春はるの雁かり
からっとよく晴れた昼間ほど、手持ち不ぶ沙さ汰たにひっそりしている色いろ街まちであった。この深川では、夜などは見たこともないが、かえって昼間はどうかすると、御おた旅びの裏の草ッ原で、子を連れて狐が陽ひなたに遊んでいたりする事があるという。 ――通つう船せん楼ろうの若いおかみさんは、 ﹁何だえ、包み始めてさ。……負けずに持って帰るつもりかえ﹂ 歯ぎれのいい女だけに、笑いながら云っても、人を蔑さげすむように美しいのである。 清せい吉きちは、頭を掻かいて、 ﹁だって、御ごり寮ょん人さ様ん、何ぼなんでも、この唐とう桟ざんを、十七両だなんて﹂ ﹁高た価かすぎるかえ﹂ ﹁ご冗じょ戯うだんでしょう。新しん渡とじゃあござんせんぜ。これくらいな古こわ渡たりは、長あっ崎ちだって滅めっ多たにもうある品じゃないんで﹂ 内ない緒しょ部べ屋やの障子の桟さんには、絶えず波の影が揺らいでいた。すぐ裏手が、晩には猪ちょ牙きの客を迎える狭せまい河だった。 ﹁どうするのさ﹂ 通船楼の若いおかみさんは、清吉には苦にが手てなお客様とみえる。せめて二十両でといえば、良うち人のひとに着せるのだから、自分の一いち存ぞんではそう高く買えないと云う。 ﹁じゃあ、とにかく、置いて参りますから、旦那様にもお目にかけた上でひとつ……﹂ そこらへ並び散らしてある他の鼈べっ甲こう物ものだの、縞だの、珊さん瑚ごだの、香料だの、青せい磁じだの、支那文人画の小点などを、片手に提さげられるくらいな包みに小ぢんまりと纏まとめてしまうと、 ﹁これでいいだろう﹂ 金を出して、通つう船せん楼ろうのおかみさんは、唐とう桟ざんの一ひと巻まきを、自分の後ろへころがした。 数えてみると、二十両あるので、清せい吉きちはかえって眼をみはってしまった。まだ二は十た歳ちを幾つも出ていまいと思われるのに、青い眉と黒豆のような歯並びをしているおかみさんは、 ﹁ホホホホホ。揶から揄かって上げたんだよ﹂ と、独ひとりでおかしがった。 ﹁へえ、ひどい事を!﹂ ﹁あたりまえさ。良うち人のひとにわたしが見立てて着せようというのに、穢きたない値切り方をしたの、買い惜しみをしたのと聞いたら、着るにも気きし色ょくが悪いと云って、良人だって着やしないし、わたしの意気だって届かないじゃないか﹂ ﹁これはどうも、手てば放なしなところを﹂ ﹁お惚のろ気けち賃んは、前払いで云っている筈なんだよ﹂ 三両の聞き賃かと思えば、ごもっともでといくらでも神妙に聞ける。勿論、清吉だってまだ若いのだし、木の股またから生れたのでもないから、こんな女の素すの惚ろ気けは決していい気持なものではないが。 それに清吉は、三年のうち二年を旅暮しで送っている身だった。家は長崎で、反たん物ものや装身具や支那画などの長なが崎さき骨こっ董とうを持って、関西から江戸の花とく客いを廻り、あらかた金にすると、春はるの雁かりのように、遥々な故ここ国くへ帰ってゆくのである。ここの世界
清吉の花とく客いさ先きは、上方でも江戸でもたいがい花柳界だった。金持らしい金持となると、近づき難いし、骨を折って出入りしても、買物となると、横おう柄へいぶっているわりに、貧乏人より金には細かくて、彼に云わせれば、 ︵みみッちい、見かけ倒しなボロ客だ︶ そうである。 第一、鑑賞の眼がない、下駄に蒔まき絵えをしたり、裾すそ模もよ様うに珊さん瑚ごを入れたりして、豪ごう奢しゃぶッているのが多いのだ。唐とう桟ざんの新渡も古こわ渡たりもわからないでは、一反の縞に、二十金も出すような物好きにはなれない。そういう物好きの多いのは、やはり天下の狭きょ斜うしゃの街のうちでも、この深川に越した所はないように思われる。 そんなわけで清吉は、ずいぶん諸国の花かめ明いり柳ゅう暗あんの里を見て来ているが、およそこの深川ほど、意気だとか、きゃんだとか、不ふ可か思し議ぎな女だましいと、あそびの世界の燈とも火しびとを、まるで名匠の芸術的事業でもあるように、客も妓おんなも、茶屋や船頭に至るまでが、競い合って研みがいているなどという所は、およそ他国の遊び場所では見られないものだった。 ――だから、ここではいい商あきないも出来たが、来始めの二、三年は、この土地の人間の気きだ質てというものが分らなくて、清吉は呆あっ気けに取られてばかりいた。――分らないといえば、馴な染じみになっても、いまだに分らない問題に度々ぶつかる。 つい昨きの日うも。 櫓やぐ下らしたの大おお隅すみ屋やへ商いに行って、茶ばなしに聞いていた話なのであるが―― 其そ家こへよく来るお客で、綽あだ名なを﹁黒くろさん﹂とも﹁能のうの面めん﹂ともいわれているお客がある。金切れもわるいし、御ごめ面んそ相うは綽名のとおりだしするのだ。 ︵また、能の面の口だとさ︶ と聞くと、何ど家この妓こも逃げを張って、花は代なに依らず、座敷へ出てがない。 すると、お鷹たかという妓こが、 ︵わちきが、いいお客にしてみせよう︶ と云って好このんで出たが、同時に、べつな家のお蝶ちょうという妓も、 ︵そんなに持もてないお客なら、わたしが持てるお客にしてみせる︶ と、自分から進んで座敷へ買って出た。 四、五たび両ふた妓りがぶつかるうちに、当然、黒さんを挟はさんで張りッこになった。お鷹は、お蝶に情い夫ろがあるのを知っていたので、 ︵おまえの心意気か知らないが、そんなおせっ介かいに出なさんして、忠さんによいのかえ︶ 痛いところを、黒さんの前で素すッぱ抜いた。 するとすぐお蝶は、恋人を呼びにやって、黒さんの眼の前で、無理に切れてしまったというのである。 ――清吉には、どう考えても、そんな妓この心理がわからないのであった。それをまた、噂ばなしに、 ︵あの妓は、うれしい意気だよ︶ などと称たたえているこの土地の女や男達の気持もなおさら、解げせなかった。 もっと、彼が首を傾かしげた話では。 木もめ綿んのお力りきという妓がある。そのお力が、八はち幡まん前まえの小鳥屋の前まで来ると、人だかりがしていた。覗のぞいてみると、尾花家の稚こど妓もが小鳥屋の亭主に何かひどく呶ど鳴なられていた。 ︵どうしたのさ︶ ベソを掻かいている稚妓に聞くと、稚妓をさし措いて小鳥屋の亭主が、店みせ頭さきの立派やかな鳥とり籠かごを示し、これは今、蒔まき絵えの鳥籠を註文してあるが、それが出来てくれば、さるお大名へ納おさめる事になっている朝鮮渡りの鵯ひよどりで、一ひと番つがいで三十両もする名鳥なのに、この稚妓が今、菓子など喰わせたから怒ったのだと口から唾つばをとばして云った。 するとお力は、 ︵おや、そうかえ。稚こど妓もだから、自分にひきくらべて、小鳥もお菓子を喰べたいだろうと思ってやったのだろうよ。わたしも、自分の勤めの身にひきくらべると、こうしてやりたくなってしまったよ︶ あれ――という間に、籠かごの口を開けて鵯ひよどりを青空へ逃がしてしまった。 ︵何も噪さわぐこたあないじゃないか。三十両払ってやりさえすればいいんだろう︶ 首も廻らない借金のある上に、お力はまた、借金を増して、それを払ったという話なのである。 ――中国筋すじ、大坂、島しま原ばらと、諸国の遊び場所を通って来たが、清吉はこんな馬鹿な女の多い土地はまだ他ほかでは知らなかった。彼が今、一ひと商あきないした通つう船せん楼ろうの若いおかみさんなどは、前のお蝶やお力などからみれば、まだまだ、くせの少ない方らしく思われた。男おと袷こあわせ
﹁おや、おかみさん、好すいたらしい物をお買いなすったね。これは古こわ渡たりじゃござんせんか﹂ 清吉が立ちかけると、こう云って、そこの内ない緒しょを覗のぞき、今おかみさんの求めた反物を沁しみ々じみ見ている妓おんながあった。 辰たつ巳みごのみを典型的に身に持っている妓こだった。すこし窶やつれの見えるのもかえって男には魅惑がある。二十三、四というところであろう。痩やせがたで、抜けるほど白い襟えり足あしが、寒かん紅こう梅ばいにつもった雪を連想させる。 ﹁――あの人が無事でいたら、わたしもどんな工くめ面んしても、こんなのを一いっ反たん仕立てて、今年の袷あわせに、着せてやりたいが……﹂ 軽い嘆ため息いきして呟つぶやくと、通船楼の若いおかみさんは、 ﹁何さ、秀八さんともあろう妓こが、そんなさもしい愚ぐ痴ちを云って﹂ ﹁ほんとに、わたしも少し薹とうが立って来たらしい﹂ ﹁お座敷かえ﹂ ﹁え、めずらしく。……この頃あ昼間のお客でもなければ、招よばれもしなくなったとみえてね﹂ ﹁また、自や暴けにお飲みでないよ﹂ 秀八という名を、清吉はそこで記憶した。やがて、おかみさんに励まされたり、軽かる口くちを交わしたりして出て行ったうしろ姿を、清吉は、唾つばをのんでいるように、黙って見ていた。 ﹁いい芸げい者しゃ衆しゅうですね。あれで、売れないんですか﹂ その後で、こう話を出すと、 ﹁どうして、この辰たつ巳みでも、あんなに売れた妓こはなかった程だけれど、ちょっと、おかしな事が、ぱっと聞えたものだからさ﹂ ﹁ヘエ、どうした理わけなんで?﹂ ﹁何がさ﹂ ﹁そんなに流は行やっていた妓なのに、急に客が落ちたというのは﹂ ﹁よけいな詮せん索さくをおしでないよ。おまえさんは、長なが崎さき骨こっ董とうでも弄ひねっていればいいのだろ﹂ 相手にもしてくれないのである。若いおかみさんは、さっさと立って裏の川を覗きながら、今度はそこで晩の支した度くをしている抱え船頭と、明るい声で何か冗じょ戯うだんを云っていた。黒くろい嬌きょ歯うし
品物はあらかた捌さばけた。 いつもならば、路銀だけを懐ふと中ころに残し、後の金は悉しっ皆かい、長崎表へ為かわ替せに組んで、身みが軽るになって江戸を立つ頃であったが、清吉は、五月になっても、まだ深川に日を暮していた。 諸国の女の世界ばかりを花とく客いさ先きに廻っているので、よく儲もうけもするが、 ︵今に見な、木ミ乃イ伊ラ取とりが木乃伊になって、何か女で躓つまずくから︶ と、仲間の老とし人より株かぶからよく云われていたが、清吉は肚の中で、 ︵ふん、そんな甘いんじゃねえ︶ と、笑う者をかえって嗤わらっていた。 だが――今度だけは、少しその気持のぐらつきを、自分でも認めないわけにはゆかなかった。 ぷーんと藍あいの香のたかい袷あわせの仕しつけ糸を抜いたばかりなのを着込んで、今日も、灯ともし頃から、わざと人目離れた場末の新しん石いし場ばの金かね子こ屋やへ出かけてゆくと、 ﹁おや、清せいどん﹂ 八はち幡まん横よこ町ちょうで、ばったり、通つう船せん楼ろうの若いおかみさんに出会ってしまった。 ﹁やあ、どちらへ﹂ 清吉が、てれて云うと、 ﹁どちらとは、こちから聞くところだよ。おまえさん、先月の初はじ旬めには、もう長崎へ帰る帰ると云っていたのに、今頃まで、まだ深川にいたのかえ﹂ ﹁ええ……実は少し、掛か金けの寄らない先さき様さまがあるもんですから﹂ ﹁嘘をお云い。何でも近頃は、せっせと金子屋へ通って、秀八と会っているということじゃないか﹂ ﹁誰がそんな事を云いましたか﹂ ﹁云わなくたって、あたしにはちゃんと判っている。秀八が挿さしている翡ひす翠いだ珠まは、おまえがいつか、わたしの釵かんざしか良う人ちの根ねつ付けにどうですと云ってすすめた珠じゃないか。どう? 恐れ入ったろう﹂ ﹁……これは手てき酷びしい﹂ ﹁会いたいなら、わたしの家うちだってお茶屋だし、わたしが会わして上げるものを、隠れ遊びなんざよくないね﹂ ﹁相済みません。……どうもつい、お花とく客いさ先きのお宅じゃあ﹂ ﹁肩の凝こりがほぐれないかえ。その解ほぐれないところにうま味があるんだけれど﹂ ﹁そのうちに伺います﹂ ﹁もう手てお遅くれだあね。……出来ちまったものは仕方がないから、たった一言云っておくが、いつかもちょっと云ったように、あの妓この体には今、うるさい噂が立っているところだからね。おまえさんは旅の者で何も知るまいが、怪け我がをしないようにおしよ﹂ 黒豆を並べたようなこの若いおかみさんの嬌きょ歯うしが、清吉にはこの時も、何か他国者の自分を嘲わらっているように見えてならなかった。宵よい詣まいりにでも来たのであろう。片かた笑えく靨ぼでそう云うとすぐおかみさんの姿は、鳥居内うちの宵よい闇やみの人影に紛まぎれてしまった。冷たい指
﹁約束のものを持って来たが﹂ 秀八の顔を見るとすぐ、清吉は、五十両の封きり金もちを三つ、ふたりの間へ置いた。そしてその手に杯さかずきを持った。 ﹁じゃあ何も使つかい途みちを聞かずに……﹂ ﹁元より、初めからの約束だ。おまえがそれを、情い夫ろに貢みつごうが、どんな借金に費つかおうが、何も訊こうとは云わないから、安心して取っておくがいい﹂ 新石場は、深川での新開地だった。金子の二階からは、石川島の懲しお役き場ばの灯ひがひろい闇の中にポチとみえる。秀八は、暗い海へ面おもてを向けて、じっと何か思いに沈んでいた。 欣うれしそうな顔もしない。――一ひと言こと、 ︵ありがとう︶ とも云わないのである。 おまけに初めから、費つかい途みちは訊いてくれるなという約束だった。百五十両といえば算そろ盤ばんの弾はじき方かたを知っている清吉には莫大な金に違いなかった。彼の一生涯でも思い切った気前の一つとなるであろう程な額たかである。 ﹁仕舞っておかないか。人が来るとよくないから﹂ 杯さかずきを出した。 杯の糸いと底ぞこで秀八の冷たい指に、清吉の指が触ふれた。 ﹁じゃあ、貰もらっておきます﹂ 厚い帯のあいだへ、秀八は金を仕舞った。清吉は、自分が惜しい眼でもしていないかと惧おそれて、床の間の懐かい月げつ堂どうの幅ふくを見ていた。 意気といったようなもの――侠きゃんといったようなもの――この辰たつ巳みの女だけが持つさまざまな心伊だ達てだの肌はだ合あいの中に溶とけ入って、清吉は一生涯に一度の思い出を創つくるつもりで、算そろ盤ばんを捨てているのだった。 ――と云っても、ただの﹁遊び﹂でそれをしているほど、彼はまだ枯こた淡んな粋すい人じんでは勿論なかった。やはり秀八のずば抜けた緻きり容ょうと、侠きゃんな辰巳肌のうちに、どことなく打ち潤しめっている窶やつれの美しさが、通船楼で見た時から受けたつよい魅力であった。 あれから、わざとこの場末に避けて、七、八回会っていた。いつでも何か物案じな秀八の眸ひとみだった。金の事なら――とあっさり引きうけたのが今夜の事となったのである。 もっとも、その前後に秀八が杯さかずきの嘆ため息いきに、 ︵いッそ、他国へ行ってしまいたい︶ と、二、三度つぶやいた。 清吉も心の裡うちで、 ︵この女となら――︶ と、思わないでもない。長崎へ行かないかと云えば、一緒に逃げて来そうな気けぶ振りもある。 けれど、それを条件に、金を出すのは、辰たつ巳みあ遊そびでいう――野や暮ぼというものになろうし、また、折角の金が死ぬと考えて黙って――女の心のうごきを、彼は、見ようとしていた。 半はん刻ときほど、静かに飲んでいると、秀八は急に落着かない顔して―― ﹁やっぱり、わたしは今夜のうちに済まして来よう。清吉さん、このお金の費つかい途みちがついたら、わたしを連れて、すぐ江戸を立ってくれますか﹂ 自分の胸だけで、もう決めていたような口くち吻ぶりだった。清吉はむしろ思う壺つぼだった。百五十両が、この女の身みの代しろになるならばむしろ安や値すいものだという算そろ盤ばんが――無意識のうちに胸で働いていた。 ﹁え。おれと?﹂ 手を握って、見つめると、 ﹁九ここ刻のつころ、御おた旅びの汐しお見みま松つの下で落会っておくんなさいな。――私も、旅たび支じた度くをして行きますから﹂ 秀八はそう云うと、じっと清吉の手を握り返して、先に金子の座敷をもらって帰って行った。水みず調ちょ子うし
九ここ刻のつ――といえばもう夜半、だいぶ間があるなあと、杯さかずきを見て清吉は独り思う。
支度と云っても、もう商いの荷はないし、旅馴れてもいるので、これに、脚きゃ絆はんと草わら鞋じさえつければ、だが――ふと不安になって来たのは、
︵ほんとに、来るのかしら?︶
秀八の心の底だった。
無心した金さえ費つかい途みちを、訊いてくれるな、訊くなら要いらないと云った女。――考えれば危ないものと、どうしても思われてならない。
通船楼のおかみさんに嗤わらわれたくない気がしきりにして来る。百五十両という額も、今さら、身に過ぎた大金に思えて惜しくもなった。――けれど、ほんの通りがかりに、三十両もする小鳥屋の鵯ひよどりをツイと籠から放して、生涯の借金に背負っても苦にしないでいる妓こもある深川かと思うと、こんな事では、辰たつ巳みで遊び客の資格はないのだと、あの通船楼の若いおかみさんの鉄おは漿ぐろがまたどこかで嗤わらっているような気がするのだった。
なるべく、此こ家こで時をつぶしていようと、清吉は銚ちょ子うしを代えたが、手酌となるとすぐ酔ってしまった。
ごろりと横になった。
葉桜がどこかで風になっている。ここの風にはじっとりと潮しお気けがあった。若い手足をのびのび投げて吹かせていると、
だまされて いるのが遊び
なかなかに
騙 すそなたの 手のうまさ
水鶏 啼 く夜の
酒の味 ……
なかなかに
酒の
近所の窓から洩れる忍び駒が、熱い耳みみ朶たぶへ、冷んやりと流れこんでくる。
﹁ここらが辰巳の遊びの味というものかしらて?﹂
だが清吉は――例えば大きな博ばく奕ちを賭はっているように結果が待たれた。黒と出るか白と出るか、その結果のわかるまが値ねう打ちも物のとは思うが、やはり秀八にこのまま打うっ捨ちゃりを喰えば嗤わらわれた揚あげ句くまる損だし、約束した通りに行けば、金も生きるし、心意気も立つし、この先もう一苦労してもいい相手だから、ずいぶん安や値すいものにつくが……などと彼の頭はやはり、算そろ盤ばんとは縁が断ち切れなかった。
﹁まあ、お寝よっているなら、掻かい巻まきでも持って来てさし上げましたのに。……お風邪を引きやしませんか﹂
金子の女中が上がって来て、彼の傍そばへ、用ありそうに坐った。
﹁なあに、寝ちゃあいないよ。いい気持であの水みず調ちょ子うしを聞き惚ほれていたのさ。……今何なん刻どきだえ﹂
﹁もう八や刻つごろでしょうか﹂
﹁よその爪つめ弾びきなんぞ聞いていると、何だか、故さと郷ごこ心ろがついて、気がめいっていけねえや。誰か、つき交ぜた顔で、三人ばかり招よばないか、飲み直して、からっと笑って帰ろう﹂
﹁……でも、今、お迎えに見えていますよ﹂
﹁え。……誰が﹂
﹁通船楼のお使いが﹂
澪みおつくし
金子の勘定を払って清吉は使いに来た通船楼の男と、ぶらぶら河か岸しを歩いていた。 ﹁いったい、何の御用でしょう﹂ 気にかかるので、しきりに訊きいてみたが、使いの男は何も知らない様子で、 ﹁さ、何も伺うかがっておりませんが、ただ、おかみさんは先へ行って、土どば橋しの梅ばい掌しょ軒うけんの床しょ几うぎで待っているから、あなたを呼んで来てくれと仰っしゃっただけなんで。――何ですかいつぞやお求めになった、唐とう桟ざんを包んで持っておいでになりましたから、あの反たん物ものの事じゃございませんか﹂ ﹁はてな。あれやあほんとの古こわ渡たりで、新渡の贋いか物ものを売ったわけでもないが。……その梅掌軒ていうなあ汁しる粉こ屋やか何かですか﹂ ﹁いいえ土橋に出ている売えき卜し者ゃですよ﹂ ﹁へえ、あんな侠きゃんな気きだ質てのおかみさんでも、卜うらないなどを観てもらいに行きますかね﹂ 使いの男は、土橋のてまえまで来ると挨拶して、店へ帰ってしまった。 竹の柱に、八はっ卦けの乾けん坤こんを書いた布の囲い、暗い川風にうごいていた。筮ぜい竹ちくの前に、易者の姿は見えなかった。――覗のぞき込んで、ちょっと清吉がぼんやりしていると、 ﹁こっちだよ、往来から見えるから、裏へ廻っておいで﹂ と、川の方に向っている幕の蔭かげで、通船楼のおかみさんの声がした。 巨おおきな柳やな樹ぎの根を廻って、裏の方へ行ってみると若いおかみさんは、そこの床しょ几うぎに腰かけて、川の櫓ろお音とでも聞いているようにじっとしていた。 使いの男が云った通り、いつぞやの唐とう桟ざんらしい丸い物を、風呂敷につつんで膝にのせていた。 ﹁何ぞ、御用ですかえ﹂ その唐桟なら、突き戻されるような品でもないし、何か、苦情を云われたら、あべこべに云ってやる気で、清吉は小腰を屈かがめた。 ﹁清せいさん……おまえ今夜、秀八に金をやったろう﹂ ﹁えっ……?﹂ ﹁今、あの妓こは、家へ来ているんだよ﹂ ﹁へえ、おかみさんに、話しに行ったんですか﹂ ﹁わたしじゃないのさ。……会っているのは、与より力きし衆ゅうと、伝てん馬まろ牢うの同心だよ﹂ ﹁牢ろう役人に……。はてな? ……それやあどういう理わけでございましょう﹂ ﹁だからわたしが断っておいたじゃないか。――あの妓この情い夫ろは、澪みおの伝兵衛という大泥棒なのだよ﹂ ﹁げっ、そんな紐ひもがあったんですか﹂ ﹁白しら魚うおの黒いのがあったって、紐ひものない芸はお妓りなんかいるわけはない。おまえも存外、色いろ里ざとを知らない人だねえ﹂ ﹁そして、与力衆や伝馬役人と、どういうわけでお宅で会っているんですか﹂ ﹁その澪みおの伝兵衛が、ついこの春先、お縄なわになったのさ。ぱっと噂になって、あの妓が売れなくなったというのは、大泥棒の澪みおが紐ひもだという事がお白しら洲すで知れたからで、伝兵衛のお仕置は、獄門と極ったらしいが、どうしても、あの妓はそれを助けたいというので、お上の沙さ汰たも金次第だから、その筋へそっと贈まわす賄おく賂すりの金を工面していたらしい。……そこへおまえさんという鴨かもがかかったから、早速、馴じみの与力衆から手を廻して、今、わたしの出て来る前に、離はな室れでその取引さ﹂ ﹁ヘエ、じゃああの金で、澪みおの伝兵衛とかいう泥棒の男の生いの命ちが助かるんですか﹂ ﹁まさか、お追つい放ほうとはゆかないけれど、獄ごく門もんのところを遠えん島とうぐらいにはなるのは御ごじ定ょう法ほうとされている。――つまらない眼に遭あったのはおまえさんさ。もう金のほうは諦あきらめものだが、この上にまだ、曰いわくつきの妓おんなにかかっていると、どんな目にあうかも知れないから、親しい誼よしみに、一ひと言こと教えておくよ。わたしの家うちでちらと見かけたのが、おまえさんの落おち目めの機きッかけになったなんて、生涯云われるのは寝ざめがわるいからね﹂ ﹁御親切に、有難うございます﹂ ﹁こんな事になるなら、早く打明けておけばよかったけれど、まさか、おまえさんがそんな甘あま納なっ豆とうみたいな人とも思わなかったから……﹂ ﹁あはははは、これあ御挨拶でございますね。清吉も、女にゃ甘いに違いございませんが、これでも色街の事には、年期を入れておりますから、満更、溝どぶへ金を捨てるようなヘマはしていないつもりでございます﹂ ﹁オヤ、そうなのかえ。わたしゃあまた、半年も一年も、旅の空で稼かせぎ溜ためたお金をと思って、余計な心配をしたわけだが……﹂ ﹁いいえ、この清吉だって、初しょ手てからそれくらいな事は、感づいていないわけじゃなかったんで﹂ ﹁へ。知っていたのかえ﹂ ﹁あの女の心意気に――ええ、百五十両くれてやりました﹂ ﹁心意気に?﹂ 擽くすぐったそうに、通船楼のおかみさんは笑った。闇の中でも鉄おは漿ぐろは光った。 ﹁……成なる程ほど、心意気かえ。……じゃあ他人から何もおせッかいは要いらない事。おまえさんも、二、三年辰巳へ商いに来たおかげで、たいそう深川の水に滲しみた通つう人じんにおなりだね。じゃあ来年またおいで﹂ 心意気といえば、自分のヘマも隠されるし、先でも賞ほめてくれるかと思っていたが、案外、それが気に喰わなかったように、通船楼の若いおかみさんは、さっさと、清吉を置おき去ざりにして、暗い横丁へ急いでしまった。裏うらで燈ともす灯ひ
ごぼごぼと、咳せきの声がする。うどん屋へ外はずしていた易者の梅掌軒がもどって来て、もう筮ぜい竹ちくを鳴らしているのだ。
﹁唐とう桟ざんを持っていたのに……その事は何も云わなかったが﹂
若いおかみさんの曲がった横丁へ、清吉も曲がって行った。
彼が尾ついて来るとは知らないもののように、通船楼の若いおかみさんは、薄暗い質しち屋やぐ庫らにひっ付いている蔀しとみ障子を開けて、そんな所を潜くぐりそうもない姿をついそこへかくした。
﹁……あ、質しち屋やへ?﹂
袷あわ季せど節きに、買ったばかりの袷の反たん物ものを。
それを買う時に云った歯ぎれのいい若いおかみさんの言葉が、清吉の耳へ甦よみがえってきて、何か皮肉なものを感じさせた。
﹁これで、あそこの楼うちの内ない緒しよも、知れたもんだ……﹂
八はち幡まん鐘がねが横丁を鳴って通った。
﹁ア、九ここ刻のつ﹂
清吉は、急ぎ出した。通船楼のおかみさんは笑ったが、秀八の金の使つかい途みちを聞いてみると、清吉は、あの女が、確かに自分の心意気を受け取っているものという感じがした。かえって、頼たのもしい女だという気持がつよくして来た。
魚の皮みたいな鈍にぶい海が見えた。漁師の家から赤い火がもれていた。御おた旅びの曲まがり松は、磯いそ原はらの真ん中にあった。
︵……来ているかどうか?︶
清吉は、心とは反対に、足を弛ゆるめて近づいて行った。
秀八は来ていた。
座ざし敷き着ぎを代えて、黒っぽい着物の裾すそを折り、髪も崩くずして、手拭の耳を咥くわえていた。
﹁……オっ﹂
つい、意外だったような声を清吉は出してしまった。
﹁来ていたのか﹂
﹁だって、約束した筈じゃありませんか﹂
﹁いや……俺おれの方が、つい遅くなったからさ﹂
﹁おまえさん、支した度くは﹂
﹁途中ですらあな。……何も大した身みじ支た度くは要いりゃあしない。それより、おめえはもうそれでいいのか﹂
﹁ちょうど、深川の水に六年住んで、今夜が見みお納さめかと思うと、何だか、名なご残り惜しいけれど……﹂
﹁見納めだなんて、縁えん起ぎでもない事を云わぬがいい。また、いつだって江戸へ来られるじゃないか﹂
﹁でも、長崎くんだりまで行って、お前さんに捨てられたら、わたしゃそれこそ迷ってしまう﹂
﹁今は、何も云うめえ。どこか旅や宿どへでも落着いてから云うが、おれはおめえの心意気が欣うれしいんだ。捨てるくらいなら初めから、費つかい途みちも聞かずにあんな金を出しはしない﹂
寝しずまった漁村を見ながら、波明りに添って二人は歩き出した。清吉はもう金の惜しみを考えなかった。――ただ侠きゃんな肌あいの中に、濃こい人情と強い恋を持つ深川のにおいが、艶なまめかしく、自分を絵の中につつみこんで、波の音までが享きょ楽うらくに和しているかと思われた。
﹁……あの﹂
口くち籠ごもりながら、秀八はふいに足を止めた。
﹁なんだい?﹂
﹁……ちょっと、もいちどわたし、家うちへ寄って、忘れ物を取って来たいんですけど。ここで待ってくれますか﹂
﹁近いのか﹂
﹁ええ、そんなにはない所だから、ちょっと走って行けば﹂
﹁そうか、じゃあ行って来な﹂
﹁すみませんが――﹂
何となく、それが、うつつな云い捨てようであった。
待っていると云ったが、清吉は、秀八の後から尾つけて行った。潮しおくさい漁りょ師うし町まちの露ろ地じへ、彼女は、小走りに入って行った。
トントントンと、そこの一軒を忍しのびやかに叩いて、
﹁おばさん、おばさん……。秀八ですよ、もいちど開けて下さいな﹂
老とし婆よりの声が聞え、彼女は、あわてて中へかくれた。穢むさい漁師小屋だった。魚ぎょ油ゆを燈ともすとみえ、臭い灯ひのにおいがして、家の中に、黄色い明りがついた。
﹁坊やは。……おばさん……坊やの顔を見せて!﹂
彼女の体も声も、生理的にわなないていた。――と見るうちに、そこの藁わらむしろの上に敷いてあるうす穢ぎたない蒲ふと団んの中へ、彼女はふるえつくように身を入れた。
そして、自分で白い胸をはだけると、寝ている幼おさ児なごの唇くちへ、強しいるように、乳ぶさをふくませ、
﹁……坊や、坊や。……わたしだよ、わかるかえ。……もう当分はおわかれだから、もういちど帰って来たんだよ。さ、たんと吸っておくれ。たんと吸ってね……﹂
一心に乳を吸う幼児の唇の音と――その顔の上へ顔を重ねて泣いている彼女の涙の音とが――戸の外まで聞えるように思われた。
﹁……?﹂
じっと、外に立ち竦すくんで、雨戸のふし穴からそれを覗のぞいていた清吉は、深川の水の底を――辰たつ巳み女の肌あいの底を――今こそ眼にまざまざと見せつけられたように固かたくなっていた。
﹁ああ……おれにも﹂
ふと彼は、遠い長崎の家にある自分の妻と子を思い出した。
油のように海は眠っている。
櫓やぐ下らしたや八はち幡まんや、深川の灯ひの空は、今を潮しお時どきにぞめいていた。
砂を蹴けってただ一人、逃げるように浜を素すっ飛んで行ったその夜の男は、もう翌よく年としから、この土地へ商あきないにも来なかった。