は心の中にこう弁解した。 しかしそうは思いつつも彼はこの青年と並んで歩きながらなんとなく自分を汚れたものに感じないわけにはゆかなかった。吉三郎は自分より三つしか齢とし下したではない。しかもいつまでも童顔の失われぬ、あふるる日光のうちにのびのびと育つ若木のようなそのまっすぐな善良さ。顔の明るさ、星のごとく澄んでみじんも濁りの見えぬ子供のそれのようなきれいなひとみ。そのみずみずしい健康なからだの全体に現われているふっくらとしたやわらかみ。それらはこの世の意地わるを知らず、皮肉を知らず、淫いん欲よくの妄もう想ぞうに苦しめられる不眠の夜な夜なを知らぬ者のごとき顔である。単純な信仰者にのみ見られる平和の顔である。その人と今並んで歩く自分の顔のいかに不健全に病人のごとく蒼あおざめ、頽たい廃はいして見えることであろう。彼は自分のぞべぞべした絹の着物と青年の粗末な着物の対照からも、ついこう意識せずにはいられなかった。 ﹁こいつは単純なんだ。羊や兎うさぎのように。しかしその単純がなんだ。﹂ 彼はこう思ってのん気に吉三郎を子供扱いしようと思いながらも、どこかに引け目を感じずにはいられないのが自分で不快であった。﹁よかったら来てごらんなさいませんか。﹂と吉三郎にいわれて、﹁いや、僕はある遊女の所に行かなければなりませんから。﹂とはいえるものではない。 ﹁僕がですか?﹂裕佐は口を切った。﹁しかし僕は信者ではありませんからね。﹂ ﹁かまやしません。来てくださればうれしいのです。﹂と青年はいった。﹁もっとも万一のことがあってはご迷惑ですから、無理におすすめもしませんが。﹂ ﹁発覚ですか? そんなことは平気ですが。――あなたのお家で僕が行ってはご迷惑でしょう。﹂こういって裕佐は自分の言葉の刺とげに顔をあかくした。 ﹁そんなことあるもんですか。﹂と青年は苦しそうに打ち消した。﹁それに僕の家でやるんではないです。わきでやるんです。おそく夜中に。﹂ ﹁しかしいずれあなたのお家の方もいらっしゃるんでしょう。﹂ ﹁ええ。父は病気で来られませんが、母と姉とは行きます。あなたがいらっしゃれば姉は喜ぶでしょう。﹂ この一言を聞くと裕佐は耳の根までをサッと赤くした。彼はさわってもらいたくない、そのくせまったくさわられなかったらまた不満である傷口にさわられたのである。それは永ながい涙の忍従と苦い苦い血とによってようよう皮をかぶせたばかりの深い傷いた手でであった。しかも再び皮を引きはがされた傷口からは、皮のできる前よりはさらに治なおしがたいほどの痛みをもってだくだくと血が流れ出さずにはいなかった。彼はほえたい口を封じられたように全身をふるわせた。 ﹁よしましょう。――お気の毒だから。あなたの方にも僕自身にも。﹂ 裕佐は青年の同情ある慰め言ごとにかえって立腹したかのように、顔を火のごとくほてらせて苦にが々にがしくこういった。 吉三郎は苦しそうに口をつぐんだ。 ﹁あなたはご自分を切支丹と認めないだけのために、何かこうご自分のうちの宗教的な性質をまで否認しようとしていらっしゃるんじゃないでしょうか。﹂褐かっ紫しし色ょくの桜のわくら葉ばを下駄の歯でかき寄せながら吉三郎は口を切った。﹁そうしてしいてその方の門をご自分でとざそうとしていらっしゃるんじゃないでしょうか。いったい良心の鋭い、理性的な人に限ってそうなる傾きがあるのはまったくなげかわしいばかばかしいことだと思いますね。﹂青年はつづけた。﹁僕にいわせると、そういう人たちは皆あまりにキリスト教にとらわれているのです。なぜといえば今時ほんとうに良心と理性との目ざめた精神的要求の豊かな人が、自分を無良心だと思わずに、その門にまったく無むと頓んち着ゃくであることは不可能なことだからです。もっとも中には自分が信者になれないのは発覚して殺されることがこわいからだと人から思われたり、自分でも思うことが業腹なので、ただ自分のむなしい勇気を示したいだけのために洗礼をうけたりしたものもありますが、そういうばかばかしい﹃潔さ﹄に負けないだけの強さとひがみを持った人はまた無理に悪魔主義になって、その尊い生命を持ちくずし、やけに棒に振ってしまったりするのです。――あなたが苦しまれたことは私はよく知っていますよ。﹂ ﹁まったくもし芸術がなかったなら僕は破滅したでしょう。﹂裕佐はさえぎった。﹁――しかし今では僕はまるでちがった考えを持っています。僕が異端なのは決して自暴自棄からではありません。ただ天性そう生まれついているからなのです。僕は悪魔主義者でもなければ神主義者でもない。いわば一種の自然主義者です。そしてそのことにすこしも良心の苛かし責ゃくを感じてはいません。実際のところ僕はもう宗教には冷淡です。僕は信仰の素質があろうとなかろうと、それを君がきめることは勝手ですが、僕にはどっちでもいいことなのですよ。﹂ ﹁そうです。結局どっちでもいいという放任した気持ちにまでならなくてはだめです。それは自暴自棄に似ていて、およそ反対なものです。つまり御心のままにならせたまえという一番敬けい虔けんな気持ちと同じわけですからね。﹂ ﹁ふむ。その意味とはちがうのですが。﹂裕佐は冷ややかに苦笑した。﹁しかし君の親切な厚意から出る故意の誤解を僕は拒もうとは思いません。僕の方からいわせれば、君こそ単にキリストのお弟で子しとしてのみ一生をおわることは惜しい気がするのですが。しかし僕は、君が自由思想家になることを君に勧めようとも思いません。それは人間として僭せん越えつなことですからね。だから君も僕をこのままに打っちゃっといてくれたまえ。﹂ 彼はその﹁人間として僭越﹂という言葉に皮肉な力を入れていった。 ﹁そうです。人は要するにめいめいその課せられた道によって神に近づくよりないのですからね。﹂青年はあきらめたようにさびしそうにいった。﹁ただ僕は今日本でキリストの像ビルドを真に生けるがごとく写すことのできる人がいるとしたら、それはあなただけということを知っています。お世辞ではありません。だから僕は安心してあなたを信じていますよ。﹂ ﹁ふむ。恐縮ですね。﹂と裕佐はいった。﹁ともかくそのゆりの花を一つ買わせてもらいたいものですね。いけませんか。﹂ ﹁どうぞ買ってください。――しかしちょっとここで休んで行きましょうか。﹂ ﹁ここでもいいが、あの神社の中はどうですか。あそこにはもう少しキレイな茶店があります。﹂ ﹁神社仏閣は僕らに少し鬼門なのですよ。ただの参拝者のようなふうをしてそれとなく礼拝しない者を探りに来ているお役人がよくいますからね。﹂ ﹁うるさい狂犬たちですね。じゃまあここにしましょう。﹂ そして二ふた人りはある見晴らしの縁台に腰をかけた。七
眼下に一目に見渡される町々の家にはもう明りがついていた。 ﹁きれいですね。なんというたくさんの明りでしょう。あれを一々みんな人がつけているのですね。﹂青年はまじめにこういった。 ﹁天には星が光り、地上には人が明りをつける。僕はここでよく夕方この景けし色きに見とれてしまいます。人が明りをつけるということは実際神秘な感じのものですね。ただ闇くらくなると明りをつけるという以外に、深い意味を持っています。なんだか涙ぐみたいような、かわいいような、ありがたいような感じではありませんか。﹂ ﹁ほんとうに、いかにも地上らしいいい感じですね。﹂裕佐もこういった。 ﹁地上らしい、実際です。だから愛さずにはいられません。祈りたい心にならずにはいられません。同じ明りでもあの星のいやに落ちついた冷ややかな無限の明りとの感じの違いをごらんなさい。なんというはかない、いじらしい感じでしょう。泡あわのように生じてはすぐ消えて行くこのはかない人間というもののいかにもつけそうな明りではありませんか。人間はほんとうにかわいそうなものですね。﹂ そんなことをいわれると裕佐は泣きながら笑いたいような気持ちにもなるのだった。この青年の姉に失恋した彼は幾度ここへ来てぼんやり腰をおろし、深いため息をついては、こみあげて来るその涙を羽織の裏に隠したことか知れなかった。 ﹁僕もここへはよく来たものですよ。﹂ ﹁そうですかね。――僕はここへ来てこの景色を見るといつもなんだか悲ひそ愴うな厳粛な気持ちになって祝福したい心にみたされるんですよ。この町は実に苦しんだのですからね。恐らくこれほど精神的に苦しんだ土地は日本国じゅうほかにはないでしょう。そして今でもなおです。変な言い草のようですが、僕はこの町その物がなんだかかわいそうで仕方がないのです。﹂そういって青年はちょっと黙ったが、﹁あの立山を見ると僕は実際ゴルゴタのカルバル山を見るような敬虔な気持ちになって、心が引きしまらずにはいられません。僕らもいずれはあすこへ引っぱられて行く時が来るのでしょうが。――﹂ 右手に半ば諏す訪わ山にかくれて兀はげ鷹たかの頭のように見えるまっ黒な丘をさしてこうつぶやくと、うつむきながらそこへ寄ってきた野のら良い犬ぬの背をなでていた。 裕佐は言葉もなく黙っていた。そして魔物を見るようにその黒い丘をちらりと見るとからだをふるわせた。 彼は昔その丘に一度は伯お父じに連れられ、一度は母に連れられて、切支丹の虐殺を見に行ったことがあった。 八つの時伯父に抱きあげられて黒山のような人の垣かきの頭越しにその刑場を見た時、十幾本かの十字架を遠巻きにいぶし立てているその薪まきの火がその十字架に燃えうつり、燃えうつった火に肉にくい込むほどくくりつけてある荒あら縄なわがぷつりぷつりと切れて、自分と同じくらいの小さい子がその十字架から落ちて倒れ、煙の中を小走りに走って、隣の十字架に素裸のままで縛りつけられて、くちびるをかみ、目をきっと天に向けているその母親のところに駆け寄って、泣き叫びながらその胸にひしと抱きついた――それをちらりと見た時、彼は泣きも得ずただ足をばたばたもがき、なお終わりまでそれを見つづけようとする伯父の頭髪をめったやたらにむしった。伯父は上気して顔をまっかにし、彼がグッといって一時息がつけなかったほど荒々しく地べたにほうりなげ、そして周囲の人を見ながら﹁うるさいやつじゃ!﹂とどなってとげとげしく笑った。ほうり出された彼はころげながら伯父の足を力いっぱいピシャピシャとうった。そして腹の底からの軽けい蔑べつと憎ぞう悪おとをもって伯父をにらみつけながら﹁帰ろうよ! 帰ろうよ!﹂と火のごとく叫んできかなかった。 ﹁この弱虫めが! だから来るなといったに!﹂伯父はこういってにくにくしげに少年をにらみながらも彼を引きつれて帰った。 少年は生長し、武士道によって教育された。﹁気が弱い﹂﹁意い気く地じなし﹂ということは彼にはこの上ない恥辱に思われて来た。彼はまた熱心な忠君愛国主義者になった。そして日本の国土をねらう夷いて狄きの悪魔につかれた者、国賊が虐殺されることは当然な正しい制裁だと考えるようになった。彼は十字架を作ってはそれをぶちこわす遊戯に快感を感じ、切支丹と指をさされる者には石をぶっつけた。そして、彼が十六の秋、ちょうど父が外国へ行って留守であったので、無理にいやがる母の手を引いてまた虐殺を見に行った。 その時の虐殺ぶりは、彼らがそこへの途中脳貧血を起こして頭をかかえながら戻り来る何人かに行きあったほどまたいっそう残虐をきわめたものであった。しかしそれはなお彼の病的な好奇心を戦せん慄りつさせ、刺激した。﹁今きょ日うこそは見てやるぞ。参ってはやるまい。﹂彼は心の中で幾度もこう自分を励ました。 もうもうと煙が立ちのぼっている刑場に近づくと、火葬場の煙のごとき異臭が風に送られて来る。掃き清められた広い刑場の奥手には白衣を着た女たちがずらりと髪の毛を木の釘くぎにくくりつけられたままだらんとぶらさげられている。彼らはからだの重みのはなはだしい苦痛のために閉じた目がつるし上がり、顔は蒼あおい土色をし、そしてその引きつった髪の毛ねも根とからは血がしたたっている。中には自分の重みの上になおその子供を帯にくくりつけ、たれ下げられている。そしてそれを遠巻きに焚たき木ぎの煙がじりじりといぶしている。 彼らと向き合いにその夫と、父と、兄弟と、外人のばてれんたちとが並んですわらせられている。ある者は竹の鋸のこぎりで少しずつ徐々とそのさし延べた背くびをひかれている。ばてれんの前にはまた釜かまが置かれ、ぐらぐら煮つめられているその硫いお黄うの毒気は、すべてその男の口に当たるように鼻はふさがれている。男はむせることも、咳せきすることもできず、苦くも悶んしたまま顔は見る見るまっ黄色になり、どす黒い土色になり、そしてカサカサになった皮膚がはげ落ちて行くように見える。 すべてそれらは拷問である。刑者にとって殺さつ戮りくは欲するところではない。被刑者がもしその苦痛に堪たえず宗門を﹁転ころぶ﹂と一言いうならば彼らはすぐその場に刑をとかれるのである。しかし、信徒の強情が不退転であればあるだけ拷問の残虐は工夫を進めたのである。しかもいかなる死苦の中にも彼らは﹁舌をかみ切って自ら死ぬるような創造者に対する罪﹂は許されていないのである。 ﹁ゼズス・マリヤ! ゼズス・マリヤ!﹂ ﹁キリエ・レンゾ! キリエ・レンゾ!﹂ ﹁アベ・マリア・アーメン・デウス!﹂ 女たちは無理にむき開いた目で天を仰ぎながら唱えた。 ﹁パライゾは確かだ。光栄な一いっ時ときを忍べ!﹂ ﹁身を殺して霊を殺すことのできぬ者をおそれるな。アーメン!﹂ 信者たちはあるいは自らを、あるいは他を励ましてこう叫んだ。そして拷問の中に一人一人その地上の生命を﹁神の御手に還かえして﹂行った。 裕佐は、しかしその鋸のこぎりびきを見たわけではなかった。役人がその大きな竹の鋸を持って現われた時、彼はもうすでにひどい脳貧血を起こしていた。彼はそれでも幾度か空を見たり、霜枯れの草を見たり、またそっぽの丘の樹木や家に目を向けて心をまぎらし、気を確かに持とうと努めた。﹁国賊だ。いい気味なんだ。﹂彼はまたしいてこうつぶやいても見た。そして事実みずみずしい女の肉体に対する残酷な苛さいなみ方は彼の性欲に異様な苦しい挑発を促していたのであった。彼はそのことに驚きはじながらも一方その残忍な肉感――それは決して快感ではない――を自ら誇張し、煽せん動どうしようと努力していた。しかしある女の腰ひもにその肥ふとった乳ちの呑み児ごがあばれながらくくりつけられるのを見た時、彼はついにわれを忘れて叫び、そして後ろにいる男に倒れかかったことを自ら知らなかった。――そして彼は家へ帰っても寝かされていた。 その時以来彼は陰いん鬱うつな﹁黙りん坊﹂と呼ばれる青年になった。 彼は人間の精神というものの力を眼まのあたり見た。人間の思想、信仰、救われようとする願望、それのいかにおそるべく強く、動かしがたいものであるかを見た。人が肉体によって生きているのでなく、実に魂によって生きているものであること、精神は生死よりも強いものであることを現実に見た。肉体としては到底堪たえられようはずのないことを、人は精神のゆえに敢然と堪えるのみでなく、かえってそれを望み、喜んでうけるのである。﹁精神一到何事か成らざらん﹂ということを彼は小さい時から聞かされもし、信じてもいた。しかしそれがかくまで実際におそるべきものであるとは彼は決して想像もできなかったのであった。――彼はほんとうにそれまで知らずにいたある世界の前に驚き、打ちのめされたのであった。――そしてそのことは彼に勇気と深い悲しみとを与えた。 かくまで人をおそるべく強きものにする力ある宗門には何か自分のまったく知らないある非常な物があるにちがいないと彼は疑い出した。人々が﹁国賊﹂と呼ぶ﹁彼ら﹂が事実それにちがいないとしても、それだからといって憎み排斥しきることのできぬ何かしら尊い威力を彼らの中に彼は感じないわけには行かなくなった。いったいそのような不純な野心からあれほどの決心と威力とが出いでうるものであろうか? どちらが正しいのか? それはともかくとしても彼はなんだかその﹁彼ら﹂に好意と一種の尊敬を感じないではいられなくなった。そして自分がいかにも空虚なつまらぬ者に思われて来た。 しかし一方彼はまたそこに他の疑念をも抱いだかざるを得なかった。なぜあれほどまでの残虐を忍んでも宗門を転ころんではならないのか。人間の魂が救われるということのためにはそれほどの肉体の犠牲がどうしても必要なのであろうか。天地はもっと悠ゆう々ゆうとしたものである。その天地の中に人間が生かされているところにはもっと自由と、ゆるしとがあっていいわけである気がする。そうでないとすれば人間にその犠牲にすべき肉体をわざわざ与えた者はあまりに無慈悲である。﹁一方が不正なためだ。キリスト教が残酷なのではない。﹂と彼は考えた。しかしそう考えてもなんだかキリストは厳酷にすぎる人のように思われた。その宗門はあまりに窮屈な、苛かこ酷くなものに思われた。この世にはもっとこの世に調和した自由な宗教があっていいわけではないのか――。そんな気がした。 彼は生長し、キリスト教に対する自分の誤解をさとり、そして良心が苦しんでいた時、この青年の姉に恋をした。 ﹁あなたは天主様とその子のきりしと様をお信じなさるか。﹂ と恋人の父はきいた。 ﹁信じません。――まだ。﹂ ﹁それでは……﹂と父は宣言した。﹁不信徒の方との婚約は許されていませんから。﹂ そして彼は失恋した。 彼は失恋し、そして芸術を得た。﹁以テ二技芸天ヲ一為ス二我ガ妻ト一﹂彼は自分の室の襖ふすまにこう太く書いた。八
﹁ここにも高札がたっていますね。あれを見て平気ですか。﹂ 裕佐はこの切支丹とのひそひそ話をだれかに見られて疑われはしないかと、つい何度もあたりを見回しては心にはじるのであった。それゆえ彼は石段の上り口に突っ立てられている禁制の高札を指さしてわざとこうきいた。 ﹁平気ですよ。もう慣れていますから。﹂ と青年はほほえんで答えた。そして彼の意を察したものか、﹁しかしおそくなりましたね。僕はもう帰らなくってはなりませんが。﹂ こういって彼はつと立ち上がると改めて注意深く周囲を見回した。 ﹁実は先刻あなたをお招きしてみたのは、今夜は少し特別なわけがあるからなんです。あなたにも一度見せたい人がいるのです。﹂ ﹁僕に見せたい人ですって。﹂ ﹁ええ。ある長老です。八年ぶりで天あま草くさから脱走して来られたんです。それは立派な人ですよ。﹂ ﹁もしかしたら行くかもしれませんが。――いつ、どこでですか。﹂ 青年は彼の耳にあることをささやき、そして去った。 ﹁だれが行くものか。﹂裕佐はその後ろ姿を見送りながら暗い心につぶやいた。彼は青年の自分に対する熱い厚意と同情に感じないではいられなかった。吉三郎はたしかに彼の失恋に同情して、彼が自暴自棄に陥ることをおそれ、しいて彼に希望を持たせようとして、彼としては珍しくいろいろな﹁慰め言ごと﹂をいったのであることも裕佐にはわかっていた。しかし裕佐が何よりも彼から聞くことを求めているただ一つのこと、﹁私の姉はあなたを愛しています。そしてあなた方の結婚を私はきっとまとめるでしょう。﹂そのことを青年はいわなかったのである。その一言が聞けない以上、青年の千百の慰め言ごとや、勇気づけの感想は、彼にとってただに煩わずらわしいむだ口であるにとどまらず、さらに彼の忘れかけている傷口を新しくかき破るだけのことである。 ﹁善良なる簡単坊主。長老がおれにとってなんだ。﹂ 彼はその愛する青年のことをこういって、ゆりの花をたたき捨てようとして捨て得ず、手のひらに握りつぶし、そして歩きだした。 ﹁忘れよう! が、あすこへ行きゃいいんだ。﹂ 彼は頭を打ち振りながらこうつぶやいて石段の降り口の方に向かった時、後ろから青年と行き違いに来る男の声を聞いた。 ﹁なんでもな、男には皆﹃ノ﹄の字が付くんじゃ。ジワンノ。カラノ。ミギリノ。などというふうにな。女子じゃったらジワンナ。カラナ。イザベリナ。というように﹃ナ﹄が付くんじゃ。﹂ それは聞いたことのある声だった。裕佐ははっとして、思わず立ち止まった。その瞬間その男は裕佐に追いつきながら、 ﹁おや、萩原じゃないか。﹂と声をかけた。 ﹁そうだ。萩原だ。君は……﹂ ﹁わしじゃ。わからんかね。富とみ井いじゃよ。﹂ ﹁わかってるくせに、とぼけるな﹂というように男はいった。そして頭ずき巾んを取った。 ﹁わしは今な、おぬしの家へ行ったのじゃよ。おぬしは近ごろ毎日のように家を明かすといって伯母さんはこぼしてじゃったぜ。﹂孫四郎は歯の抜けた口を開いて声もなく笑いながらいった。﹁ご心配なさるな。あの仁は堅いでと、わしはいって来たじゃ。はっは。﹂ ﹁だが変なところであったな。どこへ。今ごろ。﹂ 孫四郎はまたこういいながら、裕佐の身なりをわざとらしくじろじろとみつめて付け足した。﹁どうしたね。えろう伊だ達てななりをしてござるじゃないか。わしのところへ見える時とは別人のなりじゃ。﹂ そして彼はまた意味ありげに前の方を頤あごでしゃくって見せた。その小こう路じを行けば丸山へ出るということを諷ふうするように。 ﹁丸山へ行くのさ。﹂と裕佐はいった。﹁僕が丸山へ行くということが君はそんなに興味があるのかね。﹂ ﹁そうさね、清廉高潔な君子然たる仁がびくびくものでこっそり悪所通いをやっているところを見つけちまうなぞは、とかく人のおもしろがるこっちゃてな。へ、へ、さもしいもんで。﹂ 裕佐は一言もいわず、すぐその場でこの男と別れようかと思った。孫四郎が自分を偽善者と思い、うそつきと思っていることは彼にはわかりすぎていた。しかし孫四郎の前で、まただれの前でも﹁おれは遊ばない。女にふれたことはない﹂とは彼は一度もいったことはないのである。﹁おれは遊ばない﹂ときれいに口をぬぐって陰でこっそり遊ぶのは偽善であろう。しかし、恥を知らぬ自堕落な連中が、どこまでもただ道楽を道楽として臆おく面めんもなく下等にばか話を吹ふい聴ちょうし合っている時、一ひと人り沈黙を守るのは偽ぎま瞞んでもなければ衒ぶることでもない。懺ざん悔げや告白はひそかに自分の神の前においてのみ神妙になすべきことであって、人前で、ことに孫四郎ごとき者の前で軽々しく喋ちょ々うちょうすべき事柄ではない。少なくとも打ち明けるべき場合に打ちあけるべき相手になら自分は決して陰かげ日ひな向たを好む男ではない。――と裕佐は思っていた。その心持ちがみじんもわからずに﹁こんな何食わぬ顔をしていて……﹂と簡単にこそこそ者ときめている孫四郎の心事が彼にはこの上もなく不愉快だったのである。﹁そりゃそうと、わしは今ちょっとそのことでおぬしを訪たずねたのだがな。﹂と孫四郎は急にわざとらしく調子を改めていい出した。﹁おぬしのところに先夜沢野という仁が行きゃせなんだか。﹂ ﹁沢野。ああ、来たそうだけれど、おれはあわなんだ。﹂ ﹁そうか。おぬしあの仁知らんかな、もとキリシトファ・フェレラといっていた天国の門番さんじゃが。﹂ ﹁そうして今では地獄の番犬になり下がった男じゃないか。﹂ ﹁はは。まあそんなところかもしれぬ。あの踏み絵を発明したのはあの男じゃからな。﹂ ﹁あの発明も最初はえらいきき目のあったもんじゃが。﹂と連れの男がいった。﹁もうこのごろじゃ信者たちは皆こすうなりおったで。なかなかあんなことくらいじゃ手におえんて。﹂ ﹁いや、それでもな、まんざら役に立たぬでもないさ。何せ、今までんのは紙じゃからな。おおぜいが踏んで踏んづけて、汚きたないボロボロになっちまうと、もうゼズスもマルヤもあったもんじゃないわ。何が画かいてあるか、てんでわかりゃせんのだから。それを踏んだかてそうひどく気がとがめもせんのじゃ。ただの反ほご古が紙みを踏むと思えばな。﹂ ﹁ほんとうにえらい発明だ。﹂裕佐はいった。﹁そしてそのえらい発明家を僕に紹介してくれたのは君なんだね。﹂ ﹁まあ紹介というわけでもないが、何せそういうわけで、今までの紙の踏み絵じゃ一向役に立たぬで、何か彫り物で、いつまでもそのありがたいお像がはっきり残るような物を作る工人はなかろうかとあの男がわしのところへたずねに来たもんじゃ。﹂ ﹁それで僕に思い当たってくれたわけか。﹂ ﹁そうじゃ。わしの知っている彫り物師はほかにもあるが、そこが親友の間がらじゃ。へへ。おぬしの専門は南蛮鋳物じゃが、金物なら木彫りよりはなお磨まめ滅つするうれいもなしな。わしがそういって話すとあの唐とう人じん先生、日本にそういう鋳物師があるとは知らなんだ、鋳物でできるならもとよりそれに越したことはないという大喜びさ。どうじゃ。一つやって見んかね。もうけもんじゃぜ。﹂ ﹁ふむ。そしてそれを君や世間の有うぞ象う無象に踏んづけさせてくれようというんだね。――ありがとう。まあ、ご免こうむろうよ。﹂ 裕佐はそういって、挨あい拶さつもせずふいに横道へ曲がった。 しかし一ひと人りになるがいなや、どうしてこんな乱暴な別れ方をしたのかと彼は悔やむのであった。なぜか彼は、つねづね厚意を持っていた孫四郎の細君の姿をふと考えた。そして彼ら夫婦の仲と、寂しい愛とを思った時急に哀れな気がして来た。もし自分の憤りが単にひねくれた邪推にすぎなかったとしたらほんとうに気の毒なことをした、あまりに大おと人な気げなかったと思った。しかし彼はなお憤りをしずめることはできなかった。﹁そんなことはない。あいつはそのくらいのいたずらをしたがるやつだ。もうあいつとはいよいよ絶交だ。﹂彼はしいて自分にこういいながら蒼あおい顔をして妓ぎろ楼うののれんをくぐった。九
女はすぐ出ては来なかった。物悲しいほどの寂しさに滅め入いっていた裕佐は、しかしその女の室へやにはいって、見慣れたいろいろのものを見ると、しだいに心持ちが甘く明るく変わって行くのであった。彼はごろんと肱ひじ枕まくらをつき、何げなく欄間の額を見ていた。だれが書いたものか南画風な淡彩で、白髪なシナ人とあから顔の遊女とが﹁枕引き﹂をして遊んでいる図である。絵は飄ひょ逸ういつをねらってやや俗になっているが、下へ手たではない。それに﹁木まくらの角かどは丸山たおやめに心ひかるるみつうちの髪﹂という狂歌の讃さんがしてある。 ﹁のん気なやつだな。﹂彼は思った。しかし今の彼にはそれが少しもいやではなく、かえってそんなものを見ていることでくさくさした気持ちがのんびりと柔らげられて行くことが快かった。 しかしそのとたん、突然襖ふすまがあき、いつにもまして絢けん爛らんな装いをした君きみ香かがはいって来るがいなや、 ﹁あなたおしらべよ。﹂ と低く鋭くいった。 裕佐はちょっとぎくりとした。先刻変に大胆な心持ちで孫四郎の連れの前でいろいろなことを口走った事をおもい出したのであった。しかし彼は横になったまま自分の前に生き人形のごとく突っ立っている女をながめながらいった。﹁なんだ。冗談だろう。﹂ ﹁うそだと思うならこれをごらんなさいよ!﹂と女は真剣にいった。﹁あなたを探た訪ずねて来たのよ。﹂そして彼女は奉ぶぎ行ょう所しょの役人だけが持っている大きな名札を見せた。 ﹁はは。驚かしやがるな、犬め。﹂それを見ると裕佐は笑った。﹁だがどうしてやつ、おれがここにいることをかぎつけやがったのかな。﹂ ﹁それが犬だからよ。﹂と女はやや安心したらしくいった。﹁あなたこの犬を知ってるの?﹂ ﹁いや、まだあったことはない。﹂ ﹁あなた、大変な者と関係ができちゃったのね。これはあなた、あの仲間からユダといわれている転ころびばてれんだわ。――それともあたしをしらべに来たのかしら。﹂ ﹁そうかもしれぬ。とにかくあってやるからここへ通せよ。﹂ ﹁あたしのことだったら平気よ。ああきっとそうよ。自う楼ちの犬が犬同士密告したんだわ。ほっほ。おもしろい! あたし、からかってやろう。﹂そして女は裾すそをけってたって行った。 再び襖があき、二人の男がはいって来た。一人は七尺の鴨かも居いを頭を下げてくぐるほどの大男の異国人であり、一人はずんぐりとしたその供の下役であった。大男は不器用に和服の羽織袴はかまをはき、あたりを圧するほどの悠ゆう揚ようさでギゴチなくそこにすわると軽く頭を下げた。 ﹁ご遊興のお邪魔をしてすみません。﹂と下役は礼をしながらいかつい調子でいった。﹁この沢野さんは日本語にはもうカナリ堪たん能のうなんですが、しかし万一の不便があってはというんで、私がいくぶん通訳の意味でお伴に上がったわけです。﹂ ﹁先夜は宅へおいでくだすったそうで失礼しました。﹂裕佐は赤面しながらも落ちついていった。彼は自分がこういう場所へ来ている時、それをねらってわざわざ冷やかしのように訪たずねて来るこの役人の心に不愉快を感じていた。しかしそういう反抗的な気持ちでこの男にあうがいなや、彼の気持ちはぐらりと変わって、落ちついている以上にこの異国人に対してなんとなく一種の不ふび愍んさを直覚的に感じたのであった。 実際この巨大な異国人の感じは一種異様な驚くべきものであった。室にはいって来るところを一目見た時、彼は癩らい病びょ人うにんにあったごとくハッとして、思わず顔をそむけたほど無気味であった。頬ほほのこけた蒼そう白はくの顔の上部、両の鬢びんと額とは大おお火やけ傷どのあとのごとくあか黒く光って、ひっつれている。そして眉みけ間んと、左右の米かみのところに焼け火ひば箸しで突いたほどの孔あなのあとが残っているのである。それが何を語るものか裕佐にはたちまちさとられるのであった。 切支丹の拷問に﹁囚徒﹂を逆さか吊づりにして、その頭の鬱うっ血けつと、胸を臓ぞう腑ふが圧迫することのために、口からはもとより、ついには目と鼻とからまで出血して、たいてい七、八時間の﹁早さ﹂で往生するのを防ぐために、眉間と米かみとに小さい穴をほがし、そこから鬱血をしたたらすことによって死を長びかす仕方のあることを彼は聞いていた。このばてれんのフェレラはかつてその拷問には堪えたのである。しかしさらにいっそう残酷な拷問、――温うん泉ぜん嶽がたけの沸騰する熱湯の中に逆吊りに浸された時、彼はついに夢中で転宗を叫んだのであった。転宗を一度叫んだ以上彼はもう﹁天国とは縁が切れた﹂のである。しかもなおそのきびしい監視と、堪えがたい迫害とはつづくのである。かくて彼は思い切って自己に対する自や棄けな反逆から、奉行に身を売り、切支丹さがしの犬となり、踏み絵の法を案出して、奉行の歓心を得ようとした。﹁どうせ天国に叛そむいたうえは地獄の鬼となれ。﹂彼はそういう捨て鉢ばちな気持ちになったのであった。 ﹁富井さんからもうお聞きになったかもしれませんが……﹂ フェレラはその硫いお黄うの灰のような色をした頤あごひげを逆になで上げながら横を向いてこうボツボツいった。﹁あなたに一つお頼みしたいことがありまして。﹂ 人の顔をジロジロとぬすみ見はするが、決してまともには見ず、人に顔を見られることを臆したようなふうで口ごもるごとく丁寧な言葉をつかうこの男のさまを見ると、たとえそれがこの男の﹁手﹂かと疑っても裕佐は苦しいほど気の毒になるのだった。 ﹁ええ、わかっています。聞きました。﹂裕佐は急いでいった。﹁踏み絵のことでしょう。﹂ ﹁そうです。そのことです。﹂フェレラは始めてほほえみを見せていった。﹁お願いできますでしょうか。﹂ その時君香が自分で茶を持ってそこへはいって来た。そして二人を見て、﹁いらっしゃい。今晩は。﹂と、にっこりほほえみながらいって茶を注ついだ。 ﹁実は少し急がれていますんで……﹂と下役が口を切った。﹁というのは、ご存じのとおり、踏み絵のしらべは毎年正月の末に行なわれることに定きまっているんで、なるべくならば来年のそれに間に合わせたいと思うんです。それであなたがもし幸いにそれを承諾してくださるとすると、一刻も早くお願いしておく方がいいと考えたんで、実はこんなお席へまでお邪魔をしたくはなかったんですが――﹂ ﹁へえ。そう?﹂君香は茶化したような調子で横からいい出した。﹁だけど、どうしてこの人があたしのお客だってことがあなた方におわかりになったんですの? この人はまだそりゃこそこそ坊っちゃんであたしのところへなんぞ忍んで来ることを、どんな親友にだって打ちあけられる人じゃないんですのにね。﹂ ﹁私たちは今そこで偶然富井さんに行きあったのです。そしてずいぶんそこらの楼うちを訪たずねたのです。﹂とフェレラはいった。 ﹁富井さん? ああ、あのいやなやつ。﹂と女はいった。そしてフェレラの顔をじっと見入りながらつづけた。﹁異人さん。あなた、いいお声ね。説教でもなすったらさぞよく通るでしょうね。だけど――あなた、ずいぶん苦労なすったでしょ? 一通りならない苦労をなすったでしょ? 今でもまだあなたのお顔にはちゃんとそう書いてあるわ。いいえあたし、苦労人が好きなんです。のん気人はきらいよ。﹂ ﹁ふむ。そう見えるはずです。この顔ですから。﹂とフェレラは冷やかされたと取ったらしく苦笑した。 ﹁私こわいでしょう。﹂ ﹁ええ、子供は泣くでしょうね。ほほ、だけどおよそこわいのとは反対よ。あなた、昔はさぞ立派だったでしょうね。ほんとにどんなに立派だったでしょう。今だってあなたがそこにすわっていらっしゃると、なんだかほかの人たちが貧弱で、見すぼらしくって気の毒なようですわ。だけど、﹂と君香は小くびをかしげた。﹁あなたのお顔には何か肝心なもの――なんといったらいいかしら――まあ命の水気――光といったようなものがすっかり失うせてしまったわね。その立派なお鼻から両方の口もとへかけての深いしわなんぞは昔はなかったもんにちがいないわ。きっとあとでできたものだわ。そうでしょう? あたしこれでも人の心を見抜くことは名人なのよ。だけどただ一人、どうしても気心の知れない人があるの。それはこの人!﹂彼女はこういって裕佐を指さした。 ﹁ふむ。﹂裕佐は赤面し苦にが々にがしくこういって横を向いた。 ﹁ふむ、ですってさ。困って。あの口端をちょっと引っ吊つったところを見てくださいよ。﹃ふむ﹄くらいで人をごまかそうたってごまかされるようなあたしじゃないわ。あたしこういうずるい人はきらい。﹂ そうして彼女はその眉まゆを上げ、下目をつかうようにして頤あごを出した。 ﹁沢野さん、これから時々あたしのところに来てくださらない? おいや? もうあなた、自由なんでしょ? こんな街まちをうろついていて、富井さんにあうくらいなんだから。あたしあなたのさびしい気の引けたようなところを見ると、なんだかお気の毒で涙ぐみそうになってよ。あなたまたからだがばかに巨おおきいからなおその寂しさが目につくんですわ。ちょうど不幸な人の住んでいる家が大きくて立派であればあるほど哀れな感じが深いようなもんだわ。あなたがいくら威張ってすごい目つきをして歩いたってだめよ。後ろから見るとまるで死刑囚のようよ。どうしてでしょう。あなたは今までなめて来た苦しみだけでも尊敬されていい資格があるのにね。だけど、そうね。あたしが占うところによると――﹂彼女は顔を横にねせて下から見るようにしていった。﹁あなたはきっと終わりのよくない方だわね。ともかく病気じゃ死なない方だわね。﹂ ﹁殺されますか。﹂異国人はのん気らしく苦笑した。 ﹁殺されやしないわ。もう殺されるはずないじゃありませんか。けど、自分でね――﹂彼女はだらんと下がるまねをした。 ﹁そう思いますか。﹂ フェレラはその蒼白な頬に異様なあか味をさし、濁った目に無気味な光をたたえて女を見た。 ﹁おお美しい顔!﹂と女は思わずいった。﹁あらもう消えちまった。暗い空の中にひらめく稲いな妻ずまのようだったわ。﹂そして彼女は立ち上がりながらやや乱れている褄つまをそろえた。﹁あたし、今のあなたの顔にほれちまったわ。ほんとに。夢の中で見たことのある悪ルシ魔ヘルの顔にどこか似ているわ。それよりも弱々しかったけれど。あなたほんとうに来てちょうだいね。あたし全身の愛で夢中にかわいそうがることのできる人に飢えているんですの。あたし自分が愛されようなんて気はもうまるでみじんもなくなってよ。だけどあたし心からかわいそうだという気にならなくっちゃほんとうに愛することはできないんですもの。だからこういう――﹂と裕佐を指さしながら﹁おとなしそうでいて心しん底そこの骨の強い人にはあたし決してほれることはできないの。この人はこんな人のよさそうな顔していて、心しんはそれは氷のようにきついんですからね。ほほ、どうもおやかましゅう。﹂ そして女は去った。 ﹁どうでしょう。今の話は。﹂ 間の抜けたような沈黙を破って、下役は目で笑いながらこういった。 ﹁せっかくですが――たぶんお断わりすることになるでしょう。﹂ むっつりしていた裕佐は下役の冷やかすような顔をぽかんと見ていたあとで、思い出したようにこういった。 ﹁どうしてですか。﹂ ﹁第一に材料が今の僕の気持ちにまるで向かないからです。それに自分の作物を人の下げ駄たにする気にもなれませんからね。﹂ ﹁下駄。はは、しかし鋳物でしたら、同じ物がいくつも作れるんじゃないですか。だからその中のいくつかは踏み絵につかわれても他の別のを残しておけるでしょう。﹂ ﹁しかしいくつ作ったところでどれも自分の子であることに変わりはありませんよ。それにまたたとえ作りたい気があったにしたところで、僕にはろくなものを造れる自信もないのですよ。﹂ ﹁何も作品としてそう非常な傑作でなくともいいのです。ただほんとうの信者がいくら自分をごまかそうと思ってもつい気がとがめてそれを踏みにくくなるだけの一種の神聖さ、――信者にとっての犯しがたい威厳といったようなものがそこに現われてさえいればよいので、その程度に作っていただければお礼は奉行から相当に差し上げられることになっているのです。﹂ ﹁私たちは。﹂とフェレラがいった。﹁むやみに人を疑ってばかりいる役人のように思われていますが、そしてまた信者たちからはそう思われるのが当然ですが、あなた方にまでそんな疑いのなぞをかける者では決してないのです。その点は安心してください。﹂ ﹁考えてはみましょう。しかし作る気がしないものはなんとも仕方がありませんからね。﹂ 役人たちは十中の九まであきらめることになって帰って行った。一〇
裕佐がその夜妓ぎろ楼うを出たのは子ねの刻に近かった。頭はズキズキと痛んでほてり、からだは疲れていた。雪もよいの闇やみ空ぞらから吹く新鮮な冷風が心ここ地ちよく鬢びんや顔に当たっても枯れ果てた心の重苦しさはなおらなかった。自分は一生結局これというなんの仕事もせず、いたずらに生の悪夢にひたって平凡に死んで行く運命の者ではなかろうか。しかしそのことは案外このごろの彼には簡単にあきらめられることのような気もしていたのだった。仕事が結局なんだ。事業本位であくせくとあぶら汗を流して生き、かつ死ぬことが、与えられた束つかの間まの生のうちに次から次と美しき幻を追い、刹せつ那な刹那を充実して酔いながら死ぬる享楽本位の生活よりも、果たしてどれだけ人生本来の意義にかなったことか、それからして第一疑問である。事業、それも畢ひっ竟きょうある享楽を目的とするものにすぎぬとすれば、直接その結局の目的のために生きることが、現世において軽けい蔑べつされ、手段たる事業のために生きることが尊敬されようと、それが死という絶対者の前にどれだけの根本的差別をなすものであろう。畢竟ただ﹁自分の気のまぎらし方の区別﹂に過ぎなくはないか? そんな気が近ごろの彼にはしばしばまじめに起きるのであった。が、自分にとって享楽が享楽となっていたのは君香が自分を愛していると思っていたからのことで、その実彼女の厚意は畢竟遊び女めのお愛あい想そにすぎず、それを金さえあればきっと身うけができるものとのん気にきめていた自分はやはりおめでたい坊っちゃんに過ぎないのかもしれない、とふと考えると、また気が暗くなった。 君香が始めわるくいっていたフェレラを一目見るがいなや急に態度が変わり、哀あい憐れんの情を起こしたらしいその心理は彼には合点も行き、気持ちよくも思えたのであった。しかも君香が冗談のように皮肉のようにしゃべった言葉の中には、とてもただ笑っては聞き流せない実感らしいものが多くあったことを彼は疑えなかった。彼女のいったことはどこまでが真実でどこまでが嘲ちょ弄うろうなのか、彼には見当がつかなかった。フェレラは彼女の昔の情人にでも似ていて、それを﹁夢に見たことのある悪ルシ魔ヘル﹂なぞとごまかしたのではなかろうか。それは自分の好きなものをわざとそしり、内心きらいなものをことさらにほめる遊び女らしい一つの技巧に過ぎなかったであろうか。 ﹁疑ってもいないくせに疑ったような顔して実じつのあるところを見せようったってその手はくわなくってよ。﹂と彼女はあとでいった。﹁むろんよ。あたし、あなたを思う存分苦しめてあげたいわ。あなたはもっと苦しまされる必要があるのよ。だけどあたし甘いからそれができないのよ。あああたしあなたをほんとに苦しめてやりたい。それはあなたを愛するからよ。あなたのためを思うからよ。﹂彼女はまたこんなことをいった。 彼はそれらのことをおもい出して、笑いわめきたいような気がした。が、ふと吉三郎の明るい顔を思い出した。そして﹁あいつは幸福だな。﹂とつぶやいた。一一
﹁オイ、やけに寒いと思ったらそのはずだ。雪だぜ。﹂と一ひと人りの鍬くわのようなものをかついだ男がいった。﹁この土地に歳く暮れのうちに雪が降るなんて、陽気のやつ、気が違いやがったな。﹂ ﹁ほんとにおらア霜だとばっかり思ったに。﹂と、もう一人の男がいった。﹁なに、じき上がっちまわあな、ちったア積もるめえよ。﹂ ﹁なるほど雪だ。﹂トボトボと暗い坂道を上っていた裕佐は始めて気がついたようにこうつぶやいて、墨のような重い空を見上げた。チラチラと大きな雪の片々が顔や肩にふりかかるのが彼には快かった。 ﹁お前、金かな鎚づちを持って来たか。﹂また一方の男がきいた。 ﹁そんなもの持って来るもんかな、ばかくせえ。﹂ともう一人が答えた。 ﹁だがまア、行くだけは行くだ。行って見てだれも来てなかったら帰るのよ。掘ってみましたが何、やっぱり犬の死しが骸いでしたっていやアすむんだからな。﹂ ﹁ほんとに悪いいたずらをしやがるな。十字架をおっ立っといて猫ねこの死骸をほじくらせやがる。それってえも役人どもが死んじまった者の棺かん桶おけをほじくり返してまでしらべるようなしつっこいマネをしやがるからだ。﹂ ﹁何も死んだ者をしらべるわけじゃねえ。それであとに生き残ってる自う家ちの者をしらべるんさ。だけどまた片っ方も片っ方だ。死骸の頭へ頭ずだ陀ぶく袋ろぐらい掛けられたからってご苦労さんに土ん中の棺桶の蓋ふたをひっぺがしてまではずさなくったってよさそうなもんじゃねえか。頭陀袋一つで亡もう者じゃが浮かばれねえってわけでもあるめえに。﹂ ﹁両方が意地の張りっくらをしてけつかるんだ。おかげでこちとらまでこんな雪ふりの夜ふけにこき使わせやがって、だが来たからにゃただじゃ帰らねえて。﹂ こんなことを彼らはブツブツいいながらやや千鳥足で裕佐の前を歩いて行った。裕佐は自う家ちへ帰る気はなくなっていた。彼は今何よりも眠りを求めていた。一切を忘却の川に流し捨て、翌朝の日光とともに自己を生まれ変わったごとく新鮮な、生き生きした者にしてくれる眠りの﹁救い﹂を求めていた。それが得られそうに思えるならすぐにも彼は飛んで帰りたかった。しかし帰ったところでその救いは到底得られそうもないのみか、ただ果てしない覚かく醒せいの闇になおも身を任しつづけるよりないことは目に見えていた。その時二ふた人りの人足の会話が計らずも彼の好奇心と、望みとをひしと捕えたのであった。 ﹁よし、あいつらについて行って見よう。﹂ そして彼は何かを予感するごとく、彼らのあとに黙然と従った。 ﹁オイ、道を間違えやしねえか。墓地はこっちじゃねえぜ。﹂ ﹁薄のろめ。もうあそこに墓が見えてるじゃねえか。袈け裟さを着た坊主がしゃがんでるような格好をしてよ。﹂ ﹁なるほど、近道をしたんだな。――ヤ、人がいるぞ。何か白いものが動いてるじゃねえか。﹂ ﹁ぼけちゃいけねえぜ。オイ、手てめ前えさっきの酒ですっかりぼけちまやがったな。ありゃ杉の木に雪がつもったのが風で揺れるんじゃねえか。﹂ ﹁そうじゃねえよ。や、提ちょ灯うちんかな。はは。なるほどあそこに新しい塚つかがあらア。あれだな。うめえ。うめえ。﹂ ﹁なんだ、手前掘るつもりなんか。﹂ ﹁わけはねえや。どうせ泥をぶっかけてあるばかりなんだからな。それに棺桶だってすぐ蓋アあけられるように釘くぎを外へ打ち抜いてあるんだからひっぺがすなア造作はねえや。﹂ ﹁ふむ。そりゃ自う家ちの者が頭陀袋を取りはずすためのことだ。もう今ごろ行ったってちゃんと本式に釘づけにしちまってあらアな。見ろ。梟ふくろうめがホウホウと笑ってけつから。﹂ ﹁釘づけだろうが粕かすづけだろうが、かもうこたアねえて。そいつをぶっこわしゃ銀の十字架かメダイが取れようってもんだ。そうすりゃそいつをつぶして銭にした上に褒ほう美びの酒さか手てがもらえるってわけだ。﹂ しかし裕佐は自分の後ろに、半丁ほど離れて、二人の婦人らしい人影がついて来るのを見た。彼はちょっと立ちどまり、そして彼らがその墓地へ、その新塚へ行く者であるかどうかを見届けようとした。しかし二人の婦人はその墓地の手前で立ち止まり、何かをささやくらしく左手の道を指さし、そして非常な早足でそちらへ曲がって行った。 ﹁きっと降ナ誕タ祭ラへ行く連中かもしれない。﹂と裕佐は思った。﹁だがなんであんなに急ぐんだ。まだそんな時刻でもないに。﹂と、二人の去ったあとをちょうどまた半丁ほどの距離で、さらに二つの黒い影が忍びやかにつけて来るのを彼は見た。闇やみ目めでよくはわからないがその一方は非常に背高く、そして二人は黒いマントのようなものを頭からかぶり、一言も口をきかずしばらく立ち止まってじっとこちらを見ている様子であったが、また二人の婦人の跡をつけて左手へ曲がって行った。 ﹁なんだろう。﹂裕佐はやや不安の気に襲われていぶかり始めた。﹁ことによったら、あの一人はフェレラではなかろうか。もしそうとすれば……﹂と彼は考えた。﹁やつらはもう今夜降ナ誕タ祭ラのあることに感づいて、それを探りに行くんではなかろうか。﹂ そう思うと彼は一種不安の緊張のために身をふるわした。﹁よし。あいつらのあとをおれがまたつけて行ってやろう。﹂そしてそちらへ向かって彼は大おお股またに歩き出した。﹁降誕祭へはおれは行くまい。﹂と彼はまたひとり言ごった。﹁あの人にあうことは恐ろしい。そしてこのけがれたからだのおれが行くことはその神聖な祭りの清浄をけがすものだ。おれはただ窓から中を盗み見てやろう。ただ一目! そして外で見張りをしてやるんだ。﹂ 彼は急いであとへ引き返し、曲がり角かどを左へ折れると、坂の頂上にちらりと明りが見えた。その灯の赤さによって、﹁焚たき火びをしているな。﹂と彼は思った。﹁ありがたい。そしてあの茶屋へ行ったら多分様子が知れるだろう。﹂ 彼がその茶屋でありまた一膳ぜん飯めし屋やでもある家にはいって行くと、二人の男は後ろ向きに土間の炉縁に腰をかけ焚火にあたっていた。 ﹁じゃ卵酒でもつけますか。温あたたまりまするで。﹂ 五十前後の歯を黒く染めた主婦ははいって来た裕佐ににっこりとお辞儀をしながら﹁お寒う、おあたり。﹂といったあとで、また二人にこうきいた。 ﹁いや、肉類も卵も禁止だ。今はちょっと、精しょ進うじ物んもののほかはやってならん折りなんでな。﹂一人の男は頭から足の先までギョロリと裕佐を見たあとでこういった。﹁ただ熱あつ燗かんに漬つけ物でも添えてもらえりゃ結構だ。﹂ ﹁この犬どもめ。﹂と裕佐は思った。﹁降ナ誕タ祭ラと悲しみの節とを間違えて下へ手たな化け方をしてやがるな。﹂彼はこう心に苦笑しながらわざとそのマントのような物を着た大男の前に回って﹁ごめん﹂といいながら、煙たば草こに火をつけた。大男は頭ずき巾んを眼まぶ深かにかぶり、黒い毛織りの襟えり巻まきを鼻の頭が隠れるまでぐるぐると頤あごにまきつけてうつむきながら、その恐ろしく大きなやせた両手を火にかざしていたが、ゆっくり顔をもたげるとハッと驚いたように、 ﹁や、萩原さんじゃありませんか!――これは意外なところでお目にかかるもんですね。﹂底光りのする目で愛あい想そよくお辞儀をしながらいった。﹁先刻はどうも失礼しました。﹂ ﹁まったく意外なところでね。﹂裕佐も会釈して答えた。﹁今ごろこんなところに何かお勤めですか。﹂ ﹁なに、勤めってほどでもありませんが、ただこの墓地に時々怪しいことがあるというもんですから。﹂ ﹁ご苦労さんですね。化け物でも出るんですか。﹂ ﹁十字架を下げた化け物がね。へ、へ。﹂と連れの与より力きが引き取った。﹁で、あなたは?――雪見のご散歩ですか。﹂ ﹁ええ、ちょっと風流でね。――が、そういえば先刻、そこで塚つか掘ほりたちにあったんですが、その塚掘りたちが変なことをいっているのを聞きましたよ。﹂ ﹁変なこと、ってなんです。﹂ ﹁いや、なんでも近ごろはお役人が物好きになって、死んだ人間の宗旨までしらべに墓をほじくらせる。これじゃア化け物も出るよ、ってね。﹂ ﹁しかしあなたはその化け物を見にいらっしったんですか。﹂フェレラは笑った。﹁しかしあなたは今夜その化け物よりももっと珍しいものを見られるでしょう。――それは多分先刻お願いしたあなたの仕事にいい材料になりますよ。﹂ ﹁なんです。それは。﹂ ﹁降ナ誕タ祭ラです。ゼズスの誕生を信者たちが祝う祭りです。それは美しいもんです。﹂ ﹁そうでしょうね。そしてあなた方はそれを捕縛しに来ていられるってわけですか。﹂ ﹁いや、ところがやつらだってなかなかそうたやすく捕つかまるような間抜けはしませんよ。もう心得ていますからね。﹂と与力がいった。﹁第一今夜はその祭りの当夜ではないんです。だからやつらは用心深く先回りをしてこんな晩にやるんです。こっそりと。それもどこでやるんだかまるで見当がつきません。﹂ ﹁なるほど、それであなた方はここの内か儀みさんからその場所をかぎ出そうと思って、あの仲間らしく思わせようとしたんですね。﹂ ﹁ふむ。あなたはたいそう鼻がきくんですね。まるで切支丹のように。﹂与力は相棒と顔を見合わせてにやりとしていった。﹁しかし今、あなたはそこで二人の女づれを見かけやしませんでしたか。﹂ ﹁ええ、あなた方の一足先にね、大おお浦うらの方へ行ったようでしたね。﹂ ﹁なに茂も木ぎの方へ行きかけていたのを、私たちがつけてると思うもんで、わざと大浦の方へ曲がったんです。ヘッヘ。﹂ ﹁じゃ、そのナタラというのは茂木であるんですね?﹂ ﹁それがよくわからないんですが、おおよそわかってはいます。﹂とフェレラはいった。﹁どうせすぐ近所に祈きと祷うがもれ聞こえるような人里の中で彼らは集まりはしませんからね。いつもたいてい茂木のはずれにある醤しょ油うゆ屋やの庫を彼らは密会所にしています。行ってごらんなさい。もうそろそろ始めている時分です。﹂ ﹁私たちは今夜は捕縛なんぞはしませんよ。ごらんのとおりのしたくですからね。ただちょっと様子を見るだけです。何しろ向こうは多勢ですからな。﹂と与力が口をそえた。﹁え、道ですか? 茂木の入り口のところで右に細い田たん圃ぼみ道ちがありますがね。なんでも人通りの少ないはずのところに足跡が多かったらそこを行きゃいいんです。時ならぬものが降ってくれたおかげで足跡を見つけるにゃちょうどいい都合でさ。﹂ そして二人は顔を見合わせてまたにやりと笑った。 ﹁茂木までは少し大変だな。それに風も出て来た。﹂裕佐はつぶやくようにこういってちょっと外をのぞいたが、主婦のところへ行って茶代を払うふりをしながらそっとその手に銀貨を握らせた。そして今夜この近くに切支丹の集まりがあるのを知らないかと低くおごそかにたずねた。主婦は目を円まるくし、銀貨と彼の顔を見比べていたが実際何も知らない様子であった。 裕佐は外へ出た。一二
雪はもうやんでいた。そしてサラサラと淡雪をふり落とす松の梢こずえの上に高く、二三の星が深しん淵えんの底に光る金剛石のように寒くまたたいていた。
彼は急ぐというよりむしろ走っていた。そして発作的になんべんも後ろを振り返った。彼らが自分の跡をつけて来ないということは彼にはいっそう無気味なことであった。彼らはいやに余裕綽しゃ々くしゃくとしている。そしてすべてを見抜いているらしい。信徒の集会所は茂木であると彼らはいっているが果たしてほんとうにそう思っているのであろうか。しかしもし今夜の集会所を彼らが知っているとするならば、彼らはなんであんな空とぼけてまでそれを探ろうとするのであろう。そう思うと﹁やっぱり知ってはいないのだ。﹂と彼は安心もした。しかしなぜ自分に、この何者であるかわからぬ自分に、彼らは軽々しくその秘密な知識を打ちあけるのであろう? 彼は自分の去ったあとで彼らがカラカラと笑っているのを目に見るような気がした。
﹁なんでもいい。早く知らせなくてはならない。﹂
彼がそう思って目あての家の方へ道を曲がろうとした時道ばたの納な屋やの後ろから突然ぬっと一ひと人りの男が現われた。
﹁待っていました。萩原さん。﹂とその男は青年らしい声でいった。﹁あなたがこの道を通られはしないかと思って来ていたんです。ここを通ってはいけません。雪に足跡がつきますから。﹂
﹁だがぐずぐずしてはいられませんよ。もうそこの茶屋には与力が来ているんですから。﹂
﹁もう?﹂吉三郎はさすがに驚いたようにいった。﹁しかし大丈夫です。やつらはあの場所を知っているはずはありません。さアここを飛ぶんです。よござんすか。﹂
そして彼は三尺ほどの溝みぞを飛び越え、熊くま笹ざさの茂っている一間けんあまりの崖がけをよじ登ると上から手を差しのべた。裕佐がそのあとに続いた時、その草むらの中からは藪やぶ鶯うぐいすがチチ、キキ、とないて飛び散った。崖の上は桑畑であった。
﹁えらいところへ案内してすみませんでしたね。﹂青年は元気よく太とい息きをつきながら笑った。﹁だがほんとうによく来てくださいましたね。その代わり今夜のはほんとうに今までにない立派な降誕祭です。﹂
﹁長老は来られましたか。﹂
﹁ええ、実はもう七日ほど前から私のところにおかくまいしてあったんです。私はぜひあなたに一度あの長老を見せたかったんです。﹂
﹁しかしよく天草から無事に渡ってくることができましたね。﹂
﹁熱心な信者の船頭がうまく隠してお連れして来たんです。何しろもう七十近い齢としで八年の間あの天草のまるで無人島同様な所に乞こじ食きのような生活をして、わずかな信者を作りながらかくれておられたのですからね。しかしその矍かく鑠しゃくとした気力と、つやつやしい顔の輝きとの少しも変わらないのにはまったく驚きますよ。﹂
風と闇やみとに抵抗して二ふた人りは道らしい道へ出ていた。そこは峠の絶頂で目の下に底知れぬ闇のごとく黒くひろがっている千ちぢ々いわ岩な灘だが一目に見え、左手にはさながら生ける巨獣の頭のごとく尨ぼう大だいに見える島原の温泉嶽が蜿えん々えんと突き出ている。ごうごうとたけって彼らに吹きあたる風の音は、そのすでに幾十の人命を呑のみ食らってなお飽きたらぬ巨獣のほえるごとく思われた。と、またはるかに――縹ひょ渺うびょうのかなたには海上としては高過ぎ、天空としては星の光とも見えぬ、海とも空ともつかぬあたりに天草のいさり火が吹きすさぶ凩こがらしに明滅するごとくかすかにまたたいているのであった。
﹁ごらんなさい。ここへ来るともうこんなにたくさんの足跡が見えるでしょう。あそこに箒ほうきのように風で曲がっている森が見えますね。﹂と吉三郎はグッと襟えりを押えてかき合わせながらいった。﹁あの森の下にその家はあるんです。どうです。まるで見えないでしょう。昼間なら家根は見えるんですが。﹂
﹁しかし万一発見された場合には、逃げ道はあるんですか。﹂
﹁ええ、むろんです。しかしどうせ私が外で見張り番をしていますから、踏み込まれるような心配はありませんよ。﹂
まったくその家はすぐそばまで行ってもそれと知らずにはちょっと気がつかないほど闇の中にあって闇にとけ込んで見える不思議な一軒家やであった。
﹁さあ、裏から回りましょう。そうすればこのまっ暗に見える﹃天の岩戸﹄の中にどれほどの光がたたえられてあるか、あなたはびっくりなさるでしょう。﹂
しかしその﹁岩戸﹂の中の光景は﹁裏から回って﹂はいって見ずともその一分の光ももれぬ壁に耳をあてればカナリ充分に想像はできるのであった。その厚い壁を通して、そこからは裕佐がかつて夢想にも聞くことのできなかった世にも美しい合唱がもれ聞こえて来るのだった。
「あわれみの御母天つ御みくらに輝ききらめける皇妃 にて在 す
御身に御礼をなし奉る。
流人 となるエワの子供ら
御身に叫びをなし奉る
この涙の谷にてうめき泣きて御身に願をかけ奉る――」
御身に御礼をなし奉る。
御身に叫びをなし奉る
この涙の谷にてうめき泣きて御身に願をかけ奉る――」
﹁聞こえますか。あれはサルベンジナといって、﹃まりあ﹄にあわれみを乞こうお祷いのりの歌です。今夜はほとんど一晩じゅう祈り歌い明かすので、降誕の祝いの歌のほかにああいうのも歌うんです。﹂
歌はなおつづいた。
﹁あわれみのお目をわれらにたれたまえ
慈いつくしき御手の御執り成しによりてこの悩みのさすらいの後に
御胎内の尊きにて在ましますひりおの若君をわれらに見あらわしたまえ
深く御柔軟、深く御哀憐すぐれて在まします
びるぜん、さんた、まるやの御母
おうらおうらのびす。おうらおうらのびす。﹂
﹁ここがはいり口です。牛小屋ですがね。﹂吉三郎はこういいながら納屋のように見える裏口の戸をあけた。﹁ごらんなさい。あなた始めてですか。これも毎年やる儀式なんです。﹂
炉にあかあかとたかれた火の余よじ燼んがきれいに掃き清められた小屋の中をほんのりと温あたたかく照らした。一いち隅ぐうには一匹の黒白の斑まだらの牛が新しい藁わらをタップリと敷いて静かに口を動かしながら心ここ地ちよげに臥ふしていた。牛の前には赤飯を盛った盆が供えられ、そのわきになみなみと﹁産ぶ湯﹂の水をたたえた飼かい桶おけが置いてあり、その水に灯ほかげがあかく映っていた。もちろん、火がたいてあるのは﹁御子﹂が凍えぬようにとの意味である。
吉三郎は指でコツコツと合図をするように扉とびらをたたいた。と、ぱっと扉が開き、あふるるばかりの光――裕佐にはそう感じられた――が滝のようにそこからほとばしり出るのであった。
﹁吉三郎さん?――お一人?﹂
扉とぐ口ちに立った女はこう張りのある声をかけて扉に片手をもたせながら、胸にかけた小さい金の十字架がぶらと前にたれるほど頭をかがめて薄暗い小屋の中の方をのぞくように見た。
﹁いや。いっしょ。ちょうどうまくお会いできたんでね?﹂吉三郎は元気よくいって、まぶしそうに目をしばだたきながら呆ぼう然ぜんとかたわらに突っ立っている裕佐の方を顧みた。
﹁あら、そう。――﹂女は一歩退いてちょっと目を伏せた。﹁あたし、ずいぶん、心配していたのよ。﹂
﹁だろうと思っていました。さあ、萩原さん。上がってください。﹂
﹁いいんですか。﹂裕佐は畏おそれるようにモジモジと口ごもった。﹁僕は上がるつもりではなかったんですが。﹂
﹁いいどころではありませんよ。むろん。﹂
吉三郎はこういって自ら上がりながら、この﹁よくやって来た珍客﹂に何か歓迎のお愛あい想そをいわないかと促すように姉を見た。
﹁ほんとうにようこそ。――ずいぶん大変でございましたでしょう? こんな山ん中で。――﹂
むしろ努めた感じでこれだけのことをいったモニカの調子は、もはや心に思う半分もいい現わし得ぬ、はじらい深い娘の口調ではなかった。ましてそこにチャーミングな余情を含ませんがためのわざとらしいあまい﹁舌足らずさ﹂ではない。かといって、それはまた善良な教養のある人妻にのみ見られる一種の世故慣れた母らしい落ちつきの声でもない。決して無愛想な調子ではないが、気のきいた世俗的な感じではさらにない。冷たいというにしては奥底に﹁心﹂がありすぎる。しかしただ温かく、柔和なというのともちがう。それでいて角かど立だたしい気持ちがあるのではみじんもない。
﹁ずいぶんしばらくでございましたね。﹂
むしろ弟の方にからだを向けながら彼女はまたこういって裕佐の前に高島田に結った頭を下げ、軽く手を突いた。そして﹁しばらく。﹂とどもるようにようやくいってあわててそこにすわり、べこんと頭を下げた裕佐のあかくのぼせた顔をちらりと見ると、かすかに苦しげな微笑をたたえながらまた弟に顔を向けた。が、その時彼女の頬ほほにひらめくごとくさしたあか味は、四尺とは離れていなかった弟の目にもとまらないらしかった。
彼女が島田に結っているところを見るとまだ人妻でないことはすぐ知れることであったが、その縹きり緻ょうと、年輩とをもっていまだに独身でいるのはなぜかという怪けげ訝んも同時にだれにも起こるはずである。一度ならず二度までも信者からの縁談を彼女が断わった真の理由を知っているものはただ弟の吉三郎のみであった。
﹁あの姉はね、母になることをおそれているんですよ。自分の運命が﹃畳の上で﹄息を引き取る者とは違うことをなんとなく迷信的に自覚しているのですよ。僕はそう思っています。﹂吉三郎はかつて裕佐にこういったことがあった。
﹁ああ、そう。﹂たちかけた彼女はまた何か弟にささやかれて無雑作に低くいった。﹁あのつまらない花をあなた、買ってくださいましたのですってね。おかげさまでこれだけでも飾りができましたんですのよ。﹂
外見は廃家のように見えるその五十畳ばかりの家の中央には枝葉をしげらせた大きな松と竹とがたてられ、その枝にさした幾十の紅白の蝋ろう燭そくがあかあかとともっていた。そこにまた一々﹁アーメン・ゼウス、ぺてろ何某﹂﹁同じく、よはんな、何某﹂などとしたためられた五色の紙切れと、造花の白ゆりとが無数に結びたれ下げられてあった。正面には高くふたつの燭しょ台くだいの間に聖像がかけられ、そのわきの壇上にはばてれんらしい黒衣の老人が腰をかけて、一人の男と何か熱心に話していた。そしてその前には白しろ襟えりに黒の礼服を着た多くの女たちと、男とが並んで、頭をたれながらその話に耳を傾けていた。
﹁あちらにいらっしゃいませんか。およろしかったら。﹂モニカはささやくようにいった。﹁今長老様のお話が始まっているところですの。﹂
﹁どうぞはいっておききください。僕はまた見張りに行かなくちゃなりませんが。﹂
吉三郎もそういった。
﹁いや、僕はただ、お顔を見に来たんです。﹂だれの顔ともあいまいに裕佐はつぶやいて、
﹁お話はあなたがきかなくちゃ意味がない。見張りは僕がひきうけますよ。﹂
早口に強くこういうと、吉三郎を広間の中に押しこむように扉を閉じてしまった。
そうしてそこに落ちていた吉三郎の黒い頭ずき巾んをすぽりとかぶると、裕佐は再び風の吹きしきる表へ飛び出して行った。
ある勇気とも興味ともつかない気持ちが心ここ地ちよく裕佐を身ぶるいさせていた。彼は太い棒切れを握り身をこごめ気味にしてその家の周囲をすみずみまで探り探り二ふた回まわりすると、藁わら束たばの上に身をひそめに腰をかけた。もう大丈夫だ。ここなら見つかりっこない、と彼は思った。かつ二人の密偵が見当ちがいの場所をいかにも﹁犬﹂らしく捜し回って疳かん癪しゃくを起こしているさまを想像すると彼はおかしかった。が、ふと星明りに人の形のように思えば思えるものを納屋のわきに認めたような気がした。彼が石を拾ってそれにぶつけると、コンという音がした。それは重ねた空あき樽だるだった。
彼はハッとして、しまったと思ったが、あとはまた静かになり、風だけが時々サワサワと聞こえた。かなりの時間が無事に過ぎた。彼は少し退屈になったので再び上がり口の方に戻ってくると、細目に扉をあけた。
﹁しかしながら皆さん。﹂長老の説教はまだおわっていなかった。﹁私たちの尊い先輩が造り、今またこのわたしたちが現に造りつつある日本の切支丹の事じせ蹟きは、決して単に日本一国の史上においてのみの異彩のある光ではありません。永久に神の国とその義ただしきとを求めるすべての熱烈な生命の鑑かがみとなるでしょう。日本人はその美しい真心と、生命へのあこがれとを強く持つ上において、他のいかなる民族にも決して劣る者でないことを切支丹によってほど力強く示したことはかつてないのです。この事実は永久に日本国民の深い希望となり、誇りとなるでしょう。わたしははるばる遠い国からこの心を求めて、この心にふれたくてあなた方のところに来た。キリストという大なる星の導きと、その光の暗示とによって、はるかに離れている二つの小さい星がまたたき合うように、私という一つの心が、あなた方という心を尋ねて、はるかに暗い長い海上を、荒い波や風と戦ってここまでたどり来た。そこには暗あん礁しょうがあり、そして岸に着いている私を岡おかへ上げなかった。私たちはお互いに岸の上と岩の上から呼び合った。叫び合った。八年の間。しかもついにあなた方の真心が一つの強大な引力に結晶して私をその暗礁から引きずり上げここへ連れて来たのです。私の心は今あなた方のゆりのようにやさしい清らかな愛と、燃えるごとき真心とのさなかに抱かれ、ひたって、今死んでも悔やむところもないほどの法ほう悦えつに酔っています。私の期待はそむかれなかった。ああこの地上においてかくのごとき深い喜びが、神から恵まれるのでなしにどこにあり得ましょう! ああこのひそかな魂の抱擁。かくも人目を忍んでなされなければならないきびしい悪の縛いましめと、脅迫と、悩みとの中におけるこの悦よろこび! この凱がい歌か! いやしくも神から与えられるのでなしにこの不思議な事実がどこにあり得ましょう! われわれをしてキリストによって示された真理と、神との名においてますます団結を固くせしめよ。われらをしてなお強くこの聖なる団結を増さしむる神への愛をいや増さしめよ。アーメン。﹂
長老がこういい終わるがいなや群がる男女たちは各おのおののその胸に十字架をかき、長老のかたわらに集まりひざまずいてその衣のひだに接せっ吻ぷんした。
﹁アーメン・ゼズス! アーメン・ゼズス!﹂
しかし彼らが口々にこうつぶやいたちょうどその時であった。長老のま後ろにあった﹁非常口﹂の扉が突然カタリと音がして一寸ほどあいた。サッとそこから風が吹き込んで聖像の両側にある燈ともしびの灯がゆらゆらとなった。忽こつ然ぜんとしてわれを忘れたこの世ならぬ歓喜と陶酔との絶頂にあった一同の顔はいっせいに化石したごとく蒼あおく硬こわばり、そして彼らはハッと一時に息をひそめて、見開いた視線をその方に向けた。
そこにはまっ暗やみの中に燭火の反射によって二つの目が光っているのが見えた。一同は棒のように立ち上がった。
﹁静かに!﹂と長老は制した。﹁あわててはいけない。私にお任せなさい。﹂
そして彼は静かに後ろに振り向いた。
一三
吉三郎は長老の身を守ろうとしていち早くそのわきに来て立っていた。しかし彼がその﹁二つの目﹂と長老との間に立ちふさがったように吉三郎とその二つの目との間に裕佐は割り込んだ。 ﹁君たちは黙っていらっしゃい。﹂と裕佐は低く鋭く吉三郎にいった。﹁そしてだれもつかまる必要はない。さあ、早く、あっちから!﹂と裏口をさした。そして彼はその扉とぐ口ちをガラリとあけた。 ﹁はあ! あなたはやっぱり﹃見に来て﹄いましたね。﹂ その闇やみの中の男はいった。 ﹁さあ外で話をしよう! 外で!﹂裕佐は自分で外へ飛び出しながらいった。﹁犬は人間の座敷に足を踏みこむ資格はない!﹂ そして彼は扉をしめようとした。しかし扉は何かを間にはさまれたように動かなかった。 二つの目は蛇へびのように動かずじっと長老を見つめていたが、 ﹁おお。アントニオ・ルビノ! ルビノ!﹂ と低くふるえるように叫んだ。その声を聞くと長老はやや愕がく然ぜんとしたらしく反響するように重くこたえた。 ﹁おお、汝なんじはキリシトファ・フェレラ! フェレラ!﹂ ﹁フェレラ﹂という語を聞くと家の中の一同はまたわき立つようにざわめいた。﹁ユダ! ユダ!﹂という声が聞こえた。そして一、二の侍は隠し持っていた刀や、匕あい首くちに手をかけた。 その時呼び笛の声が高く響き、もう一人の男が闇から現われて、その閾しきいに足をかけた。裕佐は縄なわを持っているその手くびをつかんだ。 ﹁なんだ貴様は!﹂その男はおさえられた手を強く振りながらわめいた。﹁仲間か!﹂ ﹁そうだ。おれはこの仲間の頭かしらだ! つかまえるならおれをつかまえろ!﹂ ﹁おお長老様! 早く早くお逃のがれになって!﹂ モニカはこう叫んで、長老の膝ひざにすがりついた。 ﹁わたしはいい。海神はわたしが所望の宝なんだ。わたしを投げれば海はしずまる。﹂ 長老は自若としておごそかにいった。しかしモニカは聞かなかった。 ﹁いいえ、役人はあなた様のいらっしゃることを知ってはいなかったのです。どうしてあなた様をここに残してあたくしたちは逃れられましょう!﹂ ﹁わたしのいうことを聞きなさい!﹂長老はやや激したごとく顔をあかくして命令するようにいい放った。﹁わたしはもうすでに身を隠しすぎたのだ。時を待ちすぎたのだ。しかしそれはなんのためだ。あなた方真に生きねばならぬ人たちを守らんがためではなかったか! さあ、早く!﹂ そして彼は鋭く裏の戸口を指さすと、また後ろに向いて捕とり手ての方に一歩近づいた。 ﹁さあ、わたしを捕つかまえなさい。昔の親友よ! あまりに大なる神はきっと君の大罪をもゆるしたもうだろう。﹂ 長老はおごそかにこういいながら、自分の裏に一同をかばうごとくその大きな両手をひろげた。そして一目フェレラの目をきっと視みると目を閉じた。 フェレラは水のようにまっさおになり、無言のまま静かに縄を取り出した。しかし彼が閾しきいの上に立ち上がるやいなや、彼はフラフラとしてよろめき、そしてもう一人の男の足もとに倒れた。一四
半時間ほどを経て後、裕佐は一人道もない峠の上を歩いていた。いばらや萱かやのために傷ついた足や手から血を流していることも知らぬらしく、夢中によろよろと歩いている彼の姿はさながら夢遊病者のようであった。そしてとある草原へ来た時彼はそこが雪でぬれていることも考えず、おのずと倒れるようにそこに身をころばした。 なんという一夜であったのであろう。ガンガンと鳴り響く混こん沌とんたる彼の頭の中には最前からのいっさいの光景、人物の顔――夢のような墓場の景から茶屋の中でのフェレラとの異様な邂かい逅こう、青年の顔、昼の花園のごとき光と色とにあふれた祭りの光景とその歌、モニカの顔、長老の顔、そして最後の突然蛇のような目を持った密偵者の襲撃が一座の有うち頂ょう天てんを破った時﹁おお長老様。早く早くお逃のがれになって!﹂と叫んで、その膝ひざもとに身を投げた時のモニカと、それに対して厳然と答えた時の長老の姿、フェレラの昏こん倒とう。 それらが一時に彼の頭の中にグルグルと渦のごとくとめ度なく回転し、そしてその一つ一つの印象がくっついたり、離れたりした。すべてがまったく夢としか思われなかった。 ﹁そうだ。おれはこの仲間の頭かしらだ! 捕つかまえるならおれをつかまえろ!﹂おれはあんなことをいったのだ。――ふとこう思って彼はゾッと身をふるわせた。しかし﹁おれにはやはり勇気があるんだな。真心から出る勇気が。﹂と思う子供らしい意識が彼の顔に満足げな微笑を浮かべさしていた。 実際彼は指揮官フェレラの実に思いがけない昏倒のために、捕縛が﹁その場だけとしては﹂ともかく不成功におわったことを思うと、もうそのあとを﹁どうなったか﹂と追窮して考える気にはなれなかったほど満足な自意識に酔っていた。そして自意識がそのように満足した時にのみ人の心に湧ゆう然ぜんと起こって来る一種の愛情――すべての悲劇的運命の中に生死を賭として真剣に生きている人々、その緊張した一々の顔――に対するなまなましい哀あい憐れんが彼の胸のうちに苦しく痛ましく起こって来るのであった。そしてその﹁悲劇的な運命﹂の人々の顔が、抽象的に人類全体の一つの不幸な姿に見えて来た時、彼の目に熱い涙が浮かんで来た。 彼がもういつのまにか去ってかすかに遠雷のように聞こえる嵐あらしの音に耳を傾けながら、降るごとく一面に星の現われた空をぽかんと仰向いて見上げていた時、突然何か驚くべきものを見るように彼は﹁アッ﹂といった。彼が驚いたのは当然であった。彼が何心なくぽかんと視み入いっていた大空の一角には、実にことさらに星をその形に並べてちりばめたとしか思われぬ巨大な十字形の一星座がぼうっと見えるのであった。それは彼の目が涙にうるんでいた加減であったかもしれなかったが、愕がく然ぜんとして思わず彼が半身を起こし、そしてその恐ろしい巨大な十字架に相応するだけのキリストのすがたをふと心に描いた時、突然稲妻のように、ある天啓が彼の頭にひらめいたのであった。 彼の目の前に、再び現実のそれよりはなお一層高き神秘なる美と権威とにおいて、長老と、モニカの結合体が髣ほう髴ふつと現われた。その結合体が星座の大十字の中に燦さん然ぜんとして見えた時、彼はその前にひれ伏した。が、次の瞬間彼は﹁オオ!﹂と叫んで飛び上がった。 ﹁オオ、これだ! これだ!﹂彼は拳こぶしを空に打ち振ってわめいた。﹁オオ、今こそ、おれはあの聖像――ピエタを造ろう! ああ、もうおれには造れる! 造れる! ありがたい!﹂一五
その翌日、彼が伯お母ばに揺り起こされた時にはもう午ひるを過ぎたうららかな日がま上から長崎の町を照らしているころだった。くまなく晴れあがった紺こん青じょうの冬の空の下に、雪にぬれた家々の甍いらかから陽かげ炎ろうのように水蒸気がゆらゆらとのどかに立ち上っていた。 伯母は彼の枕まくらもとで役人が来た事を知らせていた。 ﹁え? 役人?﹂ 裕佐はドキリとして思わず身を起こした。﹁つかまえに来たのか?﹂彼は昨夜捕とり手てに向かって夢中にいい放った自分の乱暴な言葉を不意に思い出した。 しかし彼はその瞬間さっと顔色を変えたが、案外すぐ落ちついた気持ちに返った。そしてちょっと黙って考えたあとで決然と玄関へ立って行った。 ﹁なんです。﹂彼は突っ立ったままきいた。 しかしフェレラはいなかった。 ﹁いや、別に、新しい用事で上がったわけではありませんが。――昨夜は失礼しました。﹂ 役人は頭を下げた。それはフェレラとともに彼を妓ぎろ楼うに訪たずねた﹁通訳の伴﹂であった。 ﹁昨夜お願いしたことですが、――実は早くはっきりしたご返事を伺いたいので。――やはりどうしてもお願いできますまいか。﹂ ﹁いや。﹂と裕佐は急に安心と、喜びのために勇んでいった。﹁やりますよ、お引き受けしましょう。﹂彼はそして付け足した。﹁実はそのことを今きょ日うあなた方の方へいいに上がろうと思っていたのでした。﹂ ﹁え? 承諾してくださる。そうですか。それなら願ったりかなったりです。﹂役人は安あん堵どしたほほえみをもらしながらいった。﹁どうぞ精せい々ぜいよく作ってください。おできばえがよければよいだけお礼の高もふえるのですから。はは。﹂ ﹁それではほんとうによくできればできるほどつまりお礼はふえるわけですね。﹂裕佐はちょっとこういいたくなった。しかしそれより彼はもうそのうれしい仕事の想像に気を取られていた。そしてただ﹁承知しました。﹂と答えた。 役人は時々様子を見に来させてくれといいおいて帰って行った。 ﹁どうです。こういう天てん狗ぐならいつでも来てもらいたいでしょう。﹂と彼は元気よく伯母にいった。 ﹁大だい黒こくさんが来たようにうれしいでしょう。﹂ ﹁ほんにあたしはもうこんなうれしい事はないよ。いよいよお前にも運が向いて来たのだね。﹂伯母は袖そでで目をふきながらいった。 ﹁はは、ほんとうにそうですよ。﹂ 裕佐はこういったが、なんだか胸がくすぐったいような気がした。﹁さア、この金でおれはあいつを身うけすることができるというもんだ。一石二鳥というやつだ。もしそれができることなら!﹂彼はこう考えていた。そして晴ればれしていた彼の顔はにわかに曇って来た。 しかしその時伯母が彼の顔をのぞきながらいった。 ﹁だけど、お金はとれても惜しいもんじゃね。そのお前が丹たん精せいして造ったものが人の足に踏まれるんじゃと思うとな。﹂ ﹁ふむ。心にもないことを、人の気を察したつもりで。﹂と裕佐は苦にが々にがしく思った。﹁もし察したつもりでいうならば、それを踏むことをしいられ、踏まねば殺される切支丹の方のことを思うがいい。﹂ しかしそう思った時、裕佐はさらにある恐ろしい不安にドシンと胸を打たれたのであった。﹁おれが作るその踏み絵をあの人も、そしてあの弟、――立派な思想と信仰とを抱いたあの美しい有為な青年も踏むことをしいられることになるのだ。彼らはそれをよう踏むであろうか? 踏んでくれるならばありがたい。それは自分の神聖な作品であっても、もしあの人の浄きよい足がそれを踏むならばおれはいやではない! いな、むしろそれを本望とするであろう! だが、あの人、あの熱心な信女はそれをなしうるであろうか?﹂ 彼はそこにいられなくなって、自分の室へやにはいり、まだ畳たたんでない床の上に寝ころびながら考えつづけた。﹁もしおれがそれを作ったために、そしてそれがよくできていることのために、それを踏むあの人の良心がなおいっそう鋭く苦しみを増し、それをなしあたわないことにでもなるとするならば、おれはあの人を、恋人を自ら殺すことになる! まだそううぬぼれるのは早すぎるかもしれないがな。﹂ そして彼はもだえ、一刻前のすべての輝ける希望と、喜びとはたちまち絶望と懊おう悩のうとに変わった。 ﹁もっとも!﹂彼はまた考えた。﹁あの人は今まで幾度となくあの踏み絵の試煉を経て来たのだ。仮病をつかって役人を欺くことはほとんど不可能なことである。やはりいや応なしに苦しい痛コン恨チリ祷サンをたよりに踏んで来たものにちがいない。たとえそれはしわくちゃな、なんの反ほ古ごかしれないほどの紙であろうと、あの人はとにかくそれに堪たえてきたのだ。﹂それは彼には実に意外なことに思われたが、またうれしい意外のことであった。﹁そうだ。なんの画像か読めぬほどの紙くずであろうと、判然たる鋳いも物のであろうと、それが聖像であるという意識において変わりはないはずである。それならば人は今まで幾度かそれをなし得たごとく、今度のおれの聖像においてもそれをなしうるであろう。﹂ 彼はまた彼女のかたわらに賢い弟の吉三郎がついていることと、昨夜の長老の説教とを思い出した。﹁いや、あの人は軽々しく偶像のために、それこそ神から与えられた生なま身みをむなしく犠牲にするような愚かなまねはしないであろう。――そして、そうだ。おれはまたその試煉の時の前にはあの人たちを訪たずねてぜひそれを――宗教的意味においては単なる物質の破片にすぎぬ鋳像を、おれのために踏んでくれるように頼んでおくこともできるのだ。﹂ そして彼はまた希望を取り戻した。一六
その日の夕方、彼はもう仕事にとりかかっていた。
﹁踏み絵にするといなとはとにかくとして、おれはあれをとにかく作ろう。作らずにはおけない。ただ作ることそれ自身のために。﹂
そして彼はもう安心して、その仕事に没頭していた。
彼はもう﹁あの人﹂のことも考えなかった。君きみ香かのことも忘れた。そして長い間寂しい闇やみの野中へ行き暮れ、不安にさ迷っていた者が、一道の光明――人家の明りをふと見つけて、ただもうひた走りにそこへ行きつくことのほかには何も考えない時のごとく、机にかかりきって、幾枚かの下図を引いた。
一歩も外出せず、不眠の夜をつづけた余念ない三日の没頭の後に下図はまず望みどおりできあがった。そして下図ができあがるやいなや彼は粘土のこね上げに取りかかった。そしてそのこね上げがすむと彼は青銅の鎔よう炉ろにかかっていた。
自分のどこからこんな無限な精力が出て来るのかと彼は自分でおどろいた。
彼の仕事が進むにつれて彼のところにそれを﹁拝見﹂に来る者が多くなった。それは彼の伯母が﹁お上からの仰せつけで﹂自分の甥おいが名誉ある仕事を﹁お引きうけ申し﹂ている事を近所にふれ回したからであった。むろん昼間はだれも彼の仕事部べ屋やにはいることは厳禁されていた。が、中にはただの物好きな見物人のような顔をして﹁拝み﹂に来る信徒の女もいた。
﹁まあ、なんという結構な。――ありがたい。こんなありがたいお像を拝んだことはほんにあたし始めてでござんすわ。﹂
その女はうっかりこう口をすべらして自分の信徒であることを明かしていた。しかし芸術なぞのわかりようのないこういう普通の人の心でも打つ何物かが自分の作に宿っていると思うことは裕佐にはうれしかった。
﹁萩原さん。おごらんけりゃいかんぜ。あんた、にわかに大福長者になれるんじゃ。﹂
﹁あんた方の仕事はええなア。当たり出したら大したもんじゃ。﹂
こんなことをいう男たちも少なくなかった。
年は改まって裕佐は二十七になった。
元日の朝彼は窓に立ってのぼる太陽を拝んだ。﹁わが仕事に祝福をたれたまえ。願わくはそれをわが意のごとく成さしめたまえ。生いの命ちの主よ。﹂彼はこう口の中に祈った。
彼の仕事は着々というほどにははかどらなかったが、比較的早く進んだ。
﹁じゃ、月末の踏み絵式までにはなんとか間に合いますな。﹂見に来た役人はいった。
﹁それ見い。やって見れば、お主ぬしにはこれだけの腕はあるんじゃ。だからわしが鋳いも物のをやれとあんなにすすめたんじゃに。――﹂と孫四郎はある晩来て見ていった。﹁ようできとるよ。ちと西洋式なにおいは多いが、まあ西洋の材料じゃからな。このひだのつけ方などはこの大アル天カン使ジョミケルのひだにそっくりじゃ。が、決して劣っとりゃせん。﹂
彼はわざと﹁竜とたたかえる大アル天カン使ジョミケル﹂の浮き彫りと、裕佐の作とを手にとって見比べながらこういった。が、裕佐はもうこの男の﹁ケチをつける癖﹂には腹も立たなかった。何物もただほめるだけではすまさないこの男がこれだけのことでもいうのはよほど感心したことを意味するのが裕佐にはわかっていた。
ある晩裕佐は君香に手紙を書いた。
新年おめでとう。お変わりはないか。おれが久しく君のところにごぶさたしているのは君が想像するように、君のからかいに憤慨してのことじゃない。たしかにおれは﹁坊っちゃん﹂だが、巨人の坊っちゃんだ。だからあんなことなど気にしてはいない。おれは今ある仕事のために生まれて始めての﹁急がしさ﹂に追われきっている。それは君がいつかおれに﹁参考品﹂としてあのコンタスをくれて、これを手本にしてあたしの像を作ってくださいね。といった、まあ、そのような仕事だ。まったくあのコンタスは今やまるで別物のような生きた力で、おれの役に立ったことをお礼する。おかげでおれは今度、もしかしたら、始めていい仕事をしたという自分の満足を買えるうえに、大分金もうけをするかもしれない。少なくとも女一人を身うけすることができるくらいの金は優に得られる予定だ。だがおれは﹁不実﹂だから君を身うけしようなんぞとはもとより思っていない! ちょっとそんなことを考えたこともあるが、まあ君の身はあの﹁紅オラ毛ンダの犬﹂に任せることにしよう。
もっとも今夜あたり、おれはちょっと君を訪たずねたくはある。しかしつつしむことにした。おれの仕事は多分明日あたりできあがるのだ。仕事の神は嫉しっ妬と深く、おまけに君のようにいたずら気ぎに富んでいるから、おれはもう一日というところでその神にたたられることをおそれる。もう一息というところでその神は、とにかくそんないたずらをやりたがるのだ。今夜もし君のところへ行ったら、おれの仕事はきっとのろわれてめちゃめちゃな失敗におわるだろう。だからおれは行くことを控える。それはたしかに﹁悪所通い﹂だからね!
しかしこの﹁関所﹂を通り越したら行くよ。毎晩。いくら君がいやでも!
しかしまあ君の健在を祈ろう。おれのからだはひょろひょろだが、元気は大したものだ。まだ君をいやがらせるくらいの力は十二分に持っているよ。
不実な男より
君香殿
翌日の朝、彼の仕事はできあがった。降ナ誕タ祭ラから二十五日目であった。
三人の役人がそれをうけ取りに来た。
裕佐は綿で包んだ青銅のピエタを見せた。
﹁ハア、これですか!﹂
三人の役人は威儀を正してそれを見るとハッとしたように顔の色をかすかに変えた。そしてその聖ピエ像タと裕佐の顔とをかわるがわる見比べたあとで、役人同士また互いに顔を見合わせた。
﹁見事にできあがりましたな。﹂
二ふた人りの役人は同じようなことをいっせいにいった。
﹁これを今日いただいて行けるのですね。﹂もう一ひと人りはいった。
﹁まだそれ一つしかできていないのですから。﹂と裕佐は答えた。﹁あなたの方に上げるのは同じ物をもう一つ二つ型に取ってからにしてください。﹂
﹁しかし、とりあえず奉行にごらんに入れたいのですが。奉行もずいぶん楽しみに待っておられますんで、とにかく一両日でも拝借して行くことはできますまいか。﹂
裕佐は断わるわけには行かなかった。そして﹁どうか大事にしてください。﹂と惜しそうにいった。
三人の役人は鄭てい重ちょうにその聖ピエ像タを抱かかえて引きとって行った。
一七
奉行からはその後なんの便たよりもなかった。そしてその聖ピエ像タは四日たっても帰っては来なかった。裕佐はいらだって来た。彼はできあがったばかりの自分の作をもっと自分のそばにおいてゆっくりながめたかった。それに即しきった苦しい製作者の立場から、鑑賞者の自由に離れた立場に移って、心ゆく限りながめて楽しみたかった。人にも見せたかった。ことにだれよりも早く吉三郎姉弟に見せたかった。 ﹁あの豚どもめに見せるべき真珠ではないんだ。もったいない!﹂彼はこう奉行の冷淡と破約とに腹を立てて取りかえしに行こうとさえ思った。 しかしその晩であった。 彼は例のごとくおそく床にはいって、仕事以来いっそう癖になった不眠に悩んでいた。外には冬らしい風がさらさらと吹いている様子であったが、家の中はしんとして一間隔てた六畳から伯母のかすかないびきが聞こえていた。 その時彼の室の窓を何かコツコツとたたく者があった。ようやくまどろみかけていた彼はハッと目を見開き、そして黙って耳を澄ましていた。風で折れた木の枯れ枝が窓の戸に当たるのかなと思った。しかしまたコツコツとたたく音が聞こえた。たしかにそれは人の指がたたく音である。﹁もし人とすればだれだろう。﹂こう思うと、彼はにわかにいろいろの想像の興奮のために顔があかく輝いた。彼の頭の中に恐ろしい想像と、うれしい想像とが一時に混乱した。しかし恐ろしい想像の方が強くなった。﹁きっと吉三郎だ。これはろくなことではない。﹂彼はもはやこう決め込みながら、寝間着の襟えりをかき合わせて立ち上がった。そして、二歩ばかり歩いてその窓の雨あま戸どをあけた。 ﹁だれです。﹂ 彼はいって闇やみの中をにらんだ。 ﹁あたしよ!﹂ そこに立っていた一人の女性は頭ずき巾んを取った。 ﹁君香か!﹂彼はギョッとして思わず叫んだ。﹁ど、どうしたんだ!﹂彼は目をこすった。 ﹁しっ! 静かに!﹂君香はあたりをすばやく見回しながらいった。﹁ちょっと出ていらっしゃい! 大変なことなのよ!﹂ ﹁なんだ!﹂ 裕佐はヒラリと窓を飛びこえて外へ出た。そして戸をしめた。 ﹁あなた、大変よ!﹂君香は鋭くいった。﹁あなたぐずぐずしていると明日にもつかまるのよ! だからさア、早くあたしといっしょに逃げなさい!﹂ ﹁いったい、なんのことなんだ! どうしたわけなんだ!﹂ ﹁あなたの作った聖像がいま奉行所で問題になっているのよ。そしてあなたは切支丹ということになったらしいのよ!﹂ 裕佐にはなんのことかさっぱりわけがわからなかった。 ﹁あなたにわからないのはあたりまえよ、だけど、つまりあの聖像はあんまりよくできすぎたのよ。むろんあたしは見たわけじゃないけれど、お役人たちはたしかにあなたのお作の神聖な力に打たれたのよ。それであんな物を切支丹に見せたらそれを踏む気はしなくなって、かえってなおありがたがるだろうっていうのよ。﹂ ﹁そんならいいじゃないか。踏み絵の目的に成功したわけじゃないか?﹂ ﹁成功しすぎたのよ。それであんな神こう々ごうしいものを作ることのできるあなた自身もやっぱり切支丹にちがいない。それもよっぽどの深い信心にちがいないってことになったのよ。﹂ ﹁ヘッ! ばかな! なんのこった!﹂裕佐は呆ぼう然ぜんとなりながらも吐き出すように怒鳴った。﹁いったいどこから、いつ、だれがそんなことをいうのをお前聞いたんだ!﹂ ﹁あの赤毛の犬から聞いたのよ。今夜、たったさっき……﹂ ﹁赤毛の犬? フェレラから?﹂ ﹁そうよ。あの犬、近ごろ少し気が変になって、まるであたしのところに入りびたりなのよ。そうしてむこうはむこうであなたに妬やいてるのよ。﹂ ﹁何、おれに妬いてる? 犬のくせに……﹂ ﹁おまけに悪いことには、あいつ、あなたをてっきり信者だと思いこんでるらしいのよ。﹂ ﹁そうか。﹂裕佐はどきんと思いあたる顔でうなずいた。﹁それは不思議もないが、……じゃ、それでやつ……﹂ ﹁もっともあいつが計らったことだとも思えないわ。どうとも知れないけど、あいつ、あたしを憤おこらせることをこわがっているから。そんなことをしたら、あたし、あいつを殺しちまうから。﹂君香はちょっと言葉を切った。﹁でもあたしに振られたら、きっとあなたを告発するにきまっているから、あたしだってたいていじゃアなかったわよ。あの犬になめさしとくには。そうしてうまく安心さして、さんざんあなたの悪口をいいながら、とうとうばらさしてやったのよ。今度のことを!﹂ ﹁悪かった! おれがばかだったよ。ゆるしてくれ!﹂裕佐は強く握りしめた女の手に接せっ吻ぷんしていった。﹁しかし、いくらやつが意趣がえしにどんなに讒ざん訴そをしたって、こっちがそうでないことを明らかにすれアなんでもないじゃないか!﹂ ﹁まあ、どうしてそんなことができる? どんな方法でよ! そんな誓いぐらいで疑いの晴れるものなら、あたしだってこんな心配してあげはしないわ。あなた自分の心と胸を断ち割ってお役人に見せることができて?﹂ ﹁よし! そんなら逃げるばかりだ!﹂しばらく無言で考えたあとで彼は決然とつぶやいた。﹁おもしろい! 君といっしょならどんな無人島へでも行くぞ! だがちょっと待ってくれ!﹂ ﹁何か取って来るの? そんな暇はなくってよ!﹂と女はいった。﹁お金はあたしが少しは持っていてよ! さアお逃げなさい。すぐ!﹂ ﹁だが、どこへ!﹂ ﹁天草へ行くのよ! あたしの故おく郷にへ! あそこは無数の島があって昔から奉行の手が届かないただ一つの隠れ場所なのよ。そしてあたしの家にいらっしゃい! そしてしばらく様子を見ているのよ。それはあたしが知らせてあげるわ!﹂ ﹁なんだ。お前は行かないのか!﹂ ﹁あたしは行くことはできないのよ! 行きたいんだけれど。今夜あたしが飛び出たんでもうあたしのあとには追っ手がついているのよ。今ごろはきっともう大騒ぎをしてさがしていてよ。そしてあたしがつかまればあなたもつかまってしまうわ!﹂ ﹁だれが一人で行くものか! おれはそんなところで寂しさと憤慨のために死んじまうだろう。お前がつかまればおれもつかまってやるばかりだ!﹂ ﹁よくってよ。とにかくそこまでいっしょに行くわ! さアこのあたしの丹たん前ぜんにおくるまりなさい。﹂ 二人は闇やみと風の中を浦うら上かみの方へ向かって走り出した。 裕佐には運命の実相はどうしても信じられないのだった。それは本気で信じられるにはあまりに唐とう突とつなばかばかしい話に思われた。しかし身うけしたいと願っていた女と夜逃げをするということが彼の若い心に浪漫的な興味をいくらか燃やしていた。そしてその興味が、それでもなお一方に起きる恐怖ともつれ合って彼をおののかせていた。しかし峠の茶屋にさしかかった時彼女はいった。 ﹁お待ちなさい! ことによったらもうここに来ているかもしれなくってよ。あたし見てやるわ。あなたいっしょに来ちゃいけなくてよ!﹂ そして彼女は一人で進んで行き、中をちょっとのぞくと彼を手招ぎした。 ﹁いったいなんということになったのであろう! もしこれがほんとうに冗談でないとすると! そしてだれが、なんの権利があって、人をこんな目にあわせるのだ!﹂ と思うと、裕佐はむらむらと殺伐な怒りに燃えたつのであった。そして彼女のあとについて、その茶屋へはいって行こうとした時彼女の叫び声が聞こえた。 彼女は早くも彼らを見つけて、隠れていた二人の男に手を押えられてもだえていた。 ﹁お離しってば! つかまってやるから!﹂そして彼女は男の手にかみついた。 ﹁ふむ。お前だけのことならいくらでも離してやるさ!﹂男は軽く女の頭を突きのけながらいった。 ﹁だがほかにだれかいるだろう。お前がわざわざこの夜半にかけつけて駆け落ちを誘った色男がよ!﹂ ﹁ここにいる!﹂ 裕佐はそこへ出て突っ立ちながらいった。﹁それがどうしたんだ!﹂ 二人の男はうれしそうににやりと笑った。そして女の手を離した。 ﹁へ、案の定じょうおいでなすったな。色男。用事は馬にあるんじゃない。この牝めす馬うまに乗っている貴様にあるんさ。﹂ そういった男は降ナ誕タ祭ラの晩に裕佐がその手くびを握った与力であった。 ﹁貴様は切支丹だとあの時いったっけな。﹂ ﹁皆を助けてやりたいためにだ! だがおれが切支丹だったところでそれがなんだ! 貴様になんの関係があるんだ!﹂ ﹁あたりまえよ。あってたまるもんかな! だが国家にはあるんだそうだ。﹂ ﹁お前さんたちこの人を切支丹だと思っているのかい! 藪やぶにらみの当てずっぽにもほどがあるよ!﹂ と君香はつんざくようにあざ笑った。﹁もしこの人がほんとにそうだったらなんで自分の仲間を殺すような踏み絵なんぞを作るだろう! それだけでわからないってまあなんてばかな役人だろうね!﹂ ﹁役人がばかだろうとおれたちの知ったこっちゃねえや。とにかくいっしょに来りゃいいんだ。さあ。﹂ 裕佐は無念そうに黙って考えていたが、キョトキョトした娘の持って来た熱い茶を飲んだ。 ﹁よし、行くだけは行ってやってもいい。そしておれを切支丹だと疑うならおれはあの踏み絵を自分で踏んでやろう。そうすりゃいいわけだナ!﹂ 彼は茶を飲む事によって考えたことをいった。 ﹁ところがあの踏み絵を作った者の罪は、それを踏まない者の罪よりは重いんだそうだ。﹂復ふく讐しゅ心うしんに燃えた目を横に向けながら与力はいった。 ﹁まあなんですって?﹂裕佐よりも早く君香は叫んだ。﹁それならいったい踏み絵というものの意味はどこにあるんだろう! そんなことならわざわざ面倒な踏み絵なんぞを踏ませなくったって疑った者をただ片っぱしから殺して行きゃいいわけじゃないか。その方がよっぽどお前さんたちらしいわ!﹂ ﹁まったくさな! たしかに理屈はあらア。﹂と与力はいった。﹁奉行の前でそういって見ろよ! そのとおり! そうしたら多分ご放免にあずかるだろうて!﹂ ﹁さア。貴様はおとなしく楼うちへ帰れ。な。親方は心配してら。大事な玉がにげちゃったって。﹂ ともう一人の男が君香の手を柔らかく取っていった。﹁多分明日の晩あたりはまたおめでたくこの色男にあえるだろうよ。そしてお祝いの酒さか盛もりでもやるがいいやな。﹂ ﹁もうどうせにげたってだめだよ。お前のために網の目のような非常線を張られてあるんだからな。﹂与力はまた裕佐に向かっていった。﹁神妙について来るのが一番悧りこ巧うだよ。﹂ そして四人は茶屋を出た。一八
裕佐は奉行の前の訊問において態度が﹁尊大で皮肉﹂であったのが非常な損であった。そして彼に﹁手くびをつかまれて動けなかった﹂与力の復ふく讐しゅ心うしんがその損をなお大きくした。 ﹁とにかく踏み絵を踏まない者は処刑をうけるのが掟おきてだ。なぜうけるかというと国法にそむく切支丹、つまり国賊ということになるからだ。それはわかっているな。そして貴様はあの時自分でわざわざその国賊であることを与力に宣言してくれたそうだからな。﹂と代官はいった。 ﹁しかし君たちが僕を疑うたぐり出したのは君たちに頼まれたので僕が作ったあの踏み絵からではないのか。﹂と裕佐はいった。﹁だから僕はそれを踏んでやろう。なんならそれをここでぶちこわして見せてやろう。君たちの目の前で。﹂ 彼は君香が与力にいった言葉を繰り返した。 ﹁いや、わしはあの像が傑作であることは認めるんじゃ。﹂奉行は穏やかに口を開いた。﹁あの傑作はわしの方で大事に所蔵するだろう。信者の心をほんとうに試ためすにはあれくらいの傑作でなくちゃ役に立たぬでな。その点君の功労は永ながく記念しておくだろう。しかし﹂奉行はさすがにややいい渋りながらいった。﹁はなはだ奇怪な行きがかりになったわけではあるが、あの作に現われている君の信仰、――それはたしかに普通一般の信者のそれよりは力強く、深く、おそるべきものであるが、ここにいるすべての同僚が等しくそれを認めるがゆえに、われらは君を……﹂ ﹁ま、待ってください!﹂裕佐はどもりながらやっとさえぎった。﹁その、ここにいるすべての同僚とおっしゃるのは、実はただ一人の紅毛人のことじゃないんですか。その紅毛人の讒ざん訴そのためじゃないんですか。﹂ 裕佐はフェレラを見回したが、フェレラの大きな姿はなぜかその広い法廷内には見当たらなかった。﹁君とその紅毛人とどんな関係があるか知らぬが、その紅毛人とこの法廷とはなんの関係もない。﹂奉行は冷ややかに答えた。﹁紅毛人は日本の国法を裁く権利を持っていない。それでわれらは国法によって、君が刑に値することを宣告しなければならない。それはすなわち君が信徒として、また一種の伝道者として、ばてれん同様重んぜらるべき者であると認めるからじゃ。﹂ ﹁刑! 刑とはどんな刑だ。﹂ ﹁ばてれんと同じだ……。﹂ ﹁ばてれんと同じ……。死刑か﹂ そう叫ぶと裕佐はまっさおになり、土つち気けい色ろになり、そしてふらふらと倒れそうになった。 ﹁さよう。はなはだ遺憾ではあるが――﹂と奉行は語調を柔らげて宣告した。﹁しかし、それだけでは、いな、それだけでも充分処刑の理由にはなっているのじゃが、さらに万全を期していうならば、それだけの理由をもって君を処刑することはまだいくぶん審議不足の推量による処分であるとの非難をうけても仕方がないといえる。われらは法官としてどこまでも想像の推量を排し、現実の証拠を尊重する。われらは決して判決を急ぐ者ではない。じゃからして、その証拠を見ようではないか。今度の踏み絵の調査においてじゃ、君の傑作がもしわれわれの不吉な想像を裏切らなかったら、君は自分の仕事の成功の証明に免じて瞑めいしてくれなければならぬ。が、反対にもしわれわれの想像を裏切ったとしたらじゃ。君は生命の無事を大いに祝すべきじゃ。﹂ ﹁そ、それはひどい! あまりむちゃくちゃだ! そんなばかな、無法な……﹂ 裕佐は地じだ団ん太だを踏んだ。しかしその時はすでに訊じん問もん者しゃは席をたち、数人の男が彼の両腕を押えてひき立てていた。 かくて、審問は終わった。 その晩長崎の町には、踏み絵の鋳造者萩原裕佐が﹁特別なお慈なさけをもって﹂ひそかに斬ざん罪ざいに処せられるそうだといううわさがひろまった。一九
正月の二十八日から三十一日まで、四日間にわたって踏み絵の儀式は奉行所において荘重に行なわれた。そしてその儀式には裕佐の作﹁青銅のピエタ﹂がつかわれた。
三日間のうちに十五名の踏み得ざりし者が現われた。かかることは前例のないことであった。
最後の日、さらに四人の者がそれを踏まないことのために早朝から捕えられ、﹁検しらべ﹂のために残された後、モニカは白しろ無む垢くの装束を着け、したたるごとき黒髪を一ところ元もと結ゆいで結び、下げ髪にしてしずしずと現われた。
水を打ったごとき式場の中央に藁わら莚むしろを敷き、その上に低い台を置き、さらにその上に踏み絵は置かれてあった。そしてその左右には与力が向かい合いに床しょ几うぎに腰をおろし、一々の者の﹁踏み方﹂をきっとにらみ見ていた。
モニカは神色自若としてその前に進み、ひざまずき、まずその像を手にとってじっと打ちながめた。
﹁あああなたは、やはり信心を持っていらっしったのですね、ありがとう。﹂
役人にも聞こえぬほどの低い声で彼女はこうつぶやいた。そして急にそれを抱きかかえるごとくひしと胸に押しあて、接吻し、またそれをうやうやしく台の上におくと手を合わせて拝んだ。もちろん彼女はその場に引き立てられた。
モニカのしらべは朝の五ツ半時ごろであったが、二千人以上の﹁踏み方﹂がおわって、丸山連の番になったころにはもう日暮れに近かった。
その丸山連の中に君香がいたことはいうまでもなかった。彼女はモニカと同じことをし、そして自分をつかまえた役人にいった。
﹁あたしは信者ではないのよ。それはほんと。だけどあたしにはこのお像を踏むことはできないわ! 人間としてそんなことはできないわ。さあ縄なわをおかけなさい。地獄の犬殺しさんたち。﹂
そして彼女はひき立てられながらいった。﹁ああうれしい! あたしは今日の日をどんなに長く待っていただろう!﹂
すべては裕佐の仕事の勝かち閧どきを宣すると同時に、はしなくもその運命の不利を動かすべからざるものとする結果になったのであった。
翌日の夕方、立山の刑場には二十一の新しい十字架がたてられていた。しかしそこにひき立てられた者は二十一人ではなかった。二十一人がその十字架にくくりつけられた後、さらに二人の男囚が意外なところからひき立てられて来た。それは長老アントニオ・ルビノと萩原裕佐とであった。
この二人の面被がはがされた時、二人の女が十字架の上で叫び声をあげ、そしてその一人はその場に気絶をしたまま息を引きとった。それは君香であった。彼女はその一週間前からまったく絶食していたのであった。
長老は一同に最後の言葉をかけることができないように、その口を布でふさがれていた。
﹁ああ長老様! もう何もおっしゃることはございません。あたしたちは勝ちました。天国はあたしたちの物でございます!﹂
﹁おおなんという光栄な喜び!﹂モニカは煙の中でもう一度こう叫んだ。
裕佐は刀を持って自分の方に進んで来る男を見ると、だしぬけにその胸をけ飛ばした。そしてまっしぐらに竹矢来の方に向かって走りながら﹁助けてくれ! だれか! だれか! 吉三郎!﹂と叫んだ。
血走った彼の目は狂うごとくこの友をさがしていた。あたかもその友の救いに最後の望みをかけていたように。しかし彼の縛された手には縄なわがついていた。その縄で彼は後ろに引き倒された。彼は起き上がり、そして自分を捕えに来た者を再び蹴けろうと足を上げた時、
﹁助けてやろう、おなさけだ!﹂
という声が後ろにして、白刃が背中から彼の胸を突き抜いた。彼は足を宙に上げたままたおれた。
かくして奇怪なる運命のあやつりによって生涯としては二十七を最期に、仕事としては﹁ただ一つの聖ピエ像タ﹂をこの世への供物として、彼はあえなく死んだ。
その時その刑場で一人の版画師が﹁二人の女と南蛮鋳物師の死﹂という諷ふう刺し画がを描いていた。
﹁ああおかげでわしにもまた傑作ができたわ。﹂
その男は、矢立てを帯に突っ込むとこういって、そのなまなましい残忍な画を役人たちの前で一同に見せながらトゲトゲしく大きな口をあいて笑った。いうまでもなくそれは孫四郎であった。
しかし﹁あなたはやはり信心を持っていらっしったのですわね!﹂とモニカがいったことは誤りであった。
萩原裕佐は最後まで決して切支丹ではなかったのである! 彼はただ一介の南蛮鋳物師にすぎなかったのである!
――大正十一年十一月二十九日――
――昭和十四年改訂――
付記 寛文のころ長崎古川町に萩原という南蛮鋳物師がいたこと、そしてその踏み絵の神こう々ごうしくできすぎたため信者と誤られて殺されたことは事実である、また拷問の仕方や、始めの歴史叙説はむろん、沢野忠庵という転ころび伴ばて天れ連んが踏み絵を発明したことも事実であり、アントニオ・ルビノというばてれんが、殺されたことも事実である。ただしそれらが同時代であったかどうかは自分は知らぬ。この作の生まれるヒントを与えてくれた長崎永見氏にここで記念としてお礼を述べておく。なお参考として小野氏著﹁切支丹の殉教者﹂及び﹁日本における公教会の復活﹂﹁幕府時代の長崎﹂﹁長崎年表﹂を見たことを記しておく。またこの作にはことさらに多少の時代錯誤をあえて許しておいた。たとえば寛文時代に浮世絵の版画が長崎にあった事などは歴史的には錯誤であるが、元来純然たる歴史小説ではなく、史材にヒントを得た余の創作であるから、史的事実は歴史に拠よってもらうまでのことである。
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後記
この作の主人公萩原裕佐を小説や脚本に書いた人は、自分のほかにも二三いる。いずれもこの作より後に発表されたもので、自分は読んでいないが、この史料に接した作家はだれしもその感動すべき数奇な悲劇的運命に創作の感興をそそられたのであろう。自分は当時、大正十二年﹁改造﹂新年号にこれを発表するため、筆を急ぎ、また枚数なども雑誌のおのずからな制限につい縛られ、終わりの方は、ほとんど梗こう概がい風な書き方になってしまった。そのためストーリーの運びの切り盛りと密度との上に均衡がとれず、書き出しの調子の緩慢なのに比して、あとへ行くほど駆け足の急調になり、しかも無理にぎゅうぎゅう押しこんだようなはなはだ不体裁なものとなってしまった。急いだことが悪かった上に、もともと読み切りとして雑誌に発表することが――ことに自分のような書き方をする者にとって――無理だったのである。 その後単行本や文庫なぞに入れるに際して多少手を入れはしたが、病中であったりしたため十分な添削ができず、不満なまま版を重ねたりした。ところが昭和十年ごろであったか、一高教師であったワイディンガーというドイツ人がある時突然手紙をよこし、この小説をドイツ文に翻訳したこと、すでに翻訳は完了していて、近日帰国の上ライプチヒで上じょ梓うしする運びとなっているから、今さら訂正等のことはいい出してくれないようにとの申し込みに接した。自分は驚き、それは一ひと言こと前にいってくれなければ困る。実はあの原作にははなはだ不満があり、その手入れをしたものが自分の所にあるから、作者の意思もくんで、面倒ではあろうが、翻訳はそれによって改訂のように直してもらいたいと請求した。改訂のものが手もとにあることはもちろん事実であった。しかしワ氏は頑がんとして肯きかず、それはもはや間に合わぬ。また作者の後日の改訂が必ずしも作を良くするとは限らないゆえ、断じて応じ難い。もししいてというなら、当方には弁護士もいるから、場合によってはどうのこうのとまるで脅きょ嚇うかくであった。 自分はせっかくのことで、また日本文壇のいくらか名誉不名誉にも関することだからと考え、慍いきどおりを怺こらえて、氏を家に招いて懇談し、また同じ一高教師であった片山敏彦君からも説得してもらうように頼んだが何もかも無効で、ワ氏はそのままプイと帰国してしまった。何か月かの後、自分は岩波茂雄氏の部へ屋やで偶然そこに届いていたライプチヒ版の独訳﹁青銅の基督﹂を見、一部をもらって帰ったが、ワ氏から自分の所へはもとより贈っても来ず、ことにワ氏が牧師であると聞いているだけ、その人柄の下等さに自分はあきれるばかりであった。 そんなわけで岩波文庫の版は絶版にしてもらったが、その後一、二年の後、さらに今度は国際文化協会からの話で、この作をブラジルへ贈るにつきポルトガル語に訳すに当たり、まず仏文に訳したいからといって山田キク女史が小場瀬氏と二人で見えた。それで今度こそは間違いないように改訂のものを渡してたのみ、これはもちろんまだ手をつけた仕事でなかったので、その通りになった。その仏文の訳が原もとになって、その後さらにイタリー文にも訳され、かの地の新聞に連載され、何千リラ︵日本の金で二、三百円のものだった︶を受け取ったりした。むろん材料の関係ではあるが、自分の作品中でこんなに他国語に訳されたものはほかに一つもない。 岩波の文庫のものはその絶版のままになっていたが、その後︵昭和十八年︶聖紀書房という書しょ肆しから歴史物集として上じょ梓うしされたのがこの改訂版の最初であった。それは最初のものから見ると、原稿にして十枚以上も長くなっており、よほど荒筋じみた所は少なくなったが、それでも最初の構図の徹底的改訂というわけには行かず、やはりあとから見ればまだまだ梗こう概がい的てき性格は抜けず、また筋の運びの上にもこうすればもっとおもしろくなったのにと残念に思う点は、方々に見いだされてくる。しかし二十何年も前に書いたものを一々そういって現在満足の行くように書き改めていてはキリがなく、また不備にして拙劣のように思える所があっても、若い時の作にはその時ならでは書けぬ一種の美点もないではない。それでまあまあこの作はこれだけのものとして我慢し、放免することにした。 ﹁萩原裕佐は最後まで決して切支丹ではなかったのである! 彼はただ一介の南蛮鋳物師にすぎなかったのである!﹂ という結末の文句なぞは蛇だそ足くで、あんな説明はなくともすでに充分わかっているといってくれた人もあり、その通りと同感しながらも、それも削らず、ほうっておくことにした。 最後に一言しておきたいことは、普通ならばこういう切支丹ものを扱うに当たっては、ことにここではその舞台である長崎の情緒をもっと浮かび出させるために、長崎弁を人物に使わせたり、いわゆるエキゾチックのにおいを出すことに努めたり、要するにどこまでも趣味的あそび気分を出ないものに終わっているのが常である。自分はそれがいやであった。切支丹の史実というものは実に日本歴史の中でもある意味で最も日本国民の頼もしい美点を発揮した事柄であり、また世界史の一端として見ても重大なポイントをなす尊い史料である。それを――今日はともかくとし、――大正時代のころまでは文壇詩壇の人々がまったくただディレッタント式に道楽半分の気分で取り扱うにすぎないことが自分にははなはだ物足りず、むしろ真剣な悲劇的史実に対する不謹慎な冒ぼう的とくてき態度として不愉快に思われた。それで自分はわざとその反対な正面的書き方をした。作中の会話を長崎弁にするくらいのことは、自分の郷里も長崎県大おお村むらで、知人もいくらもいるので、それに見せて直すことはなんでもなかったのである。 先日この作はラジオ・ドラマのため脚色され、放送された。そして自分はそれを聞きながらやはり今でも涙ぐんだ。一つは若い時の制作の情熱に打たれ、一つはその物語そのものに打たれて。といってももちろん半分以上作りものではあるが、自分はやはりこの作には特別な愛を感じている。欠点はいろいろあってもやはり自分でなければ書けないものが出ているからである。――一九五〇・七――
長与善郎