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序詞
(祇園精舎)
祇ぎお園んし精ょう舎じゃの鐘の声、諸行無常の響ひびきあり。娑しゃ羅らそ双うじ樹ゅの花の色、盛しょ者うじゃ必衰の理ことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛たけきものもついにはほろびぬ、偏ひとえに風の前の塵ちりに同じ。
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第一巻
二十余年の長きにわたって、その権勢をほしいままにし、﹁平家に非あらざるは人に非ず﹂とまで豪語した平氏も元はといえば、微力な一地方の豪族に過ぎなかった。 その系譜をたずねると、先ず遠くさかのぼって桓武天皇の第五皇子、一いっ品ぽん式しき部ぶき卿ょう葛かず原らは親らの王しんのうという人物が、その先祖にあたるらしい。 葛原親王の孫にあたる、高たか望もち王のおうは、藤原氏の専制に厭いや気けがさし、無位無官のまま空しく世を去った父の真ま似ねはしたくないといって、臣籍に降下し、中央の乱脈な政治を見限って、専ら、地方で武芸をみがいてきた。その子良よし望もちから正盛まで六代、諸国の受ずり領ょうとして、私腹を肥やす傍ら、武門の名を次第に轟とどろかしていったのである。 正盛は、白河法皇に仕えて、信任を得、その子忠ただ盛もりは、鳥羽院に取入って、それぞれ、徐々に勢力を拡張していった。といっても、たかだか、受領職にある身では、とても昇殿を許されるというところまではいかない。当時にあっては、昇殿を許され殿てん上じょ人うびとと親しく交わることが、及びもつかない栄誉であったから、この律りち義ぎで賢い田いな舎か武士、忠盛の心に昇殿を望む気持が頭をもたげてきたのは当然のはなしである。殿上の闇やみ討うち
昔の権力者は、地位が安定してくるとやたらに、お寺とか、お墓とかを建てる習慣があったらしい。人力では及びのつかない、神仏の加護を借りて、権力の座にいつまでも止とどまることを願うという心理にもとづくものである。鳥羽院もかねがね三十三間の御みど堂うを建てたがっていた。これが忠盛の尽力で完成したときは、大へんな喜びようだったといわれる。そのとき備びぜ前んの守かみだった忠盛は、但たじ馬まの国くにの国司に任ぜられ、その上、あんなに待ち望んでいた昇殿を始めて許された。時に忠盛は、三十六歳の男盛り、その感激は又ひとしおであった。 ところが、ここに意外なところから、反対運動がもりあがってきた。それは、今まで、さしたるライバルもなく、呑のん気きにあてがい扶ぶ持ちに満足していた公卿たちである。 ﹁どうもあの男は、唯のネズミではない、今の内に始末しておかないと、とんだことになるぞ﹂鷹おう揚ような公卿の中にも、敏感に頭の働く男がいたようである。 それが、事のはじまりで、天承元年の十一月二十三日、豊とよ明あかりの節せち会えの繁雑さにまぎれて、やっつけてしまおうという計画がいつかできあがってしまった。 一方忠盛の方も面白くない胸の内を、お世辞笑いにまぎらしている公卿の気持が手に取るように判るから、こいつは今に何か面倒なことがあるなと思っていた。ともかく計画というものは、大方、どこからか情報がもれてくるものだが、恐らくは、忠盛ほどの男だから、密みっ偵ていの一人や二人は、しのびこませていたにちがいない。事前に、計画は筒つつ抜ぬけになった。 もちろん、こういう挑戦を聞いては、もともと、武士の生れで、武器をとっては、後おくれをとらない忠盛のことだから、内心は、むしろほくそ笑えんでいたのかも知れないが、﹁まあ本職の武士が、遊び人風ふぜ情いの公卿なんかにやられたとあっては、名折れだし、第一、近頃、目をかけてくれている鳥羽院だって、がっかりしちまうだろう﹂――武骨者にしては、用意周到な知恵者でもあった忠盛は、何を思ったか、わざわざ刀を小脇にかかえて参内した。 戦場で鍛え上げた忠盛の目は、宮中のうす暗いところで、かすかに人の気配のするのを敏感に感じ取った。彼はやおら、刀を抜き放つと、びゅん、びゅんと振り廻まわしたからたまらない。大体が、臆病者揃いの公卿たちは、闇やみ夜よにひらめく一いっ閃せんのすさまじさに、かえって生きた心地もなく、呆ぼう然ぜんと見ていただけだった。 主人が大胆な男だから、家来の方もまた粒よりだ。左さひ兵ょう衛えの尉じょ平うた家いら貞のいえさだという男は、狩かり衣ぎぬの下にご丁寧にも鎧よろいまでつけて、宮中の奥庭に、でんと御みこ輿しを据えて動かない。蔵くら人んど頭のとうの者が、目ざわりだから、どいてくれと言うと、こっちは、待ってましたとばかり、 ﹁どうも今夜あたり、闇討があるって話ですね。やっぱり主人の死に際は、見ておきたいからね﹂と洒しゃ々あしゃあと答えたまま平気な顔をしていたという。 ここまではっきりいわれては、どうにも仕方がない。闇討計画は、自然、おじゃんになってしまった。 やがて節会がにぎやかにはじまると、忠盛も、鳥羽院にうながされて、舞を舞いはじめた。武芸にすぐれ、度胸満点の忠盛も、舞の方は余り得え手てではない。それにこの人は生れつきの眇すが目めである。眇目の踊りは、どうひいき目にみても、余り優美ではなかったろう。それを公卿達は喜んだ、日頃のうっぷんをはらすのはこの時とばかりにはやし立てる。 ﹁伊いせ勢へ平い氏しは眇すが目め、伊勢平氏は眇目﹂ この単純な言葉の中には、忠盛の自尊心をおそろしく傷つけるものがあった。 伊勢は元々、平氏の本拠である。ここはまた、陶器の産地であって瓶へい子しや酢すがめが作られる。 今は、昇殿も許され、殿上人に伍ごして舞う身ながら、元はといえば、お前なんか、伊勢の田いな舎かものじゃないか、ひっこめ、ひっこめ、というわけなのである。 さすがに忠盛も、この意地悪な公卿共の相手が、わずらわしくなってきて、刀を主との殿もり寮ょうに預けるとさっさと帰ってきてしまった。 ところで、腹の虫のおさまらないのは公卿達である。闇討は、ばれてしまうし、折角、酒のサカナにして、満座で恥をかかせようと思うと、とっとと帰ってしまうし、このまま引き下るのは、何としても業腹である。すると、その一人が、 ﹁大体、節会の晩に、刀を持ってくるというのは、不見識きわまる﹂ といい出した。 ﹁まったくだ、第一、あいつは、武装兵のお供まで連れていたんだぞ﹂ ﹁こりゃ、明らかに、法律違反じゃないのかな﹂ 理由さえつけば、でっちあげは、お手のものである。早速、代表者が、鳥羽院のところへ訴えてきた。 呼び出しが来ても、しかし、忠盛はあわてなかった。むしろ、今来るか、今来るかと待っていたところである。心配そうな鳥羽院や、ざまあ見やがれとでもいった公卿たちを尻しり目めにかけて、彼の弁舌はさわやかであった。 ﹁どうも、私の知らないうちに、家の者が、勝手に何かしたらしいですなあ。何か不穏な噂うわさでも聞きこんで、心配して来たんじゃないかと思っています。もし何なら、呼び出しましょうか? どうも近頃の若い者は、気が早くて困りますよ。何? 刀、ああ、あれは、主殿寮の人に渡した筈ですよ、とにかく、中を見てから、文句はきかせて頂きましょう﹂ こういった調子である。ところで、問題の刀が提出されてみて、公卿達は、あっと、驚いた。中には銀箔を塗った木刀が、麗々しく、黒塗のさやに納っていたのである。鱸すずき
仁にん平ぺい三年正月、忠盛は、五十八歳で死に、息子の清きよ盛もりが、跡を継いだ。 清盛は、父親にもまして、才覚並々ならぬ抜目のない男だったらしい。保ほげ元ん、平へい治じの乱と、権力者の内紛に、おちょっかいを出しながら、自分の地歩は、着々と固めていって、さて皆が、気がついた時分には、従じゅ一うい位ちい、太だじ政ょう大だい臣じん平清盛という男が、でき上っていた。異例のスピード出世というところである。 この時代は、成功も失敗も、一様に、神仏に結びつけたがる傾向があった。平氏の繁はん昌じょう振りをみて、これは、熊くま野のご権んげ現んのご加護だと誰からとなくいい出した。ところが、この噂の出どころは、実は清盛なのである。 伊勢から熊野へ渡る航海の途中、鱸が、清盛の船の中にとびこんできた。 乗り合せていた案内人は、この時とばかり、 ﹁こりゃめでたい、熊野権現のおしるしですぜ﹂とお世辞をいった。もちろん、清盛は、心中でニヤリとしたが、そこは、神妙な顔で、 ﹁うん、わしが昔読んだ書物に、天下を平定した周しゅうの武ぶお王うの船にも、白魚が躍りこんできたとかいう話があったのを覚えてるよ。とにかくめでたいことだから、こいつをみんなで喰おうじゃないか﹂ といった。清盛の脳のめぐりの良さも知らず、乗船の一同、恐きょ懼うく感激して、一きれの魚を味ったに違いない。予想通り、この話が、巷ちまたに伝えられて、熊野権現加護説を生み出したのだから、まさに清盛の思う壺つぼだったというべきである。禿かぶ童ろ
清盛は、五十一歳の時、出家し、浄じょ海うかいと名乗った。大病にかかったのが、きっかけで、さしもの彼も、少しばかり、気が弱くなったらしい。しかし、たちまち、病は全快、彼はつるつる頭を撫なでながら、﹁まだ当分生きられるぞ﹂といってほくそ笑んだ。 とにかく、平家一族の繁栄振りは、ちょっと類がなかった。かつての名門の貴族たちにしても、今では、まともに顔も合せられない有様である。 平家に非ずんば人に非ずといった言葉も、むしろ当然のように迎えられたし、六ろく波は羅ら風と言えば、猫も杓しゃ子くしも、右へならえで、烏え帽ぼ子しの折り方やら、着つけの仕方まで、皆が平家一族を真似するのである。 こういった平氏の専横に対して、不満の声のない方が不思議な位なのだが、そこはそれ、万事、ソツのない清盛入道は、言論弾圧の機関もちゃんと用意していた。いわゆる平家直属の秘密警察とも言えるこの一隊の正体は、十四、五の少年部隊である。髪をお河かっ童ぱに、赤い直ひた帯たれを着た禿童と呼ばれる面々は、街々の角々で、一ちょ寸っとした噂うわさばなしにさえ、聞耳をたてていた。一言でも、平家の悪口なぞ、いおうものなら、たちどころに、家財没収、強制収容の憂き目に会う。今はただ、眼をとじ、耳をおさえ、口をふさいで、人々は、黙々と平家の命に従うばかりである。それを良いことにして、禿かぶ童ろたちは、京の街々を、我が物顔に歩き廻る。今日の愚連隊どころではない、絶対の権力を背景にしているだけに、それはもっと始末の悪いものだったにちがいない。一門の栄華
平家一族は、高位、高官の顕職を、ほしいままにし始めた。一寸見廻しただけでも、長男重しげ盛もりは、内ない大だい臣じん兼左さだ大いし将ょう、次男宗むね盛もりは、中ちゅ納うな言ごん右大将、三男知とも盛もりが三さん位みの中将、孫の維これ盛もりが四しい位の少将といった具合である。このほかに数えあげれば、きりがないくらいで、参さん議ぎ、大、中納言、三位以上の公卿十六人、殿上人三十余人、各地の地方官がざっと六十何人という盛況だった。 清盛は、息子のほかに、八人の娘を持っていたが、これ又、揃いも揃って、権門、貴顕に縁づいている。即ち、花かざ山んの院いん左大臣の奥方、建けん礼れい門もん院いんといわれた安あん徳とく天皇の生母、六ろく条じょ摂うの政せっしょう、藤ふじ原わら基もと実ざねの奥方で白河殿と呼ばれた人、普ふげ賢ん寺じ藤原基もと通みち夫人、冷れい泉ぜい大のだ納いな言ごん夫人、七しち条じょ修うし理ゅり大だい夫ふ夫人、今一人は、白河法皇の女にょ御うごで、最後は、の御おん方かたと呼ばれる、花山院の上じょであった。妓ぎお王う
当時、京都には、妓王、妓ぎじ女ょと呼ばれる、白しら拍びょ子うしの、ひときわ衆に抜きん出た姉妹があった。その母も刀と自じと呼ばれ、昔、白拍子であった。 清盛が目をつけたのは、姉の妓王で、片時も傍を離さずに寵愛していた。おかげで、母親も妹も、家を建てて貰ったり人にちやほやされて、結構な暮しをしていた。 白拍子というのは、鳥羽天皇の時代に、男装の麗人が、水すい干かん、立たて烏え帽ぼ子しで舞を舞ったのが始りとされているが、それがいつか、水干だけをつけて踊る舞姫たちを白拍子と呼ぶようになったのである。 京の白拍子たちは、玉の輿こしにのった同性の幸福を羨うらやんだり、ねたんだり、中には、せめてその幸せにあやかりたいものと、妓王の妓をとって、妓一、妓二などと名前を変える者まで出るほどの評判であった。 その間にも、月日はいつか過ぎて、三年ばかり経った頃、加かが賀のく国にの生れだと名乗る一人の年若い白拍子が、彗すい星せいのように現れた。仏ほとけという変った名前を持つ、まだ十六歳のうら若い乙おと女めであった。この娘の舞を見た者は、優雅な姿態と、さす手、ひく手の巧みさに魅せられて、異いく口どう同お音んに、その素晴しさを賞ほめ讃たたえるので、たちまち京の街の人気をかっさらってしまった。 ぽっと出の田いな舎か娘が、これほどの成功をかち得たのだから、満足してもよさそうなものなのに、欲望と野心は際限のないものである。仏は、自分を天下人である清盛に見て貰いたいと言い出したのである。 ﹁私の名もこれほど宣伝されてるし、清盛様だって噂ぐらい聞いてる筈なのに、一度も招よぼうとしないんだから、待ってたってしようがないわ、どうせ、私たちは芸人で、芸を売るのが商売なんだから、押しかけたってかまうものですか﹂ 若いだけに度胸が良い。思い立つと仏は、早速、紹介状もなしに清盛の邸へやってきたのである。今をときめく人気スターの訪問に、家来の方が喜んでしまった。 ﹁今評判の仏御前が、参りました﹂ といそいそと、清盛に取次いだ。 ﹁何、仏?﹂ 清盛だって、名前ぐらいは、とっくに耳に入っているくせに、どこの仏が来たと言わんばかりの意地の悪い顔つきで家来をにらみ据えた。 ﹁それが、例の人気者の白拍子、仏御前の事でして﹂ ﹁バカ者めが﹂ 清盛は大だい喝かつした。 ﹁どこの仏か神か知らないが、招ばれもしないでのこのこやってくるとは、何たる身の程知らずの女だ。第一、この清盛には、れっきとした妓王という白拍子がいるのを、知らんことはないだろう。とにかく、そういう、押し売りみたいな奴には用はないんだ、とっとと追い出してしまえ﹂ つむじを曲げたら、てこでもきかないという清盛が、頭に湯気を立てて怒っているのだから、家来も驚いて、青くなって出ていってしまった。 側で終始、清盛の腹立を、はらはらしながら見ていた妓王は、元来が、気質のやさしい女である。興奮の鎮しずまるのを待って、それとなくとりなしにかかった。 ﹁そんなに私の事を大事にしていただきまして、何とお礼も申しようもないくらいですけど、でもねえ、芸人なんてものは、売りこみが、出世の第一なんですからねえ、それに聞けばまだ若い子らしいし、何だか、私も昔を想い出しちゃって身につまされてきますわ。一寸でも逢ってやるだけで、良いじゃありませんか? あれじゃ、余り身もふたもありませんわ、もう一度、思い直して下さいません?﹂ 興奮がさめてみると、清盛にしても、余り大おと人な気げないやり方で、一寸恥ずかしい気がしないでもない。その上、可愛い女に、やんわり口く説どかれれば、そこはそれ、男の弱味で、強いて反対もできないものらしい。 邸を出ようとしていた仏は、たちまち呼び返されて、清盛の前に連れて来られた。逢ってみると、何せ、今をときめく白拍子である。年は若いし、器量は良いし、その上、持ち前の度胸のよさで、清盛の前に出ても、ハキハキと受け答えする様子が、いかにも溌はつ剌らつとしていて、かつてない新鮮な色気を感じさせる。 ﹁今いま様ようでも歌ってみろ﹂ といわれれば、 ﹁殿とのに逢えた嬉しさに、私の命も伸びるでしょう﹂ と、臆する色もなく、受け答えをしてから、目出度い歌を口ずさむ機転の良さに、清盛の気持も次第に和なごやかになってきた。 ﹁歌がうまいのなら、舞うのもうまそうだな、一つみせてくれないか。おい、こら、誰か鼓つづ打みうちを呼べ﹂ さっきの怒りもどこへやら、いつか一座は、陽気なざわめきに満されていった。 仏の舞姿は、一段と又みごとであった。あでやかな姿形、豊かな声量、巧みな歌いっ振りに、いつか、清盛の目は仏に釘くぎ付づけになっている。ひとさし舞い終ったとき、仏を見てほっと我に返った清盛は、門前払いを喰くらわせたことなぞ、とうの昔に忘れたように、仏の袖をとらえて、口説き出すのである。予想以上の上首尾は、嬉しいけれど、さすがに仏も、それほど、厚顔無恥な女ではなかった。 ﹁いいえ、それはいけません、とにかく、私は、妓王様がいらっしゃらなければお目通りもできなかったんですもの。そればかりは、いくら私だって恥ずかしくて﹂ 仏の拒否に遭って、清盛の執着は、一層つのってきた。 ﹁何も、そんな、遠慮することはないではないか。だがな、お前が、妓王のいるためにそういうことをいい出すんだったら、妓王をくびにしちまえば良いんだろう。そうだ、それがいい﹂ ﹁とんでもない﹂ 清盛のとっさの思い付きに、仏は一層驚いた。 ﹁一緒にご寵愛をうけるのさえ、気がひけるというのに、そんな、恩人を追い出して、私が居坐るなんてことがどうしてできましょう、とにかく今日のところはこのまま返して下さい﹂ ﹁いや、わしはお前が一目で、好きになったんだ、どうあっても、お前はわしのものにする。それより妓王、何だ、まだそんなところにうろうろしおって、お前は早くあっちへゆけ﹂ 清盛は、その場を去る事もならず、目のやり場に困って、隅にかしこまっている妓王に、情なさけ、容よう赦しゃのない言葉を浴びせかけた。 もともと、気の変りやすい清盛の許に奉公して、いつかは、こういう目にも遭おうかと折につけては想像していたものの、余りにも早くやってきた破局の意外さに、妓王は言葉もなく、涙ぐむばかりである。 思い立ったら、赤児よりも始末の悪い清盛のことだから、口答えなどはしたくともできず、妓王は、三年の間、なれ親しんだ西八条の住居に別れを告げたのであった。別れるとき、妓王は、居間の障子に一首の歌をかきつけた。 もえ出るもかるるも同じ野辺の草 いずれか秋にあわではつべき 今は得意絶頂の仏さま、貴あな女ただっていつ何時、私みたいなことにはなりかねないかも知れませんよ。――それは、妓王の精一杯の無言の抗議だったのである。 妓王が西八条からはなれたことはたちまち、京都中に知れ渡った。毎月欠かさず母の許に送られてきた、手当金もぱったり途絶えた。そして今は仏御前の親類縁者たちが、莫ばく大だいな仕送りで生活しているという噂がひろがっていた。清盛の寵姫であったあいだは、高たか嶺ねの花よと諦めていた妓王が、一度び市しせ井いの人間になると、あっちこっちから、口がかかってきた。しかし妓王は、もう二度と、人の想い者にはなりたくはなかった。清盛の屋敷でうけた手痛いショックは、かつての陽気で、明るい妓王の性格をすっかり変えてしまったのである。妓王は毎日外に出ず、内にひっそりとして暮していた。 その年も暮れて、春になったある日、清盛のところから使いがやって来た。 ﹁近頃如ど何うしている? 仏がどうも退屈してるらしいから、慰めに来てくれ﹂ という虫のいい文句である。今更返事をするのもしゃくだから、ほったらかしておくと、 ﹁何な故ぜ返事をしないのだ、来るか来ないかはっきりしたらどうなんだ、そっちがその気ならこっちにも考えがあるぞ﹂ と今度は重ねて脅迫めいた伝言の仕方である。どんな残酷なこともしかねない清盛の気性を知っている母親は気が気ではなかった。 ﹁何とか返事したらどうなんだい? あの様子じゃ、お前、どんなことをされるかわからないよ﹂ 母はそれとなく、西八条へ行く事を勧める様子である。 ﹁でもね、お母さん、考えてもご覧なさい、行くならば行くって言いますよ。行かないのに、行きませんなんてはっきり言えるものですか。どっちにしたって、田舎に追放か、それとも殺されるか、私は、もう如ど何うなったって構わないんです、おめおめ、あの人の前に出ることとくらべたらその方がまだずっとましですわ﹂ ﹁お前の気持は、よくわかるけどね、今の世の中で、あの方に反抗して、一体、どんな利益があると思う? 第一、男女の問題なんてものは、千年も万年もって具合にいくもんじゃない。お前なんか三年間可愛がって頂いただけでも大したものと思わなくちゃ。それに若いお前は、田舎のあばら屋でも我慢もできるだろうが、私はどうしても都を離れたくないのだよ﹂ 涙ながらにかきくどく母の言葉には、抗さからうすべもなく、妓王はいやいや、妹と他の二人の白拍子と連れ立って西八条に出かけていった。 その日妓王の通された席は、以前とは段違いの末席である。 悪いこと一つしたわけでもないのに、暇を出されて、おまけに席まで落されるなんて余りだわ。 今にも涙ぐみそうになるのをぐっとこらえている妓王の様子に、仏御前の方が胸が一杯になってきた。 ﹁あんな末席にお通ししなくたって、元はここがあの方の場所だったところなんですよ、あの方を、ここへお呼びなすったら?﹂ といったが、清盛は知らん顔である。仏御前はいたたまれず席を外してしまった。 すると清盛は妓王に、 ﹁今まで、どうしていたんだ、何しろ仏が退屈しおって淋しがるからなあ、まア歌ったり踊ったりして慰めてやってくれよ﹂ 清盛の言葉に、妓王は口惜しさが胸にこみあげてきたが、じっとこらえて歌い出した。 仏ほとけも昔は凡夫なり 我等も遂には仏なり。 何いずれも仏ぶっ性しょう具ぐせる身を 隔へだつるのみこそ悲しけれ。 俗ぞく謡ように事よせて、切々と歌い続ける妓王の姿は、並みいる人の涙をそそるものがあった。清盛も少しは気の毒に思ったらしく、ねぎらいの言葉を与えて家へ帰した。 我が家に帰りつくと妓王は又さめざめと涙を流しながら、こんな生き恥をさらしているより死んだ方がよっぽど良いと母の膝によりすがって、かき口く説どく。妹の妓女も、姉が死ぬならと、暗に、自殺をほのめかす。年老いた母一人が、おろおろしながら、二人の短慮を戒めて、もう一度考え直させようとする。それにつけても、清盛の仕打ちの口惜しさが、又想い返されてきて、母おや子こは又涙に埋れるのであった。 ﹁お母さんの仰おっ有しゃるのも尤もっともです。それなら都にいさえしなければ、こんないやな目にもあわずに済むんですもの﹂ と妓王は、二十一という花の盛にいさぎよく別れを告げると、髪を切って嵯さ峨が野のの奥に小さな庵いおりをつくって引ひっ籠こもってしまった。姉の出家に刺激され、妓女も十九で髪を下し、念ねん仏ぶつ三ざん昧まいに日を送るようになった。二人の娘に尼になられた母もやがて後を追い、ひっそりした尼僧庵の生活に入ったのである。 やがて春も過ぎ、夏も去り、初秋の風が吹き始める頃、漸く静かな暮しにもなれた三人のところに、意外にも人の訪れる様子がした。竹の編戸をひそやかにたたく音がした。こんな山深く、人の訪れる事もない僧庵暮しである。さては魔まし性ょうの者でも、きたのかと、恐るおそる戸をあけてみると、何と、仏御前が、旅装束のまま戸口にうなだれて立っていた。 ﹁まあ仏さまではございませんか。一体、今頃、どうなすったのです﹂ 妓王の驚く声に、仏も、おろおろと涙を流した。 ﹁始めっからの事を申し上げるのも気がひけますけど、とにかく聞いて下さい。西八条のお邸には、私の方からのこのこ出かけて行って、貴女のご尽力で、清盛さまにもお目にかかることができたのに、清盛さまから意外にも召しかかえられ、かえって貴女を不幸な目にあわせてしまいました。本当に私は申しわけなくてつい先達ても、お邸へ来て下さった時だって胸が一杯だったんです。今でこそ、豊かな生活をさせて貰って、結構ずくめで暮していたって、ああいう気まぐれな人のことですもの、いつ何どき、貴女と同じ身の上になるかわかりゃしません、貴女の書き遺のこして下すった歌を見ては、そのことばかり、考えていましたわ。一時、皆さんの行方が判らず如ど何うなさったのかと思っていましたけど、近頃、ここにこうやって暮していらっしゃる話をきき、とうとう決心して、やってきたわけなんです﹂ 仏の真実味あふれる告白をきいて今迄の憎しみも忘れ、三人はじっと聞き入った。 ﹁いくらお暇をお願いしても、清盛様は、駄目だとおっしゃるし、でも考えれば考えるほど、現世の楽しみなんて限りのあるものですものね。一時の楽しさに酔っても、あとあと、地獄に行くなんて、考えるだけでも恐しいことですもの。そう思うと矢も楯たてもたまらず、今朝思い立って、こんな格好できたんです﹂ とかぶっていた被かつ衣ぎを脱いでみると、闇にもほの白い坊主頭である。 ﹁こうまで決心してきたんですもの。今迄のことは、どうぞ水に流して下さいませ。もし許して下さらないっておっしゃるんなら、仕方がありません。あてどなくどこかを漂さすらい歩いて、一生念仏して暮すだけのことですもの﹂ それまで黙って聞いていた妓王は、思わず息を呑のんだ。 ﹁貴女の気持も知らないで、実は私、すこし、貴女のことをうらんでいたんですのよ。仏の道に帰き依えしたくせに、人をうらむなんてと思いながら、やっぱり若くてお美しい貴女の面影が心を悩ましていたんです。でもね、そうまでして訪ねていらした貴女を、仏さん、どうしてうらむ気持がおこりましょうか。貴女が尼になられた心境に比べれば、私達の出家の動機なんて、お恥ずかしいくらいですわ、十七歳というお年でよくそのご決心のつきましたこと。貴女のような方こそ、私達のちっぽけな気持を導いて下さる方ですわ、こちらからこそ、お願いしたいくらいです﹂ 今は、恩おん讐しゅうを越えた、晴れやかな表情で、妓王は仏の手をとって中へ導き入れた。 以来、四人の尼たちは、朝晩香こう華げをたむけ、念ねん仏ぶつ三ざん昧まいに日を送りながら、安らかな往生を遂げたと言われている。二代の后きさき
とかく戦乱がうち続き、世の中が騒然としてくると、倫理とか、道徳といったものが、無視されがちである。 平家一門の栄えい耀よう栄えい華がの陰には、敗戦の不運に泣く源氏の将兵があり、又、天皇と上皇は、互にけんせいし合いながら、政権をねらうという、不穏な空気が時代を支配していた。 ところで大ていのことには驚かなくなっていた人々が、こればかりはと眉をひそめた話がある。 故近この衛えの院いんの后きさき、太たい皇こう大たい后こう宮ぐうと呼ばれる女性が話題の人である。右うだ大いじ臣んき公んよ能しの娘で、天下第一と言われる程の美貌の持主であった。先帝の死去の後は、近この衛えが川わ原らの御所に、静かな明け暮れを営んでいた。 これに目を留められたのが、二にじ条ょう天皇で、元々、女好きの帝みかどであったが、事もあろうに先帝の未亡人に想いを寄せ始めたのである。もちろん未亡人とはいえ、まだ、二十二、三歳、花の盛りを過ぎたとはいっても、このまま、一生後家暮しで終らせるには、惜しい程の器量であった。天皇は、近衛川原に使いをやって想いのたけを打ち明けたけれど、大宮の方では、てんで相手にもされなかった。ところが、そうなると執心が一層つのるものらしい。とうとう宣せん旨じを下して、直接右大臣家に働きかけたのである。こう事が公けになっては、公卿達も黙っていられない。早速、会議が開かれて、討論が始まったが、事が、事だけに、無論、双もろ手てをあげて賛成する者はいない。唐とうの則そく天てん武ぶこ后うという先例はあっても、これは他の国の話で、日本ではこういう例は今までに一度もないのである。上皇始め、一同大反対だったが、しかし、そうなると、ますます愛恋の情がつのってきたらしい。 ﹁自分ほどの身分で、心にまかせぬことがあるものか﹂と天皇は勝手に入じゅ内だいの日取まで決めてしまったのである。ここまできてはもう、どうにも仕方がなかった。 大宮としては、余り気乗りのしない結婚である。それもひどく浅ましいことのような気がして、終日、涙に打ち沈んでいた。 ﹁全くあの時、先帝と一緒に死んでしまえば、こんな辛い目にもあいませんでしたのに﹂と嘆き悲しむのである。その娘の心を哀れと思いながらも、父親は父親で又、別の望みに心をときめかしていた。 ﹁何にしても勅命が降りた以上、仕方がないよ、まあ仰せに従うのが幸せなことだと、私は思うね。ひょっとして、もしお前に男の子でもできてごらん、お前は国こく母も、私は外祖父ってことにならないとも限らないんだから﹂ 父親の本心を知るにつれても大宮の心は一層、深い憂愁にとざされていった。 うきふしに沈みもやらでかわ竹の 世にためしなき名をや流さん という哀れな心境を、世間の人々もいつか聞き知って、そっと同情の心を寄せていた。 入内の日が来たが、大宮は、中々家を出ようとしないのを、父の右大臣が無理に車に乗せたほどである。 内だい裏りの様子は、先帝のいた当時と少しも変っていないのが、又、大宮の涙を誘った。当時の楽しかった結婚生活が、ありありと思い出されてきて、返すがえすも、我が身の不幸が偲しのばれてくるのであった。 入内の後は、大宮は、麗れい景けい殿でんに住み、遊び好きで、政治の嫌いな天皇に、何かと政務を見る事をすすめていたという。変則な時代の犠牲者とも言える女性の一人である。額がく打うち論ろん
永えい万まん元年の春頃から、病みつき勝ちだった天皇の容態が急変し、六月には、大おお蔵くら大のた輔いふ伊いき岐のか兼ねも盛りの娘に生ませた第一皇子に位を譲られた。間もなく七月、二十三歳という若さで世を去った。時に新天皇は二歳という幼な児であった。 天皇の葬儀の夜、一ちょ寸っとした争い事が起った。元々、天皇崩御の儀式として、奈良、京都の僧侶がお供をして、墓所の廻りに額がくを打つ習慣があった。それも順序が決っていて、第一が、奈なら良とう東だ大い寺じ、次が興こう福ふく寺じ、延えん暦りゃ寺くじという順で、代々守られてきたのである。ところがこの日、何を思ったか、延暦寺の坊主が東大寺の次に延暦寺の額を打ちつけたのである。すると、おさまらないのは興福寺である。あれこれと文句をいっているところへ、興福寺では、荒くれ者で聞える坊主が二人、鎧よろいに長なぎ刀なた、大刀をかいこんであっという間もなく延暦寺の額をたたき割って、﹁うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えず﹂と陽気にうたいながら、南都の坊主の中に引き揚げていった。清きよ水みず炎えん上じょう
二条帝の葬儀の際の、興福寺と延暦寺の争いは、このまま治まるとは誰も思わなかったが、案の定、それから二日おいて二十九日、比叡山の僧兵が、大挙して山を下るという噂うわさが拡がった。この時誰がいい出したのか、 ﹁何でも、後白河院が、平家追討を叡山の坊主に申付けられたって話だぞ﹂といったたぐいの噂が、まことしやかに、人の口から口へと語り継がれていった。 慌あわてた平家方は、御所の囲まわりをがんじがらめに警戒し、一門は六波羅に集って、善後策を協議することになった。慌てたのは、後白河院も同じである。日頃から、平家の専横を快く思っていないだけに、アリバイが危いとばかり、早速、車をとばして、これも又六波羅へかけつけた。 何が何だかわからないから、清盛も不安で仕方がない。日頃から、沈着冷静を以て聞える重盛だけが、﹁そんなばかなことがあるもんか﹂といって皆をなだめて廻っているが、目に見えない不安に脅かされた人達は、重盛の言葉にも耳を借そうとしなかった。 六波羅が、てんでに右往左往している間に、叡山の僧兵は、六波羅には、見向きもせず、清きよ水みず寺へ押し寄せて、またたく間に焼き払ってしまった。とにかくあっという間の出来事で、どうもこれが、例の額打の仕返しとも思われるやり方であった。 坊主達が山に引き揚げて、漸く京の街にも生色が蘇よみがえってきたので、後白河院も、六波羅をあとにされた。平家側からお供は重盛唯一人つき従った。 ﹁どうも、今度の後白河院の行動はふに落ちんところがあるな﹂ 任を果して帰ってきた重盛に、清盛が口火をきった。 ﹁前から、くさいくさいと思っていたんだが、とにかくあの人は、余り我々のことをよくは思っていないんだから、お前なんか、うまくまるめこまれて、利用されてるんじゃないのか?﹂ ﹁まったく父上は、何でもずけずけいうんですなあ、そういうことは、私だから良いようなものの、他人の前では言わない方がいいですよ。とにかく、余計な事を考える前に、もう少し行ないを慎んで、人にも親切にしてやるんですな﹂ 日頃、余りに傍若無人な父の行為に腹立ちを感じていた重盛は、ずけずけと、言いにくい事までいってのけた。 ﹁全く、あいつはくそ度胸の良い男だ﹂ 清盛は、つくづくそう思った。 一方後白河院の方でも、一党の面々が集って、この度の、妙な噂の出どころに就て、話が持ちあがっていた。 ﹁どうも話がおかしいよ。平家追放なんて夢にも考えたこともないのになあ﹂ 院としては、極力、身の潔白を証明したいところである。けげんなお顔でそういうと、傍に控えていた西さい光こう法ほう師しという男が、何食わぬ顔で、 ﹁これも皆、天の配慮ですよ、とにかく平家の奴らは目にあまりますからね﹂ と、深刻な表情をしていったので、聞いている一座の者も一寸気味が悪く、それこそ、これが禿かぶ童ろに聞かれでもしたらと、みんな背筋に粟あわのたつ思いをしていた。東宮立
その年は喪中のため即位の行事も取やめになったが、暮の二十四日、東の御方、建けん春しゅ門んも院んいんの腹になる、後白河院の皇子に親王の宣せん旨じがあり、明けて、年号が変って仁にん安あんとなった。この年の十月、この皇子が東宮になられたが、何と東宮は伯お父じで六歳、天皇が甥おいで三歳という、全く政権争いの格好な道具でしかなかったのだ。 仁安三年には、この天皇が位を伯父の東宮に譲り、新院になった。新院は五つ、天皇は八つ、西も東もわからない、いたいけな幼児たちは、この頽たい廃はいした院政の、最も大きな犠牲者だったのである。 というのも、新しく即位した高たか倉くら天皇の母は平家の一族、清盛の義妹に当り、大だい納なご言んと時きた忠だは義兄である。今や、天下の政事は八歳の子供の手を離れて、ことごとく平氏の一門の思いのままになったわけで、官の任免を始めとして、清盛は、何かと、時忠を重宝がったので、彼の事を世間では、平へい関かん白ぱくなどといったりしていた。殿でん下かの乗のり合あい
嘉かお応う元年七月十六日、後白河院が出家された。といっても、今まで通り、政務は、続けられていたから、別に変りはなかった。益々わがまま一方になる平家のやり口については、心の内で、何かとご不満を感じていられた様子だったが、それを公けにされたわけでもなく、平家の方でも当らず、さわらずといった態度で、表面は、何事もない平和な日が過ぎていった。が、事件は、思いがけないところから、口火を発することになった。 重盛の次男で、新しん三さん位みの中将資すけ盛もりは、まだ十三の腕白坊主だが、年は若くても、良い星の下に生れたおかげで、身分は高く、したい放題の事をしても、誰もとがめるものがいないから、図にのって、遊び廻っていた。 嘉応二年十月十六日、珍しく雪が降った。たいした雪でもなかったが、退屈していた資盛は、雪にかこつけて、枯かれ野のへ鷹たか狩がりに出かけていった。年頃も、同じ程度のいずれおとらぬ、腕白共を従え、京に帰ってきたのは、既に日暮れ方である。家に向う途中、摂せっ政しょう藤原基もと房ふさが、参内途中の行列とぱったり出喰くわしてしまった。 何分、薄うす闇やみの中で、余り柄の良くない若僧の一隊が、天下の摂政の行列にぶつかってきたのだから、基房の家来達は、 ﹁馬を下りろ、馬を下りろ、摂政殿下のお通りだぞ﹂と口々にどなりつけた。 資盛の方は、これで一人でも、世間並みの常識を持ち合せている年輩者でもいればよかったのだが、とにかく、血気にはやる若者ばかりで、馬を下りるどころか、群になって、かけ抜けようとした。 この傍若無人さに、かっとなった基房の家来達は、資盛一同を、馬からひきずり下すとこっぴどい目にあわせてやった。暗いさなかで、顔は、はっきり、判らなかったとはいえ、うすうす、平家の公きん達だちであることぐらいは感づいていたものの、そこは何喰わぬ顔で、日頃の、うっぷんをたたきつけたのである。 泥だらけになって、半べそをかいて帰ってきた資盛から、わけを聞いた、これも万年腕白坊主の清盛は、かんかんになった。 ﹁何が殿下だ、実力もないくせして、大きな面つらばかり下げて、それも、こんな子供相手に、そういう真ま似ねをするとは、実にけしからん。とにかく平家一族を、ばかにするのも甚しい、よし、今に何とか仕返しをしてやるぞ﹂と大変な興奮の仕方である。 ﹁しかし、父上、これは、こちらにも落度があるのではありませぬか﹂ 重盛が、早速、なだめはじめた。 ﹁これが、頼より政まさとか、光みつ基もととかいう、源氏の一家にやられたということになれば、我々一族の面目にもかかわりますが、とにかく、相手は、何と言っても殿下です。むしろ、これは、殿下に行き逢って、馬を下りなかった資盛の非礼を責めるべきで、全く、家来共も、気のきかないちんぴらばかりで﹂ 重盛は、そのときの若侍達を呼び出し、 ﹁今後、二度とああいう無礼を働くようなら、直ぐさまくびにするぞ﹂ ときつくおどかしたのであった。 ところが、重盛の諫かん言げんなどは、馬の耳に念仏である。とにかく、腹が立って仕方のない清盛は、いずれも、腕力に覚えのある、子飼いのならず者ばかりを、各地からこっそり呼び寄せていた。 二十一日は、高倉帝の来年の元服が決まる大事な日で、もちろん主役である基房は、参内することになっていた。清盛はその日に目をつけて、ひそかに、仕返しを企んでいたのである。 そうとも知らず、基房は、普段よりも、行列を美々しく飾り立て、しずしずと、堀ほり河かわのあたりまでやってきた時であった。﹁わあっ﹂というときの声と共に、鎧よろいに身を固め、物々しく武装した一隊、二百余騎に囲まわりをどっと取り囲まれてしまった。元より、多勢に無勢、不意の事でもあり、基房の家来達は、右に左に追っかけ廻され、馬から引き落され、散々なぶりものにされた上に、もとどりを一人残らず切りとられてしまった。これが、清盛が命じた、秘かな使命だったのである。その上、基房の乗っている車の中へ弓のはずを突き入れたり、すだれをひきちぎったりいやがらせをやってから、意気揚々と引き上げていった。 基房は、涙ながらに、漸く車をひかせて、とぼとぼと邸に引き返した。 この知らせに、清盛は喜ぶまいことか、手をうって笑いがとまらなかった。 ﹁あいつが、車の中で、どんな顔をしていたかと思うと、おかしくてならぬ。蔵くら人んど大のた夫いふのもとどりを切る時、これは基房のもとどりのつもりだと言ったって、そいつは愉快だ。とにかく、こんな、気持の良い事は又とありゃせん。ざまあみやがれ、天下の平家に楯たてつくとどうなるってことがこれで、よくわかった筈はずじゃ﹂ 重盛もこの噂うわさを聞いてびっくりした。清盛に賞められて、有頂天になっていた関係者を呼びよせると、即座に、くびにして追い出してしまった。 更に、息子の資盛には、 ﹁争いのもとは、皆お前の不行届きだ、少し田いな舎かに行って頭でも冷してこい﹂ といって、伊いせ勢のく国にへ追いやってしまった。さすがに重盛だけの事はあると、彼一人でやっと平家の不評をとりもどした。鹿ししヶがた谷に
思い掛けぬ出来事があって、天皇元服の決め事も伸びのびになっていたが、二十五日に無事に行われた。基房は、太政大臣に昇任したが、何となく割り切れない昇級でもあった。 年も明けて、嘉応三年正月、無事に元服が済み、清盛の娘の徳とく子こ︵後の建礼門院︶が十五歳で女御になった。 内大臣、左大将、藤原師もろ長ながが、左大将を辞任した。この顕職の後あと釜がまをねらって、猛烈な就職運動が始ったのである。即ち、徳とく大だい寺じの大だい納なご言んじ実って定い、花かざ山んい院んの中ちゅ納うな言ごん兼かね雅まさ、新しん大だい納なご言んな成りち親か︵故中御門藤中納言家成の三男︶の三人がそれぞれ名乗りをあげていたが、中でも、家柄はよし、才能もあり、末は大臣大将と噂されていたのは徳大寺大納言で、いわば本命であった。 後白河院の後うし楯ろだてがあるものの、どうも形勢不利とみて、この上は、天の助けにすがるよりほかはないと思い立った成親は、男おと山こやまの石いわ清しみ水ずは八ちま幡んぐ宮うに、百人の坊主を頼んで、七日間、大だい般はん若にゃ経きょうを、読経させた。その最中、八幡宮の一隅にある、甲こう良らだ大いみ明ょう神じんの前の橘たちばなの木に山やま鳩ばとが三羽とんでくると、お互に食い殺し合って死んでしまった。とにかく鳩は、八幡大だい菩ぼさ薩つの第一の使者と信じられているので皆薄気味悪がって、早速、占いをたててみると、 ﹁天下騒乱の気配濃厚、臣下はよろしく謹慎すべし﹂ ということである。 成親は、これでこりたかと思ったが、占いよりも現実の官位に余程執着があるらしく、今度は夜になると、賀か茂もの上かみ社やしろへ七日続けて参詣を始めた。七日目の晩、家で寝ていると夢をみた。上社の御ごほ宝うで殿んの戸が開いて、さわやかな声がした。 桜花かもの川風うらむなよ 散るをばえこそとどめざりけれ という歌がきこえてきた。これだけとめだてされても成親の野望は、一層激しくなるばかりである。今度は、御宝殿後の大杉の洞ほら穴あなに祈祷師を一人とじこめて、大願成就を百日祈らせた。すると、ある日、轟とどろく様な雷が鳴り出したかと思うと、たちまち大杉に落ちかかり、そのために、社殿の方へ燃え移りそうになったため、神官達がかけつけ、漸く事なきを得た。怒ったのは神官達で、外の騒ぎもものかは、未だに祈祷を続けている祈祷師を、洞穴から引ずり出すと、文句も言わせず、追い出してしまった。これだけ、手を尽した猛運動にも拘かかわらず、ふたをあけてみると、それは、成親の思おも惑わくをはるかに通り越したものであった。左大将は大納言右大将の重盛がなり、中納言宗盛は、一躍右大将になっていた。とにかく当時の人事は、全く平家の独壇場であり、摂政関白の意向はもちろん、後白河院さえ無視されていた状態だったから、結果としては、むしろ、当然過ぎるほどの任命だった。 唯誰もがその任官を、疑いなく思っていた徳大寺大納言は、さすがに、平家専横の世界に愛想がつきたのか大納言をやめて、家にひきこもってしまった。 一方、成親の不満はつのるばかりであった。席次が上の徳大寺大納言や花山院に先を越されることは、彼としても仕方ないとは思っていたものの、宗盛が右大将になるだけは、どうにも我慢のならない事実であった。彼の気持の中に、平家への憎悪が次第に厚みをなし、幅をひろげ、形を整えてくるのは、或は、当然の事だったかも知れない。しかし、世間はそうばかりもみないもので、むしろ、今までの成親が平家から受けた恩義の数々をあげ、重盛とは、平治の乱以来、因縁浅からぬ関係にある事を言い立て、彼の現実的なえげつなさを責めるのであった。 ところで、成親と、動機こそ違え、志を同じくする者は、まだ幾人かあった。彼らがいつも好んで寄り集りの場所にしたのは、鹿ししヶがた谷ににある、これも同志の一人俊しゅ寛んかんの山荘である。ここは、東山のふもとにあり、後は三井寺に続いた、要害堅固なところで、こういった陰謀を企むには、まさにもってこいの場所だったのである。 ある晩、後白河院が、お忍びでここにお出でになり、話がいつか、平家に対する不満から次第に、平家を葬る具体的な話になりそうになってきた。後白河院のお供で席に連っていた浄じょ憲うけ法んほ印ういんは思慮深い男であったから、 ﹁まだこの種の話し合いはすべきではない。それに、こう人数が多くては、どんな事でもれるかわからない。とにかく、事は慎重にはかるべきだ﹂ と一座を眺め廻していった。おたがいが、まだ腹のさぐり合いをしている最中だから、浄憲の言葉は、尤もっともなのだが、他の連中は、何となくしゃくにさわる。成親などは、顔面蒼そう白はくになって立ち上り、浄憲につめ寄ろうとした拍子に、着物の袖がふれて前にあった瓶へい子しが倒れた。 ﹁どうしたんだ、成親﹂ 後白河院も、座の白しらけた様子に、少し腹立しそうに成親に言った。 ﹁いやあ、平氏が倒れたのです。目出度い事ではありませぬか﹂ 当意即妙の思いつきである。途端に、院の顔色がさっと晴れやかになった。 ﹁何か茶番でもやらぬか﹂ 院のお声がかりで、平へい判はん官がん康やす頼よりがついと前へ出てきた。 ﹁余りに、へいしが多過ぎて、酔いの廻るの早いこと﹂ ﹁はて、さて、どうしたものじゃろうか﹂ 俊寛が直ぐ後をうけていった。 ﹁首を取るのが一番じゃ﹂ 西さい光こう法師は、そういうとたちまち、瓶子の頭を切り落してしまった。 これには、一座が拍手かっさいで、後白河院もすこぶる機嫌がよかった。浄憲だけが、余りの他愛のなさに、怒りもできず、押し黙っているだけであった。 これまでのところ、名前のわかっている陰謀荷担者は、近おう江みの中将入道蓮れん浄じょう俗名成なり正まさ、法ほっ勝しょ寺うじ執のし行ゅぎょう俊寛僧そう都ず、山やま城しろ守のか基みも兼とかね、式しき部ぶの大たい輔ふま雅さつ綱な、平判官康頼、宗そう判はん官がん信のぶ房ふさ、新しん平へい判はん官がん資すけ行ゆき、摂せっ津つの国くに源氏多ただ田のく蔵らん人どゆ行きつ綱なといった連中で、他に北面の武士が多かった。 この中で、俊寛というのは、京きょ極うご源くの大げん納だい言なご雅んが俊しゅんの孫であるが、この雅俊が、奇行の多い変人として知られていた。武士でもないのに、気性の激しい、怒りっぽい男で、むしゃくしゃしてくると、自分の屋敷の前に人を通させないというような、とにかく変った男だった。この祖父の血は、俊寛にも脈々とつづいていたらしく、僧侶といっても、頭を丸めているだけの話で、彼は荒々しい気性と言い、人を喰くった傲ごう慢まんさと言い、祖父そっくりで、陰謀好きの事件屋であった。 この謀みに多く加わっていた北面の武士とは、白河院の時に始めて置かれたものだが、この時代になると、相当羽振りをきかしたもので、中には、五位以上に叙せられ、昇殿を許された者もあり、公卿を公卿とも思わぬ連中が多かった。中には、知勇に優れ、実力で地位をかためてゆく者も何人かあったが、故少しょ納うな言ごん入にゅ道うど信うし西んぜいの家来で師もろ光みつ、成なり景かげ等も、ひときわ目立った才能のある武士で、それぞれ、左さえ衛もん門のじ尉ょう、右衛門尉になったが、信西が殺された時、同時に出家して名を改めた。この師光が、西光であり、成景が西さい景けいである。鵜うか川わの軍いくさ
安あん元げん三年三月五日、藤原師もろ長ながは太政大臣、その後を重盛が襲って内大臣に任命された。当然内大臣になるべき、大納言定さだ房ふさを越えての栄進であった。 ところで話は二年程さかのぼって安元元年加かが賀のか守みに任ぜられた師もろ高たかという男があった。彼は例の西光の息子である。この男、人を人とも思わぬ暴君で、加賀国一円に暴政の限りをつくし、悪評ふんぷんたるものがあった。ところでこの弟の師もろ経つねが、又兄貴に輪をかけたような乱暴者で、加賀の代官に任ぜられた時、鵜川という山寺で、僧侶がお湯を沸かして浴びていたのをみつけると、あっというまに、入りこんできて、僧を追い出し、自分が浴びたあとで、馬を洗わせるような事をやった。 怒った坊主達は、不法侵入をなじって、追い出そうとしたが、師経の方も、意地になっているから、弓矢にかけてもと頑張って動こうとしない。坊主達も今はこれまでと、たちまち、射合い斬り合いが始ったが、師経の馬が脚を折り、どうも戦況も不利なので、師経は一先ず、総勢を収めて、退却した。夜に入ると、今度は新たな加勢を千余人引連れ、一つ残らず、寺の内を焼き払って揚々と引揚げた。 寺をやかれて、このままおめおめ引下る山寺の坊主ではない。まして鵜川は、加賀国にその由ゆい緒しょも古い、白はく山さん神社の末寺なのだ。 七月九日の暮方、白山三社八院から成る二千余の僧兵は、智ちし釈ゃく、覚かく明みょう、宝ほう台だい坊ぼう、正しょ智うち、学音といった、全寺きっての老僧を先頭に、師経の館やかた目指して押し寄せてきたのである。 明日の夜明けを待って総攻撃という事に決った。面々は、唯じっと静まり返ったまま時の過ぎるのを待っている。暗い闇の中に、時折、稲いな妻ずまが走る。その度にかぶとの星が、夜目にもはっきりと、きらりきらりと輝くだけで、人のそよとも動く気配も感じられないのが、一層、不気味さを誘う。 館の高窓から、この様子をちらりと見た師経は、戦わぬ先に臆病風を起し、こっそり夜逃げして京へ行ってしまった。 あくる朝、待ちかねた一同が館まできてみると、中はも抜けのからである。人の子一人姿が見えない。歯ぎしりして口惜しがった僧兵達は白山中ちゅ宮うぐうの神みこ輿しをふり立てると、山門に訴えようと、比叡山に行進を開始した。昼夜兼行の強行軍で八月十二日、比叡山の東ひが坂しさ本かもとに神輿が到着すると、何の前ぶれか、北の空から雷鳴が轟とどろき、いつか都の空にも拡がり、雪が降り出して、みるみる、山上から、洛中くまなく真白になってしまった。 白山の神輿を迎えて、いやが上にも、士気のたかまってきた比叡山三千の僧、及び白山七社の神官達は、日夜、祈祷に専念すると同時に、師高の流罪、師経の禁獄という、二大要求を掲げて、朝廷に早期裁決を迫った。しかし、その裁断は、一日伸ばしに伸びて、一向にご沙汰の様子がなかった。心ある公卿等も、陰では、成行きを心配し、 ﹁とにかく、敵に廻したら、うるさい山門の事だし、昔から、山門の事では、幾多の重臣が、ひどい目にあってるんだから、師高ぐらいの人間なら、さっさと、山門の要求を容いれてしまえばいいのに﹂ と、言う意見もあるのだが、なまじ公けに事を持出すと、どんな目に遭あうかも知れず、我が身可愛さに、みんな口をつぐんでいるのであった。願がん立だて
藤原氏の専横を抑え、院政の始りを開いた程の、豪気な帝であった故白河院が、 ﹁賀茂川の水、双すご六ろくの骰さい、比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない﹂ といって嘆いたという話がある。山門の横暴振りは他にも伝わっている。 鳥羽院の時、白はく山さん平へい泉せん寺じを比叡山が、しきりに欲しがったことがあった。余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、大おお江えの匡まさ房ふさが、法皇を諫いさめて、 ﹁お断りになってもようございますが、もしも、山門の僧兵共が、神みこ輿しを先頭に攻めてきたら、如いか何がなさいますか、面倒な事になるかも知れません、それならいっそ、聞き入れてやった方が﹂ と、山門に刃向う、ばからしさを説いたので、法皇も気が変り、 ﹁全く、山門が相手では、どうしようもない﹂といって許したのである。 山門の威力に就ては、こんな話もある。 それは、嘉かほ保う二年の事であるが、美みの濃のか守み源義よし綱つなという男が、叡山の僧であった円応を殺した事件があった。早速、叡山側から、日ひ吉えの社司、延暦寺の寺官等、三十余人が、訴状を持って、当時の関白、藤原師もろ通みちの許へ脅迫にやってきた。関白は、権ごん少のし輔ょう頼より春はるという侍に命じて、武力で追っ払えと命令を下した。突然の武力の応酬に、殺される者、傷を負う者が続出、山門の使いは、ほうほうの態で逃げ帰った。これを聞いた、山門の幹部達が事の子細を、朝廷に直訴にやってくると聞いた関白は、再び、武士、検け非び違い使しに先手を打たせ、都に入らぬ先に、追い返してしまった。 いよいよ怒った山門の衆徒達は、今は、唯、憎い関白を、祈り殺せとばかり、七社の神輿を、根こん本ぽん中ちゅ堂うどうに振上げて、その前で七日間、大だい般はん若にゃ経きょうを読み続けた。最後の日になると、仲ちゅ胤うい法んほ印ういんという僧が立ち、おそろしい声で、 ﹁われらの神よ、何卒、御ごに二じょ条うの関白に、かぶら矢を当てて下さい。何卒お願い申します、八はち王おう子じご権んげ現んの神よ﹂ といって願った。 その晩不思議な夢を見た人があって、八王子権現の社から、かぶら矢の放たれる音がしたとみる間に、京の御所を指してとんでいったというのである。ところがもっと不思議な事には、翌朝、関白の家の格こう子しをあけると、今、山からとれたばかりとしか思えない樒しきみが、一枝置かれていた。従来、不吉な木である樒が関白の家の前にあったことは、たちまち、京都中の評判になったが、その噂も広まらぬ先に関白は重い病にかかり、明あ日すをも知れぬ身となってしまった。今更、山王の祟たたりの恐しさをまのあたりにみて、関白の母である摂政藤原師もろ実ざねの妻は、もういても立ってもいられない気持である。ある日こっそり、身をやつして日吉の社にこもって、七日七晩、祈り続けた。願が、かなえられた暁には、芝しば田でん楽がくを百回、百番のひとつもの︵祭礼の行列で、一様の装束をしたもの︶、競くら馬べうま、流やぶ鏑さ馬め、相すも撲うをそれぞれ百、仁にん王おう講こうを百座設け、薬やく師しこ講うを百座、親指と中指の長さの薬師百体、等身大のもの百体、並びに釈しゃ迦か、阿あ弥み陀だの像をそれぞれ造ぞう立りゅう寄進するという条件であった。その上、心中には、尚なおひそかに、願立てたことがあったが、それは、内深くひめて表には出さないでいた。 満願の夜、八王子の社の参詣人の一人で、奥州の方から上京してきた少年が、突然、気を失って倒れた。人々がいろいろ手を尽して介抱すると、まもなく息を吹き返したが、今度は、よろよろっと起き上ると、人々の呆ぼう然ぜんとした顔を尻しり目めに、舞を舞い始めた。舞うこと半時間ばかりすると、山王の神がのり移ったのか、少年は、不思議なご託宣を述べるのであった。 ﹁皆様方よ、確かにお聞き下さい。関白殿の母上様は、今日で七日、この社におこもりになった。それは知っての通り関白の命乞いに来たので、この際母上には、三つばかり、願立てをされたのです。それは、一つは、この社の下段にこもっている片輪に混って、一千日の間、山王に仕えようというお心なのです。殿下の母であり、摂政の妻ともある高貴の人が、こういう思いきった気持になる程、母の愛は強いものなのでしょう、それにしても又何とあわれな事でございましょう。二つ目には、大おお宮みや橋のたもとから八王子のお社まで、廻廊を作って寄進すると申されているのです。三千人の大衆が、参詣の時、雨降りや、日照りに悩まされる事もなくなって、どんなに助かる事でしょう。三つ目には、殿下のお命が長らえた時には法ほっ華けき経ょうの講読を毎日、一日の休みなく行わせましょうというのです。この三つどれも中々大ていな事ではありませんが、先の二つはともかく、法華講だけは是非やって貰いたいものです。とは言え、今度の訴訟は、お取上げ下さればわけない事だったのを、中々お許しにならなくて、そのため、神官や、宮仕えの者が殺され傷を負って、泣くなく山王に訴え出た様子をみると、どうにも、気の毒で忘れられないのです。その上、彼らが受けた傷は、実は、和わこ光うす垂いじ跡ゃく︵神仏が姿を変えてこの世に現れ出ること︶のお肌に当ったので、そのしるしにこれごらん下さい﹂ 肩を脱いだところをみると、左の脇わきの下に、大きなかわらけほどの傷口があるのだった。巫み子こは言葉を継いで、 ﹁というわけで、母上の願は尤もっともなことですが、もし法華講をきっとやってくれるというならば、三年だけは、命を助けてあげましょう。しかしそれ以上のことは、私としても力及ばぬことです﹂ そこまでいうと、山王のご託宣は終った。関白の母は、もちろん、心中ひそかに、願立てたことで、人にもらした覚えもなかったから、疑うことなくご託宣をうけ入れた。 ﹁たとえ一日でも、命を伸ばして下さったら有難い事でございますのに、三年とは、何と嬉しい有難い話でございます﹂ と感激の涙を流して都へ帰っていった。早速、関白領であった、紀きい伊のく国に、田たな中かの庄しょうを、八王子に寄付された。今日まで、法華経が八王子の社で絶えないのは、そのためだとも言われている。 関白師通は、間もなく病気が回復した。が、三年という限られた月日は、またたく間に過ぎ、永えい長ちょう二年六月二十七日、髪の生え際にできた、できもののために、三十八歳という若さで、惜しまれつつこの世を去った。 山門に刃向う事の恐しさをまざまざと見せつけられた事件であった。御みこ輿しぶ振り
加賀守師高、目代師経の断罪を度々叫び続けていたのにも拘らず、一向に沙汰のないのにしびれを切らした山門の僧兵達は、再び実力で、事を処理する決心を固めた。 折柄行われる予定の日ひ吉えの祭礼をとりやめると、安あん元げん三年四月、御輿を陣頭に京へくり出して来た。賀茂の河原から、法ほう成じょ寺うじの一角に兵をくり出し、御所を東北から囲む体形で迫ってきた。京の街々辻々には、坊主、神官、その他、各寺、神社に仕える者達がはしくれに至るまで、都大路をぎっしり埋めていた。神輿は、折柄の朝日を受けて、輝くばかりのきらびやかさで、人目をうばうばかりである。事に驚いた朝廷側からは、早速、源平両家の大将軍に、出陣の命令を送った。 平家方からは、左大将重盛が三千余騎で、陽よう明めい、待たい賢けん、郁ゆう芳ほうの三門を固め、宗盛、知とも盛もり以下の諸将は、西南の守備に就いた。一方、北門は、大だい内だい守護の職にあった源げん三ざん位みよ頼りま政さが、僅か三百余騎の手兵を持って守っていたが、何分、広さは広し、人数は少いので、自然まばらな配置になるのも無理のないことであった。 この北門守備の手薄に目をつけた僧兵は、ここから、神輿を入れようと、攻勢を開始した。ところが、頼政は智力勇気共に備わった一筋縄ではいかぬ男であったから、この形勢をみると俄にわかに馬から下り、兜かぶとを脱ぎ、手を洗い清めると、うやうやしい態度で、神輿に拝礼した。総大将のする様子をみて、三百騎の家来どもも、それぞれ、礼をつくして神輿を拝んだ。僧兵は、予想もしなかったこの光景に、しばし呆ぼう然ぜんと立ちすくんでいると、頼政の軍から、一きわ華はなやかに鎧よろいをつけた男が、進み出てきて、神輿の前に跪ひざまずくと主人からの口上を、力強い声で述べたてた。 ﹁暫く、山門の方々お聞き下されい、主人頼政が、皆様方に申し上げたい事を言いつかって参ったものでございます。この度の山門の方々のお訴えは、まことに、理由のある尤もっともな事なのを、今の今までお取上げにならない、お上の態度には、私自身も、そして世間もともどもに、残念に思っていたのですが、不幸にもこういう事態になり、神輿をお通ししたいのは山々でございますが、何分頼政の兵は少なく、この頼政が明けて通したとあっては、後々、山門の貴方方がどんな風に言われるかもわかりません。又私といたしましても、易やす々やすと門を明けることは、勅命にもそむく事であり、と言って、年来、信仰して居ります山王様に弓矢をひいたとあっては、どのような罰を蒙ります事やら、弓矢の道も捨てねばならぬ次第ともなり、いずれにしても、この苦しい胸の内をどういたそうかと迷っているのです。ただ東の陣は、小松殿が多勢の軍勢で固めておられますので、そちらからお入り下されば、全てが救われるのではないかと思うのですが﹂ 使者の言葉に、僧兵一同、暫くためらっていた。若い者の中には、 ﹁何も遠慮することはない、さっさと入ってしまおう﹂ というものも多かったが、中に、雄弁家として知られた老僧、豪ごう運うんが、 ﹁頼政殿のいうところ、まことに尤もである。われわれとしても、神輿を陣頭に、訴えにやってきたのだから、多勢の中を打ち破って通ってこそ、始めて、後々まで評判が残ろうというものだ。頼政殿は、清せい和わ源氏の嫡ちゃ流くりゅうで、武芸はもとより、文武両道に優れた得難いお人、かつて近衛院の頃、お歌会で、深みや山まの花という即題に、 深山木のそのこずえともみえざりし 桜は花にあらわれにけり と即座に、お答え申し上げた程の風流のたしなみも一方ならぬお人じゃ。これ程の人物に、いかに時が時だといっても、恥を与えて、神輿を通すことができようか、さあ皆の者、もう一度、神輿をかついで他に廻ることにいたそう﹂ 豪運の名調子には数千人の僧兵の内、誰一人異議をはさむ者もなかった。神輿をかついで今度は、重盛の固める待賢門に向って行軍を始めたのである。 待賢門から神輿を乗り入れようとすると、ここでは、待ってましたとばかり、平家の兵達が、一斉に弓を射たので、神輿にも、何本か矢が当り、僧兵達は、射殺されるもの、傷を負う者が続出した。さながら、阿あび鼻きょ叫うか喚んのちまたで、この圧倒的に優勢な兵力の前には、さしもの僧兵も、神輿を振り捨てると、一目散に、比叡の山へ帰っていった。内だい裏り炎えん上じょう
僧兵の引揚げた後、取り残された神輿について、俄かに、公卿会議が開かれた。とにかく、いささか、不気味なお土みや産げだけに、いくたの論議が繰り返されたが、結局、保ほう延えん四年神輿入じゅ洛らくの前例にならって、祇園の神社に奉置することに話が決まり、夕刻を選んで、祇園別当、澄ちょ憲うけんの手で、祇園の社に入った。神輿に突き刺った矢は神官が抜いた。昔から、山門の僧兵を先頭に、都に押しかけたことは、何度かあったが、今度のように、神輿に矢が当ったのは始めてのことであった。それだけに、一般の庶民はもちろん、殿上人の中にも山王の祟りを恐れて、戦せん々せん兢きょ々うきょうとする者が多かった。
その日が明けて十四日の夜、今度は又々、山門の僧兵が、大挙して、都に攻め寄せるという風説が広まった。
これに恐れをなした朝廷方は、先ず、主上が、御輿にのって、法ほう住じゅ寺うじ殿どの︵院のお住居︶へ、続いて、中宮は牛車に乗って跡を追い、それぞれ身分の高い宮々、公卿、殿上人もあちこちに避難することになった。重盛は、直なお衣しに弓矢を負い、維盛は束帯にこれも弓矢をつけ、ものものしいいで立ちでつき従った。この急の御所の移転さわぎには、京都の町中の者も驚きあわて、家財道具を持って逃げ出す者まで出てくる始末であった。
一方叡山では、早速、今度の手痛い打撃に就て、報復するための会議が開かれた。これ程の恥を蒙った上はもう遠慮もへちまもない。叡山の大おお宮みや以下、諸堂全てを焼払って、全山、叡山を立ち退こうという強硬論が、勝ちを占め、評議一決した時、法皇の使者に立てられた、当時、左さえ衛もん門のか督みの平時忠が、風雲渦巻く叡山に、数人の供を連れただけで乗りこんできた。﹁時忠来たる﹂の報に興奮した僧の中には、
﹁冠なんかうちおとして、ふんじばって、湖に沈めてしまえ﹂
などという者も現れ、今にも、時忠にとびかからんとする気配であった。時忠は、しかし、少しも騒がず、落着いた物腰で、言い放った。
﹁方々、暫くお静まりを、一言申上げたい事があります﹂
と懐中から、懐紙と硯すずりを取出し、さらさらと何事か書き終ると、山門の僧兵達に渡した。取上げてそれをみると、
﹁貴僧らが乱暴狼ろう藉ぜきを働くのは、これ全て、魔まし性ょうのしわざであり、主上がこれに対しておとめだてなさるのは、あくまで不ふど動うみ明ょう王おうの加護に依て、仏の道に導き参らせたいという有難いご趣旨から出たことである﹂
と書かれていた。
坊主達は、この道理の正しさには、返す言葉もなく、
﹁尤もな事じゃ﹂と口々にいいながら、散っていってしまった。
とにかく、怒れる僧兵三千を相手に、たった一枚の紙で、これを押えてしまった時忠の偉さは、一躍評判になった。と同時に、普段は、うるさい事をいい立て、乱暴を働く坊主も、道理はわきまえていたのだと、これも又評判がよかった。
二十日には、師高、師経の裁判が、花山院中納言の手で開かれ、師高は尾張に流るざ罪い、師経は禁獄に処せられ、更に、神輿に矢を射た重盛の家来六人も獄につながれた。これで僧兵の要求通り、事件は落着したかにみえたが、実にそのあとに、尤も恐るべき事件が発生したのである。
四月二十八日の夜、樋ひぐ口ちと富みの小こう路じから火が出た。折からの東南の風にあふられて、大車輪のような炎が、三町、五町は難なくとびこえて西北の方角へ、はすかいにはすかいにとんでいく。その恐しさは、とても恐ろしいなどと言えるものではなかった。神社、仏閣、貴族の邸宅をみるみるうちになめつくし、京の街々を、はいずり廻った火は、その勢で御所に向い、朱雀門に先ず飛び火し、またたく間に、全内だい裏り中を焼きつくしてしまった。家々に重代伝わる家宝のたぐいは勿論、日記も、書類も、持出す暇はなく、全て灰かい燼じんに帰した。
この大火事は、人々の胸に、あの神輿の一件を新たに思い出させるのに十分だった。ある人などは、手に手に松たい明まつをもった大猿、二、三千匹が、叡山から下りて焼打ちしたのだとまことしやかなうわさをする人もいたくらいである。