心の地震
鬱うつ然ぜんとした大樹はあるが、渭いや山まはあまり高くない。山というよりは丘である。 西の丸、本丸、楼ろう台だい、多門など――徳島城の白い外壁は、その鬱うっ蒼そうによって、工芸的な荘重と歴史的な錆さびをのぞませ、東南ひろく紀きた淡んの海をへいげいしていた。 城下をめぐる幾筋もの川は、自然の外そと濠ぼりや内濠のかたちをなし、まず平ひら城じろとしては申し分のない地相、阿波二十五万石の中府としても、決して、他国に遜そん色しょくのない城廓。 その三層楼のやぐら柱にもたれて、さっきから、四方を俯ふか瞰んしている人がある。 太守である。阿あわ波のか守みし重げよ喜しだ。 かれは、そこからかすかにみえる、出でき来し島まの一端を見つめた。河にのぞんだ造ぞう船せん場ばがある。多くの工人、船大工が、しきりに巨船を作っていた。 すぐ、その眼を、徳島城の脚下にうつした。 そこにも、多くの石いし工くが、外そと廓ぐるわの石垣を築いていた。搦から手めての橋きょ梁うりょうや、濠を浚さらう工事にもかかっている。 石垣の修築は、幕府の干渉がやかましいものだが、阿波守は、わずかな河川の修復を口実にして大胆にこの工こうを起こした。しかもそれは大がかりな城廓の手入れらしい。 のみや槌つちの響きは、何か新興の力を思わせる。阿波守の胸には、その音が古き幕府に代るものの足音として衝うってくるのだ。――四顧すれば海や空や本土のあなたにも、皇学新興の力、反徳川思想がみちみちて、ひとたび、この渭い之の津つの城からのろしをあげれば、声に応じて西国の諸大名、京の堂上、それに加担するものなどが、ときの声をあげるだろう。 重喜の眸ひとみは、そんなことを想像しながら、時の移るのを忘れていた。 ﹁だが? ……﹂ ふと、自分で自分に反問する。 ﹁大事――未然に洩れては、すべての崩ほう壊かいだ。この城、この国、一朝にして、資も本とも子も失なくすことになる﹂ 望楼を歩きながら阿波守、しきりに苦念の様子である。ゆるく、的あてなく、一歩一歩と踏む足には力をこめたが、胸底の憂暗、かれの横顔をおそろしく青くみせた。 ﹁堂上方を中心として、竹たけ内のう式ちし部きぶ、山やま県がた大だい弐に、そのほか西国の諸侯数家、連判をなし血誓の秘密をむすび、自分はすでにその盟主となっている。今に及んで、卑ひき怯ょうがましい、なんの、これほどの大事をあぐるに!﹂こう、動じやすい意志を叱って、唇をかんだ。 ﹁よしや、江戸表で、うすうすぐらいな疑いを持つとも、城壁の改築や、造船の沙汰ほどなら、いくらでも言い解く口実の用意はある﹂ さらに、強くなれ、強くなれ! とそこで、徳島城を踏みしめた。 で――、やや明快な面おもてをあげ、サッと海風のくるほうを眺めると、今、淡路の潮しお崎ざきと岡崎の間を出てゆく十五反たん帆ぼの船が目につく。 帆じるしをみて、重しげ喜よしにも、それが商あき船ないぶねであることが分った。 月に一度ずつ、大阪表へさして、藍あい、煙草、製紙などを積んでゆく、四国屋の船である。 と思うと、脚を深く入れた、塩積船が出てゆくし、あなたからも岡崎の港へ、飛ひき脚ゃく船ぶねや納なん戸どが方たの用船などかなり激しく入ってくる。 その海上往来のさまをみているうちに、阿波守は、またかすかな不安をおぼえだした。 ﹁ム。何ごとも、惧おそれるものはない。しかし、あぶないのは、領内へまぎれこむ他領者だ――ことに江戸から目的を持って入りこむ奴じゃ。天堂一角の通知があったので、取りあえず、この春の道どう者じゃ船ぶねはさし止とめたが、あのように、頻ひん繁ぱんな船ふな入いりのあるうちには、どんな者が、どう巧みに入りこまぬ限りもない……﹂ 今まで懸命に、意志を支えていたものが、グラグラと揺れだして、極度に、重喜の壮そう図とをおびやかしてきた。 でなくとも、かれは、ここ数年の間、内面的に、すくなからぬ細心と辛労を抱いてきたので、近頃は、かなり強い神経衰弱にかかっていた。 渭い之の津つ城を脚下にふみ、広大なる大海の襟きん度どに直面しながら、思いのほか、重喜の心が舞ぶや躍くしてこないのも、かれの眉が、ともすると、針で突かれたようになるのも、そのすり減へらされてきた神経のせいだろう。 神経衰弱――源げん内ない流りゅうでいえば、心しん病びょう、あるいは心労症というに違いない。常に不安を感じ、焦しょ躁うそうにかられ疑心にくらまされ、幻覚をえがく。 あくなき色慾にただれ、美食管絃の遊楽に疲れての大だい名みょ病うびょうにもこの症たちがあるが、重喜のはその類たぐいとはなはだ異なる心病だ。イヤ、神経衰弱といおう、そのほうが、かれの今の心持にピッタリと合う。 ﹁殿! 何をしておいでなさいます﹂ ところへ、竹屋三位み卿きょうが上がってきた。 これはまた、いたって、苦労も憂ゆう惧ぐもないふうだ。 三層楼のやぐらの上に、重喜とならんで、かれも姿をたたせると、その憂うれいなき栄養に肥えた紅顔は魚のごとく溌はつ剌らつとし、海を見れば、おのずから禁じ得ぬもののごとく、自作討幕の詩を、いい気もちで微びぎ吟んしだした。 ﹁殿もお謡うたいなさらぬか﹂ 海に向って、討幕の詩を微吟していた有あり村むらは、黙もく然ねんとしている重喜へ義務のようにいった。 阿波守は、それを、微笑で聞き流した。しかし、複雑な神経が、さびしい笑みに隠されていることは、もとより三位卿の感じるところでない。 ﹁鳴なる門とま舞い――しばらく殿の朗々たる謡うた声いごえも聞きませぬ。詩吟、舞踊なども、たまには浩こう濶かつな気を養ってよろしいものと存じます﹂ ﹁さよう﹂ ﹁願わくば、わが盟主、もっと元気にみちていて下さい。大事をあぐる秋ときは、刻々と迫ってきております﹂ ﹁うム……﹂ ﹁御当家の城しろ普ぶし請んや造船や、また火薬兵器の御用意などが、着々とすすむにつれて、筑ちく後ごや柳なが川わの諸藩をはじめ、京都の中心はもとよりのこと、江戸表の大だい弐になどもしきりに、ひそかな兵備をいたしておるとか﹂ ﹁うむ﹂ ﹁――無論、そうなる場合、御当家の一陣は、この有村が承るものと心得ておりますが……﹂と三位卿は躬みみずから、二十五万石の城地を賭けて、乾けん坤こん一擲てき天下をとるか否かのやまを張っているような気概でいる。 ﹁何より、士気に関するのは、阿波殿のお体で――よかれ悪しかれ味方の旗はた色いろにすぐ響いてまいりますからな﹂ ﹁う……む﹂ ﹁海のごとく寛ひろく、空のごとく明るく﹂ ﹁心を持てとか?﹂ ﹁その通りです﹂ ﹁分っている。しかし有村殿、家かち中ゅうの者一統の生殺をあずかる阿波守じゃ。要意に要意をいたさねばならぬ。で、自然に、そこもとなどにはお分りのない心ここ遣ろづかいがある﹂ ﹁そう申せばお顔の色がひどく青い――、海の反映か、樹木のせいかと思っておりましたが﹂ ﹁あなたはまことに羨うらやましい﹂ ﹁皮肉な仰せ――居いそ候うろうはひがみます﹂ ﹁いや、それではない。すべて公卿殿の立場は気が軽いと申すのじゃ。事こと未みぜ然んに発覚しても、およそ堂上の方々は、謹慎ぐらいなところですむ。で、おのずから討幕などということも、蹴けま鞠りを試みる程度の気もちでやれますが、さて、大名の立場となると、そうはまいらぬ﹂ ﹁いや、有村じゃとて、敗やぶれた後は、決して生きてはおらぬ覚悟﹂ ﹁そこがまことに羨うらやましいと思う――この阿波守などは、そうできぬ。なぜかといえば﹂ ﹁しばらくお待ち下さい﹂ やや色をなして、三位卿、重喜の前へ健康そうな胸を張った。 ﹁では、阿波殿には、討幕の壮そう図と、やぶれるものとみておられますか﹂ ﹁勝ちを信じる前に、そこに思いをいたすことは、もとより武門の慣ならいである﹂ ﹁なんの! 今の幕府が――指で突いても仆れるほど、腐敗しきっておりますのに﹂ ﹁いや、それよりは、こっちの足もとを気をつけておらぬと、事を挙げぬうちに逆さか捻ねじを食うであろう。有村殿にも、その辺のお心配りを第一に願いたい﹂ ﹁それは、ご安あん堵ど下さいまし、先頃から、天堂一角の知らせに応じて、それぞれ船ふな関ぜき、山やま関ぜきの手配りなども一段ときびしく固めさせてあります﹂ ﹁しかし、昨年大阪表おもてで取り逃がした、法月弦之丞という江戸方の者、容易ならぬ決心をもって、この阿波へ入り込もうとしているというが﹂ ﹁何をしているのか天堂一角、刺しか客くとなってかれをつけて行きながら、いまだに刺し止とめることができぬらしい。――それをみても、弦之丞と申すやつは、一癖あると見えまする﹂ かつて、安治川の下しも屋やし敷きで、月がっ山さん流りゅうの薙なぎ刀なたをつけ、したたかに弦之丞のために投げつけられたことは、今も三位卿の記憶に残っている筈だが、それはいわない。 そこへ、侍臣のものが、重喜の意向を伺いにきた。 ﹁森もり啓けい之のす助け様が、つるぎ山から帰られて、何か、御拝顔を得たいと申されておりますが﹂――と。 ﹁う、今頃うせたか﹂ すぐに、こう応じたのは、重喜でなく、有村の苦笑だった。 ﹁まいろう﹂ と阿波守はやぐらを降りて、徳島城の西にし曲ぐる輪わへ向った。 ひとりで、そこの風に吹かれていてもしかたがないので、三位卿も重喜の腰について行った。 小姓にしてはわがまますぎるし、飯めし粒つぶにしては大きすぎるこのつきものを、別に気にかけない重喜も大名だが、それの邪魔にならない徳島城もさすがに広い。 ﹁どうであった? 剣山の方は﹂ ﹁は、昨夜御城下へ戻りましたが、夜やち中ゅうのことゆえ、御復命さしひかえておりました﹂ ﹁月つき々づきの目付役、大儀である﹂ 一室の席についた阿波守は、そこへ森啓之助を引いて、山牢の様子を訊きいていた。 そばには竹屋三位卿、恬てん然ぜんとして控えている。啓之助の目と有村の目が、重喜をはずして時々妙にからみあった。 ﹁そちも聞き及んでいる通り、江戸方の者がしきりに当国をうかがっている場合じゃ、剣山の麓ふもとや山関の役人どもにも一倍用意させておかねばならぬぞ﹂ ﹁山番の末にいたるまで、近頃はみな緊張しきっておりまする﹂ ﹁ム。では、別に異常もなく警固しておるな﹂ ﹁ところが、天満同心の俵一八郎が、とつぜん、死亡いたしました﹂ ﹁や、遂に、病死いたしたか﹂ ﹁ならば別段でもござりませぬが、何者かの悪あく戯ぎ――おそらく悪戯と察せられます――で、殺さつ害がいされたものでござる﹂ ﹁間かん者じゃ牢ろうの者を殺害した? 誰が? 誰がそんな意志をもって悪戯をいたしたか﹂ ﹁剣山の御制度をわらい、間者を殺せば祟たたりがあるという御当家のきびしい掟おきてを、迷信なりといって故意に矢を射て殺したものでござる。しかもその下手人は――﹂ ﹁あいや!﹂ と、いきなり声を出して、三位有村、啓之助の言葉を抑え、重喜の方へ向きなおった。 ﹁いさぎよくその下手人の名は下手人の口から自白いたしまする。すなわち、俵一八郎を一矢しにて射殺しました者は、かく申す竹屋有村、御当家のおため! こう信じてやりました﹂ 見るまに、重喜の顔色が変った。そして神経質に青ざめたまま、いつまでも平静にかえらず、ジッと病的に光る眸ひとみをすえた。 ﹁なんでさようなことをなさる! 当家中興の祖義ぎで伝ん公以来、たとえいかなることがあっても、領土へ入りこんだ隠密は殺さぬ掟おきて――間者を殺せば怪異を生むという徳島城の凶事を、そこもとは好んで招き召されたな﹂ ﹁イヤ凶事を招く意志ではありませぬ。むしろこれを吉兆の血祭りとして、御当家の古き迷信をやぶり新時代の風雪に陣をくりだすの意気を示しましたつもり。また、そのような旧ふるき思想にとらわれている家中の者の蒙もうをさますためにもと、あえて、かれを殺しました﹂ ﹁おだまりなさい!﹂ こらえていたものが吹ッ切れたように、阿波守の声、やや冷静をかいて癇かん走ばしった。 ﹁阿波には阿波の歴史があり、この城にはこの城の柱ちゅ石うせきをなす掟と人心というものがある。間者を殺せば凶きょ妖うようありと申すことは、家中一統の胸に深く烙やきついて、誰も信じて疑わぬまでになっている。お身の乱暴な矢はその人心におびえを射こみ、動揺を起こし、大事の曙しょ光こうに一抹まつの黒き不安を捺なすってしまった! もし向こう後ご渭いや山まの城に妖異のある場合はいよいよ家中の者に不吉を予感さするであろう。ああ、まったく要いらざることを! 烏お滸こな気働きをさせたものじゃ﹂ こう、叱っている阿波守が、すでに迷信から生じる一種の不安と疑ぎ惧ぐにおそわれつつあるような心理が、三位卿には不解であった。 ﹁それみたことか﹂ といわんばかりに啓之助は、小しょ人うじんらしい溜りゅ飲ういんを下げていた。剣山の帰途、お米と自分の姿へ、馬上から諷ふう罵ばをあびせかけて行った有村の態度には、彼とても、こころよくはなかったから。 しかし、有村は、あの時、啓之助へ投げた言葉も、偽らぬ感情を、疾風の間にいいすてたことだし、また阿波守に咎とがめられたことも、自身では、正しい啓蒙と信じているので、なんらの痛つう痒ようもおぼえていない。 で、かれはなおも毅然として、剣山の制度は、家中に無用な迷信心理をつくる禍かい因んだと論じた。 また、蜂須賀家の癌がんになるだろうともいった。 その上に、ツイ口を辷すべらして、 ﹁いッそのこと、後あとに生き残っている甲こう賀が世よ阿あ弥みも、この際、殺してしまったほうがよかろうと存じます!﹂ と痛つう言げんして、これはちと口が過ぎたと、自分もハッとして絶句し、阿波守や啓之助は、なおさらにびっくりして、その暴言にあきれたような眼をみはった。 ――その時だった、折もあろうに。 突然! ドドドド――ッと、すさまじい地じう唸なりがして、栗くり尺しゃ角っかくの殿中柱が、ミリッといったかと思うと、三人の坐っている畳までが、下からムクムクと震動してきて、座にたえぬような恐怖を感ぜしめた。 ﹁あ! ……﹂ といって、啓之助は度を失い、三位卿は、 ﹁地な震いだ!﹂ と叫んだ。 阿波守は席を立たなかった。脇きょ息うそくとともに仰むけに身をそらし、もの凄い家や鳴なりにゆれる天井を、白はく眼がんで見つめていた。 地震! かなり大きな地震――と直覚したことは、三人ともに一致していた。 震動は徐々とやんだが、啓之助は、地震ぎらいとみえて、次にくる揺れ返しを案じながら、喉のどぼとけを渇かわかせて、生ける色もなく棒立ちになっている。 家や鳴なりのあとは一そう陰いん森しんとして、宏大な殿中は、それっきりミシリともしなかったが――やがて何事だろう? 西にし曲ぐる輪わの廊下から武むし者ゃば走しりの方へ、家中のもの誰彼となく、一散になだれだした。その物々しさが、天変のあった直後だけにことさらただごとでなく思われる。 ﹁にわかに物騒がしいが?﹂ と三位卿も襖ふすまをあけ、次の間を出て内廊下の一端へ飛びだした。 続いて、阿波守も席を立ったので、啓之助はそれを幸さいわいに、誰よりも早く、庭手へ下りかけようとすると、そこへ作さく事じぶ奉ぎょ行うの中村兵ひょ庫うご、城しろ普ぶし請んの棟とう梁りょう益ます田だと藤う兵べ衛え、そのほか石いし垣がき築づきの役人などが、落ちつきのない顔色でバラバラと、重喜の面前へきて平伏した。 常なら、近きん習じゅう、または表役人を通じて謁えっすべきなのに、いきなり、各![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
![※(「口+它」、第3水準1-14-88)](../../../gaiji/1-14/1-14-88.png)
紐ひも
いまわしい運命の呪じゅ縛ばくからのがれたい一心に、さまざまと手をくだいた甲斐があって、川かわ長ちょうのお米は、やっと、なつかしい大阪の町を、再び目の前に見ることができた。 土佐堀口の御番ばん所しょで四国屋の藍あい船ぶねが、積荷しらべをうけている間に、許されて、その親船を離れた一艘そうの艀はしけは、幾つもの橋の下をくぐって、阿あわ波ざ座ぼ堀りの町を両岸に仰いでいる。 お米は日傘をさしてそれへ乗っていた。啓之助の手を遁のがれるとともに、心のうちで、 ﹁もう、どんなことをしたって、阿波へなんぞ戻りはしない﹂ と、永えい別べつを告げてきたお米は、そこに、少しも変りなく賑わっている大阪の町を眺めて、なんとなく後ろめたい気持であった。 怖ろしい体験と、執念ぶかい男のなぐさみに耐えてきた女は当然、心も容かたちも変っている筈。それは、境遇の導くままに任せている間は、気がつかない姿だけれど、久しく接しない故郷の町へ入ってみると情けないように変っていることが、その人自身にもありありとみつめられる。 両河が岸しをゆく人――橋の上を通る人――、すべての視しも目くも、自分ひとりに注そそがれているように感じた。そして、その肩身のせまい気おくれが、お米に日傘をかざさせた。 もっとも、親船を下りる前から、お米にはあらかじめ強い世間意識があったとみえて、土地の者に、こんな姿を見られるのはイヤだといって、囲かこい女もの好ごのみに、阿波で啓之助がこしらえてくれた衣類をスッカリ派手なものに着かえ、髪も娘らしい形に、自分で結びなおしてしまった。 それでも、まだ緻ちみ密つな女の心は、気がすまないとみえ、幾夜幾たび、浅ましい男の快楽に濡れた唇へは、濃すぎるほどな口紅をつけて、いまわしい思い出のかげを玉虫色に塗り隠した。 ﹁やっぱり大阪は大阪だな、俺でさえ久しぶりに来てみれば、悪くないんだから無理はない……。ねえ、お米の方かた﹂ と、舟の進むのとは逆に向いて、艀はしけの舳みよしに腰かけながら、くわえ煙ぎせ管るで納まっているのは、啓之助の内意をふくんで、お米の監視についてきた仲ちゅ間うげんの宅助。 ﹁さだめしあなたはお懐かしゅうござんしょう。旦那様からお許しが出たんだから、まあこれから日にち限げんまでは、ゆっくりと、好きな所をお歩きなせえ。だが、ひとり歩きはいけませんぜ。そいつアくれぐれも、啓之助様から、念を押されてきた宅助。あなたの紐ひもになって、どこまでも一緒にクッついてまいります。ハイ、立りっ慶けい河が岸しのお宅へも道頓堀の芝居へも、大津の叔父さん――なんていったっけ、そうそう、大おお津つ絵え師しの半はん斎さいか、あそこへ行くとおっしゃっても、宅助やっぱりお供しなけりゃなりませんぜ﹂ うるさいやつ、毛虫みたいな男――と眉をひそめながら、お米は返辞もしないで、わざと、日傘を横にした。 ふふん……ソロソロご機嫌がお悪いネ。 大阪へ着いた以上は、もうどうにでもなれというような不ふ貞てくされをやったって、そうは問とん屋やで卸おろさねえぞ――というようなのは宅助の面つらがまえ。 ﹁それじゃせっかくお暇が出ても、のびのびすることができないから、さだめし、この宅助を、ダニのようにうるさく思っていましょうね。だが、こいつも主人持ちの悲しさというやつなんで……、へへへへ、役目の手前と思っておくんなさい。お米の方の目付役も、どうしてなかなか楽じゃねえ﹂ ﹁分っているよ、おしゃべりだね﹂ 櫓ろを持っている船頭の手前もあるので、お米がキツイ目をすると、女あしらいに馴れきっている宅助、わざと、恐れ入ったように頭をかいて、 ﹁ホイ、またお叱りでござんすか﹂ ﹁考えておくれよ、大阪へ来たんだからネ﹂ ﹁そりゃ分っておりますとも﹂ ﹁分っているなら、なぜ、ツベコベとよけいな、おしゃべりをするのさ。人ひと中なかで、お米の方かたなんてふざけるともう阿波へ帰ってやらないからいい﹂ ﹁帰ってやらないは手きびしい。思えば、あなたも変りましたネ、そんな啖たん呵かをきる度胸になったんだから……﹂ ﹁そうさ、お前みたいな狼おおかみや貉むじなと、さんざん闘たたかってきたんだもの﹂ ﹁こいつアいけねえ、どうも大阪へ入ってから、次第次第に気が強くなってきやがる……イヤ、なっておいでなさいますね﹂ ﹁今までの仇かた討きうちに、たくさん威張ってあげるのだよ﹂ ﹁謝あやまった! 宅助お役目が大事でござんす、あなたに大阪でジブクラれると、まことに手数がかかっていけねえ。どうかすなおに陸おかへ上がって、すなおに遊んで、すなおに阿波へお帰り下さいまし。おっと、冗談はともかくとして、この舟を、いったいどこへ着けさせますか?﹂ ﹁そうだねエ﹂ ﹁そうだねエじゃ船頭が可哀そうだ。なんならすぐに川つづきを、このまま立慶河岸へやって、川長のお店の前へつけさせましょうか﹂ ﹁やめておくれ、ばかなことを﹂ お米は、腹が立つように、 ﹁家を出たまま、半年以上も姿を隠していながら、不意にボンヤリと帰れるものかどうか、お前だって考えてごらん。神隠しに会った与太郎じゃあるまいし……﹂ と、口でぞんざいに言い放しながら、胸では、何か密みつな考えをめぐらしているふう。 もとよりお米の真意は、二度とふたたび、啓之助の所へなど帰るまいとしているので、それにはなんとかして、この宅助という監視の紐ひもを、大阪の町で、迷子にしてしまわなければならないと苦く思ししている。 ところが、紐もまた一癖も二癖もある紐で、目から鼻へ抜けている上に、女あしらいに馴れていて、お米の心の動き方まで、いちいち浄じょ玻うは璃りの鏡にかけて睨んでいるような男――なんとも始末の悪い紐だ。 しかし、森啓之助とすれば、実に、上じょ乗うじょうなる紐を付けておいたものといわなければなるまい。 およそ、世に生きとし生ける雑多な人間――迂う、愚ぐ、鈍どん、痴ち、お天気、軽薄、付つけ焼やき刃ば、いかなる凡才にせよ、何かの役に立たないという者はなく、何か一面の特性をもたないという者はないけれど、かかる役目の適材というものは、そうめったにあるものではない。 事簡単に申せば、一匹の男が、ひとりの女を束縛する、一本の紐と化なり代るわけで、その屈辱的な努力を軽けい蔑べつしてやる以外に、買ってやる所はみじんもないが、紐自身にいわせると――紐の宅助の述懐にきけば、どうして、お米の方かたの目付役も、これでなかなかむずかしいそうだ。 第一、紐の資格たるや、どこまでも自分に好色根性があってはやれない。ありはあってもねじ抑おさえきる辛抱がいる。第二、ホロリとする同情の廻し者にかからぬ冷酷に強く、俗にいう玉なしという失敗を招かぬこと。第三、どこまでも図々しく、かつしつッこく。第四、嫌わるることにひるまず、しかも先を嫌ってはいけない。そしてあくまで綻ほころびずに、二ふた子この糸で縫ぬいつけたように、終始、完全に女の腰に取ッ付いていることを旨むねとし、紐の使命とする。 こう観じてくると、紐たるや、紐の役目も、仇やおろかな苦労ではなかろう。忍にん苦くに忍んじ従ゅうの大事業にも等しい。されば、常に蚤のみ糞くそを肌着につけて、寝酒一升の恩賞にあずかるため、時には命も軽しとする仲ちゅ間うげん部屋の中からでもなければ、よくこの任にたえる異才は現われまい。 なにしろ、お米にとっては、苦手であり、手てご強わい懸かけ引ひき相手である。 しかしこの場合、非常手段を用いても、宅助をまいてしまわないうちは、決して、自由は解かれていない。藪やぶで捕われた鶯うぐいすが、籠のまま藪へ帰されても、それが放たれた意味にはならないのと同じに。 ﹁――だからね、宅助や、私はこう思案しているのだけれど、どうだろう?﹂ 下した手でに出ると、宅助は、その泣き落しに誘われないで、 ﹁たいそう尋常なお話で。嫌いぬいたわっしに、今度はご相談といらっしゃいましたか﹂ ﹁茶ちゃ化かさないで聞いておくれよ﹂ 乗のり人てが迷っている様子なので、櫓ろを取っている船頭は、ゆるゆると阿あわ波ざ座ぼ堀りを漕こいで、今、太たろ郎すけ助ば橋しの橋はし杭ぐいを交かわしかけていた。 ﹁決して、茶ちゃ化かしてなんぞいるものですか。これが宅助の大まじめなところで﹂ ﹁なにしろ、いくらあつかましくっても、このまま、ハイ只今と、家へいきなり帰るわけには行かないから、当座の間、どこかへ二、三日落ちついて、大津の叔父さんに来て貰おうと思うのさ﹂ ﹁あの絵師の半斎さんにね。そりゃけっこうでござンしょう﹂ ﹁そして、叔父さんに、啓之助様のお世話になっていることを話して、家へも程よく話して貰った上、こんどは晴れて阿波へ行くということにしたら……﹂ ﹁だが、ちょっとお待ちなさい。なんだか、旦那に暇を貰ってくる時には、あなたのお袋様が、危篤とか大病とかで、急に来てくれという訳じゃありませんでしたか﹂ ﹁そんなことは、元から嘘の作りごとだということを、お前だって、うすうす知っていたじゃないか。私は、ただ、この大阪が見たくって﹂ ﹁驚き入った腕前です。それで、あんな涙がよく出ましたね﹂ ﹁おや、いつ私が、泣きなんぞしたえ?﹂ ﹁したじゃございませんか――ほれ、剣山の麓ふもと口の――あのむし暑い納なや屋ぐ倉らの中で、納なっ豆とうみたいになりながら、いつまで、シクシクシクシクと﹂ ﹁いやな、宅助!﹂ 日傘をすぼめて、その先で、はしたなく向うの膝を突きながら、 ﹁いい加減なことをおいいでない! 船頭さんが笑うじゃないか﹂ ﹁もっともわっしは、程よく酩めい酊ていした時だったんで、残念ながら、それ以上知らないことにしておきましょう。ところでそういうお話なら、とにかく、この辺で艀はしけを上がるとしましょうか。どうせこちとらはあなた任まかせ――﹂ ﹁そうだねえ?﹂ と、お米が陸おかを見上げた時に、船の先が、ちょうど橋の下をこぎ抜けていた。 すると、その時、太郎助橋の欄干を、向う側からこっちへ移って出てくる艀はしけを見なおそうとしている年増の女があった。 ﹁おやッ。川長のお嬢さん? ――﹂ こうびっくりした顔をして、女はのめり込むように川を覗のぞいた――ぞんざい結びの止めに挿さしてある、珊さん瑚ごの脚がヒョイと抜けそうになるのを抑えて、 ﹁もし! お米さん――お米さんじゃございませんか﹂ 不意に名を呼ばれたので、オヤ? と思ったらしく、お米も橋の上を見上げたが、にわかに、すぼめていた日傘をパチッと開いて、 ﹁あ――船頭さん、もう少し先までやって下さいな。少し、急いでね﹂ と、日傘のかげに身を隠したまま、人違いと思わすように、そしらぬ顔で艀はしけを進ませた。 ﹁あれ? ……﹂ 橋の上へ取り残された年増の女は、不思議そうな目を、その日傘の色へ追っていた。それは、目明し万吉の女房――お吉きちであった。 ﹁人違いだったかしら? ……だが、どうしても、今のは、お米さんのようだったけれど﹂ こうつぶやいて、気をとられている眸の先を、ツウと、燕つばめが白い腹を見せてかすった。 お吉とお米とは、かつて久しぶりに、九条の渡わた舟しで会ったことがある。その時のお吉は、消息の絶えた万吉の身を案じて、四貫かん島じまの妙みょ見うけんへ、無難を祈りに行った帰るさであった。 お互いに、女同士の愚ぐ痴ちをいったり慰めあったりして別れたお米が、フッと大阪から姿を消したのは、それ以来のことである。 万吉と夫いっ婦しょになる前は、川長の座敷で仲居をしていた縁もあって、お吉はその騒ぎの折も、店の者とひとつになってお米の行方を探したが、どうしても知れなかった。 そのお米が――今何げなく眺めた阿あわ波ざ座ぼ堀りの艀はしけの中に、その頃より肉づきさえよくなって、仲ちゅ間うげ態んていの男と話を交わしていたので、お吉は、驚きのあまり、ジッと、見定めるという余裕もなく、いきなり声をかけたのである。 けれど、先の女は、日傘の下に姿をすぼめて、いかにも素す気げなく聞き流して行ってしまった。お米様ならあんなことをするいわれがない。やはり、自分の錯さっ覚かくであったかしらと、お吉は茫然と思いなおした。 ﹁そういえば、仲ちゅ間うげんらしい男もいたが、川長のお嬢さんが、そんな者を供につれて歩いているのも妙な話……。とすると、何かにつけて、同じ年頃の女をみると、もしや、もしや? と思う私の気のせいだったんだね。アア、気のせいといえば、うちの良ひ人ともどうしたのだろう? ……﹂ そのまま、しばらく欄らん干かんに、片かた肘ひじをもたせて休んでいたお吉は、お米のことを思い消すと一緒に、より強く、良おっ人との万吉の安否がひしと胸にわいてくる。 江戸へ行ったということだけは、たしかに聞いているけれど、以来、手紙一本よこすではなし、一言半句の人ひと伝づてをしてくることもなく、去年の秋から冬を越して、もうやがて、この春も、また沙汰なしに暮れようとしている。 ﹁薄情というのか、男おと気こぎというものか。いくら目明しの居所知らずといっても、家や女房まで忘れてしまわなくってもよさそうなものだけれど……。ああ、考えまい、思いつめると今のように、他人の後ろ姿までにハッと動どう悸きを打ってしょうがありゃしない﹂ 気を取りなおして橋を渡った。 そしてまた、今日も、その信心にゆくのらしい。木もめ綿んじ縞まにジミな帯もいつに変らず、装よそおいもなく巻いた髪には、一粒の珊さん瑚ごじ珠ゅだけが紅あかかったけれど、わずかなうちに、削けずったような痩やせがみえる。 お吉の影がそこを去ったと思うと、まもなく、一方の艀はしけが空からになって、川筋を戻ってきた。 もうその頃、陸おかへ上がったお米と宅助とは、長なが浜はまの河岸から本願寺の長なが土どべ塀いに添って、ぶらりぶらり肩をならべてゆく。お米は今、太たろ郎す助け橋で、ワザと顔をそむけたお吉のことを考えて、なんとなくすまない気にふさいでいた。 で――うつむきがちに先へ行くと紐ひもの宅助もしばらくは無言のまま犬のようについて歩く。 午後の陽ざしが足もとへ、細長い二つの影を引いていた。お米は、自分の影のうごくほとりに、ゆらゆらとこびりついてくる影を見て、踏んづけてやりたい気がした。 ﹁アア嫌だいやだ。どうしたらこのうるさい鎖くさりを切り離すことができるだろう? 何かいい智慧はないかしら? この男をまいてしまわないうちは、いらいらして、気が立って……﹂ お米はジリジリする力を糸切歯にこめて、必死に、急な策をしぼっていた。それにひきかえて紐の方は、自力を労さず他力主義に、お米の足の向くほうへ、ズルズルついて行くだけである。 ﹁さっき、橋の上から声をかけた女――ありゃ一体だれですか﹂と、宅助、少し退屈をしてきたとみえて、追いつきながら話しかけた。 ﹁あ、太郎助橋でかい?﹂と、お米は肩を並べさせないで、宅助よりは、またふた足三足先に歩いた。 ﹁あの女は、ずっと前に、家で仲居をしていたことがあるので、私のおさな顔を知っていたのだろうよ。だけれど、今の身の上を聞かれたり聞いたりするのもうるさいから……﹂ ﹁川長のお宅へはすぐに帰らないというし、知り人に会えば姿を隠す――そんな窮きゅ屈うくつな大阪へ、一体なんのためにはるばると帰ってきたんだか、ばかばかしくって、この宅助にゃ、あなたの気心が知れませんぜ﹂ ﹁ご苦労様でもばかばかしくても、私にとれば、この大阪が、無むし性ょうに恋しくって恋しくって、夢にみる程なんだから、しかたがないじゃないか﹂ ﹁へえ、生れた土地というものは、そんなにいいもんでございますかね。わっしは能登の小こい出でヶ崎で生れて十の時に、越後の三条にある包ほう丁ちょ鍛うか冶じへ、ふいご吹きの小僧にやられ、十四でそこを飛びだしてから、碓うす氷いと峠うげの荷物かつぎやら、宿屋の風呂焚たき、いかさま博ばく奕ちの立たち番ばんまでやって、トドのつまりが阿波くんだりまで食いつめて、真しん鍮ちゅ鐺うこじりに梵ぼん天てん帯おびが、性しょうに合っているとみえて、今じゃすっかりおとなしくなっているつもりですが、それでもまだ生れた土地へ帰ってみてえなんてことは、夢にも思ったこたあありませんがね﹂ ﹁そりゃ、お前が情じょうなしか、それとも、お前をつなぐ人情というものが、その土地にないからさ﹂ ﹁おや、その論法でゆきますと、それほどこの大阪にゃ、あなたを迷わす人情があるという理窟になりますぜ﹂ ﹁あるだろうじゃないか、お母っかさんやら、叔父さんやら﹂ ﹁冗談は置いておくんなさい。皺しわのよったお袋や叔父さんに、そこまでの情愛があるもんですか。血の気の多い年頃にゃ、それを捨てても男のほうへ突ッ走るじゃござんせんか。ははあ……読めましたぜ、お米の御おん方かた﹂ ﹁勝手に邪推をお廻しよ﹂ ﹁エエ、すっかり神しん易えきを占たてました。筮ぜい竹ちくはないが宅助の眼がん易えきというやつで。――この眼易の眼力で、グイと卦けめ面んをにらんでみると、あなたが大阪へ来たがった原因は、死ぬほど会いたいと思っている人間がどこかにいるに違えねえ。え、どうでしょう、この判断は?﹂ ﹁そりゃ、いないとも限るまいさ﹂ ﹁ふふん。しゃあしゃあと仰せられましたね。いよいよ不貞くされの捨て鉢の、さらにヤケのやん八というやつで、この宅助を怒らせようとなさいますか。そして、阿波へ帰るのはイヤじゃイヤじゃと駄々をこねようとなさいますか。――どッこい宅助は怒りませんテ。はい、頭を打ぶちたければ頭、足をなめろとおっしゃれば足もなめます。なあに、わずか少しの辛抱で、無事に、もう一度連れ戻りさえすれば、旦那様から存分な褒ほう美びをねだる権利があるんで――一生扶ふ持ちばなれをしねえ仕事、それくらいな我慢がなくっちゃ、猫と女の番人はできねえ﹂ 図に乗って、また舌の動き放ほう題だいに、怖がらせをしゃべっていたが、お米に返辞がないので、こんどは少し音ねを柔やわらげて、 ﹁だが旅先だ――﹂と手をかえた。 ﹁口でいうお惚のろ気けぐらいは、わっしも寛大に扱いましょうよ。が――だ、ただしだ、そんな方へ体ぐるみ、籠かご抜ぬけにすっぽ抜けようなんてもくろみは、ムダですからおよしなせえ、エエ、悪いこたあ言いません。世の中に骨折損というくれえ、呆こ痴けな苦労はないからなあ﹂ ﹁野暮に目めば柱しらをお立てでない﹂ 心の底を見すかされて、釘を打たれたかと思う口惜しさに、お米は少しふるえて言った。 ﹁口でそうはいうものの、私の恋しい思い人は……﹂ ﹁ほーれ、やっぱり眼がん易えきがあたっていやがる﹂ ﹁真まが顔おになって、何も心配することはないよ。この大阪にはもとよりいず……ああ今頃は、どこを流して流れているかも分らない……﹂ と、ツイ口の辷すべったついでに、お米は、さげすみぬいているこの男へ、胸に秘めている本当の声を、叩きつけてやりたいような気がして、 ﹁――一ひと節よぎ切りの﹂ と、喉のどまでその人の名を洩らしかけたが、邪推ぶかい紐ひもの宅助に、これ以上な気を廻させては、いよいよ自じじ縄ょう自じば縛くの因もとを招くばかりと思いなおして、ホ、ホ、ホ、ホ、と取ってつけたさびしい笑いにまぎらわせた。 とにかく当座の宿をとってからの思案と、お米はその晩、中なか橋ばしすじの茗みょ荷うが屋やという家を選んだ。 どこということもないが、なんとなく、旅はた籠ごにしては目立たぬ家で、裏には当り障さわりのない座敷もありそうなので。 無論、紐の宅助もついて入った。 けれど、宿がきまると今までのように、お米の腰に寄り付いているわけにはゆかない。仲ちゅ間うげんは仲間として待遇され、若奥様は若奥様と向うで見なして、丁重に差別をつけ、部屋も別々、お膳も別。女中たちの物言いまでが違ってくる。 お米が何ともいわないから、宿でよけいな気転を利きかして、お供の膳に酒をつけるということもない。酒がないのは宅助にとって、はなはだ哀れを感ぜしめる。ひとつの刑罰をうけてるのと同じだ。 ﹁宅助や、お前は疲れたろうから、早く寝やすむがよい﹂ 改まったお米の言葉も、急に素す気げなく取り澄ましてきた。 宿の手前はてまえとして、何もそうにわかに閾しきいをおかなくたっていいだろう。下げろ郎うを召し連れた若奥様かお嬢様か――というふうな権式だけを取って、こっちへ酒もあてがわないのはひどすぎる。と、宅助の虫は穏おだやかでなく、 ﹁ばかにしてやがる!﹂と面つらをふくらせた。 ﹁お付つけ人びとのおれに、寝酒ぐらいは飲ませておかねえと何かにつけてためにならねえぞ。囲かこい者のくせにしやがって、気の利きかねえ女もあるものだ。よし、ひとつまたチクリチクリ嫌がらせをいってやらなくっちゃならねえ﹂ と、隣の部屋からニジリ出して、境の襖ふすまを少し開けた。 ﹁お米さんエ﹂ 目玉だけでも脅迫のきくような凄い顔を突き出して、わざとこう伝でん法ぽう口くち調ょうに、 ﹁今、そこで、何とおっしゃいましたエ﹂ お米は鏡をよせて、寝ねお白しろ粉いをつけていたが、ふりかえりもしないで、 ﹁ゆるすから、お前は先にお寝やすみというのさ﹂ ふざけるな! と宅助はムカついて、何か痛い言葉をぶッつけてやろうと、浅黒いうわ唇を舐なめあげていると、折おり悪あしく、宿の女中が廻ってきて、夜具の支度をしはじめた。 女中たちの手前、宅助は、喉のどまで衝つきあげた啖たん呵かを飲み殺して、ツイしかたがなく、 ﹁ありがとうございます﹂ と、お辞儀をしてしまった。そして寝床へ潜もぐりこんでから、 ﹁ちぇッ、いまいましい女あまだ。ここを出たら、ひとつギュッと手たづ綱なを締めなおさなくっちゃいけねえ﹂と、業ごうを煮やして、寝返りを打つ。 お米の部屋にも、程なく、ふッと行あん燈どんを消す息がきこえて、真っ暗になった。一いっ刻ときばかりたつと、どこの部屋もあらかた寝静まったらしく、風呂の湯を落す音と、不ね寝ずの番のあくびよりほかは聞こえなくなる。 鼻が悪いとみえて、仲ちゅ間うげんの宅助、おそろしいいびきをかいてきた。それが耳ざわりで寝られないのか、暗い中で、二、三度枕をキシませていたお米が、やがて、床の中から辷すべりだしたかと思うと、スウと、廊下へ出て行った。 カタンと、さるをはずす音がしたから、厠かわやへ立ったのかと思うと、廊下へ風が流れてくる。 裏庭へ出る雨戸が四、五寸ばかり音なく開あいた。 たらりと下がった緋ひぢ縮りめ緬んにからんで白い脛はぎがそこから庭にわ土つちを踏もうとすると、 ﹁オイ、オイ、オイ。お米さん﹂ いつのまにか眼をさまして、 ﹁どこへ行くんだ! 少し方角が違うだろう﹂ と宅助の両手が、お米を元の座敷へ抱だき戻してきたらしい。 並なみの者なら、あわてて明りをつけたり、女の逃げ支度を調べたりするところだが、そこは老巧な紐ひもである。――気がついても、わざと、それまでの事件にはしないで、 ﹁女のくせに、夜よな半かに塀越しの曲芸なんぞをやると、猫の恋と間違えられて、誰かにドヤしつけられますぜ。うふッ……﹂ といやな笑い方をしながら、自分の寝床へ長々ともぐりこむ。 それなり宅助も黙りこくッてしまうし、お米も寝床にジッと固くなっているらしい。もう両方で、寝息を探りあうことは止めた。そしてただお米の心臓だけが暗い中でドットと鳴ってじれていた。 翌日は、どんな顔を見あわすかと思われたが、宅助もお米も、気まずい話にはふれなかった。 昼を過ぎてから、お米は、叔父の半斎の所へ手紙を書いた。それを飛脚屋へ頼みながら、気晴しに歩いてこようか――と、今日はお米のほうから宅助をうながして外へ出た。 ﹁ソロソロ機嫌を取ってきやがったな﹂ と肚はらの中で宅助は、こうあるのが本当だとうなずいた。宿屋を出るとその調子で、じきに言葉もぞんざいに、 ﹁お米さん、大津絵師の半斎へ、なんていう手紙を書いたんで?﹂と、糺ただしてきた。 ﹁きのう私がいっていた通りさ﹂ ﹁はてね。忘れてしまったが﹂ ﹁とにかく、叔父さんに相談があるから、茗みょ荷うが屋やまで、来て貰いたいという意味をね﹂ ﹁なるほど、そこで叔お父じ貴きに事情を話して、川長の店へとりなして貰おうというんですか。だが、その相談の時にゃ、宅助も立会いますぜ﹂ ﹁いいどころじゃない。どうせ、家うちの方へ得とく心しんして貰ったら、私の手道具や着物まで、スッカリ荷物にして阿波へ送ろうという話なのだから﹂ ﹁ぜひとも、そうありてえもンです。昨ゆう夜べみたいなことが、この先チョイチョイとないように﹂ やんわりと、棘とげを含んでくる言葉を、聞きそらしたように装よそおって、いつか天てん満まの河岸へ出てきた。お米は、河筋にある舟料理の小ぎれいなのを探しているふうだった。――もう蠣かきの季節でもないが、奈なら良ち茶ゃの舟があったので、宅助を誘うと、だいぶ昨きの日うと先の態度が違うので、かれはその風向きを疑ったが、ゆうべの一事で、お米も諦あきらめをつけてきたのだろうと、考えた。 酒に渇かわきぬいていた折なので、気を緊しめながら、宅助、存ぞん外がいに飲んだ様子である。お米も、昨夜以来、何か思案をかえたとみえて、珍しいほど神妙に、時々、酌しゃくまでしてやった。 ﹁そら。河のほうへ寄ると、あぶないじゃないか﹂ ふたりがそこを帰る頃、もう天満河岸はトップリと暮れていた。 宅助は陶とう然ぜんとして、おぼつかない足どりを踏みしめていた。しかしあくまで油断はしていないので、酔わぬ時より、しつこくお米に注意を配った。 ﹁あぶねえって、だ、誰が? ……﹂ ﹁そう、川べりを歩いちゃ、足もとが危ないというのさ。落ちたら私が困るじゃないか﹂ ﹁ご親切様で……へ、へ、へ。だがネ、お米の御おん方かた、き、気の毒だが、宅助、ちッとも酔っちゃいねえ。だ、だめだよ! ……ず、ずらかろうなんて気で、どう神妙な様子をしたって、微みじ塵んも油断はありゃあしねえ!﹂ と、先に立った宅助、どうやら、常には腰について廻る紐ひもが、今夜、お米を引きずってゆく形だ。 ﹁そうかい……﹂と、お米はまた、それを気きま任かせに歩かせながら、﹁じゃお前は、どこまでも私を疑っているね﹂ ﹁この間も、キッパリ止とどめを刺しておいたじゃねえか。ウ、ウーイ……おれの目玉は浄じょ玻うは璃りの鏡だと﹂ ﹁まったくお前の眼がん力りきは鋭いね﹂ ﹁所しょ詮せんだめだよ、諦あきらめがつきやしたかい!﹂ ﹁ところがなかなかつかないのさ。そういうお前に、もう野や暮ぼな隠し立てはしますまい。私はね、もう二度と阿波へは帰らないつもりだよ﹂ ﹁つもりか――は、は、は、は﹂と嘲あざ笑わらっていたかと思うと、急に、胸の気もちでも悪くなったか、宅助は、脇腹を押さえたまま、路面へグウッとかがみこんでしまった。そして、ペッと生なま唾つばを吐く音をさせて、そこを立とうともしない様子。 ﹁どうしたの?﹂ お米は、やや離れた所に足を止め、片手を柳の木にかけて、冷ひややかに闇をすかしながら、 ﹁――たいそう威張っていたようだけれど、脆もろいねエ……もう薬が廻ったのかい﹂ ﹁な……なんだと﹂ 無理に、起き上がろうとした宅助は、かえって、ウームと呻うめいたまま、苦しそうにのた打った。 ﹁付つけ人びとのお前が、そんな意気地なしじゃお困りだね。ずいぶんお前も執念強く、私を逃がすまいとしていたようだけれど、今日のお酒はちっとばかり、悪い薬がまじったとは、さすがにその浄じょ玻うは璃りの目玉でも見えなかったとみえる﹂ ﹁うッ……うぬ、ど、毒を?﹂ ﹁なあに、そう心配おしでない、持ちあわせの鼠ねず薬みぐすり、それもホンの小指の先で、お銚ちょ子うしの口へつけたくらいだから、まさか、そのずう体の命を奪とるほど廻りはしまい。……だが、思えば私という女も、すごい腕になりました。これもみんな、お前や、啓之助が私に度どき胸ょうをつけてくれたお仕し込こみだよ。阿波へ帰ったら、あの男に、くれぐれよろしくいっておくれネ﹂ ﹁ウーム……ちッ畜生﹂ ﹁口惜しそうだね、ホ、ホ、ホ。苦しいかエ。私が長持へ押しこめられて、阿波へやられた時も、ちょうどそんな苦しみさ。毒でも飲んで、いっそ死のうとしたことが、幾度だったかしれやあしない。――だけれど、死んで花が咲かないよりは、恋しい、恋しい、あるお方に、会われないのが心残りで、ツイのまずにいた毒薬を、フイと昨ゆう夜べ思いだして、少しばかりお前に試してみたわけさ。――どうだエ、宅助、それでもこのお米様を、阿波まで連れて帰れるかい﹂ ﹁…………﹂蝦えびのようにかがまった宅助の影は、ただ激しい痙けい攣れんを起こしていた。 ﹁おや、返辞もできなくなってしまったね。もう少し、話し残りがあったものを。じゃ、いろいろお世話をかけたけれど、宅助や、あばよ――﹂中ちゅう二階かい
牡ぼた丹ん刷ば毛けをもって、しきりと顔をはいていたいろは茶屋のお品しなは、塗りあげた肌を入れて鏡台を片よせると、そこの出窓をあけて表も見ずに、手ちょ斧うな削けずりの細ほそ格ごう子しの間から鬢びん盥だらいの水をサッと撒まいた。 と一緒に、窓の外にたたずんで、立ち話をしていた二人の侍が、 ﹁あ、ひどい!﹂ 両方に飛び別れて、後ろの櫺れん子じをふりかえった。 ﹁かかりましたか、水が﹂ ﹁見ろ、これを﹂ ﹁すみませんでした……﹂と真っ白に塗った襟えりをのばして、油よごれの水がちっとばかりはねた侍の藁わら草ぞう履りを眼にした。 ﹁……どうも、つい﹂ ﹁たわけめ、気をつけい!﹂ と、総そう髪はつの若いほうが睨みつけたが、ここは野暮を嫌う色町でもあり、かたがた軒を並べているいろは茶屋の暖のれ簾んぐ口ちには、脂粉の女の目がちらほら見えるので、 ﹁天堂﹂ と、一方へ顎あごをしゃくるなり、連れの編あみ笠がさをうながして、浜はま納な屋や囲いの軒並を離れてしまった。 そして、後ろ姿を並べ、向う側へ斜めに歩いて行ったかと思うと、また足を止めて、立りっ慶けい河が岸しの埋うめ立たて辺へんにたたずみ、まだほかの連れでも待っているようなふうであった。 ﹁いけすかない、ニキビ侍だよ﹂ 首を引っこめるとすぐに、お品は吹きだして、側に寝転んでいる朋ほう輩ばいの女へ、 ﹁なんて怖い眼をするんだろう、水ぐらいかかっても、ハラハラする程なお召物じゃあるまいし﹂ ﹁だって、お前さんが悪いんじゃないか﹂ ﹁色町の軒下に立って、不景気な顔をしているほうがよッぽど間抜けさ﹂ ﹁おや、相手が行ってしまってから、とんでもない鼻ッ張ぱりだ﹂ ﹁なに、まだ向うの川かわ縁ぷちに立っているんだよ、土どざ左え衛も門んでも待っているように﹂ ﹁どれ﹂ 寝転んでいたほうもムクムク起きて、腹はら匍ばいのまま櫺れん子じへ顔を乗せたものだ。これだから女の巣を食う町に無用な顔はして立ち止まれない。 ﹁ね、どっちもギスギスした侍だろう﹂ とお品が今の鬱うっ憤ぷんに、朋輩の共鳴を求めると、獄ごく門もん首くびのように櫺子へ顎あごを乗ッけた顔は、見当違いなほうへ眼をすえて、 ﹁あら。品ちゃん﹂と、袂たもとを引ッ張った。 ﹁ごらんよ、向うから来るのは、お十夜さんじゃない﹂ 昼ひる中なかにお月様でも見つけたような声を出したので、ひょいとそのほうを見ると、なるほど、去年の春から夏の初め頃は、甲かぴ比た丹んの三次とともに、この界かい隈わいによく姿を見せた孫兵衛が、きまじめな顔をして、前を大股に通って行く。 ﹁あら、素通りはないでしょう﹂ 素すっ頓とん狂きょうな声で、馴な染じみの男の足をとめておいて、お品は帯を猫じゃらしに振りながら、孫兵衛の側へかけていった。 ﹁や、お品か﹂ ﹁ずいぶん永いこと姿を見せないで、その上に、涼しい顔で素通りをするつもり?﹂ ﹁連れが待っているのだ。また会おう﹂ ﹁いいじゃありませんか、連れがいたって﹂ ﹁そうは行かねえ。ことに近頃は遊びどころの沙汰じゃなくて、ある人物を探すために、毎日血ちま眼なこで歩き廻っているのだ。ウム、お前もうすうすは知っている筈だが﹂ ﹁誰? 探しているのは﹂ ﹁法のり月づき弦げん之のじ丞ょうという者だが、その名前では覚えがなかろう。そうだ、ちょうど去年の夏ごろ、この立慶河岸をよく流していた、一ひと節よぎ切りの巧みな虚無僧といえば思いだす筈……﹂ ﹁あ、川長のお米さんが、たいそう血道をあげたッてね。その虚無僧が、いったいどうしたというんだえ﹂ ﹁まだほかに二人の奴を、木曾街道で取り逃がしたため、ずいぶん行方をたずねたが、どうしても見つからねえのだ。しかしいろいろな事情から推して、この大阪にまぎれこんだには違いないのだから、ひょっとしてこの辺へでも姿を見せた時には、すぐにこの孫兵衛の所へ知らしてきてくれ。いいか、もし突き止めたら、礼は幾らでもするからな﹂ ﹁だって私は、お前さんの宿というものを、聞かして貰ったことがないのに﹂ ﹁俺か。おれは二、三日前から、安治川岸の阿州屋敷に住んでいる﹂ ﹁阿州屋敷というと?﹂ ﹁勘の鈍にぶい女だな、阿州屋敷というのは蜂須賀家の下しも屋やし敷き、そこのお長屋にいるというのよ﹂ すると、その時、ふたりの側をすりぬけていった往来の女が、蜂須賀と強くひびいた今の言葉に、ハッとしたかのようにふりむいた。 女は、いぼじり巻に、珊さん瑚ごの粒をとめている年増だった。しかし足を止めるとすぐに、孫兵衛の鋭い注視がすわったので、そのうろたえた目をお品にそらし、愛あい嬌きょうよく笑えみあって、何気ないさまに行き過ぎる。 お品へ目で挨あい拶さつして行った珊さん瑚ごの女を、孫兵衛はジッと見送っていたが、やがてその年増の姿は、同じ河かし岸す筋じの川長の店へ入っていった。 ﹁誰だ! 今の女は﹂ こうお品に訊きいているところへ、さっきからあなたにいて、待ちくたびれていた旅川周馬と天堂一角が、苦にが々にがしげに近づいてきた。そして、 ﹁お十夜、まだ話がすまんのか﹂ と皮肉れば、一角も尾について、 ﹁売ばい女たじゃないか。そんな者と、往来中で、何をしているのだ﹂と、唾つばを吐く。 ﹁はい、大きにお世話さま﹂ 孫兵衛を楯たてにしているので、お品はツンと強くなる。それに、さっきのこともあるので、こういってやった。 ﹁売女だろうと、あなた方に、買って下さいとは申しませんよ。お十夜さんは私の情いい人ひと、地べたで話をしていようと、屋根へ上がって相談をしようとも、お他人様のご心配はいらないでしょう﹂ こういうのが、いわゆる悪女の深ふか情なさけと称するのであろうと、かなり面めん皮ぴの厚い孫兵衛も、ふたりの手前、処女みたいに赤くなったが、﹁う……なに、今少々、解げせぬ女について、問い糺ただしているところなんだ﹂と、テレた顔をまぎらわせる。それを周馬は意地悪く、 ﹁ほ、解げせぬ女が、どこへ﹂ と追求して行った。 ﹁誰といったっけなあ、今、川長へ入って行ったやつは?﹂ ﹁あれは、元あそこの店に、仲居をしていたお吉きちさんという女﹂ ﹁仲居がどうしたと?﹂ なにを、ばかばかしいというふうに、一角が嘲笑するので、孫兵衛はいよいよ何かあの女を意味づけなければならなくなった。で、今の挙動を箇かじ条ょうにして、なおお品を問いつめてゆくと、偶然、かれの口から、そのお吉が、目明し万吉の女房であるということが洩れた。 と――なると、周馬も一角も、にわかに顔の筋を突ッ張らせて、無智な女と何気なくしゃべることが、今彷ほう徨こうしつつある、大事を占うものと聞かれずにはおられない。 ﹁間違いじゃあるめえな﹂ と、孫兵衛は女の肩へ手をかけた。 ﹁あの人とは、もう古い顔馴染み、誰が見そこないなんぞするものかね﹂ ﹁そうか、じゃ、あれが目明し万吉の女房だったか――﹂ ﹁おい、お十夜﹂ と、周馬はソッと袖を引いて、お品の側から、二、三歩離れながら、一角と共に何かヒソヒソ相談を交わした。 ﹁う、なるほど……﹂と、うなずいて立ち戻ると、こんどは孫兵衛の口から、何か別な言葉が女のほうへささやかれた。そして、三人はすぐに、お品の入ったいろは茶屋の暖のれ簾ん口から、家の中へ姿を隠してしまった。 奥では酒となっているらしいが、お品は時々門かどへ出てきて、川長のほうを眺めたり、また、そこらにいる朋ほう輩ばいへ、お吉きちが戻って行ったかどうかを聞いたりしている。 二ふた刻とき程もたったろう、花は散っても、まだ春の気分は去らないこのあたりに、宵めく絃歌と共に、ぼつぼつ人が雑ざっ鬧とうして来た。 門かどから門かどへ浅あさ黄ぎの暖れ簾んの裾すそを覗のぞいて歩く木刀や、船から上がる客や、流しや、辻つじ占うら売りや、そして艶なまめかしい灯の数々と、春の星とが、どっぷりと黒く澱よどんだ堀の水によれあって美しい。 やがて、その夜景の人をかき分けてゆく、孫兵衛たち三人の影がたしかに見えた。 しきりと気を配っていたお品が、ただちにそれと、三人へ告げたのだろう、何かの用をすまして、今、川長から出て行ったお吉の後ろ姿が、かれらの十数間前にある。 お吉が、久しぶりに川長を訪ねたのは、何かお米の身についてのことらしかった。そして、今日もお米の母の涙まじりなくり言を、身につまされるほど聞いてきたので、人浪の中を歩きながら、今もお吉は、そればかりを考えてゆくふうだ。 まもなくお吉は桃もも谷だにの自分の家へ帰り着いていた。 誰もいない家なのに、行あん燈どんだけはついていた。お吉はそれを不思議にも思わないで、帰るとすぐに、女らしく、襷たすきをかけ、途中からさげてきた買物の風呂敷づつみを解いて、勝手へ運んだ。 薄暗い流し元で、瀬戸物を洗う音や、米をとぐ音がしばらく聞こえている。裏の小こみ溝ぞへ白いとぎ水がひろがった。溝の向うに菜なの花がみえ、その先は桃畑だった。 そして、なおその向うには、藪やぶや、同心屋敷の灯や、城ともみえぬ御番城の巨大な影が、山のように空の半なかばをふさいでいる。 垣隣りは、城勤めの黒くろ鍬くわの者か、足軽のような軽輩な者の住すま居いらしい。その境の掘井戸へお吉がなにげなく水みず桶おけをさげてゆくと、家の横に三人の侍が、黒い影をたたずませていたので、思わず、胸を騒がせた。 ﹁誰だろう?﹂ 気味の悪さに、手桶をそこへ置いたまま、お吉は流し元へ戻ってきてしまった。男のない家――主ある人じのいない留守の家は、ともすると、こんなおびえに襲われる。 まして、万吉がああいう身の上でいる場合。 ﹁妙な素ぶりの侍が三人まで? ……今、私の帰るのをつけてきたのかしら﹂こう思い惑って、身を縮ませたが、気をとりなおしてカタカタと香こうの物を刻み始めた。だが、妙に、動どう悸きがしずまらずにいたので、庖ほう丁ちょうの端で小指を切った。 血の出た小指を吸いながら、あわてて座敷へ駈けこんだお吉は、針箱の抽ひき斗だしをかき廻して、小こぎ布れを探しているふうだったが、その物音を聞きとめたものらしく、誰か、中二階の腰窓をあけたかと思うと、梯はし子ごの上から、 ﹁おばさん﹂ と呼ぶ声がした。 若々しい女のあたりをはばかる声だった。 指を小こぎ布れで巻きながら、お吉はそれへ上うわ眼めを送ったが、黙って、顔を振ってみせた。 すると、中二階の女は、ソッと腰窓の小さな障子を閉めかけたが、また思い出したように、前よりは低い声をして、 ﹁今帰ってきたのかえ。そして、家うちの方は? ……﹂と訊きいた。 ﹁しっ……﹂ と、こんどは手を振って、お吉の眼がきつくそれを抑えた。ピタリ、ピタリという無気味な足音が、さっきから家のまわりを廻っていたが、お吉が針箱を置きに立つと一緒に、 ﹁ご免――﹂ といいながら、上がり口に、ぞろりと三つの影が立ちふさいだ。 ﹁はい﹂ おそるおそる手をつくと、 ﹁ここは目明し万吉の家だな﹂ 端にいる編あみ笠がさの男がいった。 ﹁はい……﹂ ﹁お前はその万吉の女房だな﹂ ﹁さようでございます﹂ ﹁万吉は帰ってきたか、江戸表から﹂ ﹁いいえ、まだ戻っておりません。けれどあなたがたは?﹂とお吉が、三人三様の風ふう態ていをながめて、何者かしらと疑っていると、それには答えないで、 ﹁何か便りがあったろう﹂ ﹁少しも沙汰なしで、只今どこにいることやら、それすら存じておりませぬ﹂ ﹁嘘をつけ! 女房であって、亭主の居所を知らぬという筈はなし、また主あるじであって、家へ居所を知らせてこないという筈はない。たしかにその万吉は、四、五日前に、いちど此こ家こへ姿を見せたろう、イヤ、たしかにこの大阪へ帰っている訳だ。有あり態ていにいえッ﹂ ﹁でも、只今申し上げたことには、少しも偽りがございませぬもの。それにもう家うちの良ひ人とは、出たが最後、居所などを知らせてきた試しのない人でございますから﹂ ﹁こいつめ、あくまで吾々を愚にしているな﹂ というと畳の上へ、笠をぬいでほうりだして天堂一角、土足のまま跳び上がって、 ﹁泥を吐かねば、こうしてやる。さ、万吉は只今どこに隠れているか、また、法月という虚無僧に旅の女も、一度はここを訪ねたであろう。その居所をいえ、さ、ぬかさぬか﹂ と、お吉の腕をとって、いきなり後うしろへねじ上げたかと思うと、続けざまに、二ツ三ツ撲なぐりつけた。 女ひとりと見くびっているので、一角がお吉をぞんぶんにいじめつけている間に、才気走った周馬の眼が、ジロジロと家の中を睨ねめ廻して、これも屋内へ上がりこんでくる。 そして、それが当然に、自分のする役割でもあるかの如く、方々の戸棚をガラガラと開けたかと思うと、行こう李りのふたをあけ、文庫をぶちまけ、果ては、長火鉢から針箱の抽ひき斗だしまで引っかき廻して反ほ古ごらしいものを片っ端からあらためはじめた。 たちまちにして、つつましやかな世帯の中を屑くず問屋へ大風が見舞ったようにしてしまったが、さて、万吉から来たらしい手紙もなし、またその後の消息をうかがうような反ほ古ごは何ひとつとして見つからないので、周馬が小こさ才いも骨折り損となり終ると同時に、一角も、やや張合いを失って、吾ながら少し大おと人な気げないとも思いなおしたらしい。 お十夜はというと、立りっ慶けい河が岸しからお吉をつけてみようと言いだしたのは彼自身なのに、ここへ来ると、横着に腕ぐみをしたまま、二人の狼ろう藉ぜきへ、むしろ冷れい蔑べつな目をくれている。 なにも、もちの木坂じゃあるまいし、女ひとりを取巻いて、そう大見得を切ることはあるまい。いつも一角ときたひには、田いな舎か剣豪の強がりばかり振り廻すし、周馬はイヤに才智を見せようとする。どっちもきざで鼻持ちがならないのみか、凄すご味みというものが不足だから、これっぱかしのことを糺ただすにもこの騒ぎだ――と見ている態度だ。 ﹁おい、周馬も、一角も、いい加減にしようじゃねえか。万吉も戻っていず、手がかりもねえとしてみれば、いつまでもここに邪じゃ々じゃ張ばっているのも無駄骨だろう。それよりゃ、またちょいちょいとこの辺を見廻ることにするさ﹂ ﹁ウム、引き揚げよう﹂ ﹁お吉﹂ と、一角は、孫兵衛の尾について門を出ながら、捨すて科ぜり白ふを投げた。 ﹁そちの亭主の万吉なり、また、法月弦之丞なりお綱という女なりが、やがてここへ姿を見せたら、よく申し伝えておけ。たとえどこへ姿をくらましていようとも、きっと、この三人が、命を貰いに出なおして行くぞ――と。いいか!﹂ 荒っぽく格こう子しを閉めて外へ出ると、三人の中でお十夜らしい声が、 ﹁――年増だが、万吉の女房にしちゃ、もったいないような女じゃねえか。一角に撲られて、キッと、溜ため涙なみだでこらえていた姿が、なんとも俺にゃ色っぽく目に映うつった﹂ ﹁いやな奴だ!﹂ と、天堂一角の笑い声がする。 ﹁じゃ、お十夜、吾々はひと足先へ安治川屋敷へ帰ってやるから、貴公、これから一人で、お吉を慰めに戻ってやったらいいではないか﹂ 周馬の猥みだらな声など――ふざけあいながら、だんだん遠くなって行った。 嵐の去った跡のように、シーンとなった万吉の留守宅には、狼ろう藉ぜきに取り散らかされたものの中に、お吉が箪笥の鐶かんによりかかって、ほつれ毛もかき上げずに、いつまでも今の口惜しさにおののいていた――が、気丈な女、泣いてはいない。 ﹁み、みておいで! 今に……﹂ 真ッ青になった頬に、一角の打った手形だけが桃色になっていた。その口惜しさと痛みにおののきながら、こうつぶやいて、お吉が、脚の折れた珊さん瑚ごの珠を目の前に見つめていると、 ﹁おばさん……﹂ 静かに呼ぶ者があって、中二階の梯はし子ごだ段んに、緋ひぢ縮りめ緬んの燃える裾すそと、白い女の足もとだけが見えた。 家探しをして行った周馬や一角が、遠く立ち去った気配をみすまして、中二階から、ソッと下へ降りてきたのは、川長のお米よねであった。 天てん満まの河岸で、やっと、うるさい紐ひもをきって逃げたお米は、あれからすぐに、お吉の所へ頼ってきていた。 太郎助橋で声をかけられた時に素知らぬ顔をして行き過ぎたのも、宅助をまいた後では、お吉の家よりほかに、身を匿かくまって貰うところはないと思っていたので、わざと、ああした狂言をしたことで、いわば、今日あるための下した心ごころであった。 ﹁――じゃお嬢さん、私が口添えいたしますから、とにかくお吉と一緒に、川長の実う家ちへお戻りなさいましな﹂ その時、事情を聞いたお吉が、当然に、そういって勧すすめたけれど、お米は、どうしても首を振って、家へ帰ることを肯がえんじない。 阿波へ帰るのはもとより死んでも嫌いや――川長へ戻るのも嫌――大津の叔父の家へ行くのも嫌――というお米の意志は、いったいどこに本心をすえているのか分らないが、お吉も捨ておく訳にはゆかない。 ﹁ではまあ、物置みたいな所ですけれど、しばらくの間、狭いのはご辛抱して、家の中二階に遊んでいらっしゃいませ。ですけれど、その宅助とかいう仲ちゅ間うげんがそのまま毒が廻って死んででもいればよいが、息を吹っかえしていたら、また血眼になって、お嬢さんを探しだそうとしているでしょうから、当分は、決して家の外へ出ないほうがようございます﹂ 何かへ、一途ずになっている若い心に、無理な、逆らい立てをしてもよくあるまいと、世よ馴なれたお吉は程よく足止めをしておいて、今日はそれとなく川長へ行った。そして、かの女じょの母にその始末を相談してみたのだけれど、お米の母は、大阪へ来ていながら、家へ帰らぬ娘の放ほう埒らつに腹を立って、とりなしようもない怒りだった。そのくせ、ともすると、涙まじりになりながら――。 そんな者は子とは思わぬ、もう亡ないものと諦あきらめる。という母親と、家へ帰るのは嫌だ、と駄々をこねている娘との間に立つ、お吉の心ここ遣ろづかいは無意義に帰した。で、しかたがないから、当分は空あいている中二階へ世話をしておいて、お米の駄々とわがままとに飽きる日を待つよりほかはないと、道々考えながら戻ってきた――今夜。 計はからぬ悪侍が三人までも押しかけてきて、存分に家の中を荒して行った。しかもそれらの者は、阿波の浪人か家中らしく、良おっ人との万吉の命や、法月弦之丞という者や、お綱とかいう女をつけ狙っている口ぶり。 ﹁また出なおすぞ﹂ ﹁きっと命をとりに来るぞ﹂ こんな、凄すご文もん句くも、言い捨てて行った。 お吉も、女でこそあれ、目明しの女房、よっぽど、かれらのするままに任せまいとは思ったが、中二階には、やはり阿波の家中に事情をもつお米を匿かくまっているし、留守を預かる大事な女の本分をも顧みて、ジッとその狼ろう藉ぜきにこらえていた。 ﹁おばさん――﹂ と今の乱暴を見て中二階から降りてきたお米は、お吉を慰めてやろうとする前に、足の踏み場もなく散らかっている小こひ抽きだ斗しや反ほ古ごなどを片づけ始めた。 ﹁お嬢さん、ほうっておいて下さいまし。後で私が始末いたしますから﹂ ﹁いいよ。私も手伝ってあげるから、お前もその釵かんざしなんか拾って――気を持ちなおしたがいい。こんな物が散らばっていると、いつまでも腹が立っていてしようがありやしない﹂ ﹁ああ、男がいないというものは﹂ ﹁ほんとに、さびしい、辛いものだね。さだめし口惜しかったろうと思って、私も二階で、しみじみと察していたよ。だけど、ひょいと覗のぞいてみると、あの三人の中には、私の知っている天堂一角という者や、お十夜孫兵衛という浪人がいたので、出るには出られず、どうなることかと、息を殺しているばかりだった﹂ ﹁じゃ、あの侍たちを、お嬢様も知っておいでなさいましたか﹂ ﹁森啓之助などと一緒に、よく川長へ来たことがあるのでね﹂ ﹁見つからないで倖しあわせでした﹂ ﹁けれどお前……いったい万吉さんはどうしているの?﹂ ﹁ああして阿波の侍が、居所を探し廻っている様子をみれば、どこかに、命だけは無事でいるのでござんしょう﹂ ﹁けれど、一人じゃないのだろう?﹂ ﹁え……何が﹂ ﹁法月弦之丞様と一緒に歩いているような口ぶりだったじゃないか。――おばさん、私も今では弦之丞様の素姓や、お前のご亭主の万吉さんが、何をもくろんでいるのかぐらいは、うすうす知っているのだから、その法月さんの居所を、私だけに、そっと教えておくれでないか――ね、後ごし生ょうだから﹂ 弦之丞の居所を教えてくれという、そのお米の様子が、いつになく真剣なのに、お吉はひそかに妙に思って、 ﹁さあ、それは私にも……﹂ と、口を濁すと、たたみかけて、 ﹁知っているのだろう、え、お吉﹂ お米の眼が粘ねばりこく追求してくる。 ﹁存じませぬ。――なんでお嬢さんにまで、そんなことを隠しだてするものですか﹂ ﹁だって、さっき、家やさ探がしをして行った侍たちが、万吉も弦之丞も、たしかに、この大阪へ来ているはずだといったじゃないか﹂ ﹁それはそう申しましたが、自分の亭主の居所さえ知らない私が﹂ ﹁いいえ、そんなことはあるものじゃない。この大阪へ帰ったなら、たとえ人目を忍んでも一度はこの家へ来たに違いがない……。いいよ、お前は私までを、阿波の廻し者だと、疑っているのだから﹂ ﹁そんな訳ではございませぬ。まったく、お吉の知らないことでございますから﹂ ﹁いいよ、いいよ……﹂ また、理由のない駄々をこねて、人困らせをするのかと、お吉がよい程に扱あしらっていると、すねて後ろ向きになったお米の目に、涙がいっぱいに溜っている。 ﹁お嬢さん﹂ 肩へ手をかけると振り落して、 ﹁いいよ、もうお前に、私の身のことは、相談もしなければ、頼みもしないから……﹂ ﹁まあ、何をおっしゃるやら、お吉には、よくわけが分りませぬ﹂ ﹁分っていても、教えてはくれないじゃないか﹂ ﹁じゃ、その弦之丞様とやらに、いったいお嬢さんは、どういう用があるんですえ﹂ ﹁用ということもないけれど、私はどうしても、あのお方に、もう一度お目にかからなければならないんだよ。――それで、その一心で阿波から逃げてきたのじゃあないか﹂ ﹁じゃ、お嬢さんは、その人に? ……﹂ 今はお吉にも、お米の本心のあるところが、よく分った。 それにつけても、癆ろう咳がいという病気があるため、わがまま気きず随いにしておいたのが悪かった、と涙まじりに悔くいていた、お米の母の言葉が思い起こされて、お吉は、溜ため息いきをついて、その人の姿を眺めた。 ﹁――そうですか、そういうお心持であってみれば、なんとかして、お引きあわせして上げたいのは山々でございますが﹂ というと、お米は腹を立てたように、プイと立って、 ﹁もう、お前に心配をかけないから﹂ 中二階へ上がってしまった。 お吉は、ほうっておくつもりで、また、勝手へ来て、膳ぜんごしらえにかかった。それも、自分は川長で馳走になってきているので、お米ひとりのための支度であった。 ﹁お嬢さん――﹂ 梯はし子ごの下から呼んだけれど、答えがない。 ﹁――遅くなってすみませんでした。御飯をお上がりなさいましな。お好きな物がございますよ﹂ ﹁…………﹂ ﹁機嫌をなおして、降りていらっしゃい。え、お米さん﹂ ﹁…………﹂ ﹁お嫌いや?﹂ ﹁ア、私かい、私なら今夜は食べたくないから﹂ それっきり、何をいっても返辞がなかった。 たださえさびしい女住ずま居いな上に、宵には、あんないまわしい乱暴をされ、その後で、慰めてくれる立場のお米がこんどは地位をかえて、妙にすねてしまったので、お吉は立つ瀬のないような寂せき寥りょうに衝うたれた。 気をまぎらわすため、縫ぬい物ものを出して、行あん燈どんの下もとに針を運びはじめたけれど、夜が更けても、上と下との気まずい沈黙がよけいに家の中を陰気にするばかり。そして、滅め入いりがちな心の奥で、 ﹁先せんからわがままなお米さんではあったけれど、元は癆ろう咳がいを苦にしていて、沈みがちな気性だったのが、わずかの間に、どうしてアア捨鉢に変ってしまったのだろう。家へ帰りたくないというのも、自分に、目的があるからには違いないが、あのまま自じだ堕ら落くになって行ったら、女の一生を末はどうするつもりなのだろう﹂と、考えたりして、他ひと人ご事とながら胸を痛めていると、また不意に、トントントンとさっきよりは荒い足どりで、お米がそこへ降りてきた。 黙って、勝手へよろけてゆくふうなので、 ﹁そら、やっぱりお腹がすいてきたんでしょう﹂ とお吉が、つとめて、冗談に話しかけると、お米は手桶の中から水みず柄びし杓ゃくを取って、 ﹁おばさん、私、気ばらしに、お酒を飲んだの﹂ ポッと目元を妖艶に赤くして、あられもなく柄ひし杓ゃくへ唇くちを寄せていった。 ﹁えっ、お酒を﹂ あっけにとられて、お吉は座敷のほうから目をみはっていた。 しどけない姿で、流し元に立って行ったお米は、上気して、襟元まで桜色になっていた。そして手桶から取った柄ひし杓ゃくの水を飲んで、 ﹁……ア、おいしい﹂ 水をはねかして柄ひし杓ゃくを投げこむと、ひょろひょろと戻ってきて、梯子段へよりかかった。 ﹁おばさん――﹂ ただ気を呑まれて自分をみつめているお吉を、そこから冷やかに見て、 ﹁どう? 私の顔……﹂ と笑った。 だが、お吉には、笑えなかった。 ﹁私の顔――ずいぶん赤いだろう……、昼間、そッと買っておいたのさ、自分でね。――だって、お前、お酒でも飲まなければ、私、生きていられやしないものねエ﹂ 梯子段へ肱ひじをのせて、こういう調子なり姿し態ななりが、毒婦のように妖美であった。 お吉は、それが川長のお米ではないように見えた。 あの、気の弱い、すんなり痩やせ細ほそった容かたちで、咳せきにまじって出る血を、人目に隠しながら、いつも鬱うつ気きでいたお米――それと目の前の人とがどう考えても、同じだと思われなかった。 ﹁どうしたの、お吉﹂ ﹁お嬢さん……﹂ ﹁よしておくれよ、お嬢さんなんて、私はもう、生きむ娘すめじゃない、男のために、さんざんになった女だよ。おまけに、癆ろう咳がいもちで、長生きのできない、女なんだよ。――だから、いっそもう、したいことを、どんどんして行かなけりゃ損だと、考えなおしたのさ。いいやね、お前、毒婦になったって。――薊あざみの花だって、捨てたもんじゃないからね、黙って、泣いて、踏みにじられたまま、終ってしまう野菊より、棘とげをもっても、口紅をつけてパッと強く生きている薊あざみのほうが﹂ ﹁まあ、お米さんとしたことが﹂ お吉が、あきれて、何かいおうとするその口を抑えて、 ﹁いいよ、ほうっといておくれ。私は私で、弦之丞様をたずね当てるんだから﹂ ﹁そのことじゃありませんが、あなたはまあ、体のお弱いくせに、なんだって、飲めもしないお酒をそんなに上がったのですえ?﹂ ﹁いいじゃないか、私の体だもの﹂ ﹁せっかく、ご丈夫になりかけているのに﹂ ﹁よけいなことをいっておくれでない。私が、頼むことも教えてくれないくせにして﹂ ﹁だって、知らないことを﹂ ﹁知っていたら、後あとで怨うらむよ。いいかえ、わたしは明あし日たから、きっと、その人を探しにかかるつもりなのだから、ね﹂ 酒のせいではあろうが、お吉を睨むように見流して、スルスルと、二階へ裾すそを匍はわせて行った。 そぼそぼとすすり泣くような小雨の音が、晩春の夜をひとしお心細く降ってきた。翌朝も、細かい雨が煙っていて、竹の樋といの裂け目から落ちる雫しずくに、勝手の板の間がびしょ濡れになっていた。 ゆうべ、寝しなに、ここを固く閉めて床についた筈なのが、開け放しになっているので、お吉は、起きるとすぐに、あたりのさまを疑った。みると、この間、歯を洗って隅においてあった、高足駄が見えないし、壁に吊るしてある雨傘のうちで、一番新しい渋しぶ蛇じゃの目めがそこに見えない。 ﹁おや? ……﹂ 中二階へ上がって、もしやと、そこの襖ふすまをあけてみると、牡ぼた丹ん唐草の赤い蒲ふと団んは敷きぱなしになってあったが、どこへいったか、お米の姿は見えなかった。 自やけ棄ざ酒けをのんで、血の逆あがったようなことを口走ってはいたが、まさかと、たかをくくっていたお吉は、びっくりして、夜具のまわりや押入れの中を見たが、お米は、もう帰らぬつもりで、すっかり支度をして出て行ったらしく、帯おび揚あげひとすじ残っていない。 ﹁いくら若いにしろ、捨鉢になっているにしろ、この雨が降っているのに、どこへ……﹂ お吉は、二階の小窓を開けて外を眺めた。そぼ降る雨の中に、渋しぶ蛇じゃの目めをさして的あてもなく出て行ったお米の姿が目の前にちらついた。 そして、何の気もなく窓の根元になった屋根の上をみると、小さな鬢びん盥だらいが出してあって、その中に、唇を拭いた紙と、緋ひな撫でし子こをしぼったような、鮮麗な色の血が、あふれるほど吐いてあった。 ﹁あ……﹂ お吉は、袖口を鼻に当て、怖ろしい、そして悲しむべき、お米の遺かた物みに、寝起きの肌を寒くさせた。 けれど、みつめているうちに、その鮮麗な紅くれないは、病をうつすという恐怖も、穢きたないという感じをも、お吉の脳裡からとり去って、ただ、ひとりの美女が、血みどろに、目ざす所へ、脱ぬけて行った殻からのように見えてきた。 ﹁――今のような場合でなければ、弦之丞様の居所を、ほんとに教えてあげたいのだけれど﹂ こうつぶやいて、ほろりとした。流るる々てん転じゅ住う
ここに哀れをとどめたのは、紐ひもの男――仲ちゅ間うげんの宅たく助すけだった。 おのれの使命に、あまり自信をもち過ぎた結果、鼠ねず薬みぐすりを舐なめさせられて、もろくも、お米にまかれてしまったが、どうにか、命だけを取り止めて、ひょろひょろと、場末の木賃宿からよろけだしたのが、お米に離れてちょうど七日目。 持ちあわせの小こづ遣かいも尽きて、もう一晩の旅はた籠ごせ銭んさえなくなったため、まだヨロつく足をこらえ、時々、渋るように痛む腹をおさえて、青い顔をしながら宿を出た姿は、笑止でもあるが、気の毒でもあった。 ﹁見ていやがれ、阿あ女まめ﹂ 腹の渋りだすたびに、口惜しさが新たになってくる。そして、まだ腹の中に残っている鼠薬の余よや薬くに、火でもついてくるように、かれのまずい面つらが歪ゆがんでくる。 ﹁覚えていやがれ、タダおくものか﹂ こうつぶやいては、宅助、ペッ、ペッ、と生なま唾つばを吐き、目ばかり鋭く動かして、よろよろと道を泳いだ。 無論お米を見つけだす気で――。 どこをどう歩いたか、何を的あてに探したか、自分でも夢中らしい。なにしろそれから二日の間に、かれの姿はいっそうみじめなものとなって、生いき霊りょうのように、ふらりと現れたのが二軒茶屋――玉たま造つくりの東口なのである。 大阪から南なん都とへ出る街道口、そこには、伊勢や鳥羽へ立つ旅人の見送りや、生いこ駒まの浴よく湯ゆも詣うで、奈良の晒さら布し売り、河内の木もめ綿ん屋、深江の菅すげ笠がさ売りの女などが、茶屋に休んで、猫ねこ間ま川の眺めに渋茶をすすっている。 そこへ来ると、宅助は、空いている床しょ几うぎを目がけて、ドーンと腰をおろしてしまった。 ふウ……と吐とい息きをつくと、何か、訳の分らぬことをつぶやいて、こんにゃくのように体ぐるみ、フラフラと首を振っていた。 晒さら布し売りの女がクスクスと笑った途端に、あたりに腰を掛けている旅の者が、声をこらえて吹きだした。で――宅助は、初めて自分が、衆しゅ目うもくの中にいることを知って、思いだしたように、とつぜん、一同へお辞儀をした。 ﹁へい、皆さん、わっしゃ女に逃げられてしまったんです、女にね。おまけに、毒を呑まされたので、少しこのウ……頭の芯しんがフラフラとしていて、向うの山も、この家も、人様の顔も、動いて見えるくらいですから、少し様子がおかしいでしょう……。ですが、狂きち人がいじゃございませんから、笑わないでおくんなさい。可哀そうです、わっしの身になってごらんなせえ、笑いごッちゃありませんぜ﹂ まじめに釈明したのである。 宅助がきまじめで何かいうほど、初めのうちは、みんないっそうおかしがったが、その眼色、顔色がよく分ってくると、誰も笑わなくなってしまった。 ﹁女といっても、わっしの情い婦ろじゃございません、主人から預かってまいったお部屋様なんで――。どなたか、ご存じでしたら教えておくんなせえ、どうしても、そいつを取っ捕まえなくちゃ、国へも帰れませんし、第一わっしの無念がおさまりません﹂ と、宅助、茶店の中の者をいちいち白い眼で見廻した。 誰も返へん辞じをする者がない……。 いったいこれは気きち狂がいかしら、それとも本当に、ああまで一念になって、女を尋たずねているのかしら? と誰もが心のうちで判断を下しかねている態さまだ。 ﹁そう、そう。女といったって、ただ女だけじゃ人様にゃ分りますまい。その女というのは、この大阪にれっきとした店を張っている、ある料理屋の娘でして――へい、ですが、そこには帰りません、とにかくこの三郷ごうの土地をうろうろしているに違えねえので、年は二十四、五だろうが、それよりはグッと若く見えて、癆ろう咳がい病やみですから、色はすきとおるほど白く、姿は柳やな腰ぎごしというやつ。ヘエ、服な装りですか、服な装りはもちろん襟掛けの袷あわせで、梅に小紋の大おお柄がらを着、小こや柳なぎ繻じゅ子すを千鳥に結んでおりました。そいつを尋ねておりますんで――そいつをネ、どうでしょう、誰かこの中で、そんな女を見かけた方はいますめえか、名前はお米という奴で、お米、お米、知っていたら、どうか教えておくんなさい﹂ と、言い終ると、こんどは誰ともなく、ワハハハと笑い出して、それをしおに、茶店中の者が、宅助を余興に見て、腹を抱えてしまった。 あまり真剣にすぎる身みぶ振りは、他ひ人との目に滑こっ稽けいとなって映るのに、まして、宅助の尋ねものが美人というので、誰もが笑わずにいられない。宅助もそれまでは、見み得えも何も忘れていたが、こう笑われた上に、誰も相手にしてくれない様子を見ると、いささか間まが悪くなって、またこそこそと茶店を歩きだした。 すると、その中にも、たった一組、思いがけない知ち己きがあって、かれが茶店を離れると一緒についてきた者がある。 ﹁宅助さん。もし、宅助さんたら﹂ 二軒茶屋の床しょ几うぎへ茶代を置いて、こういいながら、あわてて、後を追ってきた手てだ代いふうの男と、そして、三十がらみの商家の御ごり寮ょう人にん。 それは、四国屋のお久く良らと、手代の新しん吉きちだった。 ﹁おーい、お待ちってば、宅助さん。おーい、森家のお仲ちゅ間うげん――﹂ 妙に眼ばかりを光らせて、前かがみにあるいていた宅助は、やっとその声に気がついて、 ﹁え? ……ああ﹂ 気のない顔で立ち止まった。 ﹁これは、四国屋のお内ない儀ぎさまに新吉さんで﹂ ﹁どうしたんだい、宅助さん﹂と、新吉が肩を叩くと、宅助はふらりとよろけて、 ﹁どうにもこうにも、まったく弱ったことができましてね﹂ ﹁その話は、今向うの茶店で聞きましたが、森啓之助様の匿かくし女おんな、お米という人がいなくなったとか﹂ ﹁この大阪で、姿を消してしまやがったんで、それを見つけださねえうちは、国元へも帰けえれません。あ、そして、お店の船は、もう近いうちに阿波へ出ることになりやしょうか﹂ ﹁荷の都合で少し遅れたから、多分、この月の内には出ないだろうよ﹂ ﹁とすると――五月の中なか旬ごろになりますな。じゃ、まだだいぶ間があるから、それまでに、お米の奴を捕まえて、一緒に乗せていただきます。四国屋の船に便乗して帰れというなあ、初めから、旦那様のおいいつけだったので﹂ ﹁ほかならぬ御家中のお方、船はどうにもご都合をつけますが、そのお米様とやらが、見つからぬうちはお困りですなあ﹂ ﹁いまいましい畜生でさ。だが、宅助の一念でも、きっとそれまでには、お米の奴を取っ捕まえます。ああ、それと新吉さん……まことに面目ねえ頼みだが、少しばかり、当座の小遣銭を合ごう力りきしておくんなさいな……、恥を話すようだけれど、路ろぎ銀んはみんなお米のやつが持っていたので、今朝からまだ一粒の御飯も腹に入っていねえありさまなんだ﹂ ﹁ええ、ようござんすとも﹂ お久良が気の毒がって、五、六枚の南なん鐐りょうを、手の上へ乗せてやると、宅助の飢うえた心は、銀の色にわくわくとおののいた。 ﹁あ、ありがとうござんす﹂ 幾度となく辞儀をした。 そして、思いがけなくありついた南鐐を懐ふと中ころにして、お久良と新吉に別れて行こうとすると、猫ねこ間まが川わの堤どてに添って、柔やわい草を踏んで、何か語らいながらこっちへ来る男女がある。 男は――若い浪人である。 形のよい編笠に、黒くろ奉ほう書しょの袷あわせを着ている。スラリとした中肉に、袷あわせの肌はだ着つきがよく、腰には落し目に差した蝋ろう消けしの大小、素すあ足しに草履、編笠をうつ向き加減に、女の言葉を聞いていた。 その人に寄り添ってくる道づれは、小こま股たの切れ上がった江戸前の女で、赤あか縞じまの入った唐とう桟ざんの襟付きに、チラリと赤い帯揚を覗のぞかせ、やはりはにかましげな目を、草の花にそらしながら歩いていた。 手代の新吉は、それを見ると、あわててお久良の袖そでを引きながら、 ﹁もし、お内か儀みさん﹂ とあごを指した。 ﹁あのお侍の側にいるお女中は、少し風ふうが変っているが、いつぞや、木曾路で私たちを助けてくれた、あの若い旅のお方じゃありませんかね﹂ ﹁ほんに……﹂と、お久良も目をみはった。 向うでは何気なく、新吉の側をすれちがって行きそうになるのを、お久良がしかとその人を見届けて、前へ廻って行くなり、ていねいに小腰をかがめた。 ﹁もしや、あの……失礼でございますが﹂ ﹁はい、私?﹂ ﹁さようでございます、お見忘れかも存じませぬが﹂ ﹁ああ、あなたはいつか木曾街道で﹂ ﹁よい所でお目にかかりました。その節は、私たちが途方に暮れていたところを、ご親切に救っていただきまして、ろくにお礼も申さずお別れ致しましたが、いつもこの新吉と、よそながらお噂ばかりしておりまする﹂ ﹁なんの、親切だのお礼だのと、そうおっしゃられては困ります。ただほんの旅先での面白半分……﹂ ﹁いいえ、ぜひ一度はお目にかかって、しみじみと、お礼を申し上げたいと思っておりましたところ――少し船が遅れましたので、今日は、高こう津づのお詣まいりから黒くろ門もんの牡ぼた丹んえ園んへ廻ってまいりました。これも高津のお宮のおひきあわせでございましょう﹂ ﹁では、まだ、阿波へは?﹂ ﹁はい、船の都合で、少し帰りが遅れておりまする﹂ ﹁とおっしゃると、なんぞ次によい便船でもお待ちなさるのでございますか﹂ ﹁いいえ、手前どもの持ち船で、御城下へゆく積み荷の整ととのい次第に、港を立つ都合になりますので﹂ ﹁そうですか――﹂と深くうなずいて、 ﹁では、四国屋という、お店の持ち船でござんすね﹂ と、それに気を惹ひかれて、連れの浪人と目を見あわせたまま、ジッと考えている間に、その浪人の編笠のうちを覗いた宅助が、あっ、とびっくりして走りかけた。 ――と思うと、浪人の、黒奉書の片袖が、乙つば鳥めの羽のようにひるがえって、真っ白い腕かいなに電撃の速度がついた。 脾ひば腹らへ当あて身み! たった一突き。 ﹁ウウム――﹂というと、不運な宅助、またここでも、駈けだすはずみを横につけて、向うの草むらへ、逆さかとんぼを打って気絶した。 宅助が気を失ったのを見すましてから、侍は、おもむろに、突きだしていた拳こぶしを納め、その指先を笠べりにかけて、 ﹁――不ぶさ作ほ法う。平ひらに﹂ と、軽く、またにこやかに、お久良と新吉へ、初めての会釈をする。そして、静かに、笠を払った。 今の、早はや技わざにも似ず、鬘かつらをつけたような五分月さか代やきに、秀麗な眉目の持ち主。 あっけにとられてする二人の目礼をうけて、どこかに微笑を含んでいる。 ﹁お綱﹂ と、側にいる唐とう桟ざん縞じまの女をみて、 ﹁あれは森啓之助の仲ちゅ間うげん、拙者の顔を見知っているゆえ、当あて身みをくれておいたのだが、しかし、四国屋のお内儀、さだめし驚いたことであろう。そなたからわけを話して、その後に、例の……船の便びん乗じょう、頼んでみられてはどうか﹂ ﹁私も、そう思っておりました﹂ ﹁是非に、承諾して貰うように﹂ ﹁はい、ひとつ、話してみることに致しましょう﹂ ﹁うむ﹂ と、目くばせ。 法のり月づき弦げん之のじ丞ょうは、猫間川の堤つつみに上って、往来の人影を見廻した。 木曾の刃じん囲いを切り破って、お綱と万吉を助けながら、あの夜、からくも裏街道の嶮けん路ろへ脱した弦之丞は、それから数日の間に、夜旅を通して大阪表へまぎれて来ていた。 かれが着馴れた普ふけ化しゅ宗うの三衣えを脱いで、ちょうど、花から青葉へ移る衣ころもがえの機しおに、黒奉書の軽い着流しとなったのも、ひとつは、阿波の詮せん索さくをのがれる当座の変装である。 しかし、その仮の着流しが、ひどく弦之丞を色めかして、猫間堤に腰をおろし、四方へ目をやっている様子なども、決して大事を胸に抱いている鋭い武士とは思われない。 ﹁四国屋様――﹂ お綱は、改まって、小腰をかがめた。 ﹁はい……﹂ とは答えたが、その時、お久良も新吉も、少し気味の悪そうなたじろぎをみせて、 ﹁なんぞ、改めて御用でも﹂ ﹁折入ってあなた様に、お願いをしてみたいと向うにいる連れの者が申しまする。なんと、お聞きなされて下さいましょうか﹂ ﹁それはもう……﹂と、お久良は愛嬌のある口元から、鉄おは漿ぐろの艶つやを見せて、 ﹁御恩のあるあなた様のこと――自分たちに出来ますことなら、何なりと……﹂ ﹁わずかな御縁につけ入って、あつかましいお願いをするやつと、こうお思いなさるかもしれませんが﹂ ﹁どう致しまして、それどころか、私どもこそ、お住居を尋ねても、いちどはお礼に出たいと存じておりましたくらい。そして、お頼みということは?﹂ ﹁お宅様の持ち船が、阿波の国へ帰る時に、乗せていただきたいのでございます﹂ ﹁えっ、阿波へ?﹂ ﹁連れは三人、ぜひともあちらへ渡りたい用が﹂ ﹁ま、お待ちなさいまし﹂ お久良はこうさえぎりながら、少し道みち傍ばたへ――堤どての裾すそへ寄って行った。 鴫しぎ野のの花はな圃ばたけか、牡ぼた丹ん園へ行った戻りでもあろうかと見える、派手な町駕かごが五、六挺、駕の屋根へ、芍しゃ薬くやくの花をみやげに乗せて通り過ぎる。 その白い埃ほこりが沈むのを待って、 ﹁阿波へお渡りなさろうとは、何ぞよほどな御事情でござりますか。ご存じの通り、御領地堺ざかいは、関のお検あらためがきびしい国で、めったな者は、みんな船から突っ返されます﹂ ﹁さ、その禁制を知っておりますゆえ、四国屋様のお情けで、積荷の中へでも、隠していただきたい、と思いまして﹂ ﹁では、お役人の目をぬすんで﹂ ﹁ごく内密に、渡りたいのでございます﹂ ﹁さあ? ……﹂ にわかに暗い顔をして、お久良は、当惑そうに、胸へ手を差し入れたまま、しばらく、立ち思案に暮れてしまう。 後ろにいた手代の新吉は、心配そうに、主人の袖へ合図を与えた。秘密に渡海する者を商あき船ないぶねに乗せて、それが発覚したとなれば、いうまでもなく、四国屋の身代は、根ねこそぎから闕けっ所しょになる。木曾街道での恩はあるが、そんなあぶない頼みは引きうけないほうがようございます――というふうにかれの手が知らせていた。 ﹁どうでございましょう。四国屋様﹂ ﹁…………﹂ お久良は、まだ黙もく然ねんと、迷っていた。 和やわらかな微風が、堤どての緑を撫でてゆく。 ﹁嫌といわば? ――﹂ すでに、秘密の一端をもらした以上、不ふび愍んではあるが、お久良と新吉とを、このまま放してやることはなるまい――と、法月弦之丞の眸は、いつのまにか、炯けいとして、一脈の凄すご味みを帯び、お久良の返辞を、待たぬふうに待ちすましている。 ﹁もとより、こういう無理なお願いをする上は、私たちが、秘密な大望をもつ者ということは、もうお察しでございましょう﹂ お綱は、相手の遅ち疑ぎする色を見ながら、迫るように、お久良の決意をうながしていった。 ﹁けれど、四国屋様﹂ つとめて、自分の言葉を、平静に装よそおいながら―― ﹁決して、後に、そちら様のご迷惑になるようなことは致しませぬ。よしや、禁制破りが露あらわれて、領主の蜂須賀家から、お店みせへ科とががかかりましょうとも、その時こそは、幕府の御威光をかざしても、きっとお救いする道が……﹂ パチンという鍔つばの音に、お綱は、口を辷すべりかけた言葉を切って、堤つつみの上の弦之丞と眼の光をからませた。 ﹁あの……お綱さん﹂ お久良は、何か思い切った様子で、やっと顔を上げながら、 ﹁なにしろ、ここでは、深いお話も伺うかがえませぬ。それに、船の荷都合ものびておりますから、それまでの間に、いちど、私どもの寮へおいで下さいませ。その時には、何かとゆるゆる御相談もいたしましょうから﹂ 巧たくみに、逃げ口上をいって、はずすのではないかと、弦之丞の懸けね念んも、お綱の眼も、そういう相手の顔色を、天てん眼がん鏡きょうの向うに置くように見つめたが、お久良の素そぶ振りには、少しもやましいものがなかった。 ﹁弦之丞さま――﹂と、お綱は上をふりかえって、﹁どうしたものでございましょう﹂ ﹁四国屋のお内ない儀ぎ﹂ お綱に代って、こんどは、弦之丞が居場所から声をかけた。 ﹁そちらの寮へ来てくれとの言葉、大きにもっともには思われるが、何せい、人目を忍ばねばならぬ吾らの身の上じゃ。ことに、蜂須賀家には仇も多い……﹂ こういって、ジイと、堤どての上から見おろした。新吉は、何となく身がすくんで、これは、いよいよ容易なことではないと、生なま唾つばをのむ。 ﹁よろしいか﹂ 念を押すと、お久良はさすがに、大家の御寮人らしく、うなずいて、 ﹁お身の上も、およそ﹂ と、片かた笑くぼでいった。 ﹁それ故、いらざる邪推も廻るというもの﹂ ﹁ご無理のないお話でござります。けれども、町人ではござりますが、私とて、四国屋のお久良、御恩人の、あなた方をおびき寄せて、蜂須賀様へ密告しようなどと、そんな、卑怯な、恩知らずではござりませぬ﹂ ﹁うう、きっとな﹂ ﹁固く、お誓い致します﹂ ﹁その一言を信じるぞ﹂ ﹁はい﹂ と、明めい晰せきに答えた。 弦之丞は、お久良の性根を見こんで、 ﹁では、四国屋の寮とやら、どちらでござるか、お所を伺っておこう――﹂と堤どてを下りた。 ﹁どうぞ、お出まし下さいませ。場所は、農のう人にん橋ばしの東ひが詰しづめ、そこは四国屋の出店でござりますが、東堀の浄じょ国うこ寺くじに添った所が、大阪へ来た時の住居になっておりまする﹂ ﹁そして、また会う日と時刻は﹂ ﹁そちら様のご都合のよい時……、したが、昼は人目もありますから、なるべくは夜分のほうが﹂ ﹁いかにも、では、明後日﹂ ﹁きっと、お待ち申し上げます﹂ ﹁ことによると拙者はまいらずに、このお綱と、万吉と申す者が、お邪魔に伺うかもしれぬ﹂ ﹁あの万吉様なら、木曾路でいろいろな親切にあずかりましたお方、ぜひ、お目にかかりとう存じます。それでは、今日はこれで……﹂と、新吉をうながして、お久良は、玉たま造つくりの並木のほうへ帰って行った。 弦之丞とお綱は、ふたりの姿がはるかになるまで、そこを動かなかった。 ﹁法月様――ここでしたか﹂ と、その時、川の底で呼ぶ声がする。 ふりかえると、猫間川の水が、大きな波紋を描かいて、苫とまをかぶせた小舟が一艘そう、斜ななめに辷すべって、水みず禽とりのように寄ってきた。 乗ってきたのは、万吉である。 棹さおをしごいて、水玉を降らし、舳へさきをザッと芦あしへ突っ込むと、無言のまま弦之丞が飛び乗った――そしてお綱も。 ﹁あぶない……﹂ と、手をのばした弦之丞の胸へ、お綱はよろけ込むように抱かさった。 苫とまをかぶった過かし書ょぶ舟ねは、気永に、猫間川の淵ふちを上のぼって行った。 秋ならば、さだめし、虫むし聴ききの風ふう流りゅ子うしが、訪れそうな所である。上かみへすすむほど、川幅も狭くなって、岸の両側から青あお芒すすきや千ちぐ種さの穂が垂れ、万吉の棹さおにあやつられる舟の影が、薄暮の空を映した滑なめらかな川面を、水みず馬すましのように辷すべってゆく。 苫とまの隙間から、白い煙が、静かに揚がっていた。 小さなこんろや土どな鍋べが見える。 お綱の白い手が、舟べりから水へ伸びて、二つ三つの瀬戸物を洗っていた。 ささやかな舟ふな世じょ帯たいで、夕ゆう餉げの支度ができるらしい。 かかる間に、舟は玉たま造つく村りむらからズッと奥へ入って、とある土橋の橋はし杭ぐいへ結びつく。 その頃、もうトップリと日が暮れて、猫の眸ひとみに似た二ふつ日かづ月きが、水の深しん所じょに澄んでいた。 ﹁じゃ、弦之丞様、今夜はちょっとお暇をいただいて、家うちの様子を見たり、また、当とう座ざの食くい物ものを少し仕入れてまいりますから――﹂ 舟をもやうと万吉は、こういいながら、陸おかへ上がる支度をしていた。 ﹁お、行くのか――﹂と苫とまの中から弦之丞。 ﹁わっしが帰るまで、どうぞ、ここを動かないように﹂ ﹁今夜はここで舟ふな泊どまりじゃ。ゆるゆる用をすましてくるがよい﹂ ﹁へえ。なにしろ大阪へ来てからも、まだろくろく顔を見せていねえ女房、ことによると今夜あたりは、向うへ、泊りたくなるかもしれません﹂ ﹁うむ、そうしてまいるがよいではないか﹂ ﹁ありがとうぞんじます﹂ と万吉、弦之丞のまじめさと、お綱のはにかましげな様子を見くらべて、 ﹁いっそ、今夜ひと晩は、この万吉の帰らねえほうが、そちら様にもご都合がいいかもしれませんね。え、どうですな、お綱さん――﹂ と、冗談のようにいう。お綱は、顔を赤くして、 ﹁なるべく、早く……、ね﹂ と、いったが、万吉は、その顔を指さして、 ﹁嘘ばッかり……﹂ と、笑いながら、ひらりと陸おかへ上がってしまった。 そしてまた急に、思い出したようにふりかえって、お綱のほうをジッと見ながら、 ﹁ほんとに、今夜は、帰るまでも、少し遅くなりますから……、どうか、そのつもりで、後をよろしく……へへへへへ。よウがすかい、お綱さん、あの約束をネ﹂ と、目に物をいわせるそぶり。 あの約束? ――と意味ありげに。 それは、駿する河がだ台いの墨すみ屋やし敷きで、固く、お綱と万吉の間に交わされた、あのことを指したのに違いない。あのこととは、無論お綱の心の奥に、言いだせずに秘められている、恋である。 だが、弦之丞には、すでに、愛人として、お千ち絵え様という者がある。それを知っている万吉の立場では、いかにお綱の心を汲くんでも、弦之丞へ向って、今日まで、どうもその二重の恋を取次ぎにくかった。 だから。 今夜は狭い小舟の苫とま、わたしもいないし、人目もなし、ちょうどいい水明りに、ちょうどいいこの折に。 ﹁あの約束をネ﹂ と、万吉が、いったのである。 打ち明けてごらんなさい、と粋すいをきかして、目知らせしたのだ。 そこで万吉は、堤どてを上がると土橋を渡って、スタスタと、宰さい相しょ山うやまの木立を目あてに、そこから遠からぬ桃もも谷だにの自分の家へ急いで行った。 この大阪表へ来て以来、阿波の原はら士しや例の三人組が、手分けをして自分たちの居所を探しているという風聞なので、その詮せん索さくの目をのがれるため、弦之丞、お綱、万吉の三人は、ひそかにこの過書舟の苫とまをかぶって、浮草のような幾日を過ごしていた。 そして、一方には、阿州屋敷の動静をさぐり、かねては、阿波へ渡るべき、好機会を狙っている。 ある日は、終日舟から上がらぬこともあるので、それに要いる手廻りの品は、いつか、万吉が真夜中に自分の家を叩たたいて、お吉に、そッと運ばせたものである。 で、ささやかな舟世帯は、三郷ごうの川や掘割を縫って出没し、夜は、人目の立たぬ芦の中に、浮うき寝ねの鳥と同じ夢を結んでいた。 そうして幾夜を送るうちに、弦之丞も、お綱の生い立ちや、またその性質を、充分に理解してきた。ことに、お綱と世阿弥とが、不可思議な血縁につながれていることを知ってから、彼は、もう阿波へ共に行くことを拒こばまなかった。 そして、わずかな間に、深い親しみをもつようになった。 けれど、それが、恋の進展とはならない。なぜならば、お綱はまだ、胸に秘めているそれをきょうまでの間に、弦之丞へ対して、言葉の端にも、ふれてみたことがないから――。 といって、お綱の思慕は、人知れずに、募つのりこそしてきたが、さめてはいない。 こうして、狭い小舟の中に、ひとつに暮らしていればいるほど、悩ましい恋情を理性で伏せることができない。それは、誰としても当然に起こる苦悩であろう。 恋人と共に、苫とまの中に隠れて、胸の奥に燃えさかっている恋を語りださずにいることは、その人の側にいるという甘いよろこびを越えて、むしろ、切ない忍苦だった。 ある夜は、木枕をならべ、薄い褥しとねを臥ふしかつぐ五更こうに、思わず、指と指のふれあって、胸をわかすこともあろう。 やすらかに眠るその人の寝顔が怨めしげにみつめられて、明あし日たの朝、瞼まぶたの腫はれの恥かしいこともあろう。 その心持を、万吉はよく知っていた。 だが、万吉にも、弦之丞へそれと口を切ることができないので、ただ、お綱の心ここ根ろねを、蔭で、不ふび愍んと思いやっているばかり……。 ﹁そりゃ、お千絵様と、誓ったこともあるだろうが、あのお方は、癒なおるかどうか分らない程な、気きぐ狂るいという病気になっているのだから……﹂と、こう、自分で理由をつけて、どうかして、お綱にこの恋を遂とげさせてやりたい――とそのたびごとに考えている。 ﹁――決して、それが不倫な恋とはなりゃしまい。お千絵様とお綱さんとは、義理の姉きょ妹うだいには違いないが、妹のほうが乱心になって、弦之丞様との恋が失せてゆくものとすれば、お綱さんがそれに代ったって、ちっとも、悪い話じゃねえ。むしろ、まことにけっこうなことだろうと思うんだが、なにしろ、法月様ときた日にゃ、そこになると、まったく融ゆう通ずうが利きかねえからなあ﹂ いつも、この二の足で、弦之丞の顔をみると、彼もお綱も、そんなことは、おくびにも出せないのである。 そこで、万吉。 今夜は、お綱に粋すいを利きかせた意味と、実は、自分も、久しく会わない女房のお吉に、ちょっと優しい言葉でもかけてやろうか、という気持から、舟を上がって行ったものだ。 お綱にとっては、粋すいな万吉の姿へ、両手を合せて拝みたいほどな機会である。 こんなよい晩なんて、決して、今まで、ありはしない。 けれど、万吉が、そこから抜けてみると、なんとなく取りつく島がなく、せっかくのいい晩が、息ぐるしく、口もきけずに、過ぎてしまいそうだ。 思えば、もう一年前の夏になる。 大津の打うち出でヶ浜はまで、あの雷の落ちた晩に、雨宿りをしていた瓦かわら小屋で、ゆくりなくこの人を見て、お綱は初恋を知った。 片恋のまる一年――、今もまだその恋は片思いかもしれないけれど――。 顧かえりみると、涙のにじむ一年であった。 身をもやつし、心も痩せぬいた、月夜の風か邪ぜ。 その一念が届いて、やっと今夜のような、たった二人でいる機会に恵まれてきたのだ――と思い躍りながら、かれの心は、まだ昔のはにかみを、どうしても脱けないらしい。 小舟の隅に寄って、もじもじと苫とまの藁わらを抜き、抜いてはそれを輪に結んで、水の中に流している。 お綱がそうしていれば、弦之丞もいつまでも黙然として、舟べりへ片かた肘ひじを乗せ、ジイと、水に映うつる二日の月を見つめている。 ﹁少し、寒くなりはしませんか……﹂ やがて、お綱がいった。 ﹁だが、もう晩春、苫とまを垂れこめては、むし暑かろう﹂ ﹁そうですねえ﹂ 後を次ぐ言葉を考えながら、いつか、つぎ穂を失いかけて、また胸苦しい沈黙がつづきそうになる。 ﹁あ、今のは﹂ ﹁何かの?﹂ ﹁時ほと鳥とぎすではありませんでしたか﹂ ﹁あれは五位い鷺さぎ﹂ ﹁まあ﹂ ﹁えらい違いじゃ。は、は、は、は﹂ また話の緒いと口ぐちを失って、お綱は顔へ血を上のぼせた。 またしばらく、手持ちぶさたに、もじもじしていると、 ﹁お綱、今のうちに、髪をなおしてくれぬか﹂ と、弦之丞のほうから渡りに舟の頼みが出る。 普ふ化けの宗しゅ衣うえを着ていれば、髪も切きり下さげでなければならぬが、黒くろ紬つむぎの素すあ袷わせを着流して、髪だけがそのままでは、なんとなく気がさすし、そこらをウロついている原はら士しの眼を避ける上にも、容かたちを変えたほうがよかろうと、昨日も話していたことである。 ﹁つい忘れておりました。では、ちょっと梳すきなおして差上げましょう﹂ ﹁どうか、願いたい﹂ ﹁おやすいことでございます﹂ と、自分の黄つ楊げの櫛くしを抜いて、弦之丞の側へ寄ったが、高鳴る血のひびきが、その人の肌へ感じられはしまいかと、左の手で、右の袂たもとと乳の辺を軽く抑えた。 ﹁あいにくと、鬢びん盥だらいがございませんが﹂ ﹁なに、これでよかろう﹂ と、かれは背中を向けたまま、無造作に、舟のアカ汲くみを取って、手を伸ばし、川の水を掬すくって、お綱の側へ置いた。 ﹁それに鏡も﹂ ﹁いや、鏡は要いるまい﹂ ﹁何もかも、ないものだらけでござります。ちょうど、あの……新世帯みたいに﹂ ﹁流るる々てん転じゅ住うの舟ふな住ずま居い。ここしばらくは、思いがけない、気楽な境きょ界うがいになったもの……﹂と弦之丞も、ほほ笑えまれる。 四、五枚の苫とまをはねてあるので、細い眉形の月と星明りが、お綱の手元をほのかに見せた。 弦之丞が汲んだアカ柄びし杓ゃくの水に黄つ楊げの鬢びん櫛ぐしを濡らして、 ﹁あの……﹂ まぶしそうに、横顔を覗のぞきこんで、 ﹁月さか代やきは、このままにしておきますか﹂ ﹁浪々して以来の置かた物み、同じ剃そるなら、大望を遂げての後、サッパリと落したい﹂ ﹁では、たぶさだけを﹂ ﹁何かに結びなおしてくれ﹂ ﹁はい﹂ 女房のような返へん辞じの為しか方た。 お綱は、自分の声に動どう悸きを打ったが、弦之丞は無関心に、五分月さか代やきをかろく梳すく櫛の歯ざわりに、こころよげな目をふさぐ。 ﹁元もと結ゆいを切りますから、笄こうがいでもお貸し下さいまし﹂ 弦之丞は、無言で、刀の小こづ柄かを抜いて渡す。根を切って、それを返し、ふさふさとした黒髪を幾たびも梳すいて、女用の松まつ金かね油あぶらは、やや香りが高すぎるが、それを塗って、形よく銀いち杏ょうに折り曲げ、キリキリッと元結を巻いて、根締めの唾つばを舐なめてつける。そして、 ﹁どうでございますか﹂と、甘えるように、櫛を拭く。 ﹁よかろう。いや、ご苦労であった﹂ ﹁お気に召さないかもしれませんが﹂ 櫛にからんでいた男の毛を、指の先に巻きながら―― ﹁けれど、たぶさに結んだ髪も、ほんに、よくお似合いなさいますこと﹂ 流し眼に、ジイと、燃ゆる思慕を。 離れがたなく、居なりのまま、精いッぱい、心の一端でも、洩らしてみようとするのだが、眼元ばかり熱くなって、咽の喉どはいたずらに渇かわいてくる。 ﹁ああ……﹂と、思わず、火のような吐息。 そして、がっくりと片手を落した途端に、お綱のフッサリした黒髪が、投げるように、男の膝へかぶさった。 弦之丞は、はっと驚いた面持をして、その背中へ、手を迷わせた。 と急に、嵐のように。 ﹁法月さん! ……﹂ こらえぬいていた涙の堰せきを切ってお綱は、強く身をふるわせた。 ﹁か、かんにんして下さい……、私は、泣きたくなりました。泣かして……泣かして﹂ きょうまで、無理にいましめていた理性と羞しゅ恥うちを破って、片恋の涙は、いちどに、男の膝を熱く濡らして、今はもう止め途どもない。 雨に叩かれた花かとばかり泣きくずれた女の体が、弦之丞には、どうにもならぬような重さだった。お綱は、泣けるだけ泣いた。心ゆくばかり、泣くよりほかにない恋である。 船はゆるい川波に揺ゆれ振られている……。 男の胸に食い入って、しゃくりあげている姿は、やがて、寒気にでも襲われたように、ワナワナとふるえだした。乱れた着物の裾すそから、お綱の足の拇おや指ゆびがはみだして見える。――弦之丞は、ギュッとこわばってゆくその白い足の指を見つめたまま、黙思していた。 ﹁どうしたのだ……お綱﹂ と、弦之丞は、衝うたれた驚きから、やがてさめて、お綱の体を、起こしかけた。 涙に濡れた女の顔は、重たく粘ねばく、やさしい力では、容易にひしとすがった男の膝を離るべくもない。 ﹁泣いていたのでは、理由がわからぬ。わけを申せ、これ﹂ と、なだめるように訊きかれる言葉が、何とはなしに、またかの女じょの新しい涙を誘った。 ひとつは、かかる夜舟の泊りに、ひしひしとさびしみの迫る、旅愁というような気持も、この夜、お綱のわれとわが恋を、極度に、いとしませたものかもしれない。 人一倍、苦労もし、世間の浪にももまれているお綱、男を男とも思わぬ筈であるお綱が、不思議と、弦之丞の前にある時は、いつも柔順で無む垢くな一処女であった。恋というものの力が、こうも、女性の性格まで左右するものかと、万吉は、よくひそかにそれを眺めていた。 けれど、お綱は、自分で自分という女が、あぶない女だということを知っている。ひとつ、駒の手綱が狂ったら、どう走ってゆくか分らない。打出ヶ浜で、この人に恋することがなかったら、今の苦悩がない代りに、もう抜くことのできない悪事の沼に辷すべりこんで、女掏す摸りの兇きょ状うじ持ょうもちを、一生、肩に背負って、十手の先を逃げ歩いていたかもしれない、と思うことはいくたびであった。 しかし、お綱のこうなってきたすべての動機が、恋の力であったから、その炎は、消ゆべくもない力で、燃えている。弦之丞の側にいればいる程、それが熾しれ烈つとなるのは、当然だった。 もう、お綱は、たえられなくなった。 片恋の炎を、思慕の人へも、燃え移さずには、たえられない。 今、弦之丞が、優しい言葉で聞いてくれたのを幸いに、鬱うっ結けつしていた血の塊りを吐くように、この一年、思いつめていた心のたけを、とぎれとぎれに、打ち明けた。 ﹁さだめし、はしたない女、身の程を知らぬ女と、おさげすみなさいましょう。……ですけれど、あの法月さん、わたしは、どうしてもあなたを思いきることができませぬ。かなわぬ恋と知っていながら――なんという因果な女でござんしょう……﹂ やっと、膝を離れたが、またガックリとうつむいた襟えり脚あしが、夕顔のように、ほの白じろい。 二日月に隈くまどられた弦之丞の横顔は、鑿のみで彫ったように動かなかった。眉の毛も動かさないという態さまだった。なんという冷たい、無表情な顔だろう。 夕せき雲うん流りゅうの剣のごとく、また、今見る顔のごとく、この人の心もこんなに冷たいのかしら? ……と思ってみると、その動かない顔の鼻柱のわきを、ポロポロと流れてきた涙の条すじが、月明りに光ってみえた。 ﹁もし、法月さん……﹂ 自分に、与えられた涙を見ると、かの女じょは、もうそれだけで、限りないよろこびにふるえた。 ﹁私が、女だてらに怖ろしい渡とせ世いをしていたことは、いつか、万吉さんからも話しました。また、私の口からも、幾度となく懺ざん悔げば話なしをしてあります。けれど、もうお綱は、きれいに足を洗いました。そして、人並な女になりたいともがいているのでございます。……助けるとおもって、弦之丞様、どうか、お綱を、お綱を……﹂あとはいえずに、すがりついた。女が、男にすがる力は、ある場合に、命がけ以上である。 ﹁――恥かしいのを抑えて、こうお願いするのでござんす。あなたはお武家、大番組の御子息様、私の前身は、あられもない女掏す摸り。それだけでも、きっと、お嫌いやなのは分っております。けれど、お綱は、あなたがなくては、生きておられぬ女なのでございます﹂ ﹁――その心もちは――﹂ と、かすかにいって、弦之丞は、眼がしらの露を払った。 ﹁お分りなされて下さいましたか﹂ ﹁――分ってはいるが……ああ﹂ いかにも苦痛な一句。無表情にみえる姿、冷徹にみえる眸、その奥には、麻のごとく、かき乱れているものがある。でなければ、なんで弦之丞の睫まつ毛げにあの涙がういてこよう。 かれも、お綱の心情を、よく知っていたのではあるまいか。しかし、江戸表には、いちど誓った愛人のお千絵が残っている。弦之丞としては、そのお千絵をまだまったくの廃人とは思っていない。いや、狂気して、ふたたび癒いえぬ人であればある程、それを昨きの日うの人にして、お綱の恋を、今すぐにうけいれる気にはなれないであろう。 ﹁では……﹂と、息の弾はずむのを隠して、お綱は弦之丞の側へヒタと寄りついた。もう、羞しゅ恥うちというようなものを超こえた懸命である。 ﹁――あなたを思い詰めている私の心、それは、わかっていると、おっしゃるのでございますか﹂ 男の手を握りしめて、お綱の美うるわしい眸が燃え迫っていった。なんという純情な眼だろう、強い魅惑だろう、若い、ことに多感な、弦之丞の血をおののかさずにはいない力だ。 かれの手は、あやうく、何ものも忘れて、お綱のしなやかな体を抱こうとした。一瞬の煩ぼん悩のうが、くらくらとするばかり、黒い炎をあげてかれの情血をかき乱した。 ﹁わかってはいます。――だが﹂ ﹁だが? ……なんでござんす﹂お綱の手は汗に粘ねばって、もがれても、離そうとはしなかった。弦之丞は悩ましい肉感に怖れた。彼の武士的な理性も、強い髪の香りと、弱い女の哀訴に、息づまりそうだった。 ﹁――わかってはいるが、私はお嫌いなのでございましょう……弦之丞様、ほんとのことをいって下さい、どうか、ほんとのことを﹂ 女は真剣である。必死である。男は恋を生活の一部とするが、女はそれが全生命であるという――恋を観みる人の言葉のとおりに。 だが? ……といい濁した弦之丞の理性も、こう必死に迫ってきたお綱の前には、しどろになって、懊おう悩のうの息をついた。 ﹁ほんとのことを! 弦之丞様﹂ ﹁…………﹂ ﹁ほんとのことを、聞かせて下さい。お嫌ならば、お嫌と﹂ もうお綱の目に涙はない。生死の境に立つような、森しん厳げんな覚悟をもって、こう問いつめる。五体には、ただ恋の血が高い脈を打っているばかりだ。 弦之丞は答えに窮した。こうまでの真心をささげてくる女性に、一時のがれの嘘をいうことは、気がすまない。いや、かれの心の奥を割ってみれば、かれの心も、決してお綱を忌いとってはいないのだ。むしろ、弦之丞もいつかお綱を好もしくさえ思っている。 まして、いじらしい、熱ねっ感かんな涙を流されれば、かれの若い心も知らず知らずに、恋のるつぼに溶かされてくるのが当然だ。けれど、お綱に恋をし、お綱の恋をうけいれていいかどうか、その思しは判んり力ょくを失わないだけが、弦之丞の無表情に見える内ない悶もんの苦しさであり、お綱には、歯はがゆい悶もだえであった。 ﹁思い違いをしてはならぬ。この弦之丞は、決してそちを忌いとうてはいない﹂ かれは、遂に、こういってしまった。 ﹁おお!﹂ふるえついて――﹁それは、真しん実じつでございますか﹂ ﹁真実、わしはそなたを、憎めない﹂ ﹁う、うれしゅうございます……﹂ ザブリと、船と苫とまとが揺すぶれた。 真っ青な川かわ面づらを、まぐれ波が一ひと条すじ白くよれてゆく。そして、後に風の音があった。 ﹁しかし、お綱、わたしの言葉もきいてくれ﹂ ﹁はい……﹂ お綱は、やさしく男の手にもたれた。 いつか弦之丞は、そのふところへ恋すまじき女を抱えていることには気づかず、つとめて、たぎる血をしずめようとした。 ﹁――そなたの心を話されてから打け明けるは、つらい事情であるが、わしには遠い以前から、誓いをした仲の女にょ性しょうがある﹂ ﹁あ……﹂お綱は不意に、胸へ氷をあてられたように、 ﹁それをおっしゃって下さいますな……そ、その人の名を聞かされれば、私はすぐにも、あなたの側を去らなければなりませぬ﹂ ﹁では、そなたそれを、知っているか﹂ お綱は返辞をせずに、激しい痙けい攣れんを起こして、またすすり泣きに泣いていた。 弦之丞とお千絵様との仲は、きょうまで、万吉もかれも、決してお綱に話してなかったことだが、怜れい悧りなお綱は、墨すみ屋やし敷き以来の事情を綜合して、明らかに、心のうちで、それと察していたのである。 ﹁弦之丞様、なんで、お綱がそれを知らないでおりましょう。思うお人に向っては、女は、怖ろしいほど細こまかい心を配っております。けれど、義理の妹の恋を奪って、それで、私ひとりが倖しあわせになろうなどとは夢にも思やしませんの。ただ、私の恋はある時期まで……。ある時期までの、その、間だけなんでございます……﹂ 嗚おえ咽つしながら、常々心にわだかまっていた悩みを、いっぺんにぶちまけた。 ﹁――時節というのも、ほんのわずか。あなたと一緒に阿波へまいって、首尾よく、目的を遂げるまで――。その道づれの間だけ、どうか、お綱のはかない恋を、あなたも妹もゆるして下さい……。そして、その日が来ましたら、私はすべてを忘れましょう。義理の妹に倖せをゆずって、自分ひとりの身をどうなとします……。仲にはさまった身にとれば、ずいぶん無理なと思うでしょうが、あなたが妹と約束のあるお方とは、夢にも、知、知らなかったお綱ですもの……﹂ 思わずむせばす声が、愁しゅ々うしゅうとして腸はらわたを掻きむしるように、小舟の内からあたりの闇へ洩れて行った。 するとその時、声を探りながら雑草を払って、ばらばらと水ぎわへ降りてきた六、七人の黒い影。 ﹁それッ、苫とまをはねろ!﹂というと、一人の侍、繋もや綱いを取って舟を引寄せ、あとは各めい![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
疾しっ風ぷう
その後、安あじ治が川わ屋敷にとぐろを巻いていた天堂、お十夜、旅川の三名は、何らの急報を得てか、十数名の原士をひきつれ、押おッとり刀で桃もも谷だにへ駈け向った。 かねて、弦之丞の居所を知る唯一の手がかりとして、人をもって万吉の留守宅を見張らせておいたところ、その万吉が今宵こッそりと帰ってきて、中二階のかぼそき灯ともしにお吉と声をひそませているという――早耳。 急げばとて安治川尻じりから、三郷ごう東端はずれの桃谷村、やや一刻ときはかかったろう。横堀を越えて寺町の区域をぬけると、もう大阪らしい町家の賑わいは影を滅して、幾万坪ともない闇に、数えるほどな遠い灯あかり。 細い二日の月は足元の頼りともならず、所々の古沼や水溜たまりが、ただそれと知られるくらい。このあたりに多い瓦焼きの土つち採とり場や植木屋の花畑など、どこという嫌きらいなく突っ切って、やがて、目ざす家の裏手から、灯かげの洩れる中二階の気配をうかがいすます。 裏の水口も表の戸も、固くとざしてあって、節穴から覗のぞいてみても、万吉の穿はき物ものまで用意ぶかく隠してあった。けれど、耳を澄ませば、きわめてかすかな話し声が中二階でしていることはたしかである。 ﹁いるな﹂ ﹁いる﹂ ﹁では……﹂ 目と目が険けわしくうなずきあう。 シトシトとその人数、遠く離れてしまったきり、あとはあたりにその影を見せない。 ややしばらくたつと、中二階から行あん燈どんをさげて、お吉が階し下たへ降りてきた。 土間へ降りて、細目に戸を開けた。 そッと顔だけ出して、かれがあたりを見廻した時も、どこにも怪しい人影も気配もない。 ﹁――じゃお前さん、またこれぎりで、当分は別れ別れでございますね﹂ 土間へ穿はき物ものをそろえる時、お吉の胸に、ひしと、淋しさが迫った。 ﹁ああよ﹂ 万吉は、わざと、銭湯へでも行くように口軽く、 ﹁しばらくは帰らねえ﹂ ﹁ずいぶん、体だけは、達者にして下さいね﹂ ﹁心しん配ぺえするなってことよ。それよりゃ、てめえの頭痛もちでも癒なおすがいい、灸きゅうでもすえてな﹂ ﹁はい﹂ ﹁じゃ、頼むぜ、留守を﹂ ﹁あ……あなた﹂ ﹁忘れ物か﹂ ﹁…………﹂ ﹁ばかッ﹂ ﹁…………﹂ ﹁泣くねい! 縁起でもねえ﹂ ﹁わ、悪うございました。ツイ﹂ ﹁笑ってくれ、頼むからよ。笑っておれを出してくんな。お――、弦之丞様が待っておいでなさるだろう﹂ 戸を開けて出ると、ふりかえりもせずに、万吉は、また猫ねこ間まが川わの岸へ急いで行った。 そして、ふたりが待っている筈の所へ来てみると、そこには、船も繋も綱やってなければ、お綱と弦之丞の姿も一向見あたらない。 ﹁どこへ行ってしまったんだろう。あれ程、ここを動かずに、待っていてくれといったのに﹂ 土橋の上に立って、腕うでぐみをした。 ふと、妙だな? と思って見たのは、葭よしの間に投げ散らされてある苫とまの莚むしろ――そして、その時初めて気がつくと、綱を解かれた捨すて小おぶ舟ねが、ゆるい猫間川の水に押されて、はるかの下しもへ流されてゆく。 だが万吉は、それが主ぬしなく漂ただよって行くものとは思えないので、見つけるとすぐに口へ手を当てて、 ﹁弦之丞様ア﹂ と呼んでみた。 ﹁おうッ﹂ と、うしろで、返辞があった。あッと驚いてふりかえると、抜ぬき刀みを持った天堂と旅川が、いきなり目前へ跳とびかかってきた。 ﹁野郎ッ﹂ と叫んで、天てん満まの万吉、土橋の欄干を飛び離れたが、その一方には、眼まなこを爛らんとかがやかして身を屈している者がある。 かれの姿が躍るやいな、待ちかまえていた柄つかの手は鞘さやを離れて、横に走ったそぼろ助広、ザッと、万吉の腰こし車ぐるまを斬った。 ﹁ううッ……﹂と一声。 人間断末の呻うめきをすごくあげて、爪先立った万吉の体は、キリキリと弦つるに締められてゆく弓のように空くうをつかんで後うしろへそる――。 そして、したたかに腰へ食い入った助広の手元へ引かれて、ドーンと、土橋の上へ仰向けにぶッ仆れた。 ﹁斬やッたな!﹂ と、面おもてを衝ついてくる血の香に身をかがめながら、こう賞ほめたのは周馬である。黒々とあなたに潜ひそんでいた原士と一緒に、命脈の名残をピクリ、ピクリ、とふるわせている万吉の影をジッとみつめた。 ﹁……ひと太刀だ……﹂とお十夜は、胸がすいたように、また、その快味の消しょ逸ういつを惜しむように、斬った刹那の構えをくずさず、白い刃の肌にギラつく脂あぶらと、のた打つ影とを等分に眺めながら、ニイ……と唇くちをゆがめて笑う。 と――もう天堂一角の方は、それには一顧のいとまも与えず、抜ぬき刀みをあげて川かわ下しもを指し、 ﹁あれだ!﹂と叫んで走りだした。 ﹁あの小舟を追え、あの小舟を! あれにはたしかに弦之丞が隠れている﹂ ﹁ウウ、なるほど﹂ 周馬もつりこまれて、橋上にあたふたした。 そこから見ると、今仆たおれる刹那の前に万吉が、弦之丞様ア――と呼んだ小舟の影、見るまに遠くうねうねと、流れに乗って下ってゆく。 ﹁おお、弦之丞だ、弦之丞だ。お十夜、早くせい﹂ ﹁あれが? よしッ﹂ とどめのかわりに周馬とお十夜がまたひと太刀ずつ万吉へ滅めち茶ゃうちを浴びせた。どこをかすったか、周馬の刀はピクリとしたかれの満顔を紅くれないにしてすてて行った。 ﹁ばかッ。舟の者を追うのに、みんな片岸へばかり駈け出していってどうするんだ﹂ とお十夜は、一角の尻しっ尾ぽについて、同じ川岸へ向った周馬をののしりながら、自分は、原士の四、五人を拉らっして反対の向う岸へ廻った。 で――一陣の黒こく風ふうは、橋上からふたつに別れ、広からぬ猫間川を中にはさんで水の行方に添って疾走する。 ﹁あれだ、あれへゆく船だぞ﹂ ﹁逃がすなよ﹂ ﹁見のがすな! 今夜こそは﹂ 向う河が岸しとこっち河が岸し。 声をかけあわせながら韋いだ駄て天んと宙ちゅうを飛ぶ。 駈けるほどに、行くほどに、たちまち小舟に近づいた。けれど――見れば小舟に棹さおを取る者はなく、たたみあわせた胴の間まの苫とまも、半ばむしり取られている狼ろう藉ぜきさ。 だが最前、万吉が声をあげて呼んだのに早合点して、てっきりこの舟にいるものと思い込んできた面々は、それでもそれが、主ぬしなき空から船ぶねとは受け取れなかった。近づけば近づく程、敵が舟底に身を伏せているものと、疑心はさらに暗鬼を生んで、汀なぎさへ寄るとも躍りこむ者はなく、出ろ、自滅しろ、姿を出せ、と両岸から、空から声ごえばかりで影を追う。 血眼な数あま多たの人間どもと、振りかざす白刃を揶や揄ゆして、すこぶる皮肉きわまるものは、人なく水に流れてゆくその空舟――。 ﹁ええ、意気地なしめッ﹂ 先に首尾よく万吉を斃たおしたお十夜は、その気勢に乗って、舟が岸近く流れよった所を狙って、向う見ずに単たん身しんポンと身を躍らした。 そして、茫然としたことは、いうまでもない。 心なきものに、からかわれたと知って、腹立ちまぎれに、そこらの物を、手当り次第に河底へほうりこみ、揚あげ句くにそれを渡し舟に利用して、両岸の人数が一ツ所へ集まったのは、この夜、なぶり斬りに逢った万吉の悲劇と対比して、お話にならない、一場の笑劇。 自然の冷れい蔑べつにどやされて、眼がさめてみると、今さらのように、ものものしい引ッさげ刀も、急に気恥かしくなったか、銘めい々めい、ひとまず光り物を鞘さやにおさめて、猫間堤のかげへ寄った。 で――がっかりした拍子抜けが一致して、誰からともなく、夜露をおぼえる土手草の上へ、ごろごろと転がりだし、ムダに疲れた足を東西南北に向けあっていると――、 ﹁もし……助けてやっておくんなさい﹂ あわれな声をだして、露ッぽい雑草の中からかまきりみたいに、ゴソゴソと匐はいだしてくる男がある。 ﹁なんだ、こいつは?﹂ と思う好奇心が、むくむくと一同の膝を起こして、草むらの間から匐はってくる男を見ていた。 すると、天堂一角が、いきなり、前に足を投げだしているひとりの原はら士しをまたいで、その男の側へすすみ、穢むさいものでもつまむように、グイと襟えりがみを引き起こした。 ﹁こりゃ﹂ ﹁へい﹂ ﹁貴様は、お国元にいる、森啓之助の仲ちゅ間うげんではないか﹂ ﹁あ。よくご存じで……﹂ ﹁宅たく助すけだな﹂ ﹁左様でございます、じゃ、あなた様も阿波の……﹂と、怖る怖る見あげたが、びっくりしたように手をふるわせて、 ﹁やあ、天堂様でございましたか﹂ ﹁どうした態ざまだ。また悪いことでもしおって、啓之助の屋敷から追ン出されでもしたのか﹂ ﹁情けないことをおっしゃいます。世の中に宅助ほど、御主人へ忠義な者はないつもりで……。ハイ、まったく私は御奉公のためにこうなりました。忠義というのもやり過ぎるのは善よし悪あしで――どうか、助けてやっておくんなさい﹂ いかにも、物乞いじみている調子に、向うで眺めている者も一角も、思わず苦笑いを洩らしたが、宅助は必死だった。 ﹁嘘ではございません、天堂様﹂ ﹁嘘とは思わんが、どういう事わ情けじゃ﹂ ﹁ひと口に申しますと、実はその、ただし、これは内緒でございますが﹂ ﹁かまわん、啓之助のことなら、秘密を守ってやるから、話してみろ﹂ ﹁昨年、殿様がお帰りの時に、啓之助様がソッと、ある女を、脇船の底へ隠して、お国表へ、持って帰りました。イエ、連れて帰りましたんで﹂ ﹁ふん……そして?﹂ ﹁ところが、そのお妾めかけが、旦那の甘いのにツケ上がって、すッかりやんちゃになりやした。今考えると、半分はふてくされていやがったんで、なんでも、一度は大阪へ帰してくれ、とこういってききません﹂ ﹁ははあ。すると、その女と申すのは、川長の娘ではないか﹂ ﹁旦那も、ご承知でいらっしゃいますか﹂ ﹁大阪詰づめでいた頃には、足繁く、啓之助が通ったものだ﹂ ﹁それじゃスッカリ申し上げます。お察しの通り、女はそのお米よねなんで﹂ ﹁で、大阪へやってきたのか﹂ ﹁わっしはお妾の鬼おに目めつ付けで、一緒についてまいりました。ところが旦那、太ふてえ女もあるもんで、この人のいい宅助に鼠ねず薬みぐすりを舐なめさせやがって、プイと、途中で姿を隠してしまいました﹂ ﹁それは、無理もない話だ﹂ ﹁ですが、それじゃ宅助が、旦那へ顔向けがなりません。それに、毒を呑ませやがったのも業ごう腹はらなんで、実は、お恥かしい話ですが、小こづ遣かい銭せんも空ッぽのため、この二日ほどは食わず飲まずで、お米のやつを、探し歩いておりました。――すると、悪い時にゃ悪いことが重なるもんで、今日はやっとこの近くで、四国屋の御寮人様に逢い、いくらか、当座のお小遣いにありついたと思うと、そこへ、ぶらりと来た奴が、……エエト……そうだ、法月弦之丞という、いつか大津の時しぐ雨れど堂うに潜もぐっていた虚無僧なんで﹂ ﹁なに、弦之丞に逢った?﹂ おうむ返しにいって、向うの土手にゴロついていた者が、いっせいに起き上がって来たから、宅助は尻しり込ごみして、あとの言葉を忘れ、ただ目ばかりをしばたたいている。 ﹁どこで逢った?﹂ ﹁連れはいたか﹂ ﹁どんな姿で――どう向ってまいった?﹂ 八方から矢のような質問が降るので、これでは当人も答えられまいと、一同の言葉をとめて、お十夜と周馬だけが側へしゃがみながら、 ﹁嘘や人違いではあるまいな﹂と駄目を押した。 ﹁たしかに、弦之丞でございました﹂ ﹁して、それから、いかがいたした﹂ ﹁さあ、その後に、また大変なことがあるんでございますが……アアいけねえ、なにしろ旦那、腹が空すきぬいているもんですから、胃袋がクウクウ泣いて、もう、これ以上は、お話ができません﹂ ﹁意気地のないことをいうな……どうした、それから﹂ ﹁駄目です、ああ、もう一口ものをいっても目が廻りそうだ﹂ ﹁しようのない奴じゃ﹂と、一角も、ぜひなく引っつかんでいた襟えりがみを離して、周囲の者を見廻しながら、 ﹁誰か、何ぞ、こいつにくれる、食い物をお持ちあわせはないか﹂ と訊たずねると、原士の中のひとりが、 ﹁短銃の火薬は用意してまいったが、あいにくと、食い物の用意はござらん﹂ と答えた。 みんなは笑ったが、宅助の胃袋は涙をながした。芍しゃ薬くやくの駕かご
源内の誰に縫ぬわせし袷あわせかな その晩、真しん言ごん坂ざかの上の、俳はい諧かい師し荷かて亭いの宅では運うん座ざがあった。 高こう津づの宮の森が見える閑素な八畳間に、四、五人の客が、ささやかな集まりをして、めいめいが筆墨を前にし、しずかに句を作っていた。 みんな、口もきかずに、苦くぎ吟んしている。 障子紙を細く裁たって、短たん冊ざくに代えた紙きれへ、誰かが、こんな句を、いたずらに書く。いたずらにふと書いた句だが、ひとりで黙笑しているのも惜しく、黙って隣の者へ示すと、その人も、黙笑して、興がった。 見ると向うに、平賀源内がいる。細い顎あごへ片手をかって、自分が句に作られているのは知らずに、しきりに短冊を睨んでいた。 まだ独身で、九条村の百姓家に間借りをしている医書生で、夏は唐とう人じん扇せん子すをパチつかせ、冬はぼろ隠しの十徳を着て、飄ひょ々うひ乎ょうことしている源内が、仕立ておろしの初はつ袷あわせをつけて、いつになくこざっぱりしていたのは、季題はずれのように衆目をひいた。けれど、のちには、この一介の医生が、世間の好奇心をしきりにあおって、鴻こうの池いけや大名屋敷へ取り入って、花柳界へ源げん内ない櫛ぐしを流は行やらせてみせたり、物産会をやり舶はく載さい物ものの売りひろめを試みたりなどして、おそろしい金持になった。 そこで、﹁源内は俳句よりも金儲けのほうがうまい﹂と、のちには人がいったものだが、まだ、そうならない時代のかれは、運座へ来ても器用な句を作って、俳諧なんて、造ぞう作さもないもんだ……というような顔をしていた。 で……さっきのいたずら詠よみの句くく屑ずが、どうかした拍子に、自分のほうへ飛んできたのに気がついて、ふと、その句を読むと、 ﹁やあ、これはひどい﹂ と、磊らい落らくに笑った。 そして、上かみ五だけを書きかけていた短冊を下へ置いて、 ﹁この源内にだって、親切を運ぶ女が、ひとりや半分ぐらい、ないことはありません。今の句は、ちとひど過ぎる﹂ と、味噌せんべいを一枚とって番茶を注つぎながら食べはじめた。 ﹁そうですとも﹂ 柳りゅ絮うじょという新地の芸げい妓こ屋やの主あるじが、相あい槌づちを打った。 ﹁お医者さんですからな、役やく得とくというものがありましょうさ。若い美人が診みて貰いに来たら、そこで、ほら、あとは源内流に、いわずもがなのことになるんで……﹂ ﹁は、は、は。なおいけない﹂ と源内は、みんなと一緒に、しばらく諧かい謔ぎゃくを交かわしていたが、今の言葉の端から、かれはフイとお米の姿を思い浮かべていた。 実は今夜――かれがこの運座へ誘われて、九条村を出てこようとすると、その途中で、久しく姿を見なかった、川長のお米に出逢った。 女中も連れずに、九条の渡わた船しのほとりを、しょんぼりと歩いてきた。 ――先生、血を吐きました。 とお米は細い声でいった。そして、 ――わたし、どうしても、まだ死にたくはありません。それで、またお薬をいただきたいと思って訪ねてきたんですけれど……。 源内は、そこから戻っては、句会へ遅くなるし、急病ではないことと思って、明あし日たなら宅におります、といって別れてしまった。 そのお米の姿を目に描えがいた。 非常に好い句想をとらえたように、かれは、にわかにまた筆と短冊を取りあげて、それへ、 癆ろう咳がいの―― と五文字だけを書いてみたが、こう冠かぶせてしまうと、どうも、陰惨な連想ばかりが湧いて、自分でも、俳味に遠い不快をおぼえたらしく、ベタベタと塗り消して、短冊を丸めてしまった。 そして、ただちに次の紙へ、 やがて死ぬ―― と書きなおして、下の句を考えていると、そこへ、筍たけ飯のこめしにすまし汁をそえた、遅い夜食が運ばれてくる。癆咳の女の姿と、食慾をそそる筍飯の香りを、頭の中に錯さく綜そうさせながら、源内はサラサラと後をつけた。 やがて死ぬ病やまい美うつくし衣ころもがえ これでいいと、ひとりで読みなおして、ひとりで悦えつに入いっていた。 運座の帰りは遅いものときまっているが、その晩も例に洩れないで、源内や四、五人の俳友たちが、真しん言ごん坂ざかをだらだらと降りてきたのは、かなり夜よ更ふけであった。 源内と柳りゅ絮うじょとは、荷かて亭いの宅できって貰った芍しゃ薬くやくの花をブラさげていた。 その中で、狂きょ風うふうという男は、蔵屋敷へ勤める遊ゆう蕩とう家かで、これからまだ明るい街へ行って、たっぷりと夜を更ふかすつもりでいる。まじめなのは黙もく蛙あど堂う、猫間川の近くに住んでいる彫刻師だが、遊蕩家の狂風が、今頃からあんなほうへ帰ると辻斬りに逢うぞ、おれと一緒に来たまえ――と誘惑するのをていねいに断って、家内がやかましゅうございますから、とお先にスタスタと失礼して行った。 ﹁あんなのはないね﹂ と狂風は面白がった。 高津の宮の鳥居を出ると、坂下に、駕かご鉄てつという油障子が灯ともっている。もう自分だけ浮かれ機嫌になっている狂風が、 ﹁三挺ちょう! 三挺!﹂ と叩たたき起こした。 ﹁駕ですか。駕ですか﹂ と、わらじばきのまま、うたた寝をしていた駕かきが、土間の葭よし簀ずをめくって飛びだしてくると、 ﹁舟はあるまい﹂ と、またからかった。 ﹁どちらへ﹂ ﹁三人別々だよ﹂ 源内は貰ってきた芍しゃ薬くやくのきり花を駕の屋根へ乗せて、 ﹁わしは、九条村へやって貰う﹂ 糸しんの蝋ろう燭そくが、駕の棒鼻へブラさがると、三ツの提ちょ灯うちんが黄色い明りを浮かして、一、二町ほどひとつ道を流れだしたが、そのうちに、四ツ辻から、三方へ別れ別れになって行く。 夜よ更ふけの駕ほど快いものはない。 雑音もなく埃ほこりも立たない大通りを、揺られながらウットリともたれて、ズンズン流れてゆく地の上を細目に見ていると、駕屋の足音も一種の諧かい調ちょうをもって気持よく聞こえる。 四ツ手で駕かご月の都をさして駈け 柳やな樽ぎだるにこんな句があったことを源内は思い出していた。 ﹁旦那﹂ 走りながら後あと棒ぼうがいった。 ﹁なんだ?﹂ ﹁時ほと鳥とぎすが啼なきやしたぜ﹂ ﹁うむ……﹂ 時鳥は九条村でも珍らしくないから、ツイそっけない返辞をしたが、武骨な駕屋が、せっかく教えてくれた風流心に対して、悪かったような気がする。 それから、ほととぎす、ほととぎす、と考えるともなく句を練っていると――やがてのこと。 後ろのほうから、何者かが声を張りあげて、 ﹁おおーい、おウい、その駕――﹂ 呼んでは駈け、呼んでは駈けてくる者がある。 ﹁なんだい、後棒﹂ ﹁いけねえ、変なやつが飛んできやがる﹂ どうせ、時鳥を教えたくらいな駕屋だから、善良で弱いのにはきまっている。少し、足なみが揃わなくなった。 ﹁旦那、どうしましょう﹂ ﹁ちょっと、駕を降ろしてごらん﹂ ﹁だって﹂ ﹁なに、聞き覚えのある声なのだから﹂ まごまごしている間まに、後うしろの者は、宙を飛ぶように駈けてきて、源内の姿を見るより、息をぜいぜいいわせながら、言葉は半分、手ばかり振って、こういった。 ﹁先生……先生。は、早く、その駕のまんま、後あとへ帰って下さい、後――へ。急がないと、とてもだめです。なにしろ、めちゃめちゃにやられているんで、血が、血が……﹂ 誰かと思うと、先に別れていった黙もく蛙あど堂う。 どんな大変に遭遇したのか、わけも呑みこめないうちに、独り合点をして、またもと来たほうへ駈け戻った。 わけを糺ただしている暇もない急せき方なので、源内は、とにかく駕を回かえして、先へ急いでゆく黙もく蛙あど堂うについて行った。 高津の前を越えても、まだ走り続けるので、いったいどこまで行くのかと思っていると、龍りゅ珠うじ院ゅいんの外をすぎてやがて一面の草原。 野中の観音と、産うぶ湯ゆし清み水ずの別れ道を東へとって来た様子だが、なおも止まろうとはしない。 この平地へ出てから、低く傾いた二日の月が、ほのかに照らしていることに気がついた。そして、駕の中から野のず末えをすかしてみると、すぐそこに、一条の流れが、銀流のように見える。 源内は驚いたさまで、 ﹁猫間川じゃないか、ここは?﹂ と訊ねたが、黙蛙堂は耳に入らないで、駕屋が、 ﹁小おば橋せと玉たま造つく村りむらの間です﹂と答えた。 ﹁おい、おい、黙蛙堂さん、いったいどこまで行くのだい?﹂と、源内が、たまらなくなってこう叫ぶと、黙蛙堂は、やっとその川べりの、土橋の袂たもとに立ち止まって、 ﹁こ、ここでいいんです﹂ と息をはずませた。 駕を降りてみると、源内すぐにその傍かたわらに仆れている男の影が目についた。 ﹁や、斬られている﹂ 駕屋は、草わら鞋じの底へ粘ねばった血を、気味悪そうにすかしている。 ﹁わしを呼び回かえしに来る前に、お前さんが血止めをしておいたかね﹂ ﹁なんしろ、ここまで来ると、この人が仆れていたんで、どうしていいか分りませんでしたが、袖や帯を引っ裂さいて、血の出る所だけはギリギリ縛しばっておきましたので﹂ ﹁そうか。どれ﹂ と、源内は、もうよけいな事情などを聞いていなかった。両りょ肌うはだを脱いで帯のうしろへたくし上げ、抱きつくように寄って、血まみれな怪け我が人の傷を診みにかかった。 ﹁あ……オオ﹂ そのとたんに、胆きもを潰つぶしたような声を出したので、黙蛙堂もハッとしてどもりながら小腰をかがめ、 ﹁ど、どうしました?﹂ と、覗のぞきこむ。 ﹁これは、わしの知っている者で、天満の万吉という男﹂ ﹁えッ、ご存じの方ですって﹂ ﹁先頃、木曾の旅先で、会ったばかりだが……どうしたということだ。ア……やっぱり阿波の﹂ 思わず、ぶるッと、胴ぶるいが出そうになったが、口をつぐんで、懸命に手当てをはじめた。 ﹁まだ、息が、ございますか﹂ ﹁ない!﹂ ﹁じゃあ、もう駄目なんで?﹂ ﹁そうともいえない﹂ ﹁水を掬すくってきて、呑ませましょうか﹂ ﹁とんでもないこッた﹂ ﹁腰ですか、斬られているのは﹂ ﹁一番の深ふか傷ではここだ。けれど、この深傷は大したことにはなるまい﹂ 袂たも落とおとしという懐中袋から、針を出して、返辞をしながらグングンと傷口を縫って行った。 長崎じこみの技わざだけあって、そのテキパキとした始末と早さには見ている者が感嘆させられる。源内はわき目もふらずに、次に、万吉の顔の血を押し拭ぬぐった。 満顔朱に見えたところから推おして、顔面のどこかを斬られているなと思えたが、そこには太刀傷がなくて肩先の返り血だった。 そこを縫いにかかると、源内が自信のある声で、 ﹁こりゃ、助かる!﹂ といいきった。 黙蛙堂はホッとして、自分が宙を飛んで源内を呼び戻してきたことが、徒労でなかったのをよろこんだ。 黙蛙堂の家は、川向うの近くなので、すぐに、万吉はそこへ運ばれた。そして、源内の懸命な手当ても、夜ッぴて、離れることがなかった。 明方に近づいた頃、かれは、かすかに意識づいた万吉の容態を見ると、もう大丈夫と見きわめをつけて、夜来の疲れもいとわずに、ゆうべの駕で、九条村へ、薬を取りに帰って行った。 萎しぼんだ芍しゃ薬くやくを駕の屋根へのせて、こくり、こくり、と居眠りをしながら、朝の町を担になわれてきた源内は、野中の観音で、狐にでも化かされてきたかと、往来の者にふりかえられた。 起こされて、びっくりしてみると、いつか、九条村の家へ着いている。 ﹁ホイ、ご苦労だった﹂ と、渋しぶい目をこすりながら、柴しお折りを開けて中へはいると、そこには、きのう途中で帰した川長のお米が、ひとりで、ぽつねんと待っていた。 待ちくたびれていたらしいが、源内の姿を見ると、お米は、愛あい嬌きょうのいい顔をして、 ﹁先生、お留守でしたが、どうせ朝のことですから、じきにお帰りであろうと思って﹂ ﹁はあ﹂ と、源内は、だるそうに、座敷へ上がって、 ﹁――待っておいでたのか﹂ ﹁ええ、きのうもムダ足をいたしましたから﹂ ﹁そうそう、昨日はとんだ失礼を﹂ ﹁こんな早くから、どちらへおいででございました。先生も、なかなか隅すみへおけませんのね﹂ ﹁朝帰りではございません、妙に気を廻されては困る﹂ ﹁でも、ずいぶん眠そうな顔じゃございませんか。ホ、ホ、ホ、ホ﹂ おや、この娘は、いつのまにかたいそう男に馴れてきている。すっかり、羞しゅ恥うちというものが取れてしまって、あべこべに男のはにかみを眺めようとしている――と源内はちょっと驚いた。 すると、お米は笑ったあとで、 ﹁まあ……﹂ と、大おお袈げ裟さに目をみはりながら後ずさって、 ﹁血がついておりますよ、先生﹂ ﹁どこに?﹂ と手をあげると一緒に、かれも、 ﹁やあ、これは﹂と、にわかに狼狽しながら、自分の袖や裾すそを撫で廻した。 ﹁どうなすったのでございます﹂ ﹁なアに。実はゆうべ、運座の帰りに手当てをしてやった男の血だよ、どうして斬られたのか、下手人も分らないが、万吉といって、少し知った男だから、捨ててもおけず、とうとう徹夜でさ、朝帰りという次第。もっとも、血は赤いから、色っぽくないことはないが、どうも、今朝ははなはだ眠い﹂ と、衣服を着かえて、手ちょ洗うずを使い始めた。 お米はその間に、ひとりで何か考えていたが、 ﹁先生、その万吉というのは、もしやあの天てん満まにいた、目明しじゃありませんか﹂ ﹁よくご存じだね﹂ ﹁あ、じゃ、やっぱりその人なんですか――その万吉さんが斬り殺されたんですか﹂ ﹁なに、命はわしがうけあってきたよ。しかし、かすり傷じゃないから、ちょっとやそっとでは癒なおらない﹂ 聞いているうちに、お米はソワソワとして、容態を話すことや、薬のことも忘れたように、せかせかして、 ﹁そして、その弦之丞様は、今、どこにいるのでございましょう﹂ ﹁エ? 弦之丞様って、そりゃ何だい﹂ ﹁ア、イイエ……あの、万吉さんのことなので﹂と、ひとりで言い間違えて、ボッと顔を赧あかめる態さまを見つめながら、源内は、 ﹁いる所を?﹂ ﹁はい。教えて下さいませ﹂ ﹁知らない﹂ ばかにそッけなく首を振ってしまった。 そして、さらに怪けげ訝んそうに、なんだってこの娘が、こうソワソワとするのか、急に居所を知りたがるのか、と不思議にたえない気がした。 腑ふに落ちないうちは、話さぬほうが無事だと思ったので、後はよい程に話をボカしてしまったので、お米も取りつきようがない。 薬ができると、源内は木枕を取って横になり、お米は礼をいって外へ出た。 だが、かの女じょは萎なえかけた自分の体を、その薬で癒いやそうとする希望より強く、今の話が胸の底にいろいろな想像の渦うずを起こしていた。 万吉と弦之丞とが、一緒になって、この大阪へ来ているということは、お吉の口裏や、いつか、天堂一角が万吉の留守宅を探りに来た時の言葉でも分っている。だから、その万吉に逢いさえすれば、もう、弦之丞の居所を知ったも同じわけである。 こう考えながら、いつか、本田堤づつみの辺までくると、とある居酒屋の軒下に、一挺の駕かごが置いてあった。 駕の屋根に、源内も忘れ、駕屋も忘れてしまった芍しゃ薬くやくの花が、露もひからびて乗せてある。それを見るとお米は、さっきの見覚えを思いだして、 ﹁あ、あの駕屋さんに聞けば、分るに違いない﹂ と、居酒屋の中を覗のぞいてみた。遠眼鏡
表鳥居の参さん詣けい道みちをまッすぐに上のぼって、岩いわ船ふね山の丘、高津の宮の社頭に立ってみると、浪なに華わの町の甍いらかの上に朝の空気が澄みきって、島の内から安治川辺の帆柱の林の向うに、武む庫この山影も、行くところまで見晴らされる。 石段へかかると、女は日傘を畳たたみ、男は菅すげ笠がさの紐ひもを解いて、清すが々すがしい新緑を仰いだ。参詣をすまして戻ってゆく御ごり寮ょう人にんの手には、名産の花はな塩じおがたいがい提さげられている。 そのゆるい足音が流れてゆく石畳の道を、目に立つ自じら来いや也ざ鞘やと、十夜頭巾と、異風な総そう髪はつが、大股に、肩で風を切って行った。 お供はひとり、仲ちゅ間うげんの宅たく助すけ。 三人の後について、これもせかせかと石段を踏み上った。 なんのことはない、この四人だけは、真っ向こうに、神殿へ向って楯たてを突きに来たような歩き方だ。だが、上までのぼりきると、拝殿のほうには一瞥べつも与えないで、額ひたいの汗を押し拭ぬぐっている。神の存在を認めないのではなく、この人々には、落ちついて、神かんさびた気きい韻んに浴する余裕がないのだ――とすれ違った老人が、あきれたようにつぶやいた。 ﹁今歩いて来た猫間川の方は、あれに見える流れだろうか﹂ ﹁いや、もっと東のほうになるだろう﹂ ﹁ずいぶん、歩いたな。御両所、腹は減らないか﹂ ﹁うむ。だがこの辺には、何もあるまい﹂ ﹁あります――﹂と宅助が口を入れた。 ﹁田でん楽がくか﹂ ﹁いいえ、湯どうふ屋というんで、高津の名物。たいがいなものはそこで休みます﹂ ﹁葉桜頃になって、湯豆腐は少し感服しないな、何かほかに茶屋はないか﹂ ﹁看板は湯どうふでも、木きの芽め料理、焼やき蛤はまぐり、ちょっと飲めるようになっております﹂ ﹁まあよいわ、朝からぜいたく好みでもあるまい。どこだそこは?﹂ ﹁舞台のそばでございます﹂ 宅助のあとについて、三人は境内の湯どうふ屋へ入って行った。まだ午ひる前まえだが、掛座敷にも床しょ几うぎにも客がいっぱいだ。そこを縫って、奥の張出し、見晴らしの小座敷に席をとった。 ﹁腸はらわたに沁しみるようだ﹂ 天堂一角は、朝酒の一杯に舌した鼓つづみをうって、飲みほしながら、 ﹁しかし、ゆうべは、痛快であった﹂ と、それを、お十夜へさした。 ﹁まだまだ、あんなことじゃ気がすまねえ﹂ 孫兵衛はホロ苦にがく杯さかずきを舐なめて、 ﹁万吉をぶっ倒したぐらいで、いい気持になっちゃいられない。肝かん腎じんなやつは弦之丞とお綱だ。仕事はこれから骨が折れるよ﹂ ﹁さあ、その弦之丞とお綱を見つけるのが、これからの問題だが……今思うと、昨夜、万吉の死骸を捨て帰ったのは、かえすがえすも吾々のぬかりだった﹂ と、周馬は、枝豆を口へ弾はじきこむ。 ﹁なぜ?﹂ ﹁あの死骸を囮おとりにして、弦之丞を待ち伏せしていれば、必ず引ッかかってきたに違いない。その証拠には、今朝あの土橋へ行ってみれば、もう彼の死骸が片づけられていたではないか﹂ ﹁下げ司すの智慧は後からで、それならなぜ、人も乗っていない空から舟ぶねをお手前、あわてて、追い駈けて行ったんだ﹂ ﹁あれは一角が真っ先に調子づけたのだ。一角が悪いよ﹂ ﹁あげ足をとるな。たまには犀さい眼がんにも見間違えがある﹂ ﹁まあいい、またこんな所で、泥のなすりあいから仲間割れをしてくれるな。宅助の話によれば、なんでも、猫間堤で四国屋の内儀と弦之丞とお綱とが行き逢った時、非常に親しい様子だったというから、こんどは手をかえて、その四国屋のお久く良らとかいう者を詮せん議ぎしてみりゃ分るだろう﹂ ﹁ウム、拙者もそう考えているが……その時に弦之丞が、宅助へ当あて身みをくれたということが、どうもよく呑みこめない﹂ ﹁それは、お久良と密談をする必要があったからであろう﹂ ﹁しかし、お久良は阿波の者だし、四国屋もまた蜂須賀家の御用商あき人んど――どうして彼らと懇こん意いなのか、それが不審だ﹂ そこでは三人が、弦之丞の所在をさぐる凝ぎょ議うぎがてら、しきりと銚子の数を殖ふやしているが、誰も、宅助の存在を認めて、一杯つかわそうとはいってくれない。 ゆうべ安治川屋敷へ連れてゆかれて、飢うえは充分に救われたけれど、仲ちゅ間うげんの宅助にだって多少の人間味はある、飯に飽満してみれば、自然、その次には酒が呑みたい。 ﹁一ひと杯つぐれいは、おれにだって、廻してよこしたって、冥みょ利うりは悪くねえだろう。四国屋のお内儀と弦之丞が話をしていたという種を、いったい、誰がおろしてやったと心得ているんだ。恩を知らねえ奴らじゃねえか﹂ と宅助は、あじけない顔をして座敷の隅に腰かけながら、心の底で不平を鳴らした。 宅助の仲ちゅ間うげん根性が、喉のどをグビグビさせて怨んでいるのに、三人は朝酒の酔いを顔に発して、さいつおさえつ話の興に入っている。 ﹁じゃ、四国屋の店は、この大阪にもあるんだな﹂ ﹁農のう人にん橋ばしの東詰づめじゃ。そこにはたしか、住すま居いもあったように思う﹂ ﹁すると、お久良という内儀を訪ねようとするには、そこへまいれば会われるな﹂ ﹁店の船が出るまでは、多分住居に泊っているだろう﹂ ﹁ふ、そうか。じゃひとつ三人連れで、その四国屋へ出かけてみようじゃねえか。この雁がん首くびをそろえて行けば、たいがい泥を吐いてしまうだろう。それに向うは御用商あき人んど、こっちは蜂須賀家のお名前をかざして、あくまで脅おどしの詮せん議ぎと出る。証人には宅助という者があるから、弦之丞とお綱の居いど所ころを、知らないとはいわせない﹂ そんな話を小耳にはさむにつけて、宅助は癪しゃくにさわった。酒一杯飲ませないで、人をダシに使うことばかり考えていやがる。そこへゆくと、俺の旦那の森啓之助様は、侍としちゃろくでもないほうだが、話は分る。こんな奴らのお先に使われているより、早く、お米を捕まえて、国元へ帰った方が、どんなにましだかしれやしねえ――と腹の中で啖たん呵かをきった。 とうとう我慢ができなくなった。 賤いやしい手つきで、ふところから、かますの莨たばこ入れを出して、わざと煙きせ管るで粉をハタきながら、 ﹁旦那、すみませんが﹂ と頭をかいた。 ﹁なんだ、宅助﹂ ﹁申しかねますが、こいつが空からになっちまったんで……、汲くんでのむほどの粉煙草もございません﹂ ﹁煙草銭がほしいのか﹂ ﹁へ、へい﹂ ﹁しばらく我慢していろ﹂ と天堂一角はまた飲みはじめている。 ﹁ちッ……﹂と、宅助は舌打ちをして、いよいよ心が楽しまない。そして、わざと突っかけている草履の緒おを切って手にブラ下げた。 ﹁旦那、旦那﹂ ﹁うるさい奴じゃな﹂ ﹁あいにくと、草履も切れてしまっていますから、それも一つ買っていただきませんと、もうお供ができません﹂ ﹁いろいろなことを申しおる奴、休んでいる間に、緒をすげておいたらよいではないか﹂ ﹁一角﹂と横から、さすがに少し聞きかねて、お十夜が、 ﹁まあ幾らか遣やるがいいじゃねえか﹂ ﹁仲ちゅ間うげんという奴は使い方があるのじゃ、金をやりつけると癖くせになっていかん﹂ ﹁人の仲間をこき使っておいて、そんな一酷こくをいったってしようがねえ。オイ宅助﹂ ﹁ヘイ、ありがとう存じます﹂ 銭ぜにの飛んでこないうちに、先に如じょ才さいなく礼をいった。そして、お十夜が、投げてくれた南なん鐐りょうを手に握ると蛙のようにピョコピョコして、草履を買うといって湯どうふ屋の外へ出た。 その剰つり銭せんで、どこかで冷ひや酒ざけの盗み飲みをした宅助は、やっと虫が納まって、ふらつくのを、無理に口を結んで帰ってきたが、周馬や一角や孫兵衛は、まだ湯どうふ屋の見晴らしに、悠ゆう々ゆうと落ちつきこんでいる様子なので、そのまま、境内の近くをぶらぶら歩いていた。 ﹁おれなんざ、あそこにとぐろを巻いている三人侍にくらべりゃ、まったく、可愛らしい人間だぜ……﹂ ぽっと、どす赤くなってくる顔を撫でながら、宅助、自分で自分をいたわった。そして、 ﹁いい日ひよ和りだなア……﹂ とにわかに、あたりの参詣人の空気につつまれて、鳥居のわきの舞台にもたれかかると、すぐその側で、若い娘だの老人だの子供だのが、しきりに、顔を集めて興がっている。 ﹁あら、道頓堀の伯母さんの家が見える﹂ ﹁どれ、こっちへ、貸してごらんよ﹂ ﹁もう少し……﹂ ﹁そんなにいつまで、独りで見ているって法はないよ。さ、お貸し、お貸し﹂ ﹁いやだ、この人は。今、野中の観音様を探していたのに﹂ ﹁ほんとだ……まあずいぶん遠くまでよく見えること。梅ヶ辻のほうだの……それから桃谷の大師巡めぐりの人が、ぞろぞろと歩いてゆく﹂ ﹁どれ、母ちゃん﹂ ﹁どれ、どれ。わたしによ﹂ 子供につれて大人までが、大変な騒ぎ。何かしらと思って、宅助がトロリと眼をすえて見ると、舞台の手てす欄りにすえつけてある、遠とお眼めが鏡ねという機械。 その遠眼鏡を中心に、参詣の男女が、一家族のように楽しんでいるのを見ると、宅助は、平和な家庭の垣を隙すき見みした継まま子こと同じさみしみを感じて、自分も、仲間入りをしたくなった。 口癖ぐせのように――大阪が恋しい、大阪が恋しい、と嘆なげいていたお米を嘲わ笑らって、 ﹁おれなんざ、故郷も生れた家も、思いだしたことさえねえがなア﹂ といったことのある宅助だが、こののどかな社しゃ頭とうで、娘を連れた母、孫を伴ともなう老人、幼い者をよろこばしている年上の者などを見ると、やはり、家をもつ人、愛の持ちあえる人たちは、いいなあ、倖しあわせだなあ、と涎よだれが出るほど羨うらやましくなる。 ﹁みなさん、お揃いでご参詣ですかい。へ、へ、へ、へ、……。いいお天気だ、こんな日は遊べるね﹂ 吾を忘れて、その側へ、いつか宅助はヒョロリと寄って行って―― ﹁なにしろ、べらぼうにお日ひよ和りがようがす。浪なに華わの町の繁昌や千ちふ船ね百もも船ふねの港口も、ここからはまるみえだ。ネ、そちらのお嬢じょッちゃん﹂ と、蟇ひき蛙がえるが立ったような中腰でフーッと酒臭い息を吹っかけたもので、遠眼鏡に興じていた人たちの眼が、ちょっとそのほうへひかれたが、誰も相手にはしなかった。 でも宅助は、すっかり仲なか間まになった気で、 ﹁――アア、無理だ無理だ、そのお嬢ッちゃん、遠眼鏡のほうが背せ丈いが高いや。オイ、そこにいるお若いの、お前めえ、抱ッこして見せてやんねえ、な、なによけいなお世話だって? その後におれが見る番だからよ――。ほーれ、嬢ッちゃん、見えただろう。一里が一丁に見えるおらんだ渡りの遠眼鏡というのは、これだ。何が見えた? ……千せん日にち前まえの原ッぱで、比び丘く尼にが踊りを踊ってるだろう? 嘘だ。じゃ、道頓堀の川ッぷちで、蔭かげ間まが犬に食いつかれてるだろう。そんなものは見えねえッて。じゃおじさんが見てやろう、貸してごらんよ。ちょッとだ、ちょッと貸しねえ、オヤ、強ごう情じょうな子だなあ……貸せったら貸さねえか﹂ あたりの者は眼をしばたたいて、変な酔ッぱらいが舞い込んできたわいと眺めている。 で、だんだんと、眼鏡のそばを、人が離れてしまったのをよいことにして、宅助は及び腰で、 ﹁さてな、どこを最初に、見物しようか﹂ と、小こ手てをかざして、肉眼で見当をつける。 その形がふるッているので、女たちの笑い声がすると、ほろ酔い機嫌の宅助は、おのれのお茶ちゃ羅ら化けが喝かっ采さいを得たものと合がて点んして、もっといい気になりながら、 ﹁ウーム、見えるぞ﹂ と大げさに遠眼鏡へ目を当てた。 ﹁こいつアすてきだ、淡路島が足もとへ来ていやがる、孫そん悟ごく空う様がきんと雲うんに乗って行っても、こう早くは淡路へ着くめえ。どれ、だんだん東へ歩こうか……見える見える天王寺が。五重の塔のすてッぺんに、鴉からすがあくびをしていやがる、その手前はどこだろう、なんにもねえや、真っ青だ、田たん圃ぼと桃の木と原ッぱだ。田圃はいっこうおもしろくねえな、何かねえか、見るものは……オヤ駕が通ったよ、麦畑を。いやに近ちけえと思ったら、すぐこの下の梅ヶ辻か、道理で道理で、よく見える筈だ﹂ と、自分の道どう化けに浮かれて、いよいよ調子づいてきた宅助、ひとりでしゃべりまくしながら、あなたこなた、見ているうちに、どうしたのか、 ﹁あれ!﹂と、急に眼鏡から顔を離した。 そして、トロンとたるんでいた酔顔の筋までが、にわかに引きしまってきたかと思うと貪むさぼるように覗のぞきなおして、こんどは独り言もいわず、笑わせもしない。怖ろしい真剣味が、片目の皺しわにまで現れてきた。 と――うなるようなつぶやきが洩れて、 ﹁ちッ、畜生……﹂ と、地だんだを踏んだものである。 ﹁たしかにあいつだ! 違ちげえねい! 阿あ女まめ、あんな所を、いけしゃアしゃアと通っていやがる。見ていろよ。今、この宅助が、首ッ根っこを捕まえてくれるから﹂ 裾すそをはしょって、真しん鍮ちゅうこじりの木ぼく刀とうをうしろへ廻した。見ている者には何がなにやらいっこうに分らない。ただ赤かった宅助の顔が青くなって、道化役者が撲なぐられたようにしか見えなかった。 ﹁たわけめ! 何をしているのじゃ﹂ そこへ、くわえ楊よう枝じの周馬とお十夜について、天堂一角が、姿を探し当ててくるなり、はなはだまずい面構えを見せた。 そこに、相手もいないのに、宅助の血相が妙なので、三人も腑ふに落ちないながら、 ﹁なんだ、そのざまは。喧けん嘩かでもしようというのか﹂ 宅助は、それどころか、という息まきようで、 ﹁思いがけねえ獲物です。ぐずぐずしちゃおられませんから、わっしゃ、ここでお暇いとまをちょうだいいたします﹂ ﹁これ、待て待て﹂ 一角は怖い眉をよせて、 ﹁そちにはまだ用事がある。勝手に吾々の側を離れては相ならん﹂ ﹁相ならんとおっしゃったって、宅助の目の前には、今、一大事が降って湧いているんで――ヘイ、今を遁のがしちゃ大変です﹂ ﹁でも、このほうに用事がある。四国屋へそちを証人として連れてゆくまで、けっして暇いとまはつかわさんぞ﹂ ﹁困りますね、天堂様、宅助には森啓之助様が御主人なんで、あなた様にゃ御奉公いたしておりませんから﹂ ﹁だまれ。何でもよい﹂ ﹁やりきれねえなあ。どうか、わっしの立場も、少し察してやっておくんなさい。今、この遠とお眼めが鏡ねからえらい手がかりを得たばかりなんで……まごついていると、取返しがつきあしません﹂ ﹁遠眼鏡から、何を見たと?﹂ ﹁わっしに毒をくらわせて、天満河岸からドロンをきめたお米よねのやつが、日傘をさして、すぐ向うの梅ヶ辻を﹂ ﹁そんな女ものはどうでもいい。捨てておけ、捨てておけ。貴様もまたばか正直に、啓之助を嫌って逃げた囲かこい女ものを、なんでそう一心に捕まえたがっているのじゃ。吾々が眼色を変えているのとは違って、蜂須賀家になんらのかかわりもない雌めん鳥どりなどを、血眼で、追い廻しているたわけ者があるものか、行ってはならん!﹂ こうどなられると宅助もムッとした。お米には毒を呑まされた意趣もあるし、阿波へ連れて帰れば、たんまり啓之助から報酬をねじ取る寸法もあってすることだ、野暮で分らずやのてめえたちが、何を知ったことか、と業ごう腹はらを立てて、面つらをふくらませた。 ﹁おい、天堂、そいつは少し因いん業ごうすぎるだろう。宅助の事情も聞いてみればもっともなところがある﹂とお十夜が仲なかをとって、 ﹁おれが引きうけてやるから、行ってこい。その代りに、お米を捕まえたら、安治川屋敷へ帰ってこなくちゃいけねえぞ﹂ ﹁ありがとうございます。――じゃ﹂ ﹁おっと、待ちねえ﹂ ﹁早くしませんと、また姿を見失います﹂ ﹁どこにいるんだ、そのお米ってえ女は﹂ ﹁ちょっと、眼こ鏡れへ目を当ててごらんなさい。梅ヶ辻から野中の観音のほうへうねっている一筋道を、桃色の日傘でゆく痩やせ形がたの女がありまさ。娘のような派手な衣いし裳ょうで、鹿かの子この帯揚、帯の色、たしかに、そいつがお米なんで﹂ 宅助の説明を聞きながらお十夜がそれを覗のぞきこんでうなずくと、一角もつり込まれて後から入れ代りに顔をよせた。すると、すえつけの角度を動かしたとみえて、お米の姿は映らずに、坂下の鳥居筋を、ドンドン駈けてゆく男が見える。 おや……と思って見ていると、それが、今そこでしゃべっていた宅助なので、 ﹁きゃつめ……もう行ってしまいおった﹂ と、いまいましそうに、顔を離した。 ﹁おそらく、宅助はもうあのまま帰るまい――﹂ そういったのは、旅川周馬。 ﹁なぜ?﹂と一角が突ッかかるのを冷笑して、 ﹁あまり貴公の人使いが荒すぎるもの﹂ ﹁帰らなくては、四国屋をただす時に都合が悪い。ええ、押ッ放してやるのではなかったのに﹂ ﹁では、追いかけて、貴公も一緒に、お米とやらいう女を、捕まえてやるがよかろう。さすれば義理にも宅助が帰って来る﹂ ﹁ばかなことを言いたまえッ、女にょ情じょうにおぼれている啓之助の妾めかけなどを、誰が仲ちゅ間うげんと一緒になって、この昼ひる日ひな中か、両刀を差すものが追い廻していられるものか﹂ ﹁あははははは。面白い、また一角が怒った﹂ とお十夜は哄こう笑しょうして、なお気にして遠眼鏡を覗のぞいていたが、 ﹁ふーむ、なかなかいい女だ。一角がそういうなら、おれが様子を見に行ってやるから、しばらく、向うの絵えま馬ど堂うで待っていねえ﹂ と、雪せっ踏たをすって、石段を下りはじめた。 辻堂があった。 白藤の花がこぼれている。 野中の観音へゆく道のほとり。このあたりに多いのは、池と藪やぶと桃畑、でなければ墓場である。 だが、夏もやがて近い真まひ昼るな中か、朗ろう明めいであって陰湿がない。どこかで石屋の鑿のみの音がする、かッたるそうに刻きざんでいた。 お米はそこで日傘をつぼめた。ちょっと、辻堂を拝借する。辻堂というものは、いかめしい宮の拝殿などより、何かしら親しみ深いものがある。ことに、そのいぶせき縁の端は、疲れた足にすがられ、家なき子に夜をしのがせ、行こう旅りょ病者の寝床とまでなる。 悪いやつは悪用して、神まします眼の前で、盆ぼん莚ござをしいたり、女をかどわかしてきたり、果ては、絵え馬まや、御神体まで担かつぎだしてしまうけれど、辻堂は依然として存立し、草ぶき屋根の朽くちるまで、道の辺べの神としての功くり力きを少しも失わない。 そこで、 ﹁ああ、くたびれた﹂ と、お米は、軽く膝ひざを叩いた。 もう猫間川はすぐそこだ。その川向うの小おば橋せざ在いに、万吉がいるということを、かの女じょは、とうとうつきとめてきたらしい。万吉は深く自分の境遇や心もちを知らないから、お吉のように、弦之丞の居所を知っていて隠すようなことはしまいと考えている。 ﹁わたしも、こんどはずいぶん苦労をした……。それで、あの方に会えないくらいなら、死ぬのは嫌だ、自や暴けになって――アアきっと自や暴けになって、どんな妖婦にでもなるだろうよ。酒、男、したいほうだいな世を送って、血を吐いて、死ぬだろうよ﹂ 白い花がハラハラと落ちてくる。桜のように、こびりつかない藤の花。 ﹁嘘ばかりついている――まだしおらしい娘か、善人ぶっているからおかしい﹂とお米は、自分で自分を嘲わらってみた。 ﹁もう、わたしという女は、りっぱな妖婦になっているのじゃないか。啓之助をアアして、お吉さんをアアして、宅助をアアして、家へも帰らずに、男を探し廻っている女だもの﹂ 小こ菊ぎ紙くを出して、口をふいた。 軽い咳せきといっしょに、紅梅みたいなものがついた。見たくないものを、見るのが癖になっている。 ﹁もう……どうなとおなり﹂ 昼の月へ向いて、笑った顔が、自分ながらあさましかった。 そうして、うしろへ手をついていると、辻堂の横に、野鼠でもいるような音がするので、ヒョイと、居いな形りのまま顔を向けてみると、そこに、紐ひもの宅助が、皮肉な面がまえをして、お米の気がつくまで睨んでいた。 ﹁あらッ――﹂ と、さすがにぎょッとしたけれど、もう逃げだしても間に合う筈はない。 度胸をきめて、お米はジッと黙っていた。 ふところに、拳こぶしをこしらえながら、宅助も睨んだ眼を向けたまま、黙って、女の姿し態なを見つめていた。 しかし、言葉は借りなくとも、その間かんのふたりの心は、剃かみ刀そりのように研とげて争っている。宅助の眉みけ間んには、殺してもあきたらないほどな遺恨が燃えているし、お米のくちびるには、殺されるだろう、と胸にこたえているおののきがある。 ﹁おい……﹂ と、だんだん寄ってきた。 ﹁…………﹂ 殺してみやがれ! わたしだって。 お米はこう覚悟をして、その瞳をそらさなかった。 弥やぞ蔵うをこしらえていた手をつン出して、紐の宅助は、ニヤリと面相を変えながら、 ﹁エ。お米の御おん方かた――﹂ と、ポンと背中をひとつ叩いた。 ﹁なぜ逃げねえのよ、逃げたらいいじゃあねえか!﹂ 食い物と侍にかかると、カラ意気地のない宅助だが、お米の前に立つとズッと冴えてくるのは奇妙だ。相手の上うわ手てにのしかかってゆく図太さや、悪党らしい余裕さえついてくる。 女と思って、先に呑んでかかるせいもあろうが、ひとつはこの宅助、啓之助がお米を知ると一緒に手がけているので、充分、コツというものを心得ている。 ﹁エ、おい﹂ と、背中を叩いたのが、そのコツらしい。遺恨は遺恨だが、殺してしまえば玉なしだ。女に逃げられた女ぜげ衒んが、たえず女を殺していた日には商売にならない、という道理から宅助らしい我慢なのだ。 ﹁どうしましたえ、お米さん。たいそうすましているじゃねえか。ちょっと、久しぶりだから、きまりが悪くなったとおっしゃいますか。そうよ、天満の河か岸しきりでお別れでござんしたね。ハイ、そのせつは、どうもいろいろお世話様で……﹂ 言葉の刃やいばは、相手を片輪にさせないから、ここで存分にえぐるつもり。 たたんだ日傘を膝へのせて、お米は辻堂に腰かけたまま、いうことならいわしてやろうという顔つき。明るい昼を乙つば鳥くらが横ぎっても、睫まつ毛げ一本動かさなかった。 ﹁ふーん……さすが口のうめえお米さんも、今日ばかりはグウの音ねも出ないとみえる。そうだろうよ、森啓之助様をだまくらかして、お付つけ人びとを迷まい子ごにさせて、影のような男の後を探し廻っているんだからな﹂ ﹁…………﹂ ﹁あ、もひとつ、お礼を忘れていた。よくもこの宅助に、鼠薬を食らわせたな! なアに、ああいう酒の味も、めッたにご馳走になれねえものだから、あだやおろそかにゃ思いませんよ。だから、このご恩は一生の間に、チビリ、チビリと、阿波へ帰った上でするぜ﹂ ﹁知らないよ﹂ ツイと立とうとすると、 ﹁おっと﹂ 肩をつかんで、 ﹁どこへ行こうッてんだ!﹂ ﹁わたしの勝手だよッ﹂ さっきから、ひそかに固く握りしめていた日傘で、宅助の横顔を激しく打った。 ﹁エエ、この女あまめ! よい程に、あしらっておけばつけ上がって、ふざけた真ま似ねをしやがると、俵たわ括らぐくりにして船底へほうりこんでも、阿波へ突ッ返けえすからそう思え﹂ ムズと髪の根をつかみにかかるのを、日傘で払うと、その日傘を引ったくられて、力まかせに打ちのめされた。 牡ぼた丹ん崩れにうッ伏したお米の手には、いつか匕あい首くちらしい光りもの。 ﹁よくも――、ちイッ……﹂と死にものぐるい、迂うか濶つにのしかかった宅助の毛けず脛ねへ、芒すすきの葉で切ったほどな痕あとをつけた。 一方。 高津の上の舞台では、 ﹁や……やや……﹂と旅川周馬が、しきりに遠眼鏡から宅助の居所をのぞいて、 ﹁ウーム、これは面白い。宅助のやつ、あはははは、なんだあのざまは、女ひとりを持てあまして﹂ ひとりで興に入っている。 ﹁お十夜はどうした?﹂ つまらぬ暇つぶしにしびれをきらして、天堂一角は苦にが虫むしを噛んでいたが、つい周馬の独り言に誘われて、側からこうたずねだした。 ﹁お十夜? ……どうしたのか、かれの姿は見当らない。どうせ、例の癖で、ふところ手のぶらぶら歩きで行ったのだろう。ア、ア、ア……そのうちには、どっちかかたがついてしまいそうだ。女も死にものぐるいになると、あなどれぬ力がある。お千絵様でもそうだった。ましてや宅助、ヘタをやると始末に困るぞ﹂ ﹁どれ、貸したまえ﹂ ﹁見たまえ、あれだ﹂ ﹁ウ、なるほど、お米に違いない、しかし、川長にいた頃は、あんなすごい女ではなかったが﹂ と覗のぞけば一角もつい気を奪とられて、なかなか周馬にゆずる気けし色きもなかったが、そのうちに、 ﹁やッ、彼きゃ奴つだ!﹂ と、ただならぬ声をあげ、眼鏡を離れて舞台から伸びあがった。 だが、遠眼鏡で見たものが、肉眼でたしかめられるはずはなく、ふたたび覗のぞいてみると、今、体で位置を狂わしたので、腹立たしいほど、見当ちがいな遠景が映った。 ﹁ああ、いけない、どっちであったかの﹂ ﹁なんだ、なにを見たんだ﹂ ﹁イヤ、まだしかと分らなかったのだ。それで覗いてみると、もう以前の所が見えない﹂ ﹁見えないはずだ、貴公、そんなほうへ向けておるのだもの。貸したまえ、こっちへ﹂ ﹁早くせぬと、あるいは一大事になるかもしれぬ﹂ ﹁なんだ、宅助か﹂ ﹁いや﹂ ﹁お米か﹂ ﹁いや。まあ、そっちを早くなおしてくれ﹂ ﹁そう、側そばで急せいては困るな﹂ 周馬が代って、覗き覗き、前の所へ向け戻そうとしたが、今の一大事といったのが胸を騒がせて、容易に角度が定まらない。女おんな男おとこ女おんな
法のり月づき弦げん之のじ丞ょうの胸もとへ、誰か、いきなりぶつかってくるなり、うしろへ身をちぢこめて、 ﹁――お侍さまッ﹂ と、かれの体を楯たてにしながら、すがりついた者がある。 ふいに、帯へ重みをかけられたので、 ﹁あ﹂ 思わず、足をとめて、うしろの者の手くびを握った。 やわらかい、きゃしゃな女の手であった。そして、絹か髪の毛か、ひんやりとしたおののきが腕に触さわる……。 かれはつばの広い編笠をかぶっていた。一方の手をそれへかけて、自分の背なかへ隠れた女の姿を見ようとしたが、同時に、 ﹁この武さん士ぴんめ﹂ と、何者かの骨ばった拳こぶしが、襟をつかんでねじあげてくるなり、 ﹁野郎ッ、な、なんで、その女をかばいだてしやがる﹂ と、目をいからせている。 弦之丞は呆ぼう然ぜんとした。 何がなんなのか、わけがわからぬ。 ことにかれは、きょう船宿の鯉こい屋やの二階へ、お綱をのこしておいて、ただ一人、猫間川の岸からこのあたりへ、ゆうべの船と、あのまま帰らなかった万吉の姿をたずねてきたところなので、歩みつつもおのずから、心のうつつなところがあった。 今、なんの気もなく、向うの百姓家で道をきき、森に添ってこの辻堂のわきに出てくると、その途端に、これなのである。 まったく、思いがけない言いがかりだ。 ﹁こやつ、少し血迷っているな﹂ と思いながら、グイと、対あい手ての押してくるのをこらえきると、男は、馬のような前歯をかみしめて、 ﹁ウ、邪魔をしやがると、承知しねえぞ。さ、女を前へ出せ、女を!﹂ 力りきみ立って、ねじこんでくる。 弦之丞は、迷惑きわまる様子をして、勝手に、襟元をつかませていたが、笠の目めせ堰きから、つらつらその男の顔を見ると、これはまたまんざら縁のない者でもない。 いつぞや、猫間堤で、その時の都合から、当て身をくれて捨てて行った、森啓之助の仲ちゅ間うげんだ。 ﹁ウーム、そちは宅助﹂ こういわれると、ぎょっとして、 ﹁な、なんだと﹂と、ふりあおいで―― ﹁あっ、てめえはッ?﹂ と、泳ぎだしたが、すかさず伸びた弦之丞の右手が、ムズと襟がみをつかんで、 ﹁待て﹂ ズルズルと引き戻した。 そのもがいてよろめく足もとから白い土つち埃ぼこりが舞うのを浴びて、宅助はうなるように、 ﹁ちぇッ、しまった﹂ と、舌打ちをしながら、すばやく、三尺帯を引っぱずして、対あい手てに着物をつかませたまま、スルリと脱ぎ抜けて、 ﹁うぬ、見ていやがれ!﹂ グイと睨んで、捨て科ぜり白ふをいったまま、後も見ずに一目散。 倶くり利から迦も羅ん紋も々んの素ッぱだかが、真昼の太陽に、蛇の皮のように光って、小気味よくも、タッタと向うへ逃げだしてゆく。 すると。 高津筋の辻から、お十夜孫兵衛、チラリ、チラリと雪せっ踏たを鳴らして曲ってきた。 周馬と一角をのこして、宅助の様子を見届けに来たのだが、まさか、入墨のすっぱだかで飛んでくる男が、今、眼めが鏡ねの中に見えた宅助だとは思わない。 倶くり利から迦も羅ん紋も々んのいさぎよい逃げぶりを見送って、弦之丞は苦笑いしていた。 その編笠を、しずかにふりかえらせて、 ﹁お女中、どこも、怪け我がはなかったかの?﹂ と、後ろを見ると、四、五人の蚊か帳や売りが荷を担になって、目の前をさえぎったので、少し離れて、その通りぬけるのを待っている。 お米は少し後ろへ戻って、その行商人たちの足にふまれて行った、自分のはきものや日傘をさがして、前の辻堂の縁のそばへ、後ろ向きにしゃがんでいた。そして、髪や襟元をつくろいなおしている様子なので、弦之丞は、あえて意にとめるところなく、そのまま森の片かた日ひか蔭げを辿たどって、ピタピタと先へ歩みはじめた。 かれはもう今のことなどは忘れて、 ﹁万吉はどうしたのか? どうして姿が見えなくなったか?﹂ と、ただ、そればかりを思っている。 まさか、かれにかぎって、大志を曲げて変心するようなことはあるまい。 人は労苦をともにして、はじめて本心のよく分るもの、まだ彼と知ることの日は浅いが、義にも情じょうにも、そんな軽けい浮ふでないことはよく分っている。 ゆうべ、猫間川の土橋から、舟を出てゆく時にも、帰るまで、ここを動かないでいてくれ、とさえ念を押して行ったのに――。 と思うと、なんとなく胸さわがしい。 ふとして、そこらに、生々しい流血の痕あとはないか。なんぞ、万吉の持ち物でも落ちておりはしまいか。 森の日蔭のとぎれた所から、清せい冽れつな流れと小松の土手が、猫間川のほうへうねっている。この小松原は、さっき一度通ったような気もするが、念のために、かれはなお水辺の草むらを覗のぞきながら、水の行くままにあるいてみた。 ﹁もし﹂ お米は、そこで初めて、呼びかけた。かの女じょは、辻堂の前からここまでの間、黙って、後についてきた。宅助と争った息の疲れが、容易にしずまらないのと、また、一念に居所をさがしていた人の現れが、あまりに唐突で、あまりに路傍の人のごとくであったのと。 そして、その人に、今の取乱した姿のまま会うことが、やはり女らしく迷われたのであった。 けれど、この折を逃がしてはならない、と思う心のほうが、より強かったのはいうまでもない。 ﹁もし﹂ 少し、小こき刻ざみに追いついた。 ﹁おお、今のお女中か……﹂ ﹁ありがとうぞんじました。もう少しで私は、どんな目に遭あわされるか分らないところでござりました﹂ ﹁まいりあわせてよかったの﹂ ﹁はい、なんとお礼を申しあげてよいか、もう、こんなうれしいことは﹂ ﹁無用じゃ。礼などと改まるには及ばぬこと、それよりはまた、やがて黄たそ昏がれにならぬうちに、早く家へ帰られい﹂ ﹁法月さま﹂ ﹁や?﹂ ﹁お見忘れでございますか﹂ ﹁どうして、そなた、拙者の名を知っておるか﹂ ﹁弦之丞様、わたしの名を、思いだして下さいませ﹂ ﹁ウーム……﹂と、その時、はじめて彼はしげしげとおもはゆそうに、うつむけている女の顔の線を見入ったが、ハタと膝を打って、 ﹁お、川長のお米であったな。久しく見ぬせいか、見違えるほどな変りよう、うかと、思わぬ失礼をいたした﹂ ﹁あなた様も、その頃の、宗そう長ちょ流うりゅうの一ひと節よぎ切りを吹く虚無僧とは、すっかりお姿がお違い遊ばして……﹂ ﹁ウム。ちと仔細がありましての――がしかし、そなたの家や叔父の半はん斎さい殿には、あの節、唐草銀五郎や多市などが、ひとかたならぬ世話になった。その無沙汰も心苦しく思うておるが、時しぐ雨れど堂うの騒ぎの後、半斎殿にもさだめし迷惑がかかったことであろう。あの人じんは、その後もつつがなくお暮らしであるか。また立りっ慶けい河が岸しのお家もご無事でいられるか?﹂ ﹁はい、おかげ様で、大津の叔父も、大阪の家も、みんな変りなくやっておりますが、ただ、変り果てておりますのは、この私だけでござります﹂ と、お米は、袖についている草くさの実みを、指の先につまんで捨てた。 変りました――とみずからさびしくいう女の前で、かれは、いつか自分が安治川屋敷へ忍びこんだ際に、お船蔵の闇で救いを叫んだひと声の悲鳴を、今ふと、耳の底に呼び起こしていた。 ﹁その後そなたは、阿波へまいっていたそうだが、して、いつこの大阪へ戻ってこられたか﹂ ﹁森啓之助という蜂須賀家の御家中に、無理に、かどわかされて行ったのでございますから、戻ってきたというよりは、逃げてきたも同様なのでございます﹂ ﹁ほう、それであの仲ちゅ間うげんが、無むた態いにそちを捕えようと致していたのか﹂ ﹁私はもう阿波へ帰るのは嫌なのでございますけれど、執しゅ念うねんぶかい宅助が、あの通りつけ廻しているので、川長の家へもウッカリ帰れませぬし、もうどうしていいか、路頭に迷っているところなのでございます﹂ と、顔に血をのぼせながら、そむいたまま、ソッと側へ寄りついて、 ﹁で私は、ほんとに只今困っております。弦之丞様、どこかへ当分の間、私の身を匿かくまっておいては下さいませぬか﹂ ﹁というても……﹂と、かれはいたく迷惑そうに、﹁この弦之丞自身すらが、流る々るに任す無住の浪人、定まる家もない境遇であれば、そなたをどこへ匿かくもうてあげる術すべもない﹂ ﹁家がなければ、あなたの袖の蔭へでも、また定まらぬ旅とおっしゃるなら、浮草のように、その旅先へでもよろしゅうございますから﹂ ふと、歩むともなく歩みだす人を追って、お米は懸命にいいすがった。 ﹁どうか、連れて行って下さいませ。まだ阿波へ行かぬ頃から、私がどんなにあなたをお探し申していたかは、それはいつか九条村で、あの医者の源内様の帰り途に、使いに持たせてやった手紙の中へも書いた通りでございます﹂ と、あの時、弦之丞を待ちぼうけていた九条の渡わた舟し場ばから、啓之助と宅助に捕まって、脇船の底になげこまれた時のこと。また徳島の町端れに暮らしていた月日の間にも、たえず忘れ得ぬ悩みをもっていたことや、剣つる山ぎさんの麓ふもとまで行って、啓之助をたぶらかして、とうとうこの大阪へ逃げ戻ってきたことなどを、それとなく話しながら、燃ゆるような恋をほのめかした。 そして弦之丞の気けし色きを見たが、かれはその強い恋の言葉よりは、阿波、剣山、などという言葉の端々に、より以上な衝動をうけているらしく、何か黙思しながら、素すげないうなずきを与えながら遅ち歩ほをすすませている。 きょう偶然に会ったことはうれしかったが、それは、悲恋の幻滅を知る日であったか、とお米は相手の冷やかさに血を熱くして、 ﹁弦之丞様、今申した私の願いは、おききなさって下さるのですか、それともお嫌とおっしゃるのでございますか。これ程までせつない苦労をしても、それがあなたのお心に通じないものなら、いッそもう私は……﹂ ﹁何をなさる﹂ ふりかえるとともに、弦之丞はお米の手くびを握って、固く脇の下へ抱えてしまった。 その指からポロリと匕あい首くちが落されて、松まつ落おち葉ばの土へ刺さったのを、お米はまた拾い取ろうとしてもだえながら、 ﹁死んだがましでございます、私は死ぬよりほかにない女です﹂ 弦之丞は女の激しいふるえを感じながら、黙ってお米の手を抱えていた。その肉感的な痙けい攣れんを感じた当惑のきわみに、かれはまだお千絵にもお綱にも持ったことのない悪魔的な考えにフト頭を濁していた。 この女の猥みだらな恋を利用してやろうか。 かれの切れ長な目が、そう思いながらジッと見ると、お米は温かい男の腕の下に自分の手を預けたまま、なんの反抗力も失ってしまった。気味の悪いほど白く透すく肌の下には、きわどい瞬間を楽しもうとする血がよろこび躍っている。 弦之丞は思った。 この女が自分に求めてやまぬものは、ただ強い抱擁ではないか。熱病のような本能の情炎が、またそれをあおる癆ろう咳がいという美しき病の鬱うっ血けつが、たまたま自分という対象に燃えているだけなのではないか。 剣山へ行きつくまでの難関を、お米に手びきさせることは、いい策には違いないと思ったが、目的のためとはいえ、果たして、そこまで悪魔的な気持がもち続けられるか、またこの放ほう縦じゅうな恋の病人を、それまであやつって行ききれるかどうかという点は、弦之丞の性格にはなはだ自信が乏とぼしかった。 ジーと目をつぶって考えた。 お米の手を抱えたまま――。そして、お米は、その手くびのしびれを忘れて、うっとりと、弦之丞の顔を見まもっていた。 すると。 向うの小松林の間を、明るい帯の色がチラと通りぬけてくる。誰かと思うと、それは見返りお綱であった。 何かにわかな用でも起こったらしく、船宿から弦之丞をさがしに来たお綱は、思いがけない男と女のたたずみを見て、はッとしたように、松の木のかげへ足をすくめた。 うつつなお米の腕を脇の下へ抑えたまま、弦之丞は横あゆみに数歩、人目のうれいなき木蔭まで連れてきた。 女は、体じゅうを心臓にして動どう悸きをうった。 そこのさびしい木蔭が、恐ろしいようなまたうれしいような。 ﹁お米﹂ と怖いように射いる眼まなざし、 ﹁いまの言葉に、よも偽いつわりはあるまいな﹂ と、念を押して締しめつける言葉が、かの女じょをいっそう熱ッぽく必死にさせて、 ﹁何で嘘や偽りにこんなことがいえましょう。まだそれ程にお疑いなら、見ている前で、私は死んで見せます、ええ、今すぐにでも﹂ ﹁では、真実、それほどまでにこの弦之丞を﹂ ﹁思いつめておりました!﹂と、お米の姿し態なが白肌の蛇のように男の胸へからみついて、 ﹁ですけれど、その懸命は私ばかり、あなたのほうでは、なんとも思ってはいらっしゃらない﹂ 怨うらみがましく向ける目の針を避けて、 ﹁いや﹂ 面おもてをそむけた。 偽りは自分にある。かれは、お米をあざむき、己れの心をいつわる舌に重い苦渋をおぼえながら、 ﹁何を隠そう、そうした心は拙者とても同じであった。川長の離れ座敷で、銀五郎や多市などとともに、そちに匿かくまわれていた頃から﹂ ﹁ええっ、もし、それはほんとでございますか﹂ ﹁きょうまで忘れたことがない﹂ と、強く細い手くびをつかんだが、体はお米の粘ねばりを解いて、抜けるように胸を離れた。 ﹁では、私の恋を、あのお願いを﹂ ﹁おお、かなえてはやろうが、しかし、そちの本心﹂ ﹁ええ﹂じれったそうに身を振って――﹁まだ疑っているのですか﹂ ﹁いいや違う。その本心が分ったので、ひとつの大事をそちに打け明けたいと﹇#﹁打け明けたいと﹂はママ﹈思う﹂ 澄みきった双そう眸ぼうがあたりへ動いた。 ﹁でその上に、是非ともきいて貰わねばならぬ頼みがある﹂ ﹁頼まれるのはうれしいことです。弦之丞様、水臭いご心配はなく、何でも打ち明けてみて下さいまし﹂ ﹁ウム、では、必ず承知してくれるか﹂ ﹁はい﹂お米はゴクリと唾つばを呑んだ。 ﹁何でございますか? そのお頼みとは﹂ ﹁ほかではないが、もいちど阿波に帰ってほしい﹂ ﹁えっ、私に?﹂ ﹁嫌ではあろうが、森啓之助の所へ帰って、しばらくすなおを装よそおっていて貰いたい。いずれ近ちか々ぢかには、拙者も阿波へ渡るつもりだが﹂ ﹁それではいよいよ徳島城や剣山の奥へ、隠密にいらっしゃるお覚悟ですか﹂ ﹁これッ﹂ 思わずけわしい目になって、弦之丞はお米の顔色をジッと読んだ。そして、この女はいつのまにか自分の素姓や目的までも感づいているなと思った。 きょうまでのいきさつを綜合し、また永らく森啓之助の側にもいたものであるから、自然それを知ったことは当然だが、思えばその大事を気けどっている女の恋慕こそ怖るべきもので、ひとつ狂ってきたら自暴の火は手のつけられない狂炎となるだろう。 ﹁静かに――﹂と声をおさえた。お米も木立の奥や小川の汀みぎわを見廻した。 昼を啼なく小禽とり――木の葉のささやき――そんなものしかなかった。弦之丞は静かに言葉をつづけた。危険性の多いお米の恋をなだめておいて、大望の手びきにあやつろうとする悪魔的な考えは、いつのまにか彼の心に自然な働き方をしていた。 ﹁いかにもその目的のために、真っ先に、剣山の間かん者じゃ牢ろうを訪れようと計っているが、さて阿波へ入り込んだ上には、さまざまな詮せん議ぎ迫害がそれを拒むに違いない。ところでそちが啓之助に囲われておれば、身を隠すには上乗の便宜、また何かのことにも都合がよい。どうじゃお米、いずれその目的を遂げさえすれば自由になれる弦之丞だが、それまで時節を待つと思うて、もいちど啓之助の所へ帰ってくれぬか﹂ お米もさすがに少し考えていたが、 ﹁ええ……﹂と、やっとうなずいた。そして、﹁それがあなたにご都合がよいならば、私は、目をつぶって帰ります。ですけれどその代りに、きっと、あの……﹂と甘えるように男を見あげる――。 その間に、お綱は、わざと静かに、木立の細道を歩いていた。 もう少し、様子を眺めていようかとためらうふうであったが、お米の白い手が、人目もなく男の肩へ伸びたのを見せつけられると、かーっと熱い血がのぼって、吾にもなく、 ﹁弦之丞様! ……﹂ と呼んでしまった。 そして、飛び離れて白しらける男ふた女りを冷やかに見捨てながら、苦しそうに微ほほ笑えみをした。 あれ。そこへ来た女は? どこかで見たような、とお米はすぐに考えついたが、妙なはめに立たされたまま、気まずい口をつぐんでいると、お綱は、わざとお米の方を見ないようにして、 ﹁あの、弦之丞様﹂ と、涼しい目に、用事のある意味をふくませて、 ﹁よろしかったら、ちょっと、お顔を貸して下さいな﹂ そのなれなれしさが、いかにも深い仲のあるように、一方の心へ映るのは是非がない。 弦之丞は未練なく、そのお米を後ろにして、 ﹁お綱ではないか、何ぞにわかなことでも?﹂ と訊たずねながら寄って行った。 ﹁さっきお出かけになるとその後へ、新吉という人が見えました。あの、船宿の鯉屋に、私たちがいるのを知って﹂ ﹁新吉と申すと? オ、四国屋の手代じゃな﹂ ﹁急に積荷がまとまって、船の出る日取りがきまったからと、わざわざしらせに来てくれました﹂ ﹁使いがなくとも明あ日すの夜は、こちらから四国屋の寮へ行く約束になっているのに﹂ ﹁どういう早耳か、阿州屋敷の者がうすうす感づいているらしいから、その前に来るのは見あわせてくれという話﹂ ﹁して、船の出る日は?﹂ ﹁十九日の晩の五ツ刻どきに、木き津づの河岸から安治川へ。その夕方に、四国屋の裏まで、身みな装りを変えて来てくれたら、あとはお久良様がよいように手筈をしようとおっしゃいます﹂ ﹁ウム、そうすると……﹂と指を繰くってみながら、﹁あと残る日もわずか四、五日﹂ ﹁万吉さんはどうしたのでしょう﹂ ﹁さ、その消息だが……﹂と声を低めて、話し話し歩いている間に、いつか弦之丞はお綱の歩みに連れていた。 お米はぽつねんと取り残された形。 どんな甘いささやきを交わしてゆくのかと、邪推されて胸は穏やかでない。 ちょうど、夢みている楽しい枕を不意にはずされてしまったような、腹立たしさ、さびしさ、空虚さ。 ﹁ひと、ばかにしている﹂ 睨むように、お綱のうしろ姿を見ていたが、やがて自分もあゆみだして、 ﹁弦之丞様、弦之丞様﹂ と呼びとめた。 そして、ふたりがふりかえると、呼んだ者は埒らち外がいにおいて、お綱の目とお米の目とが剃かみ刀そりのように澄み合った。 ﹁なにか御用?﹂ とお綱の声が冷たくいう。 ﹁いいえ、お前さんじゃないんですの﹂ ﹁おや、たいそうなご挨拶だよ。弦之丞様、いったいこの女ひとはどこのお方?﹂ ﹁ハイ、私でござんすか﹂ 一方の引き合わせも待たず、お米はむしゃくしゃまぎれに突っかけて、 ﹁川長のお米というあばずれ女もの、エエ、法月さんとは、ずっと前からのお知り合いでネ﹂ ﹁あら、お米さんといえば?﹂ ﹁そのお米がどうかしましたかえ﹂ と、ツンとした。 ﹁もうずいぶん前のことだが、関せきの明みょ神うじんの森で、首を縊くくろうとしているところを、私が救ってあげたことがある。だけれど、そのお米とかいう娘は、まだ初う心ぶらしい優しさがあったから、お前さんたあ人違いかも知れないねエ﹂ ﹁あ……それじゃ﹂と、お米も初めて、自分のうろおぼえをはっきりさせた。 ﹁私が叔父の家をぬけだして、関の森で死のうとしていたところを、抱きとめてくれたあの時の人は?﹂ ﹁たしか、見返りお綱とかいう、おせっかいな江戸の女だったと思いますがね﹂ ﹁まあ﹂ といったが、お米の気持がすなおでなかった。 ﹁お蔭様で、生きのびましたと、お礼をいいたいところですけれど﹂ ﹁どういたしまして。恩着せがましくいったなどと、悪く気を廻されちゃ困っちまう﹂ ﹁助けられて不足をいうんじゃあないけれど、あの時死んでしまわなかったお蔭に、まだ罪ざい業ごうがつきないで、こんな姿をうろつかせておりますよ﹂ ﹁といったところで、私のせいじゃないからね﹂ ﹁誰がお前さんのせいだと言いましたえ。私はただ、自分の輪りん廻ねを怨むんですよ﹂ ﹁それ程この世がお嫌なら、どこかそこらでご思案なさいな、こんどは私が手伝ってあげるから﹂ ﹁おそろしいご親切、ありがたすぎて身ぶるいが出る。けれど私にも今日からは、弦之丞様というお方があるんですから、そんなお心ここ遣ろづかいはご無用に願いましょう﹂ と、お米も負けずにそういい返すと、弦之丞の右側へ廻って、見えないように、袂たもとの下で手を握った。 おのれの科とがは覿てき面めんにすぐおのれへ帰ってくる。 弦之丞は後悔した。 触れるやいな、火花を散らす女の妬とし心んを眼まのあたりに見て、かれの臆病な悪魔的な考えは萎なえ惧おそれた。 けれど、秘密を知る狂恋の女。あざむかねば殺すのほかはなく、殺さねば、あざむくのほかはない。大事の万全を期する上に。 しかし、やがてお綱の怜れい悧りが誤解をとくであろうことは信じられるので、とにかく、弦之丞はお米の棘とげ立つのをなだめ、こんがらかった二人の気持をほぐすことに努めながら、京橋口の船宿へ帰ってくる。 大阪表に潜伏している間、そこの鯉屋には何かの世話になっていたが、今も門かどまで戻ってくると、誰かひとりの客が、留守のうちに弦之丞を訪ねてきて、さっきから二階に待っておりますという亭主の告げであった。 ﹁客が?﹂ といぶかしみながら、弦之丞、腑ふに落ちない様子で、 ﹁はて、誰であろうか﹂ 梯はし子ご口から見あげていると、その間まに、お米は上がり框がまちの日ひよ和り下駄を見て、少し顔色を変えたが、 ﹁私は、そのうちにまた、あの、船が出るまでの間に出なおしてくることにしますから……﹂ と、意地でも側を離れそうもなく、ここまでついてきたお米が、ふいと、どこへか帰ってしまったので、弦之丞もお綱も少し案外だったが、そのまま小急ぎに梯子段を上がってみると、櫛くし巻まきに結ゆって年増の女が、何か、物思わしげに、しょんぼりとうつむいている。 万吉の女房であった。 お吉きちは今朝、平賀源内の使いにおどろかされて、初めて、良おっ人との凶きょ変うへんを知った。 で、取るものも取りあえず、小おば橋せ村の彫刻師の家に寝かされている万吉の容体を見に行ったのであるが、かすかに意識づいてきた万吉が、しきりと気にかけてやまないので、かれの口から船宿の所をきき、ようよう尋ね当ててきたわけであるという。 ﹁さては﹂ 聞きつつも、弦之丞、無念そうに唇を噛みしめた。 ﹁やはり、案じていたに違たがわず、お十夜や天堂の詭きさ策くに陥おちたのであるか。ウウム……﹂と、暗涙をのんで愁しゅ然うぜんとした独りごと――﹁傷はとにかく、あの男の気性として、ここまで来ながら落らく伍ごしては、さだめし、それが無念にたえまい。ああ遺いか憾んし至ご極く﹂ 思わず拳こぶしが膝にふるえる。 おのれ、今に見よと、あらぬ方に燿かがやくかれの眼まなこに情じょ恨うこんふたいろの血の筋が走る。 ともあれ一刻も早く慰めてやりたいと、あわただしく湯ゆづ漬けを一椀わんかっこんで、宿の亭主に小舟を頼み、京橋口から猫ねこ間ま川をのぼって、小おば橋せ村黙もく蛙あど堂うの家うちへ馳はせつけた。 静かな茅かや葺ぶき屋根の家うちに、万吉は仰むけに寝かされていた。 裏に梨の花が咲いている反映のせいか、かれの皮膚もそれのように蒼あお白じろい。 ﹁あまり本人の気を立ててはいけないと、源内様がいっておりました﹂と黙蛙堂が心配していう。 ﹁…………﹂ 皆、目でうなずくばかりだった。 お綱は涙をうるませていた。一いち月げつ寺じにいた時のことや、旅途中のことなどが、そんな中で、思い出される。 相談の上で、万吉の体は、やがて蒲ふと団んぐるみ、そッと戸板へのせられた。そして、哀あい寂じゃくとした夕暮、その戸板を黙々として守る人々が桃谷のかれの家へ移って行った。 その晩、早速源内も来てくれた。 傷を洗い金きん創そうを巻きかえなどされて、幾分気がハッキリしてきたが、万吉は夜になってしきりに昂奮しだした。 だが、深い話はできないらしい。弦之丞もなるべくそれを避けていた。無論、十九日の晩に、いよいよ四国屋の船に乗って、阿波へ立つということなどはおくびにも出さない。 まだ未来にどれ程な艱かん苦くは迫くが害いが待ちもうけているかは逆ぎゃ睹くとしがたいが、その決定だけでも話してやったら、さだめし万吉喜ぶだろう、耳に入れてやりたいのは山々で、聞かせてやれないのは辛つらいことだ。 それを知ったら、おそらく万吉の気性として、ジッと傷の癒いえるのを待ってはいまい。利きかない体を無理にでも寝床から這はいだすだろう。そして、憤ふん死しするかもしれない。 お綱は寝ずに看護をしていた。 弦之丞もその枕元を離れ得なかった。けれど、船出の十九日は、もう明あ日すの夜とまで迫ってきた。 所しょ詮せん、万吉は残して行かねばなるまい。罪のようだが、ある時期まで、それをいわずに、黙って立つよりほかに道はない。 何かの支度もあるし、留守の間に、また四国屋のほうから手筈の都合を知らせてきてあるかもしれないので、そのほうも気が気ではなく、弦之丞はお綱とお吉にソッと言いふくめて、先にひとり桃もも谷だにから帰ってきた。 十八日の晩である。 明日の夜の今頃は、もうこの大阪を離れている。 阿波へ指して行く船のうちに暗い海風を聞いているのだ。 と思うと、かれの胸は躍ってくる。耳には紀きた淡んの潮ちょ音うおんがきこえてくるような心地もして。 ﹁だが……﹂ とまた口く惜やしまれるのは万吉の落らく伍ご。 ふり仰ぐと空いちめんに星がある。 六ろっ根こん清しょ浄うじょう、六根清浄、そうして、人生の嶮けん路ろを互に手をとり合ってきた道づれが、途中で凍こごえてしまったようなさびしさを感じた。蜘く蛛もかがり
重しげ喜よしが居城へ帰ってから無人になっている安治川屋敷は、大寺のように寂じゃくとしていた。白しら髪がのお留守居とお長屋の小者が、蜘く蛛もの巣ばかり取って歩いている。 で、誰にも遠慮のいらないここの侍さむらい部屋は、目下、天堂やお十夜や周馬にとって、またなきねぐらとなっている。 三人よれば文もん殊じゅの智慧というけれど、この三人、寄るとさわると酒なので、智慧の出るひまもなさそうだ。 ゆうべも酒。けさも酒。 その酒びたりに倦うみ果てて、やがてけだるくなると、お十夜は手枕をかい、一角は飴あめのように柱へもたれ、周馬は徳利を枕にして仰むけに寝ころぶ。 ﹁鳴なりをひそめているということは、何となく面白いな﹂ と、周馬がいった。 近ごろ新しくできた一個のニキビを疣いぼのように気にしながら。 すると。 何か目算が立って居きょ中ちゅう悠々としているもののごとく、天堂一角が朗吟口くち調ょうで、 ﹁――山さん雨う将まさにいたらんとして、さ﹂ と、つぶやくと、お十夜が周馬の口を写して同じようなことをくり返した。 ﹁そうよ、鳴りをしずめているッてやつあ面白れえ﹂ そこでまた、気けだるくみんな黙ってしまう。 あくび、眠気、いやな鳴りをしずめたものだ。 だが三人のうなずいたのは、まさかそんな陶とう酔すい気分をいったのではあるまい。すでに、高こう津づの舞台から、法月弦之丞の姿さえ見ているのだから、いかな耽たん溺でき家かにしても、なにか成算がなければ、こう悠ゆう々ゆうと構えてはいられないはず。 そのうちに周馬、ニキビへ来る蠅はえをやりきれないように追って、仰むけから腹ン這いになった。 ﹁もう飲まないのか﹂ ﹁ああ、目にもたくさんになった﹂ ﹁飲みちらした残ざん肴こうというやつは、まったく嫌なものだ。見ていると浅ましくなる、早く片づけてしまおうじゃないか﹂ と周馬は起き上がったが、孫兵衛は目をふさいで横になったまま、 ﹁もてあそんだ後の女が、邪魔くさくなるのと同じだ﹂と、いった。 ﹁お綱でもか? あの女を手に入れても﹂ ﹁さあ、そいつあどうだか分らないが、今まで手にかけた女はみんなそうだった﹂ 一角はまた猥わい談だんかというふうに少しさげすんで、 ﹁片づけるなら、宅助を呼んだがいい﹂ ﹁あいつ、そこらにいるかしら﹂ ﹁最前、お長屋で門番と将しょ棋うぎをさしていたようだ。その窓から大きな声をして呼んだら聞こえるだろう﹂ と一角が顎あごでいった。 周馬はちょッと癪しゃくにさわったように唇くちをゆがめた。こんな時、いつでも一角の倨きょ傲ごうとお十夜の図々しさから、自分が立ち用をさせられるのが不満なのだ。 ︵よし、おれも一角のように構えて、お十夜のように図太くなっていよう︶ かれは常に心のうちで、そういう工ぐあ合いに修養しようと要よう心じんしながら、ツイ自分から口をだしては、自分から用を求めてしまった。 ︵まあいいわ、今にだ、今におれの真価も分るこった。旅川周馬様、それ程のご人物であったかと、あとでこいつら、眼の玉を白くする時節があるんだ︶ こう思って、周馬はいつも不満をさすった。で、今もちょっとむッとしたが、 ﹁お、呼んでやろう﹂ 気軽にいって、切きり窓まどから邸内を見廻した。 通用門から御用口までの広い間に、きょうは蜘く蛛もの巣取りのお留守居役も宅助も見えなかった。で、かれは、そこからお長屋のほうへ向って、 ﹁宅助ッ――、宅助はおらんか――﹂ 大きな声をくり返していた。 すると、通用門の袖そでから、ふたりの立派な侍が、邸内へ入ってきた。 ふたりの侍、門番がいない門小屋をのぞいて、不審な様子をしている。 周馬はそれにかまわず、なお大きな声を送っていた。 やっと、それを聞き止めた宅助と門番は、さしかけていた賭かけ将しょ棋うぎの駒をつかんだまま、びっくりしてお長屋の端から飛びだしてきたが、 ﹁あっ﹂ と、出会いがしらに、たたずんでいた侍にぶつかッて、握りこぶしの持駒、金、銀、桂馬、バラリとそこへ撒まいてしまった。 ﹁や……おや﹂ と、あきれた顔をして、侍のひとりのほう。 ﹁貴様は宅助ではないか、どうしてこんな所にいるのだ﹂ と、ジロジロ将棋の駒と宅助の顔を見くらべた。 そこで宅助がしきりに恐縮している様子なので、侍部屋の窓に寄っていた周馬、一角をふりかえって、 ﹁誰か知らぬが、見なれぬ侍がふたり、いやに横おう柄へいに邸内へ入ってきたぞ﹂ と教えた。 ﹁ふウ……どんな奴?﹂ 周馬と顔をならべた一角も、そこから向うを見てびっくりした。 ﹁こりゃいかん。早くそこらの皿小鉢を片づけよう、おいお十夜、掃除だ、掃除だ、その酒の徳利を隠しておけ﹂ ﹁なんだ、たいそうあわてるじゃねえか﹂ ﹁殿様の見みる目めか嗅ぐは鼻ながやってきた﹂ ﹁お目付か﹂ ﹁なに、居候だ﹂ ﹁居候?﹂ ﹁ウム、いつか話したことのある、阿波の国の居候、竹たけ屋やさ三んみ位きょ卿うだ﹂ ﹁ほう……﹂と孫兵衛も立って、 ﹁もうひとりのほうは?﹂ ﹁あれが森啓之助、宅助の主人だ。きゃつめ、お米よねをうまくやっておきながら、いやにきまじめな顔をして宅助を痛めておるわい﹂ ﹁門番も叱られているな﹂ ﹁今に、ここへもやってくるかも知れない。居候だが名門なので、殿様へ向って何でもしゃべるから始末が悪いのだ﹂ ﹁ふたりが揃ってやってきたのは、何か国元に急変でも起こったのじゃないか﹂ ﹁なに、暇に任せて、ちょっと様子を見に来たのだろう。先日も竹屋卿からの手紙を何げなく見ると、封には天堂一角先生などと書いて、中には、まだ弦之丞が討てぬのかなどと、極端に拙者を辱はずかしめてあった﹂ ﹁皮肉なやつだな。しかし、公く卿げにしちゃあ話せるほうだ﹂ ﹁話せないのは森啓之助だ。あいつ何しに来おったのだろう? ははあ、お米のことが気になって、うまく竹屋卿の腰に取っついてきたな、いずれ、何か吾々の仕事にかこつけてまいったのだろう﹂ ささやいているうちに、竹屋卿は啓之助をつれて、脇玄関のほうへスタスタと入ってしまった。 宅助は押おッ放ぱなされたように、こっちへ飛んできて、 ﹁天堂様、ひどい目にあっちまいました﹂ と、侍部屋へいざりこんだ。 ﹁どうした﹂ ﹁まさか、やってこようたア思わなかった﹂ ﹁真ッ先に、お米のことを問い詰められたろう﹂ ﹁いいえ、そいつア側に竹屋様がおいでになっていたので、口にゃ出しませんでしたが、イヤに言葉の端でこずりながら、グッと睨みつけられました。睨まれるのは怖くはねえが、ほれ、あとのご褒ほう美びてやつにかかわってきますからね﹂ ﹁は、は、は。だがお米の居所も、およそ弦之丞の周囲と見当がついているのだから、もう心配はあるまい﹂ ﹁けれど、その弦之丞を、早くあなたがたの手で、眠らしてしまって下さらねえうちは、どうにもはなはだ困るんで。エエ、いずれ今に、人のいない所へ呼ばれて、旦那からお米はどうした、お米お米と、お米の化け物みてえに責められるに違いねえ。ああ困ったな。どうしましょう、天堂様﹂ ﹁啓之助の囲かこい女ものなどを、拙者たちが知ったことか﹂ ﹁おっしゃるとおりでございます、他ひ人との楽しむお妾なんぞは、なるだけ逃げてしまったほうが気味がようございますからね。ですが、わっしは追おい目めの賽さいで、この目がポンと出てくれないと、虻あぶ蜂はちとらずの骨折り損、ない身代をつぶしますよ。ひとつ、宅助を哀れと思って、なんとか助けておくんなさいまし。その代りに働きますぜ、エエどうでも、皆さんの顎あご次第にクルクル飛んで歩きます。先さき一おと昨と日いだってそうでしょう。高こう津づの宮みやへかかった時、わっしがお米を見つけたからこそ、だんだん糸に糸を引いて、弦之丞の居所やお綱の様子も分ったというもんで……。いずれ皆さんが、それを知りつつ、手を下さずに、シインと鳴りをしずめているのは、さだめしもう彼あい奴つを、殺ばらしてしまう寸法がついたんでしょうが、そのきッかけを見つけた手てが柄らも者のの宅助は、まだいっこう目鼻がつきません。その手がかりをつけた功に愛めでて、ねエ天堂様、ついでにお米も﹂ ﹁おい、虫のいいことをいうな﹂ と周馬がからかうように、 ﹁その手柄者は貴様ではない、高津の宮の遠とお眼めが鏡ねだ﹂ ﹁あ、なるほどネ﹂ と、頭をかいたが、如才なく、 ﹁お願いしますよ、この通り、旅川様、お十夜様﹂ ﹁うるさい奴だ﹂ 苦笑しながら、皆ぞろぞろ次の部屋へ立ちながら、 ﹁刷は毛けついでがあったらなんとかしてやる。だから、そこをきれいに掃除しておけ﹂と襖ふすまをたてた。 ﹁けっこうです﹂ と宅助、不ぶし精ょうをいわずに働きだした。 ﹁弦之丞とお綱を片づけるその刷毛ついででけっこうです。どうれ、おれも掃除の刷毛ついでに……﹂ と、二、三本徳利の目めか量たを計ってみて、残っている燗かんざましを、鼻の先へ捧げてくる。 ﹁あるな。もったいない﹂ ごくり、ごくり、と酒の入ってゆく宅助の喉のどが、百む足か虫での腹のように太った。 ﹁おい宅たくべエ、うまくやってるな﹂ 後ろで声がしたので、酒の雫しずくを拭きながらふりかえってみると、さっき賭かけ将しょ棋うぎをやっていた相手の門番、伊いへ平いという老おや爺じである。 ﹁どうだ、おめえも﹂ ﹁燗かんざましじゃ、承知ができない﹂ ﹁冗談いうねい、あの将棋はこわしじゃねえか﹂ ﹁それじゃないよ。オイ宅さん、お前もなかなか隅へおけないね﹂ ﹁な、なぜよ﹂ ﹁ちょっとおいで、いいものを握らせるから﹂ ﹁いやだぜ、小気味が悪い﹂ ﹁これでもかい﹂ と門番の伊平、今、使屋が届けてきた女文字の手紙を、宅助の鼻の先へ見せた。 ﹁おや﹂ 見ればお米の手てひ筆つである。 封へにじんだ口紅も憎らしいが、あの女が、宅助さまへ――とはどういう風の吹き廻しだろう。 お米から、あのお米から手紙とは、ちょっと思いがけなかった。 宅助はなんだか、寝返りを打った自分の情い婦ろから来た文でも見るような気がして、封を切った。 だが、読もうとする前に、眉に唾つばをつけるくらいな戒かい心しんで、 ﹁こいつあ、あぶねえ﹂ と小首をかしげた。 ﹁おれに毒をのませてまで、振りきって逃げた女が、宅助様へ――と猫ねこ撫なで手紙をよこすというのは少し変だ。ははあ、この間から、弦之丞に会っていやがるんで、それでなんだな、何か計略をかけてきやがったな﹂ まず、気を締しめてから目を通した。 さらさらと文字は軽く書いてあるが、宅助は眉に皺しわをよせて渋じゅ読うどくする。 ﹁ええと、なんだッて。――いまさらかような文を筆にするもまことにおはもじとは思いひるまれ候えども、逢うべき面おもてはなおさらなく。チェッ、何を寝ねご言とをいってやがるんで、おはもじ面づらが聞いてあきれら﹂ いい加減に間を飛ばして、ぱっぱとしまいのほうを読んで行った。 ﹁――そのため初めて人の無つれ情なさをしみじみ身に知り申し候、まったく一いち途ずに思いつめて心の知れぬ人の許もとへ走り候ことはかえすがえすも私の過あやまり、薄情な男に会うて今さら旦那様のお情けやそなたの親切も、はっきり夢のさめたるように分りたる心地――だッて、ふふん、ざまを見やがれ﹂ と、ここで宅助、溜りゅ飲ういんをさげた。 ﹁断られやがったな、弦之丞に、ポンと肘ひじを食やがったんだ。そこでおはもじながらと来やがった。かえすがえすもとおいでなすった。逃げた女の出でき来あ合い文句よ、あっちへ行って肘をくったから、こっちへコロコロ戻りますなんて、そうは問屋でおろさねえ﹂ と宅助のひとりごと、いつか森啓之助にのり移って、自分が旦那の腹になっている。 ﹁断られるにゃきまっていら。法月弦之丞は今そんなことをしていられる場合じゃねえ。いや、弦之丞も人間だから、そりゃ、大望の途中にだって、痴話や口くぜ説つもやるだろうが、お綱という女がついている。ははあ、それでお米も目がさめたんだな。そうだ、そうに違えねえ。うむ、まだ、何か泣き言が並べてあるな。なんだって、……死ぬ、おや、死……﹂ 手紙にしがみついて、終りの二、三行を幾度もくり返した。 旦那様へのお詫びに死ぬ――と書いてあるように読める。墨がかすれていて読みにくい、おまけに最後の折目からサラサラと少しばかりの髪の毛が落ちてきた。 ﹁おや、いけねえ﹂ 宅助は少し寒くなった。 ﹁遺かた物みまで入っていやがる。死なれちゃ玉たまなしだ﹂ それをふところにねじこんで、門番の伊平の所へ駈けてきた。この手紙を持ってきた使屋は? と聞くと、返事はいらないといって、すぐに帰ってしまったという。 ﹁どっちへ行ったろう?﹂ ﹁そいつは気がつかなかったが、いずれ、この屋敷を出て行くからには、春かす日がみ道ちか新しん堀ぼりの渡わた舟しへ出るにきまっている﹂ ﹁なるほど、で、服な装りは? 年頃は﹂と仔細を聞いて、あたふたと通用門の潜くぐりから飛びだした。 使屋の服な装りは目につくので、七、八丁行くと追いついた。その男に、この手紙はどこの家から頼まれたかと聞くと、松島の水茶屋に休んでいる年頃の女で、返事はいらないといったが、まだ駄だち賃んは貰ってないから、私の帰るまでは奥にいるでしょうということだった。 宅助は使屋と一緒に渡舟へ乗った。 渡舟の中でかれはまた、 ﹁待てよ、こいつが何かの策てじゃねえかしら﹂ と、考えなおしてみた。 だがお米の平へい常ぜいを思うと、血の病みちを起こして泣いたり、わがままをいって飛びだしたり、平気で帰ったりすることは、阿波にいた頃からありがちで、それに、こんな手紙をよこして、こっちを計る必要が考えられない。 ﹁もう逃げているんだからなア――﹂ ゆるく体を動かされながら顎あごをおさえた。 自分は外に待っていて、その使いに、言ことづてをした。 水茶屋へ入って行った使屋の男は、しばらくして、宅助の所へ帰ってきたが、 ﹁あの、お目にかかるのが嫌だって、どうしても出ておいでになりません﹂ ﹁おれに会うのが嫌だって﹂ ﹁あ、違いました。その、面目ないというふうにいいましたので﹂ ﹁そうか。駄賃は貰ったかい﹂ ﹁エエ、ちょうだいいたしました﹂ ﹁じゃ、いいよ、ご苦労様﹂ と、使屋を帰しておいて、宅助は、水茶屋の青すだれから奥を覗のぞいた。 尻しり無なし川がわを裏にした小こい粋きな四畳半に、うしろ向きになっていたのがお米だった。 会わないというのを無理に、宅助はその水茶屋の奥へ通った。 ﹁あら、わたし、どうしよう﹂ 穴でもあったら入りたいような姿し態なをして、お米は、袂たもとと一緒にうっ伏した。そして、 ﹁宅助や。わたしは、旦那様にもお前にも合せる顔がない。すまなかった……すまなかったよ﹂ すすり泣きに泣きじゃくる。 ﹁お米さん。じゃお前めえは、ほんとに眼がさめたというのけえ。まさか、いつもの手てく管だじゃないでしょうね﹂ ﹁もうそんな、痛い傷にふれておくれでない。わたしは、お前へやった手紙にも懺ざん悔げしたとおり、すっかり覚悟をしたのだから﹂ ﹁ふウん……まったく、眼がさめた、悪かったとおっしゃるんで﹂ ﹁つくづく自分の浅あさ慮はかさが分ってきたよ、こうしてお前にみじめな泣き顔を見られるのさえ、わたしは死ぬよりなお辛い﹂ ﹁死のうなんて、悪い覚悟でさ。わっしも一時は赫かっとして、見つけ次第にと恨んでいたが、そう優やさしくいう者を、なぶり殺しにするようなことはしますめえ。自分が悪いと気がついたなら何よりの話、わっしの役目もすむわけですから、一緒に阿波へお帰んなさいな﹂ ﹁いくら私があつかましくても、あんなわがままな真ま似ねをしておいて、今さらお前に……﹂ ﹁なに、わっしはかまやしません。別だん、旦那の見ていたことじゃなし、どうにでも、この宅助が内密にしておきますから﹂ ﹁ア、ありがとう……﹂と、身を起こしたが、袂たもとは顔へ当てたままで、 ﹁……宅助、ありがとうよ。怒りもせずに、お前が優しくいってくれればくれる程、わたしゃ、あの時のことがキリキリと胸を刺して﹂ ﹁もうお互いに、そんなことは言いッこなしさね。お米さん、仲なおりに一杯やって、ひとつさばさばしようじゃございませんか﹂ 宅助はまず九分までお米の悔かい悟ごを信じた。 手を鳴らして女に酒を頼んだ。心得ている出合茶屋なので、酒を運んでくると、川に向ったほうの簾すだれをおろし、御用があったらお手を、といって仕しき切りぶ襖すまを閉めきって行く。 廂ひさしに赤々とした夕陽が照っている反対に、部屋の中は薄暗く感じられた。 ﹁――気晴らしの妙薬、さ、おひとつおやりなさい﹂ と、盃はい洗せんの水を切って、お米に向けた。 ﹁お酒かい……﹂ 気のすすまない顔をして、 ﹁よそうよ﹂ ﹁そんなことをおっしゃらずにさ。これにゃ、鼠薬は入っていやしませんぜ﹂ ﹁お前は、まだそれを遺恨に思っているのだろう﹂ ﹁こいつは、悪いことをいいました。自分から水に流そうと誓っておきながら……。もう決して申しませぬ、さあ酌つぎますぜ。くよくよは虫のお毒、すなおに阿波へさえ帰ってくれれば、もう何の文句もありません。さ、お持ちなさいよ、盃さかずきを﹂ ﹁じゃ、ほんのポッチリ……﹂ 銚ちょ子うしの口と、盃のへりがカチと触れた。 しばらくすると、宅助、少し居ざんまいを壊くずしてきて、白眼を赤く濁している。 ちびりちびり飲みながら、初めのうちは、微細な注意を払って、お米の懺ざん悔げの真偽を観みぬこうとしていたが、そのうちにその眼が、かつて気がつかずにいたこの女の美を発見して、すっかり心をとろかせた。 顔にも襟にも、彫ほりの深い感じがある。青味の白おし粉ろいに、玉虫色の口紅、ひどく魅惑的で、そして弱々しい病的な美だ。それは、決して肉感的とはいえないものだが、なぜか、男にひどい力を思い起こさせる。 ﹁――これだな﹂と、宅助に分った気がした。啓之助が、この女に引きずりひん廻される所ゆえ以んのものは、旺盛な若さを病魔が彫ほり削けずった美貌であった。さらにその病魔に手伝おうとする男の残忍性であった。 宅助は、今日まで戒いましめていた心を自由にあおって、のびのびとお米を眺めた。 ﹁あら……﹂ お米は部屋の隅へ、ズ、ズ……と押されていた。いきなりだったので、どうしようもなかったが、力の差では争えなかった。 ﹁な、な。……旦那に内ない証しょうにしておいてやるからよ。俺にだって、いいじゃねえか﹂ 抱きあまるほどな腕の中に締めつけられて、お米は顔を振り動かした。 少し醒さめた顔をして、お米と宅助は水茶屋の軒を出てきた。 松島田んぼの宵よい闇やみがひろびろと戦そよいでいた。 まだ蛍ほたるは出ないナ、と思うぐらいな風の味が感じられる。ふたりは疲れた歩き方をしていた。 ﹁お近いうちに﹂ 送りだす声を後ろに聞いて、宅助はニヤリとお米の顔を見た。意味のこもった目なのである。だがお米は、たッた今のことを、忘れたように取り澄ましていた。 ﹁ヘン、なにもしないような顔をして!﹂ 肚はらの中で宅助はつぶやいた。おかしい、くすぐッたいような気もした。 そして、女というものの持つ両面をすっかり観破したように思う。どうして、今あんなことをしながら、もうこういうふうに澄ませるものか、と感心した。 だが、俺にゃもう駄目なんだ――その片面を見せちまったんだから――許してしまったのだから、ふふん。 ﹁ああ、いいあんべいに酔いがさめてきた。じゃお米さん、俺は屋敷へ帰けえるからね﹂ ﹁じゃ、私はこれから四国屋へ行って﹂ ﹁うむ、船のほうの一件を、よく頼んでおおきなせえ。そして、明日の晩こそ、時刻をたがえず、船の出る所へ来ていなくっちゃいけませんぜ。わっしもそこへきっと行くから﹂ ﹁大丈夫だよ。けれどねえ、お前……﹂ ふわりとお米が側へ寄ってきた。覚えのある肌の匂いである。で宅助、 ﹁う? ……﹂と返辞が甘くなった。 ﹁啓之助様が来ているっていうことだけれど、話しちゃ嫌だよ﹂ ﹁なにをです?﹂ ﹁あそこでのことさ﹂ ﹁とんでもねえ、誰がそんなことを、自分からしゃべるやつがあるものか。御主人様の思い女ものと、ちょッと、変になって、何したなンておくびにも口を辷すべらせようものなら、それこそ笠の台が飛びまさあ﹂ ﹁じゃ、阿波へ帰るまで、何にも知らない顔をしてネ﹂ ﹁万事は、わっしが心得ています。だがねお米さん、向うへ帰ると、もう小ぎたねえ仲ちゅ間うげんなんかは、ごめんだよッていう顔をするんでしょう﹂ ﹁宅助、そりゃあ、お前のことじゃないか﹂ ﹁おっ、いてえ﹂ ﹁行き過ぎやしないかえ、渡わた舟しの前を﹂ ﹁そうだ。じゃ明日の晩にまた――﹂ 小戻りをして渡舟の中へ飛び込んだ。 そこで、宅助と別れたお米は、反対のほうへ足を向けて歩きだしたが、ふとふりかえって、 ﹁ちイッ……気色が悪い﹂と舌打ちをしながら襟前をかき合せた。 ﹁あいつときたら、転ころんでもタダ起きないのだから嫌になってしまう。人が狂言に涙をこぼせば、その弱音にツケ上がり、いい気になって、とうとう私にあんな真ま似ねをしやがってさ……﹂ と、赤い唇くちを舐なめ廻して唾つばをした。 木津の水を越えて、いつか堀江の町へ入っていた。 その姿が、人ひと混ごみにまぎれ消えたかと思うと、やがて、急いでゆく町駕の垂たれから、お米の裾すそがはみだして見える。 ﹁……これから四国屋の店へ行って、明日の船へ便乗を頼んでおいてから、すぐに駕を急がせれば、今夜のうちに、弦之丞様に会う時刻があるだろう……。どうしても、阿波へ帰る前に、もういちどしみじみと会って、何かの話をしなければ……。嫌な奴に身をまかせたり、嫌な所へ帰るのも、みんな、あの人のためと思えばこそ﹂ 駕は、こんな考えを乗せて、廻船問屋の多い河岸ぶちを駈けていた。 四国屋の前へ着くと、お米は、阿波での顔見知りである、ここのお久く良らを思いだして、店の者に取次いで貰った。 ﹁御寮人様なら、寮のほうにおいででございますから、そちらへお廻り下さいまし﹂ 店の前で、荷造りをしていた者が、金かな鎚づちを指して、土蔵ならびの向うに見える黒塀を教えた。 宅助は、ふらりと、安治川屋敷へ帰ってきた。 屋敷の奥を覗のぞいて見ると、三位み卿きょうを中心に、森啓之助、天堂、お十夜、周馬の五人が、ひどく厳いかめしい容態で、なにやらひそひそと密議をしている。 ﹁いいあんばいに、お人払いの最中らしい。どれ、この間に少しお疲れを休めなくッちゃ……﹂ 仲ちゅ間うげん部屋へもぐり込んで、牛のようにゴロリとなった宅助、天井の闇へ鼻の穴を向けながら、お米の頸うなじの白さを描いた。 三位卿に呼びつけられて、その人を中心に、何やら額ひたいをあつめていた書院の席では、ようやく密議のけりがついたらしく、各めい![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
呉ごえ越つど同うし舟ゅう
隙を見て森啓之助は、あたふたと仲ちゅ間うげん部屋を覗のぞきに来た。そして、真っ暗な中に正体もなく寝そべっている鼾いびきを聞きとめると、 ﹁宅助、宅助﹂ 手荒く揺ゆすぶって、 ﹁起きろ! これ、起きろと申すに﹂ と、耳たぶを引ッ張った。 ﹁あ、あ、むむ……﹂と、伸びをしながら身を起こした宅助は、喉のどの渇かわきと耳の痛さを一緒に知った。 ﹁やっ、しまった、旦那様でしたか﹂ ﹁拙者の目から放たれているのをよいことにして、また酒ばかり食らっているの﹂ ﹁どう致しまして、なかなかそんなところじゃございません。あのお米に、いえお米様にゃ、どれほどてこずったか知れやしません﹂ ﹁そのために付けてやったそちではないか。だのに、何でこんな所にウロついているのじゃ﹂ ﹁高津の宮で、天堂様にお目にかかりましたところが、やあ宅助か、ぜひ一日、安治川のほうへも遊びにこいとおっしゃったもんですから﹂ ﹁たわけめ、あの一角などがそちにろくな智慧をつけおりはしまい。それよりお米はいかがいたした? お米の身は﹂ ――そウらおいでなすった、と宅助は肚はらの中でおかしく思いながら、お米は今夜大津の叔父の所へ暇いと乞まごいに行って、明日の晩は、自分と四国屋で落ちあう約束になっている――と出まかせにいいくるめて、 ﹁へい、ご心配にゃ及びません。この宅助が、はばかりながら、抜け目なく睨んでおります﹂ と安心させた。 ﹁そうか、それならよいが、しかし、ここにちょっと困ったことが持ち上がっているのじゃ。宅助、何かうまい才覚はないか﹂ ﹁お話しなすッてみて下さい、啓之助様のふところ刀、智者の宅助が頭をしぼってみようじゃございませんか﹂ ﹁ほかではないが明あ日すの晩﹂ ﹁へい、明日の晩?﹂ ﹁十九日だな﹂ ﹁今日は十八日ですから、多分あしたは十九日でござんしょう﹂ ﹁四国屋の商あき船ないぶねに法月弦之丞が乗りこむことを知っておるか。かれのほかにもう一人、お綱とやらいう女も一緒に、それへ便乗しようとしている彼らの企たくらみを、存じてはおるまい﹂ ﹁冗談いっちゃいけませんや﹂と、宅助は少し反そって、 ﹁それを最初に嗅かぎつけたのは、この宅助でございます。へい、わっしが探って天堂様へ教えてやったことなんで﹂ ﹁そうか、きゃつめ、いかにも己れの手柄らしく話しておった。でそのことだが、明夜そちやお米もともにあの船へ乗るとなると、三位卿や拙者と同船いたすことになるのだ﹂ ﹁へえ、それじゃ、旦那や有村様も、あしたの晩阿波へお帰りになりますので?﹂ ﹁いや、帰るが目的ではないが、弦之丞を取押えるために、今夜から四国屋へ潜ひそんでいて、そういう手段をとるかもしれぬという相談になっておる。で万が一にも、三位卿と一緒になった場合は、なんとかしてお米をそれと知られぬように工夫をつけておかねば困る﹂ ﹁なるほど、お米様やわっしが、三位卿様に見つかっては、その場合よろしくないとおっしゃいますので、ごもっともです、あのお公く卿げ様からまた殿様へでもしゃべられた日には大おお事ごとですからね﹂ ﹁そうじゃ、そこを抜け目なく心得ておいてくれい﹂ ﹁そもそもお米様のことについちゃ、ずいぶん初まりから心得通しでございますぜ。お国元へ帰けえったら、たッぷり……レコは……旦那のほうでもお心得でございましょうね﹂ その時、通用門まで出てきた竹屋卿は、待たせておいた啓之助の姿が見当らないので、 ﹁森! 森!﹂ としきりに向うで探している様子。 ﹁はっ、只今、只今﹂と啓之助。 外の声に急せかれながら、紙入れを取り出して、せかせかと二朱金の粒を撰より、 ﹁それ、これは当座じゃ﹂ と宅助の手へ握らせたが、出し惜しみをした紙入れのほうから、チリンと、二、三枚小判が辷すべった。 ﹁ほい﹂と宅助は腰を浮かして、 ﹁この通りのお気前だから――﹂ 如才なく土間へ下りて、その小判を踏んづけながら、 ﹁命を投げても、御奉公のためならという気になってしまいますよ。おッと旦那、襦じゅ袢ばんのお襟えりが折れております﹂ 追い出すように、仲ちゅ間うげん部屋の戸を開けてやった。 あなたの闇には、三位卿の影が動いて、 ﹁おい、森ッ、森はどうした﹂ と、待ちじれた声をしている。 ﹁はっ、只今、只今﹂ と、それに答えながら、駈けだして行ったかれの月さか代やきに髷まげがおどって見えた。 四国屋のお久く良らは、手代の新吉が心からの諫いさ言めを決して上うわの空に聞いてはいなかった。 新吉が心配しぬいている通り、こんどのことが悪く発覚すると、店の土台へ亀ひ裂びの入るような破滅になるかもしれない。 それはお久良も承知していた。また法月弦之丞やお綱たちが、何のために阿波の関を越えようとするのか、それもうすうすは察していた。 ﹁けれど、あの方たちには、木曾路でうけた御恩があるのだからね﹂ 今も寮の奥で、お久良はその新吉を前にしながら、深い吐とい息きをもらしている。 ﹁そりゃ恩はありますが、お家様のように、そう義理固くお考えなさらずに、店の船へ抜け乗りをさせることだけは、態ていよくお断りなすってはどうかと存じますが﹂ ﹁私の気きし性ょうとして、そんな恩知らずのまねはできませぬ﹂ ﹁じゃ、どうしても、明あし日たの船へ﹂ ﹁ああ、何とかいい工夫をして、阿波まで乗せて行ってあげておくれ。それだけのことさえして上げれば、後はとにかく、私の心だけはすむのだから﹂ 新吉は口をつぐんでしまった。そしてもう止とめるような諫いさめはしまいと思った。お家様は恩を楯にとって動かないが、お久良が江戸の生れだということに気づいて、恩という以外に江戸贔びい屓きな、一種の加担がその心にまじっているのを覚さとったからである。 ﹁よろしゅうございます。それ程までにおっしゃるなら、なんとか思案をいたしまする﹂ ﹁どうか、いいように、計らっておくれ﹂ ﹁その代りに、お家様、あなたは大阪に止とどまって、今度の船でお帰りになるのはお見あわせなすって下さい。さすれば、すべてこの新吉が一存でしたこととして、万一の時にも、お店にはかかわりないように言い抜けまする﹂ ﹁万事お前に任せておきましょう﹂ ﹁ありがとう存じます。そうお任せ下されば、私の方ほう寸すん次第ですから、よほど気軽にやり抜けられる気がいたします﹂ ﹁ただ案じられるのは、安治川を出るまでの間。えびす島には御番所があるし、蜂須賀様のお船蔵の前でも、いずれ厳しいお検あらためがあるに違いない﹂ ﹁さ、私も、それを頭痛にやんでいるのですが……﹂と、新吉は腕をくんで、顔をふところへ突っ込むように考えこんだ。 ﹁もしも大阪を離れないうちに、露ろけ顕んするようなことにでもなると、わざわざ恩を仇で返したような形になりますからね﹂ ﹁荷物と違って人間ですから、よほどうまくやりませんと﹂ ﹁何か、いい思案がうかばないものかしら﹂ 明日の積荷に目を廻している店の忙せわしさをよそにして、お家様の部屋は、いつまでも静かに閉めきってあった。 ところへ、お米が寮の小門から、お久良に会いたいといってきた。 お久良は、別な者を会わせて用談をきかせた。なんとかいい思案のつかないうちは、そうしていられない気持であった。 お米の用向きは、自分と仲ちゅ間うげんとの便乗を頼みたいというだけで、阿波の家かち中ゅうから貰ってきた船ふな切ぎっ手ても所持しているとの話に、それなら明日の時刻までに、大川岸の船待小屋まで来あわせて下されば、取計らっておきます、と答えさせた。 それからも、明日の船出について、絶えず細かい用事がお久良の耳へ届いた。まだ一日の間があるのに、もうすぐに迫っているような気きぜ忙わしなさが、つぎつぎにその部屋へ運ばれてくる。 ﹁あ! お家様﹂ さっきから黙もく然ねんと腕をくんでいた新吉は、やがて、不意に膝を打って、 ﹁よい思いつきがございました﹂ と前へ乗りだしてきた。 ﹁えっ、いい考えがうかんできたかえ﹂ ﹁これよりほかに策はございませぬ。というのは、その……﹂とお久良のうしろを指さして、 ﹁京都の梅うめ渓たに右うし少ょう将しょう様からお頼まれしてある、その三ツの荷につ葛づ籠ら……﹂と言いかけて恐ろしさに唾つばをのんだ。 差された指につれて、お久良の眼もうしろへうごく。 そこには、雪のせ笹ざさの金紋を印した三つの青せい漆しつ葛つづ籠らが山形に積みかさねてある。このつづらは、すなわち京の堂どう上じょ梅うう渓めた家にけから、徳島城へ送るべく、四国屋に託されたものだった。 暗黙のうちに、ふたりの心がうなずきあった。 新吉は合あい鍵かぎを探して、そのつづらの一個へ手をかけた。 ﹁お家様! お家様﹂ その時、あわただしい足音をさせて、小間使が知らせてきた。 その小女は、阿波の家中が見えた時は早く奥へ知らせるように、と前からお久良に言いふくめられていたので、 ﹁あの、今ここへ、竹屋三位卿というお方に、森様という御家中が通っておいでになります﹂ と、おどおどした声でいった。 ﹁えっ、三位卿様が?﹂ ふたりは、自分が離した合鍵の音にギョッとした。 白い光の紋もん流りゅうは五ぐの目めみだれに美しく沸にえあがって、深みのある鉄かね色いろの烈しさと、無銘ではあるが刃はぎ際わの匂いが、幾多の血にも飽くまいかと眺められる。 はばきから鋩ぼう子しまで、目づもり三尺ばかりな関せきの業わざ刀もの。 それが、灯あか明りの前に横たわっている。 藍あいのような刀身からチカッと一波ぱの光もよじれぬほど、静かに、それを持ちこたえているのは法月弦之丞であって、その切きッ尖さきと行あん燈どんの向うに、息づまったように坐っているのは川長のお米であった。 ここは、京橋口の船宿、鯉こい屋やの二階。 少し風が強くなってきたのか、或いは、さしも夜更けてきたせいか、ドボリ、ドボリ、という川波の音が灯ひざ皿らの細い焔ほのおを揺ゆするかに聞えてくる。 お米は今この二階へ上がってきたばかりであった。四国屋へ行って明あし日たのことを頼んでおいてから、すぐとその駕かごをここへ廻し、そして裏二階へ上がってみると、弦之丞がただひとりで燈下に刀の手入れをしている。 かれの眼が刀の肌に吸いつけられたまま、自分の姿が迎えられもしないので、お米はやや不平がましく、前に坐ったのであるが、氷のような光を見ると、駕のうちから考えてきた恋の言葉や媚なまめきも萎なえおののいて、ジッと息をのんでしまった。 早く鞘さやに入れればよいのに―― こう思いながら耐えていた。 けれど弦之丞はいつまでも、刃はむ斑らにとどまる過去の血の夢に見入っている。もちの木坂で斬って斬って斬り飽いたあの夜の空模様は、なおまざまざとしてここに影を宿している。 これから先もこの無むめ銘いの刀が、幾多の血を吸うべき運命をもつのであろう。法月弦之丞という持主の白骨となる日が来た後も、人手から人手へ転々として、愛慾の血にぬられて行くに違いない。 そんな想像をえがくらしく、かれの眸が、ふと、お米のほうへうごめいた。お米は、なんということもなく後へさがらずにいられなかった。 凄艶な癆ろう咳がいの女と刀の姿とが、その美を研とぎ合って争うように見られたが、弦之丞は刀をやや手元へよせて、軽く打うち粉こをたたいていた。 その手のひまをながめて、お米は少し気が休まったように話しかける。 ﹁あなたのおいいつけを守って、私もいよいよ明あし日たは阿波へ帰ります﹂ ﹁…………﹂ 弦之丞はうつむきながら、膝のわきを探っていた。ゆうべ一晩中水に浸ひたしておいて日蔭干しにした奉書紙が、綿のように揉もんである。 かれはそれを掌てにとって、軽く、刃やいばを噛ませた。 指を切りはしまいかと、お米は女らしく危ぶみながら、 ﹁あなたは?﹂といった。 ﹁拙者も﹂ 右手の刀をしごき、あざやかに拭き抜いて、 ﹁――明あ日すは大阪を立つつもりじゃ﹂ ﹁すると、やはり一緒の船でございますね﹂ それには答えず、鞘さやをよせて音もなく刃やいばを納いれると、階し下たから梯はし子ごのキシム音がして、 ﹁お客様﹂ と、亭主の顔が暗い中に伸びて。 ﹁この間も見えた四国屋のお使いが、ちょっとお顔を貸して貰いたいといって、裏に待っておりますが﹂と、いって降りた。 救われたように後あとについて立とうとすると、お米は急いで、 ﹁あの、弦之丞様﹂と側へすがった。 ﹁船はご一緒でも、私には宅助といううるさい者が付いていますし、阿むこ波うへ行っても、また落ちあえるまでは、しばらくお別れでございます﹂ ﹁それは、ぜひもない辛抱ではないか﹂ ﹁ですから……あの今夜だけ、ここへ泊めて下さいませ﹂ ﹁明日の支度もあり、何かと忙しい場合、悠ゆう々ゆうと話などしている間まはない﹂ ﹁でも、もう遅くなってしまったのですもの﹂ ﹁いや、そちの乗って来た駕屋の声が、まだ表のほうでしている様子。早くそれで帰ったがよい﹂ 素すげなく立ち上がったが、なお念を押して、 ﹁ことにこの家のまわりにも、宵のうちから原はら士しらしい者がウロついている。万一そちの不覚から、これまでの手筈を破るような場合には、もうふたたびこうして会う折はないぞ﹂ と、少し語気を強く言った。 お米はしかたがなく、帰りそうにした。それを見て弦之丞はトントントンと梯子を降り、裏口から外の闇を覗いて見る。 水口から少し離れた所に、苔こけのさびた石井戸があり、その向うに暗い笹ささ藪やぶがある。 縞しまの着物をきたひとりの男が、こっちへ手招きをしてみせた。 ﹁新吉か﹂ と、弦之丞が闇を透かしてゆくと、 ﹁へい﹂ 両方から影が寄り合った。 ﹁何か明みょ夜うやのことで? ……﹂ ﹁さようでございます。いよいよ雲行きがあぶなくなりましたので、それでお家いえ様さまのご注意から、ちょっとあなた様のお耳へ﹂ ﹁ではまた何か、明日の都合でも変ったと申すか﹂ ﹁いえ、そういうわけじゃございませんが﹂ 弦之丞とともに、鯉屋の裏に立った四国屋の新吉は、さらに声を低くして、 ﹁実は今夜突然、竹屋三位様が寮へお越しになりました。で明晩のことについて、お家様も蔭かげながらひどくご心配いたしております﹂ ﹁や、あの若わか公く卿げが見えたと?﹂ ﹁だいぶお疑いをもってるらしいお口ぶりなので﹂ ﹁さては早くも下した検けん分ぶんにまいったの﹂ ﹁そうとも明らかにおっしゃりませんが、困ったことには、その三位卿と森啓之助様が、やはり店の船へ便乗させて貰いたいとおっしゃるのでございます。これはどうも断ことわるわけにはまいりませんので、胸ではギクリとしながらお引請けしてしまいました。そこで明晩の手筈ですが、なにしろそんな按あん配ばいで、ただお身みな装りを変えたくらいでは、とても露ろけ顕んせずにはおりませぬ﹂ ﹁ううむ……いよいよ難儀が重なってきたな﹂ ﹁そこで、少々お苦しいかもしれませんが、ふた夜ばかりの御辛抱、こうなすッたらいかがであろうかと思いついた一策を、御相談にまいりました﹂ ﹁その策とは?﹂ ﹁京の梅うめ渓たに家けから徳島へ依託されました三ツの葛つづ籠らがございます。それも明あし日たの便船へ積みこむことになっておりますので、ひとつ、そいつをからくりして﹂ ﹁しッ……﹂ といわれたので新吉が声をのむと、そのとたんに、弦之丞の手しゅ裡りを離れた小こづ柄かが、キラッ――と斜めに闇を縫ぬって行った。 ちょうど小柄が届いたころ、井戸側の蔭で、ウームという人の呻うめき――忍び頭巾をまとった影がゴロゴロとのた打って転げだした。 それは、かれが宵から察していた、阿州屋敷の廻し者であった。 ザアッ……とそよぐ笹やぶを透すいて、その時、駕の提ちょ灯うちんが人ひと魂だまのように向うを過ぎてゆくのを見た。 新吉がうごめく侍に目を白くしている間に、弦之丞はお米があきらめて帰ったことを知った。 * * * ﹁お綱……﹂ そッと門かどから呼ぶ者があった。 いよいよ阿波へ立つというその日の黄たそ昏がれ。 薄暮の色がうッすらと沈んでいる桃谷の町まち端はずれ、天てん満まの万吉の家の前にたたずむ侍が低く呼ぶ。 紫しこ紺ん色の宗十郎頭巾を、だらりと髷まげの上からくるんでいる横顔が空明りのせいかくッきりと白い。 両刀は手たばさんでいるが、どこか華きゃ奢しゃな風俗、銀ぎん砂すな子ごの扇せん子すを半開きにして口へ当て、 ﹁お綱……﹂ と細目に格子を開けて覗のぞく。 と、やがて内から障子が開あかって、 ﹁弦之丞様ですか﹂ とお綱の半身。 ﹁時刻が迫っている、すぐに﹂と急せいた。 ﹁はい﹂ ﹁支度は﹂ ﹁すっかりしておきました﹂ ﹁では……万吉には告げずに﹂ ﹁お吉さんへ、ちょっと挨あい拶さつをしてまいります﹂ ﹁これを渡してやってくれ﹂ 内ぶところから厚ぼったく封じた手紙を出して、 ﹁拙者たちが立ったあとで、万吉がそれと知ったら、さだめし恨みに思うであろう。委細の事情、やむなく書き残して阿波へ立つわけ。昨夜こまごまと書いておいた。これをお吉に渡して、後で病人に読み聞かせてくれるように、よく頼んでおいたがよい﹂ あれからずっと、万吉の家にいて、お吉と一緒に病人の手当てをしていたお綱は、もう朝から弦之丞の来あわせるのを待ちぬいていたところ。 浅あさ黄ぎの手てっ甲こう脚きゃ絆はんをつけ、新しい銀いち杏ょう形なりの藺いが笠さと杖つえまで、門口に出してある。 もし万が一にも露ろけ顕んした時には、四国屋で世話をしたことのある旅の能役者、桜さく間らま金きん五ごろ郎うといつわるから、なるべく身みな装りもそれらしくしてくれという新吉の注意だったので、お綱もあらかじめそんな支度。 ﹁もし……お吉さん﹂ 中二階を仰むいて、お吉へ軽く合図をしたが、なかなかおりてきそうもない。 お吉は、今の良おっ人との容体ではとても起たたれないのを覚悟しているので、ふたりが立つのを、病人が気けどらないようにと祈っている。で、その合図も心得ている筈だった。 何か手離せないことがあるのだろうと、お綱はしばらく梯はし子ごの下にたたずんでいたが、なかなかお吉は降りてきそうもなく、病人のじりじりした調子で、 ﹁むむ、いまいましい……早くどうかしてくれ、おれの体を。おれはまだ剣山まで行かなくッちゃならねえ。……お吉ッ。医者を代えてくれ、医者をよ。こんな気の永なげえ療りょ治うじなんかを待っていられるものか﹂ という声がひびいてくる。 中二階の悲痛な声を耳にすると、大事の前の小事と、心を鬼にしてきた弦之丞も、かれを残して去ることは情じょうにおいてしのびなくなった。 梯子の下にしゃがんだまま、お綱もさすがに後ろ髪をひかれている。 ﹁ううむ……また痛みはじめてきた。お十夜のやつに斬やられた傷が……お吉、ほかの医者にみせてくれ、この傷が……この傷さえどうにかなれば、立てねえという筈はねえ。阿波へくらい、行けねえということはない﹂ ﹁あ、お前さん、そんなに無理に動くと、よけいに後が悩むじゃありませんか﹂ ﹁だって、じれッてえからな。あ……お吉﹂ ﹁水ですか……水ですか﹂ ﹁ううん、水じゃあねえ。……弦之丞様はどうしたろうな﹂ ﹁ひとりでご苦心していらっしゃいますよ﹂ ﹁四国屋のほうはダメになったのか﹂ ﹁そんな話でございますけれど……﹂少し落ちついた模様を見て、お吉は梯子の上から顔を覗のぞかせた。 そして、去りがてに、ためらっているお綱のほうへ、目まぜで早く立つようにいった。お綱も、目まぜで別れを告げる。 それをしおに、目に涙を溜めながら、編笠を抱えて格子の外へ走りだした。 後では、また万吉が何かわめいているらしかった。弦之丞は暗然として、外から、中二階の窓を仰いでいる。 その窓に、お吉のやつれた顔が見えた。 ご機嫌よう……と目にいわせて。 ふたりは夕明りの中に姿を揃えて、その目へ、その二階へ、心からの哀別を告げて早足に立ち去った。 東堀はドップリと暮れていた。 赤い灯ほか影げが映うつる隙すき間まもないほど、川には艀はし舟けがこみ合っている。四国屋の五ツ戸前の蔵からは、まだドンドンと艀舟へ荷が吐かれている盛りだった。 水みず脚あしを入れた艀舟は、入れかわり立ちかわり、大川へ指し下り、天神の築つき地じへ繋かかっている親船へ胴の間まをよせてゆく。 紫しこ紺ん地じの頭巾に面おもてをくるんだ弦之丞と、青い富士形の編笠に紅べに紐ひもをつけて、眉まぶ深かくかぶったお綱とは、せわしない往来をよけて、農のう人にん橋ばしの手てす欄りから川の中を見下ろしていた。 そうした雑踏の中で見るだけ、よけいに二人の姿は、誰の目にもしがない旅芸人とよりしか見えない。よく世間にある侍くずれの能役者と、それしゃの果ての女とが、生たつ活きの旅に疲れたという姿だ。お綱が帯に秘かくし差ざしにした柳しぼりの一腰さえ、尺八の袋か、笛や舞扇でも入れているかと、人目もひかぬほど調和していた。 ﹁もし、桜さく間らまさん﹂ 人混みの中をぬけてきて、なれなれしく呼びかけた者がある。 見れば、手代の新吉。 河岸どおりから姿を見かけて、約束どおり店からここへ駈けてきたのだ。 ﹁お、新吉さんでございます﹂ 言葉を合せると、往来の者へも聞こえよがしに。 ﹁この間、旅先から手紙を寄よ越こしなすったそうだが、なぜもっと早く来ないのかって、お家様も噂うわさをしていたのさ。船が出るのは五いツ刻つだから、まだちょっと間がある。とにかく、寮のほうへ廻ってお目にかかって行きなさい。なに、せわしい最中だが、私がちょっと案内をして上げましょう﹂ と無造作に、さッさと先へ立って、わざと店の前を通り抜けて行った。 その三人とすれ違った覆ふく面めんの侍があった。ふりかえったが、やり過ごして、また、 ﹁はてな、今の奴? ……﹂というふうに、農人橋の上に立って、腕ぐみをしていた。 するとたちまち、その覆面の侍へ、同じような目ばかり光らした者がちらちらと四、五人ばかり寄ってきて、 ﹁おい、何を考えている?﹂ と、肩を叩いた。 ﹁見つけた!﹂ 腕ぐみを解いた侍は、ほかの者を突きのけるように走りだして、一散に、問とい屋やま町ちの裏通りへ隠れて行った。 それが誰からともなく伝わると、そこらの路次の蔭、天水桶の蔭、土蔵の横などから、こうもりのような黒い姿がうごめきだして、しきりに四国屋の裏や寮の辺へかけて、ひそかな跳躍をしはじめた。 りりりん……と潜くぐり門の鈴が揺すれる。 後をがらがらと閉しめて、 ﹁さ、桜さく間らまさん、どうぞこちらへ﹂ と、新吉の声が招く。 船板塀の中はシットリと打ち水に濡れていた。 燈籠の灯が、暗きに過ぎず明るきに過ぎないほどに、植込みの色を浮かしている。 ﹁変ったでございましょう﹂ そんなことを言いはじめた。ひとり呑のみこみに新吉が。 ﹁この庭もね、すっかり手入れをいたしましたから。はい、近頃ではお家様も、阿波よりは大こち阪らのほうが住居みたいになってしまってな。さあ、ご遠慮なく、私について――﹂ ひとつ、ひとつ、前せん栽ざいの飛び石をさぐりながら、弦之丞とお綱とは黙々としておぼろな影を新吉の後に添わせてゆく。 と。 拭ふき艶つやの流れている檜ひの縁きえんに、 ﹁新吉かい?﹂ とお久く良らの影。 案じていたらしく立っていた。 ﹁はい、お連れ申してまいりました﹂ ﹁来たのかえ? 金五郎さんが﹂ ﹁あまりご無沙汰しすぎているので、どうもしきいが高いとおっしゃってばかりいるので﹂ ﹁そんなことがあるもんじゃない……。あの……﹂何か言いよどんでいたが、 ﹁まあ、とにかく、奥へね﹂ ﹁そちらのお方も﹂ とお綱を見た。 さすがに少し動悸をうちながら、お綱は編笠の紐ひもを解く。 ﹁では……﹂ と言葉すくなく、弦之丞は頭巾のまま、お久良について、中廊下から奥まった寮の一間まへ。 裾すそを下ろして、やや急せかれ気味に、お綱の入ったのと一緒に、その編笠を持ってやりながら、手代の新吉も同じ奥へ姿をかき消す……。 ――で、あとは人影もない。ただ前栽の木々に、蛍ほたるのひそむような静しじ寂まが残っていた。 ﹁眠いのか! 啓之助﹂ 西側の数す寄き屋やである。 やはり同じ前栽の風ふう致ちを前にした小座敷。 そこでこういう声がした。 竹屋有村が言ったのである。イヤ、叱ったのである、森啓之助を。 なぜ叱られたかといえば、啓之助、三位卿の前で、コクリとひとつ居眠りを見せた。 時刻の来るまで、ふたりはここで四国屋のもてなしにあずかっていた。それも昨ゆう夜べからの話である。船ふな待まちにしては長過ぎるし、多少寝たには違いないが、絶えず気を張っているので、頭も鈍どん重じゅうになっているところへ、船ふな出でい祝わいに出された酒も少しは飲んでいたので、思わず、居眠りも出たというわけ。 だが、三位卿はピンとしていた。さすがにお公卿様の育ちである、折目正しく神経を冴えさせていた。 で、仮かし借ゃくなく、 ﹁眠いのか!﹂ときめつけた。 ﹁いや、決して﹂ 啓之助はあわてて顔を撫で廻したが、自分でも、赤かろうと分るほど目が渋かったので、てれ隠しに箸はしをとり、わさびを溶といて魚の洗いをひと切れはさむ。 ﹁決して、眠いなどと、そんな場合ではござりませぬ﹂ ﹁お手前はちと物を食あがりすぎる、食べるから眠くもなる﹂ ﹁はい、つい無ぶり聊ょうのままに﹂ ﹁無聊を感じられるほどお楽らくにいては困る。昨夜からとくと見るに、お久良の気ぶりにも多少腑ふに落ちぬ所もあり、かたがた油断はならない﹂ ﹁拙者もそう感じましたが、証拠のないことにはと控えています﹂ ﹁うむ﹂ ﹁ことに、お久良のもてなしぶりが、あまりよすぎるのも疑わしゅうござる﹂ ﹁なかなかご敏感じゃの﹂ ﹁嫌な顔もみせず、この通りな善美な膳﹂ ﹁それでツイ、箸がすぎ盃がすぎて、居眠りをし召されたか﹂ ﹁そんなわけでもござりませぬが﹂と啓之助も少し眼がさめてきた。皮肉で居眠りをさまされた。 三位卿は膝もくずさず、時々、うしろの自と鳴け鐘いをふりかえっていた。眼のさえた啓之助の頭には、船ふな出でのことと一緒に、お米の姿が描かれてくる……。 どうしたろうか、彼あ女れの体の工合は? 大阪へ戻ってきては、また癆ろう咳がいのほうがよくないのではないかな? 最初にこういう考えが頭へのぼる。 捨鉢になって人をてこずらす時には、実に憎い始末の悪い女と思うが、しばらく離れてみると、やはり自分にはなくてならないお米だった。 ほんの十四、五日というつもりで暇をやったのに、もう大分になる。もっとも船の都合ものびたのだが。 今夜は宅助と一緒に、ここの持船で阿波へ帰るといったが、どこかで、久しぶりに、あいたいものだ。いずれ船が出る間まぎ際わには顔を見合す機会はあろうが、この竹屋卿という眼ざといのがいては、うっかり話も交かわされまい。 啓之助の想像は楽しかった。 その時であった。 植込みを隔へだてた向うの潜くぐり門に、空気のうごめきを感じて、有村が神経を研とがしたのは。 ﹁今……﹂ 三位卿の様子が剃かみ刀そりのように澄んだので、啓之助、 ﹁何でございますか﹂ 描いていた空想を散らして、その人の眼を見た。 ﹁……鈴りんが鳴ったようだが﹂ ﹁庭の客門には銅どう鈴れいがついておりました﹂ ﹁誰かそこから前せん栽ざいの内へ入ってきたのではなかろうか﹂ ﹁探さぐってみましょう﹂ ﹁ウム﹂ 啓之助はすぐに立った。 数寄屋の虫むし籠かご窓まどへ顔を寄せ、しばらく外を探っていたが、庭木に妨さまたげられるので、縁へ立って行くと、 ﹁しずかに﹂ と有村が注意を送った。 ﹁は﹂ 白しろ足た袋びに辷すべりそうな廊下、酔いでもさますふうを粧よそおいながら母おも屋やのほうをうかがってゆくと、その目の前へ、廉すだれのような灯あ明かりの縞しまがゆらゆらとうごいて。 ﹁あ――もし﹂ と、簾す戸どを立てた部屋の内から、 ﹁森様じゃございませんか﹂ とお久良の影が透すいて見える。 啓之助はちょっと戸まどいをして、 ﹁お内儀か、船の時刻は、まだなのであろうか﹂ ﹁刻限がまいりましたら、お座敷へお迎えにまいりますはずなので﹂ ﹁さようであったな﹂ 廊下をぶらぶらしてみたが、しかたがなく、 ﹁では﹂ と戻ろうとすると、 ﹁森様、森様……﹂と呼び止めて、お久良はその部屋へ行あん燈どんをすえて、 ﹁お伺うかがいしたいことがございますが﹂ ﹁拙者に﹂ ﹁はい﹂ 簾す戸どを開けて迎え入れると、お久良は啓之助を見ながら、意味ありげに笑えくぼを作って、 ﹁今夜の船で、あなた様のご懇こん意いなお方も、阿波までお送りいたすことになっております﹂ ﹁ああ、そうであったな﹂ お米のことであろうと、啓之助、少し間まが悪そうに思い当たって、 ﹁つい、礼を申すのも忘れていたが﹂ ﹁いえ、滅めっ相そうもござりませぬ﹂ ﹁船に馴れぬ女のこと、何分、途中気をつけてやってくれい﹂ ﹁たいそうお美しくっていらっしゃいます﹂ ﹁いや、なに﹂ と顔を撫でるのを、お久良はニヤニヤ眺めていたが、 ﹁なぜご一緒になって、途中見てあげないのでございますか。殿方の薄情を、さだめしお米様もお恨うらみでございましょうに﹂ ﹁そう申されると困るが……﹂ ﹁でも、せっかく、ひとつの船でお帰りなのではございませぬか﹂ ﹁実はの﹂ と顎あごで数寄屋を指しながら、 ﹁竹屋卿には話されぬ女なのだ﹂ ﹁ホ、ホ、ホ。それは悪いご都合でございますこと﹂ ﹁で何分、内密に計らっておいてくれるように﹂ ﹁よろしゅうございます。そういう訳わけとは存じませんので、只今、船のお席もご一緒にしたほうがよくはないかと、あちらへお伺いに出るところでございました﹂ ﹁いや、とんでもないこと!﹂ 何をしに廊下へ出たのか分らない結果になって、啓之助はぼんやり数寄屋へ帰ってきた。 有村は彼を見るなりすぐに、 ﹁どうであった?﹂ と声を低めた。 ﹁別に、仰せられたような模様も見えませぬが……﹂と啓之助はあいまいに席へついて、 ﹁お耳のせいでございましょう﹂といった。 すると、その言葉も終らないうちに、ふたりの坐している床の下から、ことん、ことん、と二ツばかり突き上げるような音がした。 自分の坐っている床下から、トンと、妙な音が突きあげてきたので、森啓之助、思わず体を浮かしかけていると、 ﹁お﹂ といって、三位卿も片膝を立てた。 そして、啓之助に向って、 ﹁しばらくの間、庭先とその入口を、よく見張っていてくれぬか﹂という。 ﹁は﹂ とは答えたが、啓之助には解げせない。 何で? と訊きこうとすると、よけいなことは訊くなといわないばかりに、 ﹁早く﹂とまた言葉を重ねる。 ﹁承りました﹂ と啓之助、やっと縁口へ立った。 そして、ともかくも、油断のない目を配りながら、有村の挙動へも、時々注視を分けている。 三位卿は、静かに、あたりの器具を片寄せて四角に切ってある炉ろだ畳たみをブスッと持ちあげた。 ﹁や? ――﹂と、啓之助が驚いて見ていると、有村は、半なかばまで上げた畳のへりを片手でささえながら、暗い穴を覗のぞきこんで、 ﹁ふム、不審な姿をした者が……新吉とともにこの寮の潜り門へ、ほウ、桜さく間らま……桜間金五郎と申すと能役者らしい名前……なに、たッた今奥へ入ったというか、おお……そしてどこの部屋へ? ……﹂ などとしきりに床下と話しはじめた。 下には覆面をまとったひとりの原はら士し――さっき農のう人にん橋ばしの上で腕をくんだあの侍が――蟇がまのように身を屈していた。そして今、この寮の裏で見届けた事実を告げている。 能役者――桜間金五郎――紫紺の頭巾に銀いち杏ょう笠がさの女? ――それらを端的に頭の中でつづり合せながら、三位卿、しばらく小首をかしげた後、 ﹁これ﹂と、いっそうかがみこんで、 ﹁ことによるとそやつこそ、弦之丞にお綱のふたりであろうもしれぬ。しかし、迂うか濶つに先へ気けどられて、せっかくこれまでおびきよせた長蛇を逸してしまっては何もならぬ﹂ ギリギリギリ……と髪かみ切きり虫むしの啼なくような自と鳴け鐘いの音が、その時、有村の後ろでした。 ちらとふりかえって、 ﹁ウム、もう六むつ刻は半ん﹂と心をせわしなくしつつ、 ﹁船の出る潮しお時どきまでは後一刻とき︵今の二時間︶ほどしかない。その間にとくと見定めておきたいが、どこじゃ、その男ふた女りが隠れた部屋は?﹂ ﹁それと見た時に母おも屋やの下も探りましたなれど、何せい、床下からはその見当がつきませぬ﹂ ﹁念を入れて身を潜ひそめば、気配ぐらいは分る筈、もう一度忍んでみい﹂ ﹁はっ﹂ ﹁その男ふた女りから寸すん間かんも目を離してはならぬ﹂ ﹁心得ました、では﹂ と、床下の影がズリ退ろうとすると、 ﹁待て待て﹂ と呼び止めた。 そしてちょっと思案をしなおすふうであったが、またすぐに、 ﹁よし行け!﹂とキッパリいって――﹁この有村も屋敷裏へ廻って天井から母屋の様子を探ってみるであろう。万一、なんぞ非常な場合が生じた時には、呼よ子び笛こを吹いて合図をすること。よいか、くれぐれ先の者に気取られるなよ﹂ と、畳を伏せた。そして、 ﹁これ、森――﹂と面おもてをふり向けた。 ﹁はっ﹂ ﹁しばらくそこを動いてはならぬ﹂ ﹁あまり軽けい率そつなことを召されては﹂ ﹁いや、大事ない﹂ 下さげ緒おを解いて、片だすきに袖を結び、隅の釣つり戸とだ棚なへ目をつけてスルリとその中へ身軽に跳はね上がった。 ﹁啓之助、啓之助﹂ はずされた天井板の隙間から顔だけが白く見える。 ﹁何でございますか﹂ ﹁後ろを閉めてくれい、その、釣戸棚の袋戸を﹂ ﹁暗うなりますが﹂ ﹁かまわぬ﹂ ﹁は﹂ と、かれはそこを閉めた後の森しんとした天井裏を見あげていた。――ミリッと梁はりのキシむ音が静かに奥へ消えてゆく。 と。ひと足違いに―― ﹁おや、三位卿様はどうなさいましたか﹂ 湯上がりでもあるらしく、艶えんに、薄うす白おし粉ろいを粧よそおったお久良が、着物をかえて、部屋の前にたたずんだ。 ぎょっとしたが、啓之助、さあらぬ顔で、 ﹁お、御退屈をまぎらわしに、今し方、庭下駄をはいて前せん栽ざいのほうへ出られたが﹂ ﹁そろそろお時刻が近づきました﹂ ﹁ム、もう一刻ときばかりじゃの﹂ ﹁あまり間際に迫りませぬうち、天神の船ふな待まち場ばの方へ、私が御案内申しまする﹂ ﹁そうか……それは大儀……ム、では三位卿が見えられたら、すぐに支度をするであろう﹂ と落ちつかぬ自分の所しょ作さに気がついて、またそこへ坐りなおした。 お久良の眼は、有村の空席に散らばっている、藁わらゴミをじっと見ていた。茨いばらの愛あい嬌きょう
母おも屋やの奥、寂じゃくとした闇の中に、三つのつづらがすえてあった。 雪のせ笹ざさの金紋が、薄暗いその部屋の隅に、妖あや魅かしめいた光を放って――。 召使でも置き忘れたものか、交ちがい棚だなの端に裸火の手てし燭ょくが一つ、ゆら、ゆら、と明滅の息をついている。 家具や調度の物のあんばい、お家様の部屋らしいが、籠かご行あん燈どんは墨のような色をしてお久く良らも誰もいなかった。 すると、その向うの納な屋やの内うちで。 やはり灯あか明りのない暗い中で。 ﹁船のほうでは、松まつ兵べ衛えという水か夫こが、お家様の旨むねを含んで、よいようにしてくれることになっております。はい、もちろん私も、それへ乗って何かとおかばい申しますから、ご心配はございませぬが、ただあぶないのは、安治川を出ますまでの間で……﹂ あたりをしのぶ新吉の声。 その合間に密ひそやかなのはお綱と弦之丞の言葉らしい。 ﹁じゃ、私に方ほう寸すんもございますから、お家様が数寄屋のほうをを防いでおります間に――﹂ やがて仕切戸が開あいたかと思うと、静かな人の気配が中廊下へ出てきた。 新吉は先に前の部屋へ入って、つづらの側へ手燭を持ってきた。ガチャリと、ふところから合あい鍵かぎの音をさせる。 中の荷はいつかほかへ移してあると見えて、つづらの中の四角な闇が、人を吸うべく待っていた。 ﹁…………﹂ 黙って部屋の外へ目じらせすると、お綱は笠で髪をかばいながら、ツウと寄って素早くその中へ身を潜ひそめた。色いろ彩どりをまぜた反たん物ものがひと抱えに入ったように。 弦之丞もまた、新吉が次のつづらを手早く開けたのを見て、﹁さらば﹂と、刀を手に、それへ足を入れかけた。 そして中へ身をかがめようとしながら、ふと蝋ろう燭そくの焔ほのおを見て、ジイと心しん耳じを澄ます様子であったが、何思ったか、不意に、一刀の鞘さやを払って畳の筋すじ目めへ逆さか持もちに切きッ尖さきを向け――ブスッと、鍔つばの際きわまで突き通した。 と。目には見えぬ所で、 ﹁ウウッ……﹂と陰惨な――深いうめき声。 新吉は踏んでいる床が左右に揺れたかと思って角すみ柱ばしらへ背なかを寄せたが、その入口に、いつの間にかお久良が来て立っていた。 ﹁新吉や﹂ ﹁ああ、お家様ですか﹂ ﹁だいぶ探りが入っている様子、どうやら今夜の船は危ないようだよ﹂ ﹁じゃあ所しょ詮せん無事には出られますまいか﹂ ﹁何しろ、奥に張り込んでいる竹屋卿という方がなかなか鋭いお人らしい﹂ ﹁ああ﹂と新吉、思わず出足を鈍にぶらして―― ﹁そいつあどうも弱りましたな﹂ ﹁私のほうはかまいませんけれど、弦之丞様、どうなさいますか﹂ ﹁どうするかとは?﹂ おうむ返しにいって、畳へ立てた刀を上げ、脂あぶらをしごいて鞘さやに納める。 ﹁その床下に忍んだような侍がまだ一人や二人ではございませぬ。それでも今夜の船へお乗りなさいますか﹂ ﹁もとより危険は覚悟、ただ当家へ累るいを及ぼそうかと、それがいささかの心がかり﹂ ﹁乗りかかった船、その御ごけ懸ね念んはいりませぬ﹂ ﹁では、強たっても﹂ ﹁そのお覚悟ならば﹂ ﹁浮くか沈むか弦之丞が運の岐わかれ目﹂ ﹁ほんとに、危なッかしいとは思いますけれど……﹂ ﹁申さば鳴門の狂きょ瀾うらんへ吾から運命を投げこんで、大望なるかならざるか、いちかばちかの瀬戸ぎわへまいったのじゃ。すべては天意――このつづらに任せるのほかはない﹂ 刀を抱いて沈みこんだ。 ﹁じゃ新吉、お前もヌカリはあるまいけれど、早く天神の船ふな待まち場ばへ﹂ ﹁お家様は?﹂ と、ふたをしめたが、新吉、妙に胸が波立ってやまなかった。 ﹁私は数寄屋の客を案内して、わざと道を違えて行くから﹂ ﹁承知しました。では何かのことは向うでまた……﹂ ﹁しッ!……﹂ お久良はいきなり袂たもとで蝋ろう燭そくの灯を打ぶった。 はッと――新吉はつづらに抱きついて、自分の動悸の音を聞いた。 そのとたんに。 天井板の隙間から真ッ暗になった畳の上へ、バラバラと落ちてきた塵ちり……針がこぼれる程の音をたてた。 肋あば骨らのような屋根裏の梁はりに手をかけていた三位卿。 ﹁や、この下?﹂ と思ったので、天井板のつぎ目へ小こづ柄かをさし込み、そッとねじりながら隙間へ顔をよせてゆくと、刹那に、 ﹁シッ……﹂と、下の部屋の明りが消え、やり場を失った目の先へツウンと蝋燭のいぶりが沁しみてきた。 ﹁怪しい……﹂ と、かれは直覚した。 しばらく息をためていると、やがて四国屋の若者らしいのがドロドロと暗闇になだれてきて、何かその部屋から運びだして行く様子――。 むせッたい煤すすの暗闇を這はって、有村は前の茶屋へ戻ってきた。 みると、いる筈の啓之助が、そこに姿を見せないので、 ﹁きゃつめ!﹂と舌打ちして、 ﹁どこへ行ったのだ。ここを見張っていろといっておいたに﹂ 塵を払って前せん栽ざいのほうを眺めていると、庭木の間を潜くぐって近寄ってくる影がある。 ﹁啓之助か――﹂ ﹁有村様﹂ ﹁何をうろたえておるのじゃ﹂ ﹁ただいま原士の者が﹂ ﹁原士がどうした?﹂ ﹁一散にここを離れて、船待場のほうへ急ぎました﹂ ﹁分った、今のつづらじゃ﹂ ﹁え、つづら?﹂ ﹁そちも支度をせい、すぐにまいろう﹂ ﹁は……﹂と、啓之助が取り散らした懐紙や扇せん子すなどをあわてて身につけている間に、三位卿は行あん燈どんを吹ッ消して、すたすたと廊下へ出た。 すると、さっきの簾す戸どの蔭で、 ﹁もし、お待ちなさりませ﹂ という声がする。 ﹁誰じゃ……﹂ 急せいているので語ごい韻んにも気が立っていた。 ﹁お久良でございます﹂ ﹁ウム、お久良か――﹂と有村はキッと唇を締めた。 ﹁ただいま、船待場のほうへ御案内いたそうと存じて、支度をしているところでござります。天神の河岸のほうは、荷方の者や便乗のお人が混みあっておりますから、水か夫こなどがどんな御無礼をいたさないとも限りませぬ。それに、船のお席も私がまいらぬと分りませんから、ちょッとお待ち下さいませ……ただいま、提あか灯りを灯ともして、すぐにお供をいたしますから﹂ いっているうちに、お久良は店みせ印じるしのついた提ちょ灯うちんを手に持って、有村の前へ姿を立たせた。 かれはかれ一流の読どく心しん的てきな態度で、眸ひとみに威をこめてジッとお久良の顔を凝ぎょ視うししたが、その眼まなざしを邪魔するように、下から射す円い明りの輪が、薄化粧の腮あごにふわふわとうごいて、才はじけた年増の笑くぼがなぶるように映って見える。 心は先を急せいて猛っているが、こちらが表面の理由に偽ってきている以上、先の当然な言葉を退けるわけにはゆかない。ましてや、あくまでニコやかな心尽くしを。 有村はじりじりと思う。 先にお久良の部屋で見ておいた三個のつづら。あの雪のせ笹ざさのつづらこそ怪しい。 寮の外へまきちらしておいた原士どもも、それが密かにこの家やを出たのを嗅かぎ知ったからこそ、いっせいに船待場のほうへ追ったのであろう。 だが、どうにもならない気持で、かれは苦にがいうなずきを与え、大股に表のほうへ歩みかけた。 と――お久良はまた、和やわらかに呼びとめて、 ﹁三位様、お履はき物ものはわざと前せん栽ざいのほうへお廻し申しておきました。何せいもう表のほうは、荷にぼ埃こりや店の者で乱雑で、お足の踏みどころもございませぬ﹂ と声がらまで、愛嬌のよい物いいぶり。 庭木の暗がりを照らしながら、先に立って一歩一歩と導いて行くのにも、商家の内儀らしい細心さや年増の優しみが溶けていたが、今の場合! 寸刻もどうかと思うこの間際! 三位卿と啓之助の心になってみれば、婉えん曲きょくな女にょ人にんの案内は、むしろ始末にならぬ茨いばらの枝にまといつかれている如しだ。つづらの闇やみ
﹁もう来そうなもンだが﹂ と、さっきから仲ちゅ間うげんの宅助、天神河岸の築つき出だしにたたずんで、お米の姿を待ちあぐねていた。 広い闇を抱えた埋うめ地ちの船ふな岸つきには荷主や見送り人ての提灯がいッぱいだ。口々にいう話し声が、ひとつの騒音となってグワーと水にひびいている。 とんでもない大でか声ごえで船ふな夫この猛るのや、くるくるとうごいて廻る影が四国屋の帆印をたたんだ二百石船の胴どうの間まに躍ってみえた。宅助は、そこの桟さん橋ばしにも寄ってみたが、お米はまだ来きあわしていなかった。 ﹁ちッ、何をまごまごしていやがるんだろう﹂ 舌打ちをしながら、提灯の中をぬけて、またトップリと暗い埋地の草原をぶらぶら歩き廻っている。 ﹁冗じょ談うだんじゃねえ、いい加減立ちしびれてしまった。どこかに、一服やる所はねえかしら﹂ そう思って見廻すと、向うの浜倉から少し離れた所に、屋台うどんの赤い行あん燈どんが見えて、その明りに、雑な小屋のあるのがすぐと目につく。 側へ行って覗のぞいてみると、小屋の中には藁わらござや床しょ几うぎもあり、煙草の火縄なども吊るしてあるので、 ﹁船待場だな﹂ と、うなずきながらござの上へドッカリと腰をおろし、首にかけていたまんじゅう笠をそれへはずした。 夜の潮風を察してひっかけてきた渋しぶ合がっ羽ぱの前をはだけ、二本の毛けず脛ねを立てながら、そこで、スパリと一服吸っていると、向うの屋台うどんの床几に、編笠をかぶったひとりの浪士と、ふたりの子供の影が見える。 むッつりとしたその浪人者は、誰か人待ち顔に時折笠をあたりへめぐらし、広い闇を見廻しているふうだったが、子供のほうはうどんの器うつわを吹いて、チューチューと音をさせながらすすっていた。それがいかにも美う味まそうなので、宅助も急に食慾をそそられ、船待の小屋から居いなりに声をかけて、 ﹁おい、うどん屋、こっちへもひとつ頼みてえな﹂ と煙きせ管るをハタいた。 ﹁へい﹂ というと、間もなく、剥はげた盆の上にお誂あつらえが乗ってくる。莨たば入こいれの底をさぐって、 ﹁いくらだい?﹂ ﹁十二文もんです﹂ ザラリと銭を盆へのせてうどんを取る。 ﹁ありがとうぞんじます﹂ ﹁父とっさん、ちょっと聞きてえんだが﹂ ﹁へい﹂ ﹁お前めえは、夕方からここにいたのかい﹂ ﹁船が出るのを当てこみに、明るいうちから屋台を曳ひいてまいりましたんで﹂ ﹁売れたろうな、さだめし﹂ と、箸はしでうどんを上げながら―― ﹁なかなか美う味めえもの﹂ ﹁はい、お蔭様で、八軒家やこの辺では、かなりよく売れますんで﹂ ﹁そうだろう、もう一ツくんな﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 代りを取って側へ置いた。 ﹁ところで俺の来る前に、ここへ二十四、五になる女が見えなかったろうか﹂ ﹁お女中様でございますか﹂ ﹁そうだ、俺の風ふう態ていを見て、ザラにあるお女中と間違えちゃいけねえぜ、スラリとした柳腰よ、ふるえつくようないい女なんだ﹂ ﹁さあ? ……商売に気をとられて、ツイどうもうッかりしておりましたが﹂ ﹁見かけなかったかえ?﹂ ﹁お見かけ申しませんでしたね﹂ ﹁じゃ、やっぱり来ねえのかしら﹂ ﹁この船へ乗って立つお方でも、見送りにおいでなさるんですか﹂ ﹁そうじゃねえ、俺がお供をして阿波へ帰けえろうという人なんだ。やがて時刻も迫ってくるのに、だから、こっちも気が気じゃあねえところさ﹂ といっていると、向うに立った編笠の侍が、 ﹁うどん屋、子供の食べた代を取ってくれい﹂ ﹁二十四文でございます﹂ うどん屋が揉もみ手をすると、浪人は紙入れの内から二歩ぶぎ銀んを一つつまんで、 ﹁これへ置くぞ﹂ と屋台へ乗せた。 ﹁あ、恐れ入りますが、細かいのを持ちあわせはござんすまいか﹂ ﹁つりは要いらん……ところで……しばらくの間邪魔ではあろうが、この二人の子供をここに預かっておいてくれぬか、だいぶ疲つかれておるのでな﹂ ﹁じきにお戻りなさいましょうか﹂ ﹁うむ、船の出るまで!﹂ フイとどこかへ見えなくなった。 それを眺めて宅助も、 ﹁あ! おれもこうしちゃあいられねえ﹂と塵ちりをはたいて跳はね上がった。 ﹁早く来てくれりゃいいが、何をしているんだろうな、お米のやつは?﹂ と独り言ごとにじれて、饅まん頭じゅ笠うがさを持ったまま広い空地へさまよいだした。 ﹁おお、あぶないぜ﹂ 後に残ったうどん屋は、丼どんぶりを洗いながら床しょ几うぎに居眠っている子供を眺めて思わず笑った。 ﹁可愛い子だな、疲れているといっていたが、どこから来たんだね﹂ 空すき腹ばらをみたされて急に眠気ざした子供は、それに返辞もしないで時々縁台から転げそうになっていた。 ﹁は、は、は、罪はないな。だが、そこで居眠っていちゃ危ないから、今おじさんがいい按あん配ばいにしてやろう、こっちへおいで、こっちへ――さあさあここならいくら寝ぼけたって腰掛から落ちる心配はない﹂ と小屋の中へ連れてきて、その子供の寝床を作ってやろうという考え――何気なく奥に見えた荷物のかぶせになっている蓆むしろを五、六枚めくり取ると、その下から金紋のついた青せい漆しつつづらが三つ見えた。 金紋に怖れをなして、うどん屋は抱えただけをソッと持ってきて、向う側の隅へそれを重ねてやる。子供は他愛なくもたれあって寝てしまう。 するとそこへ、ひとりの男が駈けてきた。四国屋の手代の新吉だった。少し気の立っている血相で、 ﹁おい、うどん屋!﹂と外で呼ぶ。 ﹁へい﹂と飛びだして﹁差上げますか﹂ ﹁イヤうどんは要らない、今ここへ高貴なお方が見えるのだから、屋台をあっちへ引っ張って行っておくれ、目めざ障わりだ﹂ ﹁へい﹂ ﹁咎とがめられないうちに、早くあっちへ行きなさい、あっちへ﹂ ﹁へい﹂ ﹁船が纜ともづなを解く間際には、よけいに混雑するから、屋台を引っくりかえされたって知らないよ﹂ ﹁ヘエ、ですが……﹂と何かいおうとした時に、屋台をかすって、覆面をした侍が十四、五人、追い立てられた夜よが鴉らすのようにバラバラと疾走して行った。 ﹁あっ……﹂と、うどん屋は肝きもをつぶして、あわてて商売道具を遠くへ運んで行った。 新吉はというと、原士の一群が目の前を通り過ぎた途端に、小屋の蔭にかがみこんでいた。そして、その足音の消えるのを待ってソロソロと奥のほうへ這いこみ、静かにまたたいている金紋の光へ探り寄った。 ﹁……御窮屈でございましょう……ですが……ヘエ、もう間もなく……船から松兵衛という船頭が、水か夫こを連れてまいりますから……委細は松兵衛が……﹂と問わず語りにつづらの中と話している。 ﹁……はい、だいぶ原はら士しが立ち廻っております、なにしろ安治川を出るまでが御難儀で……いえ、三位卿はまだ見えません、来たらお家様と松兵衛が……ヘエ、どうかしばらく御辛抱を﹂ と言いかけていながら、新吉あわてて蓆むしろをつづらへかぶせて首をすくめた。 ピカリッと手槍の紫しで電ん、小屋の前をはすかいに流れたかと思うと―― ﹁怪しい奴ッ!﹂ 突ッかけてきた声だった。 新吉は自分の背すじからつづらの中へまで、その光り物が突きぬいて行ったかと生ける空そらもなかったが、 ﹁わッ……﹂ と、別な苦くめ鳴いを向うに聞いた。 ドタッ……と誰か倒れたらしい。 見ると槍をつかんだ覆面の死骸が、袈け裟さがけに切られてピクついている。 その側から白刃をひいて、ツウと寄ってきたのは深編笠の浪人の影――、小屋のまわりをしきりに見廻しているのは、さっき、うどん屋へ預けて行った子供の姿が見当たらないので、 ﹁はてな?﹂ と探し廻っている眼まなざし。 ﹁お、あんなほうへ﹂ やがて、深編笠の浪人、遠く離れてゆくうどん屋の灯を見出して埋うめ地ちの果てへ走りだした。 と―― ここに今しがた、血煙の立った様子を嗅かぎ知って、わらわらと集まってきた覆面の原士は――手槍や抜ぬき刀みの光を隠して、スススと風のごとく、先へ走った編笠の影をつけて廻る。 で、新吉は、ホッと顔を上げながら、 ﹁何だろう、あの侍は?﹂ と見送った。 が、すぐにまた新吉もそこを出て、船のほうへ打合せに駈けだしていた。なにせよ、纜ともづなを解く混雑まぎわに、八方で光る眼をくらまし、首尾よく三ツのつづらを船底へ持ち込もうという危ないからくり、並なみ大たい抵ていな気苦労ではない。 もうそろそろ時刻の五いつ刻つ半に近づいてきた気配、ざわめいていた船のほうも割合にヒッソリしてきた。 ただ、提ちょ灯うちんの灯だけは船ふな岸つきの近くにうようよとうごいている。 爽さわやかな風が空を吹き廻っている。星月夜だ。五月にしては珍らしい空。 このあんばいでは、海も順風、鳴門の浪なみにも大してもまれることはなかろう、まず、船出の幸さい先さきは上々吉だ。 けれど、その海へ乗っ切るまでに、何ぞ、予想もつかぬような大おお暴し雨けがやってこないとはいいきれない。今――その十万坪あまりの埋うめ地ちの闇はひとつの廻まわり燈どう籠ろうになった、三ツのつづらを心棒に、あまたの覆面や怪しげな編笠や、宅助や新吉や、そしてなお幾人もの影が、グルグル廻っているのだから…… これもその廻り燈籠の影絵の一ツ。 昔、楼ろうの岸にあった古ふる柳やなぎの名残とかいう空井戸の側に、夜目にもしるきといいたい女が、褄つまを折って腰帯に結び、手拭の端をつまんで姉あね様さん冠かぶりをしなおしている。 と――向うに立った男を見つけて、 ﹁宅助じゃないのかえ?﹂ と呼ぶと、 ﹁お米さんですか﹂ と腰をかがめてくる合かっ羽ぱの影。 やッと巡り会ったという風に、喜きえ悦つを誇張して、 ﹁冗談じゃありませんぜ。いくら探し廻っていたかしれやしねえ。エエ心配しちまった!﹂ ﹁そうかい……ホ、ホ、ホ﹂ ﹁そうかいもねえもンです、あれほど、船待の小屋と念を押したじゃありませんか。それをこんな所で、夜よた鷹かみてえにしゃがみこんでいるンだもの、分りッこありゃしねえ﹂ ﹁まあそれでも落ちあえたからいいじゃないか﹂ ﹁またうめえことをいッといて、一杯食わすんじゃないかと、少しお冠かんむりが曲りかけていたところなンで﹂ ﹁そうしたらどうおしだえ?﹂ ﹁こんどこそはただ置きゃアしませんさ――まああしたの読売にゃ、お米殺しと出るでしょうよ﹂ ﹁おお怖い……﹂ と、わざとらしく男を見たが、ちっとも怖そうな表情でなかった。 ﹁とにかく、も少しあっちへ行っていようじゃありませんか﹂ ﹁あっちッていうと?﹂ ﹁船待の小屋にいるのが一番です。あすこにいりゃ、出る間際にだって船頭が知らせてくれます﹂ ﹁じゃ、そっちへ行ってみようかね﹂ ﹁お米さん﹂ ﹁エ……﹂ ﹁誰か探しているンですか﹂ ﹁なぜ﹂ ﹁イヤに後先を見廻しているじゃありませんか﹂ ﹁そうかい﹂ ﹁そうかいッて、自分のしていることを﹂ ﹁淋しいからだよ……妙に広くってさ、イヤなものだね、船旅に立つ夜というものは﹂ 弦之丞様、弦之丞様。 どうしたろうか姿が見えない? ――そう思う闇はお米には淋しいはず。 争闘と愛慾。ひそむ者と追う者。 次々に奇くしき影絵は巡めぐり廻まわってくる。 お米と宅助がそこを去ったかと思うと、空井戸の縁ふちに手をかけて、中からヒラリと躍りだした者があった。 たッた今、向うの小屋から、うどん屋の灯を目めあ的てに走って、原士の群れにつけられたあの編笠の侍。 ﹁違う! ……﹂と、ぽッつり一ひと語こと。 こうつぶやいて、お米の後ろ姿に小首をかしげた。 ﹁年ごろもよく似ていたが……﹂ 腕ぐみをして、二、三歩、前へ伸びようとすると、捨石の蔭から這はい寄って行ったひとつの影が、 ﹁うぬッ!﹂ と組みついてたすきにしぼる。 ダダダッと四つの足が乱れつよれつ――草の根を踏みにじって、 ﹁で、出合えッ。組ンだ!﹂ 叫ぶと一緒に側面から、 ﹁おっッ﹂ といってまたひとり、駆けよりざま太刀を突いてきた――無論、絞しぼりつけた編笠の脇腹へ。 だが――颯さっ光こうはそれた。引くも遅し! 横一文字に相手の剣! あッと思いつつ、のめり込んで、その刃やいばを抱いだいてしまった。 ﹁うう――ッ……﹂ と一方が横倒れになるとたんに、目を閉つぶって、組みついていた腕だすきも、ハッとふりほどかれて、侍の肩を越した。 そしてその体が地につかぬうちに、腕の付根から肋あば骨らへかけて、ザッと、あまりにすごい二の太刀がかかる……。 目にもくれず編笠の影は、刃やいばの血をビューッと振って、 ﹁ああ、子供たちの身も気がかりな……それに、阿波の手てく配ばりも思いのほか厳しい様子、この分ではさすがの彼も﹂ と、面おもてを星にふりあげていると、足もとから不意に、断続した呼よ子び笛この音ねが水のように鳴った。 斬り伏せられた傷てお負いのひとりが、断末苦の必死に、あえぎながらくわえた呼子笛……。 その絶えだえな音ねがかすれ消えると一緒に、八方から集まった原士の影は、仲間の死骸をとり巻いて、無念そうに、不思議な編笠の出没にじらされ、かつ錯さっ覚かくを起こし、じだんだを踏んで口惜しがった。 ﹁奇怪な編笠、何者だろうか﹂ ﹁無論、幕府方の奴に違いない。今夜の騒ぎにまぎれて、やはり御本国へでも入り込もうとして来たのだろう﹂ ﹁この斬り口を見ろ! すごいやつだ。とても唯の曲しれ者ものではない﹂ ﹁ことによるとそいつの正体が、法月弦之丞なのではないか﹂ ﹁う……うム? ……それも大きに﹂ と、やや背すじの寒さを感じてどよめいていると、 ﹁何じゃ、何かあったか!﹂ と駆けてきた者がある。 ﹁や、森啓之助殿――﹂と輪をくずして後ろを見ると、啓之助と一緒にきた竹屋三位卿、七、八間離れた所に、お久良の持ち添える提あか灯りをうけて立っている。 宵のうちから、この埋うめ地ちの闇に怪しい編笠の侍が出没して幾人かの原士が斬られたという話を聞いて、啓之助は小首をかしげながら、それを三位卿に囁ささやいた。 ﹁ふウむ? ……﹂ と思い当たる様子もなく、 ﹁何なに奴やつだろう﹂ と彼のつぶやきも同じであった。 ﹁有村様……﹂と啓之助、袖そで知じらせをして、お久良の側を離れながら、 ﹁――手口を見るとすばらしく腕の確かな奴なそうで、或いは、それが弦之丞ではないかと申しおりますが﹂ 三位卿の思しは判んも少し錯覚にとらわれてきた。 お久良の部屋から密かに運び出されたつづらこそ怪しむべしと目星をつけてきたが、原士の言葉を綜そう合ごうすると、またその深編笠の正体も怪しまざるを得なくなる。 ﹁旅立ちは急せくもんじゃねえ。まだ煙草ぐらい吸う間はゆっくりありますぜ﹂ と宅助は、ムリにお米を船ふな待まち小屋へ連れこんだ。 ﹁お誂あつらえだ、ちゃンと蓆むしろが敷いてある﹂ 合羽の裾すそをまくッて、 ﹁どッこいしょ――﹂と腰をすえる。 お米もひとつ蓆むしろに並んで、紅べに緒おのついた両足を前へ投げだした。 ちょうど、いい按あん配ばいによりかかる物があった。 宅助もよりかかって、後ろの物を枕にしながら―― ﹁お米……一おと昨と日いの今ごろはよかったなあ﹂と、いやらしい思いだし笑いを浮かべる。﹁一おと昨と日いって? ……﹂ ﹁松島の水茶屋サ、あそこの奥の四畳半サ。忘れちまうなア薄情だな﹂ ﹁忘れやしないけれど、まじめくさって不意にそんなことをいうからさ﹂ ﹁だが約束を違たがえずに今夜ここへ来た心意気は買っとくぜ﹂ ﹁私の気性は一本気なンだよ﹂ ﹁どう一本気なのか、聞きてエものだが﹂ ﹁こうと思う男にぶつかるとネ……その気性がよくないと知りながら﹂ ﹁ヘ、ヘ、ヘ。ほンとけえ?﹂ ﹁さあ、お前にはどうだか﹂ ﹁あれ﹂ ﹁憎いねエ、知りぬいているくせに﹂ ﹁あ痛いて……﹂ ﹁来たよ、お離し﹂ ﹁え﹂ ﹁人がさ……﹂と身をねじると、そこへ誰かの影が立って、小屋の内を覗のぞきこみ、 ﹁宅助ではないか﹂といった。 ﹁ア! 旦那様で﹂ と、これには驚いて立ち上がった。 ﹁そこにいるのはお米ではないか。久しぶりだな﹂ ﹁ハイ、永らく気きままに遊ばせていただきました﹂ ﹁ウム、いよいよ帰るか﹂ ﹁お蔭様で大阪にも、ゆっくり滞たい留りゅういたしました﹂ ﹁それですッかり気がすんだであろう﹂ と啓之助、ひどく機嫌がよい。 ﹁いろいろと話もいたしたいが、なにしろ三位卿が御一緒でな﹂ ﹁宅助から聞きましたが、そんな御都合だそうで……﹂ ﹁いずれ帰国した上で、ゆるゆるいたすが、船の中では一切素そ知しらぬふうを粧よそおっているようにな。よいか﹂ ﹁旦那。ご安心なせえまし、宅助が呑みこんでおります﹂ ﹁ではあろうが、乗る間際にも、充分に気をつけてくれ、なにせい連れが、お公く卿げにしては血の巡めぐりのよすぎるお人だ﹂ ﹁で、その三位卿様は?﹂ ﹁いま彼あち方らで、原士の者に何かいい含めておいでになる。その隙をみて、大急ぎでここへ探しに来た訳だ。ウ、なに、弦之丞のことか? いずれこの船が安治川口を出るまでには、何とかして捕まるだろう。とにかく、船の上へ追い込んでからの方策だといっておられたから。お、船といえば、乗ってからも、決して言葉をかけてはならぬぞ。ではお米、くれぐれもそのつもりで、さびしかろうが徳島まで一日ひと晩の辛しん抱ぼうじゃ……﹂ 啓之助は落ちつきのない様子で、それだけいうと、スタスタと三位卿のいるほうへ大股に立ち去った。 その後ろ姿を見送って、 ﹁うふッ……﹂と、宅助、口を押さえて吹きだしたものである。﹁もったいねえくれいお人ひと好よしだなア﹂――と。 ﹁お米﹂ と、そこでまた、色男へ立ち返った気で、以前の所へドッカリ腰をすえなおした。 ﹁小屋の中が暗かったからいいようなものの、不意に、コレ宅助と来やがったんで、すっかり面めん食くらってしまった﹂ ﹁でも気がつかなかったから倖しあわせさ﹂ ﹁付かれて堪たまったもンじゃねえ﹂ ﹁やっぱり悪いことはできないものかね﹂ ﹁河ふ豚ぐの味と間まお男とこの味、その怖いのがよろしいので……﹂ と、いい気持で、後ろへ体をよっかけてゆくと、ズルズルと襟元へ蓆むしろが辷すべり落ちてくる。 ﹁エエ、塵ごみが入へいった……﹂と背中へ手を突っこみながらふりかえってみると、蓆むしろをかぶせた四角い荷物。 ﹁つづらだナ﹂ といったが、宅助、別に気にも止めなかった。 ちょうど、凭もたれぐあいがいいのに任せて、そのつづらによッかかりながら、 ﹁ええ、お米さん﹂ と、神ならぬ凡ぼん夫ぷ、 ﹁こう寄んねエな……﹂と女の肩へ手を廻した。 お米は顔をそむけて、 ﹁あ、およし﹂ と、宅助の青ひげを避けるようにした。 ﹁なぜエ﹂ ﹁まだ動悸が鳴っていて息苦しいンだから……後生……手を離しておくれ、この手を﹂ 頼むようにいえばいうほど、宅助の腕は女を苦しめた。お米は腹が立った。人が方ほう便べんに白い歯を見せていれば――。 それに、嘘ではなく、仮かし借ゃくのない下げす司おと男この力に、心臓がしめられるようだった。 ﹁およしといったら……もう船の時刻も来ているのじゃないか﹂ ﹁まだ大丈夫だッていうことよ﹂ ﹁ま、くどい!﹂ 後ろの荷物へ押しつけられて、ズズと背中を辷すべらせたかと思うと―― どうしたのか? 宅助。 ﹁うッ! ……﹂ と突然、妙な呻うめき声をふくみ、それと一緒に、激しい痙けい攣れんを起こして四肢を硬直させた。 ﹁宅助ッ……宅助や……﹂ お米は、自分の首にからみついている彼の手が、肌へ爪を立つばかりに、ブルブルと慄ふるえてきたので、色を失った。 ﹁ど、どうしたンだえ![※(感嘆符疑問符、1-8-78)](../../../gaiji/1-08/1-08-78.png)
ふたりの死
﹁おも舵かじイッ﹂ 白い波の条すじが大きな曲線を描く。 どーンと一つ、今までと違った波はと濤うが胴の間にぶつかる。 海が近くなったのだ。 左の小高い丘に天てん保ぽう山ざんの燈籠台、右うげ舷んのすぐ前に安治川屋敷の水みず見みば番んし所ょ。 ﹁おおウイーッ﹂ そこから漕ぎだす小舟があった。 ﹁止まれーッ。その舟待てーッ﹂ 小舟の上には三ツの人影。 止まれ止まれと声を嗄からしているのは旅川周馬、指さして立っているのがお十夜孫兵衛、櫓ろを撓しなわせて烏うば羽た玉まの闇を切っている者は天堂一角。時々サッとその影を白くかするのは波飛しぶ沫きだ。親船のほうでは水かこ夫がし頭らの松兵衛、みよしに立って川口の水みず路みちを睨んでいたが、 ﹁ちぇッ、来やがった。面倒くせい﹂と聞えぬ振りをして、 ﹁おも舵かじイッ﹂ 左岸へ左岸へとかわしてゆく。 ﹁親方ア!﹂ 櫓ろか方たのひとりがふりかえった。 ﹁追っかけて来ますぜ、阿州屋敷の役人が﹂ ﹁かまわねエから撓しなわせろ!﹂ ﹁合点!﹂ というと両舷六挺ちょうずつの十二船頭。 ﹁エーイ、オーッ。エーイ、オーッ﹂ 音おん頭どを合せて流れに乗せると、松兵衛、帆方アとどなって手を振った。キキキキキと帆車が鳴る、赤い魚油燈がぶらんとかかった。人ひと魂だまが綱を手た繰ぐって登ったように。 するとその時胴どうの間まのほうで、にわかに大勢がガヤガヤ騒ぎだした。ドタドタドタと松兵衛のそばへ真まッ蒼さおになって飛んできたのは手代の新吉。 ﹁松兵衛、大変だッ﹂ ﹁ヤ、新吉さん、何だって、つづらの側を離れて来たンだ﹂ ﹁三位卿がお前を連れてこいというんだ、何か御立腹で、タダごととは見えない﹂ ﹁かまうものか、ほうッておけ﹂ ﹁だって﹂ ﹁船の上じゃ船頭が御城主だ。お前さんはあの側を離れちゃいけねエ、川口を出たら船底へ下ろすから﹂といったとたんに、松兵衛の襟えりがみをつかんで、 ﹁おいッ、なぜ来ないかッ﹂と利きき腕うでをねじ上げた者がある。見ると、森啓之助だ。 ﹁あっ、何をしやがるンだ﹂ ﹁何をしようと三位卿の前へ出れば分る、じたばたするとそのほうたちの不ふた為めだぞ﹂ 松兵衛が突きのめされて行ったのを見て、新吉は慄ふるえ上がった。 ﹁連れてまいりました。水夫頭の松兵衛を!﹂ ﹁ウム、そこへすえろ﹂ と三位卿大きくいって開きなおった。 ウウム、と胆きもをつぶされて松兵衛、ヘタヘタとそこへ腰をついてしまった。なぜかといえば、潮しお除よけの苫とまを払って、三ツのつづらの真ン中へ、竹屋三位卿、どったり腰を乗せて磐ばん石じゃくのごとく構えている。 ﹁松兵衛ーッ﹂ お公く卿げに似合わぬ大声だ。 ﹁へい﹂ ﹁なぜ船を止めないか、咎とがめがなければさしつかえないが、最前から安治川屋敷の水見張が、アアして呼び止めているのになぜ止めない﹂ ﹁ヘエ、お呼び止めがございましたか﹂ ﹁だまれーッ。この有村を盲めく目らと思うか﹂ ﹁けれど番所のお検あらためは、えびす島ですんでおりますので﹂ ﹁ひかえろ。ありゃ御番城のきまったことだ。そのほう達には公儀だけあって、領主蜂須賀侯の御支配は無視いたしてもかまわぬという所存であるか﹂ 三位卿の追つい詰きついよいよ凛りん烈れつ、新吉も松兵衛も、もう舌の根がうごかない。 ﹁ともあれ有村が盲目でないことだけは心得ておけい! そこで一応問い糺ただすが、この三個の荷つづらの送り状は、いずれ水かこ夫がし頭らのそのほうが預かっているであろう。中の品物は何か、読み聞かせろ﹂ ﹁それはご免こうむりまする﹂ ﹁なぜか﹂ ﹁梅うめ渓たに家からお預かりしました貴重なお品、それに、二十四組の廻船問屋には、送り状の内うち容わけは決して人様に洩らさぬという組くみ掟おきてがございますんで﹂ ﹁いうなッ、あくまで吾らの眼をくらまそうとて、その言い訳にうなずく有村ではない。強たって組掟を楯たてにとるならこのほうは領主重しげ喜よし公の御おん名なをもってこの荷つづらの錠じょうをぶち破るがどうじゃ!﹂ ブーンとその時一本の鈎かぎ縄なわ、右舷の下から高くおどった。と、その鈎かぎの爪がガッキとどこかへ食いついた途端に、天神岸から軽けい舸かを飛ばしてついてきた原はら士したち、縄を攀よじてポンポンと蝗いなごのようにおどり込んできた。 そこへザザッともう一艘。安治川屋敷から大川を横に切ってきた三人の艀はし舟けだ。 ﹁オイ、槍を!﹂ と天堂一角が親船へどなると、 ﹁ホイ!﹂といって上から槍――。 ﹁お先へ﹂ と、お十夜孫兵衛、それにすがってはね上がると、次にそれへならって周馬も槍へつかまったが、呼吸が足らない、ドタンと艀はし舟けへ辷すべり落ちた。 ﹁旅川、こうやるンだ﹂ と一角はあざやかに上がってしまう。周馬はいまいましそうに鈎かぎ縄なわのほうへ取ッついた。 船中は混乱した。 水か夫こや乗合の者は理わ由けを知らぬだけに何事かと驚いて隅すみへなだれた。 そのまにものものしくおどり込んできた原士と天堂ら三人組は竹屋卿の前後をグルリと取巻いて、目指すつづらとともに、松兵衛、新吉の二人をも剣けん槍そうの中にくるんでしまった。 舵かじ取とりも舵に手がつかない、櫓ろか方たも胆きもをひしがれて姿をひそめ、方向の眼を失った船そのものは、流れに押されて天保山の丘へ着いている。 ﹁松兵衛、白状してしまえッ﹂ 森啓之助は中央に立って、かれの利きき腕うでをねじ上げた。新吉は原士に襟がみをつかまれてすくんでいる。 ﹁お久良に何か言いふくめられて、この荷つづらの内へ抜ぬけ乗のり者を隠したであろう。吐ぬかせッ、さ、新吉もだ!﹂ と船板へ額ひたいをコヅいて責めた。 ﹁知らねエ!﹂ 松兵衛は頑がんとして強くかぶりを振りながら、 ﹁おいらは船頭だ、船頭は船をうごかすだけだ! 頼まれたものを積むだけだ! そんなこたア知るもンか﹂と捨すて鉢ばちの語気になった。 ﹁情じょうの強こわいおやじめ!﹂ 三位卿はそのつづらに腰を構えたままハッタと睨ねめて、 ﹁そちたちはこのつづらの金紋を何よりの不ふか可しん侵きょ境うと心得て、梅うめ渓たに家けの威光を借り、吾らに手出しがならぬと心得ているのであろうが、抜ぬけ乗のりの者がひそんでいることは、四国屋を出る時から読めているのじゃ。強たって言い張るなら言い張ってみよ、今その実証を目に見せてやろうから﹂ と、言いながら、戛かっ! 叩くように柄つかを握ったかと思うと、有村の手に、晃こうとした剣が抜き払われた。と――。 有村が腰をのせているそれと、もう一個のつづらの中で、パリッと爪をかくような音がして、錠金具がかすかにカチカチとゆすぶれた。 新吉は生色を失って、中に足あ掻がきもがいている者と同じな苦悶を感じていた。 ﹁ムム……﹂と心地よげな笑えみを口辺にのぼせて、竹屋三位、抜き払った大刀の切ッ尖さきを真ッすぐに、つづらの蓋ふたへ向けながら、 ﹁とやこうは事こと面倒。松兵衛も新吉も、これでもなお泥を吐かぬというか! 曇りのないこの刀で、中の品物を探ってみるがどうじゃ!﹂と叱しっ咤たした。 ﹁あッ……﹂ ふたりは、啓之助に襟がみをつかまれながら顛てん倒とうした。そして、何か口走ったが、それは意味をなさないくらい平へい心しんを欠いたものだった。 三位卿は、腰かけている物の中から必死に突き上げてくる力を身に感じて、思わずムラムラとする殺念が剣にこもるのを禁じ得ない――、 ﹁いわぬな!﹂ ﹁…………﹂ ﹁どうしても実じつを吐はかぬなッ﹂ ﹁ムム﹂と松兵衛、船板へしがみついて、 ﹁し、知らねエッ……﹂ ﹁ちイッ、よウし!﹂ 有村キッと唇を噛みしめた。 ﹁天堂、天堂﹂ ﹁はっ﹂ と、天堂一角、帆柱の裾すそからおどり出した。 ふたつのつづらへ眼を落して、有村、 ﹁その一方を槍で探ってみい! この中にたしかにいる! 阿波へ抜ぬけ乗のりをせんとする生きものが﹂ ﹁承りました﹂ というと天堂一角、かたわらにいる原士の手から槍を取って、黒くろ樫がしの柄えを低目に持ち、ずっと斜しゃ身しんになったかと思うと、ピウッと素すごきをくれてつづらの横へ穂先をつけた。 重い息づかいが流れるほか、船の中はヒッソリとしてしまった。誰の眼も空うつ洞ろのようにそこへ気を奪われている。 遠い天てん星せいの青光りが、ギラッとつづらの側によれ合った。一方のつづらへは有村の剣! ひとつのほうへは天堂一角が、今にも突き出さんと撓ため澄ます光こう鋩ぼう。 ﹁松兵衛!﹂ ﹁…………﹂ ﹁新吉!﹂ ﹁…………﹂ ﹁面おもてを上げてこの切ッ先をよッくみはっておれ! これでもなお梅うめ渓たに家から預かったお品と申し張るかッ――ウウム!﹂といった声もろとも。 三位卿の剣は力まかせにつづらの蓋ふたをブスッと貫ぬいて切せっ羽ぱの辺まで突き通って行った。 同時に。 一方の槍は天堂の気合とともに走って、つづらの横を突き破り、深さ蛭ひる巻まきの半なかばまで入った。 と――見るまに、中の生命は断末のあえぎをあげて、なんと名状しようもない――耳を掩おおわずにはおられない、凄せい惨さんな震動を刻むようにさせて、船板とつづらの間を、噛むがごとく、ガタガタといわせた。 スッと、有村は刃やいばを引いた。 抜き取った白い鉄かねの肌には、まざまざと人間のギラが浮いている。 と同時に。 二つのつづらの下から、こんこんと噴き出した温ぬるい血汐! 船ふな床どこのかしいでいるままに、数条の黒い血の条すじが、生ける長虫かのごとく一散にほとばしってきた。 たしかに感じられた手応え、存分な抉えぐりをよりながら、一角もまたおもむろに槍を戻した。そして、槍の尖端からポト――と糸を曳ひいた一滴の粘ねん液えきに、年来の鬱うつ念ねんを一時に晴らした心地。 あははははははは! と。 かれは、声を揚げて、哄こう笑しょうしたい気がした。 ついに刺し止とめた! 法月弦之丞をついに刺止めたぞ! いくたびも心の底で叫んだ。 安治川屋敷から東海道に、或いは、江戸に木曾路に上方に、つけつ廻しつ、折あるごとに討たんと計っていつも失敗してきたことは、今となってみると、この最終の幕切れの歓喜を大きくさせるべく積んできた転変にほかならない。 と、チャリンという鍔つば鳴なりの音が、かれの瞬間な陶とう酔すいをさました。 後ろ向きになった有村は、血の糊りをしごいて、刀を鞘さやに納めた。そして、紅をなすった懐紙を捨て、松兵衛や新吉へは、いずれ後日沙さ汰たあるべきことをいい渡し、固かた唾ずをのんでいた原士たちへはつづらの始末をいいつけている。 ﹁はっ﹂ と、黒い影が右往左往に動きはじめる。だが、前よりは妙に静かだ。どんな場合にでも、人の死の前に立って生ける者は、何か考えずにはいられない。精せい悍かんなかれらも、暗黙のうちにはそれぞれの感想を描いているのだろう、自然、憂鬱な運動となり、妙に静かに働いている。 そのうちに、かれらは細ほそ曳びきを手た繰ぐり、二つのつづらをがんじがらめにくくりだした。なお、残る一つのつづらへも、念のために槍や刀を突っ込んでみたが、それは、何の手応えもなかった。 ﹁この下へ寄せろ! その艀はし舟けを﹂ つづらは、ズ、ズ、ズ、と左舷へ引きずられて行った。 あとの鮮血は目もあてられない。 太陽があったら燃えあがるだろうが、星明りでは黒い液体でしかない。だが、なんとなく、生きている、うごいている、うなずいているように感じられる。 つづらは、がんじがらめのまま、さっき、原士たちが乗ってきた小舟の一つへつり下ろされた。それに続いて三位卿が降りてゆく。原士もぞろぞろ跳び降りる。 森啓之助、天堂一角、各めい![※(二の字点、1-2-22)](../../../gaiji/1-02/1-02-22.png)
狂きょ瀾うらん
つづら心中の形となったお米の死、宅助の死。
なんと無残な輪りん廻ねだろう。不合理な心中だろう。運命の神の皮肉さよ。
だが、真まことの弦之丞とお綱は、いつのまにこの二人と入れ代っていたのだろうか? なにせよ阿波方の面々、不覚のかぎりであった。
﹁ちぇッ、うまうまと騙たばかられた﹂
醜みにくしとは思いながら、三位卿、歯ぎしりを噛まずにはいられない。
﹁今にして思い当たるのは、船待小屋ですれちがった時の、怪しげな男ふた女りであった! それを啓之助めが、おのれの非に恟きょ々うきょうとしておったがため、いらざる口出しをして、有村の明めい察さつをあやまらせた﹂
じだんだ踏んで口惜しがった。
原士たちは唖あぜ然んとして、棒を飲んだようになっていた。一角も呆あッ気けにとられて、いうべき言葉を忘れている。
弦之丞の瞬しゅ速んそくに、これだけの者が翻ほん弄ろうされたのか! そう思う苦々しさが、みんなの醒さめた顔にみなぎっていた。
﹁いたずらに茫ぼうとしてはおられない!﹂
有村は形ぎょ相うそうをかえて庭へ下りた。
﹁一角ッ、大急ぎでお船蔵から船を出せ。まだ先の船も、さして沖を遠くへは離れていまい﹂
﹁あっ、追手を?﹂
﹁無論。早くだ!﹂
﹁あるか、脚の早い船のが?﹂
一角、原士の中へどなった。
﹁お手入れ中の納なん戸どぶ船ね、あれなら軽い、たいして人数は乗れませぬが﹂
﹁それでいい、それでいいッ﹂
叱りとばすように有村が急がせると、バラバラ向うへ駆けだした。櫓ろだ、櫂かいだ、帆の支度だ! そんな声が八方の闇へ別れる。
三位卿もすぐに船蔵のほうへ急ぎかけた。すると、その前へ駆け廻って、啓之助が、
﹁有村様ッ……﹂と、足元へへばり伏ふした。
﹁なんだッ蛆うじ虫むし﹂
﹁め、めんぼく次第もございませぬ﹂
﹁それがどうしたというのかッ﹂
かれの額ひたいには青筋が太かった。
﹁不始末のほど、慚ざん愧きにたえませぬ。本来、御一同の前で、切腹すべきでございますが……﹂
﹁そうだ! 当り前だ!﹂
﹁殿の御ぎょ意いもうけず、身勝手に死ぬこともなりませず﹂
﹁よかろう!﹂
﹁ではございますが﹂
﹁かまわん、わしが、殿のお耳へ入れておく。殿もよい家来を失ったとは惜しむまい﹂
﹁は……しかし、武士の意気地﹂
﹁人が笑うぞ! 貴様がそんな言葉をつかうと﹂
﹁はい﹂
とガッカリした啓之助、土下座の腰をのばして、いきなり三位卿へ両りょ掌うてを合せた。
﹁有村様ッ、こ、このとおりでございます﹂
﹁何をするんだ、ばかなッ、わしは笏しゃくを持っている木像じゃない﹂
﹁終生のお願い――どうぞこの不始末を、殿様へおとりなしのほどを。啓之助、過去を悔悟して、御奉公をしなおしまする。そして、武士の意地にも、追手の船へのりまして、弦之丞めを﹂
﹁世よま迷いご言とを申すな﹂
﹁でなければ﹂
﹁うるさいッ、お前はお前のすることをしておれ。そのな、啓之助﹂
と、かたわらのものを指さした。
宅助の死骸とお米の亡なき骸がらが重なっている。
﹁――その醜いものを見ろ、それを。おのれのものがおのれに帰ってきたのではないか。所有主はお前だ、あれを抱いて、早くお屋敷を出て行け! けがらわしいやつッ﹂
と、肩を蹴った。
うしろへ引っくりかえった啓之助は、手にからみついた黒髪にゾッとした。
何を見ているのか、お米の眼は閉じないである。急にとがってみえる骨の間に、どんよりと、なんらかの執しゅ着うじゃくの相をたたえて。
これが、あれほど自分を燃え立たせた、情慾の対あい人てか。
かれは両手で顔をおおった。
逃げ場のない気持を、死者の冷たい手が追い廻してくるようで、啓之助は立ちもならず、いたたまれもしない。
﹁有村様ッ、有村様ッ﹂
と叫んだが、その三位卿は、もうお船蔵へ向って駆けていた。かれは、気狂いじみた迅はやさで、お米の死に顔を照らしている二ツの篝火をいきなり泉水の中へ打ちこんだ。
あたりを闇にしたら、深い土の底へ現実を埋めた気がして幾らか心が安らぐかと思ったが、無駄だった。
駆ければ駆けるほうへ、
︵旦那様……︶
と、お米の顔が。
* * *
沖の汐しお鳴なりが変ってきた。
風が出てきた。
暗い五更こうを、黒い潮うしおの海を。
破れんばかりに帆を鳴らして、まっしぐらに走る追手の船! 指してゆく沖の一線に、これまた、満々と帆を張りきって南へ南へと急ぐ船影がかすかに黒く――。
雲! 雲! 形ぎょ相うそうの悪い雲のうごき。
まさに、狂きょ瀾うらん天をうとうとしている。
血は潮水で洗われたが、四国屋の船の上には、まだ宵よいの陰惨の空気が漂ただよっていた。黙々とした水か夫こ、おびえた夢に苫とまをかぶっている旅客、人ひと魂だまのような魚油燈、それらを乗せて、船脚は怖ろしいほど迅はやくなっている。
ときたま、山のような波がかぶった。
その大波の度がふえるにつれて、潮鳴、潮風、帆のはためき、どうやら暴し風けの兆きざしがみえる。と気がついた頃には、船の揺れ方も尋常ではない。
だが、島とは見えない、淡路の巨影にかばわれて、紀淡海峡を出るまでは、水か夫こも多た寡かをくくっていたし、それに、宵のことで、スッカリ気がめいっていたので、騒がず、声を立てず、相変らず黙々と、船は帆まかせに走っている。駸しん々しんとして白浪を蹴っている。
真まよ夜な半かを過ぎた。
阿波へ阿波へ。
満をはらんだ十四反たん帆は巨大な怪鳥のごとく唸うなりを搏うって進む――。
と。やがて大だい寂じゃくの丑うし満みつすぎ。
船の一隅、潮しお除よけの蔀しとみの蔭に、苫とまをかぶっていたふたりの客が、ムクムクと身を起こしてあたりの旅客の様子を眺めた。
うごいているのは船ふな暈よいに悩んでいる者だけであった。
﹁…………﹂
何か目と目でうなずきあうと、苫とまをはねたそのふたり、手と膝とで、松兵衛の部屋のほうへ這いだした。船は坂のように見える。
互に、左右へ気を配って――。
低い達だる磨ま部屋の戸の隙から、煤くすんだ灯の色が洩れている所へ寄ると、
﹁松兵衛、松兵衛﹂
ひとりが軽く戸を打った。
﹁新吉さん﹂と、またひとりが低く呼ぶ。
見ると、その男ふた女りは、天神岸から乗ったあのまんじゅう笠の仲ちゅ間うげんと手てぬ拭ぐいの女だ。
達だる磨ま部屋の底には、水かこ夫がし頭らの松兵衛と新吉、魚油くさい灯ひつ壺ぼを中に挟んで、互に、ものもいわず、ためいきばかりつきあって、暗あん鬱うつな腕ぐみをしていたところ。
ゴト、ゴト、と戸が鳴ったので、ひょいと眼を上げたが、風だろう、そう思ってまた首を垂れてしまった。
上には訪れた男ふた女り、低い声は潮風に消されてしまうし、大きな声はあたりをはばかるし……としばらく迷っている様子。時々、虚こく空うへさらわれてゆく苫とまの影にもハッとする。
﹁一ひと言こと知らせておきたいが﹂
﹁そうですね……さだめし気を腐らしておりましょう﹂
﹁事情を知ったらびっくりするぞ﹂
﹁幽霊かと思うかもしれませんね﹂
﹁なにしろ、無駄な心配をさせておくのは気の毒、それに……﹂
﹁シッ﹂と手を振られて口をつぐむ。
﹁誰か起きている者があります。向うに人影が﹂
﹁では、後にしようか﹂
﹁…………﹂うなずいて、身を隠そうとした時、髪をくるんでいた手拭が、サッと風に飛んで、女の白い顔が凄せい艶えんにむきだされた。
﹁あら……﹂
と吹かるる髪をおさえたのは、まぎれもないお綱であった。
とすれば、仲ちゅ間うげんにやつした一方の者は、無論法月弦之丞でなければならない。
ふたりは健在である。
天神の船待小屋までは、あのつづらに身をひそめていたが、じっと中から埋うめ地ちの空気を察していると、どうやらそこの安全でないのを感じた。すると、その荷つづらによりかかって、痴ちわ話ぐ狂るっている男女があった。お米をもてあそぶ宅助であった。宅助を操あやつっているお米であった。弦之丞は前からの約束もあるので、お米に、つづらの中へ入れ代って貰おうと思った。まさか、アア無残な結果になろうとは予測せずに――、そして都合の悪い宅助をまず、不意につづらの中から刺したのである。
そして、つづらを開けて呼び止めると、誰か人が入ってきたので、また、中へ潜ひそんでしまった。それが常木鴻こう山ざんであると知ったら、その必要もなかったが、咄とっ嗟さに蓋ふたをかぶってしまったので、かれも先も気がつかずに、鴻山はまた走りだして行った。
その後で、弦之丞はお米を承知させて、お綱と姿をとり代えさせた。宅助は否いや応おうなく、合羽を剥はがれて押し込まれた。すべては、まったく一瞬の間に行なわれたのである。弦之丞が代かえ玉だまを入れて錠じょうをかっている手も間に合わないくらいに、そこへ、竹屋三位が来たのだから――。
で当然に、松兵衛も新吉も、つづらの中がすり変ったとは知らないはず、達だる磨ま部屋の底に嘆ため息いきをついて、お家様への言い訳や、後で領主からどんな厳罰をくわされるかと、頭をなやめているわけだった。
﹁おお、ひどい風﹂
お綱は白鳥のように飛んだ手拭の行方を見送って、帆柱の腰へ背なかを支えた。弦之丞もその白いものへ眸をあげた。なぜか、その一瞬に、かれは悲恋非業の終りを遂げたお米の魂のさまよいを見る心地がした。
すると。
今お綱が艫とものほうにボンヤリと見た二ツの人影が、いつのまにか、足音をぬすませて、弦之丞のうしろに立っていた。
﹁おい、どうだ﹂
﹁ウウム……﹂
袖を引きあって、お綱の顔を睨んでいる。
﹁シッ……﹂と左右へ辷すべると二人とも、あり合う苫とまを頭からかぶって、船床の上へ寝てしまった。
かかるまにも、竹屋三位卿そのほかの乗っている追手の船は、滔とう天てんの飛しぶ沫きをついてこの船を追っている。
不意にボウと月光がさした。
鯖さばの背みたいな青黒い海の色が、一瞬、ものすごく目に映ったかと思うと、バラバラッと、痛いような大粒の雨!
嵐の先駆――。
気味のわるい微そよ風かぜが撫でた。
ほんの一瞬とき、欺だますようにさした月光は、空の怒ろうとする前に見せる微笑であった。
﹁あ……アア……﹂
と、お綱は帆ばしらの根を離れ得ずに、冷たくなった額ひたいをおさえた。
﹁どうした?﹂
と、抱きこむように支えて、
﹁暈よったのか﹂と弦之丞が優しく訊く。
﹁エ、すこウし……﹂
﹁しっかりいたせ、夜明けになれば凪なぎるであろう﹂
﹁はい……お案じ下さいますな﹂
﹁よいか﹂
﹁大丈夫でございます﹂
﹁前の所へ戻って、少し落ちつくがよい﹂
﹁そういたします﹂
﹁わしの帯につかまって……よいか……足をすくわれるな、足を﹂
お綱は弦之丞に力とすがった。
弦之丞はお綱を抱いた。
そうして、片手に、笠のつばをおさえて、蔀しとみの蔭へ走ろうとすると、その時だ!
一ひと条すじの帆綱が、ピュッと――輪を解いて弦之丞の足もとへ飛んだ。
﹁あっ!﹂
船の動揺に気をとられていたので、かわすまもなく一方の足は、クルクルと巻きつかれて何者かに手た繰ぐられた。
お綱の体は、かれの手を離れてうしろへよろける。弦之丞は倒れながら、脇差を払って、足首にからんだ綱を抜き打ちに切ってはねた。
﹁ちぇッ﹂
と、向うの闇で声がする。
弦之丞とお綱は、船床へかがみついたまま、そこへ眼を向けたが、誰の影とも判らない。向うの者も、腹這いになっている様子だ。
﹁ううむ、まだ船の中に、阿波の武士が残っておった。お綱……わしの側を離れるな﹂
かれは白い光を背なかへ廻しながら、膝で歩くように、縄なわの飛んできたほうへいざりだした。
と――先の影も這うように動きだした。そして、グルリと向う側の舷ふなべりへ廻ってゆく。
人数はいないな、ことによると船頭の中で、拾い首の功名をしようとする奴かもしれぬ。――弦之丞はそう思った。そして、機を計って跳とびかかってゆくと、案の定、抜きあわせてもこず、バタバタと艫とものほうへ逃げだした。
﹁ひと浴びせッ﹂
と気をはやったが、ほかの者の目をさましてはと、静かに、気永に、船具や積荷の間を追い廻していると、先の影も、船蔵の鼠のように敏速だ。
すると、後ろの胴どうの間まで、突然な叫び声がかすれた。弦之丞はあッといって、一足跳びに引ッ返した。
見ると、お綱が何者にか組み敷かれている。
﹁おのれッ﹂
というが早いか、弦之丞の太刀――その影を横に払った。
が――先も足首に気構えをとっていたとみえて、いきなり、お綱の胸に片膝をのせたまま、ぱちッと、太刀の切せっ羽ぱ。抜き合せに受けた。
燐りんのような火の匂いと光がシュウッと削り落された。
﹁ウウ、おのれは――ッ﹂
と弦之丞、からんだ鍔つばをそのまませめて、
﹁お十夜だなッ!﹂と、絶叫した。
﹁驚いたか、三位卿の目はかすめても、この孫兵衛があんな甘あま手てを食うものか﹂
――その時である、艫とものほうを逃げ廻っていた旅川周馬、隙を狙って帆柱の半なかばごろまで、スルスルと猿ましらのぼりに上って行った。
有村や一角が、つづらの内から血汐のあふれだしたのを、てっきりと信じて、引き揚げて行った際に、孫兵衛と周馬のふたりは、一同の移った小舟へ乗らなかった。というのが――あの騒動のうちに、艫ともへなだれて行った乗合客の中に、ハテナと、小首をかしげた女を見たので。
手拭に顔を隠していても、お十夜にとれば、お綱はあれまでにほれていた女、決して、あかの他人を見るごとくではない。
すべての者は、皆つづらの中に気を奪われて、他に何ものもないくらいだったが、孫兵衛は、周馬にも耳打ちして、絶えず、それへ眼をつけていた。で、ついに仲間の舟へは乗りおくれた訳であるが、やがて有村も一角も、あわてて追いをかけてくるに違いないと察していた。
案のごとく、洲すも本との沖あたりから、それらしい船が後ろから白浪を蹴立ててくる。それらに来られてからでは気が利きかない、その前に料理しておこうではないか――と、周馬があぶながるものを、孫兵衛、いきなり弦之丞の足元へ綱を投げた。そして、かれは巧妙に帆柱の蔭へ立ったので、周馬は運悪く弦之丞の切ッ尖さきに追い廻されてしまった。
で――とうとう、帆柱の上までスルスルよじ登った旅川周馬。
﹁お、そこまで来たな﹂
と、近づく船影にホッとした。そしていきなり、脇差を抜き、片手にふるって、蜘く蛛も手でに張り廻した帆ほづ綱な帆ほぐ車るま、風をはらみきった十四反帆! ばらばらズタズタ斬り払った。
周馬が、虚空から切って落した帆ほぬ布のは、その下にいた弦之丞とお十夜の上へ、バラ――ッと、すごい唸りをあげて落ちてきた。
柱を離れた十四反帆、船をそっくり包んでしまうほど大きい、巨大な獣けものの背なかのようにムクムク波を打っている。
ザアーッと、一散な雨が横に吹ッかけてきた。
雨の白さが、いっそう闇を濃くさせた。波は高くおどり、風は狂わしく吠ほえたける。
船は、無論、暗あん澹たんたる中をグルグル廻っているのである。水か夫こ、楫かん主どり、船幽霊のような声をあげて、ワーッと八方の闇にうろたえている。
﹁あっ、ひどい音が?﹂
﹁暴し雨けだッ﹂
と達だる磨ま部屋の底で、はね起きたのは、松兵衛と新吉。
戸を引ッぱずして外へ首を出してみたが、そこは、いッぱいに、落ちた帆ほぬ布のがかぶさっている。
で何も見えない。ただ、ザンザとうつ大雨の音と、風の咆ほう哮こうと、船ふな夫こたちの気狂いのような声。
暴し雨けばかりではない! 何か、騒動が起こった様子と――松兵衛、わけは知らないのでそれへ潜もぐり込んでゆくと、ギラリと、太刀魚のような光りもの!
﹁あッ﹂
と、突っ伏した途端に、うしろの新吉は、達磨部屋へころげ落ちていた。――と、帆布の一端を切り破って、おどりだしたのは弦之丞である。うごくところを狙って、突き刺そうとすると、松兵衛の悲鳴にハッとおどろいて手を引いた。
その隙に、お十夜も、大魚の腹を切り破って出るように、雨の中へころがりだす。
雨は帆布を叩たたいて、滝のように白くあふれていた。さらに、空くうへ、奈なら落くへ、ゆれかえる合あいの動揺!
目もあけられぬ雨! 疾はや風て!
﹁うぬッ﹂
﹁おのれッ﹂
と互に、剣をかまえて、斬ろうとし、刺そうとはするが、自然の力に妨さまたげられて、技わざも気念もほどこすによしがない。
帆は切り裂かれても、船は運よく、由ゆ良らの岬みさきにも乗りあげずに、鯉こい突つきの鼻をかわして、狂浪に翻ほん弄ろうされながら外海へつきだされていた。
帆柱にしがみついて、しばらく様子を眺めていた周馬も、いよいよつのる疾はや風てに、ともすると体ぐるみ吹ッ飛ばされそうになるので、
﹁あっ、堪たまらねえ﹂
と、辷すべり落ちてきた。
そこに、お綱が、船ふな暈よいの顔を青ざめさせて、うッ伏していた。だが、ドンと降りてきたかれの足音に、ハッと顔をあげて、帯の小脇差に手をかけた。
世よ阿あ弥みのかたみ――新しん藤とう五国くに光みつの刀へ。
と、周馬は、
﹁ウム!﹂と叫んで、足をあげた。
だが――お綱の肩を蹴とばしたとたんに、かれの体も、意気地なくもんどり打って、四、五間けん向うへ突ンのめっている。
イヤ、周馬のみならず、その時二百石積みの船がもろに傾いて、海水をすくうかと思われたほど、激しい震動を食ったのであった。
突然。
船体の木組が、皆バラバラになったような音がした。
と思うと――舳みよしをつッかけてきた一艘そうの納なん戸どぶ船ね、そこから、ワーッという喊かん声せいが揚がった。
手てか鈎ぎ、投げ爪、バラバラこっちの船へ引っかけて、ずぶ濡ぬれになった原士の輩ともがら、手槍を持った一角、竹屋三位卿など、面おもてもふらず混み入ってくる。
そして、荷蔵や苫とまのかげに、かがまッている客や船ふな夫こを捕えて、いちいち改めているらしいので、旅川周馬、大手をひろげて、お綱の姿を見張りながら、
﹁ここだ――ッ、ここだッ﹂
と、大声で知らせた。
すると。
その声も終らぬところへ、法月弦之丞の姿が、目の前へ飛んできた。あっと、思わず逃げ腰になる隙に、弦之丞はいきなりお綱の体を横に引ッ抱えて、斬りつけてくるお十夜を、片手の太刀で防ぎながら舳みよしのほうへ走りだした。
﹁おッ、いたぞ﹂
﹁弦之丞だ!﹂
﹁それッ﹂
と、槍を取った原士の影が、先をふさいで叫んだが、なお、血とも雨ともわかたぬ飛しぶ沫きをついて、夜やし叉ゃにも似た乱らん髪ぱつのかげが、舳みよしの鼻に突っ立った。
そこへ、なだれて来た三位卿と一角とが、
﹁あッ――﹂
と、声を筒つつ抜ぬかせた途端。
うしろへ迫ったお十夜へ白刃の素す振ぶりをくれながら、法月弦之丞、お綱の体を抱えたまま、逆さかまく狂瀾をのぞんで身を躍らせた……。