私の郷里は、片かた山やま津づという、加か賀がの温泉地である。今は加賀市になって、国際観光ホテルもあり、近くに立派なゴルフ場もある。まるで昔日の面影はない。しかし私が生まれた頃は、北陸の片田舎の小さい部落であった。村ともいえないところで、本当の地名は、作さく見み村字あざ片山津小字砂すな走わせである。村の下の字、そのまた下の小字であるから、部落の大きさの見当はつくであろう。五十年の間に、小字から四段とびをして、市になったわけである。 小字時代の片山津は、片側が薬やく師しや山ま、今一方の片側は、柴しば山やま潟がたという湖にはさまれた、一本道の村落であった。私の家は、呉服雑貨店をやっていて、湖側にあった。前は、一本道路に面した店てん舗ぽになっていて裏庭は湖に面していた。 家はもちろん旧式の木造で、二階は格こう子しのはまった部屋になっていたが、下はかなり新式に改造されていた。この土地では、まあ大きい店であった。雑貨部は、広い土間にしてあって、その中に、硝ガラ子ス張りの陳列箱が並べてあった。いろいろな土産物だの、花かんざしなどが、この陳列箱の中に並んでいるのが、美しかった。 呉服部は、腰こし高だかの畳たた敷みじきで、普通のお客は、畳に腰かけて買い物をする。しかし反物などを買う客は、畳敷の上にあがり込む。そしていろいろな反物を、畳の上に拡げて、品定めに、一時間も二時間も坐すわり込んでいた。三十畳敷近くもあったと思うが、二、三人のそういう客に坐り込まれると、店いっぱいに、反物が並べられて、その間をぬって歩くのが、たいへんだった。反物を踏んで叱しかられるのは、毎日のことであった。 父はハイカラ好きであって、呉服部の一部にショー・ウインドーをつくった。幅一いっ間けんちょっと、深さ四尺しゃくくらいの小さいウインドーであったが、出来たときは、非常に珍しがられて、付近の村の人が見に来たくらいであった。 この頃でも、北海道の奥地へ行くと、こういう店屋を見ることがある。北海道の村というのは、非常に広く、中には、神奈川県よりも広い村もある。そういう村には、一場所、中心地があって、それを市街地といっている。この市街地の中に、都会のデパートの役目をしている店屋が、一つくらいは必ずある。そういう店を見ると、私はよく子供の頃を思い出す。 住居は、裏にあって、板敷の台所で、つながっていた。この台所は、食堂も兼ねていて、広さは、二十畳敷くらいもあったであろう。真ん中に大きい食卓があり、食事のときだけ、その周囲をぐるりとかこんで、茣ご蓙ざを敷く。家族や店の人たち、それに女中を入れて、十四、五人の大家内であったが、食事のときは、一人か二人店番を残して、あと全員が、この板敷の茣蓙に坐って、一緒に食事をした。家中のものが、皆同じものを食うということを、父は自慢にしていた。もっとも、食事は、今から考えてみれば、ずいぶん粗末なものであった。店になっている主おも家やの二階の一部に、十畳と八畳とがつづいた座敷があった。ここには縁側もついていて、家で一番立派な部屋であった。しかしこれは客間であって、使うことは、滅多になかった。 二人の男の子が、一人は物理学をやり、今一人は、考古学をやることになったので、この家は、とっくに人手に渡してしまった。まだ家は残っているが、すっかり模様換えをしたので、今は昔の姿もない。それにしても、私も弟も家とはずいぶん縁の遠い商売になったものである。 ︵昭和三十六年四月一日︶