大原入
︵女院御出家︶ 壇の浦で入水するところを、源氏の兵に救い上げられ、京に帰った建礼門院は、昔とはうって変った侘わびしい生活を続けていた。 昔、中納言法印慶きょ恵うえという、奈良の僧が住んでいた坊が、空家になっていたところに住まわれていたが、見るかげもない廃屋で、草深い庭に囲まれ、寝所を掩う簾さえもない有様で、これが、かつて絢けん爛らん豪華な宮殿に、多くの侍女にかしずかれて過した人の住居とは、到底、信じられなかった。 それにつけても、まだ、西国の波の上で、仮寝の夢を結んでいた生活の方が、ずっと幸せであったような気がして、思い出話といえば、直ぐ、あの当時は苦しかった西国の海上生活のことであり、あの時は誰々が生きておいでであった、あの方もまだご無事でおいでであったなぞと、今は亡き人々のことばかりが、ひとしきり話題にのぼり、それが涙をそそる種となるのである。 この世に何の望みもなくなった女院は、いよいよ出家の決心を固められ、文治元年五月一日に、御おん戒かいの師に、長楽寺の阿あし証ょう坊ぼうの上人印いん誓せいを選んで髪を切られることになった。 御布ふ施せには、今まで形見にと思って大切に持っていた先帝の直衣を、他に適当な物がなかったので、泣くなく取り出されて、上人に渡されたのである。印誓上人もあまりの痛わしさに涙ながらにおしいただいて、帰っていった。 女院が女御の宣旨を受けられたのは十五歳の年で、翌年中宮となり、二十二歳で皇子を生み、皇子が即位されて安徳帝となられて以来は、院号を賜わり、建礼門院と称したのである。 清盛の娘という幸運にめぐり合わせた上、内裏へ入られてからは天下の国こく母もと仰がれ、人々の尊敬と羨望を一身に集めていた。丁度、今年で二十九歳である。花の盛りを過ぎたとはいえ、天性の美貌は少しも衰えを見せなかったが、今となっては、もう誰に見せる必要もない黒髪であったから、惜し気もなく切り捨てて、仏門に入ったのである。 しかし、出家したからといって、簡単に思い切るには余りにも辛いことの多かった半生であった。先帝始め二位殿の最後の様子は、いくら忘れようと努力しても忘れられるものではなく、山鳩色の御衣を召し、びんずりに結った可愛らしい帝の面影は、まぶたの底にこびりついて離れず、いつ憶い出しても涙のつきることがなかった。夜になって床に就いても、目を閉ずれば、幼い帝の顔、入水していった人々の姿が、あざやかによみがえって、眠られぬ夜を過してしまうのである。 五月の風に誘われて、時ほと鳥とぎすが、時折、二声三声と鳴いて過ぎた。昔に変らぬ時鳥の鳴き声が、女院に華やかな宮廷生活を憶い出させたものであろう。硯すずりの蓋ふたに、一首の歌を書き記されるのであった。 郭ほと公とぎす花たちばなの香をとめて 鳴くは昔の人ぞ恋しき 女院につき従っていた女房たちも、源氏の武士に捕えられて都へ帰ってからは、とても人前にも出られぬような姿で、哀れな暮しを続けているのであった。大原入御
例の七月九日の大地震は、女院のお住居をすっかり駄目にしてしまった。元々が、あばら屋であったところに、あの揺れ方で、僅かに残っていた築地も崩れ、屋根は全く傾いてしまった。その中で、女院は、誰一人訪ねる者もないままに、二、三人の女房たちを相手に細々と日を過していた。たまさか妹の、冷泉大納言隆たか房ふさの奥方、七条修理大夫信のぶ隆たかの奥方といった人たちが、お忍びで訪れてくるのであったが、 ﹁まさか、あの人たちの世話になろうとは、思いもよらぬことだったのに﹂ と女院は、しみじみ、述懐されることが多かった。 ﹁ここも、近頃は、人通りが多くて行ない澄ますには、少しうるさくなってきた、どこぞ静かなところで、念仏三昧に過したいのだけど﹂ 女院がそういわれるままに、適当な場所を物色していると、寂じゃ光っこ院ういんというところをすすめる者があった。都からは、遥かに離れた大原山の奥で、人里稀な淋しいところだったが女院は、大変、乗気であったから、そこへ居を移すことに決まった。引越しの荷物などは、あるべきはずもなかったが、輿の世話や、出立の準備をしてくれたのは、隆房の奥方だった。 都を離れて、次第に大原に近づいて来ると、そこはまったく物淋しい場所である。山やま陰かげのせいか、直ぐ夕暮になった。どこで打つ鐘か、入相の鐘の音さえも、ひとしお淋しさをつのらせる。風が出てきて、木の葉がさやさやと音をたてて鹿の音ずれさえも聞えてくる山の中である。過ぎし日に、西国の浦々、島々を渡った時も、これほど心細くはなかったような思いもする。 寂光院に着くと、傍らに、ささやかな庵を結び、一間をご寝所、一間を仏間として、朝から晩まで念仏に明け暮れる日常を送るようになった。 ある夜、かさこそと庭の落葉を踏みしだく音がした。 ﹁今頃、一体誰が来たのか? まさか、世を忍ぶ私に、危害を加えようという者もあるまいが﹂ と、おそるおそる女房を出して見せにやると、一匹の小鹿が庭を通りぬけていった。 女院が、 ﹁誰か参ったのか?﹂ と尋ねると、大納言佐殿は、涙を押えて一首の歌を詠むのであった。 岩根ふみ誰かはとわん楢ならの葉の そよぐは鹿の渡るなりけり大原御幸
女院が、大原の里に隠れ住んでいられることを聞かれた後白河法皇は、前々から一度、寂光院を訪ねたいと思われていたが、二月、三月の寒い冬の季節は一寸無理なので、賀茂の祭も過ぎた四月半ば、大原御幸をいよいよ実行されることになった。お忍びの御幸ではあったが、供ぐ奉ぶは徳大寺実定以下、公卿六人、殿上人八人、北面の武士も数人お供に加わった。途中、清きよ原はら深のふ養かや父ぶの建立になる補ふだ陀ら落く寺じ、小野皇太后宮の旧跡なぞをご覧になってお出でになった。 丁度四月も二十日過ぎのことで、そろそろ春も終ろうとしていた。夏草の茂みを踏んで、人の通ったこともない山道をわけゆくのであるから、見慣れぬ風景に法皇も興をそそられた様子であった。暫くゆくと、西の山の麓にそれらしき御堂が見えて来た。年代の経った泉水木立がいかにも由緒あり気で、庭の若草も、今を盛りと茂り合っていた。池の中州の松には、薄紫の藤がしだれかかり、遅咲きの桜が色どりを添えていた。折しも、山やま時ほと鳥とぎすがわけ知り顔に、ひと声鳴くのも一層情趣があった。 池水に汀みぎわの桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけれ 法皇のお歌である。 女院の庵室の軒には、蔦つた、朝顔がからみついていた。板の葺ふき目めもまばらで、雨や露をどうやってしのいでいるのかと思えるほどであった。うしろには直ぐ山が控え、前は荒涼たる野原に続いている。およそ人の訪れといっては、たまに木きこ樵りの木を伐る音と、木から木へ渡り歩く猿の声のみであった。 ﹁誰か、誰かおらぬか?﹂ 法皇が呼びかけてみたが、室内はしんと静まり返って、人のいるらしい気配もない。どうしたのだろうと思っていると、大分経ってから、老いさらぼえた老尼が、よろけるように出てきた。 ﹁女院はおいでか﹂ ﹁今、此この上の山へ花を摘みにお出ででございます﹂ ﹁花を、ご自身でか? そんなことまでする人もいないのか、何とそれは気の毒な﹂ 法皇がいいかけると、老尼はきっとなって、言葉をさえぎった。 ﹁何を申されまする、決してお気の毒ではござりませぬ。過去、未来の因果をお悟りの上は、左様なことは決してお嘆きではござりませぬ。悉しっ達たた太い子しにしてからが、難行苦行の末、悟りをお開きになったのではござりませぬか﹂ その態度の毅然とした様子に打たれて法皇は、つくづく老尼をご覧になった。絹か、布かの区別も判らぬ、みすぼらしい限りの衣服を着けていたが、それにしても、中々道理のあることを申す者と思われたのか、 ﹁そなたは、一体何者なのじゃ﹂ と、お聞きになった。 老尼は、はたと当惑したように押し黙ってそっと涙を拭った。 ﹁お判りにならぬのも尤もっともでございます、申し上げるのも恥ずかしいことながら、私は故少納言入道信しん西ぜいの娘で阿波の内侍、母は紀きい伊の二位、昔は大層可愛がって下さったものでござりましたのに、やはり身の衰えはどうしようもござりませぬのう﹂ と、しのび泣くのであった。 ﹁何? そなたは阿波の内侍であったか、すっかり見忘れていた。それにしても夢のようじゃな﹂ と、まだ信じられないご様子であった。供奉の面々も、先程から、妙に高飛車な尼と思っていたがと、今更ながら驚くのであった。 内侍の案内で女院の庵室に入り、障子を開けると、一間には来仰の﹇#﹁来仰の﹂はママ﹈三尊が飾られていた。中尊は手に五色の糸を持ち、左には普ふげ賢んの画像、右には善導和尚と先帝の画像と並び、妙法蓮華経八巻と、善導和尚の手になる九巻の御ごし書ょも置かれていた。昔は蘭らん麝じゃ香こうの香りにみちみちた部屋に過された女院であったが、今は、あやしい香の匂が部屋一杯にたちこめているのであった。 障子には、いろいろなお経の文句を色紙に書き、ところどころに張りつけてあった。大江定基法師の、﹁笙せい歌が遥かに聞ゆ孤雲の上、聖しょ衆うじゅ来仰す﹇#﹁来仰す﹂はママ﹈落日の前﹂という詩も見えた。又女院の歌らしく、 思いきや深みや山まの奥に住居して 雲井の月をよそにみんとは というのも書かれてあった。 隣りのひと間は、ご寝所であるらしく、竹の桁に、麻の衣、紙の夜具などが掛っている。その余りのみすぼらしさに、今更ながら、昔の女院の日常が思い合わされ、供奉した殿上人一同、涙を押し拭うのであった。 暫く経って、後の山から墨染の衣を着た尼がふたり、降りて来るのが見えた。途中、岩のけわしいところがあるらしく、暫く降り悩んでいる様子である。 ﹁あの者たちは?﹂ 法皇が尋ねると、老尼は涙を押えて、 ﹁お一方、花籠を肘ひじにかけ、岩のつつじをお持ちの方こそ、女院でいらっしゃいます。もう一方の細いたき木とわらびを持ってお出での方は、覚えてもおいででございましょう、先帝のお乳母、重衡卿の奥方で、大納言典す侍け殿でござりまする﹂ ﹁それでは、あの尼僧が女院でおいでか﹂ 法皇も暫し呆ぼう然ぜんとして、余りにも変り果てたお姿を見守るのであった。 一方女院は、突然の法皇の御幸が、余りにも思いがけぬことであったから、どうしてよいやらわけがわからず、立ちすくんでいた。 ﹁いくら世を捨てた身でも、こんな有様でお目にかかるのは恥ずかしい、消えてしまいたい位じゃ﹂ と思いながら、戻ることもできず、といって、ご庵室へも近づけず立往生しているのを、老尼が走り寄って、花籠を受け取るとすぐにいった。 ﹁何をお迷いなされることがありましょう、世を捨てた者の習として恥ずかしいということはござりませぬ、さあ、早くお降りになってご対面なされませ﹂ と、すすめたので女院も、やっと決心されて庵室にお入りになった。 ﹁仏のお出でばかりをお祈りしている私の前に、余りにも思いがけぬ人の訪れで、見苦しく取り乱してしまいました﹂ ﹁いやいや、この世のことはすべて、車輪の廻るようなもので、いかなる快楽も、全く束の間の夢まぼろし、流転極まりないものです。唯、天人の悲しみは、人間にもあったのかと、つくづく思いましたよ。それにしても、便りを呉れるものはあるのですか、何かにつけて昔のことがなつかしいでしょうね﹂ ﹁便りといえば、時たま、隆房、信隆の奥方が、言伝てを寄せて呉れるくらいのものでございます。本当にあの人たちの世話になろうとは、今の今まで思っても見ませんでしたのに﹂ といって、涙ぐむのであった。 ﹁でもこのような身になった悲しみは、言葉に尽くせぬほどでございましたが、考えてみますれば、一門の菩提を弔い、忘れ難い先帝の面影を胸に、朝夕、勤めいそしむことは、何よりのお導きと思うようになりました﹂ ﹁人生の儚なさは、今更驚くにもあたりませんが、それにしても、今の貴女のご様子をみるとどうにも辛いものです﹂ と法皇もまた、涙を拭うのであった。ややあって女院は、静かな調子で長い物語を始めたのである。 ﹁私は、清盛の娘として何不自由ない身分に生れ、宮中に入っては、天皇の母として、この世のもので思い通りにならないものは一つもありませんでした。摂政関白以下の公卿殿上人からも、丁重にもてなされ、清涼紫しし宸んの豪華な宮殿をわが家として、歓楽に明け暮れる生活を送っておりました。それが、寿永の秋の始めでございました。木曽義仲とか申す者が都へ乱入するとの噂に脅えた一門の人と共に、住みなれた都を後にしたのが不幸の始りでございます。浦伝い、島伝いの頼りない海上生活が始まったのです、私は始めて、この目で、哀あい別べつ離り苦く、怨おん憎ぞう会え苦くを味わったのでございました。漸くたどりついた筑前の太宰府では、惟これ義よしとか申す者に追われて、まったく頼るところのない浪々の身の上になったのです。この年の十月には、清きよ経つねの中将が、この世に見限りをつけて入水なさった悲しい事件もありました。この頃は、明けても暮れても船の上、貢物など海の上ではあろうはずもなく、食事もめったにできない日々で、たまに食物が手に入っても、肝心の水がなくてはどうにもならず、それも、水の上に浮びながら、水を呑のめぬ苦しみは又格別で、これぞ、餓鬼道の苦しみかと覚りました。室むろ山やま、水島の戦に勝った頃は、それでもまだ一門の者も気を取り直し、戦の準備にいそしんだものです。直衣束帯を鎧に変えて、日夜、戦に次ぐ戦の日々が始まりました。しかしそれも一の谷を落されてからは、もう先が見えておりました。その頃二位殿が申されたことがございます。 ﹁一門の運命も、尽き果てたと思われます。この戦で、男が生き伸びることは、万が一にも考えられませぬ。でも女は殺さぬ習わし故、そなたは何とか生き長らえて、主上の後世をも弔い、私の後世をもお助け下さい﹂ そう仰おっ有しゃられた言葉を、夢のまにまに聞いたような気がいたします。 気がついたときは、二位殿が、先帝をお抱き申して船べりに立ってお出ででした。あの可愛い小さいお手を合わせて、東を伏し拝み、その後、西に向って拝まれた後、沈まれた様子は、どうにも忘れることができないのでございます。留まり残された人の嘆き、悲しみの声は、まさに、叫喚、大叫喚、地獄の罪人もこれ程ではないと思われるくらいでございました。やがて、源氏の武士に捕われの身となって明石の浦に着いた時でございました。不図うつらうつらしたまま夢をみたのです、昔の内裏よりも、もっと立派な御殿に、先帝を始め、一門の公卿殿上人がずらりとお揃いで、 ﹁ここは一体何処ですか﹂ と二位殿に尋ねると、 ﹁竜宮城です﹂ といわれます。 ﹁大変、良いところでございますが、ここには苦しみはないのでしょうか﹂ とお尋ねすると、 ﹁いえ、苦しみはあると竜りゅ畜うち経くきょうにも書かれておりますから、よくよく後世を弔って下さい﹂ といわれて、ハッと目が覚めました。以後、念仏に精を出し、ご菩提を弔う決心をしたのです。この私の体験したことこそ、まさに六道ではないかと思うのです﹂ 女院の長い身上話が終ると、法皇はほっと一息つかれたあとで、 ﹁玄げん弉じょ三うさ蔵んぞうは、悟りを開く前に六道を見、我が国の日にち蔵ぞう上人は、蔵ざお王うご権んげ現んの力で、六道を見たと言いますが、まのあたり六道をご覧になるなどは、めったにできない事ですよ﹂ と、法皇は感じ入ったように眼を輝やかされた。 やがて、いつしか、鐘の声が夕暮を告げはじめた。積る話も多く、お名残も尽きなかったが、漸ようやく庵室を出られて、法皇は都へ還られるのであった。御輿が、山合いの木立の陰にかくれ去るまでお見送りしながら、女院は、日頃は忘れていた、はなやかだった昔の事が、それからそれへと憶い出されてくるにつれて、庵室の障子に、二首の歌を書きつけられた。 此の頃はいつ習いてかわが心 大宮人の恋しかるらん いにしえも夢になりにし事なれば 柴のあみ戸もひさしからじな また、供奉に加わった徳大寺大納言も、興の赴くままに一首の歌を庵の柱に書きつけていった。 いにしえは月にたとえし君なれど その光なき深みや山ま辺べの里
山里の春も過ぎ、夏も行き、四季の移り変りを何度も送り迎えている間に、年月は夢のように過ぎていった。やがて静かな僧庵暮しを続けていた女院は、病の床に就く身となった。元々、覚悟の上のことであるから、少しもお悩みの様子もなく、中尊の持つ五色の糸を手にして、﹁南無西方極楽世界教主弥陀如来、本願過あやまち給わず、必ず引いん摂じょうし給え﹂と念仏を称えながら、静かに世を去った。大納言佐すけ局のつぼね、阿波内侍が、取りすがって声を限りに泣いたが、静かな微笑をたたえたそのお顔からは、何の苦しみも見出せなかった。建久二年二月の中旬のことである。西の空に紫の雲がたなびき、珍しい匂が部屋中に満ちあふれ、妙たえなる楽の音が聞えてくる中を、昇天されたのであった。
残された二人の女房は、后きさいの宮の時代から女院の傍を片時も離れず奉公した者だけに、別れは一層辛かったらしい。他によるべのない身の上であったから、そのまま庵に住みついて、仏事を営みながらも、二人とも、しずかに往生を遂げたということであった。