菊池先生の憶い出
亡くなられた菊池寛先生に、初めてお目にかかったのは、僕が大学一年生の時だから、もう二十何年前のことである。 当時、文藝春秋社は、雑司ヶ谷金山にあり、僕はそこで、先生の下に働くことになった。 初対面後、間もなくの或る夕方、先生は僕を銀座へ誘って、夕食を御馳走して下さった。 今尚西銀座に、ダンスホールとなって残っているエーワン、それが未だカッテージ風の小さな店で、その頃一流のレストオランであった。 学生の身分などでは、そんな所で食事するなど及びもつかないことなので、エーワンへ入ったのは、これが初めてであった。 その上、まだ初対面から間もない菊池先生を前にしては、とても堅くなっちまって、どきまぎしていた。 ﹁スープと、カツレツと、ライスカレー。僕は、それだけ。君は?﹂ ﹁ハ、僕も、そうさして戴きます﹂ で、スープからカツレツ、ライスカレーと、順に運ばれるのを、夢心地で片っぱしから平げた。 先生のスピードには驚いた。スープなんぞは、匙さじを運ぶことの急しいこと、見る見るうちに空になる。ライスカレーも、ペロペロッと―― 生まれて初めて食べたエーワンの、それらの料理。そして、デザートに出た、ババロアの味、ソーダ水の薄味のレモンのシロップ。 ああ何と美味というもの、ここに尽きるのではないか! 実に、舌もとろける思いで、その後数日間、何を食っても不味かった。 然し、エーワンの料理は、その頃にして、一人前五円以上かかるらしいので、到底その後、自前で食いに行くことは出来なかった。 正直のところ、僕は、ああいう美味いものを毎日、思うさま食えるような身分になりたい。それには、何どうしても千円の月収が無ければ駄目だぞ、よし! と発憤したものである。 それから十何年経って、僕は菊池先生の下を離れて、役者になり、何うやら千円の月収を約束されるようになった。 が、何ということであろう。戦争が始まり、食いものは、どんどん無くなり、エーワンも何も、定食は五円以下のマル公となり、巷には、鯨のステーキ、海いる豚かのフライのにおいが、漂うに至った。 文藝春秋社に、先生を訪れて、 ﹁僕あ、ああいう美味いものを毎日食いたいと思って、努力を続け、漸く、それ位のことが出来るような身分になりました。ところが、何うでしょう先生、食うものが世の中から消えてしまいました﹂ と言ったら、先生は、ワハハハハと、まるで息が切れそうに、何時迄も笑って居られた。久保田先生とカツレツ
久保田万太郎先生といえば、江戸っ子の代表のようなもの。 食べものなんかも、吃きっ度とうるさくて、江戸前の料理ばっかり食べて居られるに違いあるまい。うっかり、先生の前で、豚カツなんか食べようもんなら、何という田舎者だと、叱られるのではあるまいか。 と、僕は、久保田先生の作品から受ける印象でいつもそういう風に考えていた。 その久保田先生と、或る料亭でお目にかかった時、僕は、酒が好きなくせに、江戸前の料理なんてものは、てんで受け付けない性質で、酒の肴に、オムレツか豚カツという大百姓なのだ。鰹や鮪なんていう江戸っ子の食いものは、うっかり食うと、プトマイン中毒を起すという厄介な身体。 だから、その酒席で、僕は、ただ飲むだけにしていた。オムレツが食いたいなんて言ったら忽たちまち久保田先生に叱られると思ったから―― ところが、宴酣たけなわなるに及んで、久保田先生は、もう大分酔って居られたが、﹁おいおい、ボクに、カツレツとって呉れよ﹂と仰おっ有しゃるではないか。 おやおや、江戸大通人は、カツレツがお好きなのか? 僕は意外な気がして、吃びっ驚くりしたかおして、 ﹁先生は、カツレツなんか召し上るんですか。僕は又、先生は日本料理ばっかりかと思っていました﹂ と言ったら、先生は仰有った。 ﹁いやボクは、ナマの魚なんか食えません。専ら、カツレツだのオムレツがいい﹂ なアーンだ、それで安心した。 それから、先生も僕も、カツレツを何枚宛ずつか食べてしまった。谷崎先生と葡萄酒
これも日本ゴキゲンなりし昔のこと。
谷崎潤一郎先生が、兵庫県の岡本に住んで居られた頃である。
今や越境後、ソヴィエットの何処かに健在なりときく岡田嘉子――この頃日活の大スターたりし岡田嘉子である――と共に、雑誌の用で、僕は先生のお宅を訪れたことがある。
要件が済んで、先生が﹁これから大阪へ出て、何か食おうじゃないか﹂と、誘って下さって、岡本から大阪へ出た。
﹁何を食おう?﹂
﹁何が食いたい?﹂
結局、宗右衛門町の本みやけへ行って、牛肉のヘット焼を食おうということに話が定って、円タクを拾って乗る。
谷崎先生は、円タクを途中で止めて、﹁一寸待ってて呉れ﹂と、北浜の、サムボアという酒場へ寄り、﹁赤い葡萄酒一本﹂と命じて、やがて葡萄酒の壜を持って来られた。
そして、――思い出す、それは暑い日だった。――本みやけへ着くと、すぐ風呂へ入り、みんな裸になって――岡田嘉子を除く――ヘット焼の鍋を囲んだ。
赤葡萄酒を抜いて、血のしたたるような肉を食い、葡萄酒を飲んだ。
その時である。
牛肉には赤葡萄酒。
ということを、僕が覚えたのは。