福沢諭吉
ペンは剣よりも強し
高山毅
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﹁天(てん)は人(ひと)の上(うえ)に人(ひと)をつくらず、
人(ひと)の下(した)に人(ひと)をつくらず。﹂
明(めい)治(じ)のはじめ、﹁学(がく)問(もん)のすすめ﹂で、いちはやく
人(にん)間(げん)の自(じゆ)由(う)・平(びょ)等(うどう)・権(けん)利(り)のとうとさをとき、
あたらしい時(じだ)代(い)にむかう日(にほ)本(んじ)人(ん)に、
道(みち)しるべをあたえた人(ひと)。
それまでねっしんにまなんだオランダ語(ご)をすてて、
世(せか)界(い)に通(つう)用(よう)する英(えい)語(ご)を、独(どく)学(がく)でまなんだ人(ひと)。
アメリカやヨーロッパに三度(ど)もわたり、
自(じぶ)分(ん)の目(め)でじっさいにたしかめた、
外(がい)国(こく)のすすんだ文(ぶん)化(か)や思(しそ)想(う)をしょうかいし、
大(おお)きなえいきょうをあたえた人(ひと)。
上(うえ)野(の)の戦(せん)争(そう)のとき、砲(ほう)声(せい)をききながら、
へいぜんと講(こう)義(ぎ)をつづけた人(ひと)。
福(ふく)沢(ざわ)諭(ゆき)吉(ち)は、ながい封(ほう)建(けん)制(せい)度(ど)にならされた人(ひと)々(びと)を
目(め)ざめさせるのは、学(がく)問(もん)しかないと、
けわしい教(きょ)育(うい)者(くしゃ)の道(みち)をえらびました。
いま、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)大(だい)学(がく)の図(とし)書(ょか)館(ん)には、
﹁ペンは剣(けん)よりも強(つよ)し。﹂
のことばが、ラテン語(ご)で書(か)かれています。
諭(ゆき)吉(ち)の一(いっ)生(しょう)は、この理(りそ)想(う)でつらぬかれました。
日(にっ)本(ぽん)の民(みん)主(しゅ)主(しゅ)義(ぎ)を考(かんが)えるとき、
わたしたちはいつも、
諭(ゆき)吉(ち)にたちかえらなければなりません。
﹇#改ページ﹈
夏(なつ)のはじめのある日(ひ)の午(ご)後(ご)のことでした。
十二、三さいになる少(しょ)年(うねん)が、九(きゅ)州(うしゅう)の中(なか)津(つ)︵大(おお)分(いた)県(けん)︶の町(まち)を、むねをはってあるいていました。こしに大(だい)小(しょう)の刀(かたな)をさしているので、士(しぞ)族(く)︵さむらいの家(いえ)がら︶の子(こ)どもとすぐわかりますが、ふるぼけたふろしきづつみを左(ひだり)の小(こ)わきにかかえ、小(ちい)さなとっくりをその手(て)にさげています。どうやら少(しょ)年(うねん)は、町(まち)に買(か)いものにきたかえりのようでした。
町(ちょ)人(うにん)たちは、さも、ふしぎなものをみたといわんばかりに、少(しょ)年(うねん)のうしろすがたをゆびさして、ささやきあいました。
﹁おさむらいの子(こ)が、まっ昼(ぴる)間(ま)、どうどうと、びんぼうどっくりをさげて、買(か)いものにくるとは、おどろいたな。﹂
﹁まったくだ。ちかごろは、おさむらいも、ふところぐあいがよくないとみえて、一しょう︵一・八リットル︶どっくりをさげて買(か)いにみえるが、はずかしそうにほおかむりをして、しかも、日(ひ)のくれがたとか、夜(よる)になってから、買(か)いにくるというのが、ふつうだからな。﹂
﹁まあ、おさむらいには、士(しぞ)族(く)としての体(たい)面(めん)︵せけんにたいするていさい︶があるからな。それを、あのようにどうどうと……いったい、どこの子(こ)どもだろう。﹂
町(ちょ)人(うにん)たちがはなしている、その少(しょ)年(うねん)は、じりじりとてりつける太(たい)陽(よう)にあせばんだのか、ときおり、右(みぎ)手(て)で、ひたいのあせをふきながら、士(しぞ)族(く)やしきへかえっていきました。
やがて、少(しょ)年(うねん)がたちどまったのは、門(もん)こそありますが、ふるぼけた、そまつなかやぶきやねの家(いえ)でした。
﹁ただいま、かえりました。﹂
少(しょ)年(うねん)が、げんかんからはいると、
﹁おかえり、諭(ゆき)吉(ち)。ごくろうだったね。とちゅうで、知(し)りあいの人(ひと)にあわずにすんだかね。﹂
と、お母(かあ)さんのお順(じゅん)がやさしくむかえました。
﹁ええ、だれにもあいませんでした。でも、だれかにあったって、わたしはへいきです。自(じぶ)分(ん)の金(かね)で、ものを買(か)うんですから、すこしもはずかしいことはありません。﹂
﹁そうとも、そうとも。よくいってくれました。母(かあ)さんは、そのことばをきいて、とてもうれしいんだよ。うちがびんぼうでも、おまえがいじけないでそだってくれるということがね。……そうそう、かえってきてすぐでわるいけれど、たんすがあかなくなったから、ちょっとなおしてもらえないかしら。﹂
﹁いいですとも。あかなくなったのは、どのたんすですか。﹂
諭(ゆき)吉(ち)のひとみは、きゅうにいきいきとかがやき、刀(かたな)をいつものところにおくと、たんすのある部(へ)屋(や)にかけこむようにしてはいっていきました。
﹁このたんすのひきだしなんだけどね。﹂
あとからついてきたお母(かあ)さんのいうのをきいて、諭(ゆき)吉(ち)は、そのひきだしのあちらこちらをしらべはじめました。それから、かぎをつっこんで、まわしてみましたが、なかなかあきません。
﹁これは、かぎがこわれたんですね。くぎでなければ、あかないかもしれません。﹂
﹁そうかい。では、くぎをつかって、あくようにしておくれ。﹂
お母(かあ)さんは、台(だい)所(どころ)のほうへさっていきました。
諭(ゆき)吉(ち)は、くぎをもってきて、そのさきをまげて、かぎあなにさしこんで、あっちにまわしてみたり、こっちにまわしてみたり、いろいろとくふうをこらしました。顔(かお)のあたりを、かが四、五ひき、うるさくとんでいるのを手(て)でおいはらいながら、かんがえこんでいます。両(りょ)足(うあし)をかわりばんこにあげているのは、かにさされないためでもありますが、便(べん)所(じょ)にいきたいのをがまんしているためでもありました。それほど、ひきだしをあけるのにいっしょうけんめいになっていたわけです。
そのうち、ひきだしがすっとあきました。
﹁お母(かあ)さん、あきましたよ。﹂
といったとたん、こらえていることができなくなったのでしょう、諭(ゆき)吉(ち)はバタバタと便(べん)所(じょ)へはしりました。
ところが、そのとき、兄(にい)さんの三(さん)之(のす)助(け)が、ほご紙(し)︵ものをかきそこなって、不(ふよ)用(う)になった紙(かみ)︶を部(へ)屋(や)いっぱいにひろげて、整(せい)理(り)をしていました。
いつもなら諭(ゆき)吉(ち)は、便(べん)所(じょ)へいくのに、その部(へ)屋(や)をとおらないのですが、いまはいそいでいるものですから、近(ちか)道(みち)をして、つい、ほご紙(し)をふんでしまったのです。すると、
﹁こりゃ、まてっ、諭(ゆき)吉(ち)。﹂
と、兄(にい)さんが大(おお)きな声(こえ)でしかりつけました。
﹁おまえは、目(め)がみえぬのか。これをみなさい。なんとかいてある。奥(おく)平(だい)大(らだ)膳(いぜ)大(んの)夫(だいぶ)と、とのさまのお名(な)まえがかいてあるではないか。﹂
と、えらいけんまくです。八つ年(とし)上(うえ)の兄(にい)さんのいうことですから、しかたがありません。諭(ゆき)吉(ち)は、
﹁ああ、そうでございましたか。でも、わたしは、つい、しらなかったものですから。﹂
と、いいわけをしました。
﹁しらなかったで、すむか。目(め)があればみえるはずだ。とのさまのお名(な)まえを足(あし)でふむとは、なんたることか。臣(しん)子(し)の道(みち)︵けらいや、子(こ)のまもるべきこと︶をわきまえない、ふこころえものだぞ、おまえは。﹂
﹁わたしは、とのさまを足(あし)でふんだわけではありません。たまたま、わたしのふんだほご紙(し)に、とのさまのお名(な)まえがかいてあっただけのことです。﹂
﹁だまれっ、とのさまのお名(な)まえのかいてあるものを、足(あし)でふみつけたことは、とのさまをふみつけたとおなじことだ。お父(ちち)上(うえ)が生(い)きておられたら、これをなんといわれるか、かんがえてみるがよい。﹂
日(ひ)ごろは弟(おと)思(うとおも)いの兄(にい)さんが、ほんとうにかんかんになっておこっているのです。諭(ゆき)吉(ち)は便(べん)所(じょ)にはやくいきたいので、いまは、あやまるよりほかに方(ほう)法(ほう)がないとおもいました。
﹁これは、わたしがわるうございました。これからは気(き)をつけますから、かんにんしてください。﹂
と、おじぎをしてあやまり、いそいで便(べん)所(じょ)にいきました。やっと、ときはなされたような気(き)持(も)ちになりました。
しかし、気(き)がおちついてくると、兄(にい)さんのことばには、なっとくのできないものがあります。
︵なんだ、とのさまの頭(あたま)をふんだというのではない。ただ、名(な)をかいてあるほご紙(し)をふんだだけのことだ。紙(かみ)の上(うえ)の字(じ)など、かまうことはないじゃないか。それを、兄(にい)さんはあんなにおこったりして……。︶
と、諭(ゆき)吉(ち)はふまんにおもい、そして、紙(かみ)の上(うえ)の文(も)字(じ)を、ただたいせつにするということに、うたがいがわいてきました。
兄(にい)さんがいうように、とのさまの名(な)のかいてあるほご紙(し)をふみつけてわるいのなら、神(かみ)さまの名(な)まえのかいてあるおふだをふんだら、どうなるだろうか。こうかんがえた諭(ゆき)吉(ち)は、さっそく、その夜(よ)、神(かみ)だなから、おふだを一まいとって、こっそり足(あし)でふんでみました。ところが、べつにかわったことはおこりませんでした。
︵うん、なんともない。これはおもしろいぞ。よし、こんどは、便(べん)所(じょ)にもっていって、ためしてみよう。︶
おもいきって、便(べん)所(じょ)の中(なか)へおとしてみました。なにごとかおこったら、すぐとびだせるように用(よう)意(い)して、こわさのために手(てあ)足(し)のふるえるのをがまんして、じっとようすをみていました。しかし、やはりなにごともおこりません。
︵そうれ、みろ。兄(にい)さんがよけいなことをいってしかったが、あんなことをいうのはおかしいんだ。︶
と、諭(ゆき)吉(ち)はあんしんもし、また、かたくしんじることができたので、とくいにもなりました。
しかし、こればかりは、兄(にい)さんにはもちろん、お母(かあ)さんにもねえさんにもはなせません。はなせば、きっとしかられるにちがいありませんから、一(ひと)人(り)でそっと、自(じぶ)分(ん)の心(こころ)の中(なか)にしまっておきました。
諭(ゆき)吉(ち)は、兄(にい)さんのいうことになっとくがいかず、それをそのままにしておかずに、じっさいにためしてみて、自(じし)信(ん)をえたわけでした。すると、もっと、いろいろなことをためしてみたくなりました。
諭(ゆき)吉(ち)のおじさんの家(いえ)の庭(にわ)のかたすみに、おいなりさんをまつった小(ちい)さなほこらがありました。それを、大(おと)人(な)﹇#ルビの﹁おとな﹂は底本では﹁おな﹂﹈たちは、しんみょうな顔(かお)つきでおがんでいますが、いったい、おいなりさんの正(しょ)体(うたい)はどんなものか、それをしりたくてたまりません。しかし、大(おと)人(な)たちは、神(かみ)さまの正(しょ)体(うたい)をみるなどということは、だいそれたことで、ばちがあたって目(め)がつぶれたり、手(て)や足(あし)がまがってしまうぞ、とおどかすばかりで、諭(ゆき)吉(ち)によくわかるようなせつめいをしてくれません。そこで、
︵よし、ぼくがみてやろう。︶
と、ある日(ひ)、あたりに人(ひと)のいないのをみすますと、いなりのほこらのとびらを、そっとひらいてみました。おっかなびっくりであけたのですが、そのとたんに、
﹁なあんだ、石(いし)ころじゃないか。﹂
と、おもわず声(こえ)をだしたほどでした。ほこらの中(なか)には、なんのへんてつもない石(いし)ころが、一つはいっているだけではありませんか。
みたところ、道(みち)ばたにころがっている石(いし)ころと、ちっともかわったところはありません。これに、なにかとくべつに神(かみ)さまの力(ちから)がやどっているのでしょうか。もし、そうだとすれば、この石(いし)ころをほうりだして、そのへんにころがっているべつの石(いし)をほこらにいれたら、どんなことになるでしょうか。大(おと)人(な)たちは、にせのおいなりさんをありがたがらなくなるでしょうか。
諭(ゆき)吉(ち)は、それをためしてみるために、ほこらの石(いし)をとりかえておきました。
べつだん、なんのかわったこともおこりません。それどころか、あくる朝(あさ)、おいなりさんをみにいくと、近(きん)所(じょ)のおばあさんが、おみきとあぶらあげをそなえて、なにやら口(くち)の中(なか)でぶつぶつとなえながら、しんみょうにおがんでいるではありませんか。
︵あっはっはっ。ばかなおばあさんだな。ぼくの入(い)れた石(いし)ころに、おみきとあぶらあげをあげておがむなんて……。︶
と、諭(ゆき)吉(ち)は、おかしさをこらえて、その場(ば)をたちさりました。
けれども諭(ゆき)吉(ち)は、このことを、だれにもはなしませんでした。はなせば、しかられるにきまっているし、自(じぶ)分(ん)でも、けっしてよいことをしたとはおもっていなかったからです。それでも、このいたずらによって、神(かみ)さまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、諭(ゆき)吉(ち)ははっきりとしることができました。
諭(ゆき)吉(ち)は、このように、自(じぶ)分(ん)でなっとくのできないことについては、自(じぶ)分(ん)でじっさいにためしてみるという、しっかりした少(しょ)年(うねん)でした。おまけに手(て)さきがきようなので、家(いえ)ではたいへんちょうほうがられていました。
いどにものがおちたといえば、どういうふうにしてあげたらよいか、その方(ほう)法(ほう)をかんがえだして、わけなくひきあげました。しょうじをはることなど、うまいもので、家(いえ)のしょうじはもちろん、しんるいからたのまれて、はりにいくこともありました。げたのはなおもすげれば、たたみばりを買(か)ってきて、たたみのおもてがえまでやりました。ですから、ひまさえあれば、木(き)のきれをけずって、なにかをつくっていました。
あのおいなりさんの正(しょ)体(うたい)をみてからも、諭(ゆき)吉(ち)の生(せい)活(かつ)には、べつだんかわったことがありませんでした。
一年(ねん)たって、また夏(なつ)がやってきました。
ある日(ひ)、お母(かあ)さんがせんたくをしようとして、たらいをもちあげると、たががゆるんでいたのでしょうか、ばらばらにこわれてしまいました。あたらしいたらいを買(か)うほかないとおもわれました。しかし、諭(ゆき)吉(ち)は、このばらばらにこわれたたらいをなおす役(やく)をひきうけました。
たけをわって、たがのわをつくるのは、たいへんむずかしい仕(しご)事(と)ですが、諭(ゆき)吉(ち)はいろいろとかんがえて、とうとう、もとどおりのたらいになおしてしまいました。自(じぶ)分(ん)ながら、よくやれたものだと、いささかとくいになって、
﹁どうです、お母(かあ)さん。こんなにりっぱになりましたよ。みてください。﹂
といいました。
お母(かあ)さんやねえさんは大(おお)よろこびでしたが、兄(にい)さんは、あまりよい顔(かお)をしません。
﹁諭(ゆき)吉(ち)、たらいのたがをなおすのもよいけれど、すこし勉(べん)強(きょう)をしたらどうだ。さむらいの子(こ)が、字(じ)をならわず、まるで職(しょ)人(くにん)がやるようなことばかりしているのは、みっともないぞ。﹂
せっかく、いい気(き)持(も)ちになっているところへ、このようにきびしくいわれたので、諭(ゆき)吉(ち)はむっとしました。
﹁兄(にい)さんは、わたしに勉(べん)強(きょう)しろというんですか。いやなことだ。勉(べん)強(きょう)なんて、わたしはだいきらいです。﹂
﹁では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。﹂
﹁そうですね。まあ、日(にっ)本(ぽん)一の大(おお)金(がね)持(も)ちになって、おもうぞんぶんお金(かね)をつかってみたいものですね。﹂
﹁なにっ、大(おお)金(がね)持(も)ちになりたいだと? 諭(ゆき)吉(ち)、おまえは、それでもさむらいの子(こ)か。さむらいの子(こ)というものは、お金(かね)もうけなどかんがえてはならんぞ。おまえは、まだ小(ちい)さかったからおぼえてもいまいが、お父(ちち)上(うえ)はな、さむらいの子(こ)が金(かね)かんじょうなどならうものじゃないといって、わたしがかよっていた手(て)ならいの先(せん)生(せい)が、かけざんの九(く)九(く)をおしえたら、そんな先(せん)生(せい)のところへ子(こ)どもをあずけられないといって、おこられたことがあるくらいだ。お父(ちち)上(うえ)は、りっぱな学(がく)者(しゃ)だった。その血(ち)をひいたおまえが、勉(べん)強(きょう)はだいきらいだなんていって、はずかしいとおもわぬか。﹂
﹁わたしは、勉(べん)強(きょう)がきらいなんですから、しかたがないじゃありませんか。それに、さむらいの子(こ)がお金(かね)のことをいって、どうしてわるいんですか。うちだって、もっとお金(かね)があったら、どんなにいいか。兄(にい)さんだって、心(こころ)の中(なか)では、そうおもっているくせに。﹂
﹁へりくつをいうな。おまえのさきざきのことをかんがえて、勉(べん)強(きょう)するようにすすめてやっているのに、おまえは、それがわからんのか。なんというばかものだ。そこへすわれ、お父(ちち)上(うえ)にかわって、おまえのしょうね︵こころね︶をたたきなおしてやるから。﹂
兄(にい)さんは、そばの木(ぼく)刀(とう)をとって、諭(ゆき)吉(ち)のほうへ、あらあらしい足(あし)どりでつめよりました。このとき、
﹁おまちなさい、三(さん)之(のす)助(け)っ。﹂
と、お母(かあ)さんが、中(なか)にわってはいりました。
﹁兄(きょ)弟(うだい)げんかはいけません。諭(ゆき)吉(ち)の勉(べん)強(きょう)ぎらいは、母(かあ)さんにもせきにんがあります。家(いえ)がまずしいものだから、つい、諭(ゆき)吉(ち)に家(いえ)の手(て)だすけばかりをしてもらっていました。諭(ゆき)吉(ち)には、母(かあ)さんから勉(べん)強(きょう)するようにいいきかせますから、この場(ば)はかんにんしてやっておくれ。﹂
木(ぼく)刀(とう)をもってたっている兄(にい)さんの足(あし)もとに、お母(かあ)さんはきちんとすわって、頭(あたま)をたたみにすりつけんばかりにして、たのみました。兄(にい)さんも、こしをおろして、木(ぼく)刀(とう)をかたわらにおき、お母(かあ)さんのまえに、だまって頭(あたま)をさげていました。お母(かあ)さんのうしろには、諭(ゆき)吉(ち)がおなじように、頭(あたま)をさげていました。
それから二週(しゅ)間(うかん)もたったでしょうか。よくはれた日(ひ)のお昼(ひる)ちかくに、着(きも)物(の)はぼろぼろ、かみはぼうぼうの女(おんな)こじきが、諭(ゆき)吉(ち)の家(いえ)の門(もん)の外(そと)にたち、はいろうか、はいるまいかと、ためらっていました。それを、せんたくものをほしていた諭(ゆき)吉(ち)のお母(かあ)さんが、目(め)ざとくみつけました。
﹁まあ、おチエじゃないか。ひさしぶりだね。さあ、こちらへおはいり。﹂
と、庭(にわ)のほうへよびいれました。おチエはすなおに庭(にわ)のほうへはいってきましたが、右(みぎ)手(て)で頭(あたま)をなんべんもかいています。
﹁おや、おチエは、また、しらみをわかしたとみえるな。さあ、そこへおすわり。わたしがとってあげるから。﹂
と、庭(にわ)の草(くさ)の上(うえ)にすわらせ、
﹁諭(ゆき)吉(ち)や、ちょっときて、てつだっておくれ。﹂
と、土(ど)間(ま)で木(き)ぎれをけずっている諭(ゆき)吉(ち)に声(こえ)をかけました。諭(ゆき)吉(ち)は、すぐにでてきましたが、
﹁ああ、また、しらみたいじですか。おチエは、からだがくさいから、いやだなあ。﹂
と、鼻(はな)をおさえながらいいました。
お母(かあ)さんはいつも、おチエのしらみをとってやるのでした。そのとったしらみを、庭(にわ)石(いし)の上(うえ)におきます。しらみははいだそうとします。それを、小(こい)石(し)をもってつぶすのが、諭(ゆき)吉(ち)の役(やく)目(め)でした。諭(ゆき)吉(ち)は、こればかりは、きたなくて、きたなくて、むねがわるくなるようでした。でも、お母(かあ)さんのいいつけなので、いつもがまんして、てつだいました。
おチエは、中(なか)津(つ)の町(まち)では、だれからもばかにされていました。それなのに、諭(ゆき)吉(ち)のお母(かあ)さんは、士(しぞ)族(く)としての身(みぶ)分(ん)などにこだわらず、よくおチエのめんどうをみてやるのでした。
﹁まあ、こんなに、しらみがうようよわいていては、おチエもかゆかったろうね。これからは、かみをよくあらうようにして、しらみをわかすんじゃないよ。﹂
と、まるでおさない子(こ)どもにでもいうように、おチエに教(おし)えさとしながら、しらみをつぎつぎにとります。諭(ゆき)吉(ち)も、いそがしくしらみをつぶします。
おチエは、さもうれしそうに、ときおり、にたっとわらってみせています。そのうち、頭(あたま)がかゆくなくなって、気(き)持(も)ちがよくなったのか、おチエは、ねむたそうに、こっくりをはじめました。
﹁さあ、そっとしておいてやりましょう。諭(ゆき)吉(ち)、おチエの顔(かお)をみてごらん。よいゆめでもみているのか、うれしそうな顔(かお)をして、まるでほとけさまみたいじゃないか。﹂
と、お母(かあ)さんがいいました。諭(ゆき)吉(ち)は、
﹁ええっ。﹂
とおどろきましたが、そういわれて、おチエの顔(かお)をみると、なるほど、お母(かあ)さんのいうことがわかるような気(き)持(も)ちがしました。
これまで女(おんな)こじきをいたわるお母(かあ)さんを、ふうがわりなお母(かあ)さんだとおもっていたのですが、人(にん)間(げん)は、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、
﹁お母(かあ)さんはえらいな。﹂
と、あらためてお母(かあ)さんをそんけいしたくなりました。
﹁諭(ゆき)吉(ち)や、母(かあ)さんは、このあいだから、おまえにいってきかせようとおもっていたことがあります。おまえは、兄(にい)さんに、なんになるつもりだときかれて、大(おお)金(がね)持(も)ちになりたいとこたえましたね。けれど、兄(にい)さんのいわれるように、勉(べん)強(きょう)はやはりしてもらいたいとおもいます。なくなられたお父(とう)さまは、おまえをおぼうさんにしたいといわれていたんですよ。﹂
﹁えっ、わたしをおぼうさんにするって、ほんとうですか、お母(かあ)さん。﹂
﹁ほんとうですとも。それには、すこし、わけをはなさなければ、おまえには、わからないかもしれないが……。﹂
こういって、お母(かあ)さんがはなしてくれたのは、つぎのようなことでした。
諭(ゆき)吉(ち)のお父(とう)さんは、福(ふく)沢(ざわ)百(ひゃ)助(くすけ)といい、中(なか)津(つ)のとのさまのけらいでした。ひじょうにしょうじきで、まじめな人(ひと)であり、また、学(がく)問(もん)のすきな、すぐれた漢(かん)学(がく)者(しゃ)でした。けれども、身(みぶ)分(ん)がひくいために、つまらない役(やく)職(しょく)にがまんしていなければなりませんでした。
それは、江(えど)戸(ば)幕(く)府(ふ)のおわりにちかいころでしたが、そのころの日(にっ)本(ぽん)の社(しゃ)会(かい)は、まだ、さむらいがいちばんえらいとされていました。町(ちょ)人(うにん)やひゃくしょうたちは、いつも、さむらいにいじめられていました。
さむらいの家(いえ)に生(う)まれたものは、どんなにつまらない人(にん)間(げん)でもさむらいになり、いばることができました。町(ちょ)人(うにん)やひゃくしょうの子(こ)どもは、いくらすぐれた人(にん)間(げん)でも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいの中(なか)でも、身(みぶ)分(ん)のたかいものと、ひくいものとにわけられていて、身(みぶ)分(ん)のひくいさむらいの子(こ)は、身(みぶ)分(ん)のたかいさむらいの子(こ)より上(うえ)の役(やく)目(め)につくということは、ゆるされませんでした。
そんなわけで、諭(ゆき)吉(ち)のお父(とう)さんは、りっぱな人(ひと)でしたが、つまらない役(やく)目(め)にしか、つくことができませんでした。
中(なか)津(つ)のとのさまは、大(おお)阪(さか)の堂(どう)島(じま)にくらやしきをかまえていました。このくらやしきは、どこのとのさまももっていたもので、自(じぶ)分(ん)の国(くに)でとれる米(こめ)や、名(めい)産(さん)・特(とく)産(さん)の品(しな)々(じな)を、このくらやしきにおくってきて、それを大(おお)阪(さか)の商(しょ)人(うにん)に売(う)りわたして、自(じぶ)分(ん)の国(くに)の財(ざい)政(せい)をまかなうことになっていました。
諭(ゆき)吉(ち)のお父(とう)さんは、そのくらやしきにつとめて、回(かい)米(まい)方(かた)という役(やく)についていました。回(かい)米(まい)方(かた)というのは、このくらやしきにおくりこまれてきた米(こめ)の見(み)はりの番(ばん)をしたり、商(しょ)人(うにん)に売(う)ったりする仕(しご)事(と)で、ずいぶん、せきにんのおもい役(やく)目(め)でした。けれども、そのころのさむらいは、刀(かたな)をつかうような役(やく)につくものはだいじにされますが、お金(かね)のかんじょうなどをする役(やく)目(め)のものはみさげられていました。この回(かい)米(まい)方(かた)もまた、みさげられる役(やく)目(め)だったのです。
諭(ゆき)吉(ち)は、そのお父(とう)さんのすえっ子(こ)として大(おお)阪(さか)で生(う)まれました。いちばん上(うえ)が兄(にい)さんの三(さん)之(のす)助(け)で、その下(した)に三人(にん)のねえさんがありました。女(おんな)の子(こ)が三人(にん)つづいたあとに、男(おとこ)の子(こ)が生(う)まれたのですから、お父(とう)さんは大(おお)よろこびでした。
﹁おまえが生(う)まれたときは、やせてはいたけれど、ほねぶとで、じょうぶそうな大(おお)きなあかちゃんだったものだから、さんばさんが、﹃ちちをたくさんのませれば、りっぱにそだちますよ。﹄というのをきいて、お父(とう)さまは、たいへんおよろこびになってね、﹃これはよい子(こ)だ。十(とお)か十一になったら、お寺(てら)へやって、りっぱなおぼうさんにしよう。﹄とおっしゃったのですよ。そののちも、口(くち)ぐせのように、﹃おぼうさんにしたい。﹄とおっしゃっていました。
ところが、おまえがかぞえ年(どし)で三つのときに、お父(とう)さまはなくなられました。それで、母(かあ)さんは、おまえたちをつれて、中(なか)津(つ)へかえってきたわけだけどね。もし、お父(とう)さまが生(い)きておられたら、おまえは、いまごろは、どこかのお寺(てら)の小(こ)ぞうさんになっているところだよ。﹂
と、お母(かあ)さんがいいました。
﹁でも、わたしは、おぼうさんはきらいです。お父(ちち)上(うえ)は、どうして、わたしを、おぼうさんにしようとなさったのですか。﹂
﹁さあ、それは、母(かあ)さんにも、よくわかりませんがね。まあ、りっぱなおぼうさんになるには、勉(べん)強(きょう)をうんとしなければなりません。お父(とう)さまは、学(がく)問(もん)のすきなかたでしたから、おまえに勉(べん)強(きょう)をしてもらいたかったのじゃないかとおもいます。どうだろ、おぼうさんになっては……。﹂
﹁おぼうさんになるのだけは、かんべんしてください。そのかわりに……。﹂
﹁そのかわりに?﹂
﹁勉(べん)強(きょう)をします。﹂
諭(ゆき)吉(ち)のしんけんな顔(かお)つきをみて、お母(かあ)さんは、いかにもうれしそうに、にっこりとしました。
﹁さあ、それでは、おチエがまもなく目(め)をさますでしょう。おにぎりでもつくってやることにしましょう。わたしたちも、お食(しょ)事(くじ)をしなくてはならないしね。﹂
気(き)持(も)ちよさそうにひるねをしているおチエの顔(かお)をみながら、お母(かあ)さんは、台(だい)所(どころ)のほうへはいっていきました。あとにのこった諭(ゆき)吉(ち)は、おぼうさんにならずにすんだので、ほっとしました。
勉(べん)強(きょう)をすることは、このあいだ、兄(にい)さんからいわれて、なるほどとおもい、自(じぶ)分(ん)でも、やらなければならないな、とかんがえるようになっていたので、それほど苦(く)にはならなかったのです。勉(べん)強(きょう)なんてだいきらいだといっていた諭(ゆき)吉(ち)が、すすんで勉(べん)強(きょう)するといいだしたことを、お母(かあ)さんからきいて、兄(にい)さんはとてもよろこびました。
といっても、いまのような学(がっ)校(こう)はありませんから、勉(べん)強(きょう)するといえば、ちかくにある塾(じゅく)︵むかしの学(がっ)校(こう)︶にかようほかありません。そこへかよって、漢(かん)字(じ)がいっぱいつまった中(ちゅ)国(うごく)の本(ほん)をならうのです。それを漢(かん)学(がく)といいました。生(せい)徒(と)は、七、八さいの小(ちい)さな子(こ)から十三、四さいまでのものばかりで、諭(ゆき)吉(ち)がいちばん年(とし)上(うえ)ですから、たいへんきまりがわるいことでした。けれども、負(ま)けん気(き)のつよい諭(ゆき)吉(ち)は、
﹁なあに、いまにみろ、みんなにおいついてやるから。﹂
と、心(こころ)をふるいたたせて、むちゅうで勉(べん)強(きょう)にはげみました。そのため、みるみるうちに、おなじ年(とし)ごろの子(こ)どもたちにおいつき、やがて、その子(こ)どもたちをおいこしてしまいました。
塾(じゅく)は二、三回(かい)、かわりましたが、その中(なか)で、いちばんたくさん本(ほん)をならったのは、白(しら)石(いし)常(つね)人(ひと)先(せん)生(せい)でした。漢(かん)学(がく)がおもでしたが、諭(ゆき)吉(ち)は歴(れき)史(し)がすきで、すきな本(ほん)は、何(なん)回(かい)もよみ、暗(あん)記(き)してしまうほどでした。
十五、六さいごろになると、諭(ゆき)吉(ち)は、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。身(みぶ)分(ん)のちがいということは、子(こ)どもどうしの中(なか)にもあったからでした。第(だい)一に、ことばづかいがちがうのです。諭(ゆき)吉(ち)たち下(した)っぱの家(いえ)のものは、身(みぶ)分(ん)の上(うえ)の家(いえ)の子(こ)にむかっては、
﹁あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。﹂
と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、
﹁きさまは、ああいった、こうしろ。﹂
といったちょうしです。
塾(じゅく)のせいせきは、諭(ゆき)吉(ち)のほうが上(うえ)ですし、からだもつよくしっかりしていながら、頭(あたま)があがりません。それは、親(おや)の家(いえ)がらや身(みぶ)分(ん)がちがうためにできたわけへだてでした。それが、諭(ゆき)吉(ち)にはくやしくてくやしくてたまりません。すると、お父(とう)さんが、自(じぶ)分(ん)をおぼうさんにしようとした気(き)持(も)ちがわかってくるようでした。
諭(ゆき)吉(ち)のお父(とう)さんは、学(がく)問(もん)のあるりっぱな人(ひと)でしたが、身(みぶ)分(ん)がひくいために、つまらない役(やく)目(め)にがまんしていなければなりませんでした。ところが、おぼうさんだけは、出(しゅ)世(っせ)する道(みち)があったのです。たとえ、さかな屋(や)のむすこや、ひゃくしょうの子(こ)であっても、いっしんふらんに勉(べん)強(きょう)し、しゅぎょうをすれば、えらいおぼうさんになる道(みち)がひらけていました。そうなれば、さむらいはもとより、もっと上(うえ)にいるとのさまや将(しょ)軍(うぐん)にも、せっきょう︵ときおしえること︶をすることができますし、とうとばれ、うやまわれもしたのです。
お父(とう)さんは、そこに目(め)をつけて、
︵子(こ)どもに、自(じぶ)分(ん)とおなじように、いきのつまりそうにきゅうくつで、ふこうな一生(しょう)をおくらせたくない。もって生(う)まれたさいのう生(う)まれつきの力(ちから)を、のびるだけのばさせてやりたい。︶
きっと、そうかんがえられたのだ、と諭(ゆき)吉(ち)はおもいました。
︵おお、そうだったのか。それに気(き)がつけば、もっとはやく勉(べん)強(きょう)にとりかかるのだったのに。これはぼやぼやしておれないぞ。だが、わたしがおぼうさんになれば、わたし自(じし)身(ん)はすくわれるかもしれない。けれども、おなじような人(ひと)がせけんにはたくさんいるのだ。それらの人(ひと)々(びと)のふこうをほうっておくわけにはいかない。
いちばんだいじなことは、このようなふるいおきてや、わるいならわしを、一日(にち)もはやくうちやぶることだ。封(ほう)建(けん)制(せい)度(ど)をなくすことだ。封(ほう)建(けん)制(せい)度(ど)こそ、お父(とう)さんのかたきだ。にくいにくいかたきだ。︶
と、諭(ゆき)吉(ち)は、はっきりかんがえるようになりました。
ところが、封(ほう)建(けん)制(せい)度(ど)というものは、ながいあいだにきずきあげられたものですから、ちっとやそっとの力(ちから)でくずれるものではありません。そのころの日(にっ)本(ぽん)は、どの土(と)地(ち)も、このふるいおきてでおさめられていましたが、とりわけ、九(きゅ)州(うしゅう)のいなかである中(なか)津(つ)は、それがつよいのでした。
ですから、この町(まち)をとびだして、すこしでも自(じゆ)由(う)なところにいかなければ、一生(しょう)、このままでおわってしまう、と諭(ゆき)吉(ち)はしみじみとかんがえるようになりました。
兄(にい)さんの三(さん)之(のす)助(け)は、お父(とう)さんのあとをついで、下(した)っぱの役(やく)人(にん)になっていました。いとこたちも、仕(しご)事(と)についているものは下(した)っぱの役(やく)人(にん)ばかりでした。三、四人(にん)あつまると、身(みぶ)分(ん)のたかい家(いえ)のむすこが、たいした力(ちから)もないのに、よい役(やく)についていばるとか、自(じぶ)分(ん)たちは、力(ちから)があっても、どうにもならぬのだ、とふへいをもらしあいました。
諭(ゆき)吉(ち)も、そのふへいにはおなじ思(おも)いでしたが、ぐちのいいあいになったのでは、いみのないことだとおもいました。そこで、こういうのでした。
﹁まあ、そんな話(はなし)はやめようじゃありませんか。この中(なか)津(つ)にいるかぎりは、なんべん、そんなことを、ぐずぐずいっても、役(やく)にたちませんよ。ふへいがあったら、でていくことですね。でていかないのなら、ふへいをいったってはじまりませんよ。﹂
﹁いったな、諭(ゆき)吉(ち)。ばかに大(おお)きな口(くち)をきくではないか。それなら、きみは、中(なか)津(つ)をでていくというのか。﹂
﹁さあ、それは、なんともいえませんがね。﹂
あまり、はっきりしたことをいえば、どんなうるさいことがおこるかもしれませんから、諭(ゆき)吉(ち)はことばをにごしました。しかし、このころから、心(こころ)の中(なか)では、中(なか)津(つ)からでていくことを決(けっ)心(しん)して、その決(けっ)心(しん)を、なんとしてでも実(じっ)行(こう)しようと、おもいさだめました。
そうして、ひそかにじゅんびをはじめたのでした。ちょうど、白(しら)石(いし)先(せん)生(せい)のところでいっしょに勉(べん)強(きょう)している生(せい)徒(と)の中(なか)に、諭(ゆき)吉(ち)よりももっとまずしい人(ひと)が二(ふた)人(り)いました。その二(ふた)人(り)は、あんまを内(ない)職(しょく)にして、勉(べん)強(きょう)しているのでした。
そのことをきいて、諭(ゆき)吉(ち)は、
︵これは、よいことをきいた。自(じぶ)分(ん)も、そのうち中(なか)津(つ)からとびださなければならないが、あんまを内(ない)職(しょく)にすれば、兄(にい)さんからお金(かね)をだしてもらわなくてもすむ。︶
そうおもって、さっそく、その二(ふた)人(り)に、あんまをおしえてもらい、しきりにけいこをしました。もともと、手(て)さきがきようなので、すぐこつをおぼえ、お母(かあ)さんをじっけんのあいてにしました。
﹁白(しら)石(いし)先(せん)生(せい)のところでは、学(がく)問(もん)ばかりおしえるのかとおもっていたら、あんまのやりかたもおしえてくださるのかね。ああ、いい気(き)持(も)ちだ。諭(ゆき)吉(ち)のうでまえは、なかなかたいしたものだよ。﹂
と、お母さんは大(おお)よろこびです。
もとより、お母(かあ)さんは諭(ゆき)吉(ち)が中(なか)津(つ)をとびだそうとしていることをしりません。けれども、諭(ゆき)吉(ち)は、その日(ひ)のくるのを、じっとまっていたのでした。
そうして、諭(ゆき)吉(ち)がかんがえていることのあらわれる日(ひ)が、目(め)にみえないところで、すすんでいました。時(じだ)代(い)が大(おお)きくうごいてきていたのです。
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諭(ゆき)吉(ち)のまちのぞんでいたときが、やがておとずれました。それは、諭(ゆき)吉(ち)が二十一さいとなった、安(あん)政(せい)元(がん)︵一八五四︶年(ねん)二月(がつ)のことでした。
そのまえの年(とし)の六月(がつ)に、アメリカから、ペリーが軍(ぐん)艦(かん)四せきをひきいて浦(うら)賀(が)︵神(かな)奈(がわ)川(け)県(ん)︶にやってきて、
﹁国(くに)をひらいて、ぼうえきをしようではないか。﹂
と、はげしくせまりました。いやだというなら、大(たい)砲(ほう)をうちこんでも、うんといわせるといういきおいでした。これは、江(えど)戸(ば)幕(く)府(ふ)にとっては、たいへんむずかしいもんだいでした。
というのは、江(えど)戸(ば)幕(く)府(ふ)は、それまで、およそ三百年(ねん)ちかくのあいだ、外(がい)国(こく)とのつきあいをせず、品(しな)物(もの)のとりひきなどもしないことにしていました。ですから、世(せか)界(い)の国(くに)々(ぐに)のようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを﹁鎖(さこ)国(く)﹂といいます。つまり、国(くに)をとじて、外(がい)国(こく)をしめだしてしまったわけでした。ただ、中(ちゅ)国(うごく)とオランダとだけは、長(なが)崎(さき)でぼうえきをすることがゆるされていました。
なぜ、幕(ばく)府(ふ)が国(くに)をとざしたかといいますと、それは、キリスト教(きょう)が日(にっ)本(ぽん)にはいってくるのをおそれたからでした。中(ちゅ)国(うごく)とはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリスト教(きょう)の国(くに)ではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリスト教(きょう)を日(にっ)本(ぽん)へひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました。
ところが、こんど、キリスト教(きょう)をしんずるアメリカが、日(にっ)本(ぽん)に国(くに)をひらかせて、自(じゆ)由(う)にぼうえきをやろうといってきたのです。こまった幕(ばく)府(ふ)は、ペリーのさしだしたアメリカ大(だい)統(とう)領(りょう)からの手(てが)紙(み)だけをうけとりました。ペリーは、へんじは一年(ねん)のちにもらうからといって、かえっていきました。
さあ、それからがたいへんでした。国(くに)をひらこうという考(かんが)えの人(ひと)と、外(がい)国(こく)人(じん)はみなおいはらえという考(かんが)えの人(ひと)と、日(にっ)本(ぽん)は二つにわかれました。しかも、京(きょ)都(うと)の天(てん)皇(のう)のがわは、国(くに)をひらきたくない考(かんが)えだったので、幕(ばく)府(ふ)は、外(がい)国(こく)との板(いた)ばさみになったかっこうでした。
でも、ぐずぐずしてはいられません。一年(ねん)たったら、ペリーがまたやってきます。もしも、﹁アメリカのいうとおりにはできない。﹂というへんじをすれば、軍(ぐん)艦(かん)から大(たい)砲(ほう)をうってくるかもしれません。そこで、幕(ばく)府(ふ)は、品(しな)川(がわ)のおきに、砲(ほう)台(だい)︵大(たい)砲(ほう)をすえたじん地(ち)︶をつくって、江(え)戸(ど)︵いまの東(とう)京(きょう)︶の城(しろ)をまもろうとしました。そのためには、砲(ほう)術(じゅつ)︵大(たい)砲(ほう)のつかいかた︶をまなばなければならないと、やかましくいわれはじめました。
あちこちのとのさまたちのあいだでも、けらいに砲(ほう)術(じゅつ)をまなばせることがはやってきました。もちろん、中(なか)津(つ)にも、このことがつたわってきました。人(ひと)々(びと)は、にわかに砲(ほう)術(じゅつ)というものに心(こころ)をむけはじめました。
その砲(ほう)術(じゅつ)をまなぶには、オランダからまなぶよりほかありません。それには、どうしてもまずオランダ語(ご)を勉(べん)強(きょう)して、オランダ語(ご)でかいた本(ほん)がよめるようにならなければなりません。
ある日(ひ)、兄(にい)さんの三(さん)之(のす)助(け)が、諭(ゆき)吉(ち)をよんで、いいました。
﹁どうだ、諭(ゆき)吉(ち)。オランダ語(ご)を勉(べん)強(きょう)して、原(げん)書(しょ)︵外(がい)国(こく)語(ご)でかかれた本(ほん)︶をよんでみる気(き)はないか。﹂
いきなり、こんなことをいわれたので、諭(ゆき)吉(ち)は、目(め)をまるくしました。それに、原(げん)書(しょ)ということばははじめてきいたことばなので、
﹁その原(げん)書(しょ)っていうのは、なんですか。﹂
とききかえしました。
﹁オランダ語(ご)でかいた本(ほん)のことだよ。日(にほ)本(ん)語(ご)にも、かなりほんやくされているけれども、だいじなところだけをみじかくかいたり、ときには、まちがってほんやくしたところがあるそうだ。だから、砲(ほう)術(じゅつ)をほんとうにしるには、自(じぶ)分(ん)で、その原(げん)書(しょ)をよまなければならないんだ。﹂
﹁ずいぶんむずかしいんでしょうね。﹂
﹁それは、むずかしいにきまっているさ。けれども、原(げん)書(しょ)をよむことができれば、ほんとうのことがわかるからおもしろいぞ。どうだ、やってみないか、諭(ゆき)吉(ち)。﹂
﹁やりましょう。どうせ、人(ひと)のよむものなら、横(よこ)文(も)字(じ)であろうが、なんであろうが、やれないということはないでしょうから。﹂
諭(ゆき)吉(ち)の負(ま)けずぎらいな気(き)持(も)ちが、むくむくと、むねの中(なか)にわきあがって、そういわせました。
﹁そうだとも。おまえなら、その気(き)にさえなれば、きっとやれるとおもうよ。﹂
と、兄(にい)さんは、にっこりわらいました。
けれども、中(なか)津(つ)には原(げん)書(しょ)もなければ、おしえてくれる先(せん)生(せい)もありません。オランダのことばを勉(べん)強(きょう)するには――それを蘭(らん)学(がく)といっていました――、長(なが)崎(さき)へいかなければなりません。長(なが)崎(さき)だけが、そのころの西(せい)洋(よう)の文(ぶん)明(めい)がながれこむ、一つのまどのようなところだったのです。
さいわいなことに、兄(にい)さんが、役(やく)所(しょ)の用(よう)事(じ)で長(なが)崎(さき)へでかけることになったので、諭(ゆき)吉(ち)もいっしょにいくことになりました。
︵中(なか)津(つ)からとびだしたい。︶
という諭(ゆき)吉(ち)のきぼうは、こうしてかなえられたのでした。
数(すう)日(じつ)ののち、長(なが)崎(さき)についた諭(ゆき)吉(ち)は、桶(おけ)屋(やち)町(ょう)の光(こう)永(えい)寺(じ)という寺(てら)にいきました。ちょうどそのころ、中(なか)津(つ)の家(かろ)老(う)︵大(だい)名(みょう)・小(しょ)名(うみょう)のけらいの長(ちょう)︶の子(こ)の奥(おく)平(だい)壱(らい)岐(き)というわかいさむらいが、砲(ほう)術(じゅつ)の研(けん)究(きゅう)のためにやってきて、ここにとまっていたからです。それで、この人(ひと)にたのんで、お寺(てら)にやっかいになりましたが、半(はん)年(とし)ほどのちには、やはり壱(い)岐(き)のせわで、砲(ほう)術(じゅ)研(つけ)究(んき)家(ゅうか)の山(やま)本(もと)物(もの)次(じろ)郎(う)という人(ひと)の家(いえ)で、はたらきながら、オランダの学(がく)問(もん)をまなぶことになりました。
ところが、山(やま)本(もと)先(せん)生(せい)は目(め)がわるくて、本(ほん)をよむことが不(ふじ)自(ゆ)由(う)なので、諭(ゆき)吉(ち)は、世(よ)の中(なか)のうごきなどについて、いろいろな先(せん)生(せい)がたの漢(かん)文(ぶん)でかいたものをよんであげたり、手(てが)紙(み)をかわりにかいてあげたりしなければなりません。また、山(やま)本(もと)先(せん)生(せい)にはむすこが一(ひと)人(り)ありましたが、その子(こ)に漢(かん)文(ぶん)をおしえる家(かて)庭(いき)教(ょう)師(し)の役(やく)も、仕(しご)事(と)の一つでした。
それから、山(やま)本(もと)先(せん)生(せい)の家(いえ)はくらしむきは大(おお)きいのですが、びんぼうで借(しゃ)金(っきん)があるものですから、そのいいわけをしたり、ときにはお金(かね)をかりにいかなければなりません。下(げな)男(ん)︵男(おとこ)の使(しよ)用(うに)人(ん)︶が病(びょ)気(うき)になれば、水(みず)くみもしました。女(じょ)中(ちゅう)︵女(おんな)のおてつだいさん︶にさしつかえがあれば、台(だい)所(どころ)のてつだいもしました。ふきそうじはもちろん、先(せん)生(せい)がふろにはいられると、せなかをながしてあげたり、生(い)きもののすきなおくさんの飼(か)っているいぬやねこのせわもしなければなりません。
こんなに、うちの中(なか)のざつようでもなんでも、諭(ゆき)吉(ち)は、すこしもいやな顔(かお)をしないで、かいがいしくはたらくので、先(せん)生(せい)ばかりでなく、おくさんにも、女(じょ)中(ちゅう)にも、家(いえ)じゅうで、たいへんちょうほうがられました。
そのころの砲(ほう)術(じゅ)家(つか)は、じっさいに大(たい)砲(ほう)をつくったり、大(たい)砲(ほう)のうちかたのけいこをするわけではありませんでした。ただオランダの砲(ほう)術(じゅつ)の本(ほん)をいろいろもっているということと、それをよんでせつめいができるというだけでした。
その本(ほん)をお礼(れい)をとってかしたり、それをうつしたいといえば、うつすためのお礼(れい)をとるというわけで、そのお礼(れい)が山(やま)本(もと)家(け)の収(しゅ)入(うにゅう)になります。その本(ほん)をかすのも、うつすのも、山(やま)本(もと)先(せん)生(せい)は目(め)がわるいので、みな諭(ゆき)吉(ち)がかわってやりました。
大(たい)砲(ほう)をつくるための設(せっ)計(けい)図(ず)がほしいとか、出(でじ)島(ま)のオランダやしきをみたいとかいってくる人(ひと)があります。それらのせわをするのも山(やま)本(もと)先(せん)生(せい)の仕(しご)事(と)でした。設(せつ)計(けい)図(ず)など、諭(ゆき)吉(ち)は、じっさい大(たい)砲(ほう)をうつのはみたこともないのですが、図(ずめ)面(ん)をひくだけなら、もともと手(て)さきがきようなものですから、わけはありません。さっさと図(ず)をひいたり、せつめいをかいてわたします。
諭(ゆき)吉(ち)は、全(ぜん)国(こく)からあつまってくる人(ひと)たちをあいてにして、まるでもう、十年(ねん)もまえから砲(ほう)術(じゅつ)をまなんだ、りっぱな砲(ほう)術(じゅ)家(つか)だとおもわれるほどに、人(ひと)にあってこたえられるようになりました。
こうした、いそがしい仕(しご)事(と)を、てきぱきとやってのけるあいまには、諭(ゆき)吉(ち)は自(じぶ)分(ん)の勉(べん)強(きょう)をもわすれませんでした。もともと長(なが)崎(さき)にでてきたもくてきは、原(げん)書(しょ)がよめるようになるということでしたから、オランダ流(りゅう)の医(いし)者(ゃ)や、オランダ語(ご)のつうやくをする人(ひと)の家(いえ)などにいって、いっしんふらんに原(げん)書(しょ)の勉(べん)強(きょう)をしました。諭(ゆき)吉(ち)は、原(げん)書(しょ)というものをはじめてみて、
︵これはむずかしいぞ。︶
とおもいました。それはむりもありません、アルファベット二十六字(じ)をおぼえてしまうのに、三(みっ)日(か)もかかったのですから。けれども、五十日(にち)、百日(にち)と日(ひ)がたつにつれて、だんだんよめるようになり、いみもわかるようになってきました。
こうなると、おもしろくないのは、奥(おく)平(だい)壱(らい)岐(き)でした。壱(い)岐(き)は身(みぶ)分(ん)のたかい家(かろ)老(う)のむすこで、諭(ゆき)吉(ち)より十さいぐらい年(とし)上(うえ)です。はじめはせんぱいぶって、あれこれとおしえてくれていたのですが、そのうちに、砲(ほう)術(じゅつ)についても、オランダ語(ご)についても、諭(ゆき)吉(ち)のほうが上(うえ)になって、壱(い)岐(き)はそれまでとはあべこべに、諭(ゆき)吉(ち)からおそわらなければならなくなりました。それが、壱(い)岐(き)にはしゃくのたねでした。
それなら、いっしょうけんめいに勉(べん)強(きょう)すればよいはずですが、なにしろおぼっちゃんのことですから、自(じぶ)分(ん)でどりょくするということがありません。ただ、諭(ゆき)吉(ち)が目(め)の上(うえ)のこぶのようにおもわれてきました。そこで、わるぢえをおもいつきました。
諭(ゆき)吉(ち)が長(なが)崎(さき)へきてから、一年(ねん)あまりたったときでした。中(なか)津(つ)の藤(ふじ)本(もと)元(げん)岱(たい)という、医(いし)者(ゃ)をしているいとこから、とつぜん手(てが)紙(み)がとどきました。
﹁お母(はは)上(うえ)さまが、おもい病(びょ)気(うき)になられました。すぐかえってこられるように。﹂
といういみの手(てが)紙(み)でした。よんでいく諭(ゆき)吉(ち)の顔(かお)からは、みるみるうちに血(ち)のけがひいていきました。
兄(にい)さんの三(さん)之(のす)助(け)は、なくなったお父(とう)さんとおなじように、大(おお)阪(さか)のくらやしきにつとめており、三人(にん)のおねえさんはみなよめ入(い)りして、ふるさとの中(なか)津(つ)のうちには、年(とし)をとったお母(かあ)さんのお順(じゅん)が一(ひと)人(り)いるだけなのです。
それにしても、あんなにじょうぶなお母(かあ)さんが、いったいどうなさったのかと、うそのようにおもわれてなりません。けれども、どうじに、一(ひと)人(り)心(こころ)ぼそくねておられるお母(かあ)さんのすがたをおもうと、諭(ゆき)吉(ち)は、じっとしていられないほどでした。その手(てが)紙(み)をくりかえしよんで、諭(ゆき)吉(ち)は男(おとこ)なきになきました。
ところが、ふと、いとこからは、もう一通(つう)の手(てが)紙(み)がきていることに気(き)がつきました。それをいそいでよんだ諭(ゆき)吉(ち)の顔(かお)には、血(ち)のけがよみがえってきました。
﹁お母(はは)上(うえ)さまのご病(びょ)気(うき)というのは、うそです。じつは、こういうわけがあって……。﹂
と、その手(てが)紙(み)には、つぎのようなことがかかれていました。
それは、奥(おく)平(だい)壱(らい)岐(き)のしくんだひきょうなはかりごとだったのです。諭(ゆき)吉(ち)が長(なが)崎(さき)へきたとき、壱(い)岐(き)はおなじ中(なか)津(つ)のものだというので、めんどうもみてくれたし、なつかしがりもしました。けれども、自(じぶ)分(ん)よりも身(みぶ)分(ん)のひくい諭(ゆき)吉(ち)が、勉(べん)強(きょう)がどんどんすすんでいき、ひょうばんのよくなっていくのをみて、これでは、自(じぶ)分(ん)のねうちがさがってしまうとおもいこみました。
なんとかして、諭(ゆき)吉(ち)を長(なが)崎(さき)からおいだしてしまおうとかんがえて、そのことを中(なか)津(つ)の父(ちち)親(おや)にしらせてやったのでした。父(ちち)親(おや)というのは家(かろ)老(う)ですが、自(じぶ)分(ん)のむすこにたいしてはとてもあまい親(おや)ばかでしたから、諭(ゆき)吉(ち)のいとこ藤(ふじ)本(もと)元(げん)岱(たい)をよびつけて、
﹁諭(ゆき)吉(ち)が長(なが)崎(さき)にいては、せがれ壱(い)岐(き)の出(しゅ)世(っせ)のじゃまになるから、中(なか)津(つ)へよびもどしてくれ。ただし、そのりゆうには、母(はは)が病(びょ)気(うき)だといってやれ。﹂
と、きびしいめいれいです。家(かろ)老(う)じきじきのめいれいですから、ことわるわけにいきません。
﹁かしこまりました。﹂
とこたえて、諭(ゆき)吉(ち)のお母(かあ)さんにも話(はなし)をして、そうだんのけっか、おもてむきは、家(かろ)老(う)のめいれいどおりの手(てが)紙(み)をかいて、もう一通(つう)には、このいきさつをかいて、
﹁ほんとうは、お母(かあ)さんは元(げん)気(き)ですから、けっして心(しん)配(ぱい)するな。﹂
とかいてやったのでした。
これをよんだ諭(ゆき)吉(ち)のむねは、いかりのために、ばくはつしそうになりました。
︵なんというひきょうなわるぢえだ。よしっ、この手(てが)紙(み)をみせて、壱(い)岐(き)をとっちめてやろう。︶
と、いちじはかっとなりましたが、
︵いやいや、まてよ。いま、ここでけんかをしたところで、身(みぶ)分(ん)がちがうから、こっちがまけるにきまっている。それに、壱(い)岐(き)だって、それほど悪(あく)人(にん)ではないのだ。︶
と、ぐっとがまんをしました。
︵けれども、こういうことをきいては、この長(なが)崎(さき)にもいたくない。お母(かあ)さんがお元(げん)気(き)なんだから、中(なか)津(つ)へかえることもない。どうすればよいか。︶
と、さんざんにかんがえこんだすえ、
︵そうだ、江(え)戸(ど)へいこう。江(え)戸(ど)にも、りっぱな先(せん)生(せい)がおられるはずだ。︶
こう決(けっ)心(しん)した諭(ゆき)吉(ち)は、なにもしらないふりをして、壱(い)岐(き)のところへ、おわかれのあいさつにいきました。
﹁じつは、中(なか)津(つ)のいとこから、母(はは)がきゅうに病(びょ)気(うき)になったから、すぐかえってくるようにとしらせてまいりました。ふだんは、いたってじょうぶなほうでしたが、わからないものです。いまごろはどういうようすでしょうか。とおくはなれていますと、気(き)になってなりません。﹂
と、心(しん)配(ぱい)そうに、いろいろのべたてますと、壱(い)岐(き)も、さもおどろいたような顔(かお)をして、
﹁それは、きのどくなことじゃ。さぞ心(しん)配(ぱい)であろう。とにかく、一日(にち)もはやくかえったほうがよかろう。しかし、母(はは)上(うえ)の病(びょ)気(うき)がなおったら、また、長(なが)崎(さき)へこられるようにしてやるから。﹂
と、なぐさめ顔(がお)にいうのでした。
﹁それでは、おさしずどおり、さっそく国(くに)へかえりますが、お父(ちち)上(うえ)さまにおことづてはございませんか。いずれかえりましたら、お目(め)にかかります。また、なにかおとどけする品(しな)物(もの)がありましたら、もってまいります。﹂
と、一どわかれをつげて、つぎの朝(あさ)、またいってみますと、壱(い)岐(き)は自(じぶ)分(ん)の家(いえ)にやる手(てが)紙(み)をだして、これをやしきへとどけてくれ、それからお父(ちち)上(うえ)にあったら、これこれつたえてくれといい、またべつに、諭(ゆき)吉(ち)のお母(かあ)さんのいとこにあたる大(おお)橋(はし)六(ろく)助(すけ)という人(ひと)にあてた手(てが)紙(み)をとりだして、
﹁これを大(おお)橋(はし)のところへもっていけ。そうすると、きさまがまた長(なが)崎(さき)へでてくるのにつごうがよいだろう。﹂
といって、わざとその手(てが)紙(み)にふうをせずに、あけてみよといわぬばかりにしてありますから、
﹁なにもかも、いさいしょうちいたしました。﹂
と、ていねいにわかれをつげました。うちにかえって、ふうなしの手(てが)紙(み)をあけてみますと、
﹁諭(ゆき)吉(ち)は母(はは)の病(びよ)気(うき)につき、どうしても国(くに)へかえるというから、しかたなしにかえらせるが、まだ勉(べん)強(きょう)のとちゅうの身(み)のうえだから、また長(なが)崎(さき)へでてくることができるように、そちが、よくとりはからってやれ。﹂
というもんくです。諭(ゆき)吉(ち)は、これをみて、ますます、しゃくにさわりました。
︵いまごろは、けいりゃくがうまくいったと、とくいになっているにちがいない。このさるまつ壱(い)岐(き)のあだ名(な)めっ、ばかやろう。︶
と、はらの中(なか)で、さんざんののしりました。けれども山(やま)本(もと)先(せん)生(せい)にも、ほんとうのことはいえません。もし、この話(はなし)がわかって、奥(おく)平(だいら)というやつはひどいやつだというようなことにでもなれば、わざわいはかえって諭(ゆき)吉(ち)の身(み)にふりかかって、どんなめにあうかしれません。それがこわいので、
﹁母(はは)が病(びょ)気(うき)になりましたので、中(なか)津(つ)へかえらなければならなくなりました。﹂
といって、いとまごいをしました。
ちょうどそのとき、中(なか)津(つ)からくろがね屋(や)惣(そう)兵(べ)衛(え)という商(しょ)人(うにん)が長(なが)崎(さき)にきていて、用(よう)事(じ)がすんだので、中(なか)津(つ)へかえることになっていました。諭(ゆき)吉(ち)は、その男(おとこ)といっしょにかえろうとやくそくをしておいたのですが、もとより中(なか)津(つ)へかえるつもりはありません。心(こころ)は江(え)戸(ど)へむかっていました。といっても、江(え)戸(ど)にはたよっていくところがありません。
さいわい、江(え)戸(ど)から長(なが)崎(さき)へ勉(べん)強(きょう)にきている書(しょ)生(せい)なかまに、岡(おか)部(べ)という青(せい)年(ねん)がいました。しっかりした人(じん)物(ぶつ)ですし、そのお父(とう)さんは、江(え)戸(ど)で医(いし)者(ゃ)をしていました。
﹁ひとつ、きみにおねがいがあるんだけど。もし、わたしが江(え)戸(ど)へいったら、きみのお父(とう)さんの家(いえ)のげんかん番(ばん)にしてくれるよう、きみからたのんでもらえまいか。﹂
とたのみますと、
﹁いいとも。日(にほ)本(んば)橋(し)にいって、医(いし)者(ゃ)の岡(おか)部(べ)ときいてもらえば、すぐわかるよ。﹂
と、さっそく手(てが)紙(み)をかいてくれました。
こうして、三月(がつ)のなかばごろのある日(ひ)、諭(ゆき)吉(ち)たちは長(なが)崎(さき)をたって、諫(いさ)早(はや)︵長(なが)崎(さき)県(けん)︶へむかいました。そこへついたのは、月(つき)のあかるいばんでしたが、諭(ゆき)吉(ち)は、くろがね屋(や)にむかっていいました。
﹁ところで、くろがね屋(や)。おれは長(なが)崎(さき)をでるときに、中(なか)津(つ)へかえるつもりであったが、きゅうにかえるのがいやになった。これから下(しも)関(のせき)へでて大(おお)阪(さか)へむかい、それから江(え)戸(ど)へいくことにした。ついては、めんどうでも、このにもつと手(てが)紙(み)をとどけてはもらえまいか。﹂
﹁それは、とんでもないことです。あなたのような年(とし)のわかい、旅(たび)になれないおぼっちゃんが、一(ひと)人(り)で江(え)戸(ど)へおいでになるなんて。﹂
と、くろがね屋(や)は、びっくりしてとめました。けれども、諭(ゆき)吉(ち)はかたく決(けっ)心(しん)したことです。くろがね屋(や)とわかれて、一(ひと)人(りた)旅(び)をつづけ、下(しも)関(のせき)から船(ふね)にのりました。
ところが、この船(ふね)は、京(きょう)・大(おお)阪(さか)などを見(けん)物(ぶつ)にでかける人(ひと)々(びと)をのせた船(ふね)でしたから、そのとちゅうでも、あちらこちらのみなとによって、見(けん)物(ぶつ)をしたり、船(ふね)の中(なか)では、ごちそうをひろげて酒(さか)もりをしてさわいだり、まことに船(ふね)のすすみぐあいがおそいのです。
諭(ゆき)吉(ち)は、勉(べん)強(きょう)にでかけようとはりきっているのですから、ばかばかしくてしかたがありません。十五日(にち)めに、やっと明(あか)石(し)︵兵(ひょ)庫(うご)県(けん)︶についたとき、船(ふね)からおろしてもらいました。これから大(おお)阪(さか)まであるこうというのです。それでも船(ふね)よりははやく大(おお)阪(さか)につくことがわかったので、船(ふね)からおろしてもらったのでした。
大(おお)阪(さか)までは十五里(り)︵やく六十キロ︶あるとききました。お金(かね)がないものですから、すきばらをかかえて、とぼとぼとあるきつづけました。宿(やど)屋(や)にとまることもできません。夜(よる)になって、さびしいくらい道(みち)をとおっているときなど、
︵わるいやつがでてこなければよいが。︶
と、おもわず、刀(かたな)のつかをにぎっていることもありました。足(あし)をひきずりながら、やっとの思(おも)いで大(おお)阪(さか)の兄(にい)さんのところにたどりついたのは、夜(よる)の十時(じ)すぎでした。
兄(にい)さんは、たいへんおどろきましたが、くわしいわけをきくと、
﹁そうだったのか、よくわかった。だが、長(なが)崎(さき)からここにくるには、中(なか)津(つ)によってくるのが道(みち)のじゅんというものだ。それを、おまえはお母(かあ)さんのおられる中(なか)津(つ)をよけてきた。まあ、わたしがここにいなければともかく、おまえとここで顔(かお)をあわせながら、このまま江(え)戸(ど)へいかせたとあっては、まるで兄(きょ)弟(うだい)がぐるになってやったようで、お母(かあ)さんにもうしわけないではないか。お母(かあ)さんは、それほどにはおもわれないかもしれないが、どうしてもわたしの気(き)がすまない。江(え)戸(ど)へいかなくとも、大(おお)阪(さか)にだって、よい先(せん)生(せい)がありそうなものだ。そのことをかんがえてみてくれ。が、今(こん)夜(や)は、おまえはつかれているだろうから、ゆっくりやすんだらよかろう。﹂
と、やさしくいたわってくれました。
諭(ゆき)吉(ち)は、かぞえ年(どし)で三つのときに、中(なか)津(つ)へかえり、こんど十八、九年(ねん)ぶりで、大(おお)阪(さか)へきたのですが、くらやしきのまわりには、まだ諭(ゆき)吉(ち)のことをおぼえているものがたくさんありました。ですから、あくる日(ひ)になると、諭(ゆき)吉(ち)がきたことをしって、これらの人(ひと)々(びと)があつまってきました。
﹁おお、ほんとに大(おお)きくなられた。やっぱり、あかちゃんのときのおもかげが、どこかにのこっていますね。﹂
などといって、なみだをながさんばかりに、よろこんでくれる人(ひと)もいました。諭(ゆき)吉(ち)のおもりをしてくれた武(ぶは)八(ち)じいさんは、自(じぶ)分(ん)のまごがきたようなよろこびかたで、堂(どう)島(じま)のあたりをあるきながら、
﹁のう、わかぼっちゃま。おまえさまのお生(う)まれなすったとき、このわしは夜(よな)中(か)に、あの横(よこ)町(ちょう)のさんばさんのところへむかえにいったもんです。そのさんばさんは、いまもたっしゃにしておるようです。それから、よくおまえさまをだいて、毎(まい)日(にち)毎(まい)日(にち)、すもうのけいこ場(ば)をのぞきにいったものですが、あれがそうです。﹂
と、ゆびさしておしえてくれました。それをきいていると、諭(ゆき)吉(ち)は、むねがいっぱいになって、おもわずなみだをこぼしました。
こんなわけで、諭(ゆき)吉(ち)は、自(じぶ)分(ん)が旅(たび)にある身(み)とはおもえず、ほんとうに、ふるさとにかえったような気(き)持(も)ちがしました。
そこで、兄(にい)さんのすすめもあることだし、大(おお)阪(さか)で勉(べん)強(きょう)することにし、緒(おが)方(たこ)洪(うあ)庵(ん)という先(せん)生(せい)の塾(じゅく)にはいることになりました。
塾(じゅく)は﹁適(てき)塾(じゅく)﹂といい、船(せん)場(ば)の過(かい)書(しょ)町(まち)︵いまの東(ひが)区(しく)北(きた)浜(はま)三丁(ちょ)目(うめ)︶にありました。緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)はすぐれた町(まち)医(いし)者(ゃ)で、オランダ語(ご)とオランダ医(いが)学(く)をおしえていて、おおぜいの書(しょ)生(せい)がいました。
諭(ゆき)吉(ち)が適(てき)塾(じゅく)にはいったのは、安(あん)政(せい)二︵一八五五︶年(ねん)三月(がつ)のことでした。先(せん)生(せい)は諭(ゆき)吉(ち)にむかって、
﹁いままで、どんな勉(べん)強(きょう)をしてこられたのかね。﹂
とたずねました。
﹁はい、きまった先(せん)生(せい)はございません。長(なが)崎(さき)で、いろいろな先(せん)生(せい)からならいました。﹂
﹁では、これをよんでごらん。﹂
先(せん)生(せい)がさしだした本(ほん)を、諭(ゆき)吉(ち)はしばらくみていましたが、やがてよみはじめました。これまでに勉(べん)強(きょう)したことをおもいだしながら、日(にほ)本(ん)語(ご)にほんやくしていきました。
﹁ほほう。本(ほん)場(ば)の長(なが)崎(さき)で勉(べん)強(きょう)しただけあって、きみは、よみかたがうまい。﹂
とほめてくれたので、諭(ゆき)吉(ち)がおもわずにっこりしますと、
﹁だが、どうも、きみは正(せい)式(しき)な勉(べん)強(きょう)をしてないようだね。土(どだ)台(い)がしっかりしていない。外(がい)国(こく)語(ご)のいみをただしくくみとるには、文(ぶん)法(ぽう)、つまりことばのきまり、やくそくだね、それをよくしっていなければいけない。文(ぶん)法(ぽう)は文(ぶん)章(しょう)の土(どだ)台(い)だ。きみは、文(ぶん)法(ぽう)を、あたらしく第(だい)一歩(ぽ)からやりなおすひつようがあるね。﹂
といわれ、がっかりしてしまいました。
けれども、そのまま、へこたれてしまうような諭(ゆき)吉(ち)ではありません。
﹁ようし、はじめからやりなおしだ。﹂
もちまえの負(ま)けじだましいをだして、がんばりましたから、諭(ゆき)吉(ち)の勉(べん)強(きょう)はどんどんすすんでいきました。兄(にい)さんはいつも、そばではげましてくれたり、いろいろと力(ちから)になってくれました。
ところが、つぎの年(とし)の正(しょ)月(うがつ)ごろから、兄(にい)さんがリューマチという病(びょ)気(うき)をわずらって、右(みぎ)手(て)の自(じゆ)由(う)がきかなくなりました。
そのうちに、こんどは諭(ゆき)吉(ち)が腸(ちょう)チフスにかかりました。それは、適(てき)塾(じゅく)の兄(あに)でしである岸(きし)という人(ひと)が、腸(ちょう)チフスにかかったのをかんびょうしていて、うつったのでした。たいへんおもくて、これでもう死(し)んでしまうのではないかとおもわれる日(ひ)が、いく日(にち)もつづきました。
緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)は、ひじょうに心(しん)配(ぱい)して、いろいろとめんどうをみてくれました。そのおかげで、四月(がつ)ごろには外(そと)にでてあるくことができるようになりました。兄(にい)さんも、だいぶんよくなりました。
ちょうど、そのころ、兄(にい)さんの役(やく)所(しょ)のつとめがおわり、中(なか)津(つ)の町(まち)へかえることになったので、諭(ゆき)吉(ち)も、なつかしいお母(かあ)さんのそばで、病(びょ)後(うご)のからだをやしなうことになりました。
兄(にい)さんといっしょに船(ふね)にのってかえったのは、五、六月(がつ)のことでした。
︵もう二どと中(なか)津(つ)へなんか、かえるものか。︶
と、かくごをきめていた諭(ゆき)吉(ち)ですが、お母(かあ)さんのつくってくださるりょうりをいただいていると、目(め)にみえてけんこうをとりもどしてきました。兄(にい)さんのリューマチも、いますぐあぶないというようすもないので、八月(がつ)にふたたび大(おお)阪(さか)にもどって、勉(べん)強(きょう)をはじめました。
ところが、秋(あき)になってまもない九月(がつ)十(とお)日(か)ごろ、お母(かあ)さんから、九月(がつ)三(みっ)日(か)に兄(にい)さんがなくなったから、すぐかえってくるようにとの知(し)らせがありました。びっくりした諭(ゆき)吉(ち)は、すぐさま中(なか)津(つ)へかえりました。そうしきはおわっていましたが、かわいいあととりむすこをなくしたお母(かあ)さんと、やさしい兄(にい)さんをなくした諭(ゆき)吉(ち)とは、手(て)をとりあって、かなしみあいました。
兄(にい)さんがなくなったので、諭(ゆき)吉(ち)は、福(ふく)沢(ざわ)家(け)のあととりとなり、中(なか)津(つは)藩(ん)の役(やく)所(しょ)に毎(まい)日(にち)、つとめなければならなくなりました。けれども、心(こころ)の中(なか)では、中(なか)津(つ)にいることが、いやでいやでたまりません。
ある日(ひ)、おじさんのところでなんの気(き)なしに、大(おお)阪(さか)へまたいきたいとはなしますと、
﹁ばかなことをいうな。福(ふく)沢(ざわ)家(け)のあととりとなったからには、この中(なか)津(つ)で、役(やく)所(しょ)の仕(しご)事(と)にはげまなければいけない。よそへいって、おまけに、せけんできらわれているオランダの学(がく)問(もん)をしたいなんて、とんでもない話(はなし)だ。﹂
と、おそろしいけんまくで、しかられてしまいました。
そのころ、中(なか)津(つは)藩(ん)の空(くう)気(き)は大(だい)の西(せい)洋(よう)ぎらいでしたから、諭(ゆき)吉(ち)の気(き)持(も)ちなどさっしてくれるものがないのも、むりはありません。そこで、諭(ゆき)吉(ち)は、お母(かあ)さんにさんせいしてもらうほかに方(ほう)法(ほう)がないとかんがえ、そのゆるしをえるじきをねらっていました。
そうしたある日(ひ)、諭(ゆき)吉(ち)は、長(なが)崎(さき)からかえってきた奥(おく)平(だい)壱(らい)岐(き)のところへあいさつにいきました。壱(い)岐(き)は諭(ゆき)吉(ち)を長(なが)崎(さき)からおいだした人(ひと)ですが、家(かろ)老(う)のむすこですから、しらぬ顔(かお)をしているわけにもいきません。ひさびさのあいさつをかわし、よもやまの話(はなし)に花(はな)をさかせているうちに、壱(い)岐(き)は、一さつの原(げん)書(しょ)をとりだして、
﹁ときに、どうじゃ。この本(ほん)は、長(なが)崎(さき)で手(て)に入(い)れたオランダの築(ちく)城(じょ)書(うしょ)︵城(しろ)のつくりかたの本(ほん)︶だ。めずらしいものじゃろうが。なにしろ、わずか二十三両(りょう)で買(か)ったほりだしものだからな。﹂
と、じまんそうにみせました。
諭(ゆき)吉(ち)は、大(おお)阪(さか)の適(てき)塾(じゅく)で、医(いが)学(く)や物(ぶつ)理(り)の本(ほん)をみたことはありますが、まだ築(ちく)城(じょ)書(うしょ)をみたことはありません。それに、ペリーがきてからは、日(にっ)本(ぽん)国(こく)じゅうで、海(うみ)のまもりや、陸(りく)の城(しろ)づくりの話(はなし)で大(おお)さわぎをしているときでしたから、諭(ゆき)吉(ち)は、いっそうこの本(ほん)をよんでみたくなりました。しかし、かせといったところで、かしてくれるはずはありません。でも、うまくおだてたら、ひょっとしたら、という考(かんが)えがうかんだので、
﹁いや、これは、まったくすばらしい本(ほん)です。それを二十三両(りょう)でお買(か)いになったなんて、ほんとうにほりだしものです。オランダ語(ご)の勉(べん)強(きょう)がうんとすすまれたから、こういうほりだしものをみつけられたんですね、きっと。わたしなどには、一年(ねん)や二年(ねん)でよみとおせるものではございません。けれども、せめて、絵(え)図(ず)ともくじだけでも、一(ひと)とおりはいけんしたいものですが、いかがでしょう、四、五日(にち)、かしていただけませんか。﹂
おもいきって、こう、きいてみました。すると、壱(い)岐(き)は、ほめられたのが、よほどうれしかったとみえて、
﹁ああ、いいとも。四、五日(にち)でよいなら、もっていきなさい。﹂
といいました。よろこんだ諭(ゆき)吉(ち)は、壱(い)岐(き)の気(き)持(も)ちがかわらぬうちにと、原(げん)書(しょ)をだいじにかかえて、いそいで家(いえ)にかえってきました。
さっそく、羽(はね)ペンと墨(ぼく)汁(じゅう)と紙(かみ)を用(よう)意(い)して、二百ページあまりの築(ちく)城(じょ)書(うしょ)を、かたっぱしからうつしはじめました。なにしろ、人(ひと)にしられてはたいへんなので、家(いえ)のおくにひっこみ、だれにもあわず、昼(ひる)も夜(よる)も、力(ちから)のかぎり、むちゅうになってうつしました。
このとき諭(ゆき)吉(ち)は、城(しろ)の門(もん)番(ばん)をするつとめがありました。三(みっ)日(か)に一どは、その番(ばん)がまわってきます。その日(ひ)だけは、昼(ひる)はうつすことができません。しかし、夜(よる)になると、こっそりとはじめて、朝(あさ)、城(しろ)の門(もん)があくまでうつしました。顔(かお)ははれぼったくなり、病(びょ)人(うにん)のようにみえました。
横(よこ)文(も)字(じ)をうつすこともたいへんですが、もしも、このことが壱(い)岐(き)にわかったら、ただ原(げん)書(しょ)をとりかえされるだけではすまないかもしれません。いろいろとむずかしいことになるだろうとおもうと、その心(しん)配(ぱい)は一(ひと)とおりではありません。
︵まるで、どろぼうをしているようなものだ。︶
と、壱(い)岐(き)にたいして、わるいとおもいましたが、
︵でも、壱(い)岐(き)はわるだくみで、自(じぶ)分(ん)を長(なが)崎(さき)からおいだしたんだから、まあ、これで、あいこというものだ。︶
と、自(じぶ)分(ん)で自(じぶ)分(ん)のやっていることをいいわけしてなぐさめ、とうとう、二(は)十(つ)日(か)ばかりでうつしおえました。
﹁せっかくおかしいただいたのですが、もくじをみても、ちんぷんかんぷんで、なにがかいてあるのか、よくわかりませんでした。それで、つい、おそくなってしまいました。﹂
諭(ゆき)吉(ち)が、こういってかえしますと、壱(い)岐(き)は、かえって、うれしそうな顔(かお)つきをしました。これで、壱(い)岐(き)には、なにもしられずにすみ、諭(ゆき)吉(ち)はほっとしました。
とどうじに、諭(ゆき)吉(ち)は、このぬすみうつした築(ちく)城(じょ)書(うしょ)をよんでみたくなりました。それには、大(おお)阪(さか)へいって、みっちり勉(べん)強(きょう)しなければなりません。けれども、年(とし)とったお母(かあ)さんが、どんなにさびしがるだろうとおもうと、諭(ゆき)吉(ち)の心(こころ)はまよいました。でも、おもいきって諭(ゆき)吉(ち)がはなしますと、お母(かあ)さんは、気(き)持(も)ちよくゆるしてくださいました。
大(おお)阪(さか)へいくとなると、あとのしまつをしておかなければなりません。兄(にい)さんの病(びょ)気(うき)などで、借(しゃ)金(っきん)がだいぶありました。そこで、家(いえ)のどうぐなどを売(う)りはらって、それをかえしてしまいました。
しかし、諭(ゆき)吉(ち)は、これまでとはちがって、福(ふく)沢(ざわ)家(け)のあととりとなったのですから、藩(はん)のゆるしがなければ、中(なか)津(つ)から一歩(ぽ)も外(そと)へでることができません。蘭(らん)学(がく)の勉(べん)強(きょう)にいきたいというねがいをだしました。すると、したしくしているかかりの人(ひと)が、
﹁蘭(らん)学(がく)しゅぎょうというのは、さきにれいがないし、ぐあいがわるい。砲(ほう)術(じゅつ)しゅぎょうにいきたいというねがいにしたほうがよい。﹂
と注(ちゅ)意(うい)してくれました。
﹁しかし、緒(おが)方(たこ)洪(うあ)庵(んせ)先(んせ)生(い)といえば、大(おお)阪(さか)でもゆうめいな医(いし)者(ゃ)ですよ。その医(いし)者(ゃ)のところへ砲(ほう)術(じゅつ)しゅぎょうにいくというのは、おかしいではありませんか。﹂
諭(ゆき)吉(ち)がたずねますと、
﹁いや、そうしたほうがよい。そうでないと、なかなかゆるしがでないから。﹂
というのでした。
かたちやていさいだけにこだわる役(やく)所(しょ)のやりかたをばかばかしくおもいましたが、とにかく、そういうねがいにかきかえてだしますと、かかりの人(ひと)がいったとおり、ゆるしがでました。
大(おお)阪(さか)へふたたびやってきた諭(ゆき)吉(ち)は、すぐ緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)のところへいきました。二か月(げつ)ぶりにあった先(せん)生(せい)に、諭(ゆき)吉(ち)は、中(なか)津(つ)であったいろいろなことをほうこくし、かりた原(げん)書(しょ)をうつしてしまったこともはなしました。
﹁そうか。それは、ちょっとのあいだに、けしからぬことをしたような、また、よいことをしたようなものじゃな。はっはっは。﹂
とわらいながら、ことばをつづけて、
﹁ところで、いまの話(はなし)で、おまえには、どうしても学(がく)資(し)︵勉(べん)強(きょう)するためのお金(かね)︶がでないことがわかったから、わたしがせわをしてやりたい。しかし、ほかにも書(しょ)生(せい)がいることだし、おまえ一(ひと)人(り)にえこひいきするようにみられては、おたがいによくない。どうだろうな、その、おまえがうつしたという築(ちく)城(じょ)書(うしょ)は、おもしろそうだから、それをおまえにほんやくしてもらうということにしては……。うん、それがよい。そうしなさい。﹂
と、しんせつにいってくれました。
諭(ゆき)吉(ち)は、よろこんで、その日(ひ)から、適(てき)塾(じゅく)にねとまりして、勉(べん)強(きょう)することになりました。ここには、日(にっ)本(ぽん)じゅうのあちこちから、西(せい)洋(よう)医(いが)学(く)の勉(べん)強(きょう)をこころざす青(せい)年(ねん)や、諭(ゆき)吉(ち)のように、医(いが)学(く)ではなく、ただ蘭(らん)学(がく)をまなびたいという青(せい)年(ねん)たちが、八、九十人(にん)もあつまってきておりました。塾(じゅく)にねとまりしているものもおおぜいいました。
この塾(じゅく)では、はじめて入(にゅ)学(うがく)したものには、上(じょ)級(うき)生(ゅうせい)が、ガランマチカ︵文(ぶん)法(ぽう)︶をおしえ、やさしい文(ぶん)のよみかたとやくしかたをおしえました。これがすむと、セインタキス︵文(ぶん)章(しょ)法(うほう)︶をおしえ、すこしむずかしい文(ぶん)をならわせます。この二つがわかるようになると、あとは、自(じぶ)分(ん)で勉(べん)強(きょう)をすすめていくのです。
勉(べん)強(きょう)のていどによって、クラスが七つか八つにわかれていて、クラスごとに五人(にん)とか十人(にん)とかがあつまって、一(ひと)人(り)ずつじゅんばんに原(げん)書(しょ)をよんで、日(にほ)本(ん)語(ご)にやくします。これを会(かい)読(どく)といいますが、わからないところがあっても、だれにもきくことはできません。ただ、ドクトル=ズーフというオランダ人(じん)のつくった、大(おお)きな﹁ハルマ﹂という字(じび)引(き)をひいて、自(じぶ)分(ん)でかんがえるのでした。
原(げん)書(しょ)といっても、塾(じゅく)にあるのは、物(ぶつ)理(りが)学(く)と医(いが)学(く)の本(ほん)だけで、一つのしゅるいのものは一さつずつしかなく、ぜんぶで十さつばかりでした。そこで、おおぜいの生(せい)徒(と)が勉(べん)強(きょう)するには、くじで、じゅんばんをきめて、めいめいに原(げん)書(しょ)を半(はん)紙(し)に四、五まいぐらいうつしとるわけでした。それに字(じび)引(き)は一さつしかありませんから、たいへんでした。
会(かい)読(どく)は、毎(まい)月(つき)きまった日(ひ)に六回(かい)ぐらいおこなわれました。よくできた人(ひと)には白(しろ)まる、できなかった人(ひと)には黒(くろ)まる、わりあてられた文(ぶん)章(しょう)がぜんぶできたものには、白(しろ)い三角(かく)のしるしをつけます。これで三か月(げつ)つづけて白(しろ)い三角(かく)をもらった人(ひと)は、一つ上(うえ)のクラスにすすむことがゆるされました。ですから、ふだんは兄(きょ)弟(うだい)のようになかのよい生(せい)徒(と)たちも、このときばかりは、はげしいきょうそうになりました。
諭(ゆき)吉(ち)は、まえに勉(べん)強(きょう)していたので、こんどは中(ちゅ)級(うきゅう)のクラスにはいりました。夕(ゆう)食(しょく)をすますと、すぐ一(ひと)ねむりして、夜(よる)の十時(じ)ごろに目(め)をさまし、それからずっと本(ほん)をよみます。明(あ)けがた、台(だい)所(どころ)のほうで朝(ちょ)食(うしょく)のしたくのはじまる音(おと)をきくと、もう一どねむり、朝(ちょ)食(うしょく)ができあがるころにおきて、すぐ朝(あさ)ぶろにいき、かえって朝(ちょ)食(うしょく)をすますと、また本(ほん)をよむといったありさまでした。
そのため、せいせきはぐんぐんあがって、とうとう、塾(じゅく)にある本(ほん)をぜんぶよんでしまい、力(ちから)もついてきました。こうして、三年(ねん)たつうちに、諭(ゆき)吉(ち)は、先(せん)生(せい)からみとめられて、塾(じゅ)長(くちょう)になりました。
けれども、諭(ゆき)吉(ち)は勉(べん)強(きょう)の虫(むし)になったわけではありません。おおいに勉(べん)強(きょう)するとともに、かなりないたずらもやってのけ、おおいにあそんだのです。
新(しん)入(にゅ)生(うせい)は、緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)に入(にゅ)門(うも)料(んりょう)をおさめますが、そのとき塾(じゅ)長(くちょう)の諭(ゆき)吉(ち)にも、いくらかのお礼(れい)をもってきます。月(つき)に新(しん)入(にゅ)生(うせい)が四、五人(にん)もあれば、ちょっとした金(きん)額(がく)になります。これでなかまをさそって牛(ぎゅ)肉(うに)屋(くや)へいって、牛(ぎゅう)なべをつつきながら、酒(さけ)をのみました。そのころ牛(ぎゅう)なべをつつくのは、品(ひん)のわるいものがやることで、いれずみをした町(まち)のごろつきと、適(てき)塾(じゅく)の書(しょ)生(せい)とにかぎられていました。諭(ゆき)吉(ち)は、子(こ)どものときからの酒(さけ)ずきだったものですから、ずいぶんお酒(さけ)をのみました。
こづかいがなくなると、ズーフの字(じび)引(き)をうつします。あちこちの藩(はん)から、字(じび)引(き)をうつしてくれという注(ちゅ)文(うもん)がありますので、そのうつし代(だい)をかせぐわけです。それでも、こづかいにこまって、しかも、酒(さけ)がのみたいというときには、こんなこともやりました。
道(どし)修(ょう)町(まち)のくすり屋(や)にくまがとどいて、そのくすり屋(や)の主(しゅ)人(じん)が、適(てき)塾(じゅく)の書(しょ)生(せい)さんに、かいぼうをしてみせてもらいたいと、たのんできました。それはおもしろいというので、諭(ゆき)吉(ち)は医(いし)者(ゃ)しぼうではないからいきませんでしたが、塾(じゅく)から七、八人(にん)がそろってでかけていって、かいぼうにとりかかり、これがしんぞうで、これが肺(はい)、これがかんぞうだ、とせつめいしてやると、
﹁まことに、ありがとうございました。﹂
といって、くすり屋(や)の主(しゅ)人(じん)は、さっさとかえってしまいました。これは、適(てき)塾(じゅく)の書(しょ)生(せい)にかいぼうしてもらえば、くすりにするくまのきもが、うまくとれるとかんがえてしくんだものですから、くまのきもさえとれれば、用(よう)事(じ)がすんだわけでした。
塾(じゅく)の書(しょ)生(せい)たちには、このことがわかっていますから、おさまりません。諭(ゆき)吉(ち)が中(ちゅ)心(うしん)となって、くすり屋(や)にかけあう手(てが)紙(み)をかき、使(しし)者(ゃ)にいくのはだれ、おどかすのはだれ、と、それぞれの役(やく)をきめて、かけあいにいきました。くすり屋(や)の主(しゅ)人(じん)も、これにはこまったとみえて、ひらあやまりにあやまり、酒(さけ)を五しょうに、にわとりとさかななどをお礼(れい)としてだしました。
﹁これはしめた。﹂
とばかり、その夜(よる)、諭(ゆき)吉(ち)たちがおおいにのんだのは、いうまでもありません。
ところが、この酒(さけ)のみのことで、諭(ゆき)吉(ち)は大(だい)しっぱいをやりました。夏(なつ)の夜(よる)のことでした。大(おお)阪(さか)の夏(なつ)はあついので、諭(ゆき)吉(ち)たちは、まるはだかでねることにしていました。諭(ゆき)吉(ち)が二かいの部(へ)屋(や)にねていますと、下(した)から女(おんな)の人(ひと)の声(こえ)で、
﹁福(ふく)沢(ざわ)さん、福(ふく)沢(ざわ)さん。﹂
とよびます。諭(ゆき)吉(ち)は夕(ゆう)がた酒(さけ)をのんで、いまねたばかりです。
﹁うるさいなあ。いまごろ、なんの用(よう)があるのか。﹂
と、むっとして、まるはだかのままとびおきて、はしごだんをおりて、
﹁なんの用(よう)だ。﹂
と、ふんぞりかえったところ、なんと、緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)のおくさんではありませんか。にげようにもにげられず、諭(ゆき)吉(ち)は酒(さけ)のよいがいっぺんにさめてしまいました。おくさんも、きのどくにおもったのか、なにもいわず、おくのほうにひっこんでしまわれました。
諭(ゆき)吉(ち)は、そこではんせいをしました。
︵酒(さけ)をのんでいたから、こんなしっぱいをしたのだ。よしっ、酒(さけ)をやめてしまおう。︶
それから、ぷっつりと酒(さけ)をやめました。なかまのものは、びっくりしました。中(なか)には、
﹁なあに、三(みっ)日(か)ぼうずで、すぐにのみだすにちがいない。﹂
と、ひやかし半(はん)分(ぶん)にみているものもありましたが、十(とお)日(か)たち、十五日(にち)たっても、酒(さけ)をのみません。
高(たか)橋(はし)という親(しん)友(ゆう)が、
﹁きみのしんぼうはたいしたものだ。みあげてやるぞ。しかし、人(にん)間(げん)というものは、たとえわるいならわしでも、きゅうにやめることはよくない。きみが、いよいよ酒(さけ)をのまぬことに決(けっ)心(しん)したのなら、そのかわりにたばこをはじめたらどうか。人(にん)間(げん)には、なにか一つぐらいたのしみがなくてはいけないぞ。﹂
と、しんせつらしくいってくれました。
諭(ゆき)吉(ち)は、たばこはだいきらいで、これぐらい、なんのたしにもならぬものはないと、さんざんにわる口(くち)をいっていたのですが、高(たか)橋(はし)のいうことも一つのりくつだとおもい、たばこをはじめました。はじめのうちは、からくてくさくて、いやでしたが、だんだんになれていき、一か月(げつ)もたつうちには、たばこのみになってしまいました。
いっぽう、酒(さけ)のほうもわすれることができません。いけないとはしりながら、ちょいと一ぱいやってみました。すると、もう一ぱいのみたくなります。けっきょく、酒(さけ)はまたのむようになり、たばこものむようになってしまいました。
諭(ゆき)吉(ち)たちのやることは、せけんの人(ひと)々(びと)からみると、いたずらとしかみえませんが、じつは研(けん)究(きゅう)ねっしんのせいでした。諭(ゆき)吉(ち)たちは、いつも原(げん)書(しょ)と首(くび)っぴきでじっけんにはげみました。
あるとき、ろしゃ︵塩(えん)化(か)アンモニウムのべつの名(な)︶をつくってみることになりました。それにはまず、アンモニアをつくらなければなりません。アンモニアはほねからとりますが、ほねのかわりに、うまのつめのけずりくずを、たくさんもらってきて、とっくりの中(なか)に入(い)れ、外(そと)がわに土(つち)をぬりました。
また、すやきの大(おお)きなかめを買(か)ってきて、しちりんのかわりにし、火(ひ)をどんどんおこして、その中(なか)へ、とっくりを三本(ぼん)も四本(ほん)も入(い)れて、うちわでバタバタあおぎました。すると、とっくりの口(くち)につけたくだのさきから、たらたらと液(えき)がながれてきました。これがアンモニアですが、そのくさいこと、くさいこと、塾(じゅく)のせまい庭(にわ)でやっているのですから、たまりません。
緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)のうちのほうでも、気(き)持(も)ちがわるくなって、ごはんもたべられない、ともんくがでました。いやなにおいが着(きも)物(の)にしみこんでしまって、夕(ゆう)がた、ふろ屋(や)にいくと、着(きも)物(の)ばかりか、からだにまでくさいにおいがしみついていて、みんなからはいやがられるし、いぬさえもほえついてきました。
﹁このごろ、適(てき)塾(じゅく)の書(しょ)生(せい)さんたちは、酒(さけ)どっくりをちっともかえしてくれないが、どうしてだろう。﹂
酒(さか)屋(や)のおやじさんが、こっそりさぐらせると、なにかひどくくさいにおいのするもののじっけんにつかっているというのです。
酒(さか)屋(や)はその後(ご)、なんといっても酒(さけ)をもってこなくなりました。これには、みんなこまりました。
このときのじっけんでは、アンモニア水(すい)をつくれたものの、かたまらず、かんぜんなろしゃになりませんでしたし、あまりくさいので、いったんうちきることにしました。しかし、せっかくできかかったものをやめてしまうのは、学(がく)者(しゃ)のふめいよだというので、二、三人(にん)のものは、淀(よど)川(がわ)に船(ふね)をうかべて、じっけんをつづけました。
ところが、風(かざ)むきによって、そのくさいにおいが、川(かわ)から町(まち)のほうへながれていくので、またそこからもんくがでました。それで、川(かわ)上(かみ)のほうへのぼったり、川(かわ)下(しも)のほうへくだったりしながら、研(けん)究(きゅう)をつづけるというありさまでした。
このように、適(てき)塾(じゅく)の書(しょ)生(せい)たちは、ときにしっぱいしたり、ときには、せけんの人(ひと)々(びと)からしかられるようなこともしましたが、どれもこれも、青(せい)年(ねん)らしい、あたらしいことをしりたいという、はげしい気(き)持(も)ちのあらわれでした。自(じぶ)分(ん)たちだけが、西(せい)洋(よう)のすすんだ学(がく)問(もん)にせっしているのだというほこりが、みんなの心(こころ)の中(なか)にありました。そうして、本(ほん)をよむだけでなく、じっさいに自(じぶ)分(ん)でやってみて、あたらしい知(ちし)識(き)を身(み)につけ、世(よ)の中(なか)に役(やく)だつ学(がく)問(もん)をすすめようと、勉(べん)強(きょう)にうちこんでいるのでした。
こうした適(てき)塾(じゅく)の生(せい)徒(と)の中(なか)から、わかい革(かく)命(めい)家(か)の橋(はし)本(もと)左(さな)内(い)、軍(ぐん)人(じん)・政(せい)治(じ)家(か)の村(むら)田(たぞ)蔵(うろ)六(く)︵のちの大(おお)村(むら)益(ます)次(じろ)郎(う)︶、医(いり)療(ょう)の制(せい)度(ど)をあらためた長(なが)与(よせ)専(んさ)斎(い)、日(にほ)本(んせ)赤(きじ)十(ゅう)字(じし)社(ゃ)をつくった佐(さの)野(つね)常(た)民(み)など、のちに幕(ばく)末(まつ)から明(めい)治(じ)にかけてかつやくした人(ひと)たちがでました。
むろん、諭(ゆき)吉(ち)も、その中(なか)の一(ひと)人(り)でした。勉(べん)強(きょう)をすればするほど、諭(ゆき)吉(ち)は西(せい)洋(よう)の学(がく)問(もん)のすすんでいることがわかり、日(にっ)本(ぽん)も、おそかれはやかれ、これをもっとねっしんにとり入(い)れなければならない日(ひ)がくるにちがいない、とかんがえるようになってきました。
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適(てき)塾(じゅく)でねっしんに勉(べん)強(きょう)している諭(ゆき)吉(ち)のもとへ、とつぜん、江(え)戸(ど)の中(なか)津(つは)藩(んお)奥(くだ)平(いら)家(け)のやしきから、使(つか)いのものがやってきました。それは安(あん)政(せい)五︵一八五八︶年(ねん)の秋(あき)の日(ひ)のことで、諭(ゆき)吉(ち)は二十五さいになっていました。こんど蘭(らん)学(がく)の塾(じゅく)をひらくことになったから、その先(せん)生(せい)になってほしいというのです。これは藩(はん)のめいれいですから、諭(ゆき)吉(ち)はしょうちして、いよいよ江(え)戸(ど)へいくことになりました。
諭(ゆき)吉(ち)は、べつにけらいなどいりませんが、藩(はん)からけらい一(ひと)人(り)ぶんの旅(りょ)費(ひ)がでましたので、塾(じゅく)のなかまに、だれか江(え)戸(ど)へいきたいものはないかといいますと、岡(おか)本(もと)周(しゅ)吉(うきち)と原(はら)田(だら)磊(いぞ)蔵(う)という友(ゆう)人(じん)が、いっしょにつれていってくれともうしでましたので、三人(にん)で東(とう)海(かい)道(どう)をあるいて、江(え)戸(ど)へむかいました。江(え)戸(ど)についたのは、十月(がつ)もおわりごろで、もう、すこしうすらさむいきせつでした。
木(こび)挽(きち)町(ょう)汐(しお)留(どめ)︵いまの新(しん)橋(ばし)のふきん︶にある奥(おく)平(だいら)やしきにいきますと、鉄(てっ)砲(ぽう)洲(ず)︵築(つき)地(じ)︶にある中(なか)やしきの長(なが)屋(や)をかしてくれるということでした。諭(ゆき)吉(ち)は岡(おか)本(もと)と二(ふた)人(り)でそこにすんで、塾(じゅく)をひらくことになりました。
もう一(ひと)人(り)、いっしょにきた原(はら)田(だ)は、下(した)谷(や)の大(おお)槻(つき)というお医(いし)者(ゃ)のところへいきました。
諭(ゆき)吉(ち)のところへは、そのうちに、オランダ語(ご)をならいに、生(せい)徒(と)がぼつぼつやってきはじめました。中(なか)津(つは)藩(ん)の子(こ)どもばかりでなく、ほかからも入(にゅ)門(うもん)するものがあって、十人(にん)あまりの生(せい)徒(と)に、諭(ゆき)吉(ち)は、毎(まい)日(にち)オランダ語(ご)をおしえていました。
ところで、この長(なが)屋(や)は、そのときから八十八年(ねん)まえの明(めい)和(わ)八︵一七七一︶年(ねん)に、前(まえ)野(のり)良(ょう)沢(たく)や杉(すぎ)田(たげ)玄(んぱ)白(く)たちが、オランダのかいぼう学(がく)︵生(せい)物(ぶつ)のからだをきりひらいて研(けん)究(きゅう)する学(がく)問(もん)︶の本(ほん)を、くしんしてやくした場(ばし)所(ょ)なのでした。それは﹁解(かい)体(たい)新(しん)書(しょ)﹂といって、日(にっ)本(ぽん)のあたらしい医(いが)学(く)にたいへん役(やく)だちました。
そのことをきいた諭(ゆき)吉(ち)は、ふかいかんげきをおぼえ、
﹁よしっ、この塾(じゅく)を、江(え)戸(ど)でいちばんりっぱな蘭(らん)学(がく)塾(じゅく)にしてみせるぞ。﹂
とはりきりました。
それにつけても、江(え)戸(ど)の蘭(らん)学(がく)者(しゃ)たちの力(ちから)はどれほどのものであろうか、それをしっておきたいとおもいました。
ある日(ひ)、島(しま)村(むら)鼎(てい)甫(ほ)という蘭(らん)学(がく)者(しゃ)をたずねてみました。島(しま)村(むら)はやはり緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)のところでまなんだことのある医(いし)者(ゃ)で、江(え)戸(ど)にきて、オランダの本(ほん)のほんやくなどをしているのでした。ですから、二(ふた)人(り)はすぐしたしくなりましたが、このとき、島(しま)村(むら)は、生(せい)理(りが)学(く)︵生(せい)物(ぶつ)のからだのはたらきを研(けん)究(きゅう)する学(がく)問(もん)︶の原(げん)書(しょ)をほんやくしているところで、その本(ほん)をもってきて、
﹁ここのところが、どうもわからなくてよわっていたところだ。きみ、ひとつ、やってみてくれないか。﹂
といいました。諭(ゆき)吉(ち)がよんでみますと、なるほどやくしにくいところでした。
﹁ほかの人(ひと)にも、そうだんしてみましたか。﹂
﹁ええ、もう、友(とも)だち五、六人(にん)にはなしてみたんだが、どうしてもわからないというんだ。﹂
そこで諭(ゆき)吉(ち)は、三十分(ぷん)ばかりかんがえているうちに、ちゃんとわかってきたので、島(しま)村(むら)にせつめいしてやりますと、
﹁なるほど、そうか。やはり、大(おお)阪(さか)じこみはたいしたものだ。﹂
と、諭(ゆき)吉(ち)の力(ちから)をほめてくれました。これで、蘭(らん)学(がく)は大(おお)阪(さか)のほうがすすんでいたことがわかり、諭(ゆき)吉(ち)は、心(こころ)の中(なか)でほっとあんしんしました。
それからのちも、諭(ゆき)吉(ち)は、原(げん)書(しょ)の中(なか)から、むずかしい文(ぶん)章(しょう)をひっぱりだして、
﹁ここは、むずかしくてわかりませんが、どうやくしたらよいでしょうか。﹂
ともちかけて、いろいろな学(がく)者(しゃ)たちの力(ちから)を、それとなくためしてみましたが、あまりすぐれた人(ひと)はみあたりませんでした。
ですから、諭(ゆき)吉(ち)が、やがて江(え)戸(ど)一番(ばん)のひょうばんをとるようになったのも、あたりまえのことといわなければなりません。諭(ゆき)吉(ち)はまことによい気(き)持(も)ちでした。てんぐにさえなっていました。ところが、諭(ゆき)吉(ち)のそのてんぐの鼻(はな)をへしおるような、たいへんなことがおこったのです。
嘉(かえ)永(い)六︵一八五三︶年(ねん)の六月(がつ)に、アメリカからペリーがやってきて、開(かい)国(こく)をせまったことは、まえにかいておきましたが――幕(ばく)府(ふ)は、一年(ねん)のちに神(かな)奈(が)川(わ)︵いまの横(よこ)浜(はま)︶で、アメリカとのあいだに和(わし)親(んじ)条(ょう)約(やく)︵おたがいになかよくしようというとりきめ︶をむすびました。ところが、それだけでは、日(にっ)本(ぽん)をほんとうに開(かい)国(こく)させたということにならないので、アメリカは、ぜひ、修(しゅ)好(うこ)通(うつ)商(うし)条(ょう)約(じょうやく)︵商(しょ)売(うばい)のとりきめ︶をむすぼうとかんがえるようになりました。そのため安(あん)政(せい)三︵一八五六︶年(ねん)に、ハリスがアメリカの総(そう)領(りょ)事(うじ)として、伊(い)豆(ず)の下(しも)田(だ)︵静(しず)岡(おか)県(けん)︶へやってきて、幕(ばく)府(ふ)とこうしょうしました。
けれども、日(にっ)本(ぽん)の中(なか)では、外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえといううんどうがさかんになり、幕(ばく)府(ふ)としては、これをおさえる力(ちから)がなく、なかなかはっきりしたたいどがきまりません。京(きょ)都(うと)の朝(ちょ)廷(うてい)︵天(てん)皇(のう)がた︶も、修(しゅ)好(うこ)通(うつ)商(うし)条(ょう)約(じょうやく)をむすぶことにははんたいでした。いっぽう、ハリスからのさいそくはつよくなりました。そこで、大(たい)老(ろう)の井(いい)伊(なお)直(す)弼(け)は、自(じぶ)分(ん)だけの考(かんが)えで、この条(じょ)約(うやく)にはんをおしてしまいました。
その日(ひ)は、諭(ゆき)吉(ち)が江(え)戸(ど)へでてくる四か月(げつ)ほどまえの、安(あん)政(せい)五︵一八五八︶年(ねん)六月(がつ)十九日(にち)のことでした。
つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスの四か国(こく)とも条(じょ)約(うやく)をむすび、すでに日(にち)米(べい)和(わし)親(んじ)条(ょう)約(やく)で開(かい)港(こう)されていた下(しも)田(だ)・箱(はこ)館(だて)︵函(はこ)館(だて)︶にくわえて、ちかいしょうらい、神(かな)奈(が)川(わ)︵横(よこ)浜(はま)︶・長(なが)崎(さき)・新(にい)潟(がた)・兵(ひょ)庫(うご)︵神(こう)戸(べ)︶のみなとをひらくことがきめられました。
よく年(ねん)には、横(よこ)浜(はま)に外(がい)国(こく)人(じん)がやってきて、ぼうえきをすることがゆるされました。これまでは、小(ちい)さな漁(ぎょ)村(そん)だったのですが、きゅうにいきいきとした町(まち)になりました。このあたらしくひらけた横(よこ)浜(はま)を、諭(ゆき)吉(ち)はぜひみておきたいとおもいました。
そこで諭(ゆき)吉(ち)は、ま夜(よな)中(か)の十二時(じ)ごろに江(え)戸(ど)をでて、夜(よる)の東(とう)海(かい)道(どう)をあるいて、夜(よ)明(あ)けごろに横(よこ)浜(はま)につきました。さっそく海(かい)岸(がん)のほうへいってみました。けれども、みなととしてひらけたばかりなので、まだ外(がい)国(こく)人(じん)のすがたもすくなくて、きゅうごしらえのそまつな西(せい)洋(よう)館(かん)が、ぽつぽつたてられ、店(みせ)がいくつかならんでいるだけでした。
それらの店(みせ)を、諭(ゆき)吉(ち)はめずらしそうに、きょろきょろとみまわしながら、あるいているうちに、
﹁はてな。﹂
と、首(くび)をひねりました。どの店(みせ)のかんばんをながめても、店(みせ)さきにならんでいるしなものをみても、かいてあることばが、さっぱりよめないではありませんか。外(がい)国(こく)人(じん)どうしがはなしていることばも、諭(ゆき)吉(ち)のとくいなオランダ語(ご)とはちがっているようで、なにがなにやら、すこしもいみがわかりません。
さんざんあるきまわったすえ、ある一けんの店(みせ)によって、オランダ語(ご)ではなしかけてみました。すると、店(みせ)の主(しゅ)人(じん)はドイツ人(じん)でしたが、さいわい、オランダ語(ご)のわかる人(ひと)でした。
諭(ゆき)吉(ち)の発(はつ)音(おん)がわるいので、うまくつうじませんが、紙(かみ)にかけばわかるというので、諭(ゆき)吉(ち)がかいてみせますと、
﹁おお、あなたは、オランダ語(ご)、なかなかうまいことあるね。でも、ここでは、まったく役(やく)にたたない。英(えい)語(ご)でなければだめ。みんな、英(えい)語(ご)しゃべっている。かんばんも、なにもかも英(えい)語(ご)ばかりね。﹂
と、店(みせ)の主(しゅ)人(じん)からいわれました。
﹁そうか、英(えい)語(ご)でなければだめか。﹂
と、諭(ゆき)吉(ち)はかんがえこんでしまいました。
店(みせ)の主(しゅ)人(じん)がすすめたオランダ語(ご)と英(えい)語(ご)との会(かい)話(わ)の本(ほん)など、二、三さつを買(か)うと、諭(ゆき)吉(ち)は、おもい足(あし)をひきずって、江(え)戸(ど)へかえってきました。
ちょうど夜(よな)中(か)の十二時(じ)ちかくでしたから、まるまる二十四時(じか)間(ん)、諭(ゆき)吉(ち)はあるいていたわけで、へとへとにつかれきっていました。けれども、それは、あるきつかれたからだけではありません。五、六年(ねん)もかかって、いっしょうけんめい勉(べん)強(きょう)したオランダ語(ご)が、なんの役(やく)にもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられたからでした。
﹁なんというばかなことをしたものだ。﹂
と、諭(ゆき)吉(ち)はなきたいくらいでしたが、
﹁でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは英(えい)語(ご)の勉(べん)強(きょう)をするんだ。﹂
諭(ゆき)吉(ち)は、そのつぎの日(ひ)から、英(えい)語(ご)の勉(べん)強(きょう)にとりかかりました。
とはいっても、いったい、どこで、だれに英(えい)語(ご)をおそわったらいいのか、さっぱりけんとうがつきません。そのころの江(え)戸(ど)には、英(えい)語(ご)をおしえてくれる先(せん)生(せい)など、一(ひと)人(り)もいませんでした。でも諭(ゆき)吉(ち)は、あきらめないで、あちこちたずねているうちに、耳(みみ)よりな話(はなし)をききました。それは、長(なが)崎(さき)でつうやくをしている森(もり)山(やま)多(たき)吉(ちろ)郎(う)という人(ひと)が、いま江(え)戸(ど)にきて、幕(ばく)府(ふ)のご用(よう)をつとめているが、英(えい)語(ご)ができるといううわさをきいたのです。
諭(ゆき)吉(ち)はたいへんよろこんで、さっそく、森(もり)山(やま)をたずねていきました。森(もり)山(やま)は、諭(ゆき)吉(ち)のねっしんなたのみをきいてはくれましたが、幕(ばく)府(ふ)の仕(しご)事(と)がいそがしくて、おしえてくれる時(じか)間(ん)がなかなかありません。
﹁それでは、まあ、せっかくならいたいということですから、毎(まい)日(にち)、朝(あさ)はやくおいでください。役(やく)所(しょ)へでかけるまえに、おしえてあげましょう。﹂
といってくれました。
そこで、諭(ゆき)吉(ち)は、朝(あさ)はやくおきて、鉄(てっ)砲(ぽう)洲(ず)から森(もり)山(やま)先(せん)生(せい)のすんでいる小(こい)石(しか)川(わ)まで、八キロメートルあまりを、てくてくとあるいてかよいはじめました。ところが、森(もり)山(やま)先(せん)生(せい)の家(いえ)についてみると、
﹁きょうはおきゃくがきているから。﹂とか、
﹁もうすぐ役(やく)所(しょ)へでかけなければならないから。﹂
といってことわられ、毎(まい)朝(あさ)のように、むだ足(あし)をふみつづけました。それでも、諭(ゆき)吉(ち)は、こんきよくかよいました。森(もり)山(やま)先(せん)生(せい)はこれをみて、きのどくにおもい、
﹁どうも朝(あさ)はだめだから、あすからは、ばんにきてみてください。﹂
といいました。
それで諭(ゆき)吉(ち)は、こんどは夕(ゆう)がたにかよいはじめましたが、森(もり)山(やま)先(せん)生(せい)は、あいかわらずいそがしくて、おしえてくれるひまがありません。およそ三か月(げつ)ほどかよいましたが、とうとう、なにもおしえてもらえませんでした。おまけに、森(もり)山(やま)先(せん)生(せい)も、それほど英(えい)語(ご)ができるわけでもないことがわかりましたから、諭(ゆき)吉(ち)は、森(もり)山(やま)先(せん)生(せい)からおそわることをあきらめてしまいました。
それからは、小(ちい)さい字(じび)引(き)を手(て)に入(い)れて、自(じぶ)分(ん)一(ひと)人(り)で英(えい)語(ご)の勉(べん)強(きょう)に力(ちから)をそそぎました。けれども、おもうようにはすすみません。
︵これは、一(ひと)人(り)ではだめだ。おなじようななやみをもっている友(とも)だちをみつけて、いっしょに勉(べん)強(きょう)すれば、きっとすすむにちがいない。︶
こうおもった諭(ゆき)吉(ち)は、友(とも)だちの神(かん)田(だた)孝(かひ)平(ら)にあってはなしてみますと、
﹁じつは、わたしもやってみたのだが、さっぱりわからない。もう、こりごりだ。まあ、きみは、いつでも元(げん)気(き)がいいから、おおいにやってみることだね。﹂
と、あいてになってくれません。
そこで、こんどは、村(むら)田(たぞ)蔵(うろ)六(く)︵のちの大(おお)村(むら)益(ます)次(じろ)郎(う)︶にすすめてみました。すると、
﹁なにも、そんなくろうをすることないじゃないか。やめたほうがよい。ひつような本(ほん)なら、オランダ人(じん)がほんやくするから、それをよめばよいじゃないか。﹂
といわれてしまいました。
これではしかたがないので、三番(ばん)めに原(はら)田(だけ)敬(いさ)策(く)のところへいってはなしてみますと、
﹁そうか、それはおもしろい。ぜひやろう。二(ふた)人(り)ならば気(き)がつよい。どんなことがあっても、やりとげようじゃないか。﹂
と、さんせいしてくれました。
こうして、なかまをみつけることのできた諭(ゆき)吉(ち)は、それからというものは、すこしでも英(えい)語(ご)をしっている人(ひと)があれば、すぐにたずねていって、おしえてもらうといったありさまでした。
だんだん勉(べん)強(きょう)をしていくうちに、英(えい)語(ご)がオランダ語(ご)にかなりにていることがわかってきました。そうして、英(えい)語(ご)の力(ちから)がめきめきとすすんでいきました。
﹁このたび、アメリカへいかれるそうですが、わたしをぜひつれていってください。﹂
と、諭(ゆき)吉(ち)はつてをもとめて、はじめてあった幕(ばく)府(ふ)の軍(ぐん)艦(かん)奉(ぶぎ)行(ょう)木(きむ)村(らせ)摂(っつ)津(のか)守(みよ)喜(した)毅(け)に、しんけんにたのみこんでいました。それは、安(あん)政(せい)六︵一八五九︶年(ねん)の冬(ふゆ)のある日(ひ)のことでした。うん、うんと諭(ゆき)吉(ち)のことばをきいていた木(きむ)村(ら)は、
﹁よろしい。それほどのぞまれるのなら、つれていってあげよう。﹂
と、その場(ば)でしょうちしてくれました。
じつは、幕(ばく)府(ふ)は、まえにとりきめたやくそくにしたがって、条(じょ)約(うや)書(くしょ)をとりかわすために、アメリカへ新(しん)見(みぶ)豊(ぜん)前(のか)守(み)・村(むら)垣(がき)淡(あわ)路(じの)守(かみ)・小(おぐ)栗(りぶ)豊(んご)後(のか)守(み)の三人(にん)を使(しせ)節(つ)として、おくることになりました。この使(しせ)節(つ)たちは、アメリカからむかえにきた船(ふね)、ポーハタン号(ごう)にのって太(たい)平(へい)洋(よう)をわたるわけですが、それといっしょに、幕(ばく)府(ふ)は、日(にっ)本(ぽん)の軍(ぐん)艦(かん)咸(かん)臨(りん)丸(まる)をアメリカへいかせることにしました。それにのりこむのは、軍(ぐん)艦(かん)奉(ぶぎ)行(ょう)の木(きむ)村(らせ)摂(っつ)津(のか)守(みよ)喜(した)毅(け)です。
軍(ぐん)艦(かん)というからには、たいそう大(おお)きな船(ふね)のようにきこえますが、わずか二百五十トンで、みなとの出(で)はいりだけにじょうきをたき、あとはただ、風(かぜ)をたよりにすすんでいかなければならない、ちっぽけな船(ふね)でした。
乗(のり)組(くみ)員(いん)は艦(かん)長(ちょう)の勝(かつ)麟(りん)太(たろ)郎(う)︵海(かい)舟(しゅう)︶ら九十六人(にん)、ほかに日(にっ)本(ぽん)の近(きん)海(かい)を測(そく)量(りょう)にきて、なんぱしたアメリカの海(かい)軍(ぐん)士(しか)官(ん)ブルック大(たい)尉(い)ら十人(にん)がのりました。
咸(かん)臨(りん)丸(まる)は、万(まん)延(えん)元(がん)︵一八六〇︶年(ねん)一月(がつ)十九日(にち)、使(しせ)節(つ)たちをのせた船(ふね)よりも一(ひと)足(あし)さきに浦(うら)賀(が)を船(ふな)出(で)しました。
冬(ふゆ)のことですから、北(きた)風(かぜ)がつよく、くる日(ひ)もくる日(ひ)も、あらしにおそわれました。船(ふね)は木(こ)の葉(は)のようにゆれ、たかい波(なみ)はかんぱんにおどりあがり、うっかりしていると、人(にん)間(げん)もころがされるしまつで、みんな青(あお)い顔(かお)をしていました。けれども、日(にほ)本(んじ)人(ん)が自(じぶ)分(ん)たちの軍(ぐん)艦(かん)で、はじめて太(たい)平(へい)洋(よう)をわたるのだというほこりがあるので、みんな力(ちから)をあわせて、あらしとたたかいました。こうして、日(にほ)本(んれ)暦(き)で二月(がつ)二十六日(にち)に、ぶじにサンフランシスコにつきました。
サンフランシスコの人(ひと)々(びと)は、たいへんなかんげいぶりをみせました。ちょんまげに、はおりはかまをつけ、こしに刀(かたな)をさした日(にほ)本(んじ)人(ん)のかっこうが、ものめずらしかったせいもありましょうが、ちっぽけな船(ふね)で太(たい)平(へい)洋(よう)のあら波(なみ)とたたかってきたということに、よりおおく感(かん)動(どう)したのにちがいありません。馬(ばし)車(ゃ)にのせて、りっぱなホテルにあんないし、町(まち)のおもだった人(ひと)々(びと)が、あとからあとからとおしかけて、下(した)にもおかないもてなしぶりでした。あらしにもまれてこわれた咸(かん)臨(りん)丸(まる)も、ただでなおしてくれました。
諭(ゆき)吉(ち)は、西(せい)洋(よう)の本(ほん)をたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいに目(め)でみるのははじめてです。そうして、百聞(ぶん)は一見(けん)にしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。
日(にっ)本(ぽん)ではとても高(こう)価(か)なじゅうたんが、部(へ)屋(や)いっぱいにしきつめてあって、アメリカ人(じん)がその上(うえ)をくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どの家(いえ)にもガス灯(とう)がついていて、夜(よる)も昼(ひる)のようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカ人(じん)が、男(おとこ)と女(おんな)と手(て)をくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。
諭(ゆき)吉(ち)は、電(でん)信(しん)や、めっき工(こう)場(じょう)、さとうの製(せい)造(ぞう)所(しょ)などもみてまわりましたが、みな本(ほん)でよんでいることばかりなので、そのしくみにはさほどおどろきませんでした。
わからないのは、政(せい)治(じ)や社(しゃ)会(かい)のしくみでした。ある日(ひ)、諭(ゆき)吉(ち)はたずねてみました。
﹁ワシントンの子(しそ)孫(ん)のかたは、いまどうしていますか。﹂
﹁さあ、どうしていますかねえ。ワシントンにはたしか、むすめがいたはずですから、だれかのおくさんになってるんでしょうね。﹂
このへんじには、おどろいてしまいました。
アメリカの初(しょ)代(だい)大(だい)統(とう)領(りょう)のジョージ=ワシントンといえば、日(にっ)本(ぽん)では鎌(かま)倉(くら)幕(ばく)府(ふ)をひらいた源(みな)頼(もと)朝(のよりとも)か、江(えど)戸(ば)幕(く)府(ふ)をひらいた徳(とく)川(がわ)家(いえ)康(やす)とおなじようなものです。徳(とく)川(がわ)家(け)のものがずっと将(しょ)軍(うぐん)をついでいる日(にっ)本(ぽん)とくらべて、なんというちがいでしょう。
もちろん、諭(ゆき)吉(ち)はアメリカが共(きよ)和(うわ)国(こく)で、大(だい)統(とう)領(りょう)が四年(ねん)ごとの選(せん)挙(きょ)でかわることはしっていました。が、じっさいにアメリカ人(じん)からきいて、なんともふしぎな気(き)がしました。
諭(ゆき)吉(ち)は、いっしょにいった中(なか)浜(はま)万(まん)次(じろ)郎(う)とはなしあって、ウェブスターの辞(じし)書(ょ)を一さつずつ買(か)いました。これが日(にっ)本(ぽん)にウェブスターの辞(じし)書(ょ)がはいったはじめです。
中(なか)浜(はま)万(まん)次(じろ)郎(う)は、ジョン=マンともいい、土(と)佐(さ)︵高(こう)知(ちけ)県(ん)︶のりょうしでした。あらしにあってひょうりゅうしているところを、アメリカの捕(ほげ)鯨(いせ)船(ん)にすくわれ、アメリカで勉(べん)強(きょう)して運(うん)よく日(にっ)本(ぽん)にかえり、幕(ばく)府(ふ)につかえ、つうやくとしてのりくんでいたのです。
すこしおくれて、サンフランシスコについた条(じょ)約(うやく)とりかわしの使(しせ)節(つ)たちが、ワシントンへいくのとはんたいに、諭(ゆき)吉(ち)たち咸(かん)臨(りん)丸(まる)の一行(こう)は、日(にっ)本(ぽん)へひきかえすことになり、五十日(にち)あまりをすごしたサンフランシスコをあとにして、とちゅうハワイによってから、日(にっ)本(ぽん)へもどりました。なつかしい日(にっ)本(ぽん)にかえりついたのは、もう木(き)々(ぎ)のわか芽(め)が、みどりの葉(は)にかわる五月(がつ)のはじめのことでした。
諭(ゆき)吉(ち)がいなかったわずかのあいだに、日(にっ)本(ぽん)のようすはとてもかわっていました。京(きょ)都(うと)の朝(ちょ)廷(うてい)と江(えど)戸(ば)幕(く)府(ふ)とのあらそいがはげしくなり、国(くに)をひらくことにさんせいの人(ひと)と、外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえという人(ひと)たちのあいだには、いまにもたたかいがおこりそうな、ふあんな空(くう)気(き)がただよっていました。そうして、この年(とし)の三月(がつ)三(みっ)日(か)には、桜(さく)田(らだ)門(もん)外(がい)で、水(み)戸(と)の浪(ろう)士(し)︵主(しゅ)人(じん)をもたないさむらい︶が、幕(ばく)府(ふ)が開(かい)国(こく)したことをおこって、そのせきにん者(しゃ)である大(たい)老(ろう)の井(いい)伊(なお)直(す)弼(け)をおそうというじけんまでありました。
しかし、アメリカのりっぱな文(ぶん)明(めい)を自(じぶ)分(ん)の目(め)でみてきた諭(ゆき)吉(ち)は、これを日(にっ)本(ぽん)にとり入(い)れなければならないとおもいました。
そこで、諭(ゆき)吉(ち)は、鉄(てっ)砲(ぽう)洲(ず)の塾(じゅく)にもどると、もうオランダ語(ご)をおしえることはやめて、英(えい)語(ご)ばかりおしえることにしました。しかし、英(えい)語(ご)をおしえるといっても、諭(ゆき)吉(ち)は、字(じび)引(き)をたよりに、一(ひと)人(り)で勉(べん)強(きょう)したわけですから、英(えい)語(ご)を自(じゆ)由(う)によみこなすことはできません。ですから、生(せい)徒(と)におしえながら、自(じぶ)分(ん)もいっしょに勉(べん)強(きょう)するのでした。
そうしているうちに、木(きむ)村(らせ)摂(っつ)津(のか)守(み)のせわで、諭(ゆき)吉(ち)は、幕(ばく)府(ふ)の外(がい)国(こく)方(かた)︵いまの外(がい)務(むし)省(ょう)のような役(やく)所(しょ)︶のほんやくがかりとしてつとめることになりました。それは、外(がい)国(こく)からさしだしてくる文(ぶん)書(しょ)を、日(にほ)本(ん)語(ご)になおす役(やく)でした。おかげで、世(せか)界(い)の国(くに)々(ぐに)のようすがよくわかりますし、英(えい)語(ご)の勉(べん)強(きょう)にも役(やく)だちました。
この年(とし)がくれて、文(ぶん)久(きゅう)元(がん)︵一八六一︶年(ねん)になると、諭(ゆき)吉(ち)は、おなじ中(なか)津(つは)藩(ん)の上(じょ)級(うき)士(ゅう)族(しぞく)、土(とき)岐(た)太(ろ)郎(は)八(ち)の次(じじ)女(ょ)錦(きん)とけっこんしました。
ところが、その十二月(がつ)に、諭(ゆき)吉(ち)はヨーロッパへいくことになりました。それは、幕(ばく)府(ふ)がこんどはヨーロッパ各(かっ)国(こく)へ使(しせ)節(つ)をおくることになり、諭(ゆき)吉(ち)はほんやくがかりとして、くわわることをめいぜられたからです。外(がい)国(こく)奉(ぶぎ)行(ょう)の竹(たけ)内(うち)下(しも)野(つけ)守(のかみ)・松(まつ)平(だい)石(らい)見(わみ)守(のかみ)・京(きょ)極(うご)能(くの)登(との)守(かみ)の三人(にん)が使(しせ)節(つ)で、その役(やく)目(め)は、まえにやくそくしていた江(え)戸(ど)・大(おお)阪(さか)・兵(ひょ)庫(うご)︵神(こう)戸(べ)︶・新(にい)潟(がた)でとりひきをはじめるのを、すこしのばしたいという話(はな)しあいをするためでした。
使(しせ)節(っ)の一行(こう)は、イギリスの軍(ぐん)艦(かん)オージン号(ごう)にのりこみ、品(しな)川(がわ)から出(しゅ)発(っぱつ)しました。一行(こう)は四十人(にん)たらずでしたが、外(がい)国(こく)では、たべものが不(ふじ)自(ゆ)由(う)だろうというので、白(はく)米(まい)を何(なん)日(にち)ぶんも船(ふね)につみこんだり、宿(やど)がくらくてはこまるとおもい、ろうかにつける金(かな)あんどんや、ちょうちん・ろうそくまでそろえてもっていきました。まるで、大(だい)名(みょう)が東(とう)海(かい)道(どう)をとおって、宿(やど)屋(や)にとまるときとおなじような用(よう)意(い)をしたわけでした。
ところが、パリについてみると、まったくむだなじゅんびをしたことに気(き)がつきました。あんないされたのは、ホテル=デ=ローブルという、五かいだての、お城(しろ)のように大(おお)きいホテルでした。部(へ)屋(や)が六百、はたらいている人(ひと)が五百人(にん)もおり、おきゃくも千人(にん)ぐらいはとまれるほどの広(ひろ)さでした。部(へ)屋(や)には、冬(ふゆ)だというのに、あたたかな空(くう)気(き)がほかほかとここちよくながれ、部(へ)屋(や)にもろうかにも、ガス灯(とう)がいっぱいついていて、夜(よる)もまるで昼(ひる)のようにあかるいのです。それに、すばらしいごちそうがでました。
ですから、せっかく用(よう)意(い)してきた金(かな)あんどんや、ちょうちんなどは、はずかしくてだせません。また、たくさんの白(はく)米(まい)も、すっかりじゃまものになってしまいました。そこで、せわがかりの下(した)役(やく)の男(おとこ)に、ただでもらってもらうというありさまでした。
シガー︵たばこ︶とシュガー︵さとう︶をまちがえて、たばこを買(か)いにやったら、さとうを買(か)ってきたというような、わらい話(ばなし)のようなしくじりもありましたが、もっとけっさくもうまれました。
ある夜(よ)、諭(ゆき)吉(ち)がホテルのろうかをあるいていくと、使(しせ)節(つ)のけらいが、ろうかでしゃちこばって、ぼんぼりをもって番(ばん)をしているではありませんか。なにごとかとおもってよくみると、使(しせ)節(つ)の一(ひと)人(り)が、大(だい)便(べん)をしに便(べん)所(じょ)にいったおともでした。便(べん)所(じょ)の二つもあるドアはみなあけはなされ、そのおくでは、いまや一(ひと)人(り)の使(しせ)節(つ)が、日(にほ)本(んり)流(ゅう)に用(よう)をたしているのが、まる見(み)えです。ろうかは、外(がい)国(こく)の男(だん)女(じょ)がいききしているのですから、はずかしいったらありません。
びっくりした諭(ゆき)吉(ち)は、そのおもてにたちふさがって、ものもいわずにドアをしめ、それから、けらいにわけをはなしてやりました。
こうしたしくじりをやりながら、使(しせ)節(つ)の一行(こう)は、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシアの国(くに)々(ぐに)をたずねて、やく一年(ねん)間(かん)、ヨーロッパの旅(たび)をつづけました。イギリスでは、議(ぎか)会(い)があって、政(せい)党(とう)というものが、おたがいに政(せい)治(じ)のやりかたや、意(いけ)見(ん)のうえであらそい、せんきょによって勝(か)ったほうの政(せい)党(とう)が国(くに)の政(せい)治(じ)をやるしくみになっているときかされましたが、諭(ゆき)吉(ち)には、よくのみこめませんでした。
しかし、こんどの旅(りょ)行(こう)ではじめて鉄(てつ)道(どう)にのって、そのべんりなことがわかり、すべての点(てん)で、西(せい)洋(よう)がすすんでいることをじっさいにしったので、諭(ゆき)吉(ち)は、政(せい)治(じ)のやりかたについても、きょうみをもちました。
ロシアでは、医(いし)者(ゃ)が病(びょ)人(うにん)のしゅじゅつをするところをみせてくれました。諭(ゆき)吉(ち)は、だいたんな人(にん)間(げん)であるくせに、子(こ)どものときから、血(ち)をみるのがだいきらいだったものですから、医(いし)者(ゃ)がメスを入(い)れて、ぱっと血(ち)がとびだすのをみると気(き)持(も)ちがわるくなり、気(き)がとおくなってしまいました。いっしょにいったものが、諭(ゆき)吉(ち)を外(そと)につれだし水(みず)をのませると、やっと正(しょ)気(うき)にかえりました。
ところが、使(しせ)節(つ)のつとめは、うまくいきませんでした。話(はな)しあいやかけひきが、へただったせいもありましょうが、そのころの日(にっ)本(ぽん)の国(こく)内(ない)では、外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえといううんどうがさかんで、外(がい)国(こく)人(じん)をただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこったからです。
そのため、はじめフランスへいったときには、ひじょうによろこんでむかえられたのに、各(かっ)国(こく)をまわって、ふたたびフランスへもどったときには、まるで、にくいかたきにでもあったように、つめたいあつかいをうけなければなりませんでした。
それは、ちょうどこのとき、日(にっ)本(ぽん)で生(なま)麦(むぎ)じけんがおこったという知(し)らせが、フランスへつたえられたからでした。
薩(さつ)摩(ま)︵いまの鹿(かご)児(しま)島(け)県(ん)︶のとのさまの行(ぎょ)列(うれつ)が、江(え)戸(ど)をたって国(くに)へかえることになり、東(とう)海(かい)道(どう)の生(なま)麦(むぎ)村(むら)︵いまは横(よこ)浜(はま)市(しな)内(い)︶をとおっていたとき、横(よこ)浜(はま)にきていたイギリス人(じん)がうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。
そのころ、大(だい)名(みょ)行(うぎ)列(ょうれつ)といえば、道(みち)ばたの家(いえ)は雨(あま)戸(ど)をおろし、とおりかかったものは道(みち)をよけて、とおくから土(つち)の上(うえ)にすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリス人(じん)はしりませんから、行(ぎょ)列(うれつ)をよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。
これにたいして、イギリスは幕(ばく)府(ふ)にこうぎをしましたが、フランスも、このような日(にほ)本(んじ)人(ん)のやりかたをふんがいしたからです。
諭(ゆき)吉(ち)は、このヨーロッパ旅(りょ)行(こう)で、日(にっ)本(ぽん)は国(くに)をひらいて、西(せい)洋(よう)の文(ぶん)明(めい)をとり入(い)れなければならないという考(かんが)えをつよめました。そこで、役(やく)所(しょ)からうけとったお金(かね)の大(だい)ぶぶんで、原(げん)書(しょ)をたくさん買(か)ってかえってきました。
けれども、日(にっ)本(ぽん)ではあべこべに、外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえといううんどうがさかんになり、諭(ゆき)吉(ち)のように、外(がい)国(こく)の本(ほん)をよみ、ヨーロッパがえりの人(にん)間(げん)だといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうな世(よ)の中(なか)になっていました。こういううごきは、まえまえからあったのですから、諭(ゆき)吉(ち)は、べつにこわいともおもっていなかったのですが、友(とも)だちのいく人(にん)かが、じっさいにあぶないめにたびたびあっているので、
︵これは気(き)をつけなければいけない。︶
とかんがえなおしました。
そうしたある日(ひ)、本(ほん)をよみふけっている諭(ゆき)吉(ち)の部(へ)屋(や)に、女(じょ)中(ちゅう)があわててはいってきました。
﹁みょうなおきゃくさまがいらっしゃいました。﹂
﹁どんな人(ひと)かね。﹂
﹁大(おお)きなかたで、目(め)はかた目(め)で、ながい刀(かたな)をさしています。﹂
﹁そりゃ、ぶっそうな人(ひと)のようだが、名(な)はおたずねしたか。﹂
﹁はい、おききしましたが、お目(め)にかかればわかるからとおっしゃって……。﹂
どうも、うすきみがわるいとおもったので、諭(ゆき)吉(ち)は、しょうじのすきまから、そっとげんかんのほうをのぞいてみました。すると、そこには、緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)のところでいっしょに勉(べん)強(きょう)していたことのある原(はら)田(だす)水(いざ)山(ん)という友(とも)だちがたっているではありませんか。ほっとした諭(ゆき)吉(ち)は、げんかんへでていって、おもわず、大(おお)きな声(こえ)で、
﹁このばかやろう。なぜ、名(な)をいわなかったんだ。こわい思(おも)いをさせやがって、ひどいやつだ。﹂
とどなりつけました。
そのあとで、二(ふた)人(り)は大(おお)わらいをしましたが、西(せい)洋(よう)の学(がく)問(もん)をしていた人(ひと)々(びと)は、いつも、こんな思(おも)いをくりかえしていたのです。まことに、あぶない世(よ)の中(なか)でした。それとどうじに、日(にっ)本(ぽん)の国(くに)も、ひじょうにあぶないせとぎわにたたされていました。
外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえという人(ひと)々(びと)は、ちょっとしたことがあると、すぐ外(がい)国(こく)人(じん)をきりころすようならんぼうをしました。生(なま)麦(むぎ)じけんもその一つで、これは尾(お)をひきました。イギリスは、つよい艦(かん)隊(たい)をおくって、幕(ばく)府(ふ)にたいしてへんじをもとめ、フランスもいっしょになって、おそろしいたいどで、幕(ばく)府(ふ)をせめたてました。
イギリスからの文(ぶん)書(しょ)を、諭(ゆき)吉(ち)はほんやくさせられましたが、イギリスがどんなにつよい決(けっ)心(しん)をもっているかがわかり、どうなることかと心(しん)配(ぱい)になりました。いつ、戦(せん)争(そう)になるかもしれないありさまでした。
けれども、幕(ばく)府(ふ)が、イギリスのいいぶんをきき入(い)れて、たくさんのお金(かね)をはらったので、さいわい戦(せん)争(そう)にはなりませんでした。でも、幕(ばく)府(ふ)のよわい外(がい)交(こう)をふんがいした地(ちほ)方(う)の藩(はん)では、外(がい)国(こく)の軍(ぐん)艦(かん)にいくさをしかけて、けっきょく、さんざんなめにあわされるようなじけんが、ひきつづいておこりました。
このようなさわがしさの中(なか)で、緒(おが)方(たこ)洪(うあ)庵(んせ)先(んせ)生(い)が、急(きゅ)病(うびょう)でなくなりました。それは、文(ぶん)久(きゅう)三︵一八六三︶年(ねん)六月(がつ)十(とお)日(か)のことでした。緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)は幕(ばく)府(ふ)のおかかえ医(いし)者(ゃ)となって、大(おお)阪(さか)から江(え)戸(ど)にきて、下(した)谷(や)にすんでいました。諭(ゆき)吉(ち)は、二、三日(にち)まえに先(せん)生(せい)をたずね、元(げん)気(き)な先(せん)生(せい)と、いろいろ話(はなし)をしてきたばかりでした。そのお通(つ)夜(や)には、緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)の教(おし)えをうけたものが、たくさんあつまってきました。その中(なか)に、村(むら)田(たぞ)蔵(うろ)六(く)︵のちの大(おお)村(むら)益(ます)次(じろ)郎(う)︶もいましたので、諭(ゆき)吉(ち)が、
﹁おい、村(むら)田(た)くん、いつ、長(ちょ)州(うしゅう)︵いまの山(やま)口(ぐち)県(けん)︶からかえってきたんだ。下(しも)関(のせき)では、たいへんなさわぎをおこしたようだな。じつにばかなことをしたもんだよ。あきれかえった話(はなし)じゃないか。﹂
とはなしかけますと、村(むら)田(た)は、目(め)にかどをたてて、いいました。
﹁なんだと。外(がい)国(こく)の軍(ぐん)艦(かん)をほうげきしたのがわるいというのか。﹂
﹁そうとも。まるできちがいざたじゃないか。﹂
﹁き、きちがいとはなんだ。けしからんことをいうな。長(ちょ)州(うしゅう)では、外(がい)国(こく)人(じん)をおっぱらうことに、藩(はん)のほうしんがきまっているんだ。あんな外(がい)国(こく)のやつらに、わがままをされてたまるものか。外(がい)国(こく)人(じん)はぜんぶおいはらうにかぎるよ。﹂
と、えらいけんまくです。これでは、まるで話(はなし)になりません。
諭(ゆき)吉(ち)は、村(むら)田(た)とはなすことをやめました。そうして、いっしょに西(せい)洋(よう)の学(がく)問(もん)をまなんだ村(むら)田(た)でさえ、このように外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえというありさまですから、いよいよ、自(じぶ)分(ん)のことばやおこないに気(き)をつけて、このあらしの時(じだ)代(い)を生(い)きていかなければならないと、かくごをしました。
︵国(こく)民(みん)のみんなが、世(せか)界(い)のようすをよくしり、日(にっ)本(ぽん)が、どんなに文(ぶん)明(めい)におくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしく力(ちから)づよい日(にっ)本(ぽん)をつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、国(こく)民(みん)が、もっとものしりにならなければならない。そうだ、国(こく)民(みん)を教(きょ)育(ういく)しなければだめだ。よし、わたしは、その教(きょ)育(うい)者(くしゃ)になろう。さいわい、こんどまた、アメリカへいってくることになった。いろいろと見(み)ききしてこよう。︶
諭(ゆき)吉(ち)は、アメリカに注(ちゅ)文(うもん)した軍(ぐん)艦(かん)を、ひきとりにいく幕(ばく)府(ふ)の使(しせ)節(つ)の一行(こう)にくわわって、二どめのアメリカの旅(たび)にでかけていきました。ときに、慶(けい)応(おう)三︵一八六七︶年(ねん)の正(しょ)月(うがつ)のことでした。
諭(ゆき)吉(ち)は、そのまえに、大(だい)小(しょう)の刀(かたな)一本(ぽん)ずつをのこして、あとはぜんぶ売(う)りはらってしまいました。
︵これからの世(よ)の中(なか)は刀(かたな)なんていらない。︶
とかんがえたからです。
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﹁先(せん)生(せい)っ、たいへんです。上(うえ)野(の)のほうがくで黒(くろ)いけむりがたちのぼっています。火(ひ)の手(て)も、ちらちらともえあがりました。﹂
かけこんできた生(せい)徒(と)の一(ひと)人(り)が、いきをはずませてしらせました。それまでしずかだった講(こう)堂(どう)が、きゅうにざわめいてきました。
ドカーン、ドドドーン。
はげしい大(たい)砲(ほう)の音(おと)が、それにわをかけました。
﹁あっ、また、大(たい)砲(ほう)だ。﹂
と、耳(みみ)に手(て)をやる生(せい)徒(と)もあれば、本(ほん)をおいて、いきなり、外(そと)へとびだそうとする生(せい)徒(と)もありました。
このとき、諭(ゆき)吉(ち)は、生(せい)徒(と)たちを講(こう)堂(どう)にあつめて、経(けい)済(ざい)学(がく)の講(こう)義(ぎ)をしているところでしたが、
﹁しょくん、おちつきたまえ。ここまで、たまはとんできはせん。﹂
と、一(ひと)こというと、あとはなにごともなかったように、講(こう)義(ぎ)をつづけていました。生(せい)徒(と)たちも、それにつりこまれて、いつのまにか、外(そと)のさわぎも、大(たい)砲(ほう)の音(おと)も気(き)にならず、講(こう)義(ぎ)に耳(みみ)をかたむけていました。そうして、やがて、時(じか)間(ん)となりました。
﹁さあ、やねの上(うえ)にあがって、上(うえ)野(の)のけむりでもみたまえ。ペンの力(ちから)は剣(けん)の力(ちから)よりもつよいということを、よくかみしめてね。﹂
諭(ゆき)吉(ち)は、講(こう)義(ぎ)をおわって、にっこりわらい、講(こう)堂(どう)からでていきました。生(せい)徒(と)たちは、
﹁わっ。﹂とばかり、かけだしました。
自(じぶ)分(ん)の部(へ)屋(や)へもどった諭(ゆき)吉(ち)は、たいへんまんぞくそうでした。生(せい)徒(と)たちが外(そと)の大(おお)さわぎの中(なか)で、ねっしんに講(こう)義(ぎ)をきいてくれたことが、うれしかったのです。それは、慶(けい)応(おう)四︵一八六八︶年(ねん)の五月(がつ)十五日(にち)のことでした。
この日(ひ)、上(うえ)野(の)では、江(え)戸(ど)へはいった官(かん)軍(ぐん)と彰(しょ)義(うぎ)隊(たい)とのあいだに戦(せん)争(そう)があり、そこから八キロメートルばかりはなれた慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)まで、大(たい)砲(ほう)の音(おと)がきこえてきました。生(せい)徒(と)たちは塾(じゅく)のやねの上(うえ)にあがって、しきりに上(うえ)野(の)のほうをみているようすですが、諭(ゆき)吉(ち)は、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)をこの新(しん)銭(せん)座(ざ)にうつしたことが、いかによかったかと、ひそかにかんがえるのでした。
諭(ゆき)吉(ち)は、そのまえの年(とし)の六月(がつ)にアメリカからかえってきましたが、そのかえりの船(ふね)の中(なか)で、幕(ばく)府(ふ)のわる口(くち)をいったというので、きんしん︵きまったすまいから、ある期(きか)間(ん)、外(がい)出(しゅつ)をきんじられること︶をめいじられました。家(いえ)の中(なか)ではなにをしてもよいが、役(やく)所(しょ)へでてきてはならないというのです。諭(ゆき)吉(ち)にとっては、かえって生(せい)徒(と)におしえるのにぐあいがよいくらいでした。
幕(ばく)府(ふ)は、その十月(がつ)に、政(せい)権(けん)︵政(せい)治(じ)をおこなうけんり︶を朝(ちょ)廷(うてい)にかえしました。源(みな)頼(もと)朝(のよりとも)が、鎌(かま)倉(くら)に幕(ばく)府(ふ)をひらいてからは、日(にっ)本(ぽん)の政(せい)治(じ)は武(ぶ)士(し)がおさめていて、天(てん)皇(のう)はただのかざりにすぎなかったのですが、このときから、天(てん)皇(のう)を上(かみ)にいただくあたらしい政(せい)府(ふ)が政(せい)治(じ)をとることになりました。
けれども、諭(ゆき)吉(ち)は、あたらしい政(せい)府(ふ)に不(ふあ)安(ん)をもっていました。なぜなら、朝(ちょ)廷(うてい)は、まえから、国(くに)をひらくことにはんたいしていたからです。もしも、そのあたらしい政(せい)府(ふ)が、外(がい)国(こく)をきらい、外(がい)国(こく)人(じん)をおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。外(がい)国(こく)と戦(せん)争(そう)をひきおこすようなことになり、よわくて小(ちい)さい日(にっ)本(ぽん)は、つよくて大(おお)きい外(がい)国(こく)に、うちまかされてしまうにちがいありません。
︵そうなったら、あの小(ちい)さい子(こ)どもたちがかわいそうだ。︶
諭(ゆき)吉(ち)は、庭(にわ)であそんでいるわが子(こ)の一(いち)太(たろ)郎(う)と捨(すて)次(じろ)郎(う)のすがたをみながら、かんがえこみました。
︵この子(こ)どもたちには、戦(せん)争(そう)というかなしいめにあわせたくない。日(にっ)本(ぽん)が、一日(にち)もはやく、平(へい)和(わ)なあかるい文(ぶん)明(めい)国(こく)になってくれるとよい。まあ、いまの大(おと)人(な)﹇#ルビの﹁おとな﹂は底本では﹁おな﹂﹈たちはだめだが、わかい人(ひと)々(びと)は、きっと、自(じぶ)分(ん)のこういう気(き)持(も)ちをわかってくれるにちがいない。よし、わたしは、わかい人(ひと)たちのために、あたらしい教(きょ)育(ういく)の仕(しご)事(と)をしよう。それには本(ほん)をたくさんかいて、西(せい)洋(よう)のようすをしってもらわなければならない。︶
このように決(けっ)心(しん)した諭(ゆき)吉(ち)は、まえよりも塾(じゅく)をさかんにしようとかんがえました。
ところが、塾(じゅく)のある鉄(てっ)砲(ぽう)洲(ず)の奥(おく)平(だい)家(らけ)のやしきは、外(がい)国(こく)人(じん)のすむところになるというので、幕(ばく)府(ふ)にとりあげられることになりました。そこで、諭(ゆき)吉(ち)は、芝(しば)の新(しん)銭(せん)座(ざ)に有(あり)馬(ま)というとのさまの土(と)地(ち)を買(か)って、塾(じゅく)をたてたのでした。
そのころ、幕(ばく)府(ふ)がたの勝(かつ)海(かい)舟(しゅう)と、朝(ちょ)廷(うてい)がたの西(さい)郷(ごう)吉(きち)之(のす)助(け)︵隆(たか)盛(もり)︶の話(はな)し合(あ)いによって、江(えど)戸(じょ)城(う)はぶじにあけわたされましたが、それにはんたいの人(ひと)々(びと)がかなりあって、彰(しょ)義(うぎ)隊(たい)と名(な)のり、上(うえ)野(の)の山(やま)にたてこもったりしていました。ですから、いまにも戦(せん)争(そう)がはじまりそうで、江(え)戸(ど)の市(しち)中(ゅう)はざわついていました。
こんなときに、ひろい土(と)地(ち)を買(か)い、大(おお)きな家(いえ)をたてようとするのですから、人(ひと)々(びと)はおどろいてしまいました。しかし、仕(しご)事(と)のないときですから、大(だい)工(く)たちはよろこんでやすいちんぎんではたらいてくれ、なかなかりっぱな塾(じゅく)ができあがりました。それに年(ねん)号(ごう)をとって、﹁慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)﹂と名(な)づけたのでした。
そうして、五月(がつ)十五日(にち)、上(うえ)野(の)では、官(かん)軍(ぐん)と彰(しょ)義(うぎ)隊(たい)のあいだに戦(せん)争(そう)がはじまり、彰(しょ)義(うぎ)隊(たい)は、まけてちりぢりばらばらになり、寛(かん)永(えい)寺(じ)もやけてしまいました。しかし、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)では、しずかに講(こう)義(ぎ)がおこなわれたのでした。諭(ゆき)吉(ち)の教(きょ)育(ういく)の仕(しご)事(と)は、こうして戦(せん)火(か)をくぐりぬけて、しだいにくりひろげられていくことになりました。
彰(しょ)義(うぎ)隊(たい)の負(ま)けいくさにおわったあと、幕(ばく)府(ふ)がわの人(ひと)たちは、東(とう)北(ほく)地(ちほ)方(う)にのがれ、二(にほ)本(んま)松(つ)や会(あい)津(づわ)若(かま)松(つ)や、北(ほっ)海(かい)道(どう)箱(はこ)館(だて)︵函(はこ)館(だて)︶の五(ごり)稜(ょう)郭(かく)などで、官(かん)軍(ぐん)にてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。幕(ばく)府(ふ)の海(かい)軍(ぐん)のせきにん者(しゃ)だった榎(えの)本(もと)武(たけ)揚(あき)も、この五(ごり)稜(ょう)郭(かく)でとらえられたのでした。
このように世(よ)の中(なか)がさわがしかったので、幕(ばく)府(ふ)の学(がっ)校(こう)はつぶれてしまっていましたし、あたらしい政(せい)府(ふ)は、まだ学(がっ)校(こう)をつくることまでには手(て)がまわりませんでした。慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)だけが、西(せい)洋(よう)のあたらしい学(がく)間(もん)をおしえていたわけです。そこで、生(せい)徒(と)の数(かず)も、二百人(にん)、三百人(にん)をかぞえるようになりました。
そのころのある日(ひ)のことでした。九(きゅ)州(うしゅう)から、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)にはいりたいと、はるばるやってきた青(せい)年(ねん)がありました。りっぱな身(み)なりからかんがえて、さむらいの子(こ)であることはまちがいありません。青(せい)年(ねん)は、ちょうどであった町(ちょ)人(うにん)ふうの男(おとこ)に道(みち)をたずねました。
﹁これこれ、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)へは、どういけばよいのか。﹂
きかれた男(おとこ)は、じつにていねいにおしえてくれました。おしえられたとおりにいくと、いどがあって、そのそばで、一(ひと)人(り)のおやじがまきわりをしていました。
﹁これこれ、おやじ、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)はここか。そうして入(い)り口(ぐち)はどこか。﹂
とたずねると、これまた、しんせつにおしえてくれました。
こうして、塾(じゅく)の中(なか)へはいってくると、さきほど、道(みち)をおしえてくれた町(ちょ)人(うにん)ふうの男(おとこ)が、塾(じゅ)頭(くとう)の小(おば)幡(たせ)先(んせ)生(い)で、まきわりをしていたおやじが、なんと福(ふく)沢(ざわ)先(せん)生(せい)ではありませんか。その青(せい)年(ねん)は、あなでもあればはいりたいほど、ひやあせをかきました。
慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)は、こんなふうに、民(みん)主(しゅ)的(てき)なふんいきをもっていました。そうして、明(めい)治(じ)四︵一八七一︶年(ねん)に、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)は、新(しん)銭(せん)座(ざ)から三(み)田(た)へうつりました。
諭(ゆき)吉(ち)は、三(み)田(た)に慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)をうつしたとき、自(じぶ)分(ん)のすむ家(いえ)もたてましたが、大(だい)工(く)にたのんで、家(いえ)のゆかをふつうよりたかくして、おし入(い)れの中(なか)からゆか下(した)へもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるい考(かんが)えをもつ人(ひと)が、西(せい)洋(よう)のあたらしい学(がく)問(もん)をしているゆうめいな人(ひと)をころすことがはやっていたからです。慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)をひらいた諭(ゆき)吉(ち)は、しだいにひょうばんのまとになってきたので、日(ひ)ごろから、けいかいをしていたわけでした。
そのまえの年(とし)の明(めい)治(じ)三︵一八七〇︶年(ねん)、諭(ゆき)吉(ち)は、いのちにかかわるような腸(ちょう)チフスにかかりました。まだすっかりなおりきらないからだで、東(とう)京(きょう)へお母(かあ)さんをよぶために、中(なか)津(つ)へでかけました。中(なか)津(つ)は、ふるさとでもあるし、しんるいやしっている人(ひと)もおおいので、気(き)をゆるしていました。ところが、この町(まち)でも、諭(ゆき)吉(ち)はねらわれていたのです。
諭(ゆき)吉(ち)のまたいとこに、増(ます)田(だそ)宋(うた)太(ろ)郎(う)という青(せい)年(ねん)がありました。十三、四さいばかり年(とし)が下(した)で、家(いえ)もちかく、朝(あさ)ばん、にこにこしてやってくるので、諭(ゆき)吉(ち)は、
﹁宋(そう)さん、宋(そう)さん。﹂
とよんで、したしくつきあっていました。この宋(そう)さんが、じつは、諭(ゆき)吉(ち)のようすをさぐるためにやってきていたのでした。
あるばんのこと、諭(ゆき)吉(ち)のところにしりあいのおきゃくがあって、お酒(さけ)をのみながら、二(ふた)人(り)はさかんにはなしあっていました。そのとき、そっと庭(にわ)にしのびこんで、このようすをうかがっている青(せい)年(ねん)がありました。青(せい)年(ねん)は、おきゃくがはやくかえっていって、諭(ゆき)吉(ち)がねるのをまっていたのですが、話(はなし)はなかなかおわりそうになく、十二時(じ)がすぎ、一時(じ)がすぎても、おきゃくはかえりそうにもありません。
青(せい)年(ねん)は、とうとうあきらめて、たちさっていきましたが、これこそ、諭(ゆき)吉(ち)のねこみをおそってころそうとたくらんでいた宋(そう)太(たろ)郎(う)だったのです。諭(ゆき)吉(ち)は、それをこのときにはしらなかったのですが、四、五年(ねん)たってからきかされて、びっくりしました。自(じぶ)分(ん)の身(み)のまわりに、いのちをねらうものがいたのでした。
そればかりではありません。家(いえ)の中(なか)のかたづけをおわって、諭(ゆき)吉(ち)は、お母(かあ)さんとめいとをつれて、東(とう)京(きよう)へかえることになり、船(ふね)にのるため、中(なか)津(つ)から四キロメートルほど西(にし)の鵜(う)の島(しま)までいって、宿(やど)屋(や)にとまりました。宿(やど)屋(や)のわかい主(しゅ)人(じん)は、これをみると、使(つか)いのものをこっそりと中(なか)津(つ)へはしらせ、
﹁今(こん)夜(や)こそ、福(ふく)沢(ざわ)をころすのにもってこいの機(きか)会(い)だ。﹂
としらせました。
ところが、この知(し)らせをうけて、中(なか)津(つ)では、だれが諭(ゆき)吉(ち)をころしにいくかで、あらそいがおこり、ぎろんをしているうちに、夜(よ)があけてしまいました。これで諭(ゆき)吉(ち)は、ぶじに船(ふね)にのり、いのちびろいをしたわけですが、神(こう)戸(べ)の宿(やど)屋(や)についてみると、東(とう)京(きょう)の塾(じゅ)頭(くとう)の小(おば)幡(た)から、手(てが)紙(み)がきていました。
﹁きくところによりますと、ちかごろは大(おお)阪(さか)や京(きょ)都(うと)もおだやかでなく、先(せん)生(せい)をつけねらっているものがあるそうですから、神(こう)戸(べ)についたら、なるべく人(ひと)にしられないように気(き)をつけて、すぐ東(とう)京(きょう)へかえってきてください。﹂
諭(ゆき)吉(ち)は、お母(かあ)さんに、京(きょ)都(うと)や大(おお)阪(さか)などを、ゆっくり見(けん)物(ぶつ)させて、よろこばせてあげようとおもっていただけに、がっかりしました。でも、お母(かあ)さんに、ほんとうのことをはなしたら心(しん)配(ぱい)するので、きゅうな用(よう)事(じ)ができたことにして、見(けん)物(ぶつ)をやめ、いそいで東(とう)京(きょう)にかえりました。
諭(ゆき)吉(ち)がねらわれたのは、このときだけではありません。それから二年(ねん)ほどたって、諭(ゆき)吉(ち)が関(かん)西(さい)にでかけたとき、宋(そう)太(たろ)郎(う)は大(おお)阪(さか)にきていて、ひそかに諭(ゆき)吉(ち)をころそうとするけいかくをたてていました。ところが、宋(そう)太(たろ)郎(う)は、ふるさとのお母(かあ)さんがおもい病(びょ)気(うき)になったので、きゅうに中(なか)津(つ)へかえらなければなりませんでした。そこで、なかまの朝(あさ)吹(ぶき)英(えい)二(じ)に、この仕(しご)事(と)をたのんでかえりました。
朝(あさ)吹(ぶき)は、ちょうど諭(ゆき)吉(ち)がとまった、諭(ゆき)吉(ち)のいとこの医(いし)者(ゃ)の家(いえ)で書(しょ)生(せい)をしていました。ですから、諭(ゆき)吉(ち)は、大(おお)阪(さか)にいるあいだは、この朝(あさ)吹(ぶき)を自(じぶ)分(ん)のおともにしていたのです。
︵これはうまくいくぞ。︶
と、朝(あさ)吹(ぶき)は、すきをうかがって、あんさつしようとしていました。
たまたま、諭(ゆき)吉(ち)は、わかいころせわになった緒(おが)方(たせ)先(んせ)生(い)の家(いえ)によばれて、朝(あさ)吹(ぶき)をつれていきました。先(せん)生(せい)はもうなくなられていたわけですが、先(せん)生(せい)のおくさまと、なつかしい思(おも)い出(でば)話(なし)をしているうちに、夜(よ)もふけて十時(じ)ごろになりました。おくさまのすすめで、諭(ゆき)吉(ち)はかごにのり、そのわきに朝(あさ)吹(ぶき)がついていました。もう人(ひと)どおりはなく、さびしい夜(よ)ふけの町(まち)に、かご屋(や)の足(あし)音(おと)ばかりが音(おと)をたてていました。
︵いまだ。︶
と、朝(あさ)吹(ぶき)は刀(かたな)に手(て)をかけて、すっと、かごにしのびよりました。そのとたんに、
ドドドド、ドンドン。
と、たいこがなりました。ふいの音(おと)に、朝(あさ)吹(ぶき)はびっくりしてしまい、手(て)をひっこめてしまいました。それは、ちかくのよせ︵落(らく)語(ご)や講(こう)談(だん)などのかかる小(こ)屋(や)︶のたいこの音(おと)で、かえりの人(ひと)がぞろぞろでてきたので、朝(あさ)吹(ぶき)はもうどうすることもできませんでした。諭(ゆき)吉(ち)は、なにもしらず、家(いえ)へかえることができました。
こんなことがあってから、朝(あさ)吹(ぶき)は、諭(ゆき)吉(ち)の話(はなし)をいろいろときいて、ときにはぎろんをしましたが、だんだん、この人(ひと)はほんとうに日(にっ)本(ぽん)のためをおもっている人(ひと)だ、とかんがえるようになりました。そうして、自(じぶ)分(ん)のかんがえていたこと、やろうとしていたことが、まちがっているようにおもわれたので、諭(ゆき)吉(ち)にすっかりはなしてあやまり、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)にはいりました。
これをきいて、宋(そう)太(たろ)郎(う)は、
﹁朝(あさ)吹(ぶき)はけしからんやつだ。﹂
と、はらをたてましたが、その宋(そう)太(たろ)郎(う)も、自(じぶ)分(ん)のわるかったことをさとって、諭(ゆき)吉(ち)にあやまり、やがて慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)にはいってきました。
﹁自(じぶ)分(ん)のわるかったことに気(き)がついて、あらためるというのは、りっぱなことだ。﹂
と、諭(ゆき)吉(ち)は、二(ふた)人(り)をほめました。
このように諭(ゆき)吉(ち)は、一どは自(じぶ)分(ん)をにくんで、ころそうとまでした人(にん)間(げん)でも、わるいとさとってあやまってくれば、すなおにゆるしてやり、勉(べん)強(きょう)させたり、身(み)のうえのこまかいめんどうもみてやったのでした。そうして宋(そう)太(たろ)郎(う)は、のちに西(せい)南(なん)の役(えき)で西(さい)郷(ごう)隆(たか)盛(もり)の部(ぶ)下(か)となり、城(しろ)山(やま)で死(し)んだのですが、朝(あさ)吹(ぶき)は慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)をさかんにするうえで、なくてはならぬ人(ひと)になりました。
諭(ゆき)吉(ち)は、ただしくないこと、ひきょうなこと、いくじなし、男(おとこ)らしくないことは、だいきらいでした。ですから、そういうことをみたりきいたりすると、かんしゃく玉(だま)をばくはつさせて、じっとしていることができませんでした。仙(せん)台(だい)の洋(よう)学(がく)者(しゃ)大(おお)童(わら)信(しん)太(だゆ)夫(う)をたすけだしたり、千(ち)葉(ば)の長(なが)沼(ぬま)村(むら)の人(ひと)々(びと)のために、力(ちから)をつくしたこともありますが、ここでは、その一つのれいとして、榎(えの)本(もと)武(たけ)揚(あき)をすくった話(はなし)をとりあげておきます。
榎(えの)本(もと)武(たけ)揚(あき)が、北(ほっ)海(かい)道(どう)の五(ごり)稜(ょう)郭(かく)にたてこもって、あたらしい政(せい)府(ふ)にてむかい、とらえられたことは、まえにかきましたが、そののち、武(たけ)揚(あき)は東(とう)京(きよう)におくられ、とりしらべをうけてから、ろうやに入れられていました。
ところが、武(たけ)揚(あき)の家(いえ)にはなんのたよりもなく、ゆくえさえはっきりしらされていませんでしたから、年(とし)のいったお母(かあ)さんや、ねえさんやおくさんは、たいへん心(しん)配(ぱい)していました。
そこで、武(たけ)揚(あき)の妹(いもうと)のおっとである江(えづ)連(れ)という人(ひと)から、諭(ゆき)吉(ち)のところへ手(てが)紙(み)でといあわせてきました。江(えづ)連(れ)は幕(ばく)府(ふ)の外(がい)国(こく)奉(ぶぎ)行(ょう)をしていたので、諭(ゆき)吉(ち)とはしりあったなかでした。江(えづ)連(れ)は当(とう)時(じ)、榎(えの)本(もと)の家(かぞ)族(く)といっしょに静(しず)岡(おか)にすんでいたのですが、手(てが)紙(み)には、つぎのようにかいてありました。
﹁榎(えの)本(もと)はどうしているのでしょうか。江(え)戸(ど)にきているといううわさは風(かぜ)のたよりにきいたのですが、それもたしかめることができません。母(はは)やきょうだいが心(しん)配(ぱい)していますので、江(え)戸(ど)のしんるいにといあわせましたが、だれも、自(じぶ)分(ん)が政(せい)府(ふ)ににらまれるのをおそれてか、ただの一どもへんじをくれません。あなたにきいたら、なにかようすがわかるだろうと、かんがえて、お手(てが)紙(み)をさしあげるわけです。ごぞんじのことがあったら、どうぞおしらせください。﹂
よみおわった諭(ゆき)吉(ち)は、きのどくだな、とおもいました。ことに、年(とし)とったお母(かあ)さんがかわいそうでなりませんでした。
もともと、諭(ゆき)吉(ち)は、榎(えの)本(もと)武(たけ)揚(あき)という人(にん)間(げん)をしってはいましたが、ふかいつきあいをしたことはありません。ですから、武(たけ)揚(あき)がろうやに入(い)れられているといううわさはきいたことがありますが、べつに、それいじょうは気(き)にもとめていなかったのです。しかし、江(えづ)連(れ)の手(てが)紙(み)をみて、しんるいのものたちが、政(せい)府(ふ)ににらまれるのをおそれて、へんじをよこさないということをしって、そのひきょうなたいどにふんがいしました。
︵なんというはくじょうな、ひれつなやつらだ。幕(ばく)府(ふ)の人(にん)間(げん)は、みな、これだからいけない。よし、おれが一(ひと)人(り)でひきうけてやる。︶
こうおもいたった諭(ゆき)吉(ち)は、すぐに、あちらこちらに手(て)をまわしてしらべました。さいわい、武(たけ)揚(あき)はまだころされず、ろうやにとらわれの身(み)となっていました。
﹁ころされるかどうか、そこのところはどうもわかりませんが、とにかく、ただいまのところは、病(びょ)気(うき)もせず、元(げん)気(き)でいます。﹂
としらせてやりました。すると、江(えづ)連(れ)から、
﹁母(はは)と姉(あね)が、東(とう)京(きょう)へいきたいといいますが、いってもよいでしょうか。﹂
といってきました。
﹁わたしは、政(せい)府(ふ)からにらまれてもかまわないから、どうぞ、東(とう)京(きょう)へでていらっしゃい。﹂
諭(ゆき)吉(ち)が、こうへんじをかいたので、二(ふた)人(り)はよろこびいさんで、諭(ゆき)吉(ち)のところにやってきました。そうして、武(たけ)揚(あき)のようすをたずねたり、ひつようなものをさし入(い)れたりしているうちに、武(たけ)揚(あき)のお母(かあ)さんは、一どでいいから、むすこにあいたいといいだしました。
諭(ゆき)吉(ち)は、なんとかして、あわせてやりたいとおもいましたが、どうしたら、あわせられるのか、それがわかりません。あれやこれやとかんがえたすえ、武(たけ)揚(あき)のお母(かあ)さんにあいがん書(しょ)というものをかいてださせることをおもいつきました。その文(ぶん)章(しょう)は、お母(かあ)さんがかいたもののようにして、諭(ゆき)吉(ち)がかいてやりました。
﹁せがれの釜(かま)次(じろ)郎(う)︵武(たけ)揚(あき)のこと︶が、朝(ちょ)廷(うてい)のお心(こころ)にそむきまして、つみをおかしたことは、まことにおそれおおいことでございますが、釜(かま)次(じろ)郎(う)はひじょうな親(おや)思(おも)いもので、父(ちち)が病(びょ)気(うき)のときはよくかんびょうしてくれました。この親(おや)思(おも)いものが、あんなに大(おお)きなつみをおかしましたのは、あくまのしわざでございましょうか、いまさらなげきかなしんでも、もはや、とりかえしのつくことではございません。死(しけ)刑(い)になりましても、けっしておうらみはいたしません。けれども、わたくしのいのちも、もうながくはございません。できることなら、せがれの身(み)がわりにしていただきたいところですが、せめて、一ど、あわせてはいただけないでしょうか。﹂
こんなことを、こまごまとかいて、それをねえさんが清(せい)書(しょ)をし、お母(かあ)さんが、つえをついて、とぼとぼと役(やく)所(しょ)まであるいていってさしだしました。これをよんだ役(やく)人(にん)は、たいへん心(こころ)をうごかされて、すぐに面(めん)会(かい)をゆるしてくれました。
さあ、そうなると、諭(ゆき)吉(ち)は、なんとかして武(たけ)揚(あき)のいのちをたすけてやりたいとおもいました。すると、たいへんつごうのよいことがおこりました。
ある日(ひ)、政(せい)府(ふ)の役(やく)人(にん)が、オランダ語(ご)のノートをもってきて、ぜひ、日(にほ)本(ん)語(ご)にほんやくしてほしいとたのみました。諭(ゆき)吉(ち)は、それをめくってよんでいくうちに、
﹁これは、しめたぞ。﹂
とよろこびました。このノートは、武(たけ)揚(あき)が、オランダへ学(がく)問(もん)をしにいったとき、勉(べん)強(きょう)した航(こう)海(かい)術(じゅつ)の講(こう)義(ぎ)をうつしたものでした。武(たけ)揚(あき)は五(ごり)稜(ょう)郭(かく)にたてこもったときにも、これをだいじにもっていましたが、いよいよこうさんしたとき、
﹁国(こっ)家(か)のために役(やく)だたせてください。﹂
という手(てが)紙(み)をそえて、官(かん)軍(ぐん)の参(さん)謀(ぼう)黒(くろ)田(だき)清(よた)隆(か)におくったのでした。諭(ゆき)吉(ち)は、そのノートだとわかりましたので、これをうまくつかって、武(たけ)揚(あき)をたすけようとおもいついたのです。
そこで、諭(ゆき)吉(ち)は、はじめのほうだけすこしほんやくして、
﹁これは、航(こう)海(かい)になくてはならぬりっぱなものです。しかし、ざんねんなことに、これは講(こう)義(ぎ)をきいてかいたものですから、その本(ほん)人(にん)でないと、わからないところがあります。本(ほん)人(にん)はだれだかしりませんが、これがぜんぶほんやくできたら、わが国(くに)にとってたいへん役(やく)にたつものとおもわれます。﹂
諭(ゆき)吉(ち)は、その本(ほん)人(にん)が武(たけ)揚(あき)であることを、ちゃんとしってはいましたが、わざとしらないふりをして、そのノートを政(せい)府(ふ)にかえしました。そうすれば、武(たけ)揚(あき)のいのちがたすかるかもしれないとかんがえたからです。
それとどうじに諭(ゆき)吉(ち)は、黒(くろ)田(だき)清(よた)隆(か)とはしりあったなかでしたから、
﹁どうでしょうか。榎(えの)本(もと)という男(おとこ)は、たいへんなさわぎをやったのだから、死(しけ)刑(い)になっても、しかたがないのだけれども、一どいのちをとれば、あとからどうすることもできない。人(にん)間(げん)のいのちというものは、なによりもたいせつなものですから、いのちだけはたすけてやったほうが、よいのじゃないですか。﹂
ともちかけました。
﹁わしも、榎(えの)本(もと)という男(おとこ)のえらいところはしっている。だが、ろうやに入(い)れられて、生(い)きながらえている気(き)持(も)ちが気(き)にくわない。どうして、いさぎよく死(し)なぬのだろうか。﹂
﹁とんでもない。武(たけ)揚(あき)が死(し)んでしまえば、それっきりです。しかし、あれほどの人(にん)間(げん)を生(い)かしておけば、日(にっ)本(ぽん)の国(くに)のために、どれほど役(やく)にたつかしれません。﹂
﹁なるほど、きみのいうことも、一つのりくつだな。﹂
黒(くろ)田(だ)は、諭(ゆき)吉(ち)の話(はなし)に心(こころ)をうごかされ、武(たけ)揚(あき)をたすけるために、力(ちから)になってくれることをやくそくしてくれました。
こうして、明(めい)治(じ)五︵一八七二︶年(ねん)、武(たけ)揚(あき)は、ゆるされてろうやからでてきました。けれども、そのお母(かあ)さんは、病(びょ)気(うき)ですでになくなっていました。武(たけ)揚(あき)は、その後(ご)、公(こう)使(し)や大(だい)臣(じん)になって、日(にっ)本(ぽん)の国(くに)に役(やく)だつ人(ひと)になりましたが、その武(たけ)揚(あき)をたすけだしたのは、諭(ゆき)吉(ち)その人(ひと)でした。
諭(ゆき)吉(ち)は、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)であたらしい教(きょ)育(ういく)をし、﹁文(もん)部(ぶし)省(ょう)は竹(たけ)橋(ばし)にあり、文(もん)部(ぶだ)大(いじ)臣(ん)は三(み)田(た)にいる。﹂と、せけんでいわれたほどですが、それとどうじに、出(しゅ)版(っぱん)に力(ちから)を入(い)れました。本(ほん)をだして、一(ひと)人(り)でもおおくの人(ひと)に、自(じぶ)分(ん)の考(かんが)えをわかってもらい、西(せい)洋(よう)のすすんだ文(ぶん)明(めい)をとり入(い)れてもらいたいと、いっしょうけんめいにげんこうをかきました。そうして出(しゅ)版(っぱ)社(んしゃ)にまかせておいたのでは、そのいいなりのお礼(れい)しかもらえないことがわかりましたので、自(じぶ)分(ん)で出(しゅ)版(っぱ)社(んしゃ)をつくりました。
その出(しゅ)版(っぱ)社(んしゃ)は慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)のしき地(ち)の中(なか)にたてて、主(しゅ)任(にん)には、いつか大(おお)阪(さか)で諭(ゆき)吉(ち)をねらった朝(あさ)吹(ぶき)英(えい)二(じ)をあて、職(しょ)工(っこう)をたくさんやとい入(い)れ、製(せい)本(ほん)所(じょ)もつくりました。諭(ゆき)吉(ち)のかいた本(ほん)ばかりでなく、すぐれたものはどんどん出(しゅ)版(っぱん)しました。
諭(ゆき)吉(ち)が本(ほん)をかくのは、日(にほ)本(んじ)人(ん)の考(かんが)えかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい文(ぶん)章(しょう)をかくようにどりょくしました。そうしてできあがった文(ぶん)章(しょう)は、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。
諭(ゆき)吉(ち)のかいた本(ほん)はたくさんありますが、その中(なか)でゆうめいなのは、﹁西(せい)洋(よう)事(じじ)情(ょう)﹂﹁世(せか)界(いく)国(にづ)尽(くし)﹂﹁学(がく)問(もん)のすすめ﹂などです。これらの本(ほん)は、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、人(ひと)々(びと)によまれました。
ことに大(おお)きなえいきょうをあたえたのは、
﹁天(てん)は人(ひと)の上(うえ)に人(ひと)をつくらず、人(ひと)の下(した)に人(ひと)をつくらずといえり……。﹂
ということばではじまる﹁学(がく)問(もん)のすすめ﹂でした。
この本(ほん)で、諭(ゆき)吉(ち)は、人(にん)間(げん)はだれもがびょうどうでなければならないことを、はっきりとかきました。地(ち)位(い)とか家(いえ)がらとか、お金(かね)のあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、人(にん)間(げん)としてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは学(がく)問(もん)をしたか、しないかのちがいであるから、だれでも学(がく)問(もん)をするようにどりょくしようではないか、というのでした。
その学(がく)問(もん)というのは、ただむずかしい文(も)字(じ)をおぼえたり、わかりにくいふるくさい文(ぶん)章(しょう)をよんだり、和(わ)歌(か)をよんだり、詩(し)をつくったりするようなことではなく、﹁人(にん)間(げん)ふつう日(にち)用(よう)にちかき実(じつ)学(がく)﹂だといいました。そうでない学(がく)問(もん)は、なぐさみの学(がく)問(もん)にすぎないというわけでした。
近(きん)代(だい)的(てき)な考(かんが)えかたを、そのものずばりにはっきりいったので、ふるい考(かんが)えかたの人(ひと)々(びと)は、まっかになっておこりました。しかし、それらの人(ひと)々(びと)の中(なか)にも、これをよんでいくうちに、諭(ゆき)吉(ち)のかたよらない考(かんが)えかたや、ただしい意(いけ)見(ん)に感(かん)心(しん)してくるものもでてきました。
あたらしい政(せい)府(ふ)も、いままでの外(がい)国(こく)ぎらいをやめて、諭(ゆき)吉(ち)の﹁西(せい)洋(よう)事(じじ)情(ょう)﹂をさんこうにして、アメリカやヨーロッパの文(ぶん)明(めい)をとり入(い)れて、あたらしい政(せい)治(じ)をおこなうようになりました。
明(めい)治(じ)四︵一八七一︶年(ねん)には、いままでの藩(はん)をやめて、あたらしく県(けん)をおくことになりました。とのさまも、政(せい)府(ふ)の役(やく)人(にん)とおなじになったわけです。そうして、諭(ゆき)吉(ち)にたいしては、役(やく)人(にん)になって、政(せい)府(ふ)の仕(しご)事(と)をやってもらいたいと、しきりにたのんできました。諭(ゆき)吉(ち)は、病(びょ)気(うき)といって、ことわりつづけました。
神(かん)田(だた)孝(かひ)平(ら)・柳(やな)川(がわ)春(しゅ)三(んさん)は、諭(ゆき)吉(ち)とおなじ洋(よう)学(がく)者(しゃ)でしたが、政(せい)府(ふ)からたのまれて、役(やく)人(にん)になっていました。その神(かん)田(だた)孝(かひ)平(ら)が、ある日(ひ)、諭(ゆき)吉(ち)をたずねてきて、
﹁どうだ、福(ふく)沢(ざわ)、もう一どかんがえなおして役(やく)人(にん)になってくれないか。そうすれば、ぼくと柳(やな)川(がわ)は、とてもたすかるんだ。幕(ばく)府(ふ)とちがって、すぐれたものはどんどん出(しゅ)世(っせ)もできるし、政(せい)府(ふ)の身(みぶ)分(ん)のたかい人(ひと)も、きみにぜひきてほしいといっているのだ。﹂
と、ねっしんにすすめました。
﹁いや、わたしはごめんだね。役(やく)人(にん)にはなりたくないし、役(やく)人(にん)で出(しゅ)世(っせ)したいなど、一どもかんがえたことはない。わたしは平(へい)民(みん)、ただの国(こく)民(みん)でいいのだ。﹂
と、諭(ゆき)吉(ち)は、きっぱりとこたえました。
﹁どうして、きみは役(やく)人(にん)をきらうのかね。﹂
﹁そうだね。まず第(だい)一に気(き)にいらないのは、役(やく)人(にん)がからいばりをするからだ。
第(だい)二に、きみのまえではいいにくいことだが、役(やく)人(にん)ぜんたいが下(げひ)品(ん)なことだ。
第(だい)三には、幕(ばく)府(ふ)にちゅうぎそうな顔(かお)をしていたものが、幕(ばく)府(ふ)がつぶれると、すぐさまあたらしい政(せい)府(ふ)のほうへついて、すこしでもよい地(ち)位(い)をえようと血(ち)まなこになっていることだ。そうして地(ち)位(い)があがると、いばりちらす。そこのところが気(き)にくわない。
第(だい)四には、国(こく)民(みん)だ。士(しぞ)族(く)はもちろん、ひゃくしょうや町(ちょ)人(うにん)の子(こ)どもでも、すこしばかり文(も)字(じ)がわかるやつは、みんな役(やく)人(にん)になりたがっている。役(やく)人(にん)になれぬまでも、政(せい)府(ふ)にちかづいていって、なにか金(かね)もうけをしようとたくらんでいる。そうして、せっかくあたらしい世(よ)の中(なか)になったのに、国(こく)民(みん)は役(やく)人(にん)にへいこらしている。しっかりとひとりだちをして、自(じぶ)分(ん)をたっとぶという精(せい)神(しん)がない。これでは、日(にっ)本(ぽん)はひらけない。
わたしは、役(やく)人(にん)にならないで、ほんとうに自(じゆ)由(う)で、ほんとうのひとりだちの生(せい)活(かつ)とは、こういうものだと、せけんの人(ひと)々(びと)に、ひろくみせてやりたいとおもうのだ。﹂
﹁いやに、役(やく)人(にん)をやっつけるじゃないか。まるで、ぼくに役(やく)人(にん)をやめさせようとしているみたいだ。﹂
﹁そんなことはない。きみは、それでいいんだ。きみの考(かんが)えどおり役(やく)人(にん)になったんだからね。自(じぶ)分(ん)の考(かんが)えどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうに男(おとこ)らしい人(にん)間(げん)なんだ。わたしは、役(やく)人(にん)がきらいだから、役(やく)人(にん)にはならない。きみが役(やく)人(にん)になったのを、わたしがさんせいするように、きみは、わたしが役(やく)人(にん)にならないのをみとめてくれなくっちゃ、いけない。﹂
﹁なるほど、きみのりくつにあっては、まけだ。﹂
神(かん)田(だ)は、あきらめて、わらいながらかえっていきました。
こういった諭(ゆき)吉(ち)ですから、ある人(ひと)が、諭(ゆき)吉(ち)のてがらをたたえて、政(せい)府(ふ)がひょうしょうしなければならないといいますと、諭(ゆき)吉(ち)は、
﹁とんでもない。わたしは、自(じぶ)分(ん)がすきだから、塾(じゅく)をひらいたり、本(ほん)をかいたりしてきたわけだ。それをほめるとか、むくいるとかいうのは、おかしい。とうふ屋(や)がとうふをつくり、車(くる)屋(まや)が車(くるま)をひくのと、おなじことではないか。わたしをひょうしょうするというのなら、そのまえに、となりのとうふ屋(や)からひょうしょうしてもらいたいものだね。﹂
と、いかにも平(へい)民(みん)らしい答(こた)えかたをしました。
諭(ゆき)吉(ち)は、このように役(やく)人(にん)にはならず、せけんのいっぱんの人(ひと)々(びと)とともに生(い)きながら、教(きょ)育(うい)者(くしゃ)として、また本(ほん)をかいて、自(じゆ)由(う)と民(みん)主(しゅ)主(しゅ)義(ぎ)の光(ひかり)をたかくかかげて、どうどうとすすんでいきました。西(せい)南(なん)の役(えき)もおわった明(めい)治(じ)十二︵一八七九︶年(ねん)の七月(がつ)には、国(こっ)会(かい)論(ろん)をかきあげて、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)の出(しゅ)身(っし)者(んしゃ)がへんしゅうしている報(ほう)知(ちし)新(んぶ)聞(ん)に、社(しゃ)説(せつ)として一週(しゅ)間(うかん)ほど、毎(まい)日(にち)はっぴょうしました。
福(ふく)沢(ざわ)諭(ゆき)吉(ち)の名(な)まえはださないで、文(ぶん)章(しょう)も諭(ゆき)吉(ち)がかいたのだと、わからないようにくふうしてのせました。これはたいへんなひょうばんになって、国(こっ)会(かい)をひらかなければならないというぎろんが、ひじょうにたかまってきました。
そのため、政(せい)府(ふ)も、明(めい)治(じ)十四︵一八八一︶年(ねん)に、国(こっ)会(かい)を明(めい)治(じ)二十三︵一八九〇︶年(ねん)にいよいよひらくというやくそくを、しなければならなくなったほどでした。
諭(ゆき)吉(ち)は、さらに明(めい)治(じ)十五︵一八八二︶年(ねん)に、﹁時(じじ)事(しん)新(ぽ)報(う)﹂という新(しん)聞(ぶん)を発(はっ)行(こう)し、政(せい)治(じ)・教(きょ)育(ういく)・外(がい)交(こう)・軍(ぐん)事(じ)・婦(ふじ)人(ん)もんだいなどについて、論(ろん)文(ぶん)をのせました。
﹁ああ、また、しょうじをやぶったな。なかなか元(げん)気(き)があって、見(み)こみがあるぞ。﹂
﹁まあ、元(げん)気(き)があってよいなんておっしゃって。女(おんな)の子(こ)ですから、もうすこし、おとなしくしてくれるといいんですが……。﹂
﹁いやいや、女(おんな)の子(こ)だって、元(げん)気(き)があるほうがいいよ。﹂
諭(ゆき)吉(ち)は、自(じぶ)分(ん)のむすめが、しょうじをやぶるのをながめながら、おくさんと、こんな話(はなし)をかわしながら、よろこんでいました。ふつうのうちのお父(とう)さんだったら、子(こ)どもがしょうじをやぶったり、いたずらをしたりしたら、たいていは大(おお)きな声(こえ)でしかるものですが、諭(ゆき)吉(ち)はちがっていました。
明(めい)治(じ)十六︵一八八三︶年(ねん)、諭(ゆき)吉(ち)は五十さいになっていましたが、この年(とし)の夏(なつ)、四男(なん)の大(だい)四(しろ)郎(う)が生(う)まれたので、諭(ゆき)吉(ち)は四男(なん)五女(じょ)、あわせて九人(にん)という、おおぜいの子(こ)だからにめぐまれました。その子(こ)どもたちを、わけへだてなく、かわいがったのはいうまでもありません。
子(こ)どもたちは自(じゆ)由(う)でかっぱつであったほうがいい、と諭(ゆき)吉(ち)はかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるように気(き)をつけました。
ですから、家(いえ)の中(なか)で、子(こ)どもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。勉(べん)強(きょう)よりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と諭(ゆき)吉(ち)はかんがえていたからです。そこで、子(こ)どもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて勉(べん)強(きょう)をさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつも気(き)をつけました。したがって、福(ふく)沢(ざわ)家(け)では、
﹁きょうは、おとなしくよく勉(べん)強(きょう)したね。﹂
などといって、ほめられることはありませんでした。それよりも、小(ちい)さな子(こ)どもが、
﹁きょうは、遠(えん)足(そく)があって、とてもとおかったけれど、がんばってあるいて、先(せん)生(せい)にほめられました。﹂
とか、その上(うえ)の子(こ)が、
﹁きょうは、たいそうがあって、走(はし)りきょうそうで一ばんになりました。﹂
とかいうと、
﹁それはえらかったね。では、ごほうびをあげよう。﹂
こういったちょうしで、勉(べん)強(きょう)よりも、うんどうができたほうが、ほめられるのでした。
それから、家(いえ)の中(なか)では、ひみつなことはいっさいないということにしていました。なんでも、ざっくばらんにはなしあうことにしていました。ですから、諭(ゆき)吉(ち)が子(こ)どものわるいところをとがめると、子(こ)どものほうも、諭(ゆき)吉(ち)のわるいところをいうというありさまで、ほんとうにあかるい家(かて)庭(い)でした。
そのころ、しつけのきびしい家(いえ)では、主(しゅ)人(じん)が外(がい)出(しゅつ)するときは、家(いえ)じゅうのものがげんかんにおくってでて、手(て)をついておじぎをしたり、かえってきたときには、また、げんかんにでむかえるというのがならわしでしたが、諭(ゆき)吉(ち)は、けっして、そんなことはやらせませんでした。諭(ゆき)吉(ち)は外(がい)出(しゅつ)するといっても、げんかんからでるとはきまっていません。台(だい)所(どころ)からさっさとでていくことだってありました。かえるときも、そのとおりで、そのときの足(あし)のむいたほうからでていったり、はいったりしていました。
あるとき、出(で)入(い)りの商(しょ)人(うにん)がきて、いいました。
﹁先(せん)生(せい)、わたしのうちには、また女(おんな)の子(こ)が生(う)まれました。こんどこそ、男(おとこ)の子(こ)が生(う)まれてほしいとおもっていましたので、がっかりしました。﹂
これをきいた諭(ゆき)吉(ち)は、
﹁女(おんな)の子(こ)で、どうしてわるいのかね。じょうぶでさえあれば、いいじゃないか。せけんでは、男(おとこ)の子(こ)が生(う)まれると、﹃たいそうめでたい。﹄といい、﹃女(おんな)の子(こ)であってもじょうぶなら、まあまあめでたい。﹄などといっているが、わたしは、そんなつもりでいっているのではない。男(おとこ)の子(こ)と女(おんな)の子(こ)のちがいがあろうわけがない。そこにかるいおもいはないはずだ。わたしは、九人(にん)の子(こ)がみんな女(おんな)の子(こ)だって、すこしもざんねんとはおもわないね。ただ、男(おとこ)の子(こ)が四人(にん)、女(おんな)の子(こ)が五人(にん)というふうに、半(はん)分(ぶん)ずつで、いいあんばいだと、おもうだけだ。女(おんな)の子(こ)が生(う)まれて、がっかりすることなんてないな。﹂
﹁先(せん)生(せい)のお話(はなし)をおききしていましたら、なるほど、女(おんな)の子(こ)でもわるくないという気(き)がしてきました。じつは、家(かな)内(い)が、女(おんな)の子(こ)が生(う)まれたというんで、わたしいじょうにがっかりしているところです。ありがとうございました。さっそく、家(いえ)にかえって、家(かな)内(い)に先(せん)生(せい)のお話(はなし)をきかせてやって、元(げん)気(き)をつけてやります。﹂
その商(しょ)人(うにん)は、いそいそとかえっていきました。
諭(ゆき)吉(ち)は、口(くち)さきでいうだけではなく、毎(まい)日(にち)の生(せい)活(かつ)でも、ざいさんをわけるときにも、男(おとこ)の子(こ)と女(おんな)の子(こ)をすこしもくべつせず、まったくおなじでした。それは、諭(ゆき)吉(ち)が、女(じょ)性(せい)を見(み)くだしたりはけっしてしなかったからにちがいありません。そこで諭(ゆき)吉(ち)は、おくさんをそんけいし、諭(ゆき)吉(ちふ)夫(う)婦(ふ)はひじょうになかよく、むつまじくくらしました。諭(ゆき)吉(ち)は一夫(ぷ)一婦(ぷ)をしゅちょうし、もちろん、自(じぶ)分(ん)でもそれを実(じっ)行(こう)しました。
このように諭(ゆき)吉(ち)は、民(みん)主(しゅ)主(しゅ)義(ぎ)というものをよくりかいし、これを、せけんの人(ひと)々(びと)にわかりやすい文(ぶん)章(しょう)でといただけではなく、自(じぶ)分(ん)で実(じっ)行(こう)したのでした。それを、すべてのことにわたって、つらぬきとおしていました。
諭(ゆき)吉(ち)は、くんしょうだの、しゃくい︵きぞくのくらい︶だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、明(めい)治(じ)になって、やっと身(みぶ)分(ん)からかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、身(みぶ)分(ん)のくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。
明(めい)治(じ)三十一︵一八九八︶年(ねん)に、諭(ゆき)吉(ち)は脳(のう)出(しゅ)血(っけつ)でたおれ、いのちがあぶないとつたえられたとき、政(せい)府(ふ)は、諭(ゆき)吉(ち)に、しゃくいをさずけようとしました。その知(し)らせがあったとき、家(かぞ)族(く)をはじめ、慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)の人(ひと)々(びと)は、諭(ゆき)吉(ち)の考(かんが)えをよくしっていましたので、そうだんのうえ、それをことわりました。
諭(ゆき)吉(ち)は、さいわい、よくなりましたが、この話(はなし)をきいて、
﹁ああ、よくことわってくれた。﹂
と、心(こころ)のそこからよろこびました。
こうして、明(めい)治(じ)三十四︵一九〇一︶年(ねん)、諭(ゆき)吉(ち)は、六十八さいの正(しょ)月(うがつ)をむかえました。それは、あたらしい世(せい)紀(き)、二十世(せい)紀(き)のはじめの年(とし)でした。
慶(けい)応(おう)義(ぎじ)塾(ゅく)のわかい学(がく)生(せい)たちは、ふるい十九世(せい)紀(き)をおくり、あたらしい二十世(せい)紀(き)をむかえるために、一九〇〇年(ねん)十二月(がつ)三十一日(にち)、にぎやかな会(かい)をひらきました。そのうちに夜(よ)はあけて、一月(がつ)一(つい)日(たち)、年(ねん)始(し)のあいさつにきた人(ひと)々(びと)に、諭(ゆき)吉(ち)はいいました。
﹁いよいよ二十世(せい)紀(き)だ。十九世(せい)紀(き)の日(にっ)本(ぽん)は、封(ほう)建(けん)制(せい)度(ど)がつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたした世(よ)の中(なか)だった。けれども、日(にっ)本(ぽん)はあたらしい世(よ)の中(なか)をむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。﹂
諭(ゆき)吉(ち)の目(め)はあかるくかがやき、希(きぼ)望(う)にみちた顔(かお)は、とてもわかわかしくみえました。ですから、
﹁福(ふく)沢(ざわ)先(せん)生(せい)は、元(げん)気(き)になられた。﹂
と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。
ところが、その一月(がつ)もおわりにちかいころ、諭(ゆき)吉(ち)は、きゅうに病(びょ)気(うき)でたおれました。脳(のう)出(しゅ)血(っけつ)が、ふたたびおこったのでした。そうして二月(がつ)三(みっ)日(か)、とうとうその一生(しょう)をおわりました。
おもえば、福(ふく)沢(ざわ)諭(ゆき)吉(ち)こそ、民(みん)主(しゅ)主(しゅ)義(ぎ)の光(ひかり)をかかげた、明(めい)治(じ)の大(おお)きなともしびでありました。いや、明(めい)治(じ)だけではなく、大(たい)正(しょう)、昭(しょ)和(うわ)とつづき、今(こん)日(にち)のわたくしたちにとっても、なお大(おお)きなともしびであるといわなければなりません。
︵おわり︶
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